2021年02月07日「神の子イエス・キリストの福音のはじめ 하나님의 아들 예수 그리스도의 복음의 시작이라」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

神の子イエス・キリストの福音のはじめ 하나님의 아들 예수 그리스도의 복음의 시작이라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章1節~8節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1神の子イエス・キリストの福音の初め。
1:2預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。
1:3荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1:4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1:6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章1節~8節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 私たちはペトロの手紙1にしばらく耳を傾けてまいりましたが、それと並行しながらマルコによる福音書も見て行きたいと思います。マルコによる福音書は4つの福音書の中で、執筆時期が最も古いと考えられています。分量的には4つの福音書の中で最も分量が少なく、しかも16章の9節以降は後代になって追加された文章であるということが分かっています。この福音書を初めて読まれた時には、素朴な印象を受けたのではないでしょうか。内容を見ましても、マルコによる福音書にはイエス様の誕生物語はなく、復活の顕現の記録もありません。また、ヨハネの福音書のよう霊的な福音書ではなく、どちらかと言えば地上的で、地味な雰囲気があります。ですからある学者によれば、イエス・キリストの牛のような「僕性」が強調されていると言われたりします。しかし、聖書神学が発達していくにつれて、その表面的な素朴な文面の背後に、その地味なイエス・キリストの「僕性」の背後に、神が摂理によって歴史をご支配され、イエス・キリストを通してその隠されている神性が表されていることに、驚きを持ってスポットが当てられていくようになりました。この福音書は、研究すれば研究するほど、そこに隠されている深い神様のメッセージに新しく気づかされるのです。私たちは驚きを隠すことができません。

【1】. 手紙の著者マルコ

 この手紙の著者はヨハネ(ヘブル語名)と呼ばれるマルコ(ラテン語名)によって書かれたということになっています。ただ、その確固たる証拠はありません。歴史の研究が進む中で、そもそも福音書の成り立ちは、「一人の著者が書いたというようなものではないのではないか」?と問題が投げかけられています。マルコ福音書は、「当時の共同体の中で語り伝えられ、あるいは文書化されていた数々の言い伝えや伝承が集められて、それらが最終的にまとめ上げられていったに過ぎないのではないか?」ということです。確かにその通りかもしれません。しかし、マルコはペトロの弟子であり、ペトロの通訳者(つまり解説者という意味ですが)だったという教父の証言がありますし、また、ペトロの手紙とマルコによる福音書の文体を見比べると、そこに類似点も見られます。普段からペトロがそばにいてマルコに語ってくれた内容を、後年にマルコがまとめ上げたという状況が推測できないでもありません。たとえ、著者は一人ではないにしても、多くの学者たちは、ほとんどの部分が恐らくマルコによって書かれたであろうという点で一致していますので、私たちはこの福音書が、マルコによって書かれたものとして読み進んで行きたいと思います。さて、そのマルコという青年がどういう人物であったのか、という事ですが、第一に彼は12弟子の一人ではありませんでした。エルサレムに住むマリアの子でありまして、使徒言行録に出て来る、聖霊降臨の出来事の前に120人の弟子たちが集まって祈っていた「屋上の間」というのが、実はマリアの家でありました(使徒1:15、12:12)。つまり、マルコは大変裕福な家の、お坊ちゃんとして生まれて来たという事です。そして、バルナバのいとこでもありました。第一次伝道旅行の際には、マルコはバルナバとパウロに一緒に同行することが許されます。しかし、そこでマルコは大きな失敗をやらかしてしまいました。第一次伝道旅行が、あまりにも迫害が激しく、過酷な旅行だったのでしょう。マルコは途中でミッションを放棄し、エルサレムの自分の家に帰ってしまったのです。使徒13:13をご覧ください。

“パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネ(マルコ)は一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。”

あとで、パウロの信頼を回復することになりますが、この行動によって、一時、大変なパウロの怒りを買ってしまったのは事実です。そして、マルコはこの福音書の中にも、自身の失敗談を挿入させています。イエス様が逮捕された夜の出来事ですが、こっそり、ペトロと共にイエス様の行方を追跡していた場面です。マルコ14:51~52をご覧ください。

“一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。”

裸で逃げたのがマルコであるという事です。私たちは、12弟子の中で最も失敗の多かった弟子と言えばペトロを思い浮かべますが、マルコもペトロに劣らず失敗が多かった弟子だったようです。しかしこのような失敗を通して、多くのことを学んだのでしょう。最終的には、マルコは神様に豊かに用いられ、ペトロやパウロを支え続けた人物として聖書に描かれています。

【2】. 福音を知らせる使者

 それでは本文を見てまいりますが、マルコ1:1の書きだしを見ると、この福音書の全体のタイトルのような記述がございます。

“神の子イエス・キリストの福音の初め。”

「福音、エウアンゲリオン」という言葉は、新約聖書において初めて「福音」という意味を持つようになりますが、旧約聖書においては福音という意味はなく「良き知らせ」という言葉で翻訳されています。たとえば、2サムエル4:10をご覧いただけますでしょうか。

“かつてサウルの死をわたしに告げた者は、自分では良い知らせをもたらした(good news)つもりであった。だが、わたしはその者を捕らえ、ツィクラグで処刑した。それが彼の知らせ(good news)への報いであった。”

つまり、「良き知らせ」というのは、本来、新しい王が即位して王朝が変わったり、新しい国が設立されたことを意味します。昔、世界を支配していたアッシリア帝国が滅び、バビロンが興り、その後ペルシア帝国、そしてギリシア帝国、ローマ帝国と王朝が目まぐるしく変わっていきました。その度に使者が遣わされ、新しい国が興されたことが全国に告げ知らされました。日本の場合で考えるなら、平成から令和に元号が移行した時に、各新聞社から号外が配られますね。いわゆる「号外のちらし」というのは、洗礼者ヨハネの荒れ野で叫ぶ声として例えることが出来るでしょう。マルコがここで「イエス・キリストの福音」と言ったとき、これ迄の王が代替わりし、いよいよ新しい王による支配が始まった!神の国が臨み、新しい支配が始まった!ということです。

イエス・キリストの福音の使者として、洗礼者ヨハネの働きは、福音という全体の枠内の一部分として捉えられていることが見て取れます。ヨハネは自分より後に来られる方を証し、その方を指し示し、その方を信じて悔い改めの洗礼を受けるように勧めていました。従いまして、少し余談になりますが、私たちが受けた「洗礼」つまり、イエス様ご自身は洗礼を授けませんでしたが(ヨハネ4:2)、イエス様が弟子たちに命じた洗礼と、洗礼者ヨハネが授けた「悔い改めの洗礼」が異なるものとして考えてはならないということです。カルヴァンもイエス様が弟子たちに命じた洗礼と、ヨハネの洗礼は全く同じものと考えています。なぜならイエス様自身も洗礼者ヨハネの洗礼を承諾し、そして洗礼者ヨハネの弟子だったアンデレやゼベダイの子ヨハネがイエス様の弟子になった時、再び洗礼を授けることはありませんでしたし(ヨハネ1:36~39)、また初代教会で活躍していたアポロもヨハネの洗礼しか受けていなかったからです。使徒18:24~25をご覧ください。

“さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。”

ヨハネの洗礼とイエスの御名による洗礼は同じだという事です。そうしますと、マルコ1:8の御言葉に出会い、洗礼者ヨハネの洗礼とイエス様の御名による洗礼はやはり異なるのではないかと反論する人もいますが、8節で言われているのは五旬節に起こった聖霊の降臨のこと、つまり聖霊の満たしによって与えられた諸々の賜物を言っているのであって、たとえ、イエス様の御名による洗礼を受けたとしても、聖霊の満たしによる賜物を受けられない人もいたと理解すべきです。なぜなら使徒8:16に次のような御言葉があるからです。

“人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。”

ですから、私たちが受けた洗礼は洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼であり、それはヨハネの後に来られる優れた方を、つまり、イエス・キリストを信じて受ける洗礼なのです。この洗礼の意味は旧約時代の割礼と同じものであります。それは恵みの契約に対する「しるし」であり、「印」であって、洗礼によって契約の民とされることを表していますけれども、恵みの契約の実体とは、イエス・キリストによって獲得された有益、つまり、義認、罪の赦し、再生、聖化などであって、洗礼とはそれらの有益に証印を押すことであるということです。

【3】. 執筆の動機

 話を元に戻しますが、マルコのタイトルの中で究極的なポイントは、そのように新しく来られる王が「神の子」であるということがポイントだと思われます。当時、ローマの世界で「神の子」と言えば、それはローマ皇帝を指す言葉でした。したがって、マルコのこの書き出しは、当時のローマ帝国にとって挑戦的な書き出しとなります。マルコはそれを知っていて、あえてローマのキリスト者に向けて、「新しい王、神の子、イエス・キリストの福音」という言葉によって書き出していると思われます。しかしこの「神の子」という言葉は、マルコの福音書から1:1以降、パタッと音沙汰がなく消えてしまいます。途中で、悪霊たちによる「神の子よ」という言葉は出てきますが、人間の口から出て来るのは「神の子」は、イエス様が十字架で死なれた後になって、ようやく百人隊長による「本当に、この人は神の子だった」という告白において現れるのです。それまで沈黙していたのが、最後の最後のローマの百人隊長によって告白されるのです。それはまるでイエス様に対して「神の子」という称号の使用を出し惜しみしているかのようです。また、「キリスト」という言葉に注目しても、全く同じことが言えるでしょう。イエス様はペトロによってキリストと信仰告白される以外に、人々からキリストと信仰によって呼ばれることはありませんでした。ただ、自分自身で、「どうして律法学者たちは、キリストはダビデの子だと言うのか」と、キリストという言葉を使うことはありましたが(9:41, 12:35, 13:21)、人々からキリストと呼ばれる場面はこの福音書に出てこないのです。またイエス様の称号である「主」という言葉に注目してみても全く同じことが言えるでしょう。「旦那様」、「ご主人様」という程度の意味あいでは呼ばれますが、その2回を除くと「主」という称号によってイエス様が呼ばれることはありません。これは一体なぜでしょうか。それはマルコによる福音書において「神の子」という言葉が、大変重要なテーマであり、「神の子」という言葉がこの福音書の中で大変重んじられているからだと思われます。同じように「キリスト」という言葉が、「主」という言葉が、大変重んじられているからです。「神の子」という言葉は、当時のローマ皇帝に対して使われていたように、安々と使用されてはならないものであって、それはイエス様の神聖な称号だからです。この手紙は、ローマのキリスト者に向けて書かれた手紙ですが、この手紙の執筆年代はおそらく64年のローマの大火災以降で、キリスト者に対する迫害が最も激しくなった時期、つまりAD.64~70年頃に執筆されたと考えられています。この時の皇帝はネロでしたが、当時のローマほど、キリスト者に対する迫害が激しかった地域はありませんでした。「ローマの都を再建するために、ローマの大火災を起こした張本人はネロではないか」という噂が巷に流れ、世論がネロに対し不満を持ち始めると、キリスト者を民衆の不満のスケープゴートとし、ローマの放火の罪という濡れ衣を着せて、次々とキリスト者を捕らえ、捕らえられたキリスト者は、猛獣の餌食にされたり、十字架にかけられたり、松明代わりに燃やされたりして処刑されました。それ以来、ローマにおいて約200年の間、キリスト者の迫害が続きます。ですから、ペトロの手紙もそうですが、マルコの福音書の書かれた目的というのは、キリスト者の大迫害に備えて書かれたという事です。マルコの福音書は特に迫害の中心地であるローマのキリスト者を励まし、慰めるために書かれたという事です。このような背景の中で読み進んでまいりますと、マルコ福音書の全体を通して、浮かび上がってくる二つの質問に気づかされます。その質問とは第一に、「一体、あなたは誰ですか?」という質問です。この質問は当時のローマの迫害に生きているキリスト者にとって、誰でも共感することができる質問でした。「一体、あなたは誰ですか?」本当に、神という方がおられるなら、私たちを何故このように惨めで、悲惨な迫害の中に放置されるのでしょうか?という質問です。そして、第二の質問、それは「神は本当に生きておられるのですか?」という質問です。「あなたは本当に神であられ、そして今も生きておられ、あなたの善を打ち立ててくださっているのでしょうか?」という質問です。この二つの質問がマルコ福音書の焦点であり、この二つの質問に真剣に向き合い、誠実に答えるためにマルコ福音書は書かれたのです。そしてまさに1:1においてこの本の全体のタイトルが記載されているのです。もう一度1:1をご覧ください。

“神の子イエス・キリストの福音の初め。”

この言葉は実に豊かで、重く、力にあふれた言葉として読む者に迫って来るのです。

【結論】

 現代においても、「一体あなたは誰ですか?」「神は本当に生きておられるのですか?」という質問を抱きながら、暗闇の中を彷徨っている多くの魂があります。イエス・キリストを信じて、平安をいただきたいと願っても、疑いの念に支配され、自分の感情に支配され、不安や、嫉妬、怒り、憎しみやから解放できない多くの魂があります。私たちは、そのような人々に対して、マルコのように、そして洗礼者ヨハネのように「神の子、イエス・キリストの福音」を一人でも多くの魂に届ける働きを担わせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님의 아들 예수 그리스도의 복음의 시작이라

2021년 2월 7일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 1장 1~8절

서론

우리는 베드로전서에 잠시 귀를 기울여 왔는데 그것과 병행하면서 마가복음도 살펴보도록 하겠습니다. 마가복음은 4개의 복음서 중 집필 시기가 가장 오래된 것으로 생각됩니다. 분량적으로는 4복음서 중 가장 분량이 적고, 게다가 16장 9절 이후는 후대에 와서 추가된 문장이라는 것을 알 수 있습니다. 이 복음서를 처음 읽었을 때 뭔가 소박한 인상을 받지 않으셨습니까? 내용을 봐도 마가복음에는 예수님의 탄생 이야기가 없고 부활에 대한 명백한 기록도 없습니다. 또 요한복음 처럼 영적인 복음서가 아니라 어느쪽 인가 하면 소박한 분위기가 있습니다. 그래서 어떤 학자에 따르면 예수 그리스도의 소와 같은 「종의 모습」이 강조 되어있다고 합니다. 그러나 성경신학이 발달하면서 그 표면적인 소박한 문면 뒤에, 그 소박한 예수 그리스도의 「종의 모습」뒤에 하나님의 섭리에 의해 신성이 드러나고 있음을 놀라움으로 조명하게 되었습니다. 이 복음서는 연구할수록 거기에 숨겨져 있는 깊은 하나님의 메시지를 새롭게 깨닫게 되며 우리는 놀라지 않을 수가 없습니다.

(1) 서신서의 저자 마가

이 서신서의 저자는 요한(히브리어 이름) 이라고 불리는 마가(라틴어 이름)에 의해 쓰여진 것으로 되어 있습니다. 다만 그 확고한 증거는 없습니다. 역사 연구가 진해되면서 애초 복음서의 성립은 “한사람의 저자가 썼다고 말하기는 어렵지 않는가?”라는 문제가 제기되고 있습니다. 마가복음은 “당시 공동체 안에서 전해지고, 혹은 문서화되어 있던 수많은 전설과 전승들이 모아져 그것들이 최종적으로 정리되어 진 것에 불과하지 않은가?”라는 것입니다. 확실히 그 말이 맞을 수도 있습니다. 그러나 마가는 베드로의 제자이자 베드로의 통역사(즉 해설자라고 하는 의미) 였다는 교부의 증언이 있고, 또 베드로의 서신서와 마가복음의 문체를 비교해 보면 유사점도 보입니다. 평소 베드로가 옆에 있으면서 마가에게 말해준 내용을 후년에 마가가 정리했다는 상황을 짐작할 수 없는 것도 아닙니다. 비록 저자가 혼자는 아니더라도 많은 학자들은 대부분의 부분이 아마도 마가에 의해서 저술되었을 것이라는 점에서 일치하고 있으므로 우리는 이 복음서가 마가에 의해서 쓰여진 것으로 읽어 나가고 싶습니다. 그런데 이 마가라는 청년이 어떤 인물이었는가 하는 것인데, 첫째로 그는 12 제자 중 한 명이 아니었습니다. 예루살렘에 사는 마리아의 아들로 사도행전에 나오는 성령강림 사건 전 120명의 제자들이 모여 기도하던 「옥상, 마가의 다락방」이라는 곳이 사실 마가의 어머니 마리아의 집이었습니다 (사도행전 1장 15절, 12장 12절). 즉 마가는 매우 부유한 집안의 도련님으로 태어났다는 것입니다. 그리고 바나바의 사촌이기도 했습니다. 1차 전도여행에서 마가는 바나바와 바울과 함께 동행하는 것이 허용됩니다. 하지만 거기서 마가는 큰 실수를 저지르고 말았습니다. 1차 전도여행이 너무 박해가 심하고 가혹한 여행이었습니다. 마가는 도중에 미션을 포기하고 예루살렘에 있는 자신의 집으로 돌아가 버린 것입니다. 사도행전 13장 13절을 참조하십시오.

바울과 및 동행하는 사람들이 바보에서 배 타고 밤빌리아에 있는 버가에 이르니 요한은 그들에게서 떠나 예루살렘으로 돌아가고

나중에 바울의 신뢰를 회복하게 되는데, 이 행동으로 인해 한때 엄청난 바울의 분노를 사게 된 것은 사실입니다. 그리고 마가는 이 복음서 속에도 자신의 실패담을 삽입시키고 있습니다. 예수님이 체포된 밤에 일어난 일인데 몰래 베드로와 함께 예수님의 행방을 추적하던 장면입니다. 마가복음 14장 51,52절을 참조하십시오.

51 한 청년이 벗은 몸에 베 홑이불을 두르고 예수를 따라가다가 무리에게 잡히매

52 베 홑이불을 버리고 벗은 몸으로 도망하니라

알몸으로 도망친 것이 마가라는 것입니다. 우리는 12 제자 중에 가장 실패가 많았던 제자 하면 베드로를 떠올리지만 마가도 베드로 못지않게 실수가 많았던 제자였던 것 같습니다. 이런 실수를 통해서 많은 것을 배웠겠죠. 궁극적으로는 마가는 하나님께 크게 쓰임받고 베드로와 바울을 계속해서 지지하는 인물로 성경에 그려져 있습니다.

(2) 복음을 알리는 사자

그럼 본문을 살펴보도록 하겠습니다. 마가복음 1장 1절 첫머리를 보면 이 복음서의 전체 제목과 같은 기술이 있습니다.

하나님의 아들 예수 그리스도의 복음의 시작이라

「복음, 에반게리온」이라고 하는 단어는, 신약성경에 있어서 처음으로 「복음」이라는 뜻을 갖게 되지만 구약성경에서는 복음이란 뜻이 없고 「좋은 소식」이라는 말로 번역되고 있습니다. 예를 들어 사무엘하 4장 10절을 보실까요?

전에 사람에 내게 알리기를 보라 사울이 죽었다 하며 그가 좋은 소식(good news)을 전하는 줄로 생각하였어도 내가 그를 잡아 시글락에서 죽여서 그것을 그 소식(good news)을 전한 갚음으로 삼았거든

즉, 좋은 소식이라고 하는 것은 본래 새로운 왕이 즉위하여 왕조가 바뀌거나 새로운 나라가 설립되었음을 의미합니다. 옛날 세계를 지배하던 앗시리아 제국이 멸망하고 바빌론이 부흥하고 그 후 페르시아 제국, 그리고 그리스 제국, 로마 제국과 왕조가 급변하였습니다. 그 때마다 사자가 보내져 새로운 나라가 일어섰음을 전국에 알렸습니다. 일본의 경우로 생각한다면 헤이세이에서 레이와로 원호가 바뀌었을 때 각 신문사로부터 호외가 배부됩니다. 이른바 「호외의 전단지」라고 하는 것은 세례자 요한의 광야에서 외치는 소리로 비유할 수 있을 것입니다. 마가가 여기서 「예수 그리스도의 복음」이라고 말했을 때, 지금까지지의 왕이 사라지고 드디어 새로운 왕에 의한 지배가 시작되었다! 하나님의 나라가 임하고 새로운 지배가 시작되었다! 라는 것입니다.

예수 그리스도의 복음의 사자로서 세례자 요한의 사역은 복음이라고 하는 전체의 틀 내의 한 부분으로 파악되고 있음을 알 수 있습니다. 요한은 자신보다 나중에 오실 분을 증거하고 그 분을 가리키며 그분을 믿고 회개의 세례를 받으라고 권했습니다. 따라서 조금 여담이기는 합니다만 우리가 받은 「세례」 즉 예수님 자신은 세례를 베푸시지 않으셨지만 (요한복음 4장 2절) 예수님이 제자들에게 명하신 세례와 세례자 요한이 베푼「세례」가 다른 것이라고 생각해서는 안 된다는 것입니다. 칼빈 역시 예수님이 제자들에게 명하신 세례와 요한의 세례는 똑같은 것으로 생각합니다. 왜냐하면 예수님 자신도 세례자 요한의 세례를 허락하셨고 세례자 요한의 제자였던 안드레나 세베대의 아들 요한(요한복음 1장 36~39절)이 예수님의 제자가 되었을 때 다시 세례를 베푸시지 않았고, 또 초대 교회에서 활약하던 아볼로도 요한의 세례밖에 받지 않았기 때문입니다. 사도행전 18장 24,25절을 보시기 바랍니다.

24 알렉산드리아에서 난 아볼로라 하는 유대인이 에베소에 이르니 이 사람은 언변이 좋고 성경에 능통한 자라

25 그가 일찍이 주의 도를 배워 열심으로 예수에 관한 것을 자세히 말하며 가르치나 요한의 세례만 알 따름이라

요한의 세례와 예수님의 이름에 의한 세례는 같다는 것입니다. 그러면 마가복음 1장 8절 (나는 너희에게 물로 세례를 베풀었거니와 그는 너희에게 성령으로 세례를 베푸시리라)의 말씀을 접하고 세례자 요한의 세례와 예수님의 이름에 의한 세례는 역시 다르지 않은가하고 반박하는 사람도 있지만 8절에서 말하는 것은 오순절에 일어난 성령의 강림, 즉 성령 충만으로 주어진 여러가지 은사를 말하는 것이며 설령 예수님의 이름으로 세례를 받았다고 하더라도 성령충만에 의한 은사를 받지 못하는 사람도 있다고 이해해야 합니다. 왜냐하면 사도행전 8장 16절에 다음과 같은 말씀이 있기 때문입니다.

이는 아직 한 사람에게도 성령 내리신 일이 없고 오직 주 예수의 이름으로 세례만 받을 뿐이더라

그래서 우리가 받은 세례는 세례자 요한의 회개의 세례이고 그것은 요한 뒤에 오시는 뛰어난 분을, 즉 예수 그리스도를 믿음으로 받는 세례입니다. 이 세례의 의미는 구약시대의 할례와 같습니다. 그것은 은혜의 계약에 대한 「증표」요 「인」이며 세례를 통해 계약의 백성으로 여겨지는 것을 나타내지만 은혜의 계약의 실체란 예수 그리스도에 의해 획득된 유익, 즉 칭의, 죄의 용서, 거듭남, 성화 등이고 세례란 그런한 유익에 인증(証印)을 찍는 것입니다.

(3) 집필 동기

이야기가 다시 돌아가자면 마가복음의 궁극적인 포인트는 그렇게 새로 오시는 왕이 「하나님의 아들」이라는 것이 포인트라고 생각됩니다. 당시 로마 세계에서「신의 아들」이라고 하면 그것은 로마황제를 가리키는 말이었습니다. 따라서 마가의 이 집필은 당시 로마제국에 도전적인 집필이 됩니다. 마가는 그것을 알고 있어서 굳이 로마의 그리스도인들을 향해 「새로운 왕, 하나님의 아들, 예수 그리스도의 복음」이라는 말로 쓰기 시작했다고 생각됩니다. 그러나 이 「하나님의 아들」이라는 말은 마가복음 1장 1절이후 갑자기 소리 없이 사라져 버립니다. 도중에 악령들에 의한 「하나님의 아들이여」라는 말은 나오는데 인간에 입에서 나오는 「하나님의 아들」은 예수님이 십자가에서 돌아가신 후에야 비로서 백부장에 의한 「이 사람은 진실로 하나님의 아들이었도다」는 고백에서 나타나는 것입니다. 그때까지 침묵하던 것이 마지막의 마지막에 로마의 백부장의 입을 통해 고백되어지는 것입니다. 그것은 마치 예수님에 대해 「하나님의 아들」이라는 칭호의 사용을 아까워하는 것 처럼 보입니다. 또 「그리스도」라는 단어에 주목을 해 보아도 똑같이 말할 수 있을 것입니다. 예수님은 베드로에 의해서 그리스도라고 신앙고백을 받으신 이외에는 사람들로부터 그리스도 신앙에 의한 믿음고백을 받지 못하셨습니다. 그저 자기 스스로 「어찌하여 서기관들이 그리스도를 다윗의 자손이라 하느냐」라고 그리스도라는 말을 사용하기는 하셨지만(9장 41절, 12장 35절, 13장 21절) 사람들로부터 그리스도라고 불리우는 장면은 이 마가복음에서 나오지 않습니다. 또 예수님의 칭호인 「주」라는 말에 주목해 보아도 똑같이 말할 수 있을 것입니다.「주인」이라는 정도의 의미로는 불리지만 그 것을 제외하면 주라는 칭호로 예수님이 불리지는 않습니다. 이것은 도대체 왜 그런걸까요? 그것은 마가복음에서 「하나님의 아들」이라는 단어가 매우 중요한 주제이고 「하나님의 아들」이라는 단어가 이 복음서에서 매우 중요시되기 때문이라고 생각합니다. 마찬가지로 「그리스도」라는 말과 「주」라는 말이 매우 중요시 되기 때문입니다. 「하나님의 아들」이라고 하는 말은 당시 로마 황제에게 쓰였던 것처럼 값싸게 사용되어서는 안 되는 것이고 그것은 예수님만의 신성한 칭호이기 때문입니다. 이 편지는 로마의 그리스도인들을 향해 쓰여진 서신서인데 이 서신서의 집필 연대는 아마도 64년 로마의 대화재 이후로 그리스도인에 대한 박해가 가장 심해진 시기, 즉 AD.64~70년경에 집필된 것으로 보입니다. 이때 황제는 네로였지만 당시 로마만큼 그리스도인에 대한 박해가 심했던 지역은 없었습니다. 로마의 수도를 재건하기 위해 로마의 대화재를 일으킨 장본인은 네로가 아니냐는 소문이 항간에 돌았고 여론이 네로에 대해 불만을 갖지 시작하자 그리스도인을 민중 불만의 희생양으로 삼고 로마 방화죄라는 누명을 씌워 차례차례 그리스도인들을 붙잡아 갔고 붙잡힌 그리스도인들은 맹수의 먹이가 되거나 십자가에 못 박히거나 횃불 대신 불태워 처형되었습니다. 그 이후 로마에서 약 200년 동안 그리스도인에 대한 박해가 계속됩니다. 그래서 베드로의 서신도 그렇지만 마가복음이 쓰여진 목적은 그리스도인의 대박해를 대비하여 쓰여졌다고 합니다. 이러한 배경 속에서 읽어 나가다 보면 마가복음 전체를 통해 떠오르는 두 가지 질문을 깨닫게 됩니다. 그 질문은 첫째, “도대체 당신은 누구입니까?” “정말 하나님이 계신다면 우리를 왜 이렇게 비참하고 끔찍한 박해 속에 방치하시는 건까요?”라는 질문입니다. 그리고 두 번째 질문, 그것은 “하나님은 정말 살아계신 건가요?” 라는 질문입니다. “당신은 정말로 하나님이시며, 지금도 살아 계시고 이 세상을 통치하고 계십니까?”라는 질문입니다. 이 두 질문이 마가복음의 포인트이며 이 두 질문을 진지하게 마주하고 성실하게 대답하기 위해 마가복음서는 쓰여진 것입니다. 그리고 바로 1장 1절에서 이 서신의 전체 제목이 기재되어 있는 것입니다. 다시 한번 1장 1절을 보시기 바랍니다.

하나님의 아들 예수 그리스도의 복음의 시작이라

이 말은 실로 엄청난 중압감과 힘이 넘치는 단어로 읽는 독자들에게 다가옵니다.

결론

현대에도 “도대체 당신은 누구입니까?” “하나님은 정말로 살아 계신가요?” 라는 질문을 가지고 어둠 속을 헤매고 있는 많은 영혼들이 있습니다. 예수 그리스도를 믿고 평안하길 바라지만 의심에 지배당하고 자신의 감정에 지배 당해서 불안과 질투 분노 미움등으로 부터 해방되지 못하는 많은 영혼들이 있습니다. 우리는 그런 사람들에게 마가처럼 그리고 세례자 요한처럼 「하나님의 아들 예수 그리스도의 복음」을 한 사람이라도 더 많은 영혼에 전하는 일을 감당하도록 합시다.

関連する説教を探す関連する説教を探す