2020年09月27日「神政国家イスラエルの王の回復 신정국가 이스라엘의 왕의 회복」

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神政国家イスラエルの王の回復 신정국가 이스라엘의 왕의 회복

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記下 5章1節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:1イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。
5:2これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」
5:3イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。
5:4ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった。
5:5七年六か月の間ヘブロンでユダを、三十三年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した。
5:6王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」
5:7しかしダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。
5:8そのとき、ダビデは言った。「エブス人を討とうとする者は皆、水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。」このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。
5:9ダビデはこの要害に住み、それをダビデの町と呼び、ミロから内部まで、周囲に城壁を築いた。
5:10ダビデは次第に勢力を増し、万軍の神、主は彼と共におられた。
5:11ティルスの王ヒラムはダビデのもとに使節を派遣し、レバノン杉、木工、石工を送って来た。彼らはダビデの王宮を建てた。
5:12ダビデは、主が彼をイスラエルの王として揺るぎないものとされ、主の民イスラエルのために彼の王権を高めてくださったことを悟った。
5:13ダビデはヘブロンから移った後、エルサレムでも妻をめとり、側女を置いたので、息子や娘が更に生まれた。
5:14エルサレムで生まれた子供たちの名は次のとおりである。シャムア、ショバブ、ナタン、ソロモン、
5:15イブハル、エリシュア、ネフェグ、ヤフィア、
5:16エリシャマ、エルヤダ、エリフェレト。
5:17ペリシテ人は、ダビデが油を注がれてイスラエルの王になったことを聞いた。すべてのペリシテ人が、ダビデの命をねらって攻め上って来た。ダビデはこれを聞いて要害に下った。
5:18やって来たペリシテ人はレファイムの谷に陣を広げた。
5:19ダビデは主に託宣を求めた。「ペリシテ人に向かって攻め上るべきでしょうか。彼らをこの手にお渡しくださるでしょうか。」主はダビデに答えられた。「攻め上れ。必ずペリシテ人をあなたの手に渡す。」
5:20ダビデはバアル・ペラツィムに攻め入り、彼らを討ち滅ぼして、こう言った。「主は敵をわたしの前で、水が堤防を破るように打ち破ってくださった。」その場所をバアル・ペラツィム(破れ目の主)と呼ぶのは、このためである。
5:21ペリシテ人が自分たちの偶像をそこに捨てて行ったので、ダビデとその兵はそれを運び去った。
5:22ペリシテ人は再び攻め上り、レファイムの谷に陣を広げた。
5:23ダビデが主に託宣を求めると、次のように答えられた。「攻め上らず、背後に回れ。バルサムの茂みの反対側から敵に向かえ。
5:24茂み越しに行軍の音を聞いたら、攻めかかれ。主がペリシテの陣営を討つために、お前に先んじて出陣されるのだ。」
5:25ダビデは主の命じられたとおりに行動し、ゲバからゲゼルに至るまで、ペリシテ人を討ち滅ぼした。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記下 5章1節~25節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 サムエル記下5章は、サムエルの預言がついに現実のものとなり、ダビデが全イスラエルの王となって、神の国が回復されていく姿が描かれています。ここに至るまでサウル、ヨナタン、アブネル、そしてイシュ・ボシェトが亡くなりました。しかし、その誰もダビデによって打ち倒された人はいませんでした。ダビデは決して王権を簒奪したのではなかったということです。むしろ、サウルの口からも(サム上24:20)、ヨナタンの口からも(サム上20:14~15)、そしてアブネルの口からも(サム下3:9、3:18)、「ダビデこそ主が選ばれた王である」という告白がなされました。

【1】. イスラエルの真の牧者

 そのような背景にあって、イスラエルの全部族を代表する長老たちがヘブロンのダビデの下に来て、「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。」と切り出しています。この骨肉という表現は、「私たちもあなたも親族関係ですよ」という意味です。また、ダビデは、かつてサウル王の千人隊の長でした。その時、長老たちは、ダビデと生死苦楽を共にしながら、サウルの軍隊に属し、同じ軍人として、王とイスラエルに仕えていたと考えられます。そういった事実を回顧しているのでしょう。5:2~3節を御覧ください。

“これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。”

2節において、特に私たちの目を引く言葉があります。“主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』”という言葉です。

ここには王という言葉は出て来ません。長老たちは、イスラエルの牧者を求めているのであり、民を神に従順させる宗教的な「指導者」を求めているということになります。以前、サウルを周辺諸国のような王として求めた時と大きな違いが見られます。ですから、イスラエルの民が以前とは異なり、悔い改めに導かれたと解釈することもできます。今や、イスラエルの王なるお方は、主なる神、ヤハウェであられることを悟ったということです。ですからダビデに対しては、イスラエルを神に従順させる指導者であり、牧者としての働きを求めているのです。この時、まさに、父、エッサイの羊を飼っていた一介の羊飼いダビデが、神の民、イスラエルを養わせる、一国の牧者となった瞬間であったのです。

ところで、ある神学者は、サウル王の歩みと、ダビデ王の歩みが表面から見ると大変類似しているという点を指摘しています。つまり、サウルとダビデが王とされるいきさつを見てみると、二人も三回王として立てられているということです。サウルの場合、最初、預言者サムエルによって秘かに油注がれ、二度目は、ミツパにおいて公にくじ引きによって王とされ、三度目は、ギルガルにおいて、主の御前でイスラエルの王とされ、契約が更新されました。ダビデの場合も最初は、預言者サムエルによって秘かに油注がれ、二度目は、ユダの人々によって油注がれ、三度目は、イスラエルの王として、主の御前で契約を結びながら全イスラエルの王とされています。このように表面的に見ると二人は大変類似しているのです。ところが、その意味するところは、異なっているようです。つまりサウルが王とされた、いきさつとは、民が自分たちの目の見えるところに従って選んだ王でありました。サムエル記上12:13にはサムエルの次のような言葉があります。

“今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えになる。”

一方、ダビデの場合は、“「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」”とサムエルに告げられたように、ダビデの心を御覧になられ、ダビデこそ主によって立てられた王であるということが繰り返し強調されています。また、イスラエルの民の側においても当時、サウルに対しては、「周辺諸国のような王」を要求しましたが、今回、ダビデに対しては、神の御心を成し遂げる牧者を要求しています。ですから、ダビデの即位を、神政国家イスラエルに牧者としての王が回復されたと見ることができます。このことをさらに言うなら、ダビデ王の歩みというのは、サウル王が失敗した歩みの回復であり贖いであると言うことができるのではないでしょうか。それは、まるで最初のアダムが罪を犯して堕落してしまった世界を、第二のアダムであるキリストが贖っていくというその歩みを予表しているかのようであります。

【2】

 5:11節から16節は、ダビデが物質的にも繁栄していく様子が描かれています。神の国の豊かさが描写されていると言えるでしょう。しかし私たちは、ダビデが享受することになったこれらの豊かさをもって、神がダビデと共におられることの「しるし」だとは、考えることはできません。なぜなら、究極的な神の報いと神の裁きは、イエス様の再臨においてなされるということを私たちは告白するからです。ダビデはサウルに追われて、命を脅かされ続けましたが、そのような時も変わらずに神さまは共にいてくださいました。一度は気が狂った人のような、振る舞いをしたり、或いは多くの家族を食べさせ、保護するために、異邦の国々に対し略奪を働きながらチンピラのように生きて行くこともありました。そのような難しい時期にあっても、神さまは確かにダビデと共にいてくださいました。ですから、たとえ貧しいからといって、たとえ困難の中にあるからといって、神さまに見捨てられているとか、神さまに愛されていないということにはならないのです。むしろ、物質的な豊かさの裏側には、常に危険が伴っていて、下手をすると祝福が呪いに代わることもあるのです。例えば、11節ではフェニキア人の国、ティルスの王ヒラムが、ダビデの王宮をレバノン杉によって建ててくれたという記事がございます。ティルスとの交易はその後、ソロモンの時代にも続き、ソロモンが神さまの神殿を建築する時には、ティルスの王に大変お世話になります。ところが、さらに後の時代になりますが、このフェニキア人を通してイスラエルに偶像崇拝がもたらされることになります。特にフェニキア人のイゼベルがアハブ王の妻として迎え入れられたことによって、イスラエルとユダの偶像礼拝が決定的に加速されていきました。

また、5:13~16節はダビデが神の祝福の中で、子孫が繁栄していく様子が描かれていますが、多くの妻を持ち、ヘブロンにおいてはいなかった側女まで追加することによって、その状況はハーレムのようになってしまい、いつの間にかダビデは、異邦人の国々の王たちのように振舞っている姿を見て取ることが出来るのです。繁栄を通して罪は忍び寄り、繁栄を通して警告を与えているのです。主なる神は確かにダビデと共におられ、そしてダビデの人生は、イエス・キリストの予表であり、キリストの啓示でもありますが、だからと言ってダビデがまったく罪がなく、聖かったということではないということです。

因みに余談ですが、ダビデの子供の中で「エルヤダ」という名前が16節にありますが、歴代誌上14:7を見ますとその名前が「ベエルヤダ」つまり、「バアルはご存知である」という名前で保存されています。これは、サムエル記の編集者がバアルという言葉をエルに変えたのですが、このことから、実はダビデはバアルを崇拝していたのか!ということになるのかと言うと、そういう訳ではなく、当時、主ヤハウェに対して「バアル」という称号を使うこともあったと言われています。例えばサウル子のイシュ・ボシェトも、本名はエシュバアル(歴代上8:33, 9:39)つまり、「バアルは存在する」でありましたが、サムエル記の編集者によって、バアルという単語がボシェト(恥の人)に書き換えられて保存さたと考えられています。また、ヨナタンの子メフィボシェトも本来はメリブ・バアル(歴代上8:34)つまり、「バアルが戦う」でありましたが、やはり、バアルという単語がボシェトに書き換えられて保存されたと考えられています。

【3】

 続いて5:17節からは、レファイムの谷におけるペリシテとの戦いの勝利が二回出てまいりますが、これらの勝利がまさに過去、ペリシテに敗北したことの回復であり、贖いのように私たちの目に映ってくるのです。一回目の戦いである5:17~21節を御覧ください。

“ペリシテ人は、ダビデが油を注がれてイスラエルの王になったことを聞いた。すべてのペリシテ人が、ダビデの命をねらって攻め上って来た。ダビデはこれを聞いて要害に下った。やって来たペリシテ人はレファイムの谷に陣を広げた。ダビデは主に託宣を求めた。「ペリシテ人に向かって攻め上るべきでしょうか。彼らをこの手にお渡しくださるでしょうか。」主はダビデに答えられた。「攻め上れ。必ずペリシテ人をあなたの手に渡す。」ダビデはバアル・ペラツィムに攻め入り、彼らを討ち滅ぼして、こう言った。「主は敵をわたしの前で、水が堤防を破るように打ち破ってくださった。」その場所をバアル・ペラツィム(破れ目の主)と呼ぶのは、このためである。ペリシテ人が自分たちの偶像をそこに捨てて行ったので、ダビデとその兵はそれを運び去った。”

ダビデは、これまで、ガトのアキシュ王に仕える、言ってみれば、「外様大名」のような立場でしたので、南のダビデと北のイスラエルが対立している時は、高見の見物をするかのように見守っていました。ところが、ダビデが統一王国の王とされてからは、事情は異なります。ダビデが王となるや否や、ペリシテ人が総力を結集してレファイムの谷に陣を敷きました。一方、ダビデは17節の終わりを見ると「要害に下った」とありますので、レファイムの谷の近くにあるアドラムの洞窟に陣を敷いたと考えられます。この戦いにおいて特に私たちの目を引くのは、21節の「ペリシテ人が偶像をそこに捨てて行った」という記事です。かつてイスラエルは二度ペリシテ軍に敗北しましたが、一度目はエベン・エゼルでの敗北で、二度目はギルボア山での敗北です。一度目のエベン・エゼルでの敗北では、イスラエルは、主に御言葉を一切、尋ね求めることをせず、ただ契約の箱を偶像のように担ぎ出して、戦いに挑みました。その結果、ペリシテ軍に完全に打ち負かされ、そして、こともあろうか、契約の箱までも奪われてしまいました。あの時の失敗を今、回復し贖うかのように、ダビデは、敵の偶像を奪い取り、主の他に、神々はいないということを宣言しているのです。ダビデがどのように戦ったのかと言えば、主に従順する方法によって、主に御言葉を尋ね求める方法によって戦ったのです。すると主は「攻め上れ。必ずペリシテ人をあなたの手に渡す」と御言葉を与えてくださいました。主によってもたらされた勝利は、「バアル・ペラツィム」という地名が示すように、水が堤防を破るかのような圧倒的な勝利であったのです。続いて二度目の戦いを見てみましょう。22~25節を御覧ください。

“ペリシテ人は再び攻め上り、レファイムの谷に陣を広げた。ダビデが主に託宣を求めると、次のように答えられた。「攻め上らず、背後に回れ。バルサムの茂みの反対側から敵に向かえ。茂み越しに行軍の音を聞いたら、攻めかかれ。主がペリシテの陣営を討つために、お前に先んじて出陣されるのだ。」ダビデは主の命じられたとおりに行動し、ゲバからゲゼルに至るまで、ペリシテ人を討ち滅ぼした。”

歴史家ヨセフスのユダヤ古代史によれば、この時、ペリシテ軍は依然として強大で、ダビデの軍隊より三倍も大きな大軍であったと記されています。二度目の戦いはペリシテの大軍を前にして「バルサムの茂み」から主の御言葉に耳を傾けるダビデの姿が描かれています。ここで、イスラエルが大敗した二度目の戦いであるギルボア山での戦いを思い起こしてみましょう。あの時、サウルがシュネムに陣を敷いているペリシテの大軍を見て、ひどく恐れたことから始まりました。サムエル上28:4~5を御覧ください。

“ペリシテ人は集結し、シュネムに来て陣を敷いた。サウルはイスラエルの全軍を集めてギルボアに陣を敷いた。サウルはペリシテの陣営を見て恐れ、その心はひどくおののいた。”

ギルボア山から見えるペリシテ軍の大軍を見て、サウルはひどくおののいて、この後、口寄せのできる女を訪ねて、エンドルへ行き、その女の占いに耳を傾けてしまいました。以前の説教でも触れましたが、サウルは決して主を尋ね求めることをせず、それまで頑なに主の御声を退け、不従順であったのに、かえってこの口寄せのできる女に伺いを立て、女の言葉に従順する態度を見せたのです。一方で、ダビデの戦いは、今、託宣によって主に伺いを立てています。主が“攻め上らず、背後に回れ。バルサムの茂みの反対側から敵に向かえ”と言われるので、その通りにしました。その光景は私たちの目に、サウルがシュネムにおいて敵を伺っている光景とダブって映るのです。ダビデは、バルサムの茂みから敵の動向を伺いながら、「主がペリシテの陣営を討つために、先んじて出陣される、その音を聞いたなら攻めかかるように」という御言葉を握りしめて、戦いに挑みました。結果は、主がダビデ軍の先頭に立って戦われ、見事に勝利を収め、ペリシテ軍を一気に、ゲゼルに至るまで敗走させたのです。この二度の戦い以降、ペリシテ人はなお残存してはいますが、もはや、イスラエルを脅かす存在ではなくなったのです。

【結論】

 私たちは5章を通して、ダビデがイスラエルの罪を贖い、回復していく姿に目を留めることができました。これは、まさにイエス様がアダムとアダムの子孫の罪を贖い、回復していく姿でもあると言えるでしょう。神さまがイエス様を通して私たちの失敗、私たちの弱さ、私たちの罪を全て贖ってくださったのです。今、振り返って見ますと、私たちの人生は、失敗の連続、過ちの連続、本当に恥ずかしくみじめな歴史でございました。ところが、神さまは十字架を通してそれらを回復し一つ一つ贖ってくださると言われるのです。私たちはイエス様の中で、神の子とされ、イエス様を通して真の王をお迎えし、喜びと感謝の中を歩ませていただけるのです。

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신정국가 이스라엘의 왕의 회복

2020년 9월 27일 센겐다이 교회 주일설교

사무엘하 5장 1~25절

서론

사무엘하5장은, 사무엘의 예언이 마침내 현실화되고, 다윗이 온 이스라엘의 왕이 되어 하나님의 나라가 회복되어가는 모습이 그려져 있습니다. 여기에 이르기까지 사울, 요나단, 아브넬, 그리고 이스보셋이 사망했습니다. 하지만 그 누구도 다윗에 의해 죽은 사람은 없습니다. 다윗은 결코 왕권을 찬탈한 것이 아니었다는 것입니다. 오히려 사울의 입에서도(사무엘상 24장 20절), 요나단의 입에서도(사무엘상 20장 14,15절), 그리고 아브넬의 입에서도(사무엘하 3장 9절, 3장 18절), 「다윗이야말로 주님이 선택한 왕」이라는 고백이 이루어졌습니다.

(1) 이스라엘의 진정한 목자

그런 배경에서, 이스라엘의 모든 지파를 대표하는 장로들이 헤브론에 이르러 다윗에게 나아와 이르되 「보소서 우리는 왕의 한 골육이니이다」라고 말을 꺼내고 있습니다. 이 골육이라는 표현은 “우리도 당신도 친족 관계입니다”라는 뜻입니다. 또 다윗은 과거, 사울 왕의 천부장이었습니다. 그때 장로들은 다윗과 생사고락을 같이 하면서 사울의 군대에 속해 같은 군인으로, 왕과 이스라엘을 섬겼던 것으로 보입니다. 그러한 사실을 회고하고 있는 것입니다. 5장 2,3절을 봐주세요.

2 전에 곧 사울이 우리의 왕이 되었을 때에도 이스라엘을 거느려 출입하게 하신 분은 왕이시었고 여호와께서도 왕에게 말씀하시기를 네가 내 백성 이스라엘의 목자가 되며 네가 이스라엘의 주권자가 되리라 하셨나이다 하니라

3 이에 이스라엘 모든 장로가 헤브론에 이르러 왕에게 나아오매 다윗 왕이 헤브론에서 여호와 앞에 그들과 언약을 맺으매 그들이 다윗에게 기름을 부어 이스라엘 왕으로 삼으니라

2절에서 특히 우리의 눈길을 끄는 말이 있습니다. 「여호와께서도 왕에게 말씀하시기를 네가 내 백성 이스라엘의 목자가 되며 네가 이스라엘의 주권자가 되리라 하셨나이다」라는 말입니다.

여기에는 왕이라는 말이 나오지 않습니다. 장로들은 이스라엘의 목자를 구하고 있고, 백성을 하나님께 순종하게 하는 「종교적인 지도자」를 구하고 있다는 것입니다. 이전에, 사울을 주변 국가와 같은 왕으로 요구했을 때와 큰 차이를 보입니다. 그래서 이스라엘 백성들이 이전과 달리, 회개에 이끌렸다고 해석할 수도 있습니다. 이제야말로 이스라엘의 왕되신 분은, 주 하나님 여호와이심을 깨달았다는 것입니다. 그래서 다윗에 대해서는, 이스라엘을 하나님께 순종하게 하는 지도자이자, 목자로서의 역할을 요구하고 있는 것입니다. 바로 이때, 아버지, 이새의 양을 키우던 일개 목자 다윗이, 하나님의 백성 이스라엘을 양육하는 한 나라의 목자가 된 순간이었습니다.

그런데 한 신학자는, 사울 왕의 행보와 다윗 왕의 행보가 겉으로 보기에는 매우 유사하다는 점을 지적하고 있습니다. 즉 사울과 다윗이 왕으로 여겨지는 경위를 살펴보면 두 사람 다 세 번 왕으로 세워져 있다는 것입니다. 사울의 경우, 처음에, 선지자 사무엘에 의해 비밀리에 기름 부음을 받았고, 두 번째는 미스바에서 공개적으로 제비뽑기에 의해 왕으로 여겨졌고, 세 번째는 길갈에서 주님 앞에서 이스라엘의 왕으로 여겨져, 언약이 갱신되었습니다. 다윗의 경우도 처음에는 선지자 사무엘에 의해 은밀히 기름 부음을 받고, 두 번째는 유다 사람들에 의해 기름 부음을 받고, 세 번째는 이스라엘의 왕으로서 주님 앞에서 언약을 맺으면서 온 이스라엘의 왕으로 여겨지고 있습니다. 이렇게 표면적으로 보면 두 사람은 매우 유사한 것입니다. 그런데 그 의미하는 바는 다른 것 같습니다. 즉 사울이 왕으로 지목된 경위란, 백성들이 자신들의 눈이 보이는 곳을 따라 선택한 왕이었습니다. 사물엘상 12장 13절에는 사무엘의 다음과 같은 말이 있습니다.

이제 너희가 구한 왕, 너희가 택한 왕을 보라 여호와께서 너희 위에 왕을 세우셨느니라

반면 다윗의 경우는 「용모와 키를 보지 말라 내가 이미 그를 버렸노라 내가 보는 것은 사람과 같지 아니하니 사람은 외모를 보거니와 나 여호와는 중심을 보느니라」라고 사무엘에게 말씀하신 것처럼, 다윗의 중심을 보시고, 다윗이야말로 주님에 의해 세워진 왕이라는 것이 거듭 강조되고 있습니다. 또 이스라엘 백성들 편에서도 당시, 사울에 대해서는 「모든 나라와 같은 왕」을 요구했지만, 이번에, 다윗에 대해서는, 「하나님의 마음을 이루는 목자」를 요구하고 있습니다. 그래서 다윗의 즉위를, 신정국가 이스라엘에 목자로서의 왕이 회복되었다고 볼 수 있습니다. 이 말을 더 하자면, 다윗 왕의 행보라는 것은, 사울 왕이 실패한 행보의 회복이자 속죄라고 할 수 있지 않을까요. 그것은 마치 첫 번째 아담이 죄를 짓고 타락해버린 세계를, 두 번째 아담이신 그리스도가 속죄해 나가겠다는 그 걸음을 예표하는 것과 같습니다.

(2)

5장 11~16절은, 다윗이 물질적으로도 번영하는 모습을 담고 있습니다. 하나님 나라의 풍요로움이 묘사되어 있다고 할 수 있습니다. 그러나 우리는, 다윗이 누리게 된 이 풍요로움을 가지고, 하나님이 다윗과 함께 계시다는 것의 「증표」라고 생각할 수 없습니다. 왜냐하면, 궁극적인 하나님의 보답과 하나님의 심판은, 예수님의 재림 때 이루어진다는 것을 우리는 고백하기 때문입니다. 다윗은 사울에게 쫓겨, 계속 목숨을 위협받았지만, 그럴 때도 변함없이 하나님은 함께 해 주셨습니다. 한 번은 미친 사람처럼 행동하거나 혹은, 많은 가족들을 먹이고 보호하기 위해, 이방 국가들에 대해 약탈을 하며 깡패처럼 살아가기도 했습니다. 그런 어려운 시기에도, 하나님은 분명히 다윗과 함께 해 주셨습니다. 그래서 비록 가난하다고 해서, 비록 어려움 속에 있다고 해서, 하나님께 버림받았다거나, 하나님께 사랑받지 못하고 있는 것은 아닙니다. 오히려 물질적 풍요의 이면에는, 항상 위험이 따르고 있어, 자칫 축복이 저주로 변할 수도 있는 것입니다. 예를 들어, 11절에서는 페니키아인 두로 왕 히람이, 백향목과 목수와 석수를 보내 다윗을 위하여 집을 지어주었다는 기사가 있습니다. 두로와의 교역은 이후, 솔로몬의 시대에도 이어져, 솔로몬이 하나님의 성전을 건축할 때, 두로의 왕에게 큰 신세를 지게 됩니다. 그런데, 더 훗날의 시대가 됩니다만, 이 페니키아인들을 통해 이스라엘에 우상숭배가 들어 오게 됩니다. 특히 페니키아인 이세벨을 아합 왕의 아내로 맞이하게 됨에 따라, 이스라엘과 유다의 우상 숭배가 결정적으로 가속화되어 갔습니다.

또 5장 13~16절은 하나님의 축복 속에 다윗의 자손들이 번창하는 모습을 담고 있는데, 많은 아내를 두고, 헤브론에 있지 않은 처첩까지 추가하면, 그 상황은 할렘처럼 되어 버렸고, 어느새 다윗은 이방인 나라의 왕들처럼 행세하는 모습을 볼 수 있게 됩니다. 번영을 통해 죄는 숨어들고, 번영을 통해 경고를 받고 있는 것입니다. 주 하나님은 분명 다윗과 함께 하셨고, 그리고 다윗의 삶은, 예수 그리스도의 예표이자, 그리스도의 계시이기도 하지만, 그렇다고 다윗이 전혀 죄가 없고, 거룩했던 것은 아니라는 것입니다.

덧붙여서 여담이지만, 다윗의 자녀 중 「엘랴다」라는 이름이 16절에 있는데, 역대상 14장 7절을 보면 그 이름이 「브엘랴다」즉, 「바알은 아신다」라는 이름으로 보존되어 있습니다. 이것은 사무엘기의 편집자가 바알이라는 말을 엘로 바꿨는데, 이를 통해 “사실 다윗은 바알을 숭배하고 있었는가?”라고 하는 것인가 하면, 그런 것이 아니라 당시 주 여호와에 대해 「바알」이라는 칭호를 사용하기도 했다고 합니다. 예를 들어 사울의 아들 이스보셋도 본명은 에스바알(역대상 8장 33절, 9장 39절) 즉, 「바알은 존재한다」였지만 사무엘기의 편집자에 의해 바알이라는 단어가 보셋(부끄러운 사람)으로 고쳐져 보존되었다고 생각되고 있습니다. 또 요나단의 아들 므비보셋도 원래는 므립 바알(역대상 8장 34절) 즉, 「바알이 싸운다」였는데, 역시 바알이라는 단어가 보셋으로 바뀌어 보존되었다고 생각됩니다.

(3)

계속해서 5장 17절부터는, 르바임 계곡에서 블레셋과의 전투의 승리가 두 번 나오는데, 이 승리들이 바로 과거 블레셋에게 패배한 것의 회복이며, 속죄하듯 우리 눈에 비치는 것입니다. 첫 번째 싸움인 5장 17~21절을 보세요.

17 이스라엘이 다윗에게 기름을 부어 이스라엘 왕으로 삼았다 함을 블레셋 사람들이 듣고 블레셋 사람들이 다윗을 찾으러 다 올라오매 다윗이 듣고 요새로 나가니라

18 블레셋 사람들이 이미 이르러 르바임 골짜기에 가득한지라

19 다윗이 여호와께 여쭈어 이르되 내가 블레셋 사람에게로 올라가리이까 여호와께서 그들을 내 손에 넘기시겠나이까 하니 여호와께서 다윗에게 말씀하시되 올라가라 내가 반드시 블레셋 사람을 네 손에 넘기리라 하신지라

20 다윗이 바알브라심에 이르러 거기서 그들을 치고 다윗이 말하되 여호와께서 물을 흩음 같이 내 앞에서 내 대적을 흩으셨다 하므로 그 곳 이름을 바알브라심이라 부르니라

21 거기서 블레셋 사람들이 그들의 우상을 버렸으므로 다윗과 그의 부하들이 치우니라

다윗이 그동안 가드의 아기스 왕을 섬기기는 했지만, 말하자면 용병대장과 같은 입장이었기 때문에, 블레셋 사람들은, 남쪽의 다윗과 북쪽의 이스라엘이 대립하고 있을 때는, 강건너 불구경하듯 지켜봤습니다. 그런데 다윗이 통일왕국의 왕으로 등극한 이후에는 사정이 다릅니다. 다윗이 왕이 되자마자, 블레셋 사람들이 총력을 모아 르바임 골짜기에 진을 쳤습니다. 한편 다윗은 17절의 끝을 보면 「요새로 나가니라」라고 되어 있어서, 르바임 골짜기 근처에 있는 아둘람 동굴에 진을 친 것으로 보입니다. 이 싸움에서 특히 우리의 눈길을 끄는 것은, 21절의 「블레셋 사람들이 그들의 우상을 버렸으므로」라는 기사입니다. 과거 이스라엘은 두 번 블레셋 군에게 패배했는데, 첫 번째는 에벤에셀에서의 패배이고, 두 번째는 길보아 산에서의 패배입니다. 첫 번째 에벤에셀에서의 패배에서 이스라엘은 주께 구하는 것을 일절 하지 않고, 심지어 언약궤까지도 빼앗기고 말았습니다. 그때의 실패를 지금 회복하고 속죄하듯, 다윗은 적의 우상을 빼앗고, 주님 외에 신은 없다는 것을 선언하고 있는 것입니다. 다윗이 어떻게 싸웠는가 하면, 주께 순종하는 방법으로, 주께 말씀을 묻고 구하는 방법으로 싸웠다는 것입니다. 그러자 주님은 「올라가라 내가 반드시 블레셋 사람을 네 손에 넘기리라」고 말씀하여 주셨습니다. 주님으로 인해 얻은 승리는 「바알브라심」이라는 지명에서 알 수 있듯이 물이 둑을 뚫는 것과 같은 압도적인 승리였습니다. 이어서 두 번째 싸움을 살펴보겠습니다. 22~25절을 보시기 바랍니다.

22 블레셋 사람들이 다시 올라와서 르바임 골짜기에 가득한지라

23 다윗이 여호와께 여쭈니 이르시되 올라가지 말고 그들 뒤로 돌아서 뽕나무 수풀 맞은편에서 그들을 기습하되

24 뽕나무 꼭대기에서 걸음 걷는 소리가 들리거든 곧 공격하라 그 때에 여호와가 너보다 앞서 나아가서 블레셋 군대를 치리라 하신지라

25 이에 다윗이 여호와의 명령대로 행하여 블레셋 사람을 쳐서 게바에서 게셀까지 이르니라

역사가 요세푸스의 유대 고대사에 따르면, 이때 블레셋군은 여전히 막강하여 다윗의 군대보다 세배나 큰 대군이었다고 기록되어 있습니다. 두 번째 싸움은 블레셋의 대군을 앞에 두고 「뽕나무 수풀」에서 주님의 말씀에 귀 기울이는 다윗의 모습이 그려져 있습니다. 여기서, 이스라엘이 대패한 두 번째 싸움인 길보아 산에서의 싸움을 상기해 봅시다. 그때 사울이 수넴에 진을 치고 브레셋의 대군을 보고 몹시 두려워하면서 시작되었습니다. 사무엘상 28장 4,5절을 보시기 바랍니다.

4 블레셋 사람들이 모여 수넴에 이르러 진 치매 사울이 온 이스라엘을 모아 길보아에 진 쳤더니

5 사울이 블레셋 사람들의 군대를 보고 두려워서 그의 마음이 크게 떨린지라

길보아 산에서 보이는 블레셋의 대군을 보고 사울의 마음을 크게 떨렸고, 이 후 신접한 여인을 찾아, 엔돌까지 가서 그 여자의 점에 귀를 기울이고 말았습니다. 이전의 설교에서도 언급했지만, 사울은 결코 주님을 찾아 나가지 않았고, 그때까지 완고하게 주님의 말씀을 물리치고 불순종적이었는데 오히려 신접한 여인에게 묻고, 여인의 말에 순종하는 태도를 보였습니다. 한편 다윗의 싸움은, 지금 신탁에 의해 주께 여쭙고 있습니다. 주가 「올라가지 말고 그들 뒤로 돌아서 뽕나무 수풀 맞은편에서 그들을 기습하되」라고 하셔서 그대로 했습니다. 그 광경은 우리 눈에 사울이 수넴에서 적을 보고 있는 광경과 겹쳐져 비치는 것입니다. 다윗은 뽕나무 수풀에서 적의 동향을 살피며, 「뽕나무 꼭대기에서 걸음 걷는 소리가 들리거든 곧 공격하라 그 때에 여호와가 너보다 앞서 나아가서 블레셋 군대를 치리라」는 말씀을 붙들고 싸움에 임했습니다. 결과는, 주님이 다윗군의 선두에 서서 싸우셔서, 멋지게 승리를 거두어 블레셋군을 단숨에 게젤에 이르기까지 패주시켰던 것입니다. 이 두 번의 싸움 이후, 블레셋인은 여전히 잔존하고 있지만, 더 이상, 이스라엘을 위협하는 존재는 아니게 되었습니다.

결론

우리는 5장을 통해 다윗이 이스라엘의 죄를 속죄하고, 회복해가는 모습을 눈에 담을 수 있었습니다. 이는 바로 예수님이 아담과 아담의 후손들의 죄를 속죄하고, 회복해가는 모습이기도 하다고 할 것입니다. 하나님께서 예수님을 통해 우리의 실패, 우리의 연약함, 우리의 죄를 모두 속죄해 주신 것입니다. 지금 돌이켜보면 우리 인생은 실패의 연속, 실수의 연속, 정말 부끄럽고 비참한 역사였습니다. 그런데 하나님은 십자가를 통해 그것들을 회복하고 하나하나 속죄해 주신다고 하십니다. 예수님 안에서 하나님의 자녀로 여겨짐을 받고, 예수님을 통해 진정한 왕을 모시고, 기쁨과 감사 속을 걷게 해 주시는 것입니다.

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