2021年04月25日「神の恵みの管理者」

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神の恵みの管理者

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙一 4章7節~11節

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4:7万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
4:8何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
4:9不平を言わずにもてなし合いなさい。
4:10あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
4:11語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 4章7節~11節

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【序】

 前々回、肉における残りの生涯を神の御心に従って生きるようにということでお話しさせていただきました。本日の箇所はその続きであり、また、この段落の締めであり、要約部分です。ですからこれまでの学びの復習であると考えてください。この段落は、どこから始まっていたのかと言いますと、3:8に「終わりに、皆一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」という結びの言葉がありますが、この結びの言葉が、ようやく4:11において締められるということです。それでは、全体の段落は、どこから始まっていたのかと言いますと、2:11にまで遡ります。1頁めくって2:11をご覧ください。「愛する人たち」という呼びかけがございますね。この「愛する人たち」という呼びかけから2:11~4:11までが、「神の民への勧め」について書かれている段落です。4:12を見ると再び「愛する人たち」という呼びかけがありますね。つまり新しい段落が始まっているのですが、4:12~5:11迄が、今度は「教会と長老たちへの勧め」について書かれています。因みに2:11の前の段落は、1:3~2:10迄が「神の民のアイデンティティー」について書かれています。ですから、この手紙の本論には三つの段落があるという事です。本論1が「神の民のアイデンティティー」、本論2が「神の民への勧め」、本論3が「教会と長老たちへの勧め」ということです。

 さて、本日の箇所は、神の民への勧めの段落を頌栄によって終わらせています。この頌栄は実は、イエス・キリストに対する頌栄であります。11節を見ますと「栄光と力が、世々限りなく神にありますように」と訳されていますが、ギリシア語の聖書を見ると、「この方に栄光と力が世々限りなくありますように」となっています。「このお方」という関係代名詞は、前のイエス・キリストを指しているようです。「栄光と力が、世々限りなくイエス・キリストにあるように」となります。イエス・キリストは復活されて天に昇られましたが、キリストの復活こそ、全ての権威と力がキリストに服した根拠であり、キリストの復活こそ、私たちの救いのエビデンスであるとペトロは言っています。3:21~22をご覧ください。

“この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。”

 ですから「栄光と力が、世々限りなくイエス・キリストにあるように」という頌栄は、同時に神がそのお方を復活させて、永遠の主とされたということの言い換えでもあるでしょう。そうであるなら、この頌栄は、ペトロの祈りや願望ではなく、キリストの復活という事実の証言であると言えるでしょう。イエス様が復活され、天に昇られたことが事実であるなら、主が約束された通り、終わりの日に栄光と力を持って、再び天から来られ、再臨することになるでしょう。そのことをペトロは念押ししていると理解することもがきるのです。4:7節をご覧ください。

【1】. 万物の終わりが迫っています。

 “万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。”

教会の歴史を見ましても、堕落していた時代の共通点として挙げられるのは、終末の意識の欠如ではないでしょうか。初代教会の関心事は専ら終末であり、まさに万物の終わりが迫っていると感じながら日々過ごしていました。AD.313年にコンスタンティヌス帝によって、キリスト教がローマ帝国に公認され、信仰の自由が宣言されると、まるで新天新地がこの地に臨んだかのような、まさに新しい世界が目の前に開かれたかのような、時代を迎えました。しかし、このような出来事の負の側面を指摘するなら、教会に終末の切迫感が忘れ去られてしまったということです。教会史の中で、中世の教会がなぜ、暗黒の時代と呼ばれるのでしょうか。それは終末に対する意識を失ってしまったからだと言えるでしょう。教会が終末の意識を失った時に、教会は世俗化し、この世に対する影響力を失ってしまいます。終末を意識するということは、世の人々が考えるように、決して現実逃避ではありません。キリスト者にとって、終末を意識するということは、思慮深くふるまい、この世にどっぷり浸かってしまうことを防ぎ、目を覚まして祈ることができるのです。7節の「思慮深く」という言葉は、節度を持ってという意味です。「身を慎んで」という言葉は、この言葉は1:13にも出てきましたが、酒に酔うことなく、中毒にならず、目覚めている、という意味です。人は誰でも、この世にならって、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝などにふけりやすく、そこに麻痺しやすいからです。これは今日の言葉で言い換えるなら、アルコール中毒、ギャンブル中毒、スマホ中毒、ゲーム中毒、セックス中毒、整形中毒、などなどです。数えたらきりがありませんが、終末意識を持つことは、このような中毒に陥ることなく、麻痺し、酔っ払ってしまわないようにして、祈りに向かわせるのです。祈りはそれだけ重要であるということですね。考えてみたら、私たちの教会でも、いつも祈りによってあらゆる事を始めています。何かを始める時には、必ず祈りから始めていますね。それは愛を実践する時、奉仕などをする時、本人は良かれと思ってするわけですが、どうしても肉の力が出て来てしまい、自我が出てきてしまうからだと思います。これはもう、私たちが罪人である以上、ある程度はしょうがないことですね。しかし終末を意識して祈ることによって、愛の業と、奉仕の業が正しく神様に捧げられ、神への礼拝となり、共同体の交わりが豊かにされるのだと思います。続きまして8~10節をご覧ください。この箇所には「互いに~しなさい」という言葉が三度も出てきます。

【2】. 愛は多くの罪を覆う

 “何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。”

「互いに」という言葉を見てきましたが、第一に心を込めて互いに愛し合うことです。「愛は多くの罪を覆う」とペトロは言います。これは私たちの愛によって、罪を償う事ができるということではもちろんありません。或いは愛というのは、罪を看過したり甘く見ることだというのでもありません。「愛は多くの罪を覆う」とは、相手の弱さを引き受けるという事だと思います。「愛が罪を覆う」ということの実例が創世記9章にございます。大洪水から救われた後、ノアはぶどうの木を植え、ぶどう酒を造り、習慣的にぶどう酒を飲んでいましたが、ある日、酔い潰れてしまい、着ていた服を全部脱いで、天幕の中で裸になって寝てしまいました。ノアにはセム・ハム・ヤフェトの三人の息子たちがいるのですが、その現場の第一発見者であったハムは、そのノアの恥ずかしい姿を兄弟たちに「告げた」と聖書に書かれています。ここの箇所の注解書を見ますと、ハムの心の中に父を辱めたり、嘲るような思いが含まれていたと注釈がなされています。一方、それを聞いたセムとヤフェトの二人は、父親の恥ずかしい姿を目に焼き付けないように、後ろ向きになって歩いていき、その裸を覆ってあげました。この三人の中で、誰が父親を愛したのでしょうか。言うまでもなくセムとヤフェトです。ここで息子たちの前に恥をさらしたノアの姿というのは、実は、私たち罪びとの姿でございます。私たちは日々罪を重ね、恥を上塗りしていますが、イエス様が私たちを愛して下さり、罪のないお方が恥ずかしい姿で十字架に架けられました。人々から嘲られ、辱められることによって、私たちのすべての恥を十字架上で担ってくださったのです。つまり、イエス様の愛によって、私たちの恥ずかしい姿が覆われたのです。セムとヤフェトの行為というのは、実はイエス様によって愛された者として、その受けた愛によって、互いに愛し合い、人の弱さや欠けを覆う行動であったのです。ですから、私たちもセムとヤフェトのようにイエス様から受けた愛によって、兄弟姉妹を愛し合い、互いの弱さを引受けながら、覆うべきです。このようにキリスト者の実践する愛というのは、その基礎がイエス様の愛に置かれているという事です。皆さん、よく考えてみてください。「互いに愛し合いなさい!」という勧めはおそらく、仏教や創価学会でも教えられていることでしょう。エホバの証人や統一教会でも「互いに愛し合いなさい」と勧めています。それでは私たちと一体何が違うのでしょうか。キリスト者の愛の勧めとは、その愛がイエス・キリストから流れて来るという点でございます。つまり、私たちが互いに愛する愛は、イエス・キリストの十字架によって示された贖いに基づいているのです。私たちはイエス様によって罪を赦され、恥を覆われたので、同じように私たちは互いに赦し合い、互いの弱さを引き受け、覆うことができるのです。

【3】. 賜物を生かして互いに仕えなさい

 第二に、不平を言わずに互いにもてなし合うということです。当時、今日のホテルのような宿泊施設はありませんでしたので、人々は互いにもてなし合い、旅人のために宿を貸し合うことは、お互い様であって、ごく普通のことでありました。ところが不平を言いながら宿を貸し与えることがあったというのです。不平を言わずに、喜んでしなさいということです。

第三に、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさいということです。神様から与えられた賜物は人それぞれ異なりますが、それは自分自身のために与えられたのではなく、人々に仕えるために与えられたという事です。賜物は個人の所有ではなく、あくまで主からの預かりものであり、私たちはこの地上にあって恵みの管理者として、賢く神様から与えられた賜物を用いなければならないという事です。ルカによる福音書16章には、「不正な管理人の譬え」がございます。内容をざっくり申し上げますと、ある金持ちに一人の管理人がいまして、この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口する者がありました。そこで、主人は男を呼びつけました。「お前について聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうお前に、管理を任せておくわけにはいかない。」このように言われた管理人は悩みました。ルカ16:3~4をご覧ください。

“管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』”

ということで、管理人は主人に借金のある者を一人ひとり呼んで、その借金を勝手に割り引いてやりました。「あなた、主人に対していくらの借りがあるのか?」「油100バトスです。」「証文を持って来て50バトスと書き直しなさい。」「次、あなたはいくら借りがあるのか」「小麦100コロスです。」「80コロスと書き直しなさい。」このようにして、勝手に主人の財産を次々と割り引いてやったこの管理人に対して、主人はブチギレるのかと思いきや、なんと、主人はこの管理人のやり方を逆にほめているのです。これは一体どういうことでしょうか。ルカ16:8~9節をご覧ください。

“主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。”

ここで、主人とは神様のことであるということが分かれば、この譬えの意味を理解することができます。つまり管理人の男は、所謂、この世のお金持ち・資産家と考えることができるかもしれません。男がなぜ、神様から褒められたのかと言うと、自分の財産というものが、実は自分自身の所有ではなく、あくまで神様から管理するように預けられたものであるという事を、その事をよくわきまえていたからです。自分の金ではなかったので、人の金だったので、大胆に証文を書き直すことができたのです。そしてそのような発想は、この男が「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている」と自らの終末意識からこそ、このような考えが思いついたと思われます。もう私からはこの管理の仕事が奪われる。どうしようか。このような終末意識が、自分は管理人に過ぎない、主人から預かっているものの管理人に過ぎない、こういった意識をはっきりさせたという事です。この管理人の考えのように、自分に与えられている賜物とは、人々に仕えるためのものであって、私個人のものではないという正しい認識を持つことが何より大切です。そして、そのような認識とは、終末意識をもつことによって初めて生まれてくるのです。賜物と言いますと、初代教会に与えられた何か特別な賜物を思い浮かべるかもしれません。(つまり、預言とか異言とか異言を解き証す賜物とか、奇跡を起こす賜物とか、病をいやす賜物など)、しかし必ずしもこのような賜物だけを意味するのではありません。健康ですとか、体力ですとか、知力ですとか、顔つき、体つきや、個性や、趣味や、特技や、富や資産など全て神様からの自然的な賜物であると言えます。このような賜物は、正確に言えば神様から与えられたものではなく、預けられたものです。自分自身の所有ではない、私のものではないという正しい認識に立つ時に、神が主人であり、神がすべての主権者であるという告白に立つ時に、賜物を賢く用い、賜物によって人々に仕えることができるのです。「私は所有者ではなく、私は管理人です。」という告白は、まさに終末意識から生まれて来るのです。

【結論】

 今日に生きる私たちも終末意識を持ちながら、酔っ払うことなく、麻痺することなく、世俗化することなく、祈りによって歩ませていただきましょう。そして互いに愛し合い、互いの弱さや欠けを覆い、互いに喜んでもてなし合い、互いに預けられた賜物によって仕え合いましょう。なぜなら、キリストがまず私たちを愛してくださり、私たちの恥を覆ってくださったからです。なぜなら万物の全ての主権者であり、所有者であるキリストが、私たちに贈り物として与えられたからです。

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