2020年11月22日「ダビデの悪事 다윗의 악행」

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ダビデの悪事 다윗의 악행

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記下 11章1節~27節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。
2ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。
3ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。
4ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、
5子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。
6ダビデはヨアブに、ヘト人ウリヤを送り返すように命令を出し、ヨアブはウリヤをダビデのもとに送った。
7ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。
8それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って足を洗うがよい。」ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。
9しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。
10ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」
11ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」
12ダビデはウリヤに言った。「今日もここにとどまるがよい。明日、お前を送り出すとしよう。」ウリヤはその日と次の日、エルサレムにとどまった。
13ダビデはウリヤを招き、食事を共にして酔わせたが、夕暮れになるとウリヤは退出し、主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかった。
14翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。
15書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。
16町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置した。
17町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。
18ヨアブはダビデにこの戦いの一部始終について報告を送り、
19使者に命じた。「戦いの一部始終を王に報告し終えたとき、
20もし王が怒って、『なぜそんなに町に接近して戦ったのか。城壁の上から射かけてくると分かっていたはずだ。
21昔、エルベシェトの子アビメレクを討ち取ったのは誰だったか。あの男がテベツで死んだのは、女が城壁の上から石臼を投げつけたからではないか。なぜそんなに城壁に接近したのだ』と言われたなら、『王の僕ヘト人ウリヤも死にました』と言うがよい。」
22使者は出発し、ダビデのもとに到着してヨアブの伝言をすべて伝えた。
23使者はダビデに言った。「敵は我々より優勢で、野戦を挑んで来ました。我々が城門の入り口まで押し返すと、
24射手が城壁の上から僕らに矢を射かけ、王の家臣からも死んだ者が出、王の僕ヘト人ウリヤも死にました。」
25ダビデは使者に言った。「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない。剣があればだれかが餌食になる。奮戦して町を滅ぼせ。』そう言って彼を励ませ。」
26ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。
27喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記下 11章1節~27節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日もサムエル記下から御言葉に聞いていきたいと思います。イスラエル統一王国の領土は今まさにエジプト川からユーフラテス川に至るまで拡大されました。ダビデが占領した土地の境界線は、昔、神さまがアブラハムに約束された約束の地の境界です。神さまがアブラハムに約束した事柄がダビデによって、その成就を見ることになったということです。ダビデは約束の地を全て占領した理想的な王であり、偉大な神の僕でした。しかし、ダビデの王権がまさに、絶頂を迎えた時に、取り返しのつかない罪を犯してしまいます。そして、サムエル記下12~20章に至るまで神の審判と懲戒の下で苦しむダビデの姿が描かれています。ダビデの罪とは、情欲から始まった罪ですが、この点に関しては、私自身も大いに思い当たる節がありますから、ダビデを一方的に責めることは出来ません。しかし、本日の記事は罪を犯す人間の凶悪さについて、そして罪自体の恐ろしさについてとことん記述されています。読むのも大変な箇所ですが、丁寧に読んで、自らを警告していければと思います。

【1】. ダビデの罪と卑劣さ

年が改まり、戦争の季節である春になると、すぐにイスラエルとアンモン人との戦争が再開しました。10章から始まったこの戦争も今や終わりの段階に近づいています。イスラエルは全軍を送り、アンモンの首都であるラバを包囲しましたが、なぜかダビデ自身は戦場には行かず、王宮で退屈な時間を過ごしていました。ある日、夏の暑さをさけるために昼寝をして、夕方ごろに王宮の屋上を散歩していると、一人の美しい女性が身体を洗っている場面が、ダビデの目に飛び込んできました。彼女を見たダビデは人を送り、彼女の身分を調べてみました。彼女はエリアムの娘であり、ウリヤの妻であるということが分かりました。ウリヤとは、ダビデの30勇士の中の一人です。バト・シェバの家系に目を向けるなら、バト・シェバの父、エリアムもやはりダビデの30勇士の中の一人です。そして、さらに言えば、バト・シェバの祖父は軍師アヒトフェルです。恐らく今回のバト・シェバ事件に躓いたために、後にこの軍師アヒトフェルがアブサロムと一緒に謀反を起こすことになったと思われます。バト・シェバのこのような背景を知った時、ダビデは大切な部下たちのことを思いやって、当然、自身の情欲を抑制しなければなりませんでした。しかしそうすることができなかったのです。聖書の記事を見ると、単純に起こった事件だけが簡潔に報道されています。読者である私たちにおいて、いろいろな質問が提起されるのではないでしょう。「バト・シェバはなぜ人々の見えるところで入浴をしたのだろうか?」、「バト・シェバは、ダビデとの性的行為を果たして喜んで受け入れたのか?」、「それとも大声を出して抵抗したのか?」、ダビデとバト・シェバの動機や内面について詮索したくなります。というのは、後でバト・シェバの息子であるソロモンがダビデ王に続いて王位を継承することになるからです。しかし、そのような内容は悉く隠されていて、ロマンスのような美しい男女の微妙なやり取りは省略されていて、ただ氷山の一角のように表に現れている内容しか記述されていません。そのために、ダビデの罪と、ウリヤの誠実さが、客観的に浮き彫りにされています。その以外の点については読者が、各自で想像する以外にないのであります。4~5節を御覧ください。

“ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。”

4節で“彼女は汚れから身を清めたところであった”という言葉は、二つの重要な事を意味しています。一つは、月経があけてしばらくした後、比較的妊娠しやすい時期であったということ、そしてもう一つは、月経の後ということから、妊娠した子は間違いなくウリヤの子ではないということです。妊娠の知らせを聞いたダビデは、たとえ恥を被ってもすぐに悔い改めれば良かったのですが、そうすることはできませんでした。律法では、姦淫の罪は死罪に当たります。しかし、まさか王を裁いて死刑に宣告することなどできなかったでしょう。ダビデは自分の罪をもみ消そうとして、ウリヤを騙してバト・シェバが身ごもった子どもを、彼の子どものように見せかけるために、ウリヤを戦場から呼び寄せました。7~8節を御覧ください。

“ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って足を洗うがよい。」ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。”

戦場から戻ってきたウリヤに対してヨアブは大丈夫か、兵士たちは大丈夫か、戦争は大丈夫かと尋ねていますが、しかしダビデの実際の関心事は戦争の状況などではありませんでした。彼の最大の関心事とは、ウリヤが家に帰って休むことです。実は8節の“家に帰って足を洗うがよい。”という言葉は、「家でゆっくりくつろぎなさい」という意味の他に、「夫婦の性的関係を持つように」という当時使用されていた婉曲な表現でもありました。ウリヤの後に、王からの賄賂のように、大層な贈り物が続いていきました。もし私がウリヤの立場なら真っすぐに家に帰ったと思います。果たしてダビデは姦淫の罪を覆い隠すことができるのでしょうか。

【2】. ウリヤの誠実

ここでヘト人ウリヤとはどのような人物なのか調べてみましょう。彼は異邦人でした。イスラエルが入植する前に、カナン地域には7つの人種が原住民として住んでいまして、ヘト人というのは、その一つです。申命記7:1には、次のような御言葉がございます。

“あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、”

このようにヘト人とはカナン地域の原住民であるということです。しかしウリヤの、名前を見るとイスラエル式の名前を持っているため、ユダヤ教に改宗した異邦人であると考えられます。ウリヤという名前は「主は私の光」という意味です。自分の思い通りにしようと、権力をふりかざすダビデの卑劣な仕方とは対照的に、ここでウリヤの誠実が光り輝いています。ダビデの勧めのお言葉にも関わらずウリヤは家に帰ることをしないで、王宮の入り口で主君の家臣と共に眠りました。そのことを知らされたダビデはウリヤに「せっかく遠征から帰って来たのではないか。なぜ、家に帰らないのか」と言いました。するとウリヤは次のように答えます。11節を御覧ください。

“ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。”

このウリヤの言葉の背景には、兵士たちが守らなければならない「戦争規定」という律法がありました(申命記23:9-14)。ウリヤの言っているように、もし主の箱がイスラエルの軍隊の中にあったなら、この戦いは一種の聖戦であると位置付けられるでしょう。聖戦において、兵士たちは性的な聖さを維持しなければなりませんでした。陣営の中のある兵士がもし、夜に夢で精を漏らして身を汚した者があれば、その者は陣営の外に出て行き日が沈むまで待たなければなりません。そして日が沈んだら水浴して初めて陣営に戻って来ることが許されたのです。つまり、ウリヤはこの戦争規定を忠実に守り行うために、たとえダビデ王からの勧めがあっても家に帰ってバト・シェバと寝ることはありませんでした。ダビデはウリヤにもう一日エルサレムにとどまるよう説得して、酒を飲ませて、理性を失わせ、家に帰るように仕向けましたが、ウリヤは酒に酔っても家に帰ることはなく、部下たちと一緒に寝ました。酒に酔ったウリヤの方が、正気なダビデより敬虔であると注解書には書かれていました。このようにしてウリヤから放たれる誠実な光の前に、ダビデの闇がさらに際立ってくるのです。

【3】. ウリヤの殺害を隠す

ダビデの計画が失敗に終わると、次の計画を実行に移します。ウリヤを最も危険な戦場に送り、戦士したように見せかけるのです。ダビデは自分の姦淫の罪を覆い隠すため、殺人の罪まで犯そうとしています。このように罪というのは、放って置くと雪だるま式にどんどん膨らんでいき、ついには死に至らせるのです。ですから、とにかく早いうちに、神さまの御前に出て、罪を告白しなければなりません。ヤコブ1:14~15には次のように書かれています。御覧ください。

“人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。”

ダビデはヨアブに手紙を書き、その手紙を皮肉にもウリヤ本人に持たせました。何と氷のような心の持ち主でしょうか。結局、17節にありますようにウリヤは戦士します。ウリヤを殺すためにイスラエルの罪のない兵士がさらに犠牲になりました。ウリヤの戦士の知らせを聞いてダビデは、安どのため息をついたことでしょう。25節を御覧ください。

“ダビデは使者に言った。「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない。剣があればだれかが餌食になる。奮戦して町を滅ぼせ。』そう言って彼を励ませ。」”

ヨアブに対して『そのことを悪かったと見なす必要はない』と言いながら、いかにも懐が広く、物分かりの良い指導者を演じています。その後、ダビデはバト・シェバを妻に迎え入れます。この行為も、表向きには立派な行いでした。やもめとなってしまった戦死した部下の妻を王が責任を持って引き取っているからです。読者である私たちは「バト・シェバは自分の夫が誰の陰謀によって死んだのか知っていたのだろうか」と、ここでも疑問が沸き起こりますが、やはりそのことも聖書は沈黙しています。真実は隠され、ダビデは重荷から解放され、完全犯罪のように終わったかのように見えました。ところが11章の最後に短く、恐ろしい言葉が記されています。何と書いてあるでしょうか。“ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。”

直訳しますと、「ダビデのしたそのことは主の目に悪かった」という表現です。ダビデは先ほど25節においてヨアブに対し、「そのことを悪かったと見なす必要はない」と励ましていますが、主は見方はこれとは異なり、主犯のダビデの悪と、ダビデの悪事に加担した共犯のヨアブの悪を見逃されなかったという意味です。もう一つ注目に値することは、11章において「主」という言葉が、ここで初めて出て来るということです。この最後の部分において“ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。”と評価がなされ、事件がダビデの完全犯罪に終わらないことを示しているのです。続く12章には、預言者によってダビデの犯した罪の刈り取りが、預言されています。

【結論】

本日の11章から私たちは一体何を学んだらいいのでしょうか。なぜ、聖書に模範とすべき信仰者のこのような失敗の記事が赤裸々に書かれているのか、まず、疑問を持つのではないでしょうか。むしろこの記事が省略された方が、福音として人々に届くのではないかと思われる方もおられるのではないでしょうか。ダビデの罪が、サウルの罪より、まだ、軽かったためにダビデは神の恵みの中に居続けることが出来たという事でしょうか。或いは、この記事を逆に取って、信仰の人ダビデでさえ、このような恥ずかしい罪を犯したのだから、自分の罪はまだ、些細でかわいい方だろうと、本日の記事を自分に適用して、安堵するでしょうか。しかし注意しなければならないことは、この後、ダビデは徹底的に罪の刈り取りをさせられ、途方もない代価を支払うことになります。そのことも私たちは決して見逃してはなりません。本日の11章から私たちが学ぶべき点とは、第一に、ダビデを通して人間の罪の恐ろしさを示すために書かれていると見るべきだと思います。私たちが考慮すべきは、ダビデはこれまで見てきた通り、類まれなる信仰者であるこということです。サウルからひどい扱いを受けても復讐をせずに、赦しと忍耐をもって神の時を待ち続けました。ダビデに続く王たちはダビデのように歩んだのか、歩まなかったのか、ダビデを基準にして通信簿が付けられています。ところがそんなダビデであっても、油断して、霊的に目を覚ましていないならば、いつしかおごり高ぶり、誘惑に負けて、あっという間に信じられない罪の中に転落してしまうのです。私たちも常に目覚めて、祈りつつ、罪を遠ざけなければなりません。第二に、神さまは罪の大小を御覧になられるのではなく、罪を悔い改めるなら、赦して下さり、受け入れてくださるお方であるということです。そのためにイエス・キリストが代わりに十字架で死んでくださったのです。もし神さまの御前に出て悔い改めるなら、赦されます。悔い改めとは、このように命をもたらすという意味において、決定的に重要なことなのです。ウェストミンスター信仰告白の15章4節には次のように書かれています。御覧ください。

“永遠の断罪に値しないほど小さい罪がないように、真実に悔い改める者に、永遠の断罪をもたらすことができるほど大きな罪もない。”

聖なる神さまの御目に、罪の大小というのは50歩100歩で変わらないということです。神さまにとっては、「罪が少しでもあるのか、全くないのか」、「汚れているのか、完全に清められているのか」、そのことが重要な事なのです。そして、人が悔い改めに導かれる根本的な原因というのは、やはり神の民として召されているのか、という点に尽きるのではないでしょうか。つまり神さまとの契約の関係の中にいれられているのか、いないのかに、かかっているのです。ダビデは12章において悔い改めに導かれ、その悔い改めの内容が詩編51編に綴られています。神の民として召されているなら、紆余曲折はあっても、最後には必ず悔い改めることができるのです。私たちがどのように取り返しのつかない罪を犯してしまったとしても御前に出て悔い改めるなら、イエス様の故に赦されるのです。私たちは日々思いによって罪を犯し、口によって罪を犯してしまう弱い者ですが、日々悔い改めながら、イエス様を愛し、イエス様の血潮によって清められて、新しい歩みを始めさせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

다윗의 악행

2020년 11월22일 센겐다이교회 주일설교

사무엘하 11장 1~27절

서론

오늘도 사무엘하의 말씀을 들어보도록 하겠습니다. 이스라엘 통일 왕국의 영토는 지금 바로 애굽 강에서 유프라데스 강에 이르기까지 확대되었습니다. 다윗이 점령한 땅의 경계선은, 옛날 하나님께서 아브라함에게 약속하신 약속의 땅의 경계입니다. 하나님께서 아브라함에게 약속하신 일들이 다윗으로 인해, 그 성취를 보게 되었다는 것입니다. 다윗은 약속의 땅을 모두 점령한 이상적인 왕이자, 위대한 하나님의 종이었습니다. 그러나, 다윗의 왕권이 바로 절정에 이르렀을 때, 돌이킬 수 없는 죄를 짓고 맙니다. 그리고 사무엘 하 12~20장에 이르기까지 하나님의 심판과 징계 아래 고통받는 다윗의 모습이 그려져 있습니다. 다윗의 죄란, 정욕에서 비롯된 죄인데, 이 점에 관해서는 저 자신도 크게 짐작되는 대목이 있으니, 다윗을 일방적으로 나무랄 수는 없습니다. 그러나 오늘의 기사는 죄를 짓는 인간의 흉학함에 대해, 그리고 죄 자체의 무서움에 대해 철저히 기술되어 있습니다. 읽는 것도 힘든 부분이지만, 신중하게 읽고 스스로를 경고해 나갔으면 합니다.

(1) 다윗의 죄와 비열함

해가 바뀌고, 전쟁의 계절인 봄이 되자, 곧 이스라엘과 암몬인들의 전쟁이 재개되었습니다. 10장부터 시작된 이 전쟁도 이제 마무리 단계에 가까워지고 있습니다. 이스라엘은 전군을 보내, 암몬의 수도인 랍바를 포위했지만, 웬일인지 다윗 자신은 전쟁터에 나가지 않고, 왕궁에서 한적한 시간을 보내고 있었습니다. 어느 날, 여름 더위를 피하기 위해 낮잠을 자고, 저녁 무렵 왕궁 옥상을 산책하고 있는데, 한 아름다운 여인이 몸을 씻고 있는 장면이 다윗의 눈에 들어왔습니다. 그녀를 본 다윗은, 사람을 보내, 그녀의 신분을 알아보게 했습니다. 그녀는 엘리암의 딸이자, 우리아의 아내라는 것을 알게 되었습니다. 우리아는 다윗의 30인의 용사 중 한 명입니다. 그리고 더 말하면 밧세바의 가계로 눈을 돌려보면, 밧세바의 아버지, 엘리암 역시 다윗의 30인의 용사 중 한 명입니다. 그리고 밧세바의 할아버지는 모사 아히도벨입니다. 아마도 이번 밧세바 사건에 연류되는 바람에, 나중에 이 모사 아히도벨이 압살롬과 함께 역모를 일으키게 된 것으로 보입니다. 밧세바의 이런 배경을 알게 됐을 때, 다윗은 소중한 부하들을 생각하며, 당연히 자신의 정욕을 억제해야 했습니다. 하지만 그렇지 못했습니다. 성경 기사를 보면 단순히 일어난 사건만 간결하게 보도되고 있습니다. 독자인 우리에게는 여러 가지 질문이 제기되는 것은 당연하지 않겠습니까? “밧세바는 왜 사람들에게 보이는 곳에서 목욕을 했을까?” “밧세바는 다윗과의 성관계를 과연 기꺼이 받아들였을까?”, “아니면 소리를 지르고 저항했을까?”, 다윗과 밧세바의 동기나 내면에 대해 캐묻고 싶어집니다. 왜냐하면 나중에 밧세바의 아들인 솔로몬이 다윗 왕을 이어 왕위를 계승하게 되기 때문입니다. 하지만 그런 내용은 모두 숨겨져 있고, 로맨스 같은 아름다운 남녀의 미묘한 대화는 생략되어 있고, 단지 빙산의 일각처럼 겉으로 드러나는 내용만 기술되어 있습니다. 그렇기 때문에, 다윗의 죄와 우리야의 성실함이 객관적으로 부각되고 있습니다. 그 이외의 점에 대해서는 독자가, 각자가 상상하는 것 외에는 없는 것입니다. 4,5절을 보시기 바랍니다.

4 다윗이 전령을 보내어 그 여자를 자기에게로 데려오게 하고 그 여자가 그 부정함을 깨끗하게 하였으므로 더불어 동침하매 그 여자가 자기 집으로 돌아가니라

5 그 여인이 임신하매 사람을 보내 다윗에게 말하여 이르되 내가 임신하였나이다 하니라

4절의 「그 여자가 부정함을 깨끗하게 하였으므로」하는 말은 두 가지 중요한 것을 의미하고 있습니다. 하나는 월경이 끝나고, 얼마 후인 비교적 임신하기 쉬운 가임기였다는 것, 그리고 다른 하나는 월경 후라는 것이기 때문에, 임신한 아이는 틀림없이 우리아의 아이가 아니라는 것입니다. 임신 소식을 들은 다윗은, 설사 망신을 당하더라도 당장 회개하면 좋았겠지만, 그럴 수는 없었습니다. 율법에서, 간음죄는 죽음의 죄에 해당합니다. 하지만 설마 왕을 심판하고 사형을 선고하지는 못했을 것입니다. 다윗은 자신의 죄를 무마하려고, 우리아를 속여 밧세바가 임신한 아이를, 그의 아이처럼 꾸미기 위해 우리야를 전쟁터에서 불러들였습니다. 7~9을 보세요.

7 우리아가 다윗에게 이르매 다윗이 요압의 안부와 군사의 안부와 싸움이 어떠했는지를 묻고

8 그가 또 우리야에게 이르되 네 집으로 내려가서 발을 씻으라 하니 우리아가 왕궁에서 나가매 왕의 음식물이 뒤따라 가니라

9 그러나 우리아는 집으로 내려가지 아니하고 왕궁 문에서 그의 주의 모든 부하들과 더불어 잔지라

전쟁터에서 돌아온 우리아에 대해 요압의 안부와 군사의 안부와 싸움이 어떠했는지를 묻고 있지만, 그러나 다윗의 실제의 관심사는 전쟁 상황 등이 아니었습니다. 그의 최대 관심사는, 우리아가 집에 가서 쉬는 것입니다. 사실 8절의 「집으로 내려가서 발을 씻으라」는 말은 “집에서 편히 쉬라”는 뜻 외에, “부부의 성관계를 가지라”는 당시 사용되었던 완곡한 표현이기도 했습니다. 우리아의 뒤로, 왕의 뇌물처럼, 왕의 음식물이 뒤따라 갔습니다. 만약 제가 우리아의 입장이라면 곧장 집으로 돌아갔을 거예요. 과연 다윗은 간음의 죄를 덮을 수 있을까요?

(2) 우리아의 성실

여기서 헷사람 우리아는 어떤 인물인지 살펴보겠습니다. 그는 이방인이었습니다. 이스라엘이 정착하기 전에, 가나안 지역에는 일곱 족속이 원주민으로 살고 있었는데, 헷 사람이라는 것은 그 중의 하나입니다. 신명기 7장 1절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

네 하나님 여호와께서 너를 인도하사 네가 가서 차지할 땅으로 들이시고 네 앞에서 여러 민족 헷 족속과 기르가스 족속과 아모리 족속과 가나안 족속과 브리스 족속과 히위 족속과 여부스 족속 곧 너보다 많고 힘이 센 일곱 족속을 쫓아 내실 때에

이렇게 헷 사람이란 가나안 지역의 원주민이라는 것입니다. 그러나 우리아의 이름을 보면 이스라엘식 이름을 가지고 있기 때문에, 유대교로 개종한 이방인이라고 생각됩니다. 우리아라는 이름은 「주는 나의 빛」이라는 뜻입니다. 자기 뜻대로 하려고, 권력을 휘두르는 다윗의 비열한 짓과는 대조적으로, 여기서 우리아의 성실함이 빛나고 있습니다. 다윗의 권유에도 불구하고 우리아는 집으로 내려가는 일을 하지 않고, 왕궁 문에서, 그의 주의 모든 부하들과 더불어 잤습니다. 그 사실을 알게 된 다윗은 우리아에게 「네가 길 갔다가 돌아온 것이 아니냐 어찌하여 네 집으로 내려가지 아니하였느냐」고 합니다. 그러자 우리아는 다음과 같이 대답합니다. 11절을 보시기 바랍니다.

우리아가 다윗에게 이르되 언약궤와 이스라엘과 유다가 야영 중에 있고 내 주 요압과 내 왕의 부하들이 바깥 들에 진 치고 있거늘 내가 어찌 내 집으로 가서 먹고 마시고 내 처와 같이 자리이까 내가 이 일을 행하지 아니하기로 왕의 살아계심과 왕의 혼의 살아 계심을 두고 맹세하나이다 하니라

이 우리아의 말 뒤에는, 군사들이 지켜야 할 「전쟁규정」이라는 율법이 있었습니다(신명기 23장 9~14절). 우리아의 말처럼, 만약 주님의 언약궤가 이스라엘 군대 안에 있었다면, 이 전투는 일종의 성전으로 자리잡았을 것입니다. 성전에서, 병사들은 성적인 성스러움을 유지해야 했습니다. 진영 안의 어떤 군사가 만일, 밤에 몽정으로 몸을 더럽힌 자가 있다면, 그 자는 진영 밖으로 나가 해가 질 때까지 기다려야 합니다. 그리고 해가 지면 몸을 씻고나서야 비로서 진영으로 돌아오는 것이 허용된 것입니다. 즉, 우리야는 이 전쟁 규정을 충실히 지키기 위해, 비록 다윗 왕의 권유가 있더라도 집으로 돌아가 밧세바와 잠자리에 들지 않았습니다. 다윗은 우리아에게, 하루 더 예루살렘에 머물도록 설득해, 술을 마시게 하고, 이성을 잃게 하여, 집으로 돌아가게 했지만, 우리아는 술에 취해도 집으로 돌아가지 않고, 부하들과 함께 잤습니다. 술에 취한 우리아가, 제정신인 다윗보다 경건하다고 주해서에는 적혀 있습니다. 이렇게 우리아에게서 뿜어져 나오는 성실한 빛 앞에, 다윗의 어둠이 더욱 도드라져 보이는 것입니다.

(3) 우리아의 살해를 숨기다

다윗은, 계획이 실패로 끝나자, 다음 계획을 실행에 옮깁니다. 우리아를 가장 위험한 전쟁터로 보내, 전사한 것처럼 보이게 하는 것입니다. 다윗은 자신의 간음죄를 덮기 위해, 살인죄까지 저지르려고 합니다. 이처럼 죄라는 것은, 내버려두면 눈덩이처럼 점점 부풀어 올라, 마침내는 죽음에 이르게 하는 것입니다. 그렇기때문에, 어쨌든 빠른 시일 내에, 하나님 앞에 나와, 죄를 고백해야 합니다. 야고보서 1장 14,15절에는 다음과 같이 적혀 있습니다. 보시죠.

14 오직 각 사람이 시험을 받는 것은 자기 욕심에 끌려 미혹됨이니

15 욕심이 잉태한즉 죄를 낳고 죄가 장성한즉 사망을 낳느니라

다윗은 요압 앞으로 편지를 써서, 그 편지를 아이러니하게도 우리아 본인이 전하도록 했습니다. 얼마나 얼음장 같은 마음을 가지고 있을까요? 결국, 17절에 있듯이 우리아는 전사합니다. 우리아를 죽이기 위해 이스라엘의 무고한 병사들이 더 희생되었습니다. 우리아의 전사 소식을 듣고 다윗은, 안도의 한숨을 내쉬었을 것입니다. 25절을 보시겠습니다.

다윗이 전령에게 이르되 너는 요압에게 이같이 말하기를 이 일로 걱정하지 말라 칼은 이 사람이나 저 사람이나 삼키느니라 그 성을 향하여 더욱 힘써 싸워 함락시키라 하여 너는 그를 담대하게 하라 하니라

요압에게 「이 일로 걱정하지 말라」고 전하라고 전령에게 말하면서 자못 아량이 넓고 이해심이 많은 지도자를 연기하고 있습니다. 그 후, 다윗은 밧세바를 아내로 맞아들입니다. 이 행위도, 겉으로 보기에는 훌륭한 행위였습니다. 과부가 되어버린 전사한 부하의 아내를 왕이 책임지고 인수하고 있기 때문입니다. 독자인 우리는 “밧세바는 자기 남편이 누구의 음모에 의해 죽었는지 알고 있을까?”라고 여기서도 의문이 들지만, 역시 그 일도 성경은 침묵하고 있습니다. 진실은 숨겨졌고, 다윗은 무거운 짐에서 풀려나, 완전 범죄처럼 끝난 것처럼 보였습니다. 그런데 11장 끝에 짧고, 무서운 말이 적혀 있습니다. 뭐라고 쓰여 있습니까? 「그 일이 여호와 보시기에 악하였더라」

직역하면 “다윗이 한 그 일은 주님의 눈에 나빴다”라는 표현입니다. 다윗은 방금 25절에서 요압에게 「이 일로 걱정하지 말라」고 격려하는데, 주님의 시각은 이와 달리 주범 다윗의 악과, 다윗의 악행에 가담한 공범 요압의 악을 놓치지 않았다는 뜻입니다. 또 하나 주목할 만한 것은, 11장에서 「여호와」라는 단어가, 여기에서 처음으로 나온다는 것입니다. 이 마지막 부분에서 「그 일이 여호와 보시기에 악하였더라」라는 평가가 이루어져, 사건이 다윗의 완전 범죄로 끝나지 않음을 보여주는 것입니다. 이어진 12장에는, 선지자에 의해 다윗이 지은 죄의 추수가, 예언되어 있습니다.

결론

오늘 11장에서 우리는 도대체 무엇을 배우면 좋을까요? 왜, 성경에 모범으로 삼아야 할 신앙인들의 이런 실패 기사가 적나라하게 쓰여 있는지, 먼저, 의문을 가져야 하는 것은 아닐까요? 오히려 “이 기사가 생략된 편이, 복음으로 사람들에게 전달되지 않을까?”라고 생각하시는 분도 계시지 않을까요? 다윗의 죄가, 사울의 죄보다, 조금 가벼웠기 때문에 다윗은 하나님의 은혜 속에 계속 있을 수 있었다는 말인가요? 아니면, 이 기사를 역으로 취해, 믿음있는 다윗조차도, 이런 부끄러운 죄를 지었으니, 자신의 죄는 사소한 것이고, 애교정도 일 것이라고, 오늘의 기사를 자신에게 적용하고 안도해야 할까요? 그러나 주의해야 할 것은, 이 후, 다윗은 철저하게 죄의 수확를 거두게 되고, 엄청난 댓가를 치르게 됩니다. 그 일도 우리는 결코 간과해서는 안됩니다. 오늘 11장에서 우리가 배워야 할 점은, 첫째, 다윗을 통해 인간의 죄의 무서움을 보여주기 위해 쓰여 있다고 봐야 한다고 생각합니다. 우리가 고려해야 할 것은, 다윗은 지금까지 보아온 대로, 특출난 믿음의 소유자였다는 것입니다. 사울로부터 모진 대접을 받고도 복수를 하지 않고, 용서와 인내로 하나님의 때를 계속 기다렸습니다. 다윗에 이은 왕들은 다윗의 길로 걸었는지, 걷지 않았는지를, 다윗을 기준으로 해서 평가가 정해졌습니다. 그런데 그런 다윗이라도, 방심하고, 영적으로 깨어있지 않다면, 언젠가 교만을 부리고, 유혹에 넘어가 순식간에 믿을 수 없는 죄 속으로 전락하고 마는 것입니다. 우리도 늘 깨어, 기도하며 죄를 멀리해야 합니다. 둘째, 하나님은 죄의 크고 작음을 보시는 것이 아니라, 죄를 회개한다면, 용서해 주시고, 받아 주시는 분이라는 것입니다. 그 때문에 예수 그리스도께서 대신 십자가에서 죽으셨던 것입니다. 만약 하나님 앞에 나가서 회개한다면, 용서받습니다. 회개는, 이렇게 생명을 가져다 준다는 의미에서, 결정적으로 중요한 것입니다. 웨스트민스터 신앙고백 15장 4절에는 다음과 같이 적혀 있습니다. 보시기 바랍니다.

영벌에 처하지 않을 만큼 작은 죄가 없는 것 같이 진실로 회개하는 자를 영벌로 이끌 만큼 큰 죄도 없다

거룩한 하나님의 눈에, 죄의 크고 작음이라는 것은 오십보 백보와 마찬가지로 변하지 않는다는 것입니다. 하나님께 있어서는 “죄가 조금이라도 있는가, 전혀 없는 것인가?”, “부정한 것인가, 완전히 정화되었는가?”, 그것이 중요한 일입니다. 그리고 사람이 회개함으로 인도받는 근본적인 원인이라는 것은, 역시 하나님의 백성으로 부르심을 받았는가 하는 점에 지나지 않는 것은 아닐까요? 즉 하나님과의 언약 관계 속에 들어가 있는지, 들어가 있지 않은지에 달려 있는 것입니다. 다윗은 12장에서 보면 회개로 이끌렸고, 그 회개의 내용이 시편 51편에 실려 있습니다. 하나님의 백성으로 부르심을 받았다면, 우여곡절이 있어도, 마지막에는 반드시 회개 할 수 있는 것입니다. 우리들이 어떤 돌이킬 수 없는 죄를 저질렀다 하더라도 하나님 앞에 나아와 회개한다면, 예수님 때문에 용서 받습니다. 우리들은 매일 생각으로 죄를 짓고, 입으로도 죄를 짓고 마는 연약한 존재이지만, 매일 회개하며, 예수님을 사랑하고, 예수님의 보혈에 의해 죄씻음을 받고, 새로운 걸음을 시작하도록 합시다.

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