2021年04月18日「神の御名 하나님의 이름」

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神の御名 하나님의 이름

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
出エジプト記 3章1節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:1モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。
3:2そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。
3:3モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
3:4主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、
3:5神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
3:6神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
3:7主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
3:8それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
3:9見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
3:10今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
3:11モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
3:12神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
3:13モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
3:14神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
3:15神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。
3:16さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。
3:17あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。
3:18彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』
3:19しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。
3:20わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。
3:21そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。
3:22女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 3章1節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 神の名前には、全能なる方、エルシャダイ(創17:1)とか、創造の神、エロヒームなどがありますが、ヤハウェという名は、特に信実で、慈しみ深い方として登場する時に聖書に記された名前です。この名前は、創世記だけで135回用いられていまして、モーセ以前の族長時代からよく知られている名前でありました。そして、イスラエルの神以外の、他の神々に対して決して使われることのない、イスラエルの神固有の名前でもありました。ですから本日の出エジプト記3章は、ヤハウェという名前の由来について書かれているのではなく、イスラエルの民が普段使用している「ヤハウェ」という名前の、その意味について、主ご自身が説明されている箇所であると理解できます。因みにYHWHという4文字の呼び方は、十戒に主の御名をみだりに唱えてはならないとされているため、「アドナイ」つまり「主」という発音に置き換えられてしまいました。イスラエルの民においてこの4文字を一体どのように呼んでいたのか、次第に忘れ去られてしまいました。その発音について現在「ヤハウェ」とか「エホバ」とか、いろいろと提案されていますが、それはあくまでも便宜上の発音に過ぎないということです。それでは、本日の箇所から浮き彫りにされる神の名「ヤハウェ」の、その意味とは、一体何なのか。そのことについて本日は見て行きたいと思います。

【1】. モーセの召命

 エジプトの王宮の中で王子として育ったモーセは、40歳の時、イスラエルをエジプトから救い出したいという熱い思いから、エジプト人を殺害しました。ところがイスラエルの民は、モーセを、自分たちを救ってくれる指導者として認めることはなく、そしてエジプトからも裏切者と見做されて、自分の命が狙われる羽目になってしまいました。追い込まれたモーセは、エジプトを離れ、ミディアンという地に逃れます。そこでチッポラという女性と結婚し、舅である、エトロの羊を飼う羊飼いとしてそれから40年の歳月を過ごしました。当時のエジプト人は、羊を飼う者を軽蔑しておりまして、牧畜業を営んでいる人々と一緒に生活したいとは誰も思いませんでした(創46:34参照)。そういった背景を考えるなら、この時、モーセが羊飼いとして過ごした40年が、それまでの王宮での40年と比べて、どれほどの屈辱の期間であったか想像できるでしょう。最初の人生の40年とその後の40年との間に、どれほど大きなギャップがあったのかということです。モーセは、エジプトにおいて華々しい、豊かな生活が保障されていたのですが、その豊かさというのが、結局、同族のイスラエルの苦役によって成り立っているものであったために、それを放棄したわけです。ところが、それを放棄した途端、一気に人生のどん底にまで突き落とされてしまいました。ある日、モーセがミディアンの荒れ野から羊を奥へ奥へと追って行きながら、神の山ホレブに到達します。するとヤハウェなる神様が燃える柴を通してモーセに近づかれ、語りかけてくださいました。3:2~5節をご覧ください。

“そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」”

ここで出てきます柴の木というのは、これは言ってみれば、ただの茨であり、何の価値もない木であります。また、神の山「ホレブ」というのは、シナイ山と同じ山ですが、このホレブという名前の意味に着目しますと、「乾燥した」とか「荒廃した」という意味です。つまり、何もない、荒廃した場所に、茨が生えている。この状況は、まさに80歳になるモーセの現在の人生の営みを象徴しているかのようでした。神様はその燃える柴の間から、「モーセよ、モーセよ」と二回もモーセの名前を呼んで下さり、「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」と言われました。たとえ、何の価値もなく、荒廃した場所であっても、神様がそこに臨まれるなら、そこは聖なる場所となります。それはあたかも80歳になる茨のようなモーセに対し、神がお用いになられるなら、このように燃え尽きることなく、輝くことができるという事をモーセに教えているようでありました。神様は実に40歳のモーセを用いることをせず、80歳のモーセを用いようとされているのです。つまり神様の働きとは、私たちに能力に一切依存しているのではなく、専ら神様により頼む信仰によってなされるのだということを、私たちはこの箇所から改めて覚えたいと思います。

【2】. 私は何者でしょう

 ところで、3章4節や7節を見ますと「主」という言葉が出てきます。この後にも何度か主という言葉が出てきますが、ヘブル語の聖書では、全て「ヤハウェ」という4文字で表記されています。ヤハウェなる神様は、エジプトにいるご自身の民の苦しみをつぶさにご覧になられ、エジプトの追い使う者のゆえに、イスラエルの民の叫び声を聞かれました。その痛みを知ってくださいました。そこでエジプトからご自身の民を救い出し、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナンに彼らを導き上ろうとします。そのためにヤハウェなる神様は、モーセを召し、エジプトへ遣わそうとしますが、モーセは中々、神の召しに応答することができませんでした。10~12節をご覧ください。

“今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」”

この時のモーセの年齢を考えるなら、神様の召しに躊躇するのも致し方ないと思われます。恐らくモーセは、せめて40年前だったら、エジプトの王子という身分もありますし、体力も知力も十分にみなぎっていますから、応答することができたけれども、今や一介の羊飼いに過ぎない者であり、最も条件の悪い時に神様からの召しを受けてしまった、何でこんな時に、何でこの最悪のタイミングで、と考えたことでしょう。神様はモーセに、「あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」というしるしを与えますが、モーセの心は一向に変わりません。実際、自分がイスラエルの人々の所に行って、「あなた方をエジプトから救い出すために私が遣わされました」と言ったとしても、誰が信じてくれるだろうか?とモーセは心配しているのです。若き日に失敗した体験がトラウマとなっていたのでしょう。続いて13~15節をご覧ください。

“モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。”

15節を見ますと「『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるヤハウェがわたしをあなたたちのもとに遣わされた。』これこそ、とこしえにわたしの名」とありますね。注解書によりますと、ここの「とこしえに」というヘブル語の単語は、同じ発音の言葉で、「隠された」という言葉がありまして、モーセの語った「これこそ、とこしえに(לְעוֹלָ֑ם)わたしの名」とは、同時に「これこそ、隠された(לְעַלֵּם)わたしの名」というふうにも聞こえたようです。それに加えて、最初に触れましたが、シナイ山で神様から頂いた十戒の第三戒の戒めによって(或いは、レビ記24:16によって)、ヤハウェという名前を発音することが次第に禁じられて行き、結局、どのように発音するのか忘れ去れてしまったと考えられています。

【3】. 「私はある」

 そのことはさておきまして、モーセの質問の答えとして、主はヤハウェという名前の意味について14節で、説明してくださいました。ヤハウェという名前はイスラエルの民であれば誰でも知っていましたが、その意味については、神様から啓示されたことがなかったのです。その意味とは何かと言えば「わたしはある。わたしはあるという者だ」というのです。多分、初めて読まれた方は、ミスプリントかなと思われた方もいらっしゃることでしょう。英語の聖書ではI am who I amと書かれています。I amが、つまり「私はある」が、名前だと言うのですね。この箇所は注解書によって、いろいろ意見があり解釈が分かれる所でして、一つの解釈をお話しさせていただきます。「私はある」というのは、彼は、昨日も、今日も、永遠に変わることのない同一のお方であるという意味です。ヘブライ語ではI amは、「エフイェ」と書かれていまして、動詞が未完了形になっています。ヘブライ語の未完了形とはある事柄の継続した状態を表し、その状態は過去、現在、未来のいずれにも用いることができますので、ここの箇所は直訳しますと、「私は存在していた」「私は存在している」「私は存在し続けるであろう」のすべての意味になるそうです。15節に補足的に、彼はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると続けていますが、この「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」というセンテンスは、実は3章において、3回も、6節と15節と16節において、繰り返し出てまいります。つまり、モーセに現れた神とは、何か新しい神様ではなく、モーセに馴染みがあり、イスラエルの民に大変良く知られている、先祖たちの神であると言っているのです。ヤハウェなる神様は現在のイスラエルの状況に左右されることなく、イスラエルの先祖の神であり、現在モーセの神であり、未来永劫、変わることなく、最初であり、最後であり、信実で、常に同じ方で、岩のような神様であると言っているのです。新約聖書の中で、特にヨハネよる福音書には、イエス様が、ご自分を指して何度も「私はある(ギリシャ語聖書ではエゴーエイミーと書かれていますが)」という言葉を使われています。これはヤハウェという名が、御自身の称号の一つであると主張しているかのようです。ヨハネ福音書6:20をご覧ください。この箇所は弟子たちがガリラヤ湖を船で渡っている時に嵐に遭い難破した時に、イエス様が何と、湖の上を歩いて来られて船に乗り込まれたという場面です。この時船に乗り込まれイエス様は何と言われたのでしょうか。

“イエスは言われた。「わたしだ(エゴーエイミー)。恐れることはない。」”

また、ヨハネ福音書18:6をご覧ください。この箇所はゲッセマネの園においてイエス様を捉えに来たイスカリオテのユダと、祭司長やファリサイ派の下役たちと、兵士たちが来た時に、「ナザレのイエスを探しているのだ!」という言葉に対して、イエス様の答えられた返事です。

“イエスが「わたしである(エゴーエイミー)」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。”

昔、主がモーセに対して「私はある」と言われたように、イエス様は、ギリシア語に翻訳すると「エゴーエイミー」と言われたのです。それは弟子たちに、そして祭司長やファリサイ派の下役たちに、ご自身の羊との契約関係を主張するかのごとく、断固としてエゴーエイミーとおっしゃって下さったのです。現代の私たちにも同じように、主は「私はある」とおっしゃって下さることでしょう。さらにヨハネ福音書6:48と8:12と10:7と14:6と15:1をご覧ください。次の箇所はエゴーエイミー+補語という形をとっています。

(6:48)“わたしは命のパンである。”

(8:12)“イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」”

(10:7)“イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。”

(14:6)“イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。”

(15:1)“わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。”

イエス様がご自分を指して、私は光のようであるとか、私は羊の門のようであるとか、言っているのではありません。私が命そのものだ、私が真理そのものだと言っているのです。命そのものであり、真理そのものであり、羊の門そのものであり、ぶどうの木そのものであるイエス様が、ご自身の民に与えられたと聖書は主張するのです。つまり、「私はある」という意味は、ご自身の民を決して捨てたり、離れたりすることなく、救い出してくださるお方、導いてくださるお方であるという意味です。この言葉の意味は、すぐにモーセには理解されることがありませんでしたが、この後、神の不思議なしるしと御業を通して、徐々に、モーセに理解されていき、信仰という形で結実されていきました。あのアブラハムと共におられた方、イサクと共におられ、ヤコブと共におられ、導いてくださった方、そしてモーセを遣わした方が、今も同じように、私たちと共におられるという意味です。彼は、最初であり、最後であり、アルファであり、オメガであり、イスラエルの族長たちの神であって、今も、そして永遠に変わることなく、存在する方として、ご自分の民に対しすべてのものになるであろうとおっしゃっているのです。このヤハウェという4文字には、神とご自身の民の間における、そのような信実で慈しみ深い意味が含まれていたということです。私たちはこの方にこそ安らうことができるのです。

【結論】

 ヤハウェなる神さまは、族長たちの神であり、そしてモーセが葦のかごに乗ってナイル川を漂流し、エジプトの迫害から逃れた時も、その御手の中でモーセを守ってくださった慈しみ深いお方です。そして、エジプトからミディアンに逃れ、40年間羊飼いとして過ごしている時も、そのモーセの苦しみを共に担っていてくださっていたお方です。そして現在も神は共におられ、80歳になったモーセをエジプトに遣わそうとしています。私たち人間は時間と共に年をとり、変化していきますが、神様はとこしえにおられ、変わることなく、信実で、慈しみ深いお方として「私はある」と語りかけてくださいます。私たちはこの方にこそ安らうことができるのです。

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하나님의 이름

2021년 4월 18일 센겐다이교회 주일설교

출애굽기 3장 1~22절

서론

하나님의 이름에는 전능하신 분, 엘샤다이(창세기 17장 1절)라든가, 창조의 하나님, 엘로힘 등이 있는데 여호와라는 이름은 특히 신실하고 긍휼하심이 깊은 분으로 등장할 때 성경에 기록된 이름입니다. 이 이름은 창세기에만 135번 사용되었는데 모세 이전 족장 시절부터 잘 알려진 이름이었습니다. 그리고 이스라엘의 하나님 이외의 다른 신들에게 결코 사용되지 않는 이스라엘 하나님의 고유한 이름이기도 했습니다. 그래서 오늘의 출애굽기 3장은 여호와라는 이름의 유래에 대해 쓰여져 있는 것이 아니라 이스라엘 백성들이 평소에 사용하는 「여호와」라는 이름의 그 의미에 대해 주님 자신이 설명하고 있는 부분으로 이해할 수 있습니다. 덧붙여서YHWH라는 네 글자를 부르는 방법은 십계명에 주의 이름을 함부로 불러서는 안된다고 되어 있기 때문에 「아도나이」즉 「주」라는 발음으로 대체되어 버렸습니다. 이스라엘 백성들에게 이 네 글자를 도대체 어떻게 불렀는지 점차 잊혀졌습니다. 그 발음에 대해서 현재 「여호와」라든가 「야훼」라든가 여러 가지 제안이 되고 있지만 그것은 어디까지나 편의상에 불과하다고 합니다. 그렇다면 오늘의 대목에서 부각되는 하나님의 이름 「여호와」의 그 의미는 도대체 무엇일까 그것에 대해서 오늘은 알아보도록 하겠습니다.

(1) 모세의 소명

애굽 왕궁 안에서 왕자로 자란 모세는 40세 때 이스라엘을 애굽에서 구해내고 싶은 뜨거운 마음에 애굽 사람을 죽였습니다. 그런데 이스라엘 백성들은 모세를 자신들을 구해주는 지도자로 인정하지 않았고 애굽으로부터도 배신자로 간주되어 자신의 목숨이 위험해지는 지경이 되고 말았습니다. 궁지에 몰린 모세는 애굽을 떠나 미디안이라는 땅으로 도망칩니다. 그곳에서 십보라라는 여자와 결혼해서 장인 어른인 이드로의 양을 키우는 양치기로 그로부터 40년의 세월을 보냈습니다. 당시 애굽 사람들은 양을 기르는 자를 경멸했기 때문에 목축업을 하는 사람들과 함께 생활하고 싶어하는 사람은 아무도 없었습니다(창세기 46장 34절 참조). 그런 배경을 생각한다면 이때 모세가 양치기로 보낸 40년이 이전 왕궁에서의 40년과 비교했을 때 얼마나 굴욕적이었는지 짐작할 수 있을 것입니다. 첫 인생의 40년과 그 후의 40년 사이에 얼마나 큰 갭이 있었는가 하는 것입니다. 모세는 애굽에서 화려하고 풍요로운 생활이 보장되어 있었는데 그 풍요로움이 결국 동족 이스라엘의 고역으로 이루어진 것이었기 때문에 그것을 포기한 것입니다. 그런데 그것을 포기한 순간 단번에 인생의 밑바닥까지 밀려나고 말았습니다. 어느 날 모세가 미디안의 황무지에서 양을 안쪽에서 안쪽으로 쫓아가면서 하나님의 산 호렙에 도달합니다. 그러자 여호와 하나님께서 불타는 떨기나무 불꽃 가운데서 모세에게 다가와 말을 걸어주셨습니다. 3장 2~5절을 참조하시기 바랍니다.

2 여호와의 사자가 떨기나무 가운데로부터 나오는 불꽃 안에서 그에게 나타나시니라 그가 보니 떨기나무에 불이 붙었으나 그 떨기나무가 사라지지 아니하는지라

3 이에 모세가 이르되 내가 돌이켜 가서 이 큰 광경을 보리라 떨기나무가 어찌하여 타지 아니하는고 하니

4 여호와께서 그가 보려고 돌이켜 오는 것을 보신지라 하나님이 떨기나무 가운데서 그를 불러 이르시되 모세야 모세야 하시매 그가 이르되 내가 여기 있나이다

5 하나님이 이르시되 이리로 가까이 오지 말라 네가 선 곳은 거룩한 땅이니 네 발에서 신을 벗으라

여기에 나오는 떨기나무라는 것은 이것은 말하자면 단지 가시나무일 뿐 아무런 가치도 없는 보잘것 없는 나무입니다. 또 하나님의 산 「호렙」이라고 하는 것은 시내 산과 같은 산인데 이 호렙이라는 이름의 의미에 주목하면 「건조해졌다」거나 「황폐해졌다」라는 뜻입니다. 즉 아무것도 없는 황폐한 곳에서 떨기나무가 자라고 있었다는 것이죠. 이 상황은 바로 80세가 되는 모세의 현재의 삶의 모습을 상징하는 것 같았습니다. 하나님은 그 불타는 떨기나무 가운데서 「모세야 모세야」라고 두번이나 모세의 이름을 불러 주시며 「이리로 가까이 오지 말라 네가 선 곳은 거룩한 땅이니 네 발에서 신을 벗으라」라고 말씀하셨습니다. 비록 아무 가치도 없고 황폐한 곳일지라도 하나님이 그곳에 임하신다면 그곳은 거룩한 곳이 됩니다. 그것은 마치 80세가 된 떨기나무 같은 모세를 하나님이 쓰신다면 이처럼 불에 타지 않고 빛날 수 있다는 것을 모세에게 가르쳐 주시는 것 같았습니다. 하나님은 실로 40세의 모세를 쓰시지 않고 80세의 모세를 쓰시려고 하시는 것입니다. 즉 하나님의 일이란 우리의 능력에 의존하고 있는 것이 아닌 오로지 하나님이 주시는 믿음에 의해서 이루어진다는 것을 우리는 이 대목에서 다시 한번 기억하고 싶습니다.

(2) 내가 누구이기에

그런데 3장 4절이나 7절을 보면 「여호와」라는 말이 나옵니다. 이 뒤에도 여러 번 여호와라는 말이 나오는데 히브리어 성경에서는 모두 「YHWH」라는 네 글자로 표기되어 있습니다. 여호와 하나님은 애굽에게 혹사를 당하는 자신의 백성의 고통의 부르짖음을 들으셨습니다. 그 고통을 알아주셨습니다. 그래서 애굽에서 자신의 백성을 구원해 내시고 넓고 멋진 땅, 젖과 꿀이 흐르는 땅, 가나안으로 그들을 인도하고자 합니다. 이를 위해 여호와께서 모세를 부르시고 애굽으로 보내려고 하시지만 모세는 좀처럼 하나님의 부르심에 응답하지 못하고 있습니다. 10~12절을 보시기 바랍니다.

10 이제 내가 너를 바로에게 보내어 너에게 내 백성 이스라엘 자손을 애굽에서 인도하여 내게 하리라

11 모세가 하나님께 이르되 내가 누구이기에 바로에게 가며 이스라엘 자손을 애굽에서 인도하여 내리이까

12 하나님이 이르시되 내가 반드시 너와 함께 있으리라 네가 그 백성을 애굽에서 인도하여 낸 후에 너희가 이 산에서 하나님을 섬기리니 이것이 내가 너를 보낸 증거니라

이때 모세의 나이를 생각한다면 하나님의 부르심에 주저하는 것도 어쩔 수 없다고 생각됩니다. 아마 모세는 적어도 40년 전이라면 애굽의 왕자라는 신분도 있고 체력도 재력도 충분하기 때문에 응답할 수 있었지만 이제는 일개 양치기에 불과한 자이며 가장 조건이 나쁠 때 하나님의 부르심을 받고 ‘왜 이럴 때, 왜 이 최악의 타이밍에?’라고 생각했을 것입니다. 하나님은 모세에게 「그 백성을 애굽에서 인도하여 낸 후에 너희가 이 산에서 하나님을 섬기리니」라는 증거를 주신다고 하지만 모세의 마음은 전혀 변하지 않습니다. 사실 자기가 이스라엘 사람들에게 가서 “너희를 애굽에서 구원하기 위해서 나를 보내셨다”라고 말한다한들 누가 믿어줄 것인가? 하고 모세는 걱정하고 있는 것입니다. 젊은 날 실패한 체험이 트라우마로 작용했을 것입니다. 이어서 13~15절을 만나보시죠.

13 모세가 하나님께 아뢰되 내가 이스라엘 자손에게 가서 이르기를 너희의 조상의 하나님이 나를 너희에게 보내셨다 하면 그들이 내게 묻기를 그의 이름이 무엇이냐 하리니 내가 무엇이라고 그들에게 말하리이까

14 하나님이 모세에게 이르시되 나는 스스로 있는 자이니라 또 이르시되 너는 이스라엘 자손에게 이같이 이르기를 스스로 있는 자가 나를 너희에게 보내셨다 하라

15 하나님이 또 모세에게 이르시되 너는 이스라엘 자손에게 이같이 이르기를 너희 조상의 하나님 여호와 곧 아브라함의 하나님, 이삭의 하나님, 야곱의 하나님께서 나를 너희에게 보내셨다 하라 이는 나의 영원한 이름이요 대대로 기억할 나의 칭호니라

15절을 보면 「아브라함의 하나님, 이삭의 하나님, 야곱의 하나님께서 나를 너희에게 보내셨다 하라 이는 나의 영원한 이름이요 대대로 기억할 나의 칭호니라」라고 쓰여있습니다. 주해서에 따르면 이곳의 「영원한」이라는 히브리어 단어와 같은 발음의 단어로 「감추어진」이라고 하는 단어가 있는데, 모세가 말한 「이는 나의 영원한 (לְעוֹלָ֑ם) 이름이요 대대로 기억할 나의 칭호니라」라는 것이 발음상 「이는 나의 감추어진 (לְעַלֵּם) 이름이요 대대로 기억할 나의 칭호니라」라는 식으로 들린 것 같습니다. 그것에 게다가 처음에 언급했지만 시내 산에서 하나님께서 주신 십계명의 제3계명에 의해서(혹은 레위기 24장 16절에 의해서) 여호와라는 이름을 함부로 불러서는 안된다고 되어 있기 때문에 결국 어떻게 발음하는지 잊어버렸다고 생각됩니다.

(3) 나는 스스로 있는 자이니라

그것은 둘째치고 모세의 질문에 대한 답으로 주님은 여호와라는 이름의 의미에 대해 14절에서 설명해주셨습니다. 여호와라는 이름은 이스라엘 백성이면 누구나 알고 있었지만 그 의미에 대해서는 하나님께 계시받은 적이 없었습니다. 그 뜻이 무엇이냐 하면 「나는 있다. 나는 스스로 있는 자이니라」라는 것입니다. 아마 처음 읽으신 분은 미스프린트라고 생각하신 분도 계실 것입니다. 영어 성경에는 「 I am who I am」이라고 적혀 있습니다. I am이 즉, 「나는 있느니라」가 이름이라고 하는 거죠. 이 부분은 주해서에 따라 여러 가지 의견이 있고 해석이 나뉘는 곳이고 한 가지 해석을 말씀드리자면 「나는 있느니라」는 것은 그분은 어제도, 오늘도, 영원히 변하지 않는 동일한 분이라는 뜻입니다. 히브리어에서는 「I am」이 「에예허」라고 쓰여져 있고 동사가 미완료형으로 되어 있습니다. 히브리어의 미완료형이란 어떤 일의 계속된 상태를 나타내고 그 상태는 과거, 현재, 미래에 모두 사용될 수 있기 때문에 여기 부분은 직역하면 「나는 존재하고 있었다」「나는 존재하고 있다」 「나는 계속 존재할 것이다」의 모든 의미가 된다고 합니다. 15절에 보충적으로 아브라함의 하나님, 이삭의 하나님, 야곱의 하나님이라고 계속 말하고 있는데 이 「아브라함의 하나님, 이삭의 하나님, 야곱의 하나님」이라는 문장은 실은 3장에서 3번이나 6절, 15절 그리고 16절에서 반복해서 나옵니다. 즉 모세에게 나타나신 하나님은 뭔가 새로운 하나님이 아니고 모세에게 친숙하고 이스라엘 백성들에게 매우 잘 알려진 선조들의 하나님이라는 것입니다. 여호와 하나님은 현재 이스라엘의 상황에 좌우되지 않고 이스라엘 선조들의 하나님이요, 현재 모세의 하나님이요, 미래에도 영원한 세월에도 변하지 않고, 처음이요, 마지막이요, 신실하고, 항상 동일한 분이고 반석 같은 하나님이라고 말씀하시는 것입니다. 신약성경 가운데 특히 요한복음에는 예수님께서 자신을 가리켜 여러 번 「내니, 내가 그니라 (헬라어 성경에서는 에고 에이미라고 쓰여져 있다)」라는 말을 쓰셨습니다. 이것은 여호와라는 이름이 자신의 칭호 중 하나라고 주장하는 것 같습니다. 요한복음 6장 20절을 참조하시기 바랍니다. 이 대목은 제자들이 갈릴리 호수를 배로 건너다 풍랑을 만나 난파했을 때 예수님께서 무려 호수 위를 걸어오셔서 배에 오르신 장면입니다. 이때 배에 오르시고 예수님은 뭐라고 하셨을까요?

이르시되 내니(에고 에이미) 두려워하지 말라 하신대

또한 요한복음 18장 6절을 참조하십시오. 이 부분은 겟세마네 동산에서 예수님을 잡으러 온 이스카리옷 유다와 대제사장들과 바리새인들에게서 얻은 아랫사람들과 군대가 왔을 때 「나사렛 예수를 찾는다」했을 때의 예수님의 대답입니다.

예수께서 그들에게 내가 그니라 (에고 에이미) 하실 때에 그들이 물러가서 땅에 엎드러지는지라

옛날에 주께서 모세에게 「나는 스스로 있는자이니라」고 하셨듯이 예수님은 헬라어로 번역하면 「에고 에이미」라고 말씀하셨습니다. 그것은 제자들에게 그리고 대제사장들이나 바리새인들의 하역자들에게 자신과 양들의 언약관계를 주장하는 것처럼 단호하게 「에고 에이미」라고 말씀해 주신 것입니다. 오늘날의 우리에게도 마찬가지로 주님께서는 「나는 있느니라」라고 말씀해 주시는 것입니다. 아울러 요한복음 6장 48절과 8장 12절은 10장 7절과 14장 6절과 15장 1절을 참조하시기 바랍니다. 다음 부분은 에고 에이미+補語 형태를 취하고 있습니다.

요한복음 6장

48 내가 곧 생명의 떡이니라

요한복음 8장

12 예수께서 또 말씀하여 이르시되 나는 세상의 빛이니 나를 따르는 자는 어둠에 다니지 아니하고 생명의 빛을 얻으리라

10장

7 그러므로 예수께서 다시 이르시되 내가 진실로 진실로 너희에게 말하노니 나는 양의 문이라

14장

6 예수께서 이르시되 내가 곧 길이요 진리요 생명이니 나로 말미암지 않고는 아버지께로 올 자가 없느니라

15장

1 나는 참포도나무요 내 아버지는 농부라

예수님이 자신을 가리켜 나는 빛과 같다거나, 나는 양의 문과 같다거나 말하는 것이 아닙니다. 내가 생명 그 자체이다, 내가 진리 그 자체이다라고 말씀하시는 것입니다. 생명 그 자체요, 진리 그 자체요, 양의 문 그 자체요, 포도나무 그 자체이신 예수님이 자신의 백성에게 주어졌다고 성경은 주장하는 것입니다. 즉 「나는 스스로 있는 자이니라」라는 뜻은 자신의 백성을 결코 버리거나 떠나지 않고 구해주실 분, 이끌어주실 분이라는 뜻입니다. 이 말씀의 뜻을 모세는 금방 이해한 것은 아니지만 이후 하나님의 놀라운 표적과 역사를 통해서 서서히 모세에게 이해되어 믿음이라는 형태로 결실을 맺어갔습니다. 저 아브라함과 함께 하신 분, 이삭과 함께 계시고 야곱과 함께 계시고 이끌어주신 분, 그리고 모세를 보내신 분이 지금도 그 때와 마찬가지로 우리와 함께 하신다는 뜻입니다. 그는 처음이자 마지막이자 알파이며 오메가이며 이스라엘 족장들의 하나님이며 지금도 그리고 영원히 변하지 않고 존재하시는 분으로서 자신의 백성에게 모든 것이 될 것이라고 말씀하시는 것입니다. 이 YHWH(여호와)라는 4문자에는 하나님 자신의 백성들과의 사이의 그런 신실하고 인자한 의미가 담겨 있었다는 것입니다. 우리는 이분 안에서 편안히 쉴 수 있는 것입니다.

결론

여호와 하나님은 족장들의 하나님이며 그리고 모세가 갈대상자에 넣어져 나일강을 포류하고 애굽의 위험으로부터 도망갔을 때도 그 손안에서 모세를 지켜주신 인자하신 분입니다. 그리고 애굽에서 미디안으로 도망쳐 40년 동안 양치기로 지낼 때도 그 모세의 고통을 함께 짊어지고 계셨던 분입니다. 그리고 현재도 하나님은 함께 계시며 80세가 된 모세를 애굽으로 보내시려 합니다. 우리 인간은 시간이 지남에 따라 나이가 들고 변화해 가는데 하나님은 영원히 계시며 변하지 않으시고 신실하시며 긍휼하심이 크신 분으로 「나는 스스로 있는 자이니라」라고 말씀해 주시는 것입니다. 우리들은 이 분의 품안에서 안식할 수 있는 것입니다.

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