2021年03月07日「妻と夫(信者の妻と未信者の夫)」

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妻と夫(信者の妻と未信者の夫)

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙一 3章1節~7節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:1同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。
3:2神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
3:3あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。
3:4むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
3:5その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
3:6たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。
3:7同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 3章1節~7節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日の説教題をご覧になって、「おや、もしかしたら夫と妻の間違いでは?」と思われた方がいらっしゃるかもしれません。実は、本日の聖書箇所の1~6節が妻に対する勧めになっており、最後の7節だけがおまけのように夫に対する勧めとなっていましたので、説教題を「妻と夫」といたしました。3章1節には「同じように」という言葉によって始められていますが、これは、前回見ました2:18で、「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい」という言葉と、全く同じ文脈の中から語られています。召し使いたちへの訓戒を通して、私たちもイエス様の足跡に続き、苦難の中に置かれても、従順に歩むように召されているということを前回確認いたしました。本日の箇所も同じです。とりわけノンクリスチャンの夫を持つキリスト者の妻に対しての訓戒がなされていますが、妻に対する訓戒としてだけではなく、私たち全員に対する訓戒として読み進んで行きたいと思います。

【1】. 信仰の本質である従順

 召し使いたちが主人に従うように、同じように、キリスト者の妻たちも、未信者の夫に従いなさいということですが、具体的には無言の行いによって夫を支え、柔和で穏やかな霊によって、隠れた所で善き業を行いなさいと勧められています。今日でも、ある程度重なるかもしれませんが、当時のギリシア・ローマの世界においては、男性中心的な考え方が強くありましたので、妻の立場は低く、妻は夫の所有物や財産として見做されていました。ですから、もし、夫が先に信仰を持った場合、家族全員が同じ信仰を持つようになることが一般的でしたが、妻が先に信仰を持った場合には、妻は未信者の夫と、どのように歩んでいったらいいのかという難しい問題に直面することになりました。しかし、逆に考えるなら、福音を信じた妻たちは、夫の家の宗教を受け入れず、ローマの皇帝崇拝を拒否し、当時の風習に逆行しながらも、なお福音を受け入れ、信仰を持つようになった、屈強な女性たちであると言うことができるかもしれません。3:1~2節をご覧ください。

“同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。”

もし、信者である妻たちが、未信者の夫に従わないようにする口実を見つけようとするなら、ペトロは断固として、救われたあなた方(妻たち)が、なおさら、へりくだって「自分の夫に従いなさい」と勧めているのです。この「妻は夫に従いなさい」という勧めは当時、何ら新しいものではありませんでした。訓戒として広く教えられていましたが、キリスト者であるあなた方は、なおさら、率先して、そうしなさいと言っているのです。「従いなさい」という言葉が、ペトロの手紙に何度か出てきますが、聖書の中で「従う」(ギ: フィポタソー)というのは、一方が優れていて、重要であり、価値があるから、従うということではありません。イエス様も幼少時代に両親に従われました。ルカによる福音書2:51には次のような御言葉がございます。

“それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えて(ギ: フィポタソー)お暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。”

三位一体の御子であるイエス様は、御父なる神に完全に従われました。イエス様も父なる神様も栄光と威厳と誉れにおいて、本質的に等しいお方でありますが、イエス様は常に父なる神様に従われますね。つまり、相手が優れているから、相手が、重要だから、価値があるから、従うのではなく、単純に秩序を守り、立てられている権威に従うことによって、神を畏れるということだと思います。従順とは神を畏れる信仰から出ているのであって、従順それ自体が、信仰の本質であり、キリスト者の取るべき態度であると言うことができるでしょう。エフェソ5:23には次のような御言葉がございます。

“キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。”

ですから、「妻は夫に従いなさい」という勧めは、当時の時代の背景にあった男女差別を甘んじているというより、むしろ、妻が家長としての責任を負っている夫を認めてあげること。家庭の頭として妻が陰で支えつつ、立てられている権威に対して服従することであり、そうすることによって神様も喜ばれるのです。夫と妻が全く同等であることは、7節においてはっきり現れています。3:7をご覧ください。

“同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。”

ここでは夫と妻が共同の相続人であると書かれています。当時、女は嗣業を受け継ぐことはできないとされていましたが、神の御前で男と女が全く同等であると断言されています。これは当時の状況を考えるなら、おそらく、革新的なメッセージだったに違いありません。従って、「妻は夫に従いなさい」という勧めは、立てられている権威に対して服従することであり、これは、妻だけでなく、夫であろうと、子どもであろうと、僕であろうと、主人であろうと、信者であれば誰であれ、立てられている権威の前に神様の故に従順し、その中で善い行いをするように召されているということです。

【2】. 柔和で穏やかな霊によって

 キリスト者の妻が、未信者の夫に従う時に、特に妻の「無言」の行いによって、夫が信仰に導かれるようになる可能性について触れています。これは、今日においてもキリスト者の妻が、ノンクリスチャンの夫に対して、何とか伝道をしようと、これでもか、これでもかと福音を語ろうとする状況を思い浮かべていただければ分かりやすいかと思います。例えば、夫が仕事から帰ってくると、すかさず、キリスト教のラジオ番組を、ボリューム一杯に掛けたり、例えば、リビングのテーブルの上にキリスト教の本をわざとらしく置いておくわけです。そうすると、夫はだんだんと妻の態度に恐怖を覚え、家に帰るのが嫌になってくることでしょう。ある説教者の話しによりますと、クリスチャンの妻を持つ未信者の夫は、もう既に妻から脅されている感覚に陥っていると言います。その理由について夫は、次のように言ったというのです。「私は男性として常にナンバー2なんです。私の妻には他の男性で、既にナンバー1の方がいるんです」イエス・キリストのことです。「さらに息子が出来てしまうと、私はナンバー3という事です。」このようにして、未信者の夫は、常に脅されているような感覚を覚えるのです。そして、日曜日には家族全員が教会に行き、夫が一人だけ、家に取り残されるようなことがあろうものなら、ものすごく寂しさがこみあげて来るということでした。恐らく2,000年前に、ペトロも全く同じような理由から、妻が夫に対して説教者になるのではなく、むしろ妻の無言の行いが、重要であると説いているのだと思います。3~4節をご覧ください。

“あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。”

美しくありたいという気持ちは、女性の中に常にあるものだと思います。本当の美しさとは「編んだ髪」や、「金の飾り」、或いは「派手な衣服」ではないと書かれています。それでは一体何かということですが、「柔和でしとやかな気立て」であると書かれています。ここで、「気立て」というのはギリシア語の聖書で「霊(プニューマ)」と書かれていますから、3:4は、聖書協会共同訳では次のように翻訳されています。

“柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた人でありなさい。これこそ、神の前でまことに価値があることです。”

つまり「柔和で穏やかな霊という朽ちないもの」こそ、「編んだ髪」や、「金の飾り」や、「派手な衣服」に替わる本物の装いであるということです。キリスト者は新しく生まれ変わり、イエス・キリストに接ぎ木されることによって、美しさの源である「柔和で穏やかな霊」に接ぎ木されました。そしてこの「柔和で穏やかな霊」というのは、心の中に隠されていて、決して自らの柔和さを大っぴらにアピールすることもなければ、自らの穏やかさを自慢することもありません。キリスト者は「編んだ髪」や、「金の飾り」や、「派手な衣服」のような朽ちていく装いではなく、「柔和で穏やかな霊という朽ちないもの」で装い、それは隠されていますが、主の目にはまことに価値があるのです。これこそ、美しさの秘訣であり、神様に喜ばれるものなのです。

以前、ある婦人の次のような証しを聞いたことがあります。未信者の夫のパンツを洗濯して干した後に畳んで箪笥にしまうわけですけれども、その婦人は夫のパンツも来る日も来る日も心を込めて、祈り心で畳んで箪笥にしまったそうです。そうしたらある日、夫が信仰に導かれたという証しでした。そのような隠れた業を神様は確かにご覧になられ、不思議な働きが起こされるんもんなんだなと思いました。

【3】. 神に望みを託すものに要求される善き行い

 ある人は、この「秘めた」、「隠された」と翻訳されている言葉に注目し、終末論的な内容が語られていると指摘しています。なぜならイエス様が隠されているものは、やがての日に顕わにされると教えられたからです。マタイによる福音書6:4と6:6をご覧ください。

マタイによる福音書6:4

“あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。”

マタイによる福音書6:6

“だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。”

旧約聖書の中で柔和で穏やかな霊によって生じる善き業によって自分を装った人の代表例として、神に望みを託した聖なる婦人たちを挙げて、そして特に、アブラハムの妻サラを引き合いに出しています。3:5~6節をご覧ください。

“その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。”

「サラの娘になる」というのは「アブラハムの子孫となる」という言葉の類比であり、つまり「救いに入れられる」という意味として使われていると思われます。聖書には相対的に、女性たちの記事は隠されているのかもしれません。サラについてもアブラハムほど詳細には記述されていませんので、私たちは想像するしかありませんが、ただ、サラは確かにアブラハムを「主人」と呼んで従ったということは聖書にも書いてあります(創18:12)。アブラハムが神からの召しを受けて信仰の旅に出発する時に、一体どこに行くのか分からないまま、サラはアブラハムに従いました。人間的に考えればとても不安な旅であったことでしょう。しかし、彼女はおそらく静かな心で、ただアブラハムに従って行ったと思われます。なぜそうすることができたのかと言えば、それは、5節にありますように彼女がただ、神に望みを託したからと思われます。サラのアブラハムに対する従順のように、隠されていて表に出てこないかもしれませんが、神は全てをご覧になられ、一つ残らず覚えておられます。信者たちにも、同じように、従順と善き業が要求されていますが、特に隠れたところにおいてなされる無言の行い、柔和で穏やかな霊から出て来る隠された業が要求されているのです。なぜこのように従順と善き業が要求され、逆境の中にある時は、なおさら、善き業が要求されるのでしょうか。その理由を挙げようとするなら、聖書からいろいろと答えが浮かんでくることでしょう。例えば、第一に、彼らがキリストと共に罪に死んで、新しい命に生き返ったからであります。

或いは第二に、彼らが律法の下にいるのではなく、恵みの下にあって、神のために実を結ぶために、キリストに属する者とされたからです。

或いは第三に、彼らが聖霊の宮であり、肉に従って生きるのではなく、聖霊に従って生きるものとされたからです。

或いは第四に、彼らは光の子供たちであり、必ず光の中で働きをしなければならないからです。いろいろと答えが浮かんでまいりますが、さらに付け加えるなら、未来の栄光という報いのために、というのも、その理由の一つとして挙げられるでしょう。キリスト者がやがての日に報いとして与えられる嗣業は、神の恵みの賜物でありますが、それは同時に、各人の行いの報いとして与えられます。どういうことかと申しますと、私たちがやがての日に報いが与えられますね。それは私たちの善き業に応じて与えられるということです。私たちの善き業というのは、神様が前もって準備してくださった、備えてくださった善き業であり、その上を神様に応答するという形によって、私たちは歩ませて頂いているのです。たとえ救いが全ての信者たちに与えられると言っても、やがての日に与えられるその栄光の中で、キリスト者は自分たちの行った業に従って区別されることでしょう。ですからこの地において涙と共に蒔かれたものは、栄光の中で収めることになるのであります。天国のこの法則は、恵みによって決して破棄されることはありません。私たちは蒔いたものに従って刈り取るのです。隠された所で献げられた善き業に、神様は何一つお忘れになることなく、豊かに報いにてくださるということです。

【結論】

 未信者の夫のために、未信者の家族のために、私たちは神様の御前に証しを立てるように、神様が善き業を私たちに備えてくださっています。私たちが無言の行いと、柔和で穏やかな霊から出て来る隠された業を、神の御前に捧げ、そして、まだ救われていない家族のためにとりなしの祈りを捧げてまいりましょう。これこそ、神の御前に美しい装いであり、神様が喜ばれるものなのです。

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