2020年12月27日「離散し滞在している選ばれた人たちへ 흩어진 나그네 곧 택하심을 받은 자들에게」

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離散し滞在している選ばれた人たちへ 흩어진 나그네 곧 택하심을 받은 자들에게

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙一 1章1節~2節

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1イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。
2あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 1章1節~2節

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【序】

 本日からペトロの手紙1に入っていきます。最初ですので概論的お話しを少しさせていただきます。ペトロの手紙を、一貫しているキーワードとして三つの単語をあげることができます。それは、「苦しみ」と、「希望(望み)」と、「栄光」です。この「苦しみ、希望、栄光」とは、一体何かということですが、それは、そのまま私たち信者の信仰生活にピッタリあてはまるものではないでしょうか。つまりキリスト教というのは、決してご利益宗教ではないということです。確かにキリスト教とは、神様の恵みの中を歩ませていただくことですが、信じるならば、人生に幸運や、繁栄が訪れてくるというものではありません。これは「幸運」と「祝福」という英語を調べてみればわかります。英語で幸運は「グッドラック」ですね。祝福は「ブレシング」ですが、この語源を調べると「血によって清められる」と出てきます。信じるならラッキーになるのではなく、キリストの流された血潮に裏付けされた祝福が与えられるということでございます。神の祝福というのは、神のご計画が私たちの人生を通して成就されることでありまして、これは私たちの側から見るならば、それはまさにペトロの手紙のキーワードである「苦しみ、希望、栄光」の歩みなのです。言い換えれば、神様のご計画は苦難を通してでなければ、成就されないと言うこともできるでしょう。苦難を通して初めてはっきりと見えてくるものがあると思います。また、苦難を通して初めて本物と偽物の区別がつくこともあるのではないでしょうか。キリスト者の歩みも必ずキリストに従いながら、自分の十字架を負いつつ、聖別された歩みになるということです。その聖別の過程において、希望が与えられ、やがての日に栄光が約束されていることをはっきりと知るようになるのです。その栄光とは私たちの人生をすべて捧げても、身にあまる栄誉であるということは言うに及びません。これからペトロの手紙の講解を通して、御言葉による励ましと慰めをいただきたいと思います。

【1】. 執筆者はペトロである

 この手紙を読んでいくにあたって、何よりも重要なことは、この手紙の著者がペトロであるということです。それを認めることがスタートです。この点を外してしまうと、とんでもない方向に迷い出てしまいます。ギリシア語の聖書を見ると、手紙の冒頭には、ペトロスと書かれています。この手紙の著者がペトロであるということは、初代教会の教父たちによっても証言されていますが、それでも、一部の人はこの手紙のギリシア語が無学なペトロにしてはあまりにも流暢であるということから、著者がペトロであることを受け入れられません。このような考え方は、ガリラヤの漁師であるペトロがギリシア語を話せなかったに違いないという先入観に捕らわれているために出てくると思われます。というのは最近の研究では、当時、パレスチナにおいて使用された言語はアラム語ですけれども、多くのユダヤ人は、第二言語としてギリシア語を使用していたということがわかってきました。ですから比較的ギリシア文化に影響を受けやすい、北側に位置する、ガリラヤで育ったユダヤの少年が、ギリシア語を知らないというのは、あたかもウェールズで育った少年が、ウェールズ語しか話せず英語を話せないだろうというふうに主張するようなものだと注解書には書いてありました。イエス様とガリラヤ出身の弟子たちは、アラム語同様にギリシア語を話す「バイリンガル」であったことを、これまで認められてきた以上に、私たちは認めるべきであるということです。次に、この手紙が書かれた執筆年代ですが、AD.62~64年頃と推測されます。実はこの手紙が書かれてからしばらくしてAD.64年にローマ大火災が起きると、皇帝ネロは、その火災の原因を、キリスト者に転嫁しました。キリスト者は普段から皇帝崇拝を拒絶するなどして、疎ましい存在だったからです。このようにしてキリスト者に対する国家的で組織的な大迫害が公然と起こりました。ペトロもその迫害の中でAD.64~68年に殉教したと言われています。ですからこの手紙はキリスト者に対する社会的な険悪な雰囲気が色濃く漂う中で、もう間もなく始まろうとしているネロによる大迫害に備えさせるために書かれたということです。そのような中にあるキリスト者を励ますために書かれた手紙がペトの第一の手紙です。

【2】. ペトロの使命

 次に著者であるペトロについて背景を理解するために調べてみましょう。ペトロには神様から三つの使命が与えられていたことを振り返りたいと思います。第一に割礼を受けた人々に対する宣教であり、第二に散らされた人々を力づける働きであり、第三にイエス様の羊を飼う事であります。本来、小アジアへの伝道と言えば、第一次宣教旅行で訪問し、その後にガラテヤ書を執筆したりして、誰よりも積極果敢に取り組んでいたパウロを思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、パウロは第二次宣教旅行においてアジアへの宣教の道が塞がれてしまい、幻でマケドニア人の助けを求める声を聞いたために、ヨーロッパのマケドニアに渡っていくことになりました。パウロには異邦人伝道としての使命が与えられていて、ペトロには、割礼を受けた人々に対する伝道の使命が与えられていたということです。ガラテヤ書2:7~8をご覧ください。

それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。

割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。

ペトロに対する使命とは、ペトロ個人に対し神様がオリジナルにご計画してくださった使命であって、おそらくペトロでなければ担うことが出来ない、ペトロだからこそ全うすることができるような、そのような使命ではなかったのかと思います。ペトロは、本来シモンという名前でしたが、イエス様から「岩」という意味のケパ、ギリシア語で「ペトロ」という名をいただき、十二弟子の中でもリーダー的な存在でありました。しかし、イエス様が十字架に架かられる前夜、決定的な失敗を犯してしまいます。大祭司の屋敷の中庭で炭火に当たっている時、三度、イエス様を知らないと否認してしまいました。三度というのは完全数ですから、完全に「自分は救い主イエス様とは関わりがない」、「光であり、命の源である主とは関係がない」という死の宣告を自ら下してしまったようなものです。この告白はペトロの一生の汚点であり、ペトロが信仰に立つことを妨げる、恐ろしい心の傷であったことでしょう。それはまるで、パウロがステファノを迫害し殺害に追い込んだような汚点でもありました。しかし神様はそのようにふるいにかけられ、完全につまずいてしまったペトロを立ち直らせるとおっしゃってくださり、そうして、立ち直ったら同じように「兄弟たちを力づけてやりなさい」とおっしゃってくださったのです。ルカによる福音書22:31~32をご覧ください。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

この約束の通り、イエス様が十字架に架かり、復活されて、そして、ガリラヤの湖畔に現れてくださった時、ペテロを完全に立ち直らせてくださいました。イエス様は浜辺で炭火を焚きながら、弟子たちを朝食に招いてくださいました。その炭火はペトロがあの夜、温まっていた炭火を思い出させるような温かい炭火でした。静かな朝食の席で、イエス様は、ペトロに対して三回「あなたはわたしを愛しているか」と質問してくださいました。それはまるで、ペトロがイエス様を三度否認したことを贖うかのように、です。この時ペトロは、自分自身を呪いにかけていた過去の失敗から解放されるような体験をしたことでしょう。自分が犯した取返しのつかない罪に対して、キリストの血潮が注がれて、完全な赦しをいただき、自由になって、再び信仰に堅く立つことができるようになったのです。そして、先ほどの「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」という使命と併せて、「私の羊を飼いなさい」という新しい使命を受け取ったことでありましょう。ペトロは、信仰から完全につまずいた人であったために、その痛みを十分に知っているがために、立ち直ったら、主に従って、イエス様の羊に寄り添いながら、自分に与えられた使命を全うすることができるようになったのです。それではようやくですが、本文に目を向けてみましょう。1:1節をご覧ください。

【3】. 私たちはディアスポラ

 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。

この箇所は手紙の挨拶部分でありますが、手紙の受取人として、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」と書かれています。地図を確認してみましょう。小アジアと呼ばれている場所は現在のトルコでございます。黒海が上にあり、下に地中海があります。この手紙はペトロによってローマで執筆されて回覧板のように、読まれました。最初に上の方にあるポントスのアミソスという港に送られました。それから東ガラテヤのアマシヤとゼラを通過し、カパドキアのカイザリアとイコニウムを通過し、ピシディア州のアンティオキアを通過し、最終的には北上してカルケドンに渡ったと思われます。

1節で「離散している」という言葉は、ギリシア語を見ると「ディアスポラ」と書かれています。つまりこの手紙の受取人はエルサレムから追放されて小アジア全体に散らされたユダヤ人キリスト者と、そして、異邦人キリスト者の入り混じった総体であるということが分かります。ディアスポラはなぜ散らされたのかと言えば、その歴史はバビロン捕囚にまでさかのぼります。彼らユダヤ人は捕囚によって散らされてしまいましたが、その散らされた場所において自分たちの宗教と民族的な特質を失うことがありませんでした。そしてイスラエルの三大祭りの際には巡礼者として聖地エルサレムにやってくるわけです。詩編の中の「都上りの歌(120~134編)」は、散らされたディアスポラがエルサレムに「巡礼」する際に歌われたものと言われています。巡礼と言います時に、これは旅行とは異なりますね。皆様の中でGo toトラベルを利用された方もおられるかもしれませんが、旅行と言えば、自分が行きたい所を温泉ですとか、好き勝手に訪問するわけですが、巡礼とは、そこに神の召しがあります。これが大きな違いです。従いまして、旅行には最終的、究極的目的地はありませんが、巡礼とは、私を召した方がおられ、最終目的地へと私を導くものであります。つまりペトロは、信仰者の歩みとは、天のエルサレムという最終目的に向かった歩み、これこそ信仰生活の巡礼であると言っているのです。続いて1:2節をご覧ください。

あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

ペトロによるなら、天のエルサレムに向かった巡礼の歩みとは、三位一体の神様の驚くべき働きが、その人と共にあると言っています。つまり、御父なる神によってあらかじめ永遠においてご計画された歩みであって、御子イエス・キリストに従い行く歩みであり、そして聖霊によって聖別されていく歩みであるというのです。これはペトロ自身の実体験を通しての証言であると言えるでしょう。決してつまずいたとしても、聖霊の聖めと、赦しと、導きの中で最終的に御子イエス・キリストに従い行く歩みになるということです。ペトロに対して使命を与えられたように、同じように永遠の中で選ばれた私たちキリスト者お一人お一人に対しても、神様は使命を持っておられます。私たちはその使命を受けて、イエス様に従いゆかなければなりません。しかし、イエス様に従おうとする私たちに対し、世は、常に誘惑してくるのです。「世のやり方に従いなさい。」「苦難、苦しみを避ける方法がありますから、迫害から免れる方法がありますから、世が提供するその富と、繁栄と、快楽に従って歩みなさい」と迫ってくるのです。そのような時、「キリスト者はディアスポラであるというペトロの言葉に耳を傾けなければなりません。私たちはこの世において何か、仮住まいを強いられているディアスポラのうように、不便さを感じるのです。私たちは自分たちが置かれている地域コミュニティに根差し、きちんと法を守り、責任を果たして、生活していきますけれども、しかし、どうもあたかも外国に住んでいるような緊張感がつきまとい、社会からの疎外感の中で生きていくことになるのです。しかし、ディアスポラとして生きるそのような苦難の中にあって、信仰が練り清められ、それが、はっきりとした希望に変えられるのです。その希望によって、やがての日に栄光を受けることになることが確かに約束されていることを、はっきりと知るようになるのです。カルヴァンは次のように言いました。「人は信仰によって神の恵みを受け入れ、また、希望によってそれを所持する」今、私たちが直面している苦難とは、私たちの信仰がはっきりとした希望に変えられる過程であり、いよいよ確信をもって天にある栄光を悟るための通過点であることを覚えていきましょう。ですからペトロの手紙のキーワードであります、「苦しみ、希望、栄光」を私たちは決して忘れることなく、しっかりと握りしめながら、ディアスポラの歩みを感謝しつつ歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

흩어진 나그네 곧 택하심을 받은 자들에게

2020년12월 27일 주일설교 카와에 토모아키 목사

베드로전서 1장 1~2절

서론

오늘부터 배드로전서 1장에 들어갑니다. 첫 번째이니만큼 개괄적인 이야기를 조금 하겠습니다. 베드로전서의 일관된 키워드로 세 가지 단어를 꼽을 수 있습니다. 그것은「고난」과 「소망」과 「영광」입니다. 이「고난, 소망, 영광」은 도대체 무엇일까 하는 것인데, 그것은 바로 우리 믿는 자들의 믿음생활에 그대로 적용될 수 있지 않을까 생각합니다. 즉 기독교라는 것은 결코 기복종교가 아니라는 것입니다. 물론 기독교는 하나님의 은혜 가운데 걸어가는 것이지만, 믿으면 인생에 행운이나 번영이 찾아오는 것이 아닙니다. 이것은 「행운」과「축복」이라는 영어를 찾아보면 알 수 있습니다. 영어로 행운은 「Good Luck」입니다. 축복은 「blessing」인데, 이 어원을 찾아보면 「피에 의해 정결케 된다」는 뜻이 나옵니다. 믿으면 운이 좋아지는 것이 아니라, 그리스도의 흘리신 보혈로 보증된 축복이 주어진다는 뜻입니다. 하나님께서 주시는 복이란 하나님의 계획이 우리의 삶을 통해 성취되는 것이고, 이것은 우리 편에서 보면 바로 베드로전서의 키워드인 「고난, 소망, 영광」의 행보인 것입니다. 다시 말해, 하나님의 계획은 고난을 통해서가 아니라면, 성취되지 않는다고 말할 수 있습니다. 고난을 통해서만 분명하게 보이는 것이 있다고 생각합니다. 또한 고난을 통해서만 진짜와 가짜를 구별할 수 있는 것도 있지 않을까요. 그리스도인의 걸음도 반드시 그리스도를 따르면서, 자기 십자가를 지고, 성별된 걸음이 된다는 것입니다. 그 성별의 과정에서, 소망이 주어지고, 마지막 날에 영광이 약속되어 있음을 분명히 알게 되는 것입니다. 그 영광은 우리의 삶을 다 바쳐도, 감당할 수 없는 영광임은 두말할 나위가 없습니다. 이제부터 시작되는 베드로전서 강해를 통해 말씀으로 격려와 위로를 받기를 원합니다.

(1) 저자는 베드로

이 서신서를 읽어나가는 데 있어서, 무엇보다 중요한 것은 이 서신서의 저자가 베드로라는 사실입니다. 그것을 인정하는 것이 시작입니다. 이 점을 놓치면 엉뚱한 방향으로 길을 잃게 됩니다. 헬라어 성경을 보면 서신서 첫머리에「베드로」라고 적혀 있습니다. 이 서신서의 저자가 베드로라는 것은 초대교회 교부들도 증언하고 있지만, 그럼에도 불구하고 일부 사람들은 이 서신서의 헬라어가 무학인 베드로로서는 너무 유창하다는 이유로 저자자 베드로라는 것을 받아들이지 못합니다. 이런 생각은 갈릴리 어부인 베드로가 헬라어를 할 수 없었을 것이라는 선입견에 사로잡혀 있기 때문에 나오는 것으로 보입니다. 왜냐하면 최근의 연구에 따르면 당시, 팔레스타인에서 사용되었던 언어는 아람어이지만, 많은 유대인들은 제2외국어로 헬라어를 사용했다는 사실이 밝혀졌기 때문입니다. 따라서 비교적 헬라 문화의 영향을 받기 쉬운, 북쪽 갈릴리에서 자란 유대인 소년이, 헬라어를 모른다는 것은 마치 웨일즈에서 자란 소년이, 웨일즈어만 할 줄 알고 영어는 할 수 없을 것이라고 주장하는 것과 같다고 주석서에는 적혀 있습니다. 예수님과 갈릴리 출신 제자들은, 아람어뿐만 아니라 헬라어를 구사하는 「바이링구얼」이었음을, 우리는 지금까지 인정해왔던 것 이상으로, 더 많이 인정해야 한다는 것입니다. 다음으로, 이 서신서가 집필되어진 연대는 AD.62~64년경으로 추정됩니다. 사실 이 편지가 쓰여진 후 얼마 후인 AD 64년에 로마 대화재가 일어나자, 네로 황제는 그 화재의 원인을, 기독교인들에게 돌렸습니다. 평소 기독교인들은 황제 숭배를 거부하는 등, 역겨운 존재였기 때문입니다. 이렇게 해서 기독교인에 대한 국가적이고 조직적인 대박해가 공공연하게 일어났습니다. 베드로도 그 박해 속에서 AD 64~68년에 순교한 것으로 알려져 있습니다. 따라서 이 서신서는 기독교인에 대한 사회적 분위기가 좋지 않은 가운데, 곧 시작될 네로의 대박해에 대비하기 위해 쓰여졌다고 볼 수 있습니다. 그런 가운데 있는 그리스도인들을 격려하기 위해 쓰여진 서신서가 바로 베드로의 첫 번째 편지입니다.

(2) 베드로의 사명

다음으로 저자인 베드로에 대한 배경을 이해하기 위해 살펴보겠습니다. 베드로에게는 하나님으로부터 세 가지 사명이 부여되었음을 되짚어보고자 합니다. 첫째는 할례를 받은 사람들에 대한 선교, 둘째는 흩어진 사람들에게 힘을 주는 사역, 셋째는 예수님의 양 무리를 돌보는 일입니다. 본래 소아시아 선교라고 하면, 제1차 선교여행으로 방문하고, 이후 갈라디아서를 집필하는 등 누구보다 적극적이고 과감하게 사역했던 바울을 떠올리게 될 것입니다. 그러나, 바울은 제2차 선교여행에서 아시아로 가는 선교의 길이 막혀버리고, 환상가운데 마케도니아 사람들의 도움을 요청하는 소리를 듣고, 유럽의 마케도니아로 건너가게 됩니다. 바울에게는 이방인 전도의 사명이 주어졌고, 베드로에게는, 할례를 받은 사람들에 대한 전도의 사명이 주어졌다는 것입니다. 갈아디아서 2:7~8을 보시기 바랍니다.

갈라디아서 2장

7 도리어 그들은 내가 무할례자에게 복음 전함을 맡은 것이 베드로가 할례자에게 맡음과 같은 것을 보았고

8 베드로에게 역사하사 그를 할례자의 사도로 삼으신 이가 또한 내게 역사하사 나를 이방인의 사도로 삼으셨느니라

베드로에 대한 사명은, 하나님께서 베드로 개인에게 원래 계획하신 사명이었고, 아마도 베드로가 아니면 감당할 수 없는, 베드로이기에 감당할 수 있는 그런 사명이 아니었을까 생각됩니다. 베드로는 원래, 시몬이라는 이름이었지만, 예수님으로부터「반석」이라는 뜻의 게바, 헬라어로「베드로」라는 이름을 받아, 열두 제자 중에서도 리더격인 존재였습니다. 그러나 예수님이 십자가에 달리시기 전날 밤, 결정적인 실수를 저지르고 맙니다. 대제사장 저택 마당에서 숯불을 피우고 있을 때, 세 번이나, 예수님을 모른다고 부인하고 말았습니다. 세 번은 완전수이기 때문에, 완전히 「나는 구세주 예수님과 관계가 없다」,「빛이요 생명이신 주님과 관계가 없다」라고 스스로 죽음의 선고를 내린 것이나 다름없습니다. 이 고백은 베드로의 일생에 오점으로 남았고, 베드로가 믿음으로 서지 못하게 하는, 무서운 마음의 상처였을 것입니다. 그것은 마치, 바울이 스데반을 핍박하고 죽게 만든 것과 같은 오점이었습니다. 그러나 하나님께서는 그렇게 밀 까부르듯 체에 걸러져, 완전히 넘어진 베드로를 다시 일으켜 세우시겠다고 말씀하셨고, 그렇게 다시 일어서면 똑같이「네 형제를 굳게 하라」라고 말씀하셨습니다. 누가복음 22:31~32를 참고하시기 바랍니다.

누가복음 22장

31 시몬아, 시몬아, 보라 사탄이 너희를 밀 까부르듯 하려고 요구하였으나

32 그러나 내가 너를 위하여 네 믿음이 떨어지지 않기를 기도하였노니 너는 돌이킨 후에 네 형제를 굳게 하라

이 약속대로, 예수님께서 십자가에 달리시고, 부활하신 후, 갈릴리 호숫가에 나타나셨을 때, 예수님은 베드로를 완전히 회복시켜 주셨습니다. 예수님은 바닷가에서 숯불을 피우시고, 제자들을 아침 식사에 초대하셨습니다. 그 숯불은 베드로에게, 그날 밤의 따듯했던 숯불을 떠올리게 하는 따뜻한 숯불이었습니다. 조용한 아침 식사 자리에서, 예수님은 베드로에게「네가 나를 사랑하느냐」고 세 번이나 물으셨습니다. 마치 베드로가 예수님을 세 번이나 부인한 것에 대한 속죄라도 하듯 말입니다. 이때 베드로는, 스스로를 저주하던 과거의 실패에서 해방되는 경험을 했을 것입니다. 자신이 저지른 돌이킬 수 없는 죄에 대해, 그리스도의 보혈이 부어짐으로, 완전한 용서를 받고, 자유를 얻어, 다시 믿음에 굳건히 설 수 있게 된 것입니다. 그리고 앞서 말한 「네 형제를 굳게 하라」는 사명과 함께 「내 양을 먹이라」라는 새로운 사명을 받은 것입니다. 베드로는, 믿음에서 완전히 넘어진 사람이었기에, 그 아픔을 충분히 알고 있었기에, 다시 일어서서, 주님을 따라 예수님의 양 무리와 함께하며, 자신에게 주어진 사명을 감당할 수 있게 된 것입니다. 이제 드디어 본문으로 돌아가서 1:1절을 보겠습니다.

(3) 우리는 흩어진 나그네

예수 그리스도의 사도 베드로는 본도, 갈라디아, 갑바도기아, 아시아와 비두니아에 흩어진 나그네

이 구절은 서신서의 인사말 부분인데, 서신서의 수신자로「본도, 갈라디아, 갑바도기아, 아시아와 비두니아에 흩어진 나그네」라고 적혀 있습니다. 지도를 확인해 보겠습니다. 소아시아라고 불리는 곳은 지금의 튀르키예입니다. 위로는 흑해가 있고, 아래로는 지중해가 있습니다. 이 서신서는 베드로가 로마에서 써서 회람판처럼 읽혀졌습니다. 먼저 위쪽에 있는 폰토스의 아미소스라고 하는 항구로 보내졌습니다. 그리고 동 갈라디아의 아마시아와 제라를 거쳐, 갑바도기아의 카이사리아와 이코니움을 지나, 피시디아 지방의 안디옥을 거쳐, 최종적으로 북상하여 칼케돈으로 건너갔을 것으로 추정됩니다.

1절에서 「흩어진」이라는 말은, 헬라어로 보면 「디아스포라」라고 쓰여 있습니다. 즉 이 서신서의 수신자는 예루살렘에서 추방되어 소아시아 전역에 흩어진 유대인 그리스도인들과 그리고 이방인 그리스도인들이 뒤섞여 있는 총체임을 알 수 있습니다. 디아스포라가 왜 흩어지게 되었는가 하면, 그 역사는 바벨론 포로기까지 거슬러 올라갑니다. 유대인들은 포로가 되어 흩어졌지만, 흩어진 곳에서 자신들의 종교와 민족성을 잃지 않았습니다. 그리고 이스라엘의 3대 절기에는 순례자로서 성지 예루살렘에 순례자로 오는 것입니다. 시편에 나오는 「도성의 노래(120~134편)」는, 흩어진 디아스포라들이 예루살렘으로 「순례」를 갈 때 부른 노래라고 합니다. 순례라고 할 때, 이것은 보통의 여행과는 다릅니다. 여러분 중에 Go to 여행(일본의 여행사이트)를 이용하신 분들도 계실텐데, 여행이라고 하면, 온천이라든지 자신이 가고 싶은 곳을, 마음대로 방문하는 것이지만, 순례는, 그곳에 하나님의 부르심이 있습니다. 이것이 큰 차이점입니다. 따라서, 여행에는 최종적이고 궁극적인 목적지가 없지만, 순례는 나를 부르신 분이 계시고, 최종 목적지로 나를 인도하는 것이 순례입니다. 즉, 베드로는, 신앙인의 걸음이란, 하늘의 예루살렘이라는 최종 목적지를 향해 나아가는 걸음, 이것이 바로 신앙생활의 순례라고 말하고 있는 것입니다. 이어서 1:2를 보시겠습니다.

곧 하나님 아버지의 미리 아심을 따라 성령이 거룩하게 하심으로 순종함과 예수 그리스도의 피 뿌림을 얻기 위하여 택하심을 받은 자들에게 편지하노니 은혜와 평강이 너희에게 더욱 많을지어다

베드로에 따르면, 하늘의 예루살렘을 향한 순례의 길은, 삼위일체 하나님의 놀라운 역사가, 그 사람과 함께 하는 것이라고 말합니다. 즉, 성부 하나님께서 영원 전부터 계획하신 걸음이며, 성자 예수 그리스도를 따라가는 걸음이며, 성령에 의해 성별되어 가는 걸음이라는 것입니다. 이것은 베드로 자신의 실제 경험을 통한 간증이라고 할 수 있을 것입니다. 넘어질지라도, 성령의 성결과 용서와 인도하심 속에서 결국에는, 반드시 아들 예수 그리스도를 따르는 걸음이 된다는 것입니다. 베드로에게 사명을 주신 것처럼, 마찬가지로 영원 가운데 택하신 우리 그리스도인 한 사람 한 사람에게도 하나님은 사명을 주셨습니다. 우리는 그 사명을 받아 예수님을 따라가야 합니다. 그러나 예수님을 따르려는 우리에게 세상은 끊임없이 유혹을 합니다. “세상의 방식을 따르라”, “고난과 고통을 피할 수 있는 방법이 있으니, 핍박을 피할 수 있는 방법이 있으니, 세상이 제공하는 부와 번영과 쾌락을 따라가라”고 강요하는 것입니다. 이럴 때「우리는 흩어진 나그네」라는 베드로의 말에 귀를 기울여야 합니다. 우리는 이 세상에서, 임시 거처에 머물고 있는, 디아스포라처럼 무언가 불편함을 느낍니다. 우리는 자신이 처한 지역 공동체에 뿌리를 내리고, 법을 잘 지키고, 책임을 다하며 살아가지만, 그러나 왠지 모르게 마치 외국에 사는 것 같은 긴장감이 따라다니고, 사회로부터의 소외감 속에서 살아가게 되는 것입니다. 그러나 흩어진 나그네로 살아가는 그런 고난 속에서 믿음이 다듬어지고, 그것이 분명한 소망으로 바뀌게 됩니다. 그 소망으로 말미암아, 장차 영광을 얻게 될 것이 확실히 약속되어 있음을, 분명히 알게 되는 것입니다. 칼빈은 다음과 같이 말했습니다. 「사람은 믿음으로 말미암아 하나님의 은혜를 받아들이고, 소망으로 말미암아 그것을 소유한다」지금, 우리가 당하는 고난은 우리의 믿음이 분명한 소망으로 바귀는 과정이며, 마침내 하늘에 있는 영광을, 확신으로 깨닫기 위한 통과점임을 기억합시다. 그러므로 베드로전서의 키워드인, 「고난, 소망, 영광」을 결코 잊지 말고, 굳게 붙잡고 디아스포라의 발걸음을 감사하며 걸어가도록 합시다.

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