2020年12月06日「ダビデの罪の告白 다윗의 죄의 고백」

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ダビデの罪の告白 다윗의 죄의 고백

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記下 12章1節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
2豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
3貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
4ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
5ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。
6小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
7ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、
8あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。
9なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
10それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』
11主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。
12主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。
13ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。
14しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」
15ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。
16ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。
17王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。
18七日目にその子は死んだ。家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか。」
19ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」
20ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。
21家臣は尋ねた。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます。」
22彼は言った。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。
23だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」
24ダビデは妻バト・シェバを慰め、彼女のところに行って床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛され、
25預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記下 12章1節~25節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

聖書には神は光であると書かれています。神様のうちには、暗闇は一切なく、神様は誰も近づくことのできない光の中に住まわれ、すべての光の根源であられます。人間は光である神様によって、聖い存在として創造され、そして神のかたちに創造されました。純粋で、無垢で、喜びの中で、永遠に生きる者として創造されました。しかし、人間は罪によって汚染されてしまったために、光の前に出ていくことをためらうようになり、むしろ光からかけ離れ、闇の中に隠れて、暗闇を好むような性質を持つようになってしまいました。神の光に照らされる時に、ありのままの自分の堕落した姿を見なければならず、自分の罪と向き合わなければならないからです。ダビデが「神の光」という名を持つウリヤを殺してしまったのは、まさにそのことを象徴する出来事でありました。しかし神様は、ご自身の契約を覚えて下さり、罪人に対して御子を遣わし、イエス・キリストを通して再び神の光を示してくださいました。私たちはこの低くなられたキリストを通して、もう一度大胆に光の前に出て、光を愛し、光の中を歩むことができるようにしてくださったのです。イエス・キリストを信仰によって受け入れる時に、悔い改めて神様に立ち返ることができるのであります。本日の12:1には、神様がダビデのもとにナタンを遣わされたと書かれていますが、これは、ダビデに悔い改めさせる目的です。ここにおいて、悔い改めの主導権が人間の側にあるのではなく、神の側にあるということが分かります。カルヴァンは悔い改めについて次のように言っています。悔い改めとは「人間的、律法的な悔い改め」と「福音的な悔い改め」の二種類があって、「人間的・律法的悔い改め」とは、自分の罪の重さを知って恐れるけれど、神さまを報復者、罪の審判者としか認識することができない悔い改めのことであり、一方「福音的な悔い改め」とは、神の慈しみに信頼し、神を審判者というより、むしろ父として認識し、父なる神に望みを持つようにさせられる悔い改めです。つまり、悔い改めとは、神からの賜物であるということです。1~3節をご覧ください。

【1】. ダビデの不安と恐れ

“主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。”

私が信仰を持つ前のことですが、大学生の頃、一人暮らしをしていて、よく友達とお酒を飲んだり、自分の基準からは悪いとわかっているようなことをしていました。ですから、当時、悪い夢をよく見たり、あるいはパトカーのサイレンを聞くと、なぜかソワソワして落ち着きのない自分がそこにいたことを覚えています。25歳になって洗礼に導かれましたが、その時は、本当に罪の赦しに感謝し、心から安堵しました。その時、感じたことは、罪というのがまさに人間社会における法的なものではなく、もっと道徳的なものであり、究極的には神との関係であるということを実感しました。ウリヤを殺害し、すべてを隠蔽することに成功したダビデは、おそらく心の底では恐れと不安に苛まれていたのではないかと思われます。そのような時に、突然ナタンがダビデのもとに訪ねてきました。ダビデとナタンほどの関係ですから、驚きはしたものの、すぐに中に通されたことでしょう。

ダ「あれ!突然連絡もなしに、一体全体どうしたんだ!」

ナ「はい、通りすがりにちょっとお寄りさせていただきました。ついでにお耳に入れたい話がありましたものですから…」

ダ「おー、そうか、そうか、話してくれ」

ナ「ある町に二人の男がいまして、一人は豊かな者で、一人は貧しい者でした。」

といった感じだと思います。ここでナタンの譬え話の中で、「豊かな男」とは誰を指しているでしょうか。そうです。ダビデですね。「貧しい男」とは誰を指しているでしょうか。ウリヤですね。それでは、「一匹の雌の子羊」とは誰を指しているでしょうか。バト・シェバです。シリヤやアラブ地方においては、子羊をペットとして天幕の中で飼うこともあったようです。ところが、ある日、問題が起こりました。豊かな男に一人の客が来ると、彼は旅人をもてなすために、自分の有り余るほどの羊や牛を惜しんで、貧しい男がようやく買うことのできた一匹の小羊を取り上げて、それを自分の客に振る舞ったというのです。ここには権力者の持つ残忍さと、豊かな男の性格の意地汚さが表れています。これを聞いたダビデは5節で激怒しながら“主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」”と言いました。律法によれば、家畜を盗んでも死罪には当たりません。ただ、四倍の償いをすればいいとされています。新約聖書にでてくる徴税人ザアカイも自分がピンハネした分の四倍を償っただけでした。ダビデはとても感情的になっていました。ここで、重要なポイントはダビデ自身、まだ、この「豊かな男」とは、自分であるということに気づいていないことです。罪とはこのように、自分の罪に正面から向き合うことをさせないで、光の前に出ることを恐れ、そして自分が一体誰なのかさえ分からなくさせます。大声で叫ぶダビデに対して「その男はあなただ!」というナタンの厳しい言葉がダビデに突き刺さりました。7~10節をご覧ください。

【2】. 罪の結果

“ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』”

9節を見ると、「なぜ主の言葉を侮り」とあります。そして、10節にも、「あなたがわたしを侮り」とあります。ダビデの罪というのが、何よりも御言葉を侮り、主を侮ったということです。ところで、サウル王国の没落というのが一体どこから始まったのか思い出してみましょう。サムエル上15:24~26をご覧ください。

“サウルはサムエルに言った。「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました。どうぞ今、わたしの罪を赦し、わたしと一緒に帰ってください。わたしは、主を礼拝します。」サムエルはサウルに言った。「あなたと一緒に帰ることはできない。あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ。」”

サムエルの言葉からわかる通り、イスラエルの初代の王サウルが、没落した最も重要な要因とは、御言葉を侮ったこと、御言葉を無視し、つまり神様を無視したことです。サウル王が、預言者サムエルから叱責された同じ内容を、本日の箇所で、ダビデは預言者ナタンから同じように叱責されているということが分かります。ダビデもサウルと同じように捨てられてしまうのでしょうか。引き続きダビデの罪の結果が宣告されます。サムエル記12:11~13節をご覧ください。

“主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。”

これはどういうことかというと、皆さんはプロの囲碁や将棋の対局を見たことがありますでしょうか。対局の終了後に、対局者同士が一手一手の戦いを再現しながら振り返りますね。これとまったく同じように、神様はダビデが犯した罪を一つ一つ丁寧に再現してダビデに見せようとしているのです。これは大変恐ろしいことですね。11章で思い出していただきたいのですが、ダビデが情欲の罪を孕んだその現場がどこだったでしょうか。「屋上」ですね。まさに屋上において、ダビデ自身が、過去にした罪として思い当たるような事件が起こります。サムエル下16:22節をご覧ください。

“アブサロムのために屋上に天幕が張られ、全イスラエルの注目の中で、アブサロムは父の側女たちのところに入った。”

アブサロムはダビデの側女たちの中に入りました。屋上に天幕が張られ、太陽の下で、ナタンの預言通り全イスラエルの注目の中で、このような事件が起こりました。これはまさにダビデが犯した罪が再現されているのです。これは、当時の政治的パフォーマンスでありまして、新しい王が、以前の王のハーレムを奪い取ることによって、新しい王が古い王を完全に制圧したということを大々的に見せしめている行為です。王が代わって、新しい時代が来たこという象徴的に表すパフォーマンスでした。ところで、これを提案したのが誰かと言いますと、16:20~21に書かれています。ご覧ください。

“アブサロムはアヒトフェルに、「どのようにすべきか、お前たちで策を練ってくれ」と命じた。アヒトフェルはアブサロムに言った。「お父上の側女たちのところにお入りになるのがよいでしょう。お父上は王宮を守らせるため側女たちを残しておられます。あなたがあえてお父上の憎悪の的となられたと全イスラエルが聞けば、あなたについている者はすべて、奮い立つでしょう。」”

アヒトフェルがこの策を提案した人物でした。アヒトフェルという人物は、本来、ダビデの大変優れた戦略家でしたが、実はバト・シェバの祖父に当たります。ウリヤ―バト・シェバ事件を通して、アヒトフェルはダビデ王に恨みを持ち、いつの日か復讐してやると考えるようになったのです。このアヒトフェルの提案によって、このように徹底的な復讐が再現されることになったのです。

【3】. 罪の赦しと、神の懲らしめ

しかし、ダビデは13節において「わたしは主に罪を犯した。」と自分の罪を告白しています。ナタンも「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」と宣言してくださいました。ダビデは罪を赦されたにも関わらず、なぜこのような災いがダビデに訪れることになったのでしょうか。生まれてくる子は必ず死ぬと宣告されました。これは、どのように考えたらいいのでしょうか。罪を告白し、神によって赦されて、神様との関係が回復されたにも関わらず、罪の結果は収めることになるということです。赦されたにも拘わらす、罪の結果を刈り取ることになるという記事は、聖書の他の箇所にも出てきます。例えばアダムとエバがそうですし(創3:16-17)、ミリアムがそうですし(民12:14)、モーセとアロンも(民20:12、27:13–14、申命34:4)、コリント教会の信者たちもそうでした(1コリ11:29-30)。聖徒たちがたとえ契約の恵みの中に入れられていると言っても、この世においては、引き続き苦難という支配を受けており、聖徒たちは過去に犯した罪の結果を、甘んじなければならないのです。しかしそれらの苦難とは、決して罪の刑罰ではなく、父なる神の懲らしめであって、愛の鞭であるということです。つまり、キリストの中で罪の刈り取りである苦難を甘んじるということです。ここにこそ私たちの慰めがあります。この点について、私たちははっきりと信じなければなりません。ですから、私たちは、苦難の人生の中で常にイエス様にピッタリと寄り添っていなければなりません。

一つたとえ話をしますが、七面鳥と言えば、何を思い浮かべるでしょうか。アメリカで収穫感謝祭という日が、ありまして11月の第4木曜日にお祝いしますが、その時に七面鳥を食べるそうです。私は食べたことがないのですが、大型の鶏だと考えてください。七面鳥には、とてもヒナ鳥をよく面倒を見る特性がありますから、母性本能が他の鳥より発達していると思われていました。しかし、それが間違いであることが分かりました。Foxという動物学者の研究によると、他の鳥より母性本能が発達しているのではなく、七面鳥がピーピー鳴くときにだけ、ヒナ鳥の面倒をみるということが分かったのです。もしヒナ鳥がピーピー泣かなければ、たとえ自分の生んだヒナ鳥が死んで行こうが面倒を見ないのです。そこで一つの実験をしてみました。七面鳥の天敵であるイタチの剥製の中に、ヒナ鳥の声を吹き込んだスピーカーを埋め込みまして、このイタチのはく製を七面鳥に近づけた時に、どうなるかという実験です。イタチは天敵ですから最初は当然、攻撃してきました。ところがピーピーという音を鳴らすと、なんと、七面鳥はイタチのはく製を自分の懐に抱きよせて面倒を見ようとするのです。つまり七面鳥は、ヒナ鳥のピーピーという音に反応して、ヒナの面倒を見ているのです。

神様は、本来、私たちを神のかたちに創造してくださいましたが、この七面鳥の例とまったく同じように、神様は私たちにご自身のかたちを回復するように面倒を見てくださいました。しかしそれは苦難を通して、神のかたちを回復させるという仕方です。私たちが苦難にある時、ヒナ鳥のようにピーピーと鳴く時、神様は常に私たちに近づかれ、私たちに触れてくださり、私たちを憐れんでくださるのです。私たちは苦難という過程を通して、初めて神の形を回復し、本質に近づき、私たちを創造された神様の御前に近づいていくことが出来るのです。ダビデは、ナタンの預言によって、光があてられ、罪が暴露され、すべて裸にされてしまいました。サムエル記12章以降は、ダビデが徹底的に自分の犯した罪を刈り取る姿が描写されています。自分の息子たちが次々に死んで行く中で、自分の犯した罪を見せつけられ、自身の罪深さを悟らされ、本当に恐ろしく、困難な歩みの中に置かれることになります。しかし、そのような苦難は、まさにキリストの中で甘受することによって、キリストの苦難に共にあずからせていただくということでもあったのです。

【結論】

私たちが神の国に入るためには、多くの苦しみを経なければなりません。しかし私たちがどんなに苦しい時にもキリストの内にとどまらなければなりません。なぜなら、苦難を通して神の形を回復し、苦難を通して本質に近づき、私たちを創造された神様の御前に近づいていくことが出来るからです。まさに最後まで耐え忍ぶ者は、救われるという御言葉の通りなのです。

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다윗의 죄의 고백

2020년 12월6일 센겐다이교회 주일설교

사무엘하 12장 1~25절

서론

성경에는 「하나님은 빛이시라(요한일서 1장 5절)」라고 쓰여 있습니다. 하나님 안에는, 어둠이 일절 없고, 하나님은 아무도 가까이 가지 못하는 빛 속에 사시고, 모든 빛의 근원입니다. 인간은 빛이신 하나님에 의해, 거룩한 존재로 창조되었고, 그리고 하나님의 형상을 닮게 창조되었습니다. 순수하고, 무구하고, 기쁨 속에서, 영원히 사는 사람으로 창조되었습니다. 그러나 인간은 죄로 인해 오염되어 버렸기 때문에, 빛 앞에 나가는 것을 주저하게 되었고, 오히려 빛에서 벗어나, 어둠 속에 숨어, 어둠을 선호하는 성질을 갖게 되어 버렸습니다. 하나님의 빛에 비춰질 때, 있는 그대로의 자신의 타락한 모습을 봐야 하고, 자신의 죄와 마주해야 하기 때무입니다. 다윗이 「하나님의 빛」이라는 이름을 가진 우리아을 죽여버린 것은, 바로 그 일을 상징하는 일이었습니다. 그러나 하나님께서는 자신의 언약을 기억해 주시고, 죄인에게 아들을 보내셨고, 예수 그리스도를 통해 다시 한 번 하나님의 빛을 보여주셨습니다. 우리가 이 낮아진 그리스도를 통해, 다시 한번 담대하게 빛 앞에 나와, 빛을 사랑하고, 빛 속을 걸을 수 있게 해주신 것입니다. 예수 그리스도를 믿음으로 받아들일 때, 회개하고 하나님께 돌아설 수 있는 것입니다. 오늘 12장 1절에는, 하나님께서 다윗에게 나단을 보내셨다고 적혀 있는데, 이는, 다윗을 회개시키려는 목적이셨습니다. 칼빈은, “회개에는 두 종류가 있는데, 「인간적・율법적 회개」와 「복음적인 회개」의 두 종류가 있어, 「인간적・율법적 회개」란, 자신의 죄의 무게를 알고 두려워하지만, 하나님을 보복자, 죄의 심판자로만 인식할 수 있는 회개를 말하는 것이고, 반면「복음적인 회개」란, 하나님이 인자하심을 신뢰를 갖고, 하나님을 심판자라기보다, 오히려 아버지로 인식하며, 아버지 되는 하나님께 소망을 갖게 하는 회개”라고 합니다. 즉, 회개란 하나님이 주신 선물이라는 것입니다. 1~3절을 보시기 바랍니다.

(1) 다윗의 불안과 두려움

1 여호와께서 나단을 다윗에게 보내시니 그가 다윗에게 가서 그에게 이르되 한 성읍에 두 사람이 있는데 한 사람은 부하고 한 사람은 가난하니

2 그 부한 사람은 양과 소가 심히 많으나

3 가난한 사람은 아무것도 없고 자기가 사서 기르는 작은 암양 새끼 한 마리뿐이라 그 암양 새끼는 그와 그의 자식과 함께 자라며 그가 먹는 것을 먹으며 그의 잔으로 마시며 그의 품에 누우므로 그에게는 딸처럼 되었거늘

제가 믿음을 갖기 전의 일입니다만, 대학생 때 혼자 살아서, 자주 친구와 술을 마시거나, 제 기준에서는 나쁘다고 알고 있는 것 같은 일을 하고 있었습니다. 그래서, 당시 나쁜 꿈을 자주 꾸거나, 혹은 경찰차의 사이렌을 들으면, 왠지 안절부절 못하고 침착하지 못했던 저의 모습을 기억합니다. 스물다섯 살이 되어 세례로 인도하심을 받았는데, 그때는 정말 죄 용서에 감사하고, 진심으로 안도했습니다. 그때, 느낀 것은, 죄라는 것이 바로 인간사회의 법적인 것이 아니라, 더 도덕적인 것이며, 궁극적으로는 하나님과의 관계라는 것을 실감했습니다. 우리아를 살해하고, 모든 것을 은폐하는데는 성공한 다윗은, 아마도 마음속으로는 두려움과 불안에 시달렸던 것이 아닐까 생각됩니다. 그러던 차에, 갑자기 나단이 다윗에게 찾아왔습니다. 다윗과 나단 정도의 관계이기 때문에, 놀라긴 했지만 바로 안으로 안내받았을 것입니다.

다윗; 아니, 연락도 없이 도대체 무슨 일이오?

나단; 네, 지나가는 길에 잠시 들렸습니다. 겸사겸사 드리고 싶은 말씀도 있고요..

다윗; 아, 그렇소? 한 번 말해 보시오.

나단; 한 성읍에 두 사람이 있는데 한 사람은 부하고 한 사람은 가난하니...

이런 느낌인 것 같아요. 여기서 나단의 비유 중에서, 「부한 사람」은 누구를 가리키고 있을까요? 맞습니다. 다윗입니다. 「가난한 사람」은 누구를 가리키고 있을까요? 우리아입니다. 그렇다면 「암양 새끼 한 마리」는 누구를 가리키고 있을까요? 밧세바입니다. 시리아나 아랍 지방에서는, 어린 양을 애완 동물로 천막 안에서 기르기도 했던 것 같습니다. 그런데, 어느 날, 문제가 생겼습니다. 어떤 행인이 그 부자에게 오매 부자가 자기에게 온 행인을 위하여 자기의 양과 소를 아껴 잡지 아니하고 가난한 사람의 양 새끼를 빼앗아다가 자기에게 온 사람을 위하여 잡았다는 것입니다. 여기에는 권력자가 가진 잔인함과, 부한 사람의 성격의 탐욕스러운 점이 드러나 있습니다. 이 말을 들은 다윗은 5절에서 격분하면서 「여호와의 살아 계심을 두고 맹세하노니 이 일을 행한 그 사람은 마땅히 죽을 자라 그가 불쌍히 여기지 아니하고 이런 일을 행하였으니 그 양 새끼를 네 배나 갚아 주어야 하리라」 라고 말했습니다. 율법에 따르면, 가축을 훔쳐도 사형에 해당하지 않았습니다. 단, 네 배의 보상을 하면 된다고 되어 있습니다. 신약성경에 나오는 세리 삭개오도 자신이 떼어먹은 만큼의 네 배를 속죄했을 뿐이었습니다. 다윗은 매우 감정적으로 되어 있었어요. 여기서 중요한 포인트는 다윗 자신은, 아직, 이 「부한 사람」가 자신임을 깨닫지 못하고 있다는 것입니다. 죄란 이처럼, 자신의 죄를 정면으로 마주할 수 없게 하고, 빛 앞에 나서는 것을 두려워하게 하고, 그리고 자신이 도대체 누구인지조차 모르게 합니다. 큰 소리로 외치는 다윗에게 「당신이 그 사람이라」라는 나단의 따끔한 말이 다윗에게 꽃혔습니다. 7~10절을 보시기 바랍니다.

(2) 죄의 결과

7나단이 다윗에게 이르되 당신이 그 사람이라 이스라엘의 하나님 여호와께서 이와 같이 이르시기를 내가 너를 이스라엘 왕으로 기름 붓기 위하여 너를 사울의 손에서 구원하고

8 네 주인의 집을 네게 주고 네 주인의 아내들을 네 품에 두고 이스라엘과 유다 족속을 네게 맡겼느니라 만일 그것이 부족하였을 것 같으면 내가 네게 이것 저것을 더 주었으리라

9 그러한테 어찌하여 네가 여호와의 말씀을 업신여기고 나 보기에 악을 행하였느냐 네가 칼로 헷 사람 우리아를 치되 암몬 자손의 칼로 죽이고 그의 아내를 빼앗아 네 아내로 삼았도다

10 이제 네가 나를 업신여기고 헷 사람 우리아의 아내를 빼앗아 네 아내로 삼았은즉 칼이 네 집에서 영원토록 떠나지 아니하리라 하셨고

9절을 보면, 「어찌하여 여호와의 말씀을 업신여기고」라고 되어 있습니다. 그리고 10절에도 「네가 나를 업신여기고」라고 나와 있습니다. 다윗의 죄라는 것이, 무엇보다 말씀을 얕잡아 보고, 주님을 업신 여겼다는 것입니다. 그런데, 사울 왕국의 몰락이라는 것이 도대체 어디에서 비롯되었는지 떠올려 봅시다. 사무엘상 15장 24~26절을 읽어 보시겠습니다.

24 사울이 사무엘에게 이르되 내가 범죄하였나이다 내가 여호와의 명령과 당신의 말씀을 어긴 것은 내가 백성을 두려워하여 그들의 말을 청종하였음이니이다

25 청하오니 지금 내 죄를 사하고 나와 함께 돌아가서 나로 하여금 여호와께 경배하게 하소서 하니

26 사무엘이 사울에게 이르되 나는 왕과 함께 돌아가지 아니하리니 이는 왕이 여호와의 말씀을 버렸으므로 여호와께서 왕을 버려 이스라엘 왕이 되지 못하게 하셨음이니이다 하고

사무엘의 말에서 알 수 있듯이, 이스라엘의 초대 왕 사울이, 몰락한 가장 중요한 요인은, 말씀을 버린 것, 말씀을 무시한 것, 즉 하나님을 무시한 것입니다. 사울왕이 선지자 사무엘로부터 질책을 받았던 같은 내용을, 오늘의 본문에서, 다윗은 선지자 나단으로부터 똑같이 질책을 받고 있음을 알 수 있습니다. 다윗도 사울과 마찬가지로 버림을 받고 마는 걸까요? 계속해서 다윗의 죄의 결과가 선고됩니다. 사무엘상 12장 11~13절을 보시죠.

11 여화와께서 또 이와 같이 이르시기를 보라 내가 너와 네 집에 재앙을 일으키고 내가 네 눈앞에서 네 아내를 빼앗아 네 이웃들에게 주리니 그 사람들이 네 아내들과 더불어 백주에 동침하리라

12 너는 은밀히 행하였으나 나는 온 이스라엘 앞에서 백주에 이 일을 행하리라 하셨나이다 하니

13 다윗이 나단에게 이르되 내가 여호와께 죄를 범하였노라 하매 나단이 다윗에게 말하되 여호와께서도 당신의 죄를 사하셨나니 당신이 죽지 아니하려니와

이게 무슨 말이냐면, 여러분은 프로 바둑이나 장기 대국을 보신 적이 있을까요? 대국이 끝난 후에, 대국자끼리 한 수 한 수의 싸움을 재현하면서 되돌아 봅니다. 이와 똑같이, 하나님은 다윗이 지은 죄를 하나 하나 신중하게 재현해 다윗에게 보여주시려는 것입니다. 이것은 매우 무서운 일입니다. 11장을 기억해 주셨으면 합니다. 다윗이 정욕의 죄를 내포한 그 현장이 어디였을까요? 「옥상」이죠. 바로 옥상에서, 다윗 자신이, 과거에 한 죄로 짐작되는 사건이 일어납니다. 사무엘하 16장 22절을 보시겠습니다.

이에 사람들이 압살롬을 위하여 옥상에 장막을 치니 압살롬이 온 이스라엘 무리의 눈 앞에서 그 아버지의 후궁들과 더불어 동침하니라

압살롬은 다윗의 후궁들과 동침했습니다. 옥상에 장막이 쳐지고, 태양 아래서, 나단의 예언대로 온 이스라엘의 눈 앞에서, 이런 사건이 일어났습니다. 이것은 바로 다윗이 지은 죄가 재현되고 있는 것입니다. 이는, 당시의 정치적 퍼포먼스로 새로운 왕이, 이전 왕의 할렘을 빼앗음으로써, 새로운 왕이 전 왕을 완전히 제압했다는 것을 대대적으로 보여주는 행위입니다. 왕이 바뀌고, 새로운 시대가 왔다는 것을 상징적으로 나타내는 퍼포먼스였습니다. 그런데, 이것을 제안한 사람이 누구냐 하면 16장 20,21절에 적여 있습니다. 보세요.

20 압살롬이 아히도벨에게 이르되 너는 어떻게 행할 계략을 우리에게 가르치라 하니

21 아히도벨이 압살롬에게 이르되 왕의 아버지가 남겨 두어 왕궁을 지키게 한 후궁들과 더불어 동침하소서 그리하면 왕께서 왕의 아버지가 미워하는 바 됨을 온 이스라엘이 들으리니 왕과 함께 있는 모든 사람의 힘이 더욱 강하여지리이다 하니라

아히도벨이 이 계략을 제안한 인물이었습니다. 아히도벨이라는 인물은, 본래, 다윗의 매우 뛰어난 전략가였지만, 실은 밧세바의 할아버지에 해당합니다. 우리아-밧세바 사건을 통해 아히도벨은 다윗 왕에게 앙심을 품고 언젠가 복수해 주겠다고 생각하게 된 것입니다. 아히도벨의 제안으로 인해 이처럼 철저한 복수가 재현되게 된 것입니다.

(3) 죄의 용서와 하나님의 응징

그러나, 다윗은 13절에서 「내가 여호와께 죄를 범하였노라」라고 자신의 죄를 고백하고 있습니다. 나단도 「여호와께서도 당신의 죄를 사하셨나니 당신이 죽지 아니하려니와」라고 선언해 주었습니다. 다윗은 죄를 용서받았음에도, 왜 이런 재앙이 다윗에게 찾아오게 됐을까요? 「당신이 낳은 아이가 반드시 죽으리이다」라고도 선고받았습니다. 이것은, 어떻게 생각을 하면 좋은 것일까요? 죄를 고백하고, 하나님께 용서를 받고, 하나님과의 관계가 회복 되었음에도 불구하고, 죄의 결과는 거두게 된다는 것입니다. 용서를 받았음에도 불구하고, 죄의 결과를 거두게 된다는 기사는, 성경의 다른 곳에도 나옵니다. 예를 들면 아담과 하와가 그렇고(창세기 3장 16,17절), 미리암이 그렇고(민수기 12장 14절), 모세와 아론도(민수기 20장 12절, 27장 13,14절, 신명기 34장 4절), 고린도교회의 신자들도 그랬습니다(고린도전서 11장 29,30절). 성도들이 비록 언약의 은혜 속에 속해 있다고 해도, 이 세상에 있어서는, 계속 고난 아래 있고, 성도들은 과거에 저지른 죄의 결과를, 감수해야 하는 것입니다. 그러나 그 고난이란, 결코 죄의 형벌이 아니라, 아버지 하나님의 응징이요, 사랑의 채찍이라는 것입니다. 즉, 그리스도 안에서 죄의 추수인 고난을 감수하는 것입니다. 여기에 우리의 위로가 있습니다. 이 점에 대해, 우리는 분명히 믿어야 합니다. 그렇기때문에, 우리는, 고난의 삶 가운데서도 항상 예수님께 꼭 붙어 있어야 합니다.

한 가지 비록 이야기를 하지만 칠면조라고 하면, 무엇을 떠올릴 수 있을까요? 미국에서 추수 감사절이라는 날이 있는데, 11월 넷째 목요일에 축하하는데, 그때 칠면조를 먹는다고 합니다. 저는 먹어본 적이 없는데, 대형 닭이라고 생각하시면 됩니다. 칠면조는, 병아리를 잘 돌보는 특성이 있기 때문에, 모성 본능이 다른 새보다 발달되어 있다고 생각되었습니다. 하지만 그것이 착각이라는 것을 알았어요. FOX라는 동물학자의 연구에 따르면, 다른 새보다 모성본능이 발달한 것이 아니라, 칠면조가 병아리가 삐약삐약 울 때만, 병아리를 돌본다는 것을 알게 된 것입니다. 그래서 한 가지 실험을 해봤습니다. 칠면조의 천적인 족제비 박제 안에, 병아리 소리를 내는 스피커를 넣어서, 이 족제비 박제를 칠면조에 접근시켰을 때, 어떻게 되는가 하는 실험입니다. 족제비는 천적이기 때문에 처음에는 당연히, 공격해 왔습니다. 그런데 삐약삐약 소리를 내자, 놀랍게도, 칠면조는 족제비 박제를 자신의 품에 안아서 보살피려고 하는 것입니다. 즉 칠면조는, 병아리의 삐약삐약 소리에 반응하여, 병아리를 돌보고 있는 것입니다.

하나님은 본래, 우리를 하나님의 형상으로 창조해 주셨는데, 이 칠면조의 예와 똑같이, 하나님은 우리에게 자신의 형상을 회복하도록 보살펴 주셨습니다. 그러나 그것은 고난을 통해서, 하나님의 형상을 회복시키는 방식입니다. 우리가 고난을 당할 때, 병아리처럼 삐약삐약 울 때, 하나님은 항상 우리에게 다가오시고, 우리를 만져 주시고, 우리를 불쌍히 여겨 주시는 것입니다. 우리는 고난이라는 과정을 통해, 비로서 하나님의 형상을 회복하고, 본질에 가까워지며, 우리를 창조하신 하나님 앞에 다가갈 수 있는 것입니다. 다윗은, 나단의 예언에 의해, 빛이 비쳐지고, 죄가 폭로되어, 모두 발가벗겨지고 말았습니다. 사무엘하 12장 이후에는, 다윗이 철저하게 자신이 저지른 죄의 댓가를 거두는 모습이 묘사돼 있습니다. 자신의 아들들이 차례로 죽어가는 가운데, 자신이 지은 죄가 보여지고, 자신의 깊은 죄를 깨닫게 되며, 정말 무섭고, 어려운 삶 가운데 놓이게 됩니다. 그러나, 그런 고난은, 바로 그리스도 안에서 감수함으로써, 그리스도의 고난을 함께 받게 하는 것이기도 했습니다.

결론

우리가 하나님의 나라에 들어가기 위해서는, 많은 고난을 거쳐야 합니다. 그러나 우리가 아무리 힘들 때에도 그리스도 안에 머물러야 합니다. 왜냐하면, 고난을 통해 하나님의 형상을 회복하고, 고난을 통해 본질에 가까워지며, 우리를 창조하신 하나님 앞에 가까이 다가갈 수 있기 때문입니다. 바로 끝까지 견디는 자는, 구원을 받는다는 말씀 그대로입니다.

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