2021年05月02日「裁きが神の家から始まる時が来た」

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

聖書の言葉

4:12愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。
4:13むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
4:14あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
4:15あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。
4:16しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。
4:17今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
4:18「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。
4:19だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。ペトロの手紙一 4章12節~19節

メッセージ

裁きが神の家から始まる時が来た

1ペトロ4:7~11節

【序】

神さまは私たちキリスト者に二つのプレゼントを与えてくださいました。一つは救いであり、もう一つは私たちがその時に天から受ける報いであると言えるでしょう。この報いというのは、一体何かと言いますと、良き業に対する報いですが、良き業の最たるものが、「キリストの苦難に与ること」だと言えるでしょう。

皆さんは昔、ファミコンのマリオブラザーズというゲームをしたことがあるでしょうか。ステージ1から始まりまして、クリアをしていくと、ある場面でボーナスステージが出てきます。ボーナスステージでは金貨を取り放題になっていてマリオがジャンプしながら全ての金貨をゲットできるようになっています。私たちの人生に現れる苦難というのも、実はこのボーナスステージのように金貨をゲットすることだと考えてみてください。キリスト者の良き業は一つ一つ神様に覚えられていて、天に積まれており、それが、終わりの日に救いに入れられた者たちにボーナスとして分かち合われるのです。そしてこの報いは、それぞれ均等に分け与えられるのではなく、ある人には10タラントン、ある人には4タラントンというふうに、人によって受ける報いは異なります。夜空の星を見るならば、月の輝きや星々の輝きがそれぞれ異なるように、神の子らの天で受ける栄光と報いもそれぞれ異なってくるのです。従いまして私たちのこの世で与えられている命は、やがて永遠に生きることになる命と比べるなら、それは比較にならないほど短いものであり、あっという間かもしれません。しかしこの世での、良き業を通してのみ、私たちは天に宝を積むことができるということを考えるなら、この生涯は、たとえ短くとも、何とかけがえのなく、貴重な時間となることでしょうか。この生涯の中で、キリストの苦難に与ることを通して私たちは天に豊かに宝を積むことができるのです。12~14節をご覧ください。

【1】. キリスト者の苦しみはキリストの苦難に与ること

“愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。”

冒頭に「愛する人たち」という言葉があります。これは、ペトロが信者たち一人ひとりの顔を思い浮かべて「愛する人たち」というふうに書いた訳ではなくて、この手紙が、そもそもローマにいたペトロから小アジアの人々に回覧版のように読まれた手紙でありまして、受け取り人は小アジアの散らされたユダヤ人と、彼らによって伝道された異邦人であると考えられますから、ペトロはおそらく、手紙の読者となる、直接会ったことはない多くの人々に指して「愛する人たち」と呼びかけているのはないかと思われます。それは、苦難の中にあっても信者たちが一つになるように、励ますためだと思われます。迫害と言いますと、今、日本に住んでいる私たちにとって、中々想像しにくいところがあるかもしれません。しかし使徒言行録やパウロの書簡などを見ますと、当時、キリストの御名を証しする、初代教会の信者たちに対して、大変深刻な迫害とそれに伴う殉教があったことが記録されています。例えばガラテヤ書6:17でパウロは次のように断言しています。

“これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。”

この焼き印とは何かと言いますと、普通、奴隷や家畜につけられる屈辱的な焼き印ですとか入れ墨のことであります。所有者が誰かを表示するためです。パウロの場合、おそらくパウロが迫害の中で受けた39のむち打ちを五回も受けたと使徒言行録に書かれていますが、その、体に残った生々しい傷跡を指して、キリストの焼き印を身に受けていると言っていると思われます。40回、鞭打ちをするなら死んでしまうので、39回にしておこうということですが、パウロはその鞭打ちを5回も受けたということで、パウロの身体には本当に深い傷が残されていたと推測できるのです。ペトロも同じように多くの迫害に会いました。彼はペトロの手紙1、2を書き終えて、しばらくの後にローマにおいて殉教したと言われています。そのペトロが、「あなた方もそのような迫害を間もなく経験することになるかもしれないが、驚き怪しむことのないように。むしろ喜び続けなさい、いっそう喜びなさい」と言うのです。なぜなら、キリストの苦しみに与ることができるからであり、キリストの再臨の時、喜びに満ち溢れることになる、大喜びすることになると言うのです。私たちの苦難の意味として第一の意味がここで語られています。それは、苦難とは愛する主イエスのその苦しみに共に与らせていただくということです。初代教会の兄弟姉妹もイエス様の故に苦難に会ったときに、そのことを大変誇りに感じました。使徒言行録5:40~42の御言葉をご覧ください。

“使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。”

この時、使徒たちは鞭で打たれ、辱められたこと、これがとても嬉しかったわけです。イエスの名によって話してはならないと命じられたのにも拘わらず、なお一層メシア・イエスについて福音を告げ知らせ続けたということです。キリストの名に故に、その苦しみに共にあずからせていただくこと、これは何という大きな恵みでしょうか。彼の苦しみを共に味わうなら、後の栄光も共に味わうことになるでしょう。そして、何よりキリストの故に苦しむということは、私たちがまさにキリストの所有であり光の子であることの証拠でもあるのです。続いて14~16節をご覧ください。

【2】. 苦しみは神の栄光がとどまること

“あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。”

苦難の意味の第二の意味として、神の栄光がとどまるということです。「栄光の霊、すなわち神の霊が、あなた方にとどまってくださる」とペトロは指摘しています。この表現は、旧約聖書の神の栄光の雲、「シェキーナの雲」を思い起こさせます。臨在の雲は、契約の箱が収められている幕屋の至聖所の上から立ち上り、モーセとイスラエルの民が荒れ野に宿営した時に、昼は雲の柱として、夜は火の柱として、いつも彼らと共にいてくださり、彼らを導いてくださいました。イスラエルの民はこの神の幕屋を中心に、東西南北に三部族ずつ陣営をとって天幕を張りました。ですから彼らが朝起きて、自分の天幕から出ると陣営の中心にいつも神のシェキーナの栄光を仰ぐことができたのです。この神の霊が、キリストの名のために非難される時に、あなた方に、つまり教会の上に臨むとペトロは言うのです。私たちが神の至聖所として、私たちの上に栄光の霊がとどまるのです。それは目には見えないかもしれませんが、想像するだけでも物凄いことですね。

作家の三浦綾子さんは、闘病生活の中で、ヨハネによる福音書9章3節の御言葉に励まされたと自伝の中で証しされていました。ご覧ください。

“イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。”

弟子たちが、「彼が盲目なのは、彼自身が何か罪を犯したからか、それとも彼の家系の先祖が罪を犯したからでしょうか」と尋ねた時のイエス様のお答えです。肺結核と脊椎カリエスという難病を患っていた三浦綾子さんは、この御言葉に出会うまでは葛藤の日々を送りながら「なぜ私が…なぜ私だけが…」という質問を神様にぶつけていたようです。そのような中で、この御言葉と出会い、私の難病とは、神様が御業を現してくださるためであったと受け止めて、大変勇気づけられたそうです。このように私たちがキリストにある苦難に与る時、神の霊が留まり、そして実際に人々に認識できるような形で神の御業が現れるのです。

16節には「キリスト者(ギ:クリスチアノス)」という言葉が出てきます。この言葉はこの箇所と使徒言行録の11:26、26:28の、たったの三回だけしか出て来ない言葉ですが、この言葉はアンティオキア教会で初めて信者たちに対してつけられたあだ名でありました。それは馬鹿にするために、差別用語として付けられたのです。クリスチアノスと言いながら馬鹿にしていた訳です。従って、「キリスト者として苦しみを受ける」とは、キリスト者として社会から辱められ、差別を受け、苦しみを受けるという意味です。同じよう脈絡からパウロは1コリント4:9において、自分はキリストの故に辱められ、見せ物のようになったと証ししています。ご覧ください。

“考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。”

断っておきますが、これはパウロのコリントの人々に対する恨み節ではありません。むしろ感謝の言葉であります。普通は、自分の辱められた姿が人々に曝された時「こら、見せ物じゃない、じろじろと見るな、あっちに行け!」と言いますが、パウロはむしろそのようにされて、多くの人々の見せ物とされたことを、感謝しているのです。一体なぜでしょうか。それは、辱められることによって、僕のようにへりくだらされ、低くさせられ、人々に仕えることを、パウロが身をもって模範として示すことができたからだと後で言っています。この世にあって私たちキリスト者は、常にマイノリティの存在であるかもしれません。常に恥ずかしい者として卑しめられ、低くされるのですが、実はその時に、神の栄光の霊がキリスト者にとどまってくださるのです。そして苦難を耐え忍ぶことによって、善を行うことによって、神様に栄光をお返しすることができるのです。キリスト者の苦難とは、世の人々には全く理解されることはありませんが、神の目から見るなら、その苦難を通してご自身の栄光がとどまることであるということです。引き続き17~19節をご覧ください。

【3】. 苦しみは、キリスト者を清くすること

“今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。”

苦難の意味として第三の意味は、苦しみがキリスト者を清くするという意味です。私たちの聖化のために苦難が用意されているという事です。12節に「火のような試練」とありましたが、これは金を精錬する「るつぼ」をイメージしてください。もし私たちが金細工人に対して、」「あなたが金をるつぼの火の中に通すときに、どれだけ長い時間、火の中に入れているのですか?」と質問するなら、金細工人は、「金を火の中から出して見て、金から私の顔が鏡のように、くっきりと見えるようになるまで、金を火の中に入れる」と答えるでしょう。金を作る時に、火を通すことによって、周りにある汚い鉄とか、その他の物質が全て燃やされるのです。そして最後に純粋な金だけが残るのです。完全に精錬された金は、鏡のようでありキリストの似姿を映し出すかのように輝くのです。この火のような試練、つまり苦難によって清められるプロセスとは、17節の神の家に起こる裁きとして言い換えることができるでしょう。神の家、教会における裁きが、教会の試練、清められるプロセスだと言うのです。裁きが既にキリスト者から始まっているのです。聖化するためです。もし、時間に余裕があり、お金にも十分な余裕がある場合、おそらく人はその時間と有り余るお金を持って、罪しか犯すことができないでしょう。それほど私たちは罪に傾きやすいものであり、世の誘惑の力に屈服しやすい者なのです。ですから私たちは常に、試練を通して清められるプロセスを歩むのです。そしてペトロは、さらに続けます。「私たち義とされた者がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるだろうか」と箴言の言葉を引用していますが、「やっと救われる」というのは、もしかしたら信じている者の中で救われない人もいるかもしれないという意味ではありません。信仰によって確実に救われるのですが、ただ、信者にとって人生とは決して、広いエントランスから入る平たんな道ではなく、むしろ狭い門から入る茨の道であるという事です。こんなことを言いますと、次のような反論が出て来るかもしれません。「それでは私たち義人が、イエス様の故に、もう既にいただいているはずの救いは、安息は、勝利は、いつ、法的な意味だけでなく、完全に所有することができるのか?」という質問が出て来るでしょう。聖書はこの質問に対して、それは「死ぬとき」だとはっきり答えています。聖書は、そのどこにおいても、敬虔な者が死後においても、なお、試練にあったり、苦難にあうということは書かれていません。つまり信者の死後において、もはやこれ以上、聖化はないということです。聖化は私たちの生涯にのみ起こる現象です。死後において、もはやこれ以上、火の裁きはありません。死は聖化の絶頂であり、この時に飛躍的な聖化が起こり、罪との関わりを完全に絶ち、私たちは長い白い服を着て手にナツメヤシの枝を持ち、御座の前に、子羊の前に立つことが許されるのです(黙7:9、14)。従って信者にとって死というのは、罪に対して死ぬことであって、肉の弱さと欠けのために日々犯してしまう罪を完全に終えることなのです。一方で、不信心な人にとっての死とは、罪の刑罰であり、死後に火の裁きが待ち受けていて、これはどれほど凄惨でむごたらしいものだろうかということを暗示しているのです。このようなわけですから、キリスト者はこの世にあって、苦難に会う時も善い業をし続けて、自分の魂を創造主に委ねなさいと言うのです。

【結論】

以上、苦難の意味について三点を見てきました。第一に、主イエスが味わわれたその苦しみに共に与らせていただくことです。これほど栄誉なことはありません。第二に、苦難を通して神の栄光がとどまるということです。苦難は、世の人々にとっては恥ずかしいことであり、見せ物のように受け取られても、神の目には栄光として光輝いているとおっしゃってくださるのです。従いまして私たちがこの世にたとえ病をもって生まれてきても、それゆえに神様の栄光が共にあるが故に、喜んで感謝して歩むことができるのです。第三の意味は、苦難がキリスト者を精錬し純金のようにするという事です。キリスト者は生涯にわたって試練の中を歩むことになりますが、それは私たちの聖化のためであり、日々キリストに似たものとして作り変えられるプロセスであるということです。そしてこのプロセスを通して、天に大きな報いに積まれて、やがての日にこの天に積まれた報いが私たちに分かち合われるのです。従いまして苦難の中を私たちは喜びつつ歩ませていただけるのです。