2019年07月14日「血の畑」

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1夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。
2そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
3そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
4「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
5そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
6祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、
7相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。
8このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。
9こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。
10主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 27章1節~10節

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先週は、「鶏が鳴く前に三度、あなたは私を否定する」というイエス様の預言の成就を通して、ペトロは号泣し、その時になって初めて自分の弱さ、罪深さ、愚かさを痛感し、自分が全き罪人であって、自分の内には一切誇れるものはないことを自覚しました。この時の深い悲しみは、後にペトロを悔い改めに導くことになりますが、本日の登場人物であるユダの場合はペトロのようにはいきませんでした。ユダの態度を象徴的に表す言葉として3節の「後悔した」という言葉をあげることができます。このギリシャ語は、悔い改めを表す「メタノエイン」ではなく、悔いた、後悔したという意味の「メタメレテイス」が使われています。ユダが後悔したこととは一体、何かというと、イエス様の宗教裁判において死刑の判決が出たために、自分が罪のない人の血を売り渡してしまったということに対して後悔したのです。信仰が与えられたり、ラビであるイエスに対する見方が変わったからでありません。4節をご覧ください。

「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。

申命記27:25には、「賄賂を取って、人を打ち殺して罪のない人の血を流す者は呪われる。」という御言葉があります。ですから、ユダは、たかだか銀貨30枚であっても、賄賂を受け取って罪のない方の血を流す罪を犯したということで後悔しているのです。それは、イエスに対しお気の毒なことをしてしまったという同情心に過ぎず、ただ律法の表面的で文字的意味にとらわれているに過ぎなかったと言うことです。ですから、仮定ですが、もし、祭司長たちや長老たちがその銀貨30枚を受け取ってくれたなら、血を売り渡した罪はユダヤの当局者たちにあるということになり、ユダは幾分、気持ちが楽になり、自殺にまでは至らなかったかもしれません。ところが、祭司長たちや長老たちは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言い放ち、銀貨30枚を受け取ろうとはしませんでした。彼らは罪のない人の血を流したということにおいては、ユダと共犯者でありながらです。ですから、ユダは自分の罪を後悔し、自分で自分の犯した罪に責任を持ち、その罪の償いのために自殺してしまいました。結局、ユダは最後まで、「自分は生まれながら罪びとであって、全的に腐敗し、全的に堕落していて、自分には救い主が必要である。とにかくもう降参で神により頼む以外にない」という信仰に至ることはありませんでした。

この箇所を通して著者マタイは第一に、ペトロとユダを対照的に置くことによって重要なメッセージを伝えようとしています。第二に、ユダが自殺した後、祭司長たちや長老たちがとった行動に焦点を当てることによって、「キリストとは一体、どのようなお方であるのか」について書かれているというふうにも解釈できると思われます。本日は第二の点について調べていきたいと思います。

「血の畑」はヘブル語で「アケルダマ」と言いますが、これは、ユダヤ人にとって大変よく知られた場所であり、また良く知られた言葉でもありました。しかし言葉自体は有名でしたが、その血が誰の血なのかについては、意見が分かれます。使徒言行録1章では、その血はユダの血であると書かれていますが、本日のマタイの本文を見るとその血はイエス様の血であると書かれています。使徒言行録1:18-19をお読みします。そのままお聞きください。

ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。

このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。

つまり、使徒言行録には、それはユダの血であると書かれていますが、本日のマタイに記述に沿って見てまいりますと、この血はキリストの命の代価であると言います。そして、「血の畑」は、今現在においても鮮やかにキリストの死の意味について叫び、証言していると言っているのです。マタイ27章5~8節をご覧ください。

そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、

相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。

このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。

イスカリオテのユダは、自分の手の中にある銀貨を神殿に投げ込んで自殺しました。祭司長たちはその銀貨30枚を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」言いました。血の代価とは、先ほどから言っているようにイエス様の血に対する代価です。

そもそも私たち信者においては、まさにこのイエス様の血の代価によって清められ、罪が贖われ、救われるという信仰を持っていますが、サンヘドリンの議員たち、ユダヤの当局者たちにとって、それは、殺人の代価であり、汚れたものとして映っていました。ところでここの箇所は、よくよく考えると大変矛盾したことを言っています。というのは、最初、彼らは、神殿の金庫から聖なる銀貨30枚をユダに与えて、その引き換えとしてイエスを自分たちに引き渡すようにしました。その目的とは最初からイエスを殺すためでした。つまり、そもそも神殿の銀貨を用いて殺人を企てたのは彼ら自身であったのです。ところが、その血の代価である銀貨30枚が戻って来て神殿の金庫に入れられることについては、彼らは嫌がっているのです。自分たちの内側から出てきた殺人という罪の結果でありながら、自分自身においては清く正しく、罪が一切ないようにふるまっているのです。さらに言えば、彼らは、その汚れたお金を、それにふさわしい用途として異邦人を葬るための外人墓地の購入費にあてました。これは、誰にも埋葬されることのない亡き骸のために無縁墓地を作ってやったんだと言わんばかりで、自分たちはいかにも、敬虔なことをしていると自己満足していたことでしょう。

その後、この無縁墓地は、「血の畑、ヘブル語でアケルダマ」と呼ばれ有名になりました。なぜ有名になったのかと言えば、それはエレミヤ預言の成就であったからです。イエス様の血の代価として買い取られたその場所とは、エルサレムの城郭に南西~南に広がる「ベン・ヒノムの谷」の一か所に位置していました。ヘブル語でベンとは(幼児、子供)であり、ヒノムの谷はゲー ヒンノムでゲヘナの語源になっています。ベン・ヒノムの谷とは、どのような場所かと言いますと、その谷の一画に焼却炉がありまして、その火は常に燃えていました。なぜそこに焼却炉ができたのかと言うと、以前その場所に、偶像の神のための祭壇(トフェト)が築かれていたからです。古くはモレク神のための祭壇であり、エレミヤの頃はバアル崇拝のための祭壇でした。イスラエルの民は、この祭壇に自分たちの息子、娘を生贄として、燃える火の中に捧げました。いわゆる「人身御供」と呼ばれた儀式です。

このようなイスラエルの民の偶像崇拝に対して、神様はお怒りになられ、預言者エレミヤを送って警告を与えました。その警告の仕方ですが、エレミヤを通して実際にパフォーマンスをさせる方法でした。まずエレミヤを陶工の家に送ります。陶工の家でエレミヤ目にしたものとは、陶工が粘土で器を作っては壊し、気に入るのが出来上がるまで、それを繰り返していました。その時、突然、主の言葉がエレミヤに臨みます(18:1)。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと思っているのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」

主はさらにエレミヤに言われました。「行って、陶器師の壺を買い、民の長老と、長老格の祭司を幾人か連れて、陶片の門を出たところにある、ベン・ヒノムの谷へ出て行きなさい。…(中略)人々の見ているところで、その壺を砕き、彼らに言うがよい。万軍の主はこう言われる。陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民とこの都を砕く。人々は葬る場所がないのでトフェトに葬る。わたしはこのようにこのところとその住民とに対して行う、と主は言われる。そしてこの都をトフェトのようにする。エルサレムの家々、ユダの王たちの家々は、トフェトのように汚れたものとなる。これらの家はすべて、屋上で人々が天の万象に香をたき、他の神々にぶどう酒の献げ物をささげた家だ。」

このように、エレミヤが壺を砕くことによって、イスラエルに下される神の裁きを象徴的に表しました。やがて、血の畑、アケルダマにおいてイスラエルの民に対し裁きが、成就されるのです。その裁きとは、神の顧みられる民が旧約のイスラエルから新約のキリスト者へ移行したということです。

そのことは、ゼカリヤ書11章にさらに詳しく書かれています。エレミヤ書と全く違う話ですが、話の中で言わんとしていることは同じです。

ゼカリヤ書11章には、神の御告げによって、預言者ゼカリヤが、イスラエルの牧者として、つまりイエス様の役割を演じています。牧者ゼカリヤは、羊のうちの悩める者たちのために良い牧者となり、二本の杖を持って羊を養うことにしました。二本の杖とは「慈しみ」の杖と「一致」の杖です。良い牧者は悪い羊飼いたちを一月に三人も退けて、一生懸命牧会しました。悪い羊飼いとは、偽預言者やユダヤの指導たちです。しかし羊たちの態度に我慢しきれなくなり、ついに一本目の「慈しみ」の杖を折ってしまいました。ある日、牧者は羊たちの本心を試みるために「あなたがたがもし、よいと思うならば、わたしに賃金を払いなさい。そうでなければ、払わなくてもよい」と言うと、羊たちはこの素晴らしいメシア的牧者に対しわずか、銀30シェケルしか払おうとしませんでした。銀30シェケルとは奴隷の価だったのです。ゼカリヤ11章12~14節をご覧ください。(旧約p1,491)

わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。

主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。

わたしは「一致」というわたしのもうひとつの杖を折り、ユダとイスラエルの兄弟の契りを無効にした。

このように銀30シェケルつまり、奴隷の価しか払おうとしなかった民に対し、神はとうとう愛想をつかしてしまい、ゼカリヤに言われました。「その見事な価を陶器師に投げるがよい。」そしてゼカリヤは、二本目の「一致」の杖も折られたのでした。ですから、今まで彼らを神の羊としてきた「慈しみ」と「一致」とは取り去られるだろうという預言だったのです。そのことが、ユダヤ当局者たちが、メシアを自分勝手に侮り、メシアの血の代価を拒絶したときに起こったのです。

しかし同時に、血の畑は、イスラエル民族との契約の杖がおられた後に、再び主がまことの選民を顧みられて、新しい契約を結んでくださる保証でもありました。誰に対する保証なのかと言えば外国人です。つまり、メシアの血の代価を外国人の無縁墓地として割り当てましたが、実にこの時、異邦人が新しい民として起こされたのです。メシア的牧者は、旧約の選びの民から、奴隷のごとくに値踏みされ、捨てられますが、そのイエス様がご自身の血を持って新しい契約の民を買い取り、買い取られた異邦人たちを天の御国の相続地の世継ぎとしてくださったのです。

このようにマタイによれば血の畑が生き生きと証言していることとは、まさに以前、人身御供が捧げられたその場所において、エレミヤが壺を砕いたその場所において、イスラエルがメシアの血の代価を拒絶してしまったこと、それを奴隷の価である銀30枚で値踏みしたことを証言しているのです。そして、同時に、その血の価によって外国人墓地が購入されたことによって、異邦人が新しい民として代わりに起こされたということを証言してるのです。

ユダヤの当局者たちの一体誰が、血の畑が生き生きと証言している内容を自覚することができたでしょうか。しかし、今日、私たち異邦人キリスト者は、血の畑が叫んでいる証言を、感謝をもって受け入れることができるのです。十字架に架けられたイエス様は、まさに旧約の預言者によって証しされた、来るべきメシアであり、ご自身の血の代価によって私たち罪びとを買い取ってくださったお方です。わたしたちはこの方に礼拝を捧げるのです。お祈りいたしましょう。

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