2021年02月21日「神の僕として生きよ」

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神の僕として生きよ

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙一 2章11節~17節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:11愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
2:12また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
2:13主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、
2:14あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。
2:15善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
2:16自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。
2:17すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 2章11節~17節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 キリスト者は、この世に属する者ではなく、天国の市民です。この世にあって旅人であり、仮住まいの者に過ぎません。しかしだからと言って、この世において無責任で、いい加減な歩みをするようであってはなりません。異邦人の中で天国の市民として誇りを持ち、立派にふるまわなければなりません。イエス様を知らない人々のただ中で、たゆみなく善を行い、地の塩、世の光となって、真の神を証しする歩みをして行くということです。ローマの激しい迫害の中で、キリスト者が従順に歩む中で、ついに4世紀に至りキリスト教がローマ帝国の国教として定められました。もし、キリスト教徒がユダヤ教徒のようにローマの支配に抵抗していたなら、キリスト教がローマの国教となることはなかったでしょう。私たちが迫害に合う時、いじめられる時、本当に神は生きておられるのだろうかと思ってしまうことがあります。しかし、たとえ私たちにとってどうしても納得できないことが尽きないとしても、神様が御手をもって全てを治めておられるのは事実です。隠された神の知恵と神秘に属する部分がありまして、信仰生活の中で起こってくる様々な事柄を私たちが全て理解することなどできないのであります。

【1】. あなたがたを悪人呼ばわりしてはいても…

 2:11~12節をご覧ください。

“愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。”

 12節に注目しますと、ペトロは未信者を指して異教徒と呼んでいることが分かります。この手紙はアナトリア半島の小アジアに一定の割合で住んでいるユダヤ人キリスト者と、そして彼らによって伝道された異邦人キリスト者に書かれたものと考えられますが、ペトロにとっては信仰をもっていない人々は、たとえ散らされたユダヤ人であろうと、同胞ではなく「異教徒」と見做しているということが分かります。初代教会のキリスト者は、とにかくユダヤ教徒と、ローマ帝国からひどい迫害を受けていました。一体なぜ彼らは、それほどまでに嫌われるのでしょうか。キリスト者は、しばしば既存秩序を破壊し、社会に混乱を引き起こす者たちというレッテルを張られましたが、小アジアでは、特に銀細工の職人たちがそのように非難したようです。銀細工の職人たちは、宗教に依存しながら生計を維持していました。しかしキリスト教の教えが広がると、人々が偶像を捨ててしまって、キリストに従って行くようになっていきますから、彼らにとってはキリスト者の存在は脅威だったのでしょう。また、当時、キリスト者に対する風評被害が実際に広まっていました。その風評被害とは、第一に、「キリスト者は人食い人種だ!」という噂です。これは、恐らく彼らが頻繁に行っていた聖餐式が、キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むというふうに語られていたために、誤解されて、そのような悪口が広まったものと思われます。第二に、「キリスト者は近親相姦をしている淫らな人々だ!」という噂がありました。これは、恐らく「兄弟姉妹を愛しましょう」と語られていたために、そのような悪意ある形で噂が広まったものと思われます。ペトロはこのように世間から悪く言われているキリスト者に対して、仮住まいの身として慎みを持ち、肉の欲を避けることによって、立派な行いをするように勧めているのです。そして、そのようなキリスト者の立派な振る舞いこそ、神に対する証しとなり、異教徒に対する伝道になると言っているのです。

【2】. 皇帝であろうと、総督であろうと従わなければなりません。

 続いて13~15節をご覧ください。

“主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな人々の無知な発言を封じることが、神の御心だからです。”

欲を避けて立派な行いをしなさいという勧めはわかりますが、13~15節では、異邦人の皇帝に従いなさいと命じられています。時の皇帝は悪名高いネロ皇帝でした。これは衝撃の言葉であったに違いありません。というのは、旧約においてユダヤ人は神によって、明らかに他の異邦人とは区別されていたからです。従って、なぜ、神を信じておらず、神を知りもしない皇帝に従わなければならないのか、なぜ自ら進んでローマの属国にならなければならないのかという葛藤が起こってくるのです。自分たちが特別な神の恵みの中に生かされていて、そして信仰のためにすべてを捧げ、命さえも捧げようとしているのに、なぜ、自分たちが異邦人の迫害と権勢に屈服しなければならないのか、という疑問です。実は、この教えは、福音書の中でも、イエス様が弟子たちに教えられていた内容でありましたが、ペトロ自身、最後までこのイエス様の教えを理解することができませんでした。実際に、ゲッセマネの園でイエス様を捉えに来たローマ兵に対し、ペトロは剣を抜いて兵士の耳を切り落としています。この時、イエス様はペトロに剣を鞘に納めるように命じ、そして兵士の耳を元通りに癒されました。この後にイエス様は十字架に架けられるのですが、その十字架上にあっても、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と、とりなしの祈りを捧げられました。イエス様の十字架の死によって、ペトロは初めてこの教えの意味を理解することができたと言えるのです。しかし、「皇帝であろうと、総督であろうと従わなければなりません」、この言葉だけを聞くと単なる保守派ではないかと思ってしまいます。キリスト教は保守派でなければならないという事なのでしょうか。イエス様が本当に教えようとされていたことは一体何だったのでしょうか。

 2:13節において「人間の立てた制度」とありますが、ギリシア語を見ると、制度と翻訳された言葉は「創造、被造物:κτίσει」という言葉になっています。英語で言うなら、「クリエイション」とか「クリーチャー」に当たります。従って直訳すると「人間の被造物」となりますが、これでは、もっと分からなくなりますので「人の中に見られる自然的秩序」と理解してください。何が異なるのかと言えば、人間の中にみられる自然的な秩序なども、本を正せば、全て神の創造の御業であるという事です。異邦人の皇帝であろうと、総督であろうと、そのような秩序と社会全体も、全て神の創造の御業であり、主のために彼らを敬い、彼らのためにとりなし、従順でなければなりません。そして従順から生み出されるキリスト者の善い行いによって、愚かな人々の無知な発言を封じることこそ神様の御心なのです。1テモテ2:1~2をご覧ください。

“そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。”

キリスト者が彼らを敬いとりなす事を通して、神様は全ての人が信じて、救われることを願っておられるのです。

【3】. 自然と恵み

 それにしても13節の文脈で突然「被造物」という言葉が出て来るのは、不思議な感じがいたします。そのため「制度」と意訳したと思われますが、もう少しこの箇所を掘り下げていきましょう。聖書は、自然と超自然という二つの領域について教えています。図をご覧ください。自然とは何かと言いますと、神の「創造」と関係があり、超自然とは何かと言いますと、神の再創造、つまり「恵み」と関係があります。神様は自然と超自然、つまり、自然と恵みの二つの領域を区別され、混ざり合わないようにされますが、神様はこの二つの領域を共に治めておられ、二つの領域において休むことなく働きをされ、そして重要なことは、この二つの領域は、相反するものではなく、関連づけられているということです。従いまして、恵みは決して自然に逆らわず、恵みは自然を破棄することはありません。

イエス様が二千年前に来られた時、ただ、悪魔の働きだけを滅ぼしに来られたのであって、父なる神様が制定された全てのものと、全ての働きをそのまま尊重されました。即ち、イエス様は人頭税を支払われ、カエサルのものはカエサルに返しなさいと命じられ、ペトロが剣を取った時に「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われ、弟子たちが剣によって戦うことを禁じられました。ヤコブとヨハネが天から火を降らせて、信じない者たちを審判しようとする思いを戒められました。ルカ9:54~55をご覧ください。

“弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。”

イエス様はこの世に王として来られたはずなのに、この世にあるすべての権勢を認められています。時の政府の権勢を認め、大祭司を認め、ヘロデやピラトのその権勢を認めています。イエス様は世を審判されるためではなく、救われるために来られたということです。

これらのことから、神の再創造である恵みの法則は、自然の法則を破棄することはないということが分かってくるのです。むしろ恵みは、すべて自然的なものを、新しくさせて、聖くするのです。従ってイエス様によって告げられた福音は、決して家庭の秩序を損傷させることもありません。ある日、妻が福音を受け入れて、突然、自分は神の子となったからと言って、未信者の夫を軽蔑したり、夫に逆らったりするという事があるでしょうか。かえって夫に対し愛をもってこれまで以上に仕えるようになります。両親と子供の関係も同じです。ある日、子どもがイエス様を信じて、突然、まだ未信者の両親に対して反抗的になったり、家の秩序を崩壊させるようなことがあるでしょうか。かえってこれまでになく、一層親孝行となり、両親を敬うようになるのです。主人と僕の関係でも同じです。福音はすべての人が召しを受けた、その中に留まるように命じ、奴隷であったとしても、その制度を許容し、奴隷の身分にとどまりなさいと教えるのです。政府と民の関係においても全く同じことが当てはまります。これまでの関係を損傷させることはありません。福音は社会を混乱させたり、暴徒となって革命を先導するのではなく、イエス様によって買い取られ、自由にされたキリスト者は、信者であれ、未信者であれ、すべての人を敬い、そしてネロ皇帝をも敬うことができるのです。恵みは自然を破棄するのではなく、自然を新しくさせて、聖くするのです。恵みは神の創造である自然を、リフォームさせることによって、回復させるのです。革命的ではないということです。私たちは地の塩であり、私たちの教会がリフォームドチャーチと呼ばれる由縁がここにあるのです。神の国の広がりとは、わずかのパン種が全体に混ぜ合わせられることによって、やがて全体が膨れあがるように拡大していくのです。

 キリスト教は、このような世界観を持っているために、自然に対して、神のように畏れて、それを拝むことがなければ、反対に、自然を軽視することもありません。もし自然を恐れるなら、自然崇拝という形をとります。古くから日本の中に残っているアニミズム的な、民族宗教に今でもはっきりとみられます。大きな大木を神として拝んだり、山を拝んだりしますね。キリスト者はこのような自然崇拝から解放されています。その反対に自然を軽視するとはどういうことかと言いますと、信仰が内省的となり、救いは精神に限定され、この世を肉として軽蔑するような考え方になります。いわゆる二元論的な信仰になってしまうのです。この世の政治・経済は全て汚れていて、肉の世界だと考えていきます。キリスト者はこのような異端的な考えからも解放されています。神様は自然の領域も、超自然の領域つまり恵みの領域をも、支配しておられ、この二つの領域は関連付けられているのです。そして恵みが自然を聖め、本来の姿に完成させ、回復させるというのが、イエス様の教えであり、本日ペトロを通して語られている内容であるということです。

【結論】

 第一に、自然の領域と、恵みの領域において、治めておられる方は同じ方であり、その方は父なる神様で、今もなお、休まずに働いておられます。神の造られたものは全て善きものであり、感謝することによって受け入れるならば何一つ破棄するものなどないということです。

第二に、「皇帝であろうと、総督であろうと従わなければなりません。」という言葉の背景には、すべての人に福音を届けたいという慈しみ深い父なる神様の思いが込められています。神の僕にこの福音が託されているのですから、福音というのは、自然的なものに逆らうものではなく、また革命的なものでもなく、とりなしを通して、自然的なものを聖め、更新させ、リフォームしていくものなのです。

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