2021年04月11日「神の御心のために 하나님의 뜻을 따라」

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神の御心のために 하나님의 뜻을 따라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙一 4章1節~6節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:1キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。
4:2それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
4:3かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
4:4あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
4:5彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
4:6死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 4章1節~6節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日は再びペトロの手紙1に戻ります。この手紙の受取人であるアナトリア半島の小アジアの人々は、皇帝ネロの迫害下にあって、言葉には言い尽くせないほどの苦しみの中に置かれていました。これまでペトロは、迫害に直面にしたとき、どのようにしたらいいのかについての「勧め」を論じてきましたが、3:17節からは一旦中断されて、ペトロの勧めを裏付ける神学的な挿入部分がありました。そして4章に入り、再び迫害に直面した時の勧めが再開します。その勧めとは何かと言えば苦しみにあえいでいる人々に対して、一言で言えば、「善を行いつつ、苦難を受けなさい」ということです。キリスト者がこれほどの惨めな状況に置かれているというのに、そのような悲惨な現状をただ、黙って肯定しているだけとでも受け取れるような言い回しです。見方によれば、指導者の言葉としては、あまりにも無責任であると、誤解を招きかねない言葉です。ペトロはこの言葉を通して一体何を教えているのでしょうか。

【1】. キリストと同じ心構えで武装せよ

 1節をご覧ください。

“キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。”

ここでは「心構え」によって武装しなさいとあります。「心構え」とは、「決断する」とか、「覚悟する」という意味ですが、キリストの弟子であるなら、肉に苦しみを受けること、十字架によって死ぬことを、決断しなさい、覚悟しなさいという意味です。また、武装するというのは、軍事用語ですが、つまり、教会がこの世において霊的な戦闘中であることを思い起こさせているのです。死を覚悟して武装しなさいという事です。それほど悪魔の攻撃が激しいからです。分かりにくいのは、1節の後半部分の文章ですが、“肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。”ここは、注解書においていろいろと指摘がされています。というのは、「環境が人を作る」という言葉がありますように、もし、肉体において苦しみを受けるなら、その人は、なおひどく犯罪を行うような人格が形成されるのではないか、という意見です。ですから、ここの箇所は、悪を行って苦しみを受ける者という意味ではなく、「善を行って苦しみを受け、しかも、その善に伴う苦しみにも拘わらず、なおイエス様に従い続けた者は、罪ときっぱり手を切ってしまった人である」と、解釈してください。1節は最後にもう一度振り返ってみます。続いて2~3節です。

“それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。”

私が神学校に献身した動機とは、神の御心に従うためにはどうしたらいいだろうかということでした。神様に自分自身を捧げたいという思いはあるのですが、神の御心に従うために一体何をすればいいのか、その点がさっぱり分かりませんでした。一生懸命神学の勉強をすればいいのか、兄弟姉妹の交わりを通して仕えればいいのか、或いは、神学校はどこに進めばいいのか、或いは、牧師としては召されてはいないのではないか等々です。今でも神の御心を祈りつつ求めていますがよくわからないことがたくさんあります。4:2~3節では、残りの生涯をどのように生きるのか、問うています。あたかも、お医者さんから余命宣告されたような感じですが、もし、死を覚悟して武装するなら、人間の欲望にではなく神の御心に従って、歩んでいけるということです。これは、私たちがこの世において完全な聖化に至ることができると言っているのではありません。肉である私たちは弱さと欠けを持ち、どうしても罪を犯してしまうからです。ただ人生の矢印がどこに向いているのかという事だと思います。誘惑に引かれてこの世を愛するのか、苦しみを覚悟し、死を覚悟してでも戦おうとするのか、人生の矢印がどちらに向いているかが大切なんだと思います。また、「生涯」ということばですが、ギリシア語を見ると「時間(クロノス)」という言葉が使用されています。ギリシア語で時間を表す言葉に、「カイロス」と「クロノス」がありますが、カイロスというのは「チャンス(神の時)」とか、「定められた時」を意味します。一方、クロノスというのは、「時計の針が動くような、時間そのもの」を意味します。このクロノスという言葉が、2節と3節にも出てきまして、直訳しますと、「ふけっていた(期間)は」、「ふけっていた(時)は、もうそれで十分です」、となっています。つまり、2節には、神の御心に従うクロノスがあって、3節には、異邦人が好むような好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝に従うクロノスがあって、この二つの時(クロノス)が対比されているのです。皆さんはどちらの時を過ごしたいと思われますか?当然、神の御心に従う時を過ごしたいと思われることでしょう。私たちは余命宣告をされることによって、終わりの意識を持つ事によって、何のために時間を過ごすのか、何のために生きるのか、その過ごし方、生き方が変わってくるのです。死を覚悟することによって、残りの時間の過ごし方に影響が及ぼされるのです。そしてその時間はかけがえのない時間となることでしょう。終わりを意識した時に、死を覚悟した時に、意味のある時間が生じると言ってもいいのではないでしょうか。しかしそれでは私たちの人生があまりにもストイックというか、虚しく聞こえてこないでもありません。この世にだって美しさがある。その美しさを美しさとして楽しんでもいいのでは、と思われるかもしれません。その通りです。キリスト教は決して禁欲主義ではないからです。イエス様でだって大いに飲み、大いに食べて、ファリサイ人たちから「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。」と非難されたほどでした。それではペトロは何を言っているのでしょうか。

【2】. 信者の悔しさを晴らされるお方

 続いて4~5節をご覧ください。ここは、この世がいつまでも続き、ローマ帝国の支配も安泰だろうと考えているこの世の人々に対する厳しい警告が語られています。ご覧ください。

“あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。”

ご存じのように、当時の小アジアのキリスト者は、既存秩序を破壊し、社会に混乱を引き起こす反社会的分子だというレッテルを張られていました。実際、キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むと言う聖餐式や、共同体を形成して家族のように仕え合うその姿は、はたから見ると奇妙に見えて、反社会的だと見做されたのかもしれません。ローマの当局者は、しばしばそのようなキリスト者を出頭させて、ローマ帝国の法律に忠誠を誓うのか尋問し、拷問を加え、死刑判決を下していたようです。皇帝ネロが次々とキリスト者を殺すその理由というのは、キリスト者たちが「人間性を憎悪するため」、つまり「自分たちと一緒になって乱行に加わることをせず、反社会的である」という理由のために殺したというのです。この時に殉教していった人々は、まさに死を覚悟し、善を行いつつ、苦難を受けたのです。しかし、このようにして実際に繰り広げられていたむごたらしい姿は、天においてそっくりそのまま逆転されることになると、ペトロは警告するのです。つまりキリスト者を出頭させ、尋問し、拷問を加え、死刑を執行していた者たちが、逆にこの世の生を全うした後に、天の法廷の前に出頭させられ、申し開きをしなければならなくなるのです。そして、彼らがキリスト者に対して行ったこと、悪口を言ったこと、嘲り、辱めたことなど、全て、それは信者と共におられる聖霊に対してなされた罪として見做されます。暗闇の中から、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民として、信者を驚くべき光の中へと招き入れてくださったそのお方を、そしった罪として見做されるのです。この聖霊冒涜罪に対し、彼らはことごとく申し開きをしなければなりません。続いて6節をご覧ください。

“死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。”

ここの「死んだ者」とは、この世の法廷で裁かれて処刑されたキリスト者を指しています。「人間の見方からすれば、~神との関係では~」とありますが、この箇所は人と神に対して同じ前置詞が使われていて、ギリシア語で「カタ アントロポス」、「カタ テオン」英語で言うなら、according to men 、according to Godとなっています。意訳しますと、「人間に従えば、肉において裁かれて死んだようでも、神に従えば、霊において生きるようになるためです」、という意味です。つまり、人間のジャッジによれば裁かれて有罪とされ死んだようでも、神のジャッジによれば霊において生きるようにされるということです。人間の目線と神の目線、人間のジャッジと神のジャッジが異なるということです。このようなユダヤ人の言い回しは例えば、旧約聖書の続編である知恵の書や、第二マカバイ記にも見られます。知恵の書3章1~4節をご覧ください。週報のプリントに抜粋されています。

“神に従う人の魂は神の手で守られ、/もはやいかなる責め苦も受けることはない。愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、/この世からの旅立ちは災い、自分たちからの離別は破滅に見えた。ところが彼らは平和のうちにいる。人間の目には懲らしめを受けたように見えても、/不滅への大いなる希望が彼らにはある。”

同じように第二マカバイ記7章13~14節です。これはセレウコス朝シリアの王、アンティオコス4世・エピファネスによって死刑判決を受けたユダヤ人が拷問で死んで行くときに語ったセリフです。

“やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。死ぬ間際に彼は言った。「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」”

つまり、ペトロの「人間のジャッジによれば、神のジャッジによれば」という言い回しは、知恵の書やマカバイ記に見られる共通点をもっていて、この世の人々が見るようではなく、死を超えた永遠に目が向けられているということに気づかされるのです。この目線こそ、最初に言いました「死を覚悟して武装すること」だと思います。私たちにとって死は通過点に過ぎません。私たちの目は常に死を超えて、その先にある神と共に生きる永遠の命に向けられるべきです。また、もう一つ覚えたいこととして、この世において悪魔は常に神の民を攻撃するということです。黙12:10には、悪魔の働きで典型的なものの一つとして、神の民を昼夜問わず、告発することが挙げられています。小アジアのキリスト者は、ローマの支配の中で常に告発され、裁判に掛けられ、死んで行きました。しかし、この世の現象は、天においてそのまま反転することになるのです。復讐の神が、流された義人の血に報復をされるからです。そして彼らはキリスト者の足元に来てひれ伏すようにされるのです(黙3:9)。

【3】. 死は通過点である。

 先ほど見た4:1節において、「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」とありました。この言葉は、特にキリスト者の死を通して成就する内容だと思われます。私たちキリスト者は、二度、死を体験いたします。一度目は倫理的な死であり、二度目は肉体の死です。つまり、倫理的な死とはイエス様を信じ、聖霊によって新しく生まれ変わり、永遠の命に入れられました。この時に、つまりイエス様を信じて洗礼を受けた時に、古い自分に死んで、新しい命に生まれ変わったということで一度目の死を体験したと言うことができるでしょう。旧い自分に死んで、新しく生まれ変わった時から、洗礼を受けた時から、ゆっくりではありますが聖化が始まります。キリスト者は日々自分に死ぬことの連続であり、倫理的な死は、私たちの最終的な肉体の死をもって、絶頂に至るのであります。この時、飛躍的な聖化が起こり、罪との関わりを完全に絶つことができるのです。フィリピ1:21~23をご覧ください。

“わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。”

神様が信者に対して苦難を、愛の鞭として用いるのを許されるように、信者の魂を完全に聖くして、すべての汚染からきれいにするために肉体の死を用いられるのであります。死とは人間が経験することができる最も大きな跳躍であり、そしてこの死によって信者がキリストのもとへ引き上げられるのです。このように考えるなら私たちの人生にとって、苦難も、そして死も、その先の永遠を神と共に生きるためには欠かせないものであることが分かります。神と共に生きる永遠のために、この世とは比較にならない美しい世界で神に仕えるために、この世で与えられている残されたわずかな時間を、御心に従って善を行いつつ、苦難を受けることを喜ぶことができるのです。

【結論】

 私たち信者は、キリストの弟子でございます。弟子であるなら、キリストが歩まれたように善を行いつつ、苦難の道に与らせていただくべきです。そのために私たちは、死の向こう側にある永遠の世界に目を向けて武装し、この世に残されたわずかな時間を過ごす者です。この苦難の道とは、決して禁欲的な道ではなく、神様の御心に従う道であり、私たちをして天に宝を積むようにさせる道であり、神と共に生きる永遠の人生を、より豊かに生きるための訓練の道なのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님의 뜻을 따라

2021년 4월 11일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

베드로전서 4장 1~6절

서론

오늘은 다시 베드로전서 1장으로 돌아가 보겠습니다. 이 서신의 수신자인 아나톨리아 반도의 소아시아 사람들은 네로 황제의 박해 아래서, 말로 표현할 수 없는 고통 속에 놓여 있었습니다. 지금까지 베드로는 박해에 직면했을 때 어떻게 해야 하는지에 대한「권면」을 논해왔는데, 3:17절부터 잠시 중단되어 베드로의 권면을 뒷받침하는 신학적 삽입 부분이 있었습니다. 그리고 4장에 들어서면서 다시 박해에 직면했을 때의 권면이 재개됩니다. 그 권면은 무엇일까요. 고난을 당하는 사람들에게 한 마디로 「선을 행하면서 고난을 받으라」는 것입니다. 그리스도인들이 이토록 비참한 상황에 처해 잇는데, 그런 비참한 현실을 그저 묵묵히 긍정하고 있는 것으로 받아들일 수 있는 표현입니다. 어떻게 보면 지도자의 말로서는 너무 무책임하고 오해를 불러일으킬 수 있는 말입니다. 그렇다면 베드로는 이 말을 통해 도대체 무엇을 가르치고 있는 것일까요?

(1) 너희도 같은 마음으로 갑옷을 삼으라

1절을 보시기 바랍니다.

1그리스도께서 이미 육체의 고난을 받으셨으니 너희도 같은 마음으로 갑옷을 삼으라 이는 육체의 고난을 받은 자는 죄를 그쳤음이니

여기서는「마음으로」라는 말씀이 있습니다. 여기서의「마음으로」란, 「결단하다」, 「결심하다」라는 뜻인데, 그리스도의 제자라면 육체의 고난을 받는 것, 십자가에 달려 죽는 것을 결단하고 각오하라는 뜻입니다. 또한 갑옷을 삼으라는 것은 군사적 용어인데, 즉 교회가 이 세상에서 영적전투 중이라는 것을 상기시켜 주는 것입니다. 죽음을 각오하고 무장하라는 뜻입니다. 그만큼 마귀의 공격이 심하기 때문입니다. 이해하기 어려운 것은 1절 후반부 문장인데, 「육체의 고난을 받은 자는 죄를 그쳤음이니」입니다. 이 부분은 주석서에서 여러 가지 지적을 하고 있습니다. 즉, 「환경이 사람을 만든다」는 말이 있듯이, 육체적으로 고난을 받으면, 그 사람은 더 심하게 범죄를 저지르는 인격이 형성되는 것이 아니냐는 의견입니다. 그러므로 이 구절은 악을 행하여 고난을 받는 사람이라는 뜻이 아니라, 「선을 행하여 고난을 받고, 그 선에 따른 고난에도 불구하고 예수님을 계속 따르는 사람은 죄와 완전히 결별한 사람이다」라고 해석해야 할 것입니다. 이어서 2~3절을 보시겠습니다.

2 그 후로는 다시 사람의 정욕을 따르지 않고 하나님의 뜻을 따라 육체의 남은 때를 살게 하려 함이라

3 너희가 음란한 정욕과 술취함과 방탕과 향락과 무법한 우상 숭배를 하여 이방인의 뜻을 따라 행한 것은 지나간 때로 족하도다

제가 목회자로 헌신하게 된 동기는 하나님의 뜻에 순종하기 위해 어떻게 하면 좋을까 하는 것이었습니다. 하나님께 헌신하고 싶은 마음은 있지만, 하나님의 뜻에 순종하기 위해 도대체 무엇을 어떻게 해야 하는지 전혀 몰랐습니다. 열심히 신학공부를 해야 하는지, 형제자매들과의 교제를 통해서 섬기면 되는지, 신학교는 어디로 가야 하는지, 그렇지만 목사로 부름 받은 것은 아니지 아닐까 등등입니다. 지금도 기도하며 하나님의 뜻을 구하고 있지만 잘 모르는 것이 많은데, 4:2~3절에서는 남은 생애를 어떻게 살아야 하는지를 묻고 있습니다. 마치 의사로부터 시한부 선고를 받은 것 같지만, 죽음을 각오하고 갑옷을 입고 무장한다면 인간의 정욕이 아닌 하나님의 뜻을 따라 살아갈 수 있다는 말씀입니다. 이것은 우리가 이 세상에서 완전한 성화를 이룰 수 있다는 것을 말하는 것이 아닙니다. 육체를 가진, 우리는 연약함과 부족함을 가지고 있고, 죄를 지을 수밖에 없기 때문입니다. 다만 인생의 화살이 어디로 향하고 있느냐는 것입니다. 유혹에 이끌려 세상을 사랑할 것인지, 고통을 각오하고 죽음을 각오하고 싸울 것인지, 인생의 화살이 어느 쪽을 향하고 있느냐가 중요하다고 생각합니다. 또「때」라는 말인데, 헬라어를 보면 「시간(크로노스)」라는 단어가 사용되고 있습니다. 헬라어로 시간을 나타내는 단어로「카이로스」와「크로노스」가 있는데, 카이로스는 「기회(하나님의 때)」라든지, 「정해진 시간」을 의미합니다. 한편, 크로노스라는 것은 「시계 바늘이 움직이는 것 같은, 시간 그 자체」를 의미합니다. 이 크로노스라는 단어가 2절과 3절에도 나오는데, 직역하면「탐닉하던(기간)은」, 「탐닉하던(시간)은 이제 그것으로 족하다」라고 되어 있습니다. 즉 2절에는 하나님의 뜻을 따르는 크로노스가 있고, 3절에는 이방인들이 좋아하는 호색, 정욕, 술 취함, 향락, 폭음, 우상숭배를 따르는 크로노스가 있는데, 이 두 가지 시간(크로노스)이 대비되고 있는 것입니다. 여러분은 어떤 시간을 보내고 싶으신가요? 당연히 하나님의 뜻에 순종하는 시간을 보내고 싶을 것입니다. 우리는 시한부 선고를 받음으로써 종말의 의식을 가짐으로써 무엇을 위해 시간을 보낼 것인지, 무엇을 위해 살 것인지, 어떻게 보낼 것인지, 어떻게 살아갈 것인지가 달라집니다. 죽음을 각오함으로써 남은 시간을 보내는 방식에 영향을 미치게 되는 것입니다. 그리고 그 시간은 무엇과도 바꿀 수 없는 시간이 될 것입니다. 끝을 의식할 때, 죽음을 준비할 때 의미 있는 시간이 생긴다고 해도 과언이 아닐 것입니다. 하지만 그렇다고 해서 우리의 삶이 너무 금욕적이거나 허무하게 들리지도 않습니다. 이 세상에도 아름다움이 있으니 그 아름다움을 아름다움으로 즐겨도 되지 않느냐고 생각할 수도 있습니다. 그 말이 맞습니다. 기독교는 결코 금욕주의가 아니기 때문입니다. 예수님도 많이 마시고 많이 드셔서 바리새인들로부터 「먹기를 탐하고 포도주를 즐기는 사람」이라는 비난을 받을 정도였습니다. 그렇다면 베드로는 무슨 말을 하고 있는 것일까요?

(2) 믿는 자의 억울함을 풀어주시는 분

이어서 4~5절을 보겠습니다. 이 세상이 영원히 지속될 것이고, 로마 제국의 통치도 평안하고 무사할 것이라고 생각하는 세상 사람들에 대한 엄중한 경고가 담겨 있습니다. 보십시오.

4 이러므로 너희가 그들과 함께 그런 극한 방탕에 달음질하지 아니하는 것을 그들이 이상히 여겨 비방하나

5 그들이 산 자와 죽은 자를 심판하기로 예비하신 이에게 사실대로 고하리라

아시다시피 당시 소아시아의 기독교인들은 기존 질서를 파괴하고 사회를 혼란에 빠뜨리는 반사회적 분자로 낙인찍혔습니다. 실제로 그리스도의 살을 먹고 그리스도의 피를 마시는 성찬식이나 공동체를 형성해 가족처럼 서로를 섬기는 모습은 언뜻 보기에 이상해 보이고 반사회적인 것으로 여겨졌을지도 모릅니다. 로마 당국은 종종 그런 기독교인들을 출두시켜 로마 제국의 법에 충성을 맹세하는지 심문하고 고문을 가한 뒤 사형 선고를 내리기도 했다고 합니다. 네로 황제가 기독교인들을 차례로 죽인 이유는 기독교인들이 「인간성을 증오하기 때문에」, 즉 「자신들과 함께 난동에 감하지 않고 반 사회적이라는 이유」로 죽였다고 합니다. 이 때 순교한 사람들은 바로 죽음을 각오하고 선을 행하면서 고난을 겪은 것입니다. 그러나 이렇게 실제로 벌어진 추악한 모습은 하늘에서 그대로 역전 될 것이라고 베드로는 경고하고 있습니다. 즉, 그리스도인들을 출두시켜 심문하고 고문하고 사형을 집행하던 자들이 이 세상에서의 삶을 다 마친 후에 하늘 법정에 출두하여 변명해야 한다는 것입니다. 그리고 그들이 그리스도인에게 행한 일, 욕한 일, 조롱한 일, 모욕한 일 등 모든 것이 믿는 자와 함께 하시는 성령님께 지은 죄로 간주될 것입니다. 어둠 속에서 택한 백성, 왕의 계보를 잇는 제사장, 거룩한 백성, 하나님의 소유가 된 백성으로 믿는 자를 놀라운 빛 가운데로 이끄신 그분을 모독한 죄로 간주되는 것입니다. 이 성령 훼방죄에 대해 그들은 모든 것을 다 아뢰어야 합니다. 이어서 6절을 보시겠습니다.

6 이를 위하여 죽은 자들에게도 복음이 전파되었으니 이는 육체로는 사람으로 심판을 받으나 영으로는 하나님을 따라 살게 하려 함이라

여기서「죽은 자들」은 세상 법정에서 재판을 받고 처형당한 그리스도인들을 가리킵니다. 「인간의 관점에서 보면 -하나님을 따라-」라고 되어 있는데, 이 구절은 사람과 하나님에 대해 같은 전치사가 사용되고 있는데, 헬라어로 「카타 안트로포스」, 「카타 테온」영어로는 according to men, according to God으로 되어 있습니다. 직역하면 「인간을 따르면 육체로는 심판을 받아 죽은 것 같으나 하나님을 따르면 영으로 살게 될 것이기 때문입니다」라는 뜻입니다. 즉, 인간의 판단에 따르면 심판을 받아 유죄 판결을 받고 죽은 것 같지만, 하나님의 판단에 따르면 영으로 살게 된다는 뜻입니다. 인간의 시선과 하나님의 시선, 인간의 심판과 하나님의 심판이 다르다는 것입니다. 이러한 유대인의 표현은 구약성경의 속편인 지혜서나 제 2마카베오서에서도 찾아볼 수 있습니다. 지혜서 3:1~4절을 참고하세요. 주보 인쇄본에 발췌한 내용입니다.

지혜서 3장

1 의인들의 영혼은 하느님의 손에 있어서 아무런 고통도 받지 않을 것이다.

2 미련한 자들의 눈에는 그들이 죽은 것처럼 보이고 그들이 이 세상을 떠나는 것이 재앙으로 생각될 것이며

3 우리 곁을 떠나는 것이 아주 없어져 버리는 것으로 생각되겠지만, 의인들은 평화를 누리고 있다.

4 사람들 눈에 의인들이 벌을 받은 것처럼 보일지라도 그들은 불멸의 희망으로 가득 차 있다.

마찬가지로 마카베오서 7:13~14절입니다. 셀레우코스 왕조 시리아의 왕 안티오코스 4세 에피파네스에 의해 사형선고를 받은 유대인이 고문으로 죽어갈 때 한 말입니다.

마카베오서 7장

13 세째가 죽자 그들은 네째 아들을 같은 방법으로 고문하며 괴롭혔다.

14 그는 죽는 마지막 순간에 왕에게 다음과 같이 말하였다. “나는 지금 사람의 손에 죽어서 하느님께 가서 다시 살아날 희망을 품고 있으니 기꺼이 죽는다. 그러나 너는 부활하여 다시 살 희망은 전혀 없다.”

즉, 베드로의「육체로는 사람으로 심판을 받으나 영으로는 하나님을 따라 살게 하려 함이라」라는 표현은 지혜서나 마카베오서에서 볼 수 있는 공통점을 가지고 있는데, 세상 사람들이 보는 것이 아니라 죽음을 넘어 영원을 바라보고 있다는 것을 깨닫게 됩니다. 이 시선이야말로 앞서 말씀드린 「죽음을 각오하고 갑옷을 삼고 무장하는 것」이라고 생각합니다. 우리에게 죽음은 그저 통과점에 불과합니다. 우리의 시선은, 항상 죽음을 넘어 그 너머에 있는 하나님과 함께 사는 영원한 생명으로 향해야 합니다. 또 한 가지 기억해야 할 것은 이 세상에서 마귀는 항상 하나님의 백성을 공격한다는 것입니다. 요한계시록 12:10절에는 마귀의 전형적인 사역 중 하나로 하나님의 백성을 밤낮으로 고발하는 것을 꼽고 있습니다. 소아시아의 그리스도인들은 로마의 통치 속에서 끊임없이 고발당하고 재판에 회부되어 죽어갔습니다. 그러나 이 세상의 현상은 하늘에서 그대로 뒤집어지게 됩니다. 복수의 하나님이, 흘린 의인의 피에 보복하실 것이기 때문입니다. 그리고 그들은 그리스도인의 발 앞에 와서 무릎을 꿇게 될 것입니다(요한계시록 3:9절).

(3) 통과점에 불과한 죽음

앞서 살펴본 4:1절에서「육체의 고난을 받은 자는 죄를 그쳤음이니」라고 했습니다. 이 말씀은 특히 그리스도인의 죽음을 통해 성취되는 내용인 것 같습니다. 우리 그리스도인은 두 번 죽음을 경험하게 됩니다. 첫 번째는 윤리적 죽음이고, 두 번째는 육체의 죽음입니다. 즉, 윤리적 죽음은 예수님을 믿고 성령으로 거듭나서 영생에 들어간 것을 말합니다. 이 때, 즉 예수님을 믿고 세례를 받을 때, 옛 자아에 대해 죽고 새 생명으로 다시 태어났다는 점에서 첫 번째 죽음을 경험했다고 할 수 있습니다. 옛 자아에 대해 죽고 새롭게 태어난 시점, 즉 세례를 받은 시점부터 느리지만 성화가 시작됩니다. 그리스도인은 날마다 자기 자신에 대한 죽음의 연속이며, 윤리적 죽음은 우리의 최종적인 육체의 죽음으로 절정에 이르게 됩니다. 이때 비약적인 성화가 일어나 죄와의 관계를 완전히 끊을 수 있는 것입니다. 빌립보서 1:21~23절을 보시기 바랍니다.

빌립보서 1장

21 이는 내게 사는 것이 그리스도니 죽는 것도 유익함이라

22 그러나 만일 육신으로 사는 이것이 내 일의 열매일진대 무엇을 택해야 할는지 나는 알지 못하노라

23 내가 그 둘 사이에 끼었으니 차라리 세상을 떠나서 그리스도와 함께 있는 것이 훨씬 더 좋은 일이라 그렇게 하고 싶으나

하나님께서 믿는 자에게 고난을, 사랑의 채찍으로 사용하시는 것처럼, 믿는 자의 영혼을 온전히 거룩하게 하고 모든 오염으로부터 정결하게 하기 위해 육체의 죽음을 사용하십니다. 죽음은 인간이 경험할 수 있는 가장 큰 도약이며, 이 죽음으로 인해 믿는 자는 그리스도께로 끌어올려지는 것입니다. 이렇게 생각한다면 우리 인생에 있어서 고난도, 그리고 죽음도 그 너머의 영원을 하나님과 함께 살기 위해 꼭 필요한 것임을 알 수 있습니다. 하나님과 함께 사는 영원을 위해, 이 세상과 비교할 수 없는 아름다운 세상에서 하나님을 섬기기 위해, 이 세상에서 주어진 얼마 남지 않는 시간을 하나님의 뜻에 따라 선을 행하며 고난을 받는 것을 기뻐할 수 있는 것입니다.

결론

우리 믿는 자는 그리스도의 제자입니다. 제자라면 그리스도께서 걸어가신 것처럼 선을 행하면서 고난의 길에 동참해야 합니다. 이를 위해 우리는 죽음 너머에 있는 영원한 세계를 바라보며 무장하고 이 세상에 남은 얼마 남지 않은 시간을 보내는 자들입니다. 이 고난의 길은 결코 금욕적인 길이 아니라 하나님의 뜻을 따르는 길이며, 우리를 하늘에 보화를 쌓게 하는 길이며, 하나님과 함께 사는 영원한 삶을 더욱 풍성하게 살기 위한 훈련의 길입니다.

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