2021年03月07日「この方にこそ救いがある」

問い合わせ

日本キリスト改革派 関キリスト教会のホームページへ戻る

この方にこそ救いがある

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 27章27節~44節

音声ファイル

聖書の言葉

それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

© Executive Committee of the Common Bible Translation 共同訳聖書実行委員会 1987,1988
© Japan Bible Society 日本聖書協会1987, 1988
マタイによる福音書 27章27節~44節

メッセージ

主イエスは、ローマ帝国の総督ピラトの法廷で死刑の判決を受けて、兵士たちに引き渡されました。今日の聖書の箇所には、判決を受けてから、主イエスが十字架につけられて息を引き取られるまでのことが語られています。十字架は、非常に残酷な刑罰でした。酷いもので、悲惨なものでありました。もし、そういうことについて事細かに語ったなら、ここにおられる皆さんの中には気分が悪くなる方もあるかもしれません。けれども、ここにはこの十字架がどんなに残酷な刑罰であったのか、酷いものであったとか、それがどれほど痛みを伴うものだったとか、そういうことについては何も語られていません。ここでは、ただ十字架のキリストの周りの人びとの言葉、またその姿が語られています。また、ここでは主イエス何もお語りになっておられません。ただただ周りの人びとのなすがままになっておられます。なぜなのだろうかと考えていますとふと「無言の雄弁」という言葉を思い出しました。無言ということは何も言葉が発せられないということで、普通には言葉がないということです。しかし、無言のままで言葉が語られる、しかも雄弁に言葉が語られるということがあるのです。そのことはわたしたちにもよくわかることではないでしょうか。ここで主イエスは無言であります。しかし、十字架のキリストは雄弁に語っておられる、そう言えないでしょうか。

 また、使徒パウロは「十字架の言葉」ということを申しております。コリントの信徒への手紙第一章一八節でこう言いました。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。十字架の言葉とはキリストが十字架上で語られた言葉という意味ではないでしょう。キリストの十字架そのものが言葉だということです。しかし、一体、それはどんな言葉なのでしょうか。

 今日の聖書の箇所には、主イエスの言葉は、今申しましたように何も記されません。けれども、その十字架のキリストの周りにいた人間、人間の言葉は語られています。

二八、二九節にはこうあります。

「そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した」。

 主イエスを引き渡されたローマの兵士たちがしたことです。彼らは、「ユダヤ人の王、万歳」と言いました。しかし、言うまでもなく、イエスを本気で王として崇めたのではありません。御言葉はそれは「侮辱」であったと語っています。

 三七節には、十字架にかけられた、その時にも「ユダヤ人の王イエス」という罪状書きの言葉が掲げられたとあります。

 四〇節には、十字架にかけられた主イエスの前を通りがかった人びとの言葉が語られています。

 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみ

 ろ。そして、十字架から降りて来い」。

 そのすぐ後の四二節以下には祭司長たちや律法学者たちもこう言ったとあります。

「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

 四四節には、「一緒に十字架に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」とあります。

 今日の箇所には、このようにして十字架のキリストが侮辱され、嘲られ、ののしられたことが、何度も何度も繰り返して、これでもかという具合に語られています。

 ある人がこんなことを言っています。「わたしたちの人生というものは、どこからそれを見るか、その見方によって、非常に違ってくるものだ」と。そして、ベイ・ブルーストいう大リーグのホームラン王のことを例にあげます。ベイ・ブルースは714本のホームランを打ち大記録を残した。けれども、全く逆にその三振の数は1330回でこれまた大記録だったというのです。ホームランということから見るか三振ということから見るかで全然、違ってくるというのです。どこから見るかでわたしたちの人生も変わって見えてくる。そして、こう言います。「キリスト教信仰というのは、ただ自分の人生の成功と思える部分から人生を見るわけではありません。しかし、また失敗と思われるところから見るのでもないのです。いつでも根本的に『キリストの十字架』から自分の人生を見ます。「キリストの十字架』によって生きるのです。これがキリスト者の人生態度であり、人生観だと言って良いのです」。 では、このキリストの十字架から自分の人生を見るとはどういうことか、そのことについて、こんなことを言われます。「あのキリストの十字架の出来事の中に、神様が働いておられることを信じて、そこからわたしたちの人生を見直すことだ」と。

 今日の聖書の箇所にはその通りのことが語られているのではないでしょうか。あざけられ、ののしられ、キリストは全く無力に見えます。何もおできにならない。ただただ苦難の中におられます。そして、神も何もなさらないのであります。この時、誰も、神さまがそこに働いておられるとは思っていないのです。しかし、ここに、この十字架のキリストとともに神はおられ、神が働いておられた、そのことがここで語られています。キリストは、ユダヤ人の王として、神のみ子として、十字架にかかられたのです。そのような仕方で、人間の最大の不幸、最大の苦しみ、苦難を神ご自身が受けとめられたのです。

 先ほど、わたしは、キリストは、ここでなすがままになっておられると申しました。その通りです。しかし、三四節には、主イエスがゴルゴタという処刑上に到着した時のことがこう記されています。「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった」。「苦いぶどう酒」は痛みを和らげる麻酔薬の役割を果たすものであったようです。キリストはそれをここで脳もうとはされなかったというのです。つまり、このことは、なすがままに受け身であったということではないのです。この時、十字架で自ら苦難を負われた、人間の苦難、不幸を自ら背負われたのです。人間の不幸、人間の苦難とは何でしょうか。

 苦しい痛みを伴う病のことを考えられる人もあるでしょう。ひどいいじめの経験を思い起こされる人もあるでしょう。理不尽な苦しみ、不幸な運命。人間関係。いろんなことがあると思います。何を考えてもいいと思います。しかし、言えることは、そういう一つ一つのことが十字架のキリストと深いところでつながっているということです。苦しみを受けて悩む時、十字架のキリストを見たら良いのです。ここから、自分の人生を見つめ直すことができます。そこで十字架のキリストとともに生きることがそこに生まれくるはずです。イエス・キリスト、この方が、苦難を担い、人間の苦しみ、わけのわからないような人間を痛めつける問題を克服してくださる方なのです。

 今週の木曜日に三月一一日がやってきます。一〇年目の記念の日です。あの時も受難節でした。あの時、途方に暮れていたわたしにある牧師がこう語ってくれました。「十字架のキリストを見よ」と。その時はすぐにはわかりませんでした。しかし、ずっとこの言葉は今でも残り続けています。十年のときを経て、この国も、また世界も苦しんでいます。苦難の中にあり続けています。闇が深まっています。苦難が人を悩ませています。だからこそ、今、十字架のキリストが伝えられなければなりません。今朝も、十字架のキリストを通して、神はわたしたちに語っておられます。

 さらにもう一つのことがあります。「十字架のキリスト」は、ただわたしたちの人間の苦難、病や死が神によって引き受けられ、試練が受け止められているというだけではありません。その奥には、わたしたちの罪の問題があります。この罪こそ、人間の最大の問題です。そして、今日の聖書の箇所は、この罪を十字架のキリストが、引き受けられ、背負われたということを語っています。それは罪の赦しのためでした。人間には、この罪の問題の解決、罪の赦しということがない限り、ほんとうの平安はありません。

 今日の箇所には、十字架にかかられたキリストとともにその周りにいた人間の姿が描かれていまが、この人間の姿は、わたしたちそのものの姿であります。

 はじめの二七節以下には、ローマの兵士たちのことが語られています。彼らは、主イエスの衣服を剥ぎ取り、その変わりに赤い服を着せ、いばらの冠を被らせ、右手に葦の棒を持たせたとあります。主イエスを王に見立てて、王さまごっこをしています。そして、唾を吐き掛け、暴力を奮っています。三五節には、主イエスの服をくじを引いて分け合ったともあります。人間は恐ろしいものであります。人間には誰にも皆、残虐な心がその奥に潜んでいます。ユダヤ人の迫害、ホロコーストについて学びますと、残虐な行為を行ったのは、何も特別な残虐な人たちではなく普通の人であった、家庭では良き夫、良き父であったというのです。日本の国もまた第2次世界大戦中に、朝鮮や中国において残虐なことを行いました。主イエスを徹底的にいたぶった兵士たちに現れたのはそういうわたしたちの中にある残虐性の現れです。そして何かが起こると、奥に潜んでいるものが出てくるのです。

 三九節以下には、「そこを通りががかった人びと」さらには「祭司長や律法学者たち」、「一緒に十字架につけられた強盗たち」までも十字架上の主イエスを嘲ったことが語られています。そこらじゅうから嘲りの言葉が浴びせかけられるのです。この嘲りの根本にあるのは、「自分を救うことができない者が神の子、救い主であるはずがない」ということです。主イエスは確かに多くの人を癒し、死んだ人を生き返らせたりもした。しかし、自分が十字架にかかって死んでしまったのでは救い主とは言えない、という思いです。救い主は、自分が苦しみにあったり、殺されたりすることはない、そういうことを防ぎ、避けることのできる力を持ったものだ。そうであるからこそ、わたしたちを苦しみから救うことができるし、死からも救うことができるんだ、そういう思いです。要するに力強い救い主、神の子を求める思いです。

そういう思いはわたしたちの中にもあります。わたしたちがいつも求めている神の子、救い主というのは、そういう存在ではないでしょうか。しかし、主イエスはそうではなかったのです。

 「神の子ならそこから降りて来い」「自分で自分を救ってみろ」、そう言われています。実はこのような声は、このマタイによる福音書ではこの十字架の場面でだけ語られているのではありません。マタイによる福音書の四章、主イエスが洗礼をお受けになってその伝道の働きをはじめられた、そのところで、このことがすでに発せられています。それは荒れ野の誘惑の出来事でした。悪魔は、こう言いました。「神の子なら、石をパンに変えてみろ」、「神の子なら、神殿から飛び降りてみろ」。「神の子なら、全世界を手に入れてみろ」。そっくり、同じです。主イエスは荒れ野でこのような誘惑を退けられました。つまり、最初から、十字架から降りて、救いを実現することを退けられて、そのお働きは始まり、この十字架においても、再び、同じ言葉が主イエスに浴びせられたのです。この十字架の出来事においては、その言葉が悪魔によってではなく、人間の口から語られるのです。主イエスは、十字架から降りることもできた。前に語られたように、父なる神に願って、天の軍勢を呼び寄せることもおできになった。しかし、そうはなさらなかった。ご存知だったからです。人間の問題は、それでは本当には解決しないということを。そして、神の御心がそこにははないことを知っておられたからです。

 ここにわたしたちの根本的な問題、罪の問題が露になっているのです。この主イエスへの嘲りの中に、わたしたち人間の本質が現れているのです。自分の思い、自分の観念というものがあるのです。神の救いとはこういうものでなければらない、神とはこういう方でなければならないという抜き難い思いというものがあるのです。神の救い、神の子、神ご自身を自分勝手につくりあげてしまうのです。「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない」、十戒の第一戒への違反です。そのことにおいて、ここでの嘲りの言葉は、わたしたち自身のうちなる言葉なのです。

 注解書を調べていまして、こんな言葉が語られていました。「彼らは、自分たちが神が不在であると思っているまさにそのところで、神は地上で未だかつてどこでもなかった仕方で臨在している、ということにおいて盲目なのである」。わたしたちはイエス様をこの目で見れたら、会えたら悩むこともないのにと思うことがあるかもしれません2しかし、今日の箇所からすれば神の子、救い主である、主イエスがそこにおられても、神がそこでご自身をあらわされたとしても、神はいない、いるなら見せてみろ、十字架から降りて来いというようなものなのです。神様との関係が、それほどまでに壊れている、切れているのです。

 しかし、今日の聖書の箇所は、そのわたしたちの罪、その罪の根本が露になったところで、その罪を主イエスが十字架において引き受けられた、その罪の審きを主イエスがお受けになったということを語っています。

 「十字架から降りてみろ」、人間はそういったのです。しかし、主イエスが十字架から降りて来られたなら、人間は、その神からさばかれて滅ぼされなければならなかった。しかし、神は憐みによって、御子の十字架によってわたしたちの罪をお赦しになったのです。

 

 わたしたちは、わたしたちの人生で、病や死、苦難を様々な仕方で受けています。またその奥にわたしたちは、罪の問題を根深く抱えています。

 「しかし、その中でもあなたたちは生きることができる。わたしとともに生きることができるし、生きなければならない」、そのように、十字架キリストは、わたしたちに語りかけてくださっています。十字架のキリストを通して、わたしたちは本当の意味で自分の人生を見ることができます。そのとき、わたしたちは生きれるのです。わたしたちの人生は、人生の収支決算表は、どんなことでも、マイナスにはななりません。わたしたちは少しのことでもマイナスになります。少し誰から何か言われたり、失敗したりすれば、たちまちマイナスになってしまう。しかし、キリストによるならばそうではない。それどころか、どんなに大きな罪や失敗によってさえも、マイナスにならないのです。なぜなら、十字架のキリストがおられるからです。わたしたちの人生の収支決算書には、イエス・キリストの十字架の恵みが膨大なプラスの数字としてはっきり記入されているからです。十字架のキリストの恵みというものはわたしたちの人生の見方を変えます。ここにこそ救いがあります。お祈りいたします。

 

主イエス・キリストの父なる神。御言葉を通して、十字架のキリストを仰がせてくださいました。この十字架のキリストを通して、わたしたちが自分の人生を見直すことができるようにしてください。わたしたちの苦難の中にも主はおられ働いておられます。まことに罪深いわたしたちであっても、わたしたちはこのキリストによって罪を赦されて生きることができます。そのことを感謝し、み名をほめたたえることができますように。主イエス・キリストのみ名によって感謝し、祈り願います。アーメン