2020年11月29日「人の子が来られた目的 인자가 오신 목적」

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人の子が来られた目的 인자가 오신 목적

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章35節~45節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10:36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10:37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10:38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
10:39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10:40彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10:41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
10:42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 10章35節~45節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日は「人の子が来られた目的」というタイトルですが、聖書には仕えるためであると書かれています。ところで、皆さんは「走れメロス」という太宰治の短編小説をご存じでしょうか。メロスが走る物語ですが、簡単に説明しますと、主人公メロスは王様の残虐な行いに激怒して、お城に乗り込んで行きます。そして王様に意見をするのですが、聞く耳を持たない王様はメロスに対し処刑を言い渡します。メロスは親友を人質として預け、3日間の猶予期間を得ることになりました。その間に、村で妹の結婚式を済ませてから、お城へ戻るために走りました。ところが、途中で数々の障害が待ち受けていました。自分を信じてくれた親友が待っているお城に、日没直前、ぎりぎりに帰って来ることができました。結局、自分が処刑されることを承知の上で、自分の命の代理として捕らわれている友人を解放するために、約束を守ることができたというお話しです。この太宰治の作品は、ドイツの詩人であるシラーの『人質』という作品を基にして、創作されたと言われています。そして、さらに言えば、ドイツ人のシラーの作品は、ギリシャ神話を基にして創作されたと言われていますから、何を言いたいのかといいますと、「走れメロス」は、ギリシャ神話にその起源があると言えるでしょう。命の代理という考え方は、遠い昔からあったということです。しかし、現代に生きる私たちの感覚で言えば、人の命に対する、身代わりという考え方は、すんなり入って来るものではありません。例えば、命ではなく、物にであれば、代わりに他の物を弁償するとか、お金で償いをするということは想像できますが、ある極悪死刑囚の代わりに、他の人が死刑されたとしても、意味がないではないかと思ってしまうのではないでしょうか。

そのため、現代の神学者の中には、伝統的な神学に反発して、キリストの十字架の死が、罪びとの身代わりのために献げられた死であるということをどうしても受け入れられない人々が出てきました。彼らの主張というのは、救いというのはキリストの十字架によって客観的に罪が清算され、チャラになるということではなく、もっと主観的なものであって、それはつまり、十字架によって死んでいく中にあっても、人類をとりなしてくださり、最後まで人類を愛してくださった、その光であるキリストを心の中に受け入れることこそ救いだと主張します。つまり、キリストはただ、十字架を通して人類に神の愛を示されただけであって、それは、十字架でなくても良かったのですが、とにかく十字架にかかられて死ぬことに、特に罪を贖って清算するという意味はなく、そして、父なる神様もキリストの身代わりの死によって、怒りがなだめられることを望んでいるわけではないと言います。なぜなら、そもそも父なる神は、罪びとに対し怒ってはおられないし、宥めるための犠牲も必要ないと言うのです。皆さんはこのような考え方に対しどのように思われるでしょうか。実は本日のマルコ10:45には、イエス様の口を通して直接、ご自身の十字架の死が、まさに「身代金として支払われる死」であり、罪びとを罪から贖い、解放するための死であると、はっきりと宣言されています。ですから伝統的神学に反発する人たちには、「これは本当にイエス様が言われた言葉だろうか」と疑いつつ、どうしても受け入れられない箇所でもあります。

【1】. ヤコブとヨハネの無理解

エルサレムに向かう途上にあって、弟子たちは三度目となるイエス様の受難告知を告げられました。たとえその意味を全く理解することはできなくても、イエス様の後ろ姿から伝わってくる雰囲気を通して、弟子たちは、神の国の樹立される時がいよいよ近いということを確信しつつ、なぜか分かりませんが自然と鳥肌が立ってくるような、緊張感に包まれていたと思われます。イエス様の側近であるペトロとヨハネとヤコブは、実際に以前、イエス様が栄光の姿に変貌されたのを見ているために、彼らがキリストの受難を飛び越えて、神の国の樹立を確信するのも無理はありませんでした。ヤコブとヨハネが進み出て、次のように言いました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」「何をしてほしいのか」とイエス様が言われると、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と言いました。ここで、右側とは第一人者の席であり、王から任命された最高権力者を意味しています。左側とは王の助言者であり、カウンセラーであることを意味しています。つまり、最後までイエス様についていく覚悟はできていますから、どうぞ、神の国が樹立された暁には、最も重要なポストをくださいと要求しているのです。イエス様は、この野心に満ちた弟子たちに優しく教え諭してくれました。38節をご覧ください。

イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

ここで、イエス様の論点は、あなた方は自分で何を願っているのか、全くわかっていないということです。最初に「イエス様の飲む杯」とは一体何を意味しているのかということですが、旧約聖書の中には、「神の怒りの杯」という表現が何度も出てまいります(詩60:5、75:9、イザ51:17、51:22、エレ25:15、49:12哀4:21、ゼカ12:2など)。そしてマルコ14:36にイエス様が捧げたゲッセマネの祈りが書かれていますので、ご覧になっていただけますでしょうか。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

したがって、「イエス様の飲む杯」とは、人類の罪に対する神の怒りの杯であり、イエス様が十字架上で、罪びとの代わりに一身に受けることになる、受難を意味しているということです。次に、「イエス様の受ける洗礼」とは何かと言いますと、人が水の中に沈められると、息ができず大変苦しい思いをしますね。ですから、これもやはり、イエス様の担われる苦難を意味していると思われます(詩42:8; 69:2)。つまり「杯と洗礼」とは、イエス様がお受けになる受難であり、贖いの代価として捧げられる身代わりの死であるということです。そのように考えますと、ヤコブとヨハネの言っていることとは何を意味しているのかと言うと、イエス様が栄光をお受けになる、その時とは、まさにイエス様が十字架上でご自身の命をみずから進んで明け渡すことによって、メシアの働きを全うされる時であり、後でわかることですが、その時に、イエス様の右と左に置かれているのは、誰だったでしょうか。イエス様と一緒に十字架に架けられた強盗たちでありました。ヤコブとヨハネの願いが、その強盗のようにさせてくださいと言っているように聞こえてくるのです。「イエス様の杯と洗礼」に、そのような深い意味があるということを、全く与り知らないヤコブとヨハネは、イエス様の質問に対して「できます。」と答えました。39~40節をご覧ください。

彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。

しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」

キリストの弟子であるなら、イエス様が十字架にかかって復活した後、イエス様の手本に従って、苦難の道を歩んでいくことになります。弟子の道とは、広くて豊かな平坦な道ではなく、狭くて細い茨の道であります。しかしその狭くて細い道こそ、救いに至る道なのです。39節で、イエス様の「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」という言葉は、多少、意味不明の言葉ですが、おそらく、後でヤコブとヨハネがこの御言葉を思い起こした時に、イエス様はこの時、自分たちがそれぞれの十字架を負いながら、無事にキリストの弟子としての道を歩みきるだろうと、励ましの言葉を与えてくださったと理解したのだと思います。

【2】. 弟子たちの無理解とイエス様の教え

残りの10人の弟子たちは、このようなやり取りを聞いて、腹を立て始めました。自分たちがまんまと出し抜かれてしまったと思ったのです。10人の弟子たちの中にも、なんとか特別なポジションを得たいという同じような野心があったということです。ちなみに41節の「腹を立てた」という言葉は、10:14節でイエス様が弟子たちに「憤られた」という言葉と同じ単語が使われています。イエス様の憤りと、弟子たちの憤りが並べられていて、その次元の違いがここで暴露されています。実際、イエス様の復活を経験するまでは、神の国の本当の意味を理解した弟子たちは誰もいなかったのです。そこでイエス様は彼らを呼び寄せて、大切な教えを授けられました。また、その内容はヤコブとヨハネの右大臣と左大臣になりたいという願いの答えでもありました。42~44節をご覧ください。

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

この42~44節の中に「あなた方の中では」、という言葉が三度も繰り返されています。新共同訳では44節の冒頭にある言葉が省略されています。あなた方の中で、つまり教会においては、世の常識は通用しないということです。なぜなら、教会とはやがて完成する神の国の影であり、ひな型だからです。世の常識で言うなら、偉い人、直訳すると「大きな人」というのは、権力を振るう人物であるとイエス様は言われます。しかし神の国では、この世の延長線上で考えてはなりません。神の国で、大きな人とは逆に人々に「仕える者」であるというのです。「仕える者」とは、ギリシャ語の「ディアコノス」という言葉で「執事」とも訳すことができます。さらにイエス様は続けます。「一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」イエス様は奴隷のイメージを使いながら、「仕える者」の態度がどのようなものであるのか、説明しています。律法では、奴隷を顧みるように勧めていますが、奴隷とは社会的に劣った者であり、軽蔑の対象であって、誰も奴隷になりたいなどと思わなかったでしょう。また、当時、ローマの世界には謙遜という美徳はなく、へりくだることは、負け犬になるようなもので、大変低い価値として見做されていました。ですからイエス様が言われたお言葉には、革命的な響きがあったのです。イエス様がこのように言われるのには理由がありました。それは、まさにイエス様がしていることこそ、人々に仕えることであり、最も低い奴隷となられたことだったのです。イエス様がこのように模範を示してくださったのですから、弟子たちもそれに従わなければなりません。「自分は、主イエスから慰めを受けました。主イエスに癒されました。しかしそこから先はついていけません」ということは、あり得ないだろうと思われます。イエス様は天の御国において、誰がイエス様の右と左に就かれるのかについては、教えてくれませんでした。それは父なる神によって定められた人に与えられるのであり、やがて来る神の御国については、まだ私たちには隠されているからです。しかし時が至り、神の子供たちが天に迎え入れられる時には、それぞれが報いとして受ける栄光が、均等ではないことは確かです。私たちは、そのことにもしっかりと目を向けなければなりません。後のことはわかりませんが、弟子の道とは、この世で仕えることによって、天で与えられる冠を目指して走り続けなければならないのです。最後に10:45をご覧ください。

【3】. 人の子は身代金として自分の命を献げるために来られた

人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

この箇所はイエス様の働きが簡単に説明されています。それは、第一に、弟子たちに仕えてくださり、弟子たちを、御言葉によって養育し、弟子たちを生かすということであり、第二に、罪びとを縛っている罪の縄目から解放するために身代金を払ってくださったということです。イエス様は地上において最も低くなられましたが、復活されて天に昇り、主の主、王の王としてすべての名にまさる名を与えられ、高められました。このように神の国において、後の者が先になり、先の者が後になるという、逆転現象が起こるのです。私は最近、動画で犬や猫の動画をよく見ます。大変癒されます。動画をアップする人は、自らを猫の僕として紹介していました。猫は特に夜行性で、真夜中には大運動会になるそうで、その時も僕である飼い主さんは、深夜に猫じゃらしで遊んであげていました。動物が人間によって愛されて、管理される時に、神様の創造された本来の姿を垣間見れるのではないかと思いました。それほど犬や猫の姿が愛くるしいのです。

教会の交わりも全く同じことが言えると思います。私たちはお互いが羊であり、究極的には神様の御言葉によって養われていますが、やはり御言葉を分配する奉仕が大切だと思います。御言葉を分配する奉仕とは、お互いが、お互いを生かすように仕えたり、祈りあったり、イエス様の愛を届けることです。教会にはさまざまな奉仕がありますが、奉仕を捧げる上で一つ注意する点は、自分が光り輝くのではなく、相手を生かすように心がけるということです。私が最近、反省していることは、100円で買ってきた観葉植物が大きくなりすぎて、ある日、この観葉植物は見せびらかすためにここに置かれているのですか?と言われてしまいました。大きな観葉植物の故に導線が塞がれてしまい、歩行の邪魔していたのです。ですから主日は、大きすぎる観葉植物は牧師室に入れるようにしました。私たちの奉仕の目的とは、教会を生かし、交わりを豊かにするものです。神様はそのような奉仕を尊いものとして一つ一つを覚えてくださるに違いありません。本日も月報が印刷されました。毎月、月報の印刷のために教会に来て奉仕してくださいますことを感謝いたします。豊かな報いが与えられると信じます。それから書道で説教題を毎週書いてくださることも感謝です。それが完成する過程において、どのようなご苦労があるのか、私には正確にはわかりませんが、何しろ、私が説教題を確定させるのが遅いために、余計なご苦労があることと思います。そのような目に見えないところも、主はご覧になっておられるはずです。賛美についても、奏楽者が毎週練習しながら主の日の奉仕に臨んでくださっていること、あるいは、私たちが音楽の専門家ではありませんが、それぞれが神様に心からの賛美を捧げられるように、さまざまな奏楽者の見えない奉仕が捧げられていることにも感謝いたします。苦労や困難が大きければ大きいほど、そして人の目に見えない奉仕であればあるほど、それらの奉仕によって教会がどれだけ生かされ、養われているのか、そこに、神様は目を止めておられますので、きっと天に富が積まれ、やがて報いとして与えられることを信じます。

【結論】

イエス様のご生涯の目的とは、僕として人々に仕え、罪びとである私たちに身代金を支払って、罪と死の力から解放するために最も低くなられました。キリスト者の一生も、イエス様の歩まれた道に従っていくべきであります。この世においては、御言葉を届けるために人々に仕え、僕となって、それぞれ負うべき十字架を負わせていただきましょう。それはキリストの受けられた苦難の道に共にあずかる道でありますが、天においてキリストと共に高く引き上げられ、大きな報いが与えられる道でもあるのです。

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인자가 오신 목적

2020년 11월 29일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 10장 35~45절

서론

오늘의 설교는 「인자가 오신 목적은」이라는 제목입니다만, 성경에는 섬기기 위해서 라고 쓰여져 있습니다. 그런데 여러분은 「달려라 메로스」라고 하는 다자이 오사무의 단편소설을 아시나요? 메로스가 달리는 이야기인데, 간단히 설명하자면 주인공 메로스는 왕의 잔학한 행동에 격분하여 성에 올라갑니다. 그리고 왕에게 의견을 드리는데 듣는 귀가 없는 왕은 메로스에게 처형을 선고합니다. 메로스는 친한 친구를 인질로 맡기고 3일간의 유예기간을 얻게 되었습니다. 그 사이에 마을에서 여동생의 결혼식을 마치고 성으로 돌아가기 위해 달렸습니다. 그런데 도중에 수많은 장애가 기다리고 있었습니다. 자신을 믿어준 친한 친구가 기다리고 있는 성에 일몰 직전 아슬아슬하게 돌아올 수 있었습니다. 결국 자신이 처형될 것을 알면서도 자신의 생명을 대리하여 붙잡혀 있는 친구를 풀어주기 위해 약속을 지켰다는 이야기입니다. 이 다자이 오사무의 작품은 독일 시인 쉴러의 『인질』이라는 작품을 바탕으로 창작되었다고 합니다. 그리고 나아가 독일인 쉴러의 작품은 그리스 신화를 바탕으로 창작되었다고 하니, 무엇을 말하고자 하냐면 「달려라 메로스」는 그리스 신화에 그 기원이 있다고 할 수 있을 것입니다. 생명의 대속이라는 생각은 먼 옛날부터 있었다는 것입니다. 그러나 현대에 사는 우리의 감각으로 말하면 사람의 생명에 대한 대속이라는 생각은 쉽게 생각할 수 없는 문제입니다. 예를 들어 생명이 아니라 물건이라면 대신 다른 물건을 변상한다거나 돈으로 보상을 한다는 것은 상상할 수 있지만, 어떤 극악한 사형수 대신 다른 사람이 사형을 당한다고 해도 의미가 없지 않을까 생각하게 되지 않을까요?

그래서 현대 신학자들 중에는 전통적인 신학에 반발하여 그리스도의 십자가 죽음이 죄인들을 대신하기 위해 바쳐진 죽음이라는 것을 도저히 받아들일 수 없는 사람들이 나왔습니다. 그들의 주장이라고 하는 것은 구원이라고 하는 것은 그리스도의 십자가에 의해서 객관적으로 죄가 다 청산되고 아무것도 남아있지 않다는 것이 아니라 조금더 주관적인 것이고 그것은 곧 십자가에 의해 죽어가는 가운데서도 인류를 중보해주시고 마지막까지 인류를 사랑해주셨다, 그 빛되신 그리스도를 마음속에 영접하는 것이야말로 구원이라고 주장합니다. 즉 그리스도는 단지 십자가를 통해서 인류에게 하나님의 사랑을 보여 주셨을 뿐이지, 그것은 십자가가 아니어도 좋았지만, 어쨌든 십자가에 달려서 죽으신 것에 특별히 죄를 속죄하고 청산한다는 의미는 없으며, 그리고 아버지되신 하나님도 그리스도의 대신 죽으심으로 분노가 누그러지기를 바라는 것은 아니라고 말합니다. 왜냐하면 애초에 아버지 하나님은 죄인들에 대해 분노하고 계시지도 않고 그것을 달래기 위한 희생도 필요없다고 하는 것입니다. 여러분은 이런 사고방식에 대해 어떻게 생각하실까요? 사실 오늘의 마가복음10장 45절에는 예수님의 입을 통해서 직접, 자신의 십자가에서의 죽음이 바로 「대속물로 지불되는 죽음」이며 죄인들을 죄로부터 속량하고 해방하기 위한 죽음이라고 분명히 선언되어 있습니다. 그래서 전통적 신학에 반발하는 사람들에게는 “이게 정말 예수님이 하신 말씀일까?” 하고 의심하면서 도저히 받아들일 수 없어하는 부분이기도 합니다.

(1) 야고보와 요한의 몰이해

예루살렘으로 향하는 도중에 제자들은 세 번째 예수님의 수난고지를 통보받았습니다. 비록 그 뜻을 전혀 이해하지 못하더라도 예수님의 뒷모습에서 전해져 오는 분위기를 통해 제자들은 하나님의 나라가 수립될 때가 드디어 가까이 왔다는 것을 확신하면서 왠지 모르지만 저절로 소름이 돋는것과 같은 긴장감에 휩싸여 있었다고 생각됩니다. 예수님의 측근인 베드로와 요한과 야고보는 실제로 이전에 예수님이 영광의 모습으로 변모하시는 것을 보았기 때문에 그들이 그리스도의 수난을 뛰어넘어 하나님 나라의 수립을 확신하는 것도 무리가 아니었습니다. 야고보와 요한이 나아가 다음과 같이 말했습니다. 「선생님이여 무엇이든지 우리가 구하는 바를 우리에게 하여 주시기를 원하옵나이다」 「너희에게 무엇을 하여 주기를 원하느냐」예수님께서 말씀하시자 「주의 영광중에서 우리를 하나는 주의 우편에, 하나는 좌편에 앉게 하여 주옵소서」라고 말하였습니다. 여기서 오른쪽이란 제 1인자의 자리로 왕이 임명하는 최고 권력자를 의미합니다. 왼쪽은 왕의 조언자이자 카운셀러임을 의미합니다. 즉 끝까지 예수님을 따라갈 각오는 되어 있으니 부디 하나님의 나라가 수립이 실현된 그때에는 가장 중요한 자리를 달라고 요구하고 있는 것입니다. 예수님은 이 야심찬 제자들에게 다정하게 가르치고 타이르셨습니다. 38절을 보시기 바랍니다.

예수께서 이르시되 너희는 너희가 구하는 것을 알지 못하는도다 내가 마시는 잔을 너희가 마실 수 있으며 내가 받는 세례를 너희가 받을 수 있느냐

여기서 예수님의 논점은, 너희들은 너희가 무엇을 구하는지 전혀 모른다는 것입니다. 처음에 「예수님이 마시는 잔」이란 도대체 무엇을 의미하느냐는 것인데, 구약성경 가운데는 「하나님의 노여움의 잔」이라는 표현이 자주 나옵니다(시편 60장 5절, 이사야51장 17절, 51장 22절 예레미야 25장 15절, 49장 12절 애가 4장 21절, 스가랴 12장 2절등). 그리고 마가복음 14장 36절에 예수님께서 드린 겟세마네의 기도가 적혀 있으니 한번 봐 주시겠습니까?

이르시되 아빠 아버지여 아버지께는 모든 것이 가능하오니 이 잔을 내게서 옮기시옵소서 그러나 나의 원대로 마시옵고 아버지의 원대로 하옵소서 하시고

따라서 「예수님이 마시는 잔」이란 인류의 죄에 대한 하나님의 노여움의 잔이며 예수님이 십자가 위에서 죄인들을 대신하여 몸에 받게 되는 수난을 의미한다는 것입니다. 다음으로 「예수님이 받는 세례」란 무엇인가 하면 사람이 물속에 가라앉으면 숨을 쉴 수 없어 몹시 괴로운 일이 생기는데 이 역시 예수님께서 감당하시는 고난을 의미한다고 생각합니다(시편 42편 8절, 69편 2절). 즉 「잔과 세례」란 예수님께서 받으시는 수난이요, 속죄의 대가로 바쳐지는 대속물로서의 죽음이라는 것입니다. 그렇게 생각하면 야고보와 요한이 말하는 것은 무엇을 의미하는가 하면 예수님께서 영광을 받으시는 그때는 바로 예수님이 십자가 위에서 자신의 생명을 스스로 내어줌으로써 메시야의 일을 완수하실 때이고 나중에 알 수 있는 일이지만 그때 예수님 오른쪽과 왼쪽에 있었던 사람은 누구였을까요? 예수님과 함께 십자가에 못박힌 강도들이었습니다. 야고보와 요한의 소원이 그 강도처럼 만들어 달라고 말하는 것처럼 들려오는 것입니다. 「예수님의 잔과 세례」가 그런 깊은 뜻이 있다는 것을 전혀 모르는 야고보와 요한은 예수님의 질문에 「할 수 있나이다」라고 대답했습니다. 39,40절을 보세요.

39 그들이 말하되 할 수 있나이다 예수께서 이르시되 너희는 내가 마시는 잔을 마시며 내가 받는 세례를 받으려니와

40 내 좌우편에 앉는 것은 내가 줄 것이 아니라 누구를 위하여 준비되었든지 그들이 얻을 것이니라

그리스도의 제자라면, 예수님이 십자가에 못 박혀 부활하신 후 예수님의 본보기를 따라 고난의 길을 걸어가게 됩니다. 제자의 길이란 넓고 풍요로운 평탄한 길이 아니라 좁고 좁은 가시밭길입니다. 하지만 그 좁고 좁은 길이야 말로 구원에 이르는 길입니다. 39절에서 예수님의 「너희는 내가 마시는 잔을 마시며 내가 받는 세례를 받으려니와」라는 말씀은 다소 의미불명하지만 아마도 나중에 야고보와 요한이 이 말씀을 떠올렸을 때 예수님은 이때 자신들이 각자의 십자가를 지면서 가야 할 그리스도의 제자로서의 길을 걸어갈 것이라는 격려의 말씀을 해 주신 것이라고 이해했을 것이라고 생각합니다.

(2) 제자들의 몰이해와 예수님의 가르침

나머지 열 명의 제자들은 이런 말을 듣고 화를 내기 시작했습니다. 자신들이 깜쪽같이 제쳐졌다고 생각한 것입니다. 열 명의 제자들 중에도 어떻게든 특별한 포지션을 얻고 싶다는 비슷한 야심이 있었다는 것입니다. 참고로 41절의 「화를 내거늘」이란 말은 10장 14절에서 예수님이 제자들에게 「노하시어」라는 말과 같은 단어가 사용되고 있습니다. 예수님의 분노와 제자들의 분노가 나열되어 있고, 그 차원의 차이가 여기서 폭로되고 있습니다. 사실 예수님의 부활을 경험하기 전까지는 하나님 나라의 참뜻을 이해한 제자들은 아무도 없었습니다. 그래서 예수님은 그들을 불러들여 소중한 가르침을 말씀하셨습니다. 또 그 내용은 야고보와 요한의 오른쪽 대신과 왼쪽 대신이 되고 싶다는 소원의 답이기도 했습니다. 42~44절을 보시기 바랍니다.

42 예수께서 불러다가 이르시되 이방인의 집권자들이 그들의 임의로 주관하고 그 고관들이 들에게 권세를 부리는 줄을 너희가 알거니와

43 너희 중에는 그렇지 않을지니 너희 중에 누구든지 크고자 하는 자는 너희를 섬기는 자가 되고

44 너희 중에 누구든지 으뜸이 되고자 하는 자는 모든 사람의 종이 되어야 하리라

이 42~44절 가운데 너희 중에 라는 말이 세 번이나 반복되고 있습니다. 여러분 가운데 즉, 교회에서는 세상의 상식은 통용되지 않습니다. 왜냐하면 교회란 곧 완성되는 하나님 나라의 그림자요, 모형이기 때문입니다. 세상 상식으로 말한다면, 위대한 사람, 직역하면 「큰 사람」이라는 것은 권세를 부리는 인물이라고 예수님은 말씀하십니다. 그러나 하나님 나라에서는 이 세상의 연장선상에서 생각해서는 안 됩니다. 하나님 나라에서 큰사람은 반대로 사람들을 「섬기는 자」라는 것입니다.「섬기는 자」란 그리스어로 「디아코노스」라는 말로 「집사」라고도 번역할 수 있습니다. 더욱이 예수님은 계속해서 말씀하십니다. 「누구든지 으뜸이 되고자 하는 자는 모든 사람의 종이 되어야 하리라」예수님은 노예의 이미지를 사용하시면서 「섬기는 자」의 태도가 어떠한 것인지 설명하십니다. 율법에서는 노예를 돌아보라고 권하지만 노예란 사회적으로 열등한 자이며 경멸의 대상이지 누구도 노예가 되고 싶다는 생각을 하지 않았을 것입니다. 또한 당시 로마 세계에서는 겸손의 미덕이 없었고 겸손은 패배자가 되는 것과 같아 매운 낮은 가치로 여겨졌습니다. 그래서 예수님께서 하신 말씀에는 혁명적인 울림이 있었던 것입니다. 예수님이 이렇게 말씀하시는 데는 이유가 있었습니다. 그것은 바로 예수님이 하시는 일이야말로 사람들을 섬기는 일이었고, 가장 낮은 노예가 되신 것이 있습니다. 예수님이 이러한 모범을 보이셨기 때문에 제자들도 예수님을 따라야 합니다. “저는 주 예수님으로 부터 은혜를 받았습니다. 주 예님께 위로를 받았습니다. 하지만 거기서부터는 더이상 따라갈 수가 없습니다.”라는 것은 있을 수 없을 것이라고 생각됩니다. 예수님은 하늘나라에서 누가 예수님의 오른쪽과 왼쪽에 앉는지에 대해서는 알려주지 않았습니다. 그것은 아버지 하나님에 의해 정해진 사람에게 주어지는 것이고, 곧 다가올 하나님의 나라에 대해서는 아직 우리에게는 숨겨져 있기 때문입니다. 그러나 때가 이르러 하나님의 자녀들이 하늘로 맞아들여질 때는 저마다의 상으로 받는 영광이 균등하지 않음은 분명합니다. 우리는 그 일에도 눈을 똑바로 돌려야 합니다. 나중 일은 모르지만 제자의 길이란 이 세상에서 섬김으로써 하늘이 주시는 면류관을 향해 계속 달려가야 하는 것입니다. 마지막으로 10장 45절을 보시기 바랍니다.

(3) 인자가 온 것은 자신의 목숨을 대속물로 바치기 위해

인자가 온 것은 섬김을 받으려 함이 아니라 도리어 섬기려 하고 자기 목숨을 많은 사람의 대속물로 주려 함이니라

이 부분은 예수님의 사역이 간단하게 설명되어 있습니다. 그것은 첫째, 제자들을 섬겨 주시고 제자들을 말씀으로 양육하여 제자들을 살리겠다는 것이고, 둘째는 죄인들을 속박하고 있는 죄의 굴레에서 해방시키기 위해 대속해 주셨다는 것입니다. 예수님은 지상에서 가장 낮아지셨지만 부활하셔서 하늘로 올라가셨고, 주의 주, 왕의 왕으로서 모든 이름위에 뛰어난 분이 되셨습니다. 이렇게 하나님의 나라에서는 나중 사람이 먼저, 먼저인 사람이 나중이 되는 역전 현상이 일어나는 것입니다. 저는 요즘 동영상으로 개나 고양이 영상을 자주 봅니다. 굉장히 힐링이 됩니다. 동영상을 올리는 사람은 스스로를 고양이 집사로 소개합니다. 고양이는 특히 야행성이어서 한밤중에는 대운동회가 열린다고 하는데 그때도 집사인 주인은 심야에 고양이 장난감으로 같이 놀아 주었습니다. 동물이 인간에 의해 사랑받고 관리될 때 하나님의 창조하신 본래의 모습을 엿볼 수 있지 않을까 생각했습니다. 그만큼 개나 고양이 모습이 사랑스럽습니다.

교회에서의 교제도 똑같이 말할 수 있다고 생각합니다. 우리는 서로가 양이고 궁극적으로 하나님의 말씀에 의해 양육되고 있지만 역시 말씀을 나누는 봉사가 중요하다고 생각합니다. 말씀을 나누는 봉사란 서로가 서로를 살리도록 섬기거나 기도하거나 예수님의 사람을 전달하는 것입니다. 교회에는 다양한 봉사가 있습니다만 봉사를 드리는 데 있어서 한 가지 주의할 점은 자신이 빛나는 것이 아니라 상대방을 살리도록 유의한다는 것입니다. 제가 요즘 반성하고 있는 것은 100엔 샵에서 사온 관엽 식물이 너무 커져서 어느 날 “이 관엽식물은 과시하기 위해 여기 놓여 있는 것입니까?”라는 말을 들었습니다. 큰 관엽 식물 때문에 동선이 막혀 버려서 보행을 방해하고 있었던 것입니다. 그래서 주일에는 너무 큰 관엽식물은 목사실에 넣어 두게 되었습니다. 우리 봉사의 목적은 교회를 살리고 교제를 풍성하게 하는 것이 목적입니다. 하나님께서는 그런 봉사를 귀한 것으로 하나하나 기억해 주실 것임에 틀림없습니다. 오늘도 월보가 인쇄되었습니다. 매달 월보 인쇄를 위해 교회에 오셔서 봉사해 주시는 것에 감사드립니다. 풍성한 보답이 주어지리라 믿습니다. 그리고 서예로 설교간판을 매주 써주시는 것도 감사합니다. 그것이 완성되는 과정에서 어떤 어려움이 있는지 저는 정확히 알 수 없지만 어쨌든 제가 설교제목을 확정하는 것이 늦기 때문에 불필요한 수고를 하시고 계실 것이라 생각됩니다. 그런 눈에 보이지 않는 것도 주님은 보고 계실 겁니다. 찬양에 관해서도 반주자가 매주 연습하면서 주일 봉사에 임해 주시는 것, 혹은 우리가 음악 전문가는 아니지만 각자 하나님께 진심 어린 찬양을 드릴 수 있도록 다양한 반주자의 보이지 않는 봉사가 드려지고 있음에 감사드립니다. 고생과 어려움이 클수록, 그리고 사람의 눈에 보이지 않는 봉사일수록 그 봉사들로 교회가 얼마나 풍성해지고, 가꾸어지는지 거기에 하나님은 주목하고 계시니 분명 하늘에 상이 쌓이고 곧 보답해 주실 것을 믿습니다.

결론

예수님의 공생애의 목적은 종으로서 사람들을 섬기고, 죄인인 우리들의 대속물로 죄와 죽음의 힘으로부터 해방시키기 위해 가장 낮아졌습니다. 그리스도인의 일생도 예수님께서 걸어가신 길을 따라가야 합니다. 이 세상에서는 말씀을 전하기 위해 사람들을 섬기고 종이 되어 각자가 짊어져야 할 십자가를 지도록 합시다. 그것은 그리스도가 받으신 고난의 길을 함께 받는 길이지만 하늘에서 그리스도와 함께 높이 끌러올려 큰 상을 받는 길이기도 합니다.

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