2021年04月25日「神の恵みの管理者 하나님의 여러가지 은혜를 맡은 선한 청지기」

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神の恵みの管理者 하나님의 여러가지 은혜를 맡은 선한 청지기

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙一 4章7節~11節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:7万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
4:8何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
4:9不平を言わずにもてなし合いなさい。
4:10あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
4:11語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 4章7節~11節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 前々回、肉における残りの生涯を神の御心に従って生きるようにということでお話しさせていただきました。本日の箇所はその続きであり、また、この段落の締めであり、要約部分です。ですからこれまでの学びの復習であると考えてください。この段落は、どこから始まっていたのかと言いますと、3:8に「終わりに、皆一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」という結びの言葉がありますが、この結びの言葉が、ようやく4:11において締められるということです。それでは、全体の段落は、どこから始まっていたのかと言いますと、2:11にまで遡ります。1頁めくって2:11をご覧ください。「愛する人たち」という呼びかけがございますね。この「愛する人たち」という呼びかけから2:11~4:11までが、「神の民への勧め」について書かれている段落です。4:12を見ると再び「愛する人たち」という呼びかけがありますね。つまり新しい段落が始まっているのですが、4:12~5:11迄が、今度は「教会と長老たちへの勧め」について書かれています。因みに2:11の前の段落は、1:3~2:10迄が「神の民のアイデンティティー」について書かれています。ですから、この手紙の本論には三つの段落があるという事です。本論1が「神の民のアイデンティティー」、本論2が「神の民への勧め」、本論3が「教会と長老たちへの勧め」ということです。

 さて、本日の箇所は、神の民への勧めの段落を頌栄によって終わらせています。この頌栄は実は、イエス・キリストに対する頌栄であります。11節を見ますと「栄光と力が、世々限りなく神にありますように」と訳されていますが、ギリシア語の聖書を見ると、「この方に栄光と力が世々限りなくありますように」となっています。「このお方」という関係代名詞は、前のイエス・キリストを指しているようです。「栄光と力が、世々限りなくイエス・キリストにあるように」となります。イエス・キリストは復活されて天に昇られましたが、キリストの復活こそ、全ての権威と力がキリストに服した根拠であり、キリストの復活こそ、私たちの救いのエビデンスであるとペトロは言っています。3:21~22をご覧ください。

“この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。”

 ですから「栄光と力が、世々限りなくイエス・キリストにあるように」という頌栄は、同時に神がそのお方を復活させて、永遠の主とされたということの言い換えでもあるでしょう。そうであるなら、この頌栄は、ペトロの祈りや願望ではなく、キリストの復活という事実の証言であると言えるでしょう。イエス様が復活され、天に昇られたことが事実であるなら、主が約束された通り、終わりの日に栄光と力を持って、再び天から来られ、再臨することになるでしょう。そのことをペトロは念押ししていると理解することもがきるのです。4:7節をご覧ください。

【1】. 万物の終わりが迫っています。

 “万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。”

教会の歴史を見ましても、堕落していた時代の共通点として挙げられるのは、終末の意識の欠如ではないでしょうか。初代教会の関心事は専ら終末であり、まさに万物の終わりが迫っていると感じながら日々過ごしていました。AD.313年にコンスタンティヌス帝によって、キリスト教がローマ帝国に公認され、信仰の自由が宣言されると、まるで新天新地がこの地に臨んだかのような、まさに新しい世界が目の前に開かれたかのような、時代を迎えました。しかし、このような出来事の負の側面を指摘するなら、教会に終末の切迫感が忘れ去られてしまったということです。教会史の中で、中世の教会がなぜ、暗黒の時代と呼ばれるのでしょうか。それは終末に対する意識を失ってしまったからだと言えるでしょう。教会が終末の意識を失った時に、教会は世俗化し、この世に対する影響力を失ってしまいます。終末を意識するということは、世の人々が考えるように、決して現実逃避ではありません。キリスト者にとって、終末を意識するということは、思慮深くふるまい、この世にどっぷり浸かってしまうことを防ぎ、目を覚まして祈ることができるのです。7節の「思慮深く」という言葉は、節度を持ってという意味です。「身を慎んで」という言葉は、この言葉は1:13にも出てきましたが、酒に酔うことなく、中毒にならず、目覚めている、という意味です。人は誰でも、この世にならって、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝などにふけりやすく、そこに麻痺しやすいからです。これは今日の言葉で言い換えるなら、アルコール中毒、ギャンブル中毒、スマホ中毒、ゲーム中毒、セックス中毒、整形中毒、などなどです。数えたらきりがありませんが、終末意識を持つことは、このような中毒に陥ることなく、麻痺し、酔っ払ってしまわないようにして、祈りに向かわせるのです。祈りはそれだけ重要であるということですね。考えてみたら、私たちの教会でも、いつも祈りによってあらゆる事を始めています。何かを始める時には、必ず祈りから始めていますね。それは愛を実践する時、奉仕などをする時、本人は良かれと思ってするわけですが、どうしても肉の力が出て来てしまい、自我が出てきてしまうからだと思います。これはもう、私たちが罪人である以上、ある程度はしょうがないことですね。しかし終末を意識して祈ることによって、愛の業と、奉仕の業が正しく神様に捧げられ、神への礼拝となり、共同体の交わりが豊かにされるのだと思います。続きまして8~10節をご覧ください。この箇所には「互いに~しなさい」という言葉が三度も出てきます。

【2】. 愛は多くの罪を覆う

 “何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。”

「互いに」という言葉を見てきましたが、第一に心を込めて互いに愛し合うことです。「愛は多くの罪を覆う」とペトロは言います。これは私たちの愛によって、罪を償う事ができるということではもちろんありません。或いは愛というのは、罪を看過したり甘く見ることだというのでもありません。「愛は多くの罪を覆う」とは、相手の弱さを引き受けるという事だと思います。「愛が罪を覆う」ということの実例が創世記9章にございます。大洪水から救われた後、ノアはぶどうの木を植え、ぶどう酒を造り、習慣的にぶどう酒を飲んでいましたが、ある日、酔い潰れてしまい、着ていた服を全部脱いで、天幕の中で裸になって寝てしまいました。ノアにはセム・ハム・ヤフェトの三人の息子たちがいるのですが、その現場の第一発見者であったハムは、そのノアの恥ずかしい姿を兄弟たちに「告げた」と聖書に書かれています。ここの箇所の注解書を見ますと、ハムの心の中に父を辱めたり、嘲るような思いが含まれていたと注釈がなされています。一方、それを聞いたセムとヤフェトの二人は、父親の恥ずかしい姿を目に焼き付けないように、後ろ向きになって歩いていき、その裸を覆ってあげました。この三人の中で、誰が父親を愛したのでしょうか。言うまでもなくセムとヤフェトです。ここで息子たちの前に恥をさらしたノアの姿というのは、実は、私たち罪びとの姿でございます。私たちは日々罪を重ね、恥を上塗りしていますが、イエス様が私たちを愛して下さり、罪のないお方が恥ずかしい姿で十字架に架けられました。人々から嘲られ、辱められることによって、私たちのすべての恥を十字架上で担ってくださったのです。つまり、イエス様の愛によって、私たちの恥ずかしい姿が覆われたのです。セムとヤフェトの行為というのは、実はイエス様によって愛された者として、その受けた愛によって、互いに愛し合い、人の弱さや欠けを覆う行動であったのです。ですから、私たちもセムとヤフェトのようにイエス様から受けた愛によって、兄弟姉妹を愛し合い、互いの弱さを引受けながら、覆うべきです。このようにキリスト者の実践する愛というのは、その基礎がイエス様の愛に置かれているという事です。皆さん、よく考えてみてください。「互いに愛し合いなさい!」という勧めはおそらく、仏教や創価学会でも教えられていることでしょう。エホバの証人や統一教会でも「互いに愛し合いなさい」と勧めています。それでは私たちと一体何が違うのでしょうか。キリスト者の愛の勧めとは、その愛がイエス・キリストから流れて来るという点でございます。つまり、私たちが互いに愛する愛は、イエス・キリストの十字架によって示された贖いに基づいているのです。私たちはイエス様によって罪を赦され、恥を覆われたので、同じように私たちは互いに赦し合い、互いの弱さを引き受け、覆うことができるのです。

【3】. 賜物を生かして互いに仕えなさい

 第二に、不平を言わずに互いにもてなし合うということです。当時、今日のホテルのような宿泊施設はありませんでしたので、人々は互いにもてなし合い、旅人のために宿を貸し合うことは、お互い様であって、ごく普通のことでありました。ところが不平を言いながら宿を貸し与えることがあったというのです。不平を言わずに、喜んでしなさいということです。

第三に、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさいということです。神様から与えられた賜物は人それぞれ異なりますが、それは自分自身のために与えられたのではなく、人々に仕えるために与えられたという事です。賜物は個人の所有ではなく、あくまで主からの預かりものであり、私たちはこの地上にあって恵みの管理者として、賢く神様から与えられた賜物を用いなければならないという事です。ルカによる福音書16章には、「不正な管理人の譬え」がございます。内容をざっくり申し上げますと、ある金持ちに一人の管理人がいまして、この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口する者がありました。そこで、主人は男を呼びつけました。「お前について聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうお前に、管理を任せておくわけにはいかない。」このように言われた管理人は悩みました。ルカ16:3~4をご覧ください。

“管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』”

ということで、管理人は主人に借金のある者を一人ひとり呼んで、その借金を勝手に割り引いてやりました。「あなた、主人に対していくらの借りがあるのか?」「油100バトスです。」「証文を持って来て50バトスと書き直しなさい。」「次、あなたはいくら借りがあるのか」「小麦100コロスです。」「80コロスと書き直しなさい。」このようにして、勝手に主人の財産を次々と割り引いてやったこの管理人に対して、主人はブチギレるのかと思いきや、なんと、主人はこの管理人のやり方を逆にほめているのです。これは一体どういうことでしょうか。ルカ16:8~9節をご覧ください。

“主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。”

ここで、主人とは神様のことであるということが分かれば、この譬えの意味を理解することができます。つまり管理人の男は、所謂、この世のお金持ち・資産家と考えることができるかもしれません。男がなぜ、神様から褒められたのかと言うと、自分の財産というものが、実は自分自身の所有ではなく、あくまで神様から管理するように預けられたものであるという事を、その事をよくわきまえていたからです。自分の金ではなかったので、人の金だったので、大胆に証文を書き直すことができたのです。そしてそのような発想は、この男が「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている」と自らの終末意識からこそ、このような考えが思いついたと思われます。もう私からはこの管理の仕事が奪われる。どうしようか。このような終末意識が、自分は管理人に過ぎない、主人から預かっているものの管理人に過ぎない、こういった意識をはっきりさせたという事です。この管理人の考えのように、自分に与えられている賜物とは、人々に仕えるためのものであって、私個人のものではないという正しい認識を持つことが何より大切です。そして、そのような認識とは、終末意識をもつことによって初めて生まれてくるのです。賜物と言いますと、初代教会に与えられた何か特別な賜物を思い浮かべるかもしれません。(つまり、預言とか異言とか異言を解き証す賜物とか、奇跡を起こす賜物とか、病をいやす賜物など)、しかし必ずしもこのような賜物だけを意味するのではありません。健康ですとか、体力ですとか、知力ですとか、顔つき、体つきや、個性や、趣味や、特技や、富や資産など全て神様からの自然的な賜物であると言えます。このような賜物は、正確に言えば神様から与えられたものではなく、預けられたものです。自分自身の所有ではない、私のものではないという正しい認識に立つ時に、神が主人であり、神がすべての主権者であるという告白に立つ時に、賜物を賢く用い、賜物によって人々に仕えることができるのです。「私は所有者ではなく、私は管理人です。」という告白は、まさに終末意識から生まれて来るのです。

【結論】

 今日に生きる私たちも終末意識を持ちながら、酔っ払うことなく、麻痺することなく、世俗化することなく、祈りによって歩ませていただきましょう。そして互いに愛し合い、互いの弱さや欠けを覆い、互いに喜んでもてなし合い、互いに預けられた賜物によって仕え合いましょう。なぜなら、キリストがまず私たちを愛してくださり、私たちの恥を覆ってくださったからです。なぜなら万物の全ての主権者であり、所有者であるキリストが、私たちに贈り物として与えられたからです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님의 여러가지 은혜를 맡은 선한 청지기

2021년 4월 25일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

베드로전서 4장 7~11절

서론

2주전 설교에서는 육체의 남은 생애를 하나님의 뜻에 따라 살라는 말씀을 전했습니다. 오늘 말씀은 그 연장선상에 있으며, 이 단락의 마무리이자 요약 부분입니다. 따라서 지금끼지 배운 내용을 복습하는 것으로 생각하시기 바랍니다. 이 단락이 어디서부터 시작되었느냐 하면, 3:8절에「너희가 다 마음을 같이하여 동정하며 형제를 사랑하며 불쌍히 여기며 겸손하며」라는 매듭의 말씀이 있는데, 이 매듭의 말씀이 드디어 4:11절에서 마무리된다는 것입니다. 그러면 전체 단락이 어디서부터 시작되었느냐 하면, 2:11절까지 거슬러 올라가는데, 1페이지를 넘기면 2:11절을 보실 수 있습니다. 「사랑하는 자들아」라는 부름이 있지요. 이 「사랑하는 자들」이라는 부름부터 2:11~4:11절까지가 「하나님의 백성에게 권하는 것」에 대해 쓰여진 단락이고, 4:12절을 보면 다시 「사랑하는 자들아」라는 부름이 있습니다. 즉 새로운 단락이 시작되는데, 4:12~5:11절까지가 이번에는「교회와 장로들에 대한 권면」에 대해 쓰여져 있습니다. 참고로 2:11절 이전 단락인 1:3~2:10절까지는「하나님의 백성의 정체성」에 대한 내용입니다. 따라서 이 편지의 본론은 세 개의 단락으로 구성되어 있습니다. 본론 1이 「하나님의 백성의 정체성」, 본론2가 「하나님의 백성에 대한 권면」, 본론 3이 「교회와 장로들에 대한 권면」입니다.

그런데 오늘 본문은 하나님의 백성을 향한 권면의 단락을 하나님을 찬양함으로 끝맺고 있습니다. 이 찬양은 사실 예수 그리스도에 대한 찬양인지, 11절을 보면「그에게 영광과 권능이 세세에 무궁하도록 있느니라」라고 번역되어 있는데, 「그에게」라는 관계대명사는 앞의 예수 그리스도를 가리키는 것 같습니다. 「예수 그리스도께 영광과 권능이 세세에 무궁하도록 있느니라」가 됩니다. 예수 그리스도는 부활하셔서 승천하셨지만, 그리스도의 부활이야말로 모든 권세와 권능이 그리스도께 복종하는 근거이며, 그리스도의 부활이야말로 우리의 구원의 증거라고 베드로는 말합니다. 3:21~22절을 보시기 바랍니다.

21물은 예수 그리스도께서 부활하심으로 말미암아 이제 너희를 구원하는 표니 곧 세례라 이는 육체의 더러운 것을 제하여 버림이 아니요 하나니을 향한 선한 양심의 간구니라

22 그는 하늘에 오르사 하나님 우편에 계시니 천사들과 권세들과 능력들이 그에게 복종하느니라

그러므로「예수 그리스도께 영광과 권능이 세세에 무궁하도록 있느니라」라는 송영은 동시에 하나님이 그분을 부활시켜 영원한 주님이 되게 하셨다는 말의 다른 표현일 것입니다. 그렇다면 이 찬양은 베드로의 기도나 소망이 아니라 그리스도의 부활이라는 사실에 대한 증언이라고 할 수 있습니다. 예수님께서 부활하시고 승천하신 것이 사실이라며, 주님께서 약속하신 대로 마지막 날에 영광과 권능으로 하늘에서 다시 오셔서 재림하실 것입니다. 베드로는 이를 염두에 두고 있는 것으로 이해할 수 있습니다. 4:7절을 보시겠습니다.

(1) 만물의 마지막이 가까이 왔으니

7 만물의 마지막이 가까이 왔으니 그러므로 너희는 정신을 차리고 근신하여 기도하라

교회 역사를 보더라도 타락한 시대의 공통점으로 꼽을 수 있는 것은 종말의 의식의 부재라고 할 수 있습니다. 초대교회의 관심은 오로지 종말에 대한 관심으로, 만물의 종말이 다가오고 있음을 느끼며 하루 하루를 보냈고, AD 313년 콘스탄티누스 황제에 의해 기독교가 로마제국에 공인되고 신앙의 자유가 선포되자 마치 새 하늘과 새 땅이 이 땅에 도래한 것처럼 새로운 세상이 눈앞에 펼쳐진 듯한 시대를 맞이했습니다. 그러나 이러한 사건의 부정적인 측면을 지적한다면, 교회에 종말의 절박함이 잊혀졌다는 것입니다. 교회 역사에서 중세 교회가 암흑기라고 불리는 이유는 무엇일까요? 그것은 종말에 대한 의식을 잃어버렸기 때문이라고 할 수 있습니다. 교회가 종말의식을 잃었을 때 교회는 세속화되어 세상애 대한 영향력을 잃게 됩니다. 종말을 의식한다는 것은 세상 사람들이 생각하는 것처럼 결코 현실 도피가 아닙니다. 그리스도인에게 종말을 의식한다는 것은 사려 깊게 행동하고, 세상에 빠져들지 않고 깨어 기도할 수 있도록 하는 것이며, 7절의「근신하여」라는 단어는 절제하라는 뜻입니다. 「절제하라」라는 말은 1:13절에도 나오는데, 술에 취하지 않고, 중독되지 않고, 깨어 있으라는 뜻입니다. 사람은 누구나 세상을 따라 호색, 정욕, 술 취함, 양략, 폭음, 우상숭배 등에 빠지기 쉽고, 거기에 마비되기 쉽기 때문입니다. 요즘 말로 바꾸어 말하며 알콜 중독, 도박 중독, 스마트폰 중독, 게임 중독, 섹스 중독, 성형 중독 등 이루 헤아릴 수 없을 정도로 많습니다. 셀 수 없이 많지만, 종말의식을 갖는다는 것은 이런 중독에 빠지지 않고, 마비되지 않고, 술에 취하지 않고, 기도로 향하게 하는 것입니다. 기도가 그만큼 중요하다는 뜻이네요. 생각해보면 우리 교회에서도 항상 기도로 모든 일을 시작하고 있습니다. 무언가를 시작할 때는 반드시 기도로부터 시작하잖아요. 그것은 사랑을 실천할 때, 봉사 등을 할 때 본인은 선한 의도로 하는 것인데, 아무래도 육신의 힘이 나오고 자아가 나오기 때문인 것 같습니다. 이것은 이미 우리가 죄인인 이상 어느 정도는 어쩔 수 없는 일이죠. 그러나 종말을 의식하고 기도할 때 사랑의 행실과 섬김의 일이 하나님께 바르게 드려지고, 하나님께 예배가 되고, 공동체의 교제가 풍성해지는 것이 아닐까 생각합니다. 이어서 8~10절을 보시겠습니다. 이 구절에는 「서로 ~ 하라」라는 말이 세 번이나 나옵니다.

(2) 사랑은 허다한 죄를 덮느니라

8 무엇보다도 뜨겁게 서로 사랑할지니 사랑은 허다한 죄를 덮느니라

9 서로 대접하기를 원망 없이 하고

10 각각 은사를 받은 대로 하나님의 여러가지 은혜를 맡은 선한 청지기 같이 서로 봉사하라

「서로」라는 단어를 보았는데, 첫째는 마음을 다해 서로 사랑하라는 것입니다. 베드로는 「사랑은 허다한 죄를 덮느니라」라고 말합니다. 이것은 물론 우리의 사랑으로 죗값을 치를 수 있다는 뜻이 아닙니다. 그렇다고 사랑은 죄를 간과하거나 가벽게 여기는 것이라는 뜻도 아닙니다. 「사랑은 허다한 죄를 덮느니라」라는 것은 상대의 연약함을 감수한다는 뜻이라고 생각합니다. 「사랑은 허다한 죄를 덮는다」것의 실례가 창세기 9장에 나옵니다. 노아는 대홍수에거 구원받은 후 포도나무를 심고 포도주를 만들어 습관적으로 포도주를 마셨는데, 어느 날 술에 취해 입고 있던 옷을 모두 벗고 장막 안에서 알몸으로 잠을 잤습니다. 노아에게는 셈, 함, 야벳이라는 세 아들이 있는데, 그 현장의 최초 발견자인 함은 노아의 부끄러운 모습을 형제들에게 「고했다」고 성경에 기록되어 있습니다. 이 구절의 주석서를 보면, 함의 마음속에 아버지를 모욕하거나 조롱하는 마음이 포함되어 있었다고 주석이 달려 있습니다. 한편 이 말을 들은 셈과 야벳 두 사람은 아버지의 부끄러운 모습이 눈에 들어오지 않도록 뒤돌아서서 걸어가서 그 벌거벗은 모습을 덮어 주었습니다. 이 세 사람 중 누가 아버지를 더 사랑했을까요? 말할 필요도 없이 셈과 야벳입니다. 여기서 아들들 앞에서 부끄러움을 드러낸 노아의 모습은 사실 우리 죄인들의 모습입니다. 우리는 날마다 죄를 짓고 부끄러움을 뒤집어 쓰고 있지만, 예수님께서 우리를 사랑하셔서 죄 없으신 분이 부끄러운 모습으로 십자가에 달려 죽으셨습니다. 사람들의 조롱과 수모를 당하심으로써 우리의 모든 수치를 십자가에서 짊어지신 것입니다. 즉, 예수님의 사랑으로 우리의 부끄러운 모습을 덮어주신 것입니다. 셈과 야벳의 행위는 사실 예수님께 사랑받은 자로서 받은 사랑으로 서로 사랑하고, 사람의 연약함과 부족함을 덮어주는 행동이었던 것입니다. 그러므로 우리도 셈과 야벳처럼 예수님으로부터 받은 사랑으로 형제자매를 사랑하고 서로의 약점을 감당하며 덮어주어야 합니다. 이처럼 그리스도인이 실천하는 사랑이라는 것은 그 기초가 예수님의 사랑에 놓여 있다는 것입니다. 여러분 잘 생각해 보세요. 「서로 사랑하라」라는 권면은 아마 불교나 창가학회에서도 가르치고 있을 것입니다. 여호와의 증인이나 통일교에서도 「서로 사랑하라」라고 권면하고 있습니다. 그렇다면 우리는 도대체 무엇이 다른 것일까요? 그리스도인의 사랑의 권면은 그 사랑이 예수 그리스도로부터 흘러나온다는 점입니다. 즉, 우리가 서로 사랑하는 사랑은 예수 그리스도의 십자가로 보여주신 구속에 근거한 사랑입니다. 우리는 예수님으로 인해 죄를 용서받고 수치를 덮어주셨기 때문에, 마찬가지로 우리는 서로를 용서하고 서로의 연약함을 감당하고 덮어줄 수 있는 것입니다.

(3) 은사를 받은대로 서로 봉사하라

둘째, 불평하지 않고 서로 대접하는 것입니다. 당시에는 오늘날의 호텔과 같은 숙박시설이 없었기 때문에 사람들은 서로를 대접하고 여행자를 위해 숙소를 빌려주는 것은 서로가 서로를 대접하는 것이 지극히 당연한 일이었습니다. 그런데 불평을 하면서 숙소를 빌려주는 경우가 있었다고 합니다. 불평하지 말고 기꺼이 하라는 것입니다.

셋째, 하나님의 여러가지 은혜를 맡은 선한 청지기로서 그 은사를 살려서 서로를 섬기라는 것입니다. 하나님이 주신 은사는 사람마다 다르지만, 그것은 자신을 위해 주신 것이 아니라 사람들을 섬기기 위해 주신 것입니다. 은사는 개인의 소유가 아니라 주님이 맡겨주신 것이며, 우리는 이 땅에서 은혜의 관리자로서 하나님이 주신 은사를 지혜롭게 사용해야 한다는 것입니다. 누가복음 16장에는 「불의한 청지기」의 비유가 있습니다. 대략적인 내용을 말씀드리자면, 어떤 부자에게 청지가 있었는데, 이 사람이 주인의 재산을 낭비하고 있다고 고발하는 사람이 있었습니다. 그래서 주인은 그 사람을 불러「내가 네게 대하여 들은 이 말이 어찌 됨이냐 네가 보던 일을 셈하라 청지기 직물를 계속하지 못하리라」라고 했습니다. 이 말을 들은 청지기는 고민에 빠졌습니다. 누가복음 16:3~4절을 보시기 바랍니다.

누가복음 16장

3 청지기가 속으로 이르되 주인이 내 직분을 빼앗으니 내가 무엇을 할까 땅을 파자니 힘이 없고 빌어 먹자니 부끄럽구나

4 내가 할 일을 알았도다 이렇게 하면 직분을 빼앗긴 후에 사람들이 나를 자기 집으로 영접하리라 하고

그래서 청지기는 주인에게 빛을 진 사람들을 일일이 불러서 그 빛을 마음대로 깍아주었습니다. 「네가 내 주인에게 얼마나 빛졌느냐」「백 말이니이다」「네 증서를 가지고 빨리 앉아 오십이라 쓰라」하고 또 다른 사람에게「너는 얼마나 빛졌느냐」「밀 백 석이니이다」「네 증서를 가지고 팔십이라 쓰라」하였습니다. 이렇게 주인의 재산을 멋대로 깍아준 이 청지기에게 주인이 화를 낼 줄 알았는데, 주인은 오히려 이 청지기의 태도를 칭찬하고 있습니다. 이것은 도대체 무슨 뜻일까요? 누가복음 16:8~9절을 보세요.

누가복음 16장

8 주인이 이 옳지 않은 청지기가 일을 지혜 있게 하였으므로 칭찬하였으니 이 세대의 아들들이 자기 시대에 있어서는 빛의 아들들보다 더 지혜로움이니라

9 내가 너희에게 말하노니 불의의 재물로 친구를 사귀라 그리하면 그 재물이 없어질 때에 그들이 너희를 영주할 처소로 영접하리라

여기서 주인이 하나님이라는 것을 알면 이 비유의 의미를 이해할 수 있습니다. 즉, 청지기 남자는 소위 말하는 세상의 부자, 자산가라고 생각할 수 있을 것입니다. 그 남자가 왜 하나님으로부터 칭찬을 받았는가 하면, 자신의 재산이라는 것이 사실은 자신의 소유가 아니라 하나님께서 관리하도록 맡겨주신 것이라는 것을 잘 알고 있었기 때문입니다. 자신의 돈이 아니었기 때문에, 남의 돈이었기 때문에 과감하게 증서를 다시 쓸 수 있었던 것입니다. 그리고 그런 발상은 이 남자가 ‘어떻게 해야 할까? 주인이 나에게서 직분을 빼앗으려 한다’라는 자신의 종말의식 때문에 이런 생각이 떠올랐던 것 같습니다. ‘이제 나는 이 직분을 빼앗기겠구나. 어떻게 해야 할까?’이런 종말의식이 자신은 청지기에 불과하고 주인이 맡긴 것의 관리인에 불과하다라는 이런 의식을 분명히 한 것입니다. 이 청지기의 생각처럼 자신에게 주어진 은사는 사람들을 섬기기 위한 것이지 내 개인의 것이 아니라는 올바른 인식을 갖는 것이 무엇보다 중요합니다. 그리고 그런 인식은 종말의식을 가질 때 비로소 생겨나는 것입니다. 은사라고 하면 초대교회에 주어진 특별한 은사를 떠올릴 수 있습니다(즉, 예언이나 방언이나 방언을 풀어 증거하는 은사, 기적을 일으키는 은사, 병을 고치는 은사 등). 그러나 반드시 이런 은사만을 의미하는 것은 아닙니다. 건강이라든가, 체력이라든가, 지력이라든가, 얼굴, 몸매, 성격, 취미, 특기, 부와 자산 등 모든 것이 하나님이 주신 자연적 은사라고 할 수 있습니다. 이런 은사는 정확히 말하면 하나님이 주신 것이 아니라 맡겨주신 것입니다. 내 소유가 아니고, 내 것이 아니라는 바른 인식에 설 때, 하나님이 주인이시며, 하나님이 모든 주권자라는 고백에 설 때, 은사를 지혜롭게 사용하고, 은사를 통해 사람들을 섬길 수 있는 것입니다. “나는 주인이 아니라 청지기입니다.”라는 고백은 바로 종말론적 의식에서 나오는 것입니다.

결론

오늘을 사는 우리도 종말의식을 가지고 술 취하지 않고, 마비되지 않고, 세속화되지 않고, 기도하며 걸어갑시다. 그리고 서로 사랑하고, 서로의 연약함과 부족함을 덮어주고, 서로 기꺼이 대접하며, 서로에게 맡겨진 은사로 서로를 섬기도록 합시다. 왜냐하면 그리스도께서 먼저 우리를 사랑하시고 우리의 수치를 덮어 주셨기 때문입니다. 왜냐하면 만유의 주권자이자 소유주이신 그리스도께서 우리에게 선물로 주셨기 때문입니다.

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