2020年05月03日「神の言葉はつながれない」

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神の言葉はつながれない

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
テモテへの手紙二 2章8節~10節

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聖書の言葉

イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。

 日本聖書協会 新共同訳聖書テモテへの手紙二 2章8節~10節

メッセージ

一、 思い起こす 

「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」。

 使徒パウロは、テモテにこう呼びかけます。

「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」。「イエス・キリストをいつも思っていなさい」と以前の口語訳聖書では訳されていました。「今一度だけここで思い起こしなさい」ということではありません。ここでは反復、継続を意味する言葉が用いられています。「思い起こし続けなさい」、「いつも思い起こしなさい」ということです。

 パウロがテモテにこのように語りかけるのには理由がありました。

 テモテは、使徒パウロと出会ってキリスト者となりました。やがてパウロの伝道の旅にも同行し、彼自身もまた伝道者として生きるようになりました。この手紙が書かれた頃には、パウロは獄中に囚われの身となっていました。しかし、テモテは、なおエフェソの教会を拠点として、伝道者として働き続けていた。しかし、その働きは困難を極めました。思うようにいかなかった。この手紙を読んでみれば、よくわかります。苦難の時が続きました。テモテの心も体もひどく弱っていたようです。この手紙の一章六節では「神の賜物を再び燃え立たせなさい」とパウロはテモテに語っています。つまり、火が消えかかるような状態にあった。そのようなテモテにパウロは手紙を書いた。それがテモテへの手紙です。

 今日はお読みしませんでしたけれども、二章の初めではこのように語っています。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」。「しっかりしろもっと強くなれ」と叱っているように受け取られるかもしれませんが、そうではありません。「強くなりなさい」は、「強くされなさい」と受け身形が用いられて語られています。誰によって、何によってでしょうか。キリスト・イエス、キリストの恵みによってです。ですから、上から叱咤激励しているのではありません。私たちが、弱さの中にある時、一番、大切なのは、キリストです。「弱さの中でキリストにその身を委ねたらいい、そうすれば強くなる」そう言っているわけです。

 ですから、今日の箇所でも、パウロは、こう言います。「イエス・キリストをいつも思っていなさい」。 イエス・キリストをいつも思う。思い続ける。それが、私たちの信仰生活です。信仰生活は、イエス・キリストを繰り返し、思い起こす生活です。自分に思いを向けて、自分自身のことを振り返って自分自身を見つめ続ける生活ではありません。自分はどんな人間か、良い人か悪い人か、強い人か弱い人とか、立派な人間かそうではないか、そういうことではありません。

 けれども、イエス・キリストをいつも思う、思い起こすということはどういうことなのでしょうか。私たちはこのお方をどのような方として思い起こすのでしょうか。パウロはここでこう語ります。

「私が宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」(八節)。

 「この方はダビデの子孫」。ダビデは王でありますから、この方はまことの王である。万物を統べ治めておられ、権威と力を持っておられる王であるということです。

 また王である方は、「死者の中から復活された」と語られています。

この王は死に勝利された方です。こんな王はどこにもいない。救い主です。しかも、ここでは、過去のことが語られているのではありません。こういう偉いお方、こんな、すごいお方が過去におられたという話ではありません。「死者の中から復活された」ということは、今この方は生きておられるということです。そして、この方が今私たちと共におられる、パウロはそういう意味でこのように語っています。

 「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」。思い起こす、思い出すというのは、単に過去の記憶の話ではありません。この方を今、自分自身に深く関わる方として、思い起こすということです。そうではないと「福音」にはなりません。単なる知識や記憶の話では福音にはならない。パウロは、ここで「わたしの宣べ伝える福音」と言っています。知識や記憶の話だと福音、喜びを与えるものにはなりません。信仰の話、救いの話です。パウロが言っているのは、 「このお方との関わりに私たちは生かされている、救われている。この方、イエス・キリストは、まことの王で、死人の中からよみがえられたお方」。

 私たちは弱いものです。今朝も、自分の弱さを覚えながら日曜日を迎えているのではないでしょうか。でもだからこそ、その弱さの中で御言葉を聞きます。「イエス・キリストをいつも思っていなさい」と。

二、自由な神の言葉

 パウロは、さらに、自分自身のことを語り始めます。

「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついには犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」。

パウロは、ここで、何をしているのでしょうか。そうです彼は、テモテに自分自身のことを、自分の弱さを打ち明けています。パウロは、今、牢獄に囚われて、鎖でつながれています。パウロは伝道者です。伝道者が獄に閉じ込められてしまうことはどうしようもないことです。イエス・キリストのことを人びと伝えることはできません。万事窮すという他はありません。しかし、パウロはそこで驚くべきことばを語ります。「わたしは犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」。

 驚くべきことばです。パウロは負けず嫌いでやけになってこういうことを言っているのではありません。本当にそう思っているのです。パウロが弱さを覚えても、それは問題ではない。パウロの願い通りにならなくてもそれは問題ではない。王であるキリストが生きておられる。この方が、おられる。パウロが弱くても、キリストは強い。

 キリスト、この方のみ業は、働きは必ずなされる。神の言葉は、前進します。人間を鎖につないでも、キリストのみ業である、神の言葉の伝道は、鎖にはつながれません。私は人間であり私は弱い、でも私が弱くても、イエス・キリストこの方は強い。御心をなされる。

 テモテはこのパウロの語りかけを聞いて、慰められたのではないでしょうか。

 今日の御言葉は、テモテだけではなく、今日まで多くのキリスト者を力づけ、支えてきました。ニーメラーという牧師がおり、彼はヒトラーの時代に教会の指導者の一人として、ヒトラーと会見しました。しかし、その時、ニーメラー牧師は、不服従の姿勢を貫いた。そのために要注意人物とされ、ついにはダハウという強制収容所に捕らえられました。それは敗戦に至るまでの、かなりの長期間です。ただその間に、六回ほどだけ礼拝を献げることが許されました。そこでニーメラーは六回の説教をしました。その説教が、説教集になっています。この説教集には、題がつけられています。「ダハウ説教集 – 神の言葉は繋がれたるにあらず」。今日のパウロの言葉が副題につけられています。けれども、実はこの説教集に、この箇所からの説教はありません。にもかかわらず、今日のこの御言葉が題になっているわけです。これは珍しいことです。普通は、同じ題の説教が掲載されているものです。しかし、そうではない。おそらくニーメラー牧師の心にどの説教の背後にも、この御言葉があったということでしょう。あるいは、囚われている間中、ずっと彼はこの御言葉に支えられていたのではないでしょうか。この御言葉に支えられて、望みを抱き続けた。

 「しかし、神の言葉はつながれていません」。

 私たちも自分が鎖につながれてしまっているかのように思えることがあります。今はそういう時ではないでしょうか。私たちは様々な不自由を感じながら生きています。自らの弱さを、自分自身の無力を覚えているのではないでしょうか。教会の活動も制限しています。礼拝に皆でいつものように集まることもできません。まるで鎖につながれているかのようではないでしょうか。また同時に、実はこのような時だけではなく、私たちの人生には、鎖につながれてしまっているような状態になる、囚われて不自由な生活を強いられることが多くあるのではないでしょうか。歳をとって体の不自由を覚えることもあります。体やこころを病んだり、あるいは家庭や職場、学校の人間関係で悩んで動けなくなる音もあります。自分の弱さを覚えたり、不自由な生活を強いられることもあります。そういう中で御言葉は語ります。「しかし、神の言葉はつながれていません」と。この御言葉は私たちの人生に光を、希望を与えてくれるのではないでしょうか。

 今日、どの人にもおすすめしたいのは、今、この短いみ言葉を何度も何度も、口ずさんでいただくことです。「しかし、神の言葉はつながれていません」。そのようにしてこの聖書の言葉を、心に刻むようにする。そのようにして神の言葉を聞いていただきたい。生活の中でこころが塞がってきたら、この言葉を口ずさんだら良いのです。

三、苦難の意味

 さらにパウロはこう言います。

「だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」。 

 ここで「あらゆることを耐え忍んでいます」というのは獄中での生活のことです。自由に働くことはできません。今、置かれている状況を耐えるほかない。何もできない。しかし、パウロは、「あらゆることを耐え忍んでいる」のは、「彼らもキリスト・イエスによる救いを得るため」と言います。どういうことでしょうか。なぜ耐え忍ぶことが、人々が救いを得ることになるのでしょう?「よくわかりません」、そう言うほかないもしれません。しかし、わかることもあります。

 私たちが何か耐え忍ぶことはとても苦しいことです。なぜ耐え忍ぶことが苦しいのかというとその意味がわからないからです。ただ無意味な時間だけが過ぎていくように思われる。この苦しみの意味がどこにあるのかわからない、無意味に思われる。そのことが苦しい。しかし、そこでパウロはキリストの思い起こします。今も、生きておられるまことの王を思い起こします。死者の中から復活された方を思い起こします。そのお方の支配の中に、そのご計画の中に、今の自分の苦しみもまた位置付けられることを見ています。この苦しみには、意味がある、目的があるということを見ている。イエスの苦しみには「救い」の意味があったように、その苦しみもまた「救い」に通じる。

 山谷省吾という聖書の学者が、入信の経験を綴った証しの本を書かれています。『渓流』です。その中で、洗礼を受けてからの生活をひとことの短い言葉で言い表しておられます。「余裕(ゆとり)』。洗礼を受けたから苦難がなくなるというわけではない。しかし、何も変わらないのかというとそうではない。苦しみの見つめ方が変わった。余裕(ゆとり)ということが生まれた。悠然といいう意味ではありません。苦しみとの間に適度な距離、空間、隙間が与えられた、そういう意味で「ゆとり」が与えられた。今日のパウロもそうです。弱さを持った人間が苦しみを受けるとひとたまりもないと思う。しかし、そこでキリストのことを思う。そこにゆとりが生まれてきます。私たちも今、ゆとりが必要なのではないでしょうか。このゆとりは、周りの人たちのことを思いやることにもきっと繋がるでしょう。家族や友人、境界の兄弟姉妹のことを思いやることがこのゆとりから生まれるのではないでしょうか。

今日の御言葉は、私たちにそのゆとりを与えてくれます。「イエス・キリストをいつも思っていなさい。…しかし、神の言葉はつながれていません」。

お祈りします。

主イエス・キリストの父なる神よ

苦しみの中で自らの弱さを覚えている私たちにイエス・キリストのことを思い起こさせてください。この方こそ、まことの王であり、死者の中から復活されたお方です。私たちは弱くても、この方は強いのです。この方により頼むことをなさせてください。御言葉によって私たちにゆとりを与えてくださり、しっかり立たせ、愛に生きることを今この時になさせてください。

 キリスト・イエスのみ名によって祈り願います。アーメン。