2021年10月24日「見よ、神の小羊を」

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見よ、神の小羊を

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章19〜34節

音声ファイル

聖書の言葉

19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」 32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
© Executive Committee of the Common Bible Translation 共同訳聖書実行委員会 1987,1988
© Japan Bible Society 日本聖書協会 1987, 1988
ヨハネによる福音書 1章19〜34節

メッセージ

今朝は、少し長い聖書の箇所をお読みしました。新共同訳の聖書では二つの段落に分けられていますけれども、一続きの箇所として読むこともできます。はじめの一九節には「さて、ヨハネの証しはこうである」という言葉で始まって、三四節の「だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」というヨハネの言葉で終わっています。洗礼者ヨハネの証しの働き、主イエスがこういう方だということを示したことが語られている箇所であります。一九節から二八節には〜ではない、わたしではない、私のようなものではないという消極的な証しがまず語られ、二九節以下には〜だという積極的な証しが語られている、そう読むこともできるでしょう。

 今日のこの聖書の箇所を読んで、とても気になることばがあります。二九節の「その翌日」という言葉です。どうしてこんな言葉が書かれているのだろうかと思う。いつの日から翌日なのか。前の箇所のヨハネが最初の証しを語りました翌日ということでしょうけれども、不自然です。そして、この後の三五節でも「その翌日」とあり、また四三節にも「その翌日」とあります。三回繰り返されまして、そして、二章一節に「三日目に」とあります。その翌日、その翌日と三日数えて、さらに三日ですから、六日過ぎたことになります。最初の日から数えると、七日目ということになります。

 七日間というとふと気づくことがあります。このヨハネによる福音書は「はじめに言葉があった」と最初にあります。創世記の一章一節「はじめに神が天と地を創造された」と同じです。そして、七日間のことが語られることにおいても、創世記と重なっています。ヨハネ福音書の七日目は、カナの婚礼の出来事でありまして、二章一一節ではこう記されています。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」。このようにして、主イエスの救いの出来事が、創世記と重ねるようにして、語り出されているのです。

 そして、またこのカナの婚礼に至りますまでのところに、主イエスの呼び名が一気にいくつも語り出されております。まず最初に、二九節に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とあり、三四節には「この方こそ神の子」、四一節には「メシア」、四五節には、「ナザレの人、ヨセフの子イエス、四九節には、「イスラエルの王」、さらに五一節には「人の子」とあります。こうしてほとんどすべての呼び名が出てきています。主イエスの呼び名のオンパレードになっています。こうしてこの福音書のはじめに、様々な呼び名で呼ばれて、主イエスへの信仰が言い表されているのです。そして、その一番最初に紹介されています呼び名が今日のこの「世の罪を取り除く神の小羊」という呼び名なのです。

 二九節にはこうあります。

「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。

 三五、三六節にもこうあります。

「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った」。

 ここにこうして洗礼者ヨハネが、主イエスのことを指し示して、神の小羊だと言ったことが語られています。そして、大変、不思議なことですけれども、この先、洗礼者ヨハネは自分の使命は終わったというようにして舞台から姿を消してしまいます。この後は、ヨハネについて語られることはあっても、彼自身は全く登場しません。主イエスが来られると姿を消してしまう。これがヨハネという人です。今日の聖書の箇所でもその前半、一九節から二三節でも自分はメシアではない、そそのことをはっきり語り、わたしの後に来る方こそが大切な方ゔなのだ、自分は「荒れ野で叫ぶ声」だと言います。そして、その方が登場されると、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と叫び声を上げるのです。ただこの声は、誰に対して語られているのでしょうか?。

実はよくわかりません。三六節の「見よ、神の小羊」は明らかに二人の弟子に向かって語られたのです。けれども、二九節の方はわかりません。ヨハネは誰に対してもこう語ったそう言えるかもしれません。けれども、何よりも読者に、言い換えると、今日のわたしたちに語りかけられている言葉として聞くことができます。ヨハネが時を超えて、今のわたしたちに語りかけている、そういう言葉です。

 そしてこの言葉は、ヨハネが、こちらの方に向こうから歩いてこられる、近づいてこられる方を指し示して、語られている言葉です。ヨハネは、「イエスがこちらに来られるのを見て言った」のです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。

 今、中会で、信徒の方で信徒説教者の免許を取得するために学んでいる姉妹がおられます。視力に障害をお持ちの方です。大変に聡明な方でアメリカの大学で教えてもおられた方です。今、その方に説教学の講義をオンラインでしています。講義をしているといういうよりも、一緒に学んでいるという方が正確です。先週も、学びの時間を持ちました。その時に学びましたのは、説教とは何かということです。その時にこんな話になりました。説教とは、主イエスを紹介することではないか。聖書の解説をすると言うのではなく、わたしたちが聖書から聞いて知っている、主イエス・キリスト、この方がどんな方なのかを紹介する、そういうことではないか。解説するというのはどうも違う、解き明かしなどというと、どうも難しい、なんか違う。そこで説教というのは主イエスを紹介する、そう考えた方が良いのではないかと申しました。そのしまいは「ああ、なるほど。そう考えると嬉しくなります」そう言われました。そして、ちょうど今日の箇所とは違うルカに福音書でしたけれども、その時に、そこで証しされている主イエスその方がどういう方なのかという話をしました。こちら側から探しに行って見つける方じゃないう、向こうからきてくださる方だ。わたしたちを探して救うために来てくださったそういう神さま、救い主、それがイエス・キリスト、このお方だ。

 今日のこのヨハネによる福音書も同じなのですね。ヨハネはひたらすら主イエスを紹介しています。ヨハネは自分ではない、わたしの後から来る方こそがわたしたちを救ってくださる方だ。自分は人を救えない。けれども、この方はできる。そして実際にその方がこられたわけです。そして向こうから近づいてこられた。やってこられた。その時に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」こういったのです。

 しかしながら実は、この方は、ヨハネにとって、ずっと以前からよく知っている、そういう方ではなかったようです。二六節には、「あなたがたの中にはあなたがたの知らない方がおられる」とあります。そして三〇節にはこう語られてもいます。

「『わたしの後から一人の人がこられる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられた方である』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはその方を知らなかった」。

 とても不思議な言葉です。この方は「あなたがたの間にいて、あなたがたが知らない方だ」と言います。でもヨハネは自分は知っていたというのではないのです。自分もまた、この方のことを知らなかったというのです。

 ある聖書の注解者は、ここでヨハネが「知らなかった」という言っていることには二つの意味、二重の意味があると指摘しています。一つは、「イエスの栄光」ということを知らなかったということだと言います。一四節の「独り子としての栄光」のこと、そのことを知らなかったということだ。これは十字架と復活、聖霊の降臨の出来事を通して明らかになることだからと。けれども、それだけではなく知らなかったにはもう一つの意味がある。それはイエスの新しさだというのです。イエスこの方は、預言者ででも、王でも、祭司でもない。今まで旧約聖書に登場したあらゆる人々、神がお送りになったどの人とも違う。この方は、今までにない全く新しい方だ、そういうことだ。だからこの方のことが、みんなわからなかった。そして、ヨハネはここで自分だけはわかっていたというのではない。少し高いところに立つのではありません。自分もこの方のことが、また全くわからなかった。けれども、ただこの方が来られた時、神がわたしにこの方のことを示してくださったのだというのです。それが三四、三五節の言葉です。

 そして、そのところでこのヨハネが語るのが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」ということです。この呼び名が、ここでの最初に紹介される呼び名であるということには、やはり意味があると思います。

これ以上の紹介はないと言えルカもしれません。

 イーゼンハイムの祭壇画と呼ばれる絵があります。フランスのコルマールというドイツとの国境にある小さな町の美術館にこの絵は飾られています。10数年前にこのコルマールのまちでこの絵を間近に見たことがあります。イーゼンハイムの祭壇画は最も残酷な十字架にかけられた主イエスが描かれている絵と呼ばれます。絵の真ん中にはすでに十字架にかかって息絶えておられる主イエスが描かれています。そして主イエスの体には幾つものトゲが刺さっています。そして体はすでに死の力によって腐り始めているかのようです。ただこの絵には十字架にかけられた主イエスのお姿が描かれているだけではありません。右下に赤い服を来た人が描かれています。この人は左手に書物を開いて持っています。それは聖書です。そして、右の手は指さしています。十字架にかけられたキリストを指差しています。そしてラテン語で赤い字で記されています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。そしてヨハネの足元には十字架かついだ子羊まで描かれています。きょうの聖書の箇所なのです。それが終わりに記される十字架の場面と一つになって語られているのです。ヨハネによる福音書のはじめと最後が一つにされて描かれているのです。

 ヨハネによる福音書はこれから、この方のことをずっと語っていきます。それはどこを語って、何を語っても結局はこのことなのです。この方は、神がわたしたちの罪を取り除くために、お送りになった方なのだ。十字架にかかった神の小羊、この方に、あなたがたのその目を注ぎなさい。ここに救いがある、そのことが語られられいるのがこの福音書なのです。この福音書は、ヨハネによる福音書と呼ばれます。わたしはもし、もう一つほかの題をこの福音書につけるように言われるなら、迷いません。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。ここに神の救いが与えられました。ここにこの方に置いて全く新しいことが起こりました。この方は、生きておられわたしたちのところに近づいてこられています。「この方を見よ」、そう呼びかけられているのです。お祈りします。