2020年11月01日「メフィボシェトに注がれた慈しみ 므비보셋에게 부어진 인자하심」

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メフィボシェトに注がれた慈しみ 므비보셋에게 부어진 인자하심

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記下 9章1節~13節

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:1ダビデは言った。「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい。」
9:2サウル家に仕えていたツィバという名の者がダビデのもとに呼び出された。「お前がツィバか」と王が尋ねると、「僕でございます」と彼は答えた。
9:3王は言った。「サウル家には、もうだれも残っていないのか。いるなら、その者に神に誓った忠実を尽くしたいが。」「ヨナタンさまの御子息が一人おられます。両足の萎えた方でございます」とツィバは王に答えた。
9:4王は「どこにいるのか」と問い、ツィバは王に、「ロ・デバルにあるアミエルの子マキルの家におられます」と答えた。
9:5ダビデ王は人を遣わし、ロ・デバルにあるアミエルの子マキルの家から彼を連れて来させた。
9:6サウルの子ヨナタンの子メフィボシェトは、ダビデの前に来るとひれ伏して礼をした。「メフィボシェトよ」とダビデが言うと、「僕です」と彼は答えた。
9:7「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。祖父サウルの地所はすべて返す。あなたはいつもわたしの食卓で食事をするように」とダビデが言うと、
9:8メフィボシェトは礼をして言った。「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは。」
9:9王は、サウルの従者であったツィバを呼んで言った。「サウルとその家の所有であったものはすべてお前の主人の子息に与えることにした。
9:10お前は、息子たち、召し使いたちと共に、その土地を耕して収穫をあげ、お前の主人の子息のために生計を立てよ。お前の主人の子息メフィボシェトは、いつもわたしの食卓で食事をすることになる。」ツィバには十五人の息子と二十人の召し使いがいた。
9:11ツィバは王に答えた。「私の主君、王が僕にお命じになりましたことはすべて、僕が間違いなく実行いたします。」メフィボシェトは王子の一人のように、ダビデの食卓で食事をした。
9:12メフィボシェトにはミカという幼い息子がいた。ツィバの家に住む者は皆、メフィボシェトの召し使いとなった。
9:13メフィボシェトは王の食卓に連なるのが常のことであり、両足とも不自由なので、エルサレムに住んだ。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記下 9章1節~13節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 前回見てまいりましたサムエル下8章は、ダビデの成功物語ではなく、神の成功物語であるということを見てまいりました。つまり、神の国が拡大されたことは、神の約束の御言葉の成就であり、それは契約に対する一貫した「ご自身の信実さ」に基づいたものでありました。本日は、そのような神の恵みを受けたダビデが、ヨナタンとの契約を思い出して、その契約に対して忠実さ、信実さを示していくということが描かれています。ダビデとヨナタンの二人の間には、以前、契約が交わされていました。ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、自分が着ていた王子の上着を与え、また、装束と剣、弓と帯に至るまでダビデに与えました。そして、その契約に基づいてヨナタンはダビデに次のことを懇願しました。サムエル記上20:14~15を御覧ください。

“そのときわたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、また、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないでほしい。”

ここで、「慈しみ」という言葉が出て来ますが、ヘブライ語でヘセッドという言葉です。実は本日の9章にもヘセッドという言葉が何度か出て来ますが、「忠実」と翻訳されています。このように、この言葉は、聖書の中で色々な言葉で訳されています。その他にも「恵み」「憐み」「信実さ」「顧み(好意)」などと訳されますが、主に高いところから、見返りを期待できない低い所へ注がれる「愛」という意味です。神さまがダビデを顧みられ、契約に対する忠実さを示してくださったために、ダビデはその頂いた恵みを人に施さないではいられなかったのでしょう。

【1】. 恐怖におびえるメフィボシェト

 「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい。」とダビデは言いました。そこへサウル家に仕えていたツィバという者がダビデの下に呼び出されます。ツィバは、王から直接、召喚を受けるほどの身分であったようです。また後で見ますが、ツィバには15人の息子と20人の僕を抱えていたとありますので有力者でもあったようです。9:2節~4節を御覧ください。

“サウル家に仕えていたツィバという名の者がダビデのもとに呼び出された。「お前がツィバか」と王が尋ねると、「僕でございます」と彼は答えた。王は言った。「サウル家には、もうだれも残っていないのか。いるなら、その者に神に誓った忠実を尽くしたいが。」「ヨナタンさまの御子息が一人おられます。両足の萎えた方でございます」とツィバは王に答えた。王は「どこにいるのか」と問い、ツィバは王に、「ロ・デバルにあるアミエルの子マキルの家におられます」と答えた。”

ツィバは、ダビデの質問に対して、3節で「ヨナタンさまの御子息が一人おられます」と言いながら、彼の名前を言わずに、「両足の萎えた者」と彼の状態について言及しています。なぜ両足が萎えてしまったのかと言うと、サウルがギルボアの戦いにおいてペリシテ軍に敗れ、戦死したという便りが伝えられて、人々は慌てて、ヨルダン川の東に逃げていったのですが、この時、かわいそうに、乳母がメフィボシェトを落としてしまったからです。それ以来、メフィボシェトは両足が萎えてしまいました。皆さんはこのツィバの言い回しからどんな感じを受け取りますでしょうか。第一に、「ダビデの王位に危険を及ぼす存在では全くない」ということが、伝わってきますが、その裏に「名前さえ呼ばれない存在である」ということが伝わってきます。さらに、4節で、「どこにいるのか」という質問に対し、「ロ・デバルにあるアミエルの子マキルの家におられます」と答えていますが、このロ・デバルという場所ははっきりと確定されてはおらず、恐らくマハナイムの近くであったろうと考えられていますが、それよりもこの「ロ・デバル」という地名の意味ですが、「荒れ果てた」とか「つまらない」という意味です。つまりツィバがダビデに伝えた情報というのは、「荒れ果てた、つまらない所にあるマキルの家に住み込んでいる両足の萎えた障碍者がいます」と伝えているのです。この時、メフィボシェトの置かれている状況が、いかに希望のなく、悲惨な状況に置かれているのか、ということが伝わってくるのです。

【2】. 名前を呼ばれ、救済を宣告する王

 ダビデは早速、マキルの家に人を遣り、彼をエルサレムに連れて来させました。当時、王朝が代わると、以前の王家は絶滅されましたから、エルサレムに到着する道中の中で、いろいろな不安がメフィボシェトの頭の中をよぎったのではないでしょうか。この時、12節を見ますとメフィボシェトに既にミカという幼い子が生まれていました。ですから、この12節の記事が、後代において付け足されたものでないなら、つまり実際にこの時、既にミカがいたとすれば、メフィボシェトは次のような絶望感をもったことでしょう。「もしかしたら、我が子ミカがダビデの目に潜在的な脅威として映ったのではないだろうか?」「サウル家の子孫が残されることがダビデ王の気に入らなかったのだろう。それにしても、何も考えずに子どもを作ってしまったことがこんな命取りとなるとは…」と悔いていたかもしれません。メフィボシェトはダビデ王の前に連れて来られると、ひれ伏して礼をしました。6~8節をご覧ください。

“サウルの子ヨナタンの子メフィボシェトは、ダビデの前に来るとひれ伏して礼をした。「メフィボシェトよ」とダビデが言うと、「僕です」と彼は答えた。「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。祖父サウルの地所はすべて返す。あなたはいつもわたしの食卓で食事をするように」とダビデが言うと、メフィボシェトは礼をして言った。「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは。」”

ダビデは絶滅寸前の生き残りであるメフィボシェトに対して、「メフィボシェトよ」という名前によって第一声を掛けてくださいました。なんと、王が自分の名前を呼んでくれたのです。この時、もしかしたら王は自分に対して、苛立しさを持ってはいないのではないか。もしかしたら、自分という存在は王に受け入れられているのではないかと思ったのではないでしょうか。なぜなら名前を呼んでくれたからです。私は小学校の頃、友達から名前で呼んで欲しかったのですが、いつも名字で呼ばれ、一度も名前で呼ばれたことはありませんでした。ですから名前で呼ばれる人をとても羨ましく思っていました。見ていると凡そ、三文字以下の名前の人は、比較的名前で呼ばれる可能性が高いということが分かりました。また、名前が長くても、「一郎」とか、「裕次郎」などのように、名前の後ろに郎が付く人は比較的名前で呼ばれやすいということも分かりました。ですから、その時、自分の名前がなぜこのような名前なのかと大変、落胆したことを覚えています。名前というのは、その中にその人の人格も含まれているのだと思います。人は名前で呼ばれる時に、自分自身も受け入れられていると感じるのだと思います。恐れに満ちていたメフィボシェトの心に、若干の変化が起こったのかもしれません。ダビデの第二の言葉は、メフィボシェトに対する救済の宣告です。「恐れることはない」という言葉から始まり、没収されていたサウル家の所有地をメフィボシェトに返還すると言われました。サウルはギブアを首都としていましたので、サウル家の土地はギブアにあったはずです。その莫大の土地に、ツィバの息子たち、僕たちを働くようにさせて、そこから上がってくる収益によってメフィボシェトは生活ができるようになりました。そして、さらに名誉なこととして、王の宮廷において食事を共に与らせていただけるということです。これは、すなわちメフィボシェトを養子のように受け入れてくださることであり、王子の一人のように扱われることを意味します。恐らくダビデの食卓には、官僚のトップたちが列席していたに違いありません。軍司令官のヨアブや、祭司のツァドク、補佐官のヨシャファトなど、王子と共に座っていたことでしょう。メフィボシェトはこれまで誰かの助けがなければ生きていけない者として、人々から疎ましく思われていたのに、今、譲りの地を回復されて、さらに王の食卓に与らせていただき、その栄誉も回復されたのです。メフィボシェトは、ダビデ王に対し、「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは」と、自分を卑下する言葉によって返事をしていますが、ダビデ王から賜った恵みに、余りにも大きな感謝を言葉で表現することが出来なかったということだと思います。

【3】. 両足が不自由だったために

 最後に12~13節に全体の要約が書かれています。御覧ください。

“メフィボシェトにはミカという幼い息子がいた。ツィバの家に住む者は皆、メフィボシェトの召し使いとなった。メフィボシェトは王の食卓に連なるのが常のことであり、両足とも不自由なので、エルサレムに住んだ。”

メフィボシェトにはミカが生まれましたが、ミカは4人の子どもをもうけ、その後もヨナタンの子孫が途絶えることがなかったと聖書には書かれています。歴代誌上8:34~35を御覧ください。

“ヨナタンの子は、メリブ・バアル(メフィボシェト)。メリブ・バアルにはミカが生まれた。ミカの子は、ピトン、メレク、タレア、アハズ。”

さらに、アハズに続く子孫が歴代誌9:42以降に書かれています。後でご確認ください。最後に13節でメフィボシェトが障碍者であったことを想起させるように「両足とも不自由なので、エルサレムに住んだ。」という言葉によって結ばれています。このことは当時の常識で考えるならあり得ないことでした。なぜなら、当時足の不自由な者は、エルサレム神殿に入ることが出来なかったからです。ダビデが、エブス人の町エルサレムを攻略した時のことを思い返してほしいのですが、自然の要塞であるエルサレムを守るエブス人は、ダビデをバカにしながら“目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ”と言い放ちました。ダビデは最終的に水路から潜入してこのエルサレムを攻略するのですが、その時にバカにされた言葉がよほど悔しかったのか、“目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない”というキャッチフレーズが言われるようになったのです(サムエル下5:6~8参照)。そして、そのキャッチフレーズと9:13節の御言葉は、互いに相反する言葉だからです。「逆説的ではないか?」「両足とも不自由なので、エルサレムに住めなかった」となるべきではないか?ということです。一体「両足が不自由であったため、かえって主が臨在する都エルサレムに住むことが許された」とはどういう意味でしょうか。この逆説は、メフィボシェトに臨んだ救済というのが、実は私たちに対する救いのメッセージであるということを意味しているのだと思います。福音書を見る時に、同じようにこのような逆節がまかり通っていることを発見します。例えばマタイの福音書の山上の垂訓です。イエス様は、「心の貧しい人々は、幸いである」、「悲しむ人々は、幸いである」、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」と言われました。これらの御言葉は、常識的に考えるなら、正直、その反対の方がどれだけ幸いなことだろうと考えてしまうでしょう。しかし、その後を読むなら、イエス様の御言葉とは、最後の審判の日を見据えながら、神の国の完成を見据えながら、そのように言われていることに気付かされます。マタイ5:12を御覧ください。

“喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。”

つまり、イエス様はこの世で受ける刹那的な幸いについて語っているのではなく、永遠の次元において享受することになる幸いに述べているということです。心の貧しい人、悲しむ人、生まれつき障碍があったり、やもめや、孤児や、旅人は、誰かの助けがなければ生きていけないために、常に救いを求め、神に依り頼み、神の御言葉にすがりながら、生きて行くことになります。だからこそ彼らは幸いであると言うのです。自分の置かれている悲惨さに気付かされ、自分の力では自分を救済する事が出来ないことを知っている人は幸いであるというのです。神の目から見るなら、人は皆、例外なく罪びとであり、絶望と悲惨の中に置かれています。罪人は自分自身を救い出すことなど出来ませんし、自分自身で真の幸いをつかみ取ることもできません。いくら、この世で豊かな暮らしを享受したとしても終わりの日に神の審判が待ち受けているのです。わたしたちは誰も例外なく、罪人であり、メフィボシェトと同じような悲惨な境遇に置かれているのです。救いとは、私たちが全くの罪人であって、どうしても救いが必要であるという認識から始まります。そして、私たちは何かをしたからではなく、神の側からの一方的な召しに与ることであり、永遠の契約の故に、神の忠実さの故に、罪びとであるこの私に恵みとして嗣業の地が回復され、神の養子として迎え入れられ、天の祝宴に与るようにしてくださるのです。

【結論】

 ヨナタンとの契約のためにダビデを通して、両足の不自由なメフィボシェトに、常識では考えられない恵みが注がれました。このメフィボシェトに注がれた神の慈しみ、神の忠実さというのは、実は私たちに注がれている救いの恵みと同じであるということです。私たちは元来、全くの罪びとであり、自分で自分を救い出すことの出来ない絶望と悲惨の中に置かれています。しかし、今、その悲惨さに目が開かれて、今、神の御前に悲しみを持っていき、今、心を貧しくして救いを心から求めるが故に、私たちにキリストにある救いを与えてくださるのです。私たちに、天の嗣業を備えてくださり、神の家族としてくださり、養子として迎え入れられ、そして天の祝宴に与る者としてくださるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

므비보셋에게 부어진 인자하심

2020년 11월1일 센겐다이교회 주일설교

사무엘하 9장 1~13절

서론

지난 시간에 보았던 사무엘하 8장은, 다윗의 성공 이야기가 아니라, 하나님의 성공 이야기라는 것을 보았습니다. 즉, 하나님 나라가 확대된 것은, 하나님의 약속 말씀의 성취였고, 그것은 언약에 대해 일관된 「하나님 자신의 신실함」에 근거한 것이었습니다. 오늘은 그런 하나님의 은혜를 받은 다윗이, 요나단과의 언약을 떠올리며, 그 언약에 대해 은총을 베풀고, 신실함을 보여준다는 것이 그려져 있습니다. 다윗과 요나단 두 사람 사이에는, 이전에 맺은 언약이 있었습니다. 요나단은 다윗을 자기 자신처럼 사랑하여 자기가 입었던 겉옷을 벗어 다윗에게 주었고, 자기의 군복과 칼과 활과 띠에 이르기까지 다윗에게 주었습니다. 그리고 그 언약에 따라 요나단은 다윗에게 다음과 같은 간청을 했습니다. 사무엘상 20장 14,15절을 보시기 바랍니다.

14 너는 내가 사는 날 동안에 여호와의 인자하심을 내게 베풀어서 나를 죽지 않게 할 뿐 아니라

15 여호와께서 너 다윗의 대적들을 지면에서 다 끊어 버리신 때에도 너는 네 인자함을 내 집에서 영원히 끊어 버리지 말라 하고

여기서 「인자함」이라는 말이 나오는데, 히브리어로 「헤세드」라는 말입니다. 사실 오늘 9장에도 헤세드라는 말이 여러 번 나오는데 「은총」이라고 번역되어 있습니다. 이 처럼 이 단어는 성경 속에서 여러가지 말로 번역되고 있습니다. 그 밖에도 「은혜」,「긍휼」, 「신실함」, 「보살피심(호의)」등으로 번역되는데, 주로 높은 곳에서, 그 댓가를 기대할 수 없는 낮은 곳으로 내려지는 「사랑」이라는 뜻입니다. 하나님께서 다윗을 보살피시고, 언약에 대한 신실하심을 보여주셨기 때문에, 다윗은 그 받은 은혜를 베풀지 않을 수 없었을 것입니다.

(1) 무서워하는 므비보셋

「사울의 집에 아직도 남은 사람이 있느냐 내가 요나단으로 말미암아 그 사람에게 은총을 베풀리라」라고 다윗은 말했습니다. 그곳에 사울 집안을 섬기던 시바라는 자가 다윗 앞으로 불려 나옵니다. 시바는 왕으로부터 직접, 소환을 받을 정도의 신분이었던 것 같습니다. 또 나중에 보겠지만, 시바는 15명의 아들과 20명의 종을 두고 있었다고 하니 유력자이기도 했던 것 같습니다. 9장 2~4절을 보시기 바랍니다.

2 사울의 집에는 종 한 사람이 있으니 그의 이름은 시바라 그를 다윗의 앞으로 부르매 왕이 그에게 말하되 네가 시바냐 하니 이르되 당신의 종이니이다 하니라

3 왕이 이르되 사울의 집에 아직도 남은 사람이 없느냐 내가 그 사람에게 하나님의 은총을 베풀고자 하노라 하니 시바가 왕께 아뢰되 요나단의 아들 하나가 있는데 다리 저는 자니이다 하니라

4 왕이 그에게 말하되 그가 어디 있느냐 하니 시바가 왕께 아뢰되 로드발 암미엘의 아들 마길의 집에 있나이다 하니라

시바는, 다윗의 질문에 대해 3절에서 「요나단의 아들 하나가 있는데」라며 그의 이름을 말하지 않고, 「다리 저는 자니이다」라고 그의 상태를 언급하고 있습니다. 왜 두 다리를 절게 되었냐하면, 사울이 길보아 전투에서 블레셋군에게 패해 전사했다는 소식이 전해지자 사람들이 황급히 요단 강 동쪽으로 도망을 갔는데, 이때 안타깝게도 유모가 도망치는 가운데 므비보셋을 떨어뜨렸기 때문입니다. 그 이후로 므비보셋은 두 다리를 다 절게 되었습니다. 여러분은 이 시바의 표현에서 어떤 느낌을 받으실까요? 첫째, “다윗의 왕위에 위험을 끼칠만한 존재가 전혀 아니다”라는 것이 전해지는데, 그 이면에 “이름조차도 불리지 않는 존재이다”라는 것이 전해집니다. 게다가 4절에서 「그가 어디 있느냐」는 질문에 「로드발 암미엘의 아들 마길의 집에 있나이다」라고 대답하고 있습니다만, 이 「로드발」이라는 장소는 명확하게 확정되지는 않았고, 아마 마하나님 근처였을 것이라고 생각되고 있습니다만, 그보다 이 「로드발」이라는 지명의 의미입니다만, 「황무지」거나 「보잘것 없다」라는 의미입니다. 즉 시바가 다윗에게 전한 정보라는 것은, “황폐하고, 보잘것 없는 곳에 있는 마길의 집에 기거하고 있는데, 다리를 저는 장애인입니다”라고 전하고 있는 것입니다. 이때 므비보셋의 처해진 상황이 얼마나 희망이 없고 비참한 상황에 처해 있는가하는 것이 전해집니다.

(2) 이름을 불러주고 구원을 선고하는 왕

다윗은 곧, 마길의 집으로 사람을 보내, 그를 예루살렘으로 데려오게 했습니다. 당시, 왕조가 바뀌면, 이전의 왕가는 멸절되었으니, 예루살렘에 도착하는 길 도중에, 여러 가지 불안이 므비보셋의 머릿속을 스치지 않았을까요? 이때, 12절을 보면 므비보셋에게는 이미 미가라는 어린 아들이 하나 있었습니다. 그래서 이 12절의 기사가, 후대에 덧붙여진 것이 아니라면, 즉, 실제로 이때, 이미 미가가 있었다면, 므비보셋은 다음과 같은 절망감을 가졌을 것입니다. ‘어쩌면 우리 아이 미가가 다윗의 눈에 잠재적 위협으로 비친 것은 아닐까? 사울 가문의 자손이 남겨지는 것이 다윗 왕의 마음에 들지 않았을 것이다. 그렇다고 해도, 아무 생각 없이 아이를 낳은 것이 이런 치명타가 될 줄은..’이라고 후회했을지도 모릅니다. 므비보셋은 다윗 왕 앞에 나아오자, 엎드려 절을 했습니다.. 6~8절을 보시기 바랍니다.

6 사울의 손자 요나단의 아들 므비보셋이 다윗에게 나아와 그 앞에 엎드려 절하매 다윗이 이르되 므비보셋이여 하니 그가 이르기를 보소서 당신의 종이니이다

7 다윗이 그에게 이르되 무서워하지 말라 내가 반드시 네 아버지 요나단으로 말이마암아 네게 은총을 베풀리라 내가 네 할아버지 사울의 모든 밭을 다 네게 도로 주겠고 또 너는 항상 내 상에서 떡을 먹을지니라 하니

8 그가 절하여 이르되 이 종이 무엇이기에 왕께서 죽은 개 같은 나를 돌아보시나이까 하니라

다윗은 멸절 직전의 생존자인 므비보셋에게 「므비보셋이여」라고 이름으로 첫 말을 걸어 주었습니다. 세상에! 왕이 자신의 이름을 불러준 것입니다. 이때 ‘어쩌면 왕은 나에 대해 신경질을 내는 것은 아닐까? 아니, 어쩌면 나라는 존재가 왕에게 받아들여지고 있는 것이 아닐까?’라고 여러가지 생각한 것이 아닐까요. 왜냐하면 이름으로 불리워졌기 때문입니다. 저는 초등학교 때, 친구가 이름으로 불러줬으면 했는데, 항상 성으로 불렸고, 한 번도 이름으로 불렸던 적은 없었습니다. 그래서 이름으로 불리는 사람을 굉장히 부러워했습니다. 보고 있으면 대체로 세 글자 이하의 이름을 가진 사람은 비교적 이름으로 불릴 가능성이 높다고 생각했었습니다. 또 이름이 길어도 「이치로」나 「유지로」처럼 이름 뒤에 「로」가 붙은 사람은 비교적 이름으로 불리기 쉽다는 것도 알았습니다. 그래서 그때 ‘내 이름은 왜 이런 이름일까’하고 굉장히 낙담했던 기억이 납니다. 이름이라는 것은, 그 안에 그 사람의 인격도 포함되어 있는 것이라고 생각합니다. 사람은 이름으로 불릴 때 자기 자신도 받아들여지고 있다고 느끼는 것이라고 생각합니다. 두려움으로 가득 차 있던 므비보셋의 마음에, 약간의 변화가 일어난 것일지도 모릅니다. 다윗이 두 번째로 건넨 말은 므비보셋에 대한 구원의 선고입니다. 「무서워하지 말라」는 말로 시작해서 「네 할아버지 사울의 모든 밭을 다 네게 도로 주겠고」라고 했습니다. 사울은 기브아를 수도로 삼았기 때문에, 사울 집안의 땅은 기브아에 있었을 것입니다. 그 엄청난 땅에, 시바의 아들, 종들을 일하게 하여 거기에서 거둬들이는 수익으로 므비보셋은 생활을 할 수 있게 되었습니다. 그리고 더욱 명예로운 것은 왕의 궁궐에서 식사를 함께 할 수 있게 되었다는 것입니다. 이는 곧 므비보셋을 양자처럼 받아들여주는 주는 것이며, 왕자 중 한 명처럼 취급하는 것을 의미합니다. 아마도 다윗의 식탁에는, 관료의 수뇌들이 참석한 것이 틀림없습니다. 군 사령관 요압과 제사장 사독, 보좌관 여호사밧등 왕자와 함께 앉아 있었을 것입니다. 므비보셋은 그동안 누군가의 도움 없이는 살 수 없는 자로서, 사람들에게 꺼림직하게 여겨졌는데, 지금 물려받았던 땅이 회복되고, 더 나아가 왕의 식탁에 불리움을 받아, 그 영예도 회복된 것입니다. 므비보셋은, 다윗 왕에게 「이 종이 무엇이기에 왕께서 죽은 개 같은 나를 돌아보시나이까」라며 자신을 비하하는 말로 대답을 하고 있지만, 다윗 왕이 베풀어 준 은혜에 대한 너무 큰 감사를 말로 다 표현하지 못했다는 것 같습니다.

(3) 두 다리가 불편했던 탓에

끝으로 12,13절에 전체 요약이 적혀 있습니다. 보시기 바랍니다.

12므비보셋에게 어린 아들 하나가 있으니 이름은 미가가 시바의 집에 사는 자마다 므비보셋의 종이 되니라

13 므비보셋이 항상 왕의 상에서 먹으므로 예루살렘에 사니라 그는 두 발을 다 절더라

므비보셋에게는 미가가 태어났지만, 미가는 네 명의 자녀를 두었고, 그 후에도 요나단의 자손이 끊기는 일이 없었다고 성경에는 적혀 있습니다. 역대상 8장 34,35절을 봐 주세요.

34 요나단의 아들은 므립바알이라 므립바알은 미가를 낳았고

35 미가의 아들들은 비돈과 멜렉과 다레아와 아하스이며

또한, 아하스에 이은 자손이 역대상 9장 42절 이후에 쓰여져 있으니 나중에 확인해 보시기 바랍니다. 마지막으로 13절에서 므비보셋이 장애인이었음을 상기시키듯이 「예루살렘에 사니라 그는 두 발을 다 절더라」라는 말로 연결이 되어 있습니다. 이 일은 당시에 상식적으로 생각한다면 있을 수 없는 일이었습니다. 왜냐하면 당시 다리가 불편한 사람들은, 예루살렘 성전에 들어갈 수 없었기 때문입니다. 다윗이 여부스 사람들의 성읍 예루살렘을 공략했을 때를 떠올려 주셨으면 하는데, 자연의 요새인 예루살렘을 지키는 여부스 사람들은, 다윗을 비웃으며 「네가 결코 이리로 들어오지 못하리라 맹인과 다리 저는 자라도 너를 물리치리라」라고 비웃으며 말했습니다. 다윗은 최종적으로 수로로 잠입하여 이 예루살렘을 공략하는데, 그때 바보같이 비웃음을 받았던 일이 상당히 억울했는지 「누구든지 여부스 사람을 치거든 물 긷는 데로 올라가서 다윗의 마음에 미워하는 다리 저는 사람과 맹인을 치라 하였으므로 속담이 되어 이르기를 맹인과 다리 저는 사람은 집에 들어오지 못하리라」 라는 캐치프레이즈가 나오게 된 것입니다(사무엘하 5장 6~8절). 그리고 그 캐치프레이즈와 9장 13절의 말씀은 서로 상반된 말이기 때문입니다. 역설적이지 않습니까? “두 다리가 모두 불편해서 예루살렘에서 살지 못했다”가 되어야 하지 않을까요? 도대체 “두 다리가 불편했기 때문에 오히려 주님이 임재하시는 수도 예루살렘에 사는 것이 허락되었다”는 것은 무슨 뜻일까요? 이 역설은 므비보셋에게 임한 구원이라는 것이, 사실은 우리에 대한 「구원의 메시지」라는 것을 의미하는 것이라고 생각합니다. 복음서를 볼 때, 마찬가지로 이런 역설이 당연한 것을 알수 있습니다. 예를 들면 마태복음의 산상수훈입니다. 예수님은 「심령이 가난한 자는 복이 있나니」 「애통하는 자는 복이 있나니」「나를 인하여 너희를 욕하고 핍박하고 거짓으로 너희를 거스려 모든 악한 말을 할 때에는 너희에게 복이 있나니」라고 말씀하셨습니다. 이 말씀들은 상식적으로 생각한다면 솔직히, ‘그 반대가 얼마나 복된일인가?’하는 생각을 하게 될 것입니다. 그러나 그 뒤를 읽는다면, 예수님의 말씀은 마지막 심판의 날을 바라 보시며 하나님 나라의 완성을 응시하시면서 그렇게 말씀하신다는 것을 깨닫게 됩니다. 마태복음 5장 12절을 보시기 바랍니다.

기뻐하고 즐거워하라 하늘에서 너희의 상이 큼이라 너희 전에 있던 선지자들도 이같이 박해하였느니라

즉, 예수님은 이 세상에서 받는 찰나적인 행복에 대해 말씀하시는 것이 아니라, 영원한 차원에서 누리게 되는 복을 말씀하고 있다는 것입니다. 심령이 가난한 사람, 애통하는 사람, 천성적으로 장애가 있거나, 과부나, 고아나, 나그네는 누군가의 도움 없이는 살 수 없기 때문에 항상 구원을 구하고 하나님의 말씀에 매달리며 살아가게 됩니다. 그렇기 때문에 그들은 「복이 있나니」라고 말씀하시는 것입니다. 자신이 처한 비참함을 깨닫고 자신의 힘으로는 자신을 구제할 수 없다는 것을 알고 있는 사람은 복이있다라는 것입니다. 하나님의 눈으로 본다면, 사람은 모두 예외 없이 죄인이며 절망과 비참 속에 놓여 있습니다. 죄인은 자기 자신을 구해낼 수도 없고, 자기 스스로 진정한 복을 잡을 수도 없습니다. 아무리 이 세상에서 풍요로운 삶을 누린다고 해도 마지막 날 하나님의 심판이 기다리고 있는 것입니다. 우리는 누구도 예외 없이 죄인이며, 므비보셋과 같은 비참한 처지에 놓여 있는 것입니다. 구원이란 우리가 완전한 죄인이고, 반드시 구원이 필요하다는 인식에서 비롯됩니다. 그리고 우리가 무엇인가를 해서가 아니라 하나님의 일방적인 부르심에 참여하는 것이며, 영원한 언약으로 인해, 하나님의 신실하심으로 인해, 죄인인 우리 자신에게 은혜로 기업의 땅이 회복되어, 하나님의 양자로 맞아들여져, 하늘의 잔치에 들어가게 해 주시는 것입니다.

결론

요나단과의 언약으로 인해 다윗을 통해, 두 다리가 불편한 므비보셋에게, 상식적으로는 생각 할 수 없는 은혜가 부어졌습니다. 이 므비보셋에게 부어진 하나님의 인자함, 하나님의 은총이라는 것은, 사실 우리에게 부어지는 구원의 은혜와 같다는 것입니다. 우리는 원래 완전한 죄인이며 스스로를 구원할 수 없는 절망과 비참 속에 놓여 있습니다. 그러나, 지금 그 비참함에 눈이 열려, 지금 하나님 앞에 애통한 마음을 가지고 나아가, 지금 심령을 가난하게 하여, 구원을 진심으로 바라기에 우리에게 그리스도안에 있는 구원을 주시는 것입니다. 우리에게, 하늘의 기업을 준비하여 주시고, 하나님의 가족으로 삼아주시고, 양자로 삼아주시고, 그리고 하늘의 잔치에 참여하게 해 주시는 것입니다.

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