2021年03月28日「確かな死、確かな命」

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確かな死、確かな命

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 27章57節~66節

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聖書の言葉

57夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。 58この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。 59ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、 60岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。 61マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。
62明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、 63こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。 64ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」 65ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」 66そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。

© Executive Committee of the Common Bible Translation 共同訳聖書実行委員会 1987,1988
© Japan Bible Society 日本聖書協会1987, 1988マタイによる福音書 27章57節~66節

メッセージ

私たちは今、受難節の時の中にあります。また特に、今日のこの日曜日からの1週間は受難週と呼ばれます特別な1週間です。受難週を覚えて、この1週間を過ごしたいと思います。

 今日、お読みしました聖書の箇所も実は受難週の出来事を語っています。主イエスが十字架につけられましたのは金曜日です。午後3時頃に息を引き取られたと今日の箇所の前に記されています。それからあとのことが、今日の箇所に語られています。五七節には「夕方になると」とあります。つまり、主イエスが十字架につけられた日の夕方のこと、その遺体が墓に葬られたことが語られています。そして、六二節以下には、明くる日、準備の日の翌日、土曜日の出来事が語られて、二八章に入りますと週の初めの日、日曜日のことが語られています。このように今日の箇所には受難週のことが語られているのです。

 最初に一人の人が登場します。ヨセフという人です。この人がピラトに願い出て、主イエスの遺体を引き取り、自分の墓に葬ったのです。読むたびになんだか不思議なことだなあと思います。この福音書の初め第1章にもヨセフという人が登場します。主イエスの父ヨセフです。今日の箇所のヨセフとは全くの別人です。でも同じヨセフという名前で、二人ともあまり目立ちませんが大事な役割をになっています。誕生と死という大事な場面で、それぞれが大切な役目を果たしています。そして、二人とも黙ってなすべきことをしています。不思議だなあとしみじみと思うのです。

 今日の箇所に登場しますヨセフですが、このヨセフは「アリマタヤ出身で金持ちであった」と書かれています。マルコによる福音書には、この人はユダヤ人の議員、主イエスに死刑の判決を下した最高法院のメンバーであったと、けれどもルカ福音書には、ヨセフは議員でありながら、その判決に同意していなかったと語られています。さらに今日の箇所には、この「この人もイエスの弟子であった」とあります。このヨセフは、一体いつどのように主イエスの弟子になったのでしょうか。さらにヨハネ福音書には、このヨセフは、「イエスのでしでありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」と書かれています。こうして見ていくとこの人のことが少し見えてくる気がします。 そして、ヨセフもまた、主イエスが十字架にかけられた時、五五節以下に婦人たちが見守っていたのと同じように見守っていたのだと思います。そして、彼はこの十字架の死の後に変わる、否、変えられた。これまで弟子であることを隠していた人です。その人が、「ピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるように願い出た」とあります。十字架を恥じなかった。十字架にかかって死んだ救い主など、どうしようもないと言って、そっぽを向いた、失望してしまったのではない。反対に、この時から、勇気を出して公然と、ピラトのもとに行き、遺体を渡してくださいと願い出て、主イエスの遺体を引き取ります。そして、自分のために用意していたまだ使っていない新しいお墓に、主イエスの遺体を葬ったのです。なぜ、そんなことをしたのか、もしかすると本人でさえ、よくわからなかったかもしれません。どうしてもそうせずには居られなくなった。

 もし理由があるとすれば、マタイによる福音書が書いていることは、ただ一つのことです。「この人もイエスの弟子であった」と五七節で語られています。「この人も」です。この「も」がとても大切です。ほかの弟子たちと同じように、この人もということかもしれません。でもそれだけだろうかと思うのです。マタイによる福音書は教会のことを大切にしています。教会に生きる人ことそれは主イエスの弟子として生きることです。この人も弟子だった、教会に生きる私たちも、わたしもイエスの弟子。そういう思いがここに込められているのではないでしょうか。ヨセフは主イエスの弟子の姿を示しているのです。ずいぶん古くからの読み方にこんな読み方があります。

 ヨセフは、十字架につけられたキリストの体を受け取っている、私たちも教会で同じことをしているではないか。「取って食べよ。これはあなたがたのために裂かれたわたしの体である。わたしを記念するためこのように行いなさい」、この御言葉を聞いて、パンを裂いて食べる。聖餐式です。私たちも、ヨセフと同じことをしている。十字架を恥じとしないで生きる、その恵みによって日々に生かされるのです。

 ヨセフは、ここで主イエスの家族となっていると言った人もいます。そのことも心引かれます。十字架にかけられた犯罪人の遺体は通常は、家族のみに引き渡されたようです。ヨセフは、主イエスの家族のように、否、家族として主イエスの遺体を引き取る。教会は父なる神のもと、主イエスを長兄とする神の家族です。その家族の一員として、ヨセフはここで主イエスの遺体を引き取り、葬っているのです。

 丁寧にいうと、キリストの十字架によって、ヨセフは家族にされているのです。それは私たちも同じです。主イエスのもとで、主イエスに連なる神の家族の一員、それが私たちです。そして、ヨセフも、その一人です。これは本当に幸いなことであり光栄なことです。

 ところで、今日の聖書の箇所、主イエスがこのように墓に葬られたという聖書の箇所は、はっきり言って目立つことがありません。今回、調べて少々、驚きましたが、説教でもこの箇所が飛ばされていることも少なくありません。しかし、「主が葬られた」ということは、古くから教会では重要なこととされてきました。例えば、コリントの信徒への手紙一第一五章三節以下でパウロはこう語ります。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり復活したこと…。」。また使徒信条にも「十字架につけられ、死にて葬られ」と葬りについて語っています。いずれも、とても大切なこととして、葬りについて語られているのです。ここはあまり大切なことじゃない、飛ばしてもいいなどということにはならない。むしろ、とても大切なことの一つ、十字架と復活の語られるところで見逃してはならないこととされているのです。どうしてでしょうか。

 葬られたということは、主イエスが確かに死なれたということを意味するのです。近重勝彦という神学者であり牧師は、キリストは三日の後に復活された。この三日というのはとても大切なことだと言われます。そして、この三日というのは、主イエスが確かに死なれたということを意味する。「主は十分に、しっかりと苦しみ、死なれた」と。そして続いてこんなことを言われます。「人間の例でも、本当の赦しは、しっかりと叱った後にあるものです。しっかりと叱ることなしに本当の赦し、その人を変える力を持った赦しはなされません。主イエスが苦難を極め、しっかりと死なれたことは、私たちにとっては、私たちに代わって神の裁きをしっかり負われたことを意味します」。

 またそれに加えてもう一つのことがあるように思います。しっかり死なれ、キリストは蘇られたのです。確かに死なれたということは、確かな命をもたらされることを意味するのではないでしょうか。

 牧師をしていまして、こんなことを何度か尋ねられたことがあります。「イエス様は神の子で、すべてをご存知だった。十字架について死ぬこともご存知でした。でも復活することもご存知だった。そう聖書に書いてある。それなら、イエス様の苦しみってどういうことですか?それは苦しみではないのではないですか?」。わたしはこういう質問を不信仰な質問だと切り捨てる思いはありません。わたしも似たようなことを考えたことがあるからです。この質問はこう言い換えることができるように「イエス様と私たちは違う。私たち本当に死ななければならない。死は怖いこと。でもイエス様はいいなあ。死んでも復活することがわかっていたから」。どう思われますか。そういう私たちに今日の聖書の箇所は、語りかけています。イエス様は、本当に死なれた。しっかり死なれた。仮の死を死なれたわけではない。だから、墓に葬られたということを聖書は、ちゃんと語るのです。主イエスは確かに、しっかりと死なれた。だからこそ、私たちの赦しが確かになる。私たちの命もまた確かになる。

 去る三月一一日の朝、父が死去しました。若い日に洗礼を受けて、とても長い間教会を離れて生きておりましたが、退職後、私が牧師になってから、教会に戻って、教会に生きるようになりました。あまり信仰の対話をした訳ではありませんが、教会に生きることを喜びとしていたようです。私たち兄弟のこと、家族のことをいろいろありましても、大事に思っていてくれたということを今にして感謝を持って覚えています。父が死に教会で葬儀が行われました。コロナ禍ということもあり三人の兄弟とその家族のみで行いました。父と母の所属していました教会の牧師が司式をしてくださいました。礼拝の恵み、み言葉の恵みをいただきました。そして火葬場に参りました。祈りを共にささげ、火葬しました。収骨まで火葬場の待合室で二時間ほど待つことになりました。待っている間に、妹夫婦が教会の墓に行きたいと言いました。牧師が、「すぐ近くなので歩いて行きましょうか」と言われます。妹夫婦と、弟と私、そして牧師と一緒に、少し小高いところにあるお墓に行ったのです。澄み切った空気の雲一つない良い天気の日でした。ちょうど私たちの教会の御墓と同じような墓です。この墓に向かう途中もいろんなことが思い出されました。墓にたった時、思い出されたことがあります。それが、十字架につけられたキリストが墓に葬られたということでした。今日の聖書の箇所のことです。職業病かもしれませんが、関に戻ったら、ここから説教する、そんなことを思いました。ああ、そうかと、思ったのです。父の体はもう目にすることができない、焼かれて灰になって、そして、ここに葬られる。キリストも同じように死なれて葬られた。確かに死なれた。しっかり死んで、葬られた。もしこのことがなかったら墓はまた違ったものになったのではないか。「ここはいいところだなあ」妹の夫がふと呟くように言いました。本当にそうだと思い、「本当にいいところですね」と答えました。

 人は皆、死ななければなりません。そして、死ぬ時はひとりであります。一緒に死ぬことはできません。けれども、厳密にいうとそうではない。キリストが死なれた。このキリストはそこにも共におられる。主は我らと共にいます。インマヌエルということは、死においても墓においても変わらないのです。

 ヨセフは、自分の墓に主イエスを葬りました。そして、この墓は、「新しい墓」だったとマタイは書いています。新しいということはどういうことでしょうか。単純な意味では、造ったばかりの墓、誰の遺体も置いたことのない墓、ということでしょう。けれども、それだけではないでしょう。墓というものが、主イエスによって、新しい墓になったのです。墓は行き止まりではなくなったのです。墓に穴が空いたのです。永遠の命の門となった、その意味で新しい墓なのです。

 こんなことを想像します。ヨセフは、この後、もしかすると何度もこの墓を訪ねたかもしれません。主イエスがここに入られたこと、そして、ここから出て行かれたということを思ったでしょう。そして、自分も入るけれども、それで終わりではなく、ここから出ていくのだということを思ったのではないでしょうか。それは全くこれまでにない新しい望みであります。

 六二節以下には、弟子たちが遺体を盗み出して、主イエスが復活したと言い始めるといけないから、墓に番兵をおいて見張らせておくことになったことが書かれています。このことについて、詳しく触れる暇はありません。ただ、人間は、どうしても復活ということは認めない、信じようとしないということをここにも伺うことができるのではないでしょうか。まるで復活を押し留めようとするように墓には大きな石が転がされ、さらには番兵までも置かれたのです。しかし、そんなことはものともしないで、イースターの朝はやってきたのです。

主イエスの確かな死は、確かな命をもたらします。

お祈りいたします。

父なる神さま、御言葉によって、十字架にかかられたキリストが、確かに死なれたこと、葬られたことを告げてくださいました。このキリストの確かな死は確かな赦しと確かな命を私たちに与えます。どうか、ここ以外のどこにもない、確かな、そして新しい望みに私たちを生かしてくださいますように。キリスト・イエスのみ名によって祈り願います。アーメン。