2021年03月28日「ノアは迫害時にも証しをした」

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ノアは迫害時にも証しをした

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙一 3章13節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:13もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
3:14しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
3:15心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
3:16それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。
3:17神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
3:18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
3:19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
3:20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
3:21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。
3:22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 3章13節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 ある人は、この世に苦難が存在すること自体、神が存在しないことの証拠であると言います。世界を統治される神様が全能なるお方であり、善なるお方であるなら、私たちが苦難にあうことがないようにされるはずだ、そして神様は、私たちが苦難に合わないように願われるはずだ。従って、私たちの生活の中に苦難があるということは、神様が善なるお方ではないか、或いは、能力のない証拠だと言うのであります。この世に苦難があるということは、まさにキリスト教が嘘である証拠であると言うのです。神様が善なるお方で、全能なるお方であるなら、神の民に苦難が襲って来ないように、統治されるのではないか、全能なる方なら、神の民に降りかかる苦難を未然に防がれるのではないか、ということでしょう。

このような考えの根底には、苦難とは無条件に悪いものであるという考え方があるのだと思います。受難週が始まる今日、皆さんと一緒に考えてみたいことは、苦難とは本当に悪いものなのだろうかということです。苦難について深く考えてみるなら、初代教会の宣教は、まさに迫害を受けながら、苦難を受けながら、散らされて拡大していきました。キリスト者が義のために苦しみを受けるなら、そのことはまさに主イエスの御名をこの世に大胆に証しし、この世に対して本当に恐れるべきお方を証ししていることになるでしょう。苦難とはただ、私たちが望まないもの、嫌いなものだけであって、実はそれは、この世に光を指し示すこと、救いの道を指し示すことだとも言えるのです。従いまして、もし、キリスト者がこの世から敵意を受けたなら、悪意を受けたなら、どうするべきでしょうか。既にお分かりのことと思われますが、敵意に対し敵意をもって返してはならない、悪意に対し悪意をもって返してはならないということです。それでは、キリスト者はいつでもやられっ放しでは?と思われるかもしれません。悪い者たち, ずるい者たちだけが結局、得をするのでは?と思われるかもしれません。ペトロは本日の箇所において、その答えをはっきりと準備しています。信者がこの世において苦難を受ける理由とは、信者がキリストの弟子として、まさにキリストの歩まれた模範に従うということであり、さらに言えば、信者をキリストに固く結び合わせて、天に上げられた栄光の御座へと導くためであるということです。そして悪い者たちは、最終的に裁かれ、恥じ入るようになるためであるということです。

【1】. 私たちが持っている希望について

 3:14~15節をご覧ください。

“しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。”

キリスト者に与えられている希望の根拠というものは、何か漠然としたものではなく、御言葉の約束に基づいたものであり、確実に成就される事柄であります。ですから、もし、キリスト者が義しいことをしていて、不当な苦しみを受けた時に、取り乱し、動揺し、そして人々を恐れてはなりません。むしろ迫害を受けたことを幸いだと考えるべきです。私たちの歩みは私たちの羊飼いであり、監督者であるイエス様によって必ず栄光の目的地に導かれることが約束されているため、私たちは苦難の中にあっても、善き業に励み続け、悪に対し善をもって応えることができるのです。もしかしたら世の人々は、そのような私たちの姿を見て不思議に思い、奇妙に感じるかもしれません。そして、「あなたの希望の根拠とは何ですか?」と尋ねてくるかもしれません。そのような時には「よくぞ聞いてくださいました!」と言って、私たちの希望の根拠を弁明できるように備えているようにいたしましょう。私たちが本当に恐れなければならない方は、時のローマ皇帝でも、総督でもなく、迫害してくるユダヤ人でもなく、神様であることを証しするべきです。16節をご覧ください。

“それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。”

「穏やかに」とは、謙遜になってという意味です。「敬意をもって」とは、畏敬の念をもってという意味です。「悪口を言ったことで恥じ入るようになる」という言葉がございますが、この言葉は終末論的な響きを帯びていまして、旧約聖書の詩編などを見ると「恥じ入るようになる」という言葉がたくさん用いられていることに気づきます。少し例を挙げますと、詩編31:18、詩編35:4と、エレミヤ書17:13をご覧ください。

詩31:18 

“主よ、あなたを呼びます。わたしを恥に落とすことなく/神に逆らう者をこそ恥に落とし/陰府に落とし、黙らせてください。”

詩35:4 

“わたしの命を奪おうとする者は/恥に落とされ、嘲りを受けますように。わたしに災いを謀る者は/辱めを受けて退きますように。”

エレ17:13

“イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。”

つまり、「恥じ入る」とは、終わりの日に裁きに定められることです。善き生活に熱心なキリスト者に対し、悪口を言ったり、ののしったり、危害を加えるのなら、彼らが悔い改めない限り、神は一切のことを覚えておられ、報いとして、終わりの日に、天から、恥と裁きをもたらすのです。これほど恐ろしいことはありません。ですから世の人々の救いのために、私たちはいつでも私たちの持っている希望について弁明できるように備えていなければなりませんし、何より、彼らのためにとりなしていなければならないのです。

【2】. 神のもとへ導くため

 苦難の道は、イエス様も同じように歩まれました。正しい方が正しくない者たちのために苦しれたのです。18節をご覧ください。

“キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。”

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれ」とありますが、これは、十字架の苦しみのことを指しています。イエス様の十字架による贖罪の御業は、ただ一度だけ、永遠に、そして全歴史的に、全宇宙的に、効力のあるものとして捧げられたという意味です。イエス様の十字架の事件は、人類の全ての歴史を覆うような事件でありました。そして、「正しくない者を神のもとへ導くため」と書かれていますが、この「正しくない者」というのは、まさに私たちの事であります。私たちはイエス様の贖いの御業の故に、正しくない者でありながら、恵みによって神の御許へ導かれ、義しい者とされたのです。であるなら、私たちもまだイエス様のことを知らない世の人々のために、とりなしつつ、もし、この世から身に覚えのない不当な苦しみを受けたとしても、それを耐え忍び、正しい良心を持つべきであります。そのようにして一人でも多くの魂がキリストに導かれるようにするためです。この世において、やがて私たちは生を全うし、死を迎えることになりますけれども、死はもはや、私たちにとって罪に対する刑罰ではございません。私たちにとって死とは、永遠の命の入り口となったのです。なぜなら、十字架と復活の主イエスが、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのとまったく同じように、キリストに結ばれた私たちも、肉では死に渡されますが、霊においては生きる者とされるからです。

【3】. ノアは迫害時にも証しをした

 続いて19~20節をご覧ください。

“そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。”

この箇所は聖書の中で最も解釈が難しい箇所の一つとされています。この聖書箇所をもって、死後の魂にも福音が語られ、そこで悔い改めに導かれて、救いの可能性があるとする、いわゆる「セカンドチャンス」という教えが出てきました。しかし、聖書全体を見ますと、死後の魂に福音が語られるという内容は一切語られておりません。それでは、本日のこの箇所をどのように解釈するかということですが、いろいろな解釈がございまして、その中の一つの解釈を紹介させていただきます。第一に「宣教されました」という動詞の時制を見ますと、これは過去において継続的になされたという意味ではなく、過去のある時点において、一度発生したという時制になっています。ですから、捕らわれていた霊たちに対しては、悔い改めに導くために福音を語り続けたというより、一度「宣言された」、キリストの勝利が宣言されたという意味になります。イエス様が復活された後、高く挙げられることによって、捕らわれていた霊たちに対し、キリストの勝利宣言が宣告され、彼らの敗北が決定づけられたという事です。この「捕らわれていた霊たち」とは、誰かと言いますと、次の節に説明が書かれていますが、既に死んでいるノアの時代の人々であったということです。ノアの時代、ちょうど箱舟が作られていた期間、神様は長く忍耐して、人々が悔い改めるのを待っておられました。しかし彼らは従わなかったために洪水によって死んでしまい、獄に捕らわれていて、その彼らに対しキリストの勝利が厳粛に宣言されたという意味だと思います。その瞬間、彼らに決定的な裁きが下り、恥じ入るようにされたということです。

このノアの箱舟というのは大変大きな船でありまして、聖書の後ろに度量衡の表がありますから、そこを見ますと1アンマが約45cmとあります。従ってこの箱舟の大きさはというのは、長さが約135m、幅が約22.5m、高さが、約13.5mという大きさになります。現代の中型のタンカーを想像していただければと思いますが、ちょうどこの写真のタンカーが全長138m、幅が24mですので、大きさ的にはほぼ同じになります。ここで大変興味深いことは、ノアの箱舟の全長と、幅の比率が、現代のタンカーの比率とほぼ同じであるということです。つまり神様は荒波の中でも最も安定する箱舟の大きさを、ノアに指図されたということです。ノアは神様の御言葉に従って、このように巨大な三階建ての箱舟を、しかも海の見えない陸地に作りました。作り始めてから完成するまでに大変長い歳月がかかりました。ノアが箱舟を作るようにと御言葉が与えられてから、約100年後に洪水が起こっています。その間、人々はノアのおかしな様子を見ながら、そして間もなく「この地に裁きが訪れるという」というノアの警告を無視しながら、罪深い生活を悔い改めることはしませんでした。最終的にこの箱舟に乗り込んで救われたのは、ノアの家族だけで、たったの8人だけであったということです。このような状況は、まさに小アジアの人々が直面している状況と同じですよ、とペトロは語りかけています。続く21~22節をご覧ください。

“この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。”

ペトロは「ノアの洪水とは、あなた方が受けた洗礼とも一緒なんですよ」と語りかけます。つまりノアの時代、箱舟に乗った者だけが水の中から救われたように、今の時代も箱舟であるイエス・キリストに結ばれた人々だけが、洗礼の水を通して、救われると言っているのです。ノアの箱舟には動物が雄と雌とつがいで入れられましたが、清い動物だけが入れられたのではありませんね。汚れた動物も共に入れられました。創世記7:8-9をご覧ください。

“清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものもすべて、二つずつ箱舟のノアのもとに来た。それは神がノアに命じられたとおりに、雄と雌であった。”

つまり、ここに書かれていますように、救いとは箱舟に入れられることであり、これはキリストに結ばれることを意味しています。そして、キリスト者が受けた洗礼とは、決してキリスト者の罪や汚れを完全に取り除くことはできませんが、箱舟に入れられたが故に、イエス・キリストの贖いの故に、義しいとされたことを神様に要求することができるのですよ、と言っているのです。私たちキリスト者はこの世にあって依然として罪深い者ですが、キリストに結ばれて、キリストの恵みの中で、義とされ、善き業を神様に捧げることができるのです。

最後の22節はイエス・キリストがどのように高く挙げられたのか、頌栄的な内容になっています。キリストは天に上り、神の右におられます。神の右とは、御父から全ての権能を預かっているということでしょう。その神の右において、天使と(アンゲロスの複数形)、また権威と(エクスーシアの複数形)、そして力が(デュナミスの複数形)、キリストの支配に服していると言うのです。ということは、キリストを頭とする、身体なる教会も、どういうことになるということでしょうか。天においてキリストと共に支配するようになるということですね。私たちはこの世においては、肉にあって、苦難に与り、畏れと、謙遜によって歩ませていただいておりますが、天において高く挙げられ、キリストと共に支配するようになるのです。

【結論】

 私たちが主イエスを信じたにも関わらず、この世においては依然として苦難や迫害は絶えることはありません。善を行っていても、なお敵意や悪意を受けて、不当な苦しみに遭う時には、幸いであるとペトロはいいます。なぜなら、同じように迫害を受けた旧約の預言者たちが、天で受けた報いに、あなた方も一緒に与ることになるからですとペトロは言います。旧約時代のノアは人々から嘲られ、迫害を受けても、長い歳月をかけて巨大な箱舟を建造しました。現代に生きる私たちもキリスト者も、この世にあっては常にマイノリティの存在かもしれませんが、信仰によって歩ませていただき、迫害や困難の中にあっても、善き生活と主を畏れる態度を通して、主イエス・キリストを証しする者とならせていただきましょう。

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