2020年11月08日「神の国に入るのは誰か 누가 하나님의 나라에 들어 갈 수 있는가」

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神の国に入るのは誰か 누가 하나님의 나라에 들어 갈 수 있는가

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章13節~31節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:13イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10:15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
10:17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
10:18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
10:19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
10:20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
10:21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
10:22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
10:23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10:27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
10:28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10:29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
10:30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
10:31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 10章13節~31節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 今お読みしました箇所は、子どもたちがイエス様によって祝福される内容と、金持ちの男がイエス様から去っていくという、二つの記事がございまして、この二つの記事が対照に置かれています。私たちの感覚ですと、幼子とか、子供たちと言えば、かわいらしい天使のような存在で、私たち大人たちも子どもたちの無垢なところ、その無邪気さ、素直さなどを、見習うべき美徳の一つである、というふうには考えてしまいますが、マルコによる福音書が書かれた時代においては、そのような考え方は一切なかったようです。当時、普通10歳ごろから律法を学び始めたようですが、子どもというのは、まだ律法もよくわからない罪深い存在であり、取るに足らない者、人々から無視され、価値のない、小さな者と考えられていました。それにも関わらず、15節を見ると、“はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。”と書かれているのです。子どもたちには神の国に入ることが許され、一方で、金持ちの男には入ることが許されなかったということでございます。

【1】. イエス様の憤りを通して見えてくるもの

 イエス様の一行は、いよいよエルサレムに入城しようとしておられます。もしかしたら、イエス様はもう間もなく十字架に架かられることをご自身が分かっていたので、疲れが、その顔に見られたのかもしれません。ここのところ、なぜかイエス様は緊張の連続であったということを周りの弟子たちに察知されていたのかもしれません。そのような状況の中でイエス様に触れていただこうと、子供たちが連れて来られました。13~14節を御覧ください。

“イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。”

弟子たちとしては、子どもの立ち入るような状況ではないということで叱りつけ追い払ったと思われますが、イエス様はそれを見て、かえって弟子たちに憤られました。この「憤られた」という言葉は「怒った」という言葉よりさらに強い言葉です。それほど激しくイエス様は憤られたということです。一体なぜでしょうか。このような無視されている子どもたちが神の国に入るということにおいて、まさに福音のエッセンスがそこに隠されているからです。13節を見ると、「人々が子どもたちを連れてきた」と翻訳されていますが、実は主語が省略されているために、一体、どのような「人々」が子供たちを連れて来たのか、はっきりとは分かりません。両親なのか、親族なのか、知人なのか、お兄ちゃんなのか、お姉ちゃんなのか分かりません。とにかく子供たちが自主的にやって来たのではなく、連れて来られたということです。幼い子どもたちにとっては、なすがまま任せる以外に方法はありません。目の前の人をたのみにして、寄りかかるだけでしたが、実はこれこそ福音のエッセンスなのです。福音とはまさに、一方的な神の招きに信頼し、一方的に与えられたものを受け入れることなのです。

【2】. 何に依り頼むのか

 次に、天国に入ることが許されなかった、金持ちの男の記事ですが、マタイによる福音書、ルカによる福音書にも並行記事がございます。マタイによる福音書には、「富める青年」として紹介されていて、ルカによる福音書には「富める議員」として紹介されています。彼は富む者であり、年齢が若いながら議員であって、何の申し分のない人物でした。物質的な豊かさに留まらず、加えて彼は、霊的な面、つまり信仰的な面においても飢え渇きを持っていました。17節を御覧ください。

“イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」”

ハアハアと走りながら、イエス様の下に来て、跪きながら、「善い先生」と呼んだかと思うと、その次には、何と「永遠の命」について尋ねているのです。金持ちの割には、大変謙遜であり、今時、中々見ることが出来ない好感の持てる青年だと思います。このような人と結婚することを世間では「玉の輿」と言うのではないでしょうか。彼の質問に対して、イエス様は十戒の戒めを提示しました。18~19節を御覧ください。

“イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」”

十戒とは、前半の第一戒から第四戒までが「縦の関係」、つまり、神と人間の関係について書かれていて、後半の第五戒から第十戒までが、「横の関係」つまり隣人との関係について書かれています。ここで、イエス様は、後半の6つの戒めだけを提示しました。すると彼は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。恐らくその言葉に、嘘はなかったのでしょう。加えてファリサイ人の作った言い伝えなども熱心に守っていたのかもしれません。財産にも恵まれ、人々からの人望も厚く、彼が手にしていないものは何もないように思われます。しかし、彼は何故か、心のどこかで虚しさを感じていたのでしょう。富が、人望が、名声が満足させることのできない、はるかに深い次元の飢え渇きを感じていたのかもしれません。神さまから来る心の平安を求めていたのです。人間の心というものは元来、神さまに向かって創造されていて、神の御前で安息を見つけるまでは、決して人は安息を得ることはできないようになっています。イエス様はこの金持ちの男に愛の招きの言葉を語られました。21~22節を御覧ください。

“イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。”

イエスは、「彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。つまりイエス様は金持ちの男に「従って来なさい」という愛の招きの言葉をかけてくださったのです。ところが彼は気を落とし、悲しみながらイエス様の下から去って行きました。彼は、自分の拠り所とするものを、自分の財産から、イエス様へとシフトすることができなかったのです。方向転換をすることができませんでした。彼は、イエス・キリストにある「永遠の命」と、彼の余りにも大きな「財産」とを天秤にかけてみた時に、彼にとっては、自分の財産の方が重かったということです。このようにして、結局、彼は十戒の中の第一戒である「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」という戒めを守ることができなかったのです。ここで、一つ、私たちが注意したいことは、イエス様に従う者は全て、自分の全財産を放棄しなければならないと言っているわけではありません。実際に、イエス様はこれまで弟子たちに対して、個人の所有を全て売り払いなさいとは言われませんでした。また、この金持ちの男がたとえ、自分の財産をすべて売り払ったからと言って、そのことによって神の国に入ることができるのでもありません。大切なことはイエス様を心に迎え入れること、そして子供のようにイエス様に依り頼んでいくことであって、この場合においては、特に財産が、彼の拠り所となり、彼の偶像となっていたために、イエス様はあえて「持っている物を売り払いなさい」と言われたということです。本日の二つの記事を通して、神を信じるとはどういうことかについて説明されているのですが、神を信じるということは、神しか依り頼むことをしないということです。人々から無視され、価値のない、小さな者である子どもたちは、イエス様に依り頼む以外に方法がありませんでした。子どもたちのように神だけを隠れ家として、避け処として、神だけを待ち望む人が、神の国に入ることが出来るのです。私たちも、実際、何に自分自身が寄り頼んで歩んでいるのか、この機会にもう一度点検してみたいと思います。

【3】. 神の国の価値

 次に神の国に入ることが、いかに難しいのかということについて考えて行きましょう。そもそも神の国とは一体何かと言えば、それは物資的なものではなく、霊的なものであり、具体的には、永遠の命であったり、罪の赦しであったり、神の養子とされること、天の嗣業を相続することなどですが、それは、神さまだけが与えることができる善いものであります。当時、経済的に豊かであるということは、神の祝福のしるしであると考えられていましたから、恐らく弟子たちの目には、この金持ちの青年こそ神の国に入るのに最も相応しい人に違いないと思っていたことでしょう。ですから、23節においてイエス様の“財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか”という言葉に非常に驚いたことと思われます。24~27節を御覧ください。

“弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは重ねて言われた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、誰が救われることができるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」”

イエス様と金持ちとのやり取りを通して、イエス様の教える神の国というのが、少しずつ明らかにされていきました。つまり、神の国とは、どのような犠牲を払ってでも、たとえ全財産を売り払ってでも、必ず買わなければならないものであるということです。価値という側面から見るならば、それは、この世の全てのものを遥かに超越する価値があるということでしょう。マタイ16:26には次のような御言葉があるからです。

“たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。”

ですからこのような莫大な価値のある神の国を、私たちが何かをして、その報いとして買い取るということは不可能なことであります。全世界のありったけのお金を積んでも、人間が行い得る最高の善行を積んでも、それを買い取ることは出来ません。それだけ莫大な価値があるのです。そのような神の国が、ただ救い主を通して、贈り物として与えられるのです。この国を所有するために、自分のいかなる義も必要ではなく、単に心の拠り所をイエス・キリストへと方向転換し、福音を受け入れることです。イエス様の御言葉とその力を信じ、救い主としての人格に信頼し、受け入れることです。従って、神の国は、救い主をたのみにして寄りかかるしかない、心の貧しい者たち、悲しむ者たち、失われた者たち、やもめや、孤児や、誰かの助けがなければ生きていけない者たちや、子どもたちに対して、開かれているのです。招きの言葉は、既に私たちにも語られていますから、今日という日に、イエス様を信じ、このとんでもなく莫大な価値のある神の国を、贈り物として子供のように受け入れてください。

【結論】

 この世において、科学の発達が人類の生存競争において強力な武器となり、また、文化や道徳教育が人類の生活を豊かにし、楽しくすることに寄与することが出来ますが、科学や文化や道徳が、私たちに永遠の幸福、永遠の善、永遠の命を提供することは出来ません。神の国はあまりにも高価なために、この世のどのようなものによっても決して買い取ることは出来ませんが、ただ救い主イエス・キリストを通して贈り物として与えられるのです。救いの招きを受けている私たちは、子どものように、ただキリストに寄り頼み、神の国を受け入れ、神を隠れ家、避け処として、神を恐れ、神に希望を持ち、神を待ち望む歩みへと進ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

누가 하나님의 나라에 들어 갈 수 있는가

2020년 11월 8일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 10장 13~31절

서론

오늘 읽은 부분은, 아이들이 예수님께 축복받는 내용과 부자 청년이 예수님을 떠난다는 두 기사가 있는데, 이 두 기사가 대조를 이루고 있습니다. 우리의 감각으로는 어린아이라든가, 아이들이라고 하면 귀여운 천사 같은 존재로 우리 어른들도 아이들의 순수함, 천진난만함, 솔직함등을 본받아야 할 미덕 중 하나라고 생각하게 되지만 마가복음이 쓰여진 시대에는 그런 생각이 일절 없었던 것 같습니다. 당시 보통 10살 무렵부터 율법을 배우기 시작한 것 같은데, 아이라는 것은 아직 율법도 잘 모르는 죄 많은 존재이며 하찮은 자, 사람들로부터 무시당하고, 가치없는 작은 자로 여겨졌습니다. 그럼에도 불구하고 15절을 보면 「내가 진실로 너희에게 이르노니 누구든지 하나님의 나라를 어린 아이와 같이 받들지 않는 자는 결단코 그 곳에 들어가지 못하리라」라고 쓰여 있습니다. 어린아이들에게는 하나님의 나라에 들어가는 것이 허락되었고 반면 부자청년에게는 허락되지 않았다는 것입니다.

(1) 예수님의 분노를 통해서 볼 수 있는 것

예수님의 일행은 드디어 예루살렘에 입성하려고 합니다. 어쩌면 예수님은 곧 십자가에 달리실 것을 자신은 알고 있었기 때문에 피로가 그 얼굴에서 보였을지도 모릅니다. 요즘 왠지 예수님이 긴장의 연속이었다는 것을 주변 제자들은 감지했을지도 모릅니다. 그런 상황 가운데 예수님께서 만져 주시기를 바라고 사람들이 어린 아이들을 데리고 왔습니다. 13,14절을 보시죠.

13 사람들이 예수께서 만져 주심을 바라고 어린 아이들을 데리고 오매 제자들이 꾸짖거늘

14 예수께서 보시고 노하시어 이르시되 어린 아이들이 내게 오는 것을 용납하고 금하지 말라 하나님의 나라가 이런 자의 것이니라

제자들로서는 아이들이 낄 상황이 아니라고 꾸짖고 쫓아냈다고 생각되지만 예수님은 그것을 보고 오히려 제자들에게 노하셨습니다. 이 「노하다」라고 하는 단어는 「화내다」라고 하는 단어보다 상당히 강한 단어입니다. 그정도로 격렬하게 예수님은 분노하셨다는 것입니다. 도대체 왜 그러셨을까요? 이런 무시당하는 아이들이 하나님 나라에 들어간다는 것에 있어서 바로 복음의 에센스가 거기에는 숨겨져 있기 때문입니다. 13절을 보면 「사람들이 어린 아이들을 데리고 오매」라고 번역되어 있습니다만 사실은 주어가 생략되어있기 때문에 도대체 「어떤 사람들」이 어린 아이들을 데리고 왔는지는 명확하게 알 수 없습니다. 부모님인지 친족인지 지인인지 오빠인지 누나인지 모르겠습니다. 어쨌든 어린아이들이 자발적으로 나온게 아니라 데려와졌다는 것입니다. 어린 아이들에게 있어서는 흘러가는 대로 맡기는 것 외에는 다른 방법이 없습니다. 눈앞의 사람을 믿고 의지할 뿐이었지만 사실 이것이야말로 복음의 에센스입니다. 복음이란 바로 일방적인 하나님의 초대를 신뢰하고 일방적으로 주어진 것을 받아들이는 것입니다.

(2) 무엇을 의지하는가

다음으로 천국에 들어가는 것이 허락되지 않은 부자 청년의 기사입니다만, 마태복음, 누가복음에도 병행 기사가 있습니다. 마가복음에서는 「한 사람」 마태복음에서는 「부자 청년 」누가복음은 「어떤 관리」라고 소개하고 있습니다. 그는 부자이며 나이가 어리지만 관리이며 나무랄 데 없는 인물이었습니다. 물질적 풍요에 그치지 않고 게다가 그는 영적인 면, 즉 신앙적인 면에서도 영적인 갈급함을 가지고 있었습니다. 17절을 보세요.

예수께서 길에 나가실새 한 사람이 달려와서 꿇어 앉아 묻자오되 선한 선생님이여 내가 무엇을 하여여 영생을 얻으리이까

헉헉 거리며 달려와서 예수님 밑에 와서 무릎을 꿇으며 「선한 선생님」이라고 불렀는가 하면 그 다음에는 무려 영원한 생명에 대해 묻고 있는 것입니다. 부자치고는 굉장히 겸손하고 요즘 좀처럼 볼 수 없는 호감 가는 청년이라고 생각합니다. 이런 사람과 결혼하는 것을 세상에서는 「현대판 신데렐라」라고 하지 않습니까? 그의 물음에 대해 예수님은 십계명을 제시하셨습니다. 18,19절을 보세요.

18 예수께서 이르시되 네가 어찌하여 나를 선하다 일컫느냐 하나님 한 분 외에는 선한 이가 없느니라

19 네가 계명을 아나니 살인하지 말라, 간음하지 말라, 도둑질하지 말라, 거짓 증언 하지 말라, 속여 빼앗지 말라, 네 부모를 공경하라 하였느니라

십계명이라는 것은, 전반의 제 1계명부터 제 4계명까지가 「세로관계」, 즉 하나님과 인간의 관계에 대해 쓰여있고 후반의 제 5계명부터 제 10계명까지고 「가로관계」즉 이웃과의 관계에 대해서 쓰여져 있습니다. 여기에서 예수님은 후반의 6개의 계명을 제시하셨습니다. 그러자 그는 「이것은 내가 어려서부터 다 지켰나이다」라고 대답했습니다. 아마 그 말에 거짓말은 없었을 것입니다. 게다가 바리새인이 만든 구전등도 열심히 지키고 있었을지도 모릅니다. 재산도 풍부하고 사람들의 인망도 두터워서 그가 손에 쥐고 있지 않는 것은 아무것도 없는 것처럼 생각됩니다. 그러나 그는 왠지 마음속 어딘가에서 허탈감을 느끼고 있었던 것 같습니다. 부가, 인망이, 명성이 만족시키지 못하는 훨씬 더 깊은 차원의 갈급함을 느끼고 있었을지도 모릅니다. 하나님으로부터 오는 마음의 평안을 바라고 있었던 것입니다. 인간의 마음이란 원래 하나님을 향해 창조되어 있고, 하나님 앞에서 안식을 찾기 전까지는 결코 사람은 안식을 얻을 수 없게 창조되었습니다. 예수님은 이 부자 청년에게 사랑의 초대말을 하셨습니다. 21,22절을 참조하십시오.

21 예수께서 그를 보시고 사랑하사 이르시되 네게 아직도 한 가지 부족한 것이 있으니 가서 네게 있는 것을 다 팔아 가난한 자들에게 주라 그리하면 하늘에서 보화가 네게 있으리라 그리고 와서 나를 따르라 하시니

22 그 사람은 재물이 많은 고로 이 말씀으로 인하여 슬픈 기색을 띠고 근심하며 가니라

예수님은 「그를 보시고 사랑하사」라고 쓰여 있습니다. 즉 예수님은 부자 청년에게 「따라오너라」라고 부르심의 초대의 말씀을 걸어주신 것입니다. 그런데 그는 슬픈 기색을 띠고 근심하며 예수님을 떠났습니다. 그는 자신이 의지하는 것을, 자신의 재산으로부터 예수님께로 옮기지 못했습니다. 방향을 바꿀 수 없었습니다. 그는 예수 그리스도에게 있는 「영원한 생명」과 자신이 소유한 너무나 큰 「재산」을 저울질해 보았을 때 그에게는 자신의 재산이 더 무거웠다는 것입니다. 그리하여 결국 그는 십계명 중 첫 번째 계명인 「너는 나 외에는 다른 신들을 네게 있게 말찌니라」는 계명을 지키지 못했습니다. 여기서 한 가지 우리가 주의하고 싶은 것은 예수님을 따르는 자들이 모두 자신의 전 재산을 포기해야 한다고 말하는 것은 아닙니다. 실제로 예수님은 지금까지 제자들에게 개인의 소유를 전부 팔으라고는 말씀하지 않으셨습니다. 또 이 부자 청년이 만약에 자신의 재산을 전부 팔아 치웠다고 해서 그 행위로 인해서 천국에 들어갈 수 있는 것도 아닙니다. 중요한 것은 예수님을 마음속으로 영접하는 것, 그리고 어린 아이처럼 예수님을 의지하는 것, 이 경우에 있어서는 특히 재산이 그의 의지하는 대상이었고 그의 우상이 되어 있기 때문에 예수님은 일부러 「네게 있는 것을 다 팔아 가난한 자들에게 주라」라고 말씀하셨던 것입니다. 오늘 살펴보는 이 본문의 두가지 기사를 통해서 하나님을 믿는다는 것이 어떤 것인지 설명되어져 있습니다만 하나님을 믿는다는 것은 하나님만 의지하는 것을 말합니다. 사람들로부터 무시당하고 가치가 없는 작은 자인 아이들은 예수님을 의지하는 것외에는 다른 방법이 없었습니다. 아이들처럼 하나님만을 은신처로, 피할 곳으로, 하나님만을 고대하는 사람이 하나님의 나라에 들어갈 수 있는 것입니다. 우리들도 사실 자기자신이 무엇을 의지하며 살고 있는지 이번 기회에 다시 한번 점검해 보았으면 좋겠습니다.

(3) 하나님 나라의 가치

다음으로 하나님의 나라에 들어가는 것이 얼마나 어려운가에 대해서 생각해봅시다. 애초에 하나님의 나라가 무엇이냐 하면 그것은 물질적인 것이 아니라 영적인 것이며 구체적으로는 영원한 생명이거나 죄를 용서하거나 하나님의 양자로 입양되거나 하늘의 유업을 상속받는 것 등인데 그것은 하나님만이 주실 수 있는 선한 것입니다. 당시 경제적으로 풍요롭다는 것은 하나님의 축복의 표시로 여겨졌기 때문에 아마도 제자들이 보기에는 이 부자 청년이야말로 하나님 나라에 들어가기에 가장 적합한 사람임에 틀림없다고 생각했을 것입니다. 그래서 23절에서 예수님의 「재물이 있는 자는 하나님의 나라에 들어가기가 심히 어렵도다」라는 말씀에 매우 놀랐을 것으로 생각됩니다. 24~27절을 보시기 바랍니다.

24 제자들이 그 말씀에 놀라는지라 예수께서 다시 대답하여 이르시되 얘들아 하나님의 나라에 들어가기가 얼마나 어려운지

25 낙타가 바늘귀로 나가는 것이 부자가 하나님의 나라에 들어가는 것보다 쉬우니라

26 제자들이 매우 놀라 서로 말하되 그런즉 누가 구원을 얻을 수 있는가 하니

27 예수께서 그들을 보시며 이르시되 사람으로는 할 수 없으되 하나님으로는 그렇지 아니하니 하나님으로서는 다 하실 수 있느니라

예수님과 부자 청년과의 대화를 통해 예수님께서 가르치시는 하나님 나라라고 하는 것이 조금씩 드러났습니다. 즉 하나님의 나라는 어떠한 희생을 치르고라도 예를 들어 전재산을 다 처분할지라도 반드시 사야 한다는 것입니다. 가치 측면에서 본다면 그것은 이 세상의 모든 것을 훨씬 초월할 가치가 있다는 것입니다. 마태복음 16장 26절에는 다음과 같은 말씀이 있기 때문입니다.

사람이 만일 온 천하를 얻고도 제 목숨을 잃으면 무엇이 유익하리요 사람이 무엇을 주고 제 목숨과 바꾸겠느냐

그러므로 이 막대한 가치가 있는 하나님의 나라를 우리가 무언가를 하고 그 보답으로 사들인다는 것은 불가능한 일입니다. 전 세계의 모든 돈을 다 쌓아도, 인간이 행할 수 있는 최고의 선행을 쌓아도 그것을 사들일 수 없습니다. 그만큼 엄청난 가치가 있는 것입니다. 그런 하나님의 나라가 그저 구세주를 통해서 선물로 주어지는 것입니다. 이 나라를 소유하기 위해서 자신의 어떠한 의도 필요하지 않고 그저 마음의 중심을 예수 그리스도께로 방향을 돌려서 복음을 받아들이는 것입니다. 예수님의 말씀과 그 권능을 믿고 구세주의 인격을 신뢰하고 영접하는 것입니다. 따라서 하나님의 나라는 구세주를 믿고 의지할 수밖에 없는 마음이 가난한 자들, 애통하는 자들, 잃어버린 자들, 홀아비나 고아나 누군가의 도움이 없이는 살아갈 수 없는 자들과 아이들에게 열려 있는 것입니다. 초대의 말씀은 이미 우리에게도 전해졌으니 오늘이라는 날에 예수님을 믿고 이 터무니없을 만큼 엄청난 가치가 있는 하나님 나라를 선물로 어린아이처럼 받으시기 바랍니다.

결론

이 세상에서 과학의 발달이 인류의 생존경쟁에 강력한 무기가 되고 또 문화와 도덕교욱이 인류의 삶을 풍요롭게 하고 즐겁게 하는 데 기여할 수 있지만 과학과 문화와 도덕이 우리에게 영원한 행복, 영원한 선, 영원한 생명을 제공하지는 못합니다. 하나님 나라는 너무 비싸서 이 세상의 어떤 것으로도 결코 매입할 수 없지만 오직 구원자 예수 그리스도를 믿음으로 선물로 주어지는 것입니다. 구원의 초대를 받고 있는 우리는 어린아이처럼 오직 그리스도께 의지하여 하나님의 나라를 받아들이고 하나님을 은신처로, 피할 곳으로, 하나님을 경외하고, 하나님께 희망을 갖고, 하나님을 고대하는 삶으로 나아가도록 합시다.

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