2021年01月31日「神の霊的な家に造り上げられる」

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神の霊的な家に造り上げられる

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙一 2章4節~10節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:4この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
2:5あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
2:6聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
2:7従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、
2:8また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
2:9しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
2:10あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 2章4節~10節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 私たちは今、新約時代に生かされています。新約時代とは何かといいますと、「新しい契約」の時代ということです。聖書には、愛に満ちた神様が御自身の民に向かって「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」という契約を結んでくださったと書かれています。旧約と新約を通してこの契約は一貫して貫かれています。しかし、その一貫した契約を照らしている光は旧約と新約において、若干異なります。旧約においてはおぼろげでありますが、新約においてはより明瞭に表されました。この契約は、旧約の時代、モーセの時には契約の箱が安置されている幕屋に、神が臨在されることによって、神が民と共にそこに住まわれることを象徴的に表してくださいました。その後、ソロモンによって神殿が建築されると、今度は神殿に神が臨在されることによって、神がそこに住まわれることを象徴的に表してくださいました。それは、まるでイスラエルの民全体を御自身の御翼で覆うかのように、常に共にいてくださり、慈しみと守りを与えてくださいました。新しい契約は、イエス・キリストの十字架の死によって、その流された血潮に基づいて立てられましたが、イエス様が死なれた時、神殿の幕が上から下に真っ二つに裂けました。これは何かと言いますと、旧約時代が終わったことを意味しています。つまり、律法の時代が法的に廃止されたということです。いいえ、もっと正確に表現するなら、旧い契約は一つも廃止された訳ではありませんでしたが、あたかも、木の果実が熟し、表面の皮を引き破ったかのように、その中から新しいものが現れたということです。あたかも、お腹の中の胎児として過ごしてきた旧約時代から、出産を通して、自分自身の独立的な歩みへと現れたということです。律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れました。そのために新約の民は、もはや割礼を施す必要はなくなりましたが、悔い改めの割礼を聖霊によって心に施されました。また、新約の民は、もはや祭壇に動物の生贄を捧げることはしませんが、その代わりに自分自身を生きた生贄として神に捧げるようになりました。また、新約の民は、かつて、していたように、年に三度エルサレム神殿に巡礼することはありませんが、自分たちこそキリストの身体であり、神の神殿として建て上げられていくのです。したがって、まさに教会こそ神の家であり、神の住まわれる所となり、神がその御翼を広げて臨在される場所となったのです。

【1】. 神の家

 ペトロはこれまで、この書簡の中で「生ける望み」、ですとか「生ける神の言葉」という言葉を使って来ましたが、本日の箇所では、イエス様に対して「生きる石」という言葉を使っています。2:4~5節をご覧ください。

“この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。”

3節で、無機質である石に対して、「生きる」という有機的な表現によって修飾されていますが、不思議な感じを私たちに与えます。このような不思議な記事は旧約においても見受けられました。モーセが石を打った時に人々の渇きを癒す水がわき出たという奇跡です。そして「石」と言えば、ペトロ自身の名前も、石という意味でありました。それはペトロがイエス様に正しく信仰告白をした直後に、イエス様によって与えられたヘブル語の「ケパ」という名前でした。これはペトロが頑固で石頭だからあなたはペトロだと名付けたのではありません。マタイ16:16~18をご覧ください。

“シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ(へ:ケパ)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。”

このように「石」とはペトロ自身の新しい名前の意味であり、そして新約の教会は使徒たちの証言によって建て上げられて行きますが、今日のこのペトロの手紙では、ペトロ自身も含め、使徒たちも含め、全ての重荷を一手に引き受けておられる土台石となられたイエス様に対して「尊い、生きた石」であると言っています。そして、イエス様の土台の上に積み上げられるように「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造りあげられるように」と勧めているのです。ここにおいて旧約の神殿と、新約の、神の神殿としての新約の民が対比されていることに気づかされます。イエス様が生きておられた当時、ユダヤ人にとって神殿というのは神の家であり、ユダヤ人の最も大切なもの、ユダヤ人の誇り、アイデンティティーでありました。しかしイエス様は、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われ、弟子たちはびっくりして聞いていましたが、それは、イエス様が復活された後に、教会が建てられ、律法が廃棄されたということを悟ったのです。そもそも旧約と新約を貫いている契約の完成というのは、言ってみれば、神の家の建築工事の完成であると例えられるのではないでしょうか。今、南浦和教会においても新しい会堂建築工事が着々と進んでいますね。同じように神の家も、旧約から新約の現代にいたるまで、人類の歴史を通して、着々と建築工事が進められ、石が一つ一つ積み上げられているのです。神の家の設計者であり、建築家【大工さん】はもちろん神様ですが、その最終的な完成図は、キリストが再臨される時、天の都、新しいエルサレムとして完成されます。その様子は、ヨハネの黙示録21章、22章に描かれていますが、神の家が完成される時に、南浦和教会の竣工式とは異なる点として一つ指摘させていただくなら、それは、ちょっと献堂礼拝の日を想像してみてください。その日は、大場先生を始め兄弟姉妹がみんなでお祝いしますね。しかし、神の国の完成の日というのは、ある特定の人々がお祝いするどころではありません。万物が神の家の竣工をお祝いし、すべての口が「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、新天新地が現れるというのです。このような栄えある竣工に向けて、栄光ある天の都に、私たち一人ひとりも「生ける石」として建て上げられているのです。さらに言えば、聖徒たち一人ひとりは神の家の祭司として立ち振る舞うことが許されている、聖なる祭司は、神に生贄を捧げる働きを担っていますが、その生贄とは動物ではなく、イエス様を通して捧げる霊的な献げ物です。霊的な献げ物というのは、具体的には祈りであったり、賛美であったり、奉仕であったり、献金であったり、感謝から湧き出て来る諸々の良き業です。しかし、神様がこれらの献げ物を受け取ってくださらなければ意味がありませんね。私たちの最も良い業でさえ汚れている以上、私たちはこれらの献げ物を私たちの業として捧げるのではなく、キリストを通して捧げるのです。

【2】. 神の永遠の聖定

 続いて2:6~8節をご覧ください。ここには神様の永遠の聖定について述べられています。

“聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。”

イエス様を受け入れない人々は、今も昔もそうですが、キリスト者を軽蔑し、キリスト者を嘲り、それだけにとどまらずキリスト者に苦難を与えることさえあります。彼らが御言葉を受け入れられないのは、神によって強勢されて、御言葉を拒絶するように、神によって不従順にさせられるのではなく、自らの自由意志によって、進んで不従順な態度を選び取るのです。しかし、結局、ふたを開けるなら、彼らが捨てたはずの石が隅の親石となって、後ほど彼らが恥を見ることになるというのです。もっと言えば、彼らが自分で捨てた石が彼ら自身のつまずきの石となり、それに倒されてしまい、踏んだり蹴ったりという結末を迎えるという事です。一方で、キリストに依り頼む者たちには、栄誉があるだろうと書かれています。7節を見ますと、「この石は、掛けがえのないものですが」と訳されていて、イエス様が尊いという意味になりますが、信頼できる学者たちは異口同音に、この箇所は、「キリストに依り頼んでいるあなたがたが尊い、あなた方に誉れがあるだろう」という意味であると言っています。キリスト者はこの世において、歓迎されることはなく、軽蔑され、嘲られ、苦難や迫害を受けて、旅人のように耐え忍ぶことになりますが、なおイエス様に堅く立っていた者たちは、イエス様が再臨される時、神様から大いなる誉れを受けるのです。そして御言葉を信じない者たちは、神の永遠の聖定において定められていて、不思議に彼らの不従順の業が、神の家の完成に寄与し、神の家に完成に協力するという事になると言っているのです。彼らの捨てた石がちょうど絶妙に建物のコーナーストーンとなってその場所にピタッとあてはまっているということです。ここに神様の恐るべき知恵と、力と、偉大さが表されているのです。神の予定、つまり神の選びと遺棄は、神の究極的な目的ではなく、神様の究極の目的は、新しいエルサレムであり、それに伴う万物の回復と神の栄光であるということです。

【3】. 神の不思議な御業

続いて2:9~10節をご覧ください。

“しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。”

ペトロはここで「あなた方は何者なのか?」、4つの言葉を挙げながらアイデンティティーに関してはっきりさせています。「選ばれた民」「王の系統を引く祭司」「聖なる国民」「神のものとなった民」。これらはいずれも旧約時代のイスラエルを指して使われてきた言葉です。光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を伝えるためとありますが、この「業」という言葉は、珍しい単語が使われていまして、「徳」とか「不思議な力」と訳されたりいたします。神の慈しみ、神の恵みとは、人がかつて見たことも、聞いたことも、考え付いたこともないような本当に不思議なものなので、そのことを私たちは褒め称えざる得ないということです。そして最後の10節の言葉はホセア書からの引用ですが、ホセア書2:25をご覧ください。

“わたしは彼女を地に蒔き/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ/ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって/「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。”

預言者ホセアという人は北イスラエルで活躍した預言者で、ちょうどイスラエルの民が近い将来、自分たちの罪の報いとしてアッシリア捕囚という憂き目に合うであろう、そのような時期に神様の言葉を伝えていました。この引用は手紙の読者たちにとって他人事ではありませんでした。なぜなら自分たちこそ、まさにアッシリア捕囚やバビロン捕囚によって散らされた民であったからです。ホセアの時代、イスラエルの民は自分たちの神を裏切り、神との契約関係を自分たちから破棄し、バアルに礼拝を献げたり、異教の神々に着いて行ってしまいました。さらに、ホセアの妻である姦淫の女ゴメルは、夫に愛されていながらも不貞を働き、他人の子を身ごもってしまいました。主はホセアに命じて、生まれてきた二番目の子に対し、「ロ・ルハマ」と名付けさせました。その意味は「イスラエルの民を憐れまず/彼らを決して赦さない」という意味です。そして三番目に生まれて来た子に対しては、「ロ・アンミ」と名付けさせました。その意味は「あなたがたは私の民ではなく、私もまた、あなたがたのものではない」という意味です。ところが、やがて、ルハマ「憐れまれる者」、アンミ「私の民」と呼ばれるようになる、とホセア書2:25に書かれているのです。ヘブル語で「ロ」と言う言葉が否定語ですから、ちょうど否定語がとれた形です。不貞によって、罪の子として生まれてきた子が、ホセアから「憐れまれない者」「私の民ではない者」と呼ばれても全く不思議ではありません。ところがその子たちが、やがて「ロ」がとれて、ルハマと呼ばれるようになり、アンミと呼ばれるようになるのです。それと同じことが今、まさにペトロの手紙の読者たちにおいて起こっているのです。罪を犯し、神との契約を自ら破棄し、異教の神々を礼拝してしまった自分たちのことを、神は、なお放棄することなく、あきらめることなく、神様の憐れみと熱意と誠実によって、御自身のもとに呼び戻してくださり、再び「私の民」と宣言してくださったのです。これほど不思議な事があるでしょうか。この不思議な御業を、賛美して、褒めたたえつつ、福音として広く宣べ伝えなさいと語っているのです。

【結論】

 契約を破棄し、罪と汚れと腐敗によって、本来、神に決して赦されることもなく、これ以上、憐れまれることのない民であり、もはや神の民ではなかった者にも関わらず、不思議にも回復が与えられ、あなた方は「選ばれた民」「王の系統を引く祭司」「聖なる国民」「神のものとなった民」と宣言されたのです。それは、私たちがイエス・キリストに結合されたものとして、永遠において聖なる民として定められていたからであります。神の家を構成する生ける石として、キリストにあって定められていたからです。この不思議な神のご計画とその御業を、私たちは心から賛美し褒めたたえていきたいと思います。

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