2020年09月20日「イシュ・ボシェト王国の崩壊 이스보셋 왕국의 붕괴」

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イシュ・ボシェト王国の崩壊 이스보셋 왕국의 붕괴

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記下 4章1節~12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:1アブネルがヘブロンで殺されたと聞いて、サウルの息子イシュ・ボシェトは力を落とし、全イスラエルはおびえた。
4:2このサウルの息子のもとに二人の略奪隊の長がいた。名をバアナとレカブといい、共にベニヤミンの者で、ベエロトのリモンの息子であった。ベエロトもベニヤミン領と考えられるからである。
4:3ベエロトの人々はかつてギタイムに逃げ、今日もそこに寄留している。
4:4サウルの子ヨナタンには両足の萎えた息子がいた。サウルとヨナタンの訃報がイズレエルから届いたとき、その子は五歳であった。乳母が抱いて逃げたが、逃げようとして慌てたので彼を落とし、足が不自由になったのである。彼の名はメフィボシェトといった。
4:5ベエロト人リモンの子レカブとバアナは、日盛りのころイシュ・ボシェトの家にやって来た。イシュ・ボシェトは昼寝をしていた。
4:6レカブとその兄弟バアナは、小麦を受け取る振りをして家の中に入り、彼の下腹を突き刺して殺し、逃亡した。
4:7すなわち、彼らが家に入ると、イシュ・ボシェトが寝室の寝床に横たわっていたので、二人は彼を突き刺して殺し、首をはねた。彼らはその首を携えてアラバへの道を夜通し歩き、
4:8ヘブロンのダビデのもとに、その首を持参した。二人は王に言った。「御覧ください。お命をねらっていた、王の敵サウルの子イシュ・ボシェトの首です。主は、主君、王のために、サウルとその子孫に報復されました。」
4:9ダビデはベエロト人リモンの子レカブとその兄弟バアナに答えて言った。「あらゆる苦難からわたしの命を救われた主は生きておられる。
4:10かつてサウルの死をわたしに告げた者は、自分では良い知らせをもたらしたつもりであった。だが、わたしはその者を捕らえ、ツィクラグで処刑した。それが彼の知らせへの報いであった。
4:11まして、自分の家の寝床で休んでいた正しい人を、神に逆らう者が殺したのだ。その流血の罪をお前たちの手に問わずにいられようか。お前たちを地上から除き去らずにいられようか。」
4:12ダビデの命令によって、従者は二人を殺して両手両足を切り落とし、ヘブロンの池のほとりで木につるした。イシュ・ボシェトの首はヘブロンに運ばれ、アブネルの墓に葬られた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記下 4章1節~12節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 先々週のサムエル記下3章を通して、イスラエルの南北の統一への道は、ダビデによる政治的な策略によって前進されたわけではなく、ただ神のご計画の中で前進していき、王国はひたすら贈り物としてダビデに与えられているということに私たちは目を留めました。さらに言えば、実際、ダビデの王国というのは、ダビデ王によって治められているのではなく、その背後におられる父なる神さまがご自身の民イスラエルを、愛と慈しみによって治めているということに、気付かされました。本日の箇所では、ダビデの姿は、義しく、公正な裁判官として描かれています。ダビデの国がますますその勢力を増していき、サウルの家が衰えて行く中にあって、ダビデはサウルとその家族を保護する親族では、ありませんけれども、その姿は、敵味方にとらわれず、また、身分の低い高いにもとらわれず、或いは勢力のあるなしにとらわれず、決して賄賂を受け取ることのない、公正で、理想的な裁判官として描かれています。このダビデの姿は、実は、私たちが、日々の生活の中で常に憧れつつ、希求してやまない、公正な判断を下されるイエス・キリストの姿であり、神さまが判決を下される姿でもあるのです。

【1】. イシュ・ボシェト暗殺と事件の背景(1~8節)

 4章1~4節まではイシュ・ボシェト暗殺の背景について記されています。北の指導者であったアブネルが殺されて、イシュ・ボシェトは力を落とし、全イスラエルはおびえました。王であるイシュ・ボシェトと軍司令官アブネルの関係は、リツパの件で完全に断絶された訳ではなかったということが分かります。アブネルが南北統一の為に奔走した一連の行動は、やがて訪れる統一王国の中にあって、北の生き残りをかけたものでありました。たとえイシュ・ボシェトにとってはアブネルの取った選択が快く思われなかったとしても、イシュ・ボシェトは今なお、アブネルを頼りにし、自分一人で国を治めていく自信など、全くなかったのであります。従って、アブネルの死を聞いた時は、ひどく落胆しました。国全体もおびえ、動揺し、不安の影で覆われてしまいました。そこへ、リモンの息子たち、即ち、レカブとバアナが登場します。彼らは略奪隊の長でした。少し思い起こして頂きたいのですが、ちょうど3章で、ヘブロンにおいてダビデとアブネルが分かれた後に、略奪から戻ってきたヨアブのような役職を任されていたと思われます。レカブとバアナは、ベエロトに住んでいました。ここでベエロトという都市について考えて見ましょう。以前、ヨシュアに率いられたイスラエルがカナンの地に入植する際に、このベエロトという都市は、周辺のギブオン、ケフィラ、キルヤテ・エアリムと一緒になって、策略をめぐらせ、イスラエルと何とか和を講じた都市であります(ヨシュ9:3~27)。従って、このベエロトを始めとする、4つの都市には、原住民であるカナン人がそのまま住み続けていました。ところが、恐らくサウル王の治世の時に、ベエロトからカナン人が追い出されて、西へ、ペリシテ人の領土であるギタイムという町へと追いやられてしまったようです。そして、サウルはこのベエロトの地をベニヤミン族に与えたと推測されます。こういう訳で、ベエロトに住むレカブとバアナはベニヤミン人であったということです。サウル王によって特に顧みられ、重用されていたベニヤミン人でありました。そんな彼らが裏切りの行為に走り、王が昼寝をしている時間を狙って、王の家に忍び込み、イシュ・ボシェトを暗殺します。それはまさに忘恩背徳の行為でありました。

ところで、4節では、突然、挿入句が挟まれていて、ヨナタンの子メフィボシェトについて言及されています。4節を御覧ください。

“サウルの子ヨナタンには両足の萎えた息子がいた。サウルとヨナタンの訃報がイズレエルから届いたとき、その子は五歳であった。乳母が抱いて逃げたが、逃げようとして慌てたので彼を落とし、足が不自由になったのである。彼の名はメフィボシェトといった。”

なぜ、ここで急に両足の萎えたメフィボシェトの記事が挿入されたのか、ということですが、これは、メフィボシェトが、イシュ・ボシェトの後継者になることが不適格であるということを、明らかにしていると考えられます。両足が萎えてしまったその理由は、サウルとヨナタンがギルボアの戦いで戦死したという便りが伝えられた時、メフィボシェトはまだ5歳でしたが、この時、乳母がメフィボシェトを抱いて慌てて逃げようとして、彼を落としてしまったからということです。この時、メフィボシェトはサウルの町であるギブアに住んでいたと思われますので、ペリシテ人はギルボア山の戦いの勝利の後、ギブアなどエフライムの中央山地全体を掌握したのでしょう。このような事情でイスラエルは首都をヨルダン川の東のマハナイムに移したと考えられます。

さて、話しは戻りますが、混乱に乗じたレカブとバアナの殺人の動機とは、全くもって自分勝手なものであったということです。7~8節を御覧ください。

“すなわち、彼らが家に入ると、イシュ・ボシェトが寝室の寝床に横たわっていたので、二人は彼を突き刺して殺し、首をはねた。彼らはその首を携えてアラバへの道を夜通し歩き、ヘブロンのダビデのもとに、その首を持参した。二人は王に言った。「御覧ください。お命をねらっていた、王の敵サウルの子イシュ・ボシェトの首です。主は、主君、王のために、サウルとその子孫に報復されました。」”

恐らく、レカブとバアナは、やがて来るであろう新しい時代において、先手を打つことで、自分たちが少しでも有利な地位を得ようとしたのでしょう。イシュ・ボシェトの首をはねて、そのまま喜び勇んでアラバ(ヨルダン川渓谷)への道を夜通し歩き、ヘブロンのダビデの下にその首を持参しました。サムエル記の著者は、7節で二人の殺人をむごたらしく三つの言葉で表現しています。「突き刺し」「殺し」「首をはねた」ということです。かわいそうに、血にまみれた、見るも無残な、その首は、新しい権力者に捧げる賄賂のようなものとして用いられました。8節では、レカブとバアナは、巧妙にその首について神学的な意味を付与しています。

“御覧ください。お命をねらっていた、王の敵サウルの子イシュ・ボシェトの首です。主は、主君、王のために、サウルとその子孫に報復されました。”

と二人は主張しているのです。ダビデは以前、サウルによって命を脅かされましたが、ここで、サウルの子イシュ・ボシェトの首は、本当に主ヤハウェの報復であるのでしょうか。確かに神は、ご自身の正義にもとづいて、善に対しては報われ、悪に対しては報復されるお方でありますが、果たして、これが本当に神さまの報復の仕方なのでしょうか。レカブとバアナの言葉の裏側には、明らかにダビデの顔をお伺いする忖度が見られ、さらに言えば、人の命を犠牲にしてでも、自分たちはのし上がろうとする強欲が見え隠れしています。犠牲者であるイシュ・ボシェトの立場になって考えてみるなら、これはもう、たまったものではありません。

【2】. ダビデの打ち立てた公義(9~12節)

 本来、善に対する報いと、悪に対する神の報復は、それによって神の正義が一層、高く褒め称えられるものであります。その判決は、誰が見ても公正であり、身分の高い低いにとらわれず、賄賂を受けることもない、理想的な裁判官としての正義が打ち立てられる判決であります。そのような「判決」が、今まさにダビデ王を通して下されました。9~12節を御覧ください。

“ダビデはベエロト人リモンの子レカブとその兄弟バアナに答えて言った。「あらゆる苦難からわたしの命を救われた主は生きておられる。かつてサウルの死をわたしに告げた者は、自分では良い知らせをもたらしたつもりであった。だが、わたしはその者を捕らえ、ツィクラグで処刑した。それが彼の知らせへの報いであった。まして、自分の家の寝床で休んでいた正しい人を、神に逆らう者が殺したのだ。その流血の罪をお前たちの手に問わずにいられようか。お前たちを地上から除き去らずにいられようか。」ダビデの命令によって、従者は二人を殺して両手両足を切り落とし、ヘブロンの池のほとりで木につるした。イシュ・ボシェトの首はヘブロンに運ばれ、アブネルの墓に葬られた。”

9節の「主は生きておられる」という言葉ですが、もう皆さんもお気づきのことと思いますが、これは誓いの言葉でありまして、「主の前に誓って言うが…」という意味です。ダビデはまず、かつて訃報の知らせを持ってきたアマレク人が、どのような結末を迎えたのかを、思い起こさせています。即ち、アマレクの少年が「サウルにとどめを刺した」と告げた時、まさにその言葉を、彼自身の罪に対する証言と見做して、処刑に致しました。今、全く同じように、レカブとバアナの兄弟たちの“御覧ください。お命をねらっていた、王の敵サウルの子イシュ・ボシェトの首です。”という言葉を、彼ら自身の罪に対する証言と見做し、主に誓いながら、必ず処刑すると宣告しているのです。しかも彼らの証言よると、正々堂々と、一対一の決闘ではなく、寝床で休んでいる時に、無抵抗な者を、無慈悲に殺害したということによって、その罪は一層大きいと宣告しているのです。レカブとバアナはその場でとらえられ、処刑されますが、サムエル記の著者は、12節において、彼らに対する処刑を三つの言葉によって表現しています。即ち、「殺し」「両手両足を切り落とし」「木に吊るした」という言葉です。これは、彼らの犯した7節に書かれている三つの言葉、「突き刺し」「殺し」「首をはねた」というむごたらしい犯罪に従って、報いを受けていると解釈できるでしょう。特に木に吊るすというのは、彼らが「呪われるように」という意味が込められていて、大変重い刑罰を報いとして刈り取っているのを見て取ることができるのです。一方、イシュ・ボシェトの首は、ヘブロンにあるアブネルの墓に共に葬られました。北の偉大なる指導者と共に埋葬されることによって、イシュ・ボシェトが無実であり、正しい人であったことが証明されたのです。ダビデによるこのような公正な判決は、神の正義が打ち立てられるものであり、えこひいきのない、全ての人々の満足のいく判決でありました。

【3】. 公正は裁判官であられる神の判決

 私たちの希求してやまない神の正義は、私たちの神様の御許にあるということは、間違いないことです。律法においても、イスラエルの民は、神が正義の神であられるように、民も正義を要求されています。出エジプト記23:6~9節を御覧ください。

“あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。偽りの発言を避けねばならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない。わたしは悪人を、正しいとすることはない。あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである。あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。”

しかし、実際、詩編や箴言を読むと分かりますが、イスラエルの中では悪人たちがのさばり、たとえ全面的に正しく、敬虔な者であるにも関わらず、貧しい者、未亡人、孤児、旅人、窮乏した者たちが、悔しい判決を受けたり、誤解されたり、抑圧や迫害を受け続けたりして、そこには彼らのための正義はありませんでした。全く同じように、現代の私たちの日常生活を見ましても、理不尽で、不条理なことが満ちているのではないでしょうか。

例えば、一緒にデビューを飾った芸人二人がいるとしまして、スタート時点においては二人とも公平にテレビに出演することができましたが、今では相方ばかりテレビに引っ張りだこにされて裕福な生活をしている。それに比べて自分には全く声が掛からず、今日一日食べて行くにもままならない。そもそも二人の芸の台本を考えたのは自分ではないか。自分の方がお笑いのセンスがあり、そして自分の方が神の前に誠実な人間ではないか。このような状況が、許されていいものだろうか。人々はどのように受け止めるかは知らないけれど、少なくとも、自分の目から見れば、この世は全く不公平であり、理不尽と、不条理に満ちていて、時代の犠牲とされた自分の境遇を振り返っては、悔しさの余り、涙を流しながら、唇をかみしめるのです。「ああ、神さまは一体どこに居られるのか」と、嘆いてしまうのです。新約聖書には、神さまの怒るのに遅い、その性質のため、全ての善に対する報いと、悪に対する恐ろしい報復は、未来になって初めて露わにされるということが書かれています。ヨハネの黙示録11:18を御覧ください。

“異邦人たちは怒り狂い、/あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、/御名を畏れる者には、/小さな者にも大きな者にも/報いをお与えになり、/地を滅ぼす者どもを/滅ぼされる時が来ました。”

ですから、神の公義の完全な現れである公正な裁判とは、キリストの再臨の時になって完全になされるということです。その時に全てのことが正しく精算されて、善には正しく報われ、悪には報復が与えられます。その時になれば、神さまには、全くえこひいきがなかったこと、完全に公平なお方であったことを全ての人が思い知らされ、神の正義によって不当な扱いを受けてきた者の悔しさと涙が拭われるのです。

【結論】

 イエス・キリストは、まさにダビデのように、義しい裁判官としてこの世に来てくださいました。旧約の時代、虐げられていた者たちが、神の公義に飢え渇き、見えるところによって人を裁かず、敵味方にとらわれず、決して賄賂を受け取ることのない、公正で、理想的な裁判官であるメシアを期待して待ち望んだように、新約の時代に生かされている私たちも正義の神に心から信頼し、キリストの再臨を待ち望みつつ、感謝して歩ませていただきましょう。その公正な判決は、イエス様の初臨において既に始まっていると言えるかもしれませんが、それが完全に現わされるのは、キリストの再臨の時であり、その時に初めて、善に対する報いが与えられ、悪に対する恐ろしい報復が完全になされ、全ての人々に納得のいく、公平でえこひいきのない判決が下されて、神の国の栄光が褒めたたえられるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

이스보셋 왕국의 붕괴

2020년 9월 20일 센겐다이 교회 주일설교

사무엘하 4장 1~12절

서론

지지난주 사무엘하 3장을 통해, 이스라엘의 남북통일의 길은, 다윗에 의한 정치적 책략에 의해 진전된 것이 아니라, 오직 하나님의 계획 안에서 진전해 나가며, 왕국은 오직 선물로 다윗에게 주어졌음을 우리는 눈여겨 살펴 보았습니다. 더 말하면, 사실, 다윗의 왕국이라는 것은, 다윗 왕에 의해 다스려지고 있는 것이 아니라, 그 배후에 계신 아버니 하나님께서 자신의 백성 이스라엘을 사랑과 인자하심으로 다스리시고 계시다는 것을 깨닫게 되었습니다. 오늘 본문에서는, 다윗의 모습이 의롭고 공정한 재판관으로 묘사되어 있습니다. 다윗의 나라가 점점 그 세력을 더해가고, 사울의 집안이 쇠락해 가는 가운데, 다윗은 사울과 그 가족을 보호해야하는 친족은 아니지만, 그 모습은 적과 자기편에 얽매이지 않고, 또 신분의 낮고 높음에 사로잡히지 않고, 혹은 세력이 있거나 없음에 사로잡히지 않고, 결코 뇌물을 받는 일이 없는, 공정하고 이상적인 재판관으로 묘사되고 있습니다. 이 다윗의 모습은 사실 우리가, 하루하루의 삶 가운데 늘 동경하며, 바라며 구하는 공정한 판단을 내리는 예수 그리스도의 모습이며 하나님께서 판결은 내리시는 모습이기도 합니다.

(1) 이스보셋의 암살과 사건의 배경(1~8절)

4장 1~4절까지는 이스보셋 암살의 배경을 담고 있습니다. 북쪽의 지도자였던 아브넬이 죽었다 함을 듣고 이스보셋은 손의 맥이 풀렸고 온 이스라엘은 놀랐습니다. 왕 이스보셋과 군 사령관 아브넬의 관계는 리스바 사건으로 완전히 단절된 것이 아니었다는 것을 알 수 있습니다. 아브넬이 남북통일을 위해 동분서주한 일련의 행동은, 곧 다가올 통일왕국 안에서, 북쪽의 생존을 위한 것이었습니다. 비록 이스보셋에게 있어서는 아브넬이 취한 선택이 탐탁치 않게 여겨졌지만, 이스보셋은 여전히 아브넬을 의지하고, 자신 혼자서 나라를 다스려 나갈 자신은 전혀 없었습니다. 따라서 아브넬의 죽음을 들었을 때는 몹시 낙담했습니다. 나라 전체도 겁에 질리고, 동요하며 불안의 그림자로 뒤덮여 버렸습니다. 거기에, 림몬의 아들들, 즉 레갑과 바아나가 등장합니다. 그들은 약탈대의 우두머리였습니다. 조금 상기해 주셨으면 합니다만, 마침 3장에서 헤브론에서 다윗과 아브넬이 헤어진 후에, 약탈에서 돌아온 요압과 같은 직책을 맡고 있었던 것으로 보입니다. 레갑과 바아나는 브에롯에 살고 있었습니다. 여기서 브에롯이라는 도시에 대해 생각해 봅시다. 이전, 여호수아의 인도하에 이스라엘이 가나안 땅에 들어갔을 때, 이 브에롯이라는 도시는, 주변의 기브온, 그비라, 기럇여아림과 하나되어, 술책을 꾀하여, 이스라엘과 어떻게해서든 조약을 이룬 도시입니다(여호수아 9장 3~27절). 따라서 이 브에롯을 시작해서, 이 네 도시에는 원주민인 가나안 사람들이 그대로 살고 있었습니다. 그런데 아마 사울 왕의 치세 때, 브에롯에서 가나안인이, 서쪽으로 블레셋인의 영토인 깃다임이라는 성읍으로 쫓겨나 버린 것 같습니다. 그리고 사울은 이 브에롯 땅을 베냐민족에게 주었을 것으로 추측됩니다. 이러한 이유로 브에롯에 사는 레갑과 바아나는 베냐민족이었다는 것입니다. 사울 왕에 의해 특히 보살핌을 받고, 중용되었던 베냐민사람이었습니다. 그런 그들이 배신행위를 하고, 왕이 낮잠을 자는 시간을 노려, 왕의 집에 몰래 들어가 이스보셋을 암살합니다. 그것은 바로 배은망덕한 행위였습니다.

그런데 4절에서는 갑자기 삽입구가 끼어 있어서 요나단의 아들 므비보셋에 대해 언급되고 있습니다. 4절을 보시죠.

사울의 아들 요나단에게 다리 저는 아들 하나가 있었으니 이름은 므비보셋이라 전에 사울과 요나단이 죽은 소식이 이스르엘에서 올 때에 그의 나이가 다섯 살이었는데 그 유모가 안고 도망할 때 급히 도망하다가 아이가 떨어져 절게 되었더라

왜 여기서 갑자기 두 다리를 저는 므비보셋의 기사가 삽입되었는가 하는 것인데, 이것은 므비보셋이 이스보셋의 후계자가 되는 것이 부적격하다는 것을, 밝히고 있다고 생각됩니다. 두 다리가 절게 된 이유는, 사울과 요나단이 길보아 산 전투에서 전사했다는 소식이 전해졌을 때 므비보셋은 겨우 다섯 살이었는데, 이때 유모가 므비보셋을 안고 황급히 도망하다가, 그를 떨어뜨렸기 때문이라는 것입니다. 이때 므비보셋은 사울의 성읍인 기브아에 살았을 것이므로, 블레셋인들은 길보아 산 전투의 승리 후, 기브아 등 에브라임의 중앙 산지 전체를 장악했을 것입니다. 사정이 이렇다 보니 이스라엘은 수도를 요단 강 동쪽의 마하나임으로 옮긴 것으로 보입니다.

그런데, 이야기가 돌아옵니다만, 혼란을 틈탄 레갑과 바아나의 암살 동기란, 참으로 제멋대로인 것이었다는 것입니다. 7,8절을 보세요.

7 그들이 집에 들어가니 이스보셋이 침실에서 침상 위에 누워 있는지라 그를 쳐죽이고 목을 베어 그의 머리를 가지고 밤새도록 아라바 길로 가

8 헤브론에 이르러 다윗 왕에게 이스보셋의 머리를 드리며 아뢰되 왕의 생명을 해하려 하던 원수 사울의 아들 이스보셋의 머리가 여기 있나이다 여호와께서 오늘 우리 주 되신 왕의 원수를 사울과 그의 자손에게 갚으셨나이다 하니

아마도 레갑과 바아나는, 곧 다가올 새로운 시대에서, 선수를 치는 것으로 자신들이 조금이라도 유리한 지위을 얻고자 했을 것입니다. 이스보셋의 목을 가지고 그대로 기뻐하며 용맹스럽게 아라바(요단 강 계곡)로 가는 길을 밤새 걸어, 헤브론의 다윗 밑에 그 목을 가져왔습니다. 사무엘기의 저자는, 7절에서 두 사람의 살인을 처참하게 세 단어로 표현하고 있습니다. 「쳐」, 「죽이고」, 「목을 베어」라는 거죠. 가엾게도, 피투성이가 된, 보기에도 무참한, 그 목은, 새로운 권력자에게 바치는 뇌물 같은 것으로 사용되었습니다. 8절에서는, 레갑과 바아나는 교묘하게 그 목에 대해 신학적인 의미를 부여하고 있습니다.

「왕의 생명을 해하려 하던 원수 사울의 아들 이스보셋의 머리가 여기 있나이다 여호와께서 오늘 우리 주 되신 왕의 원수를 사울과 그의 자손에게 갚으셨나이다 하니」

라고 두 사람은 주장하고 있는 것입니다. 다윗은 예전에 사울에 의해 목숨을 위협받았는데, 여기서 사울의 아들 이스보셋의 목은, 정말 주 여호와의 보복일까요? 확실히 하나님은, 자신의 정의로움에 근거해, 선에 대해서는 보상을 하시고, 악에 대해서는 보복을 하시는 분이십니다만, 과연, 이것이 정말 하나님이 하시는 보복의 방법일까요? 레갑과 바아나의 말 뒤에는, 분명 다윗의 얼굴을 살피며 사전교섭하는,더 말하면 사람의 생명을 희생시켜서라도, 자신들이 높아지려고 하는 탐욕이 어른거리는 것입니다. 희생자인 이스보셋의 입장이 되어 생각해 본다면 이것은, 더 이상 견딜 수 없는 것입니다.

(2) 다윗이 세운 공의 (9~12절)

본래 선에 대한 보답과, 악에 대한 하나님의 보응은, 그로 인해 하나님의 정의가 한층, 더 높이 칭송되는 것입니다. 그 판결은, 누가 봐도 공정하고, 신분이 높고 낮은 것에 얽매이지 않고, 뇌물을 받지도 않는, 이상적인 재판관으로서의 정의가 세워지는 판결입니다. 그런 「판결」이 이제 바로 다윗 왕을 통해 내려졌습니다. 9~12절을 보시기 바랍니다.

9 다윗이 브에롯 사람 림몬의 아들 레갑과 그의 형제 바아나에게 대답하여 그들에게 이르되 내 생명을 여러 환난 가운데서 건지신 여호와께서 살아 계심을 두고 맹세하노니

10 전에 사람이 내게 알리기를 보라 사울이 죽었다 하며 그가 좋은 소식을 전하는 줄로 생각하였어도 내가 그를 잡아 시글락에서 죽여서 그것을 그 소식을 전한 갚음으로 삼았거든

11 하물며 악인이 의인을 그의 집 침상 위에서 죽인 것이겠느냐 그런즉 내가 악인의 피흘린 죄를 너희에게 갚아서 너희를 이 땅에서 없이하지 아니하겠느냐 하고

12 청년들에게 명령하매 곧 그들을 죽이고 수족을 베어 헤브론 못 가에 매달고 이스보셋의 머리를 가져다가 헤브론에서 아브넬의 무덤에 매장하였더라

9절의 「여호와께서 살아 계심을 두고」라는 말인데 이제 여러분도 아시겠지만, 이것은 맹세의 말이고, “주님 앞에 맹세코 말하지만..” 이라는 뜻입니다. 다윗은 먼저, 과거 부고 소식을 가져온 아말렉인이 어던 결말을 맞았는지를 상기시키고 있습니다. 즉, 아말렉의 소년이 「그의 곁에 서서 죽이고」라고 말했을 때, 바로 그 말을, 그 자신의 죄에 대한 증언으로 간주하고 처형했습니다. 지금, 똑같이 레갑과 바아나 형제들의 「왕의 생명을 해하려 하던 원수 사울의 아들 이스보셋의 머리가 여기 있나이다」라는 말을, 그들 자신의 죄에 대한 증언으로 간주하고, 주님께 맹세하면서, 반드시 처형하겠다고 선고하고 있는 것입니다. 더구나 그들의 증언에 따르면, 정정당당한 일대일 결투가 아니라, 잠자리에서 쉬고 있을 때, 무저항 상태인 자를, 무자비하게 살해했다는 것으로, 그 죄는 더욱 크다고 선고하고 있는 것입니다. 레갑과 바아나는 그 자리에서 체포되어 처형되지만, 사무엘기의 저자는 12절에서 그들에 대한 처형을 세 가지 말로 표현하고 있습니다. 즉, 「죽이고」,「수족을 베어」,「헤브론 못 가에 매달고」라는 말입니다. 이는 그들이 저지른 7절의 그를 「쳐」, 「죽이고」,「목을 베어」라는 끔찍한 범죄에 따라, 처벌을 받았다고 해석할 수 있을 것입니다. 특히 나무에 매다는 것은 그들이 “저주를 받도록”이라는 의미를 담고 있어 매우 무거운 형벌을 보응으로 거두는 것을 볼 수 있습니다. 한편, 이스보셋의 목은, 헤브론에 있는 아브넬의 무덤에 함께 묻혔습니다. 북쪽의 위대한 지도자와 함께 묻힘으로써, 이스보셋이 무고하고, 올바른 사람이었음이 증명된 것입니다. 다윗의 이런 공정한 판결은, 하나님의 정의가 세워지는 것이었고, 편애 없는, 모든 사람들이 만족스러워 하는 판결이었습니다.

(3) 공정은 재판관이신 하나님의 판결

우리가 바라며 요구해 마지않는, 하나님의 정의는, 우리의 하나님의 손 안에 있다는 것은 틀림없는 일입니다. 율법에서도, 이스라엘 백성은, 하나님이 정의로운 하나님이시듯, 백성도 정의를 요구받고 있습니다. 출애굽기 23장 6~9절을 보시기 바랍니다.

6 너는 가난한 자의 송사라고 정의를 굽게 하지 말며

7 거짓 일을 멀리 하며 무죄한 자와 의로운 자를 죽이지 말라 나는 악인을 의롭다 하지 아니하겠노라

8 너는 뇌물을 받지 말라 뇌물은 밝은 자의 눈을 어둡게 하고 의로운 자의 말을 굽게 하느니라

9 너는 이방 나그네를 압제하지 말라 너희가 애굽 땅에서 나그네 되었었은즉 나그네의 사정을 아느니라

그러나, 실제로 시편이나 잠언을 읽으면 알수 있지만, 이스라엘 안에서는 악인들이 설치고, 설령 전적으로 바르고, 경건한 자임에도 불구하고, 가난한 자, 과부, 고아, 나그네, 궁핍한 자들이 억울한 판결을 받거나, 오해를 받거나, 억압과 박해를 계속 받아, 거기에는 그들을 위한 정의가 없었습니다. 똑같이 현대에 사는 우리의 일상생활을 보더라도 불합리하고 부조리한 것들이 가득하지 않을까요.

예를 들어, 함께 데뷔를 장식한 연예인 두 명이 있다고 합시다. 시작 시점에 있어서는 둘 다 공평하게 TV에 출연할 수 있었지만, 지금은 한 명만 TV에 자주 출연하며 부유한 생활을 하고 있고 그에 비해 또 다른 멤버는 전혀 방송출연도 없고, 오늘 하루 먹고 살기에도 벅찬 상황이라고 가정해 봅시다. ‘애당초 두 사람의 콩트 대본을 생각한 것은 내가 아닌가?, 내가 더 예능의 센스가 있고, 그리고 내 쪽이 신 앞에서 성실한 인간이 아닌가? 이런 상황이 일어나도 좋단 말인가? 사람들은 어떻게 받아들일지 모르겠지만, 적어도 내가 내 자신을 본다면, 이 세상은 완전히 불공평하고, 불합리하고 부조리에 넘치고 있어서 시대의 희생양이 된 내 처지를 되돌아 본다면, 너무 억울하다’라며 외면되어진 멤버는, 눈물을 흘리면서 입술을 깨뭅니다. ‘아 신은 도대체 어디에 계시는 것인가?’하고 한탄해 버리는 것입니다. 신약성경에는 하나님의 노하기를 더디하시는, 그 성품으로 인해 모든 선에 대한 보답과, 악에 대한 무서운 보응은, 미래에나 처음으로 드러난다는 것이 적혀 있습니다. 요한계시록 11장 18절을 보시겠습니다.

이방인들이 분노하매 주의 진노가 내려 죽은 자를 심판하시며 종 선지자들과 성도들과 또 작은 자든지 큰 자든지 주의 이름을 경외하는 자들에게 상 주시며 또 땅을 망하게 하는 자들을 멸망시키실 때로소이다 하더라

그러므로 하나님의 공의의 완전한 발현인 공정한 재판이란, 그리스도의 재림 때에야 완전히 이루어지는 것입니다. 그때 모든 일이 올바르게 정산되고, 선에게는 올바르게 보답되고, 악에게는 보응이 주어집니다. 그때가 되면, 하나님께는 전혀 편애가 없었던 것, 완전히 공평한 분이었음을 모든 사람이 알게 되고, 하나님의 공의에 따라 부당한 대우를 받아온 자의 억울함과 눈물이 씻겨지는 것입니다.

결론

예수 그리스도께서는, 그야말로 다윗처럼, 의로운 재판관으로 이 세상에 오셨습니다. 구약의 시대, 억압 받던 자들이 하나님의 공의에 굶주리고 목말라하며, 보이는 바에 따라 사람을 심판하지 않고, 편 가르기에 사로잡히지 않으며, 걸코 뇌물을 받는 일이 없는, 공정하고 이상적인 재판관인 메시아를 기대하며 기다렸던 것처럼, 신약의 시대에 살고 있는 우리도 정의로운 하나님을 진심으로 신뢰하며, 그리스도의 재림을 고대하며, 감사하며 걸어가도록 합시다. 그 공정한 판결은, 예수님의 초림에서 이미 시작되었다고 말할 수 있을지도 모르지만, 그것이 완전히 드러나는 것은 그리스도의 재림 때이고, 그때 비로소, 선에 대한 보답이 주어지고, 악에 대한 무서운 보응이 완전히 이루어지고, 모든 사람들이 납득할 수 있는 공평하고, 편애 없는 판결이 내려져, 하나님 나라의 영광이 칭송되는 것입니다.

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