2021年01月10日「献げよう、あなたの愛」

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献げよう、あなたの愛

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 26章1節~13節

音声ファイル

聖書の言葉

イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」マタイによる福音書 26章1節~13節

メッセージ

マタイによる福音書を日曜日毎に読み進めて、二六章に入りました。

ここから主イエスの受難・復活の出来事が語られていきます。その最初の入り口のところが今日、読みました聖書の箇所です。

 初めに主イエスが弟子たちに語られた言葉が二節に記されています。

「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」。「二日後」とありますが、私たちの場合、二日後というのは、明後日のことを意味しますが、ここで二日後というのは、今日を含めて明日ということです。明日から過越しの祭りが始まる、明日、わたしは十字架につけられるために捕らえられる、主はそう言われたのです。

 この時、主イエスは最期の時が迫っているのをはっきり弁えておられた。宿をとって泊まることができるのは、これが最後の夜。そして、その最後の夜をどこで過ごすのがそのことも予め決めておられたのでしょう。主イエスが宿を取られたのが、ベタニアの「重い皮膚病の人シモンの家」でした。今の聖書は皮膚病の人と訳されていますが、以前は、らい病となっておりました。レプラと言います。聖書の時代の重い皮膚病がすべてらい病ではなかったために重い皮膚病と訳されるようになったのです。このシモンがどんな人だったか、よくはわかりません。シモンの皮膚病は主イエスに癒されてたという人もいますが、それなら、重い皮膚病の人とわざわざ呼ぶ必要はなかったように思います。この病を患った人たちは、様々な差別を受けて苦しんだのです。誰も近寄らなかった。たとえ癒されても、そのことに変わりはなかった。しかし、主イエスは、このシモンの家で過ごされたのです。しかも最後の夜をこの家で過ごされた。大きな家ではなかったでしょう。

主イエスがこのシモンの家に地上の生涯の最後の夜に宿をとられた、そのことは心惹かれることです。

 シモンは主イエスと弟子たちを心を込めてもてなし、食事を用意した。御馳走が並んでいたでしょう。シモンだけではなく家族や友人たちもそこにいたかもしれません。そのシモンの家の夕食の席に、「一人の女」、無名の女が登場します。その女が主イエスの頭に香油を注ぎかけます。主イエスはその行為をお褒めになります。このことは、世界の歴史の最後まで記憶される出来事だ、この人は、わたしのためにお葬式の準備をしてくれた、そう言われ、「はっきり言っておく世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」と言われました。

 皆さんは、この聖書の箇所をお読みになってどんな感想をお持ちになっておられるでしょうか。一体この聖書の箇所は、私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。この一人の無名の女、この女のしたことは、私たちとどのように関わるのでしょうか。今朝は、その事をご一緒に考えて見たいのです。

 そのためにまずよく見ていただきたいことがあります。それは、主イエスはこの無名の一人の女のした事を、認められ、お褒めになっております。「わたしに良いことをしてくれた」とおっしゃいます。ですから私たちは、ああこの女は、素晴らしい事をしたのだと、よく考えずに思うかもしれません。しかし、私たちがこの場にいて、この女のしたことを、私たちが目の当たりにしたなら、きっと私たちはそのようには言わないかもしれない。いや、きっと言わない、そういうことなのです。むしろ、私たちは、この女のしたことに躓く、また、この女をお褒めになる主イエスに躓きを覚えるのです。

 ではこの女のしたこととはどういうことでしょうか。もう一度よく見て見たいのです。主イエスと弟子たちは、シモンの家で食卓の席についておられました。当時、ユダヤでは今の私たちがしているように座ってではなく、食事は体を横たえて食べていました。そこにこの女が現れて、主イエスの頭に香油を注いだのです。ここでの香油というのは非常に高価なものでした。三〇〇デナリオン、これは労働者の1年分の賃金もするものであったと他の箇所に記されています。その香油を惜しげもなく、この女は、主イエスの頭に注ぎかけました。そのように表現しますと、よく伝わらないかもしれません。この香油ちょいうのは、今日の香水のようなものです。そして、美しい石膏でできた容れ物に入っていました。これを注ぐためには、まずこの壺を割らなければなりません。この女もそのようにしたのでしょう。パ〜ンと壺が割れる音が部屋全体に響いたかもしれません。そして、女は、この壺を傾けて、香油を主イエスの頭に注いだ。どばどばと。香油の良いかおりがたちまち部屋全体に満ちたということではありません。むせたに違いないです。せっかくの食卓のご馳走の匂いはかき消されてしまった。たちまち食欲も失せてしまう。そんな感じだったのだと思います。弟子たちは、「この女は一体、突然、何をするだ」と思ったでしょう。マタイは、弟子たちはこれを見て「憤慨した」と書いています。そしてそれでも弟子たちはいくぶん抑え気味にこう言いました。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができるのに」。

 わたしは、このとき、自分がこの場にいたらという事を思います。弟子たちと同じように思ったのではないか、そう思えてなりません。なぜ、どうしてこんな事をするのか。理解できない。これは無駄使いだ。弟子たちは、貧しい人たちを愛し、助ける事の大切さを主から教わっていました。ついこの間も、「貧しい人にしたことはわたしにしてくれたことだ」と教わったばかりでした。この高価な香油を売れば、貧しい人たちを助けることができたのに。もったいない、そう思った。もっともなことでしょう。弟子たちは、主イエスもまたそう思われているに違いないと思っていたでしょう。しかし、主は言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。この人はわたしに良い事をしてくれた」。

この女のしたことがわからない、それだけではありません。それを喜ばれるイエス様がわからなくなる。主イエスは、この女のした事をこれまでにはないような最大限の言葉でほめられました。「福音が宣べ伝えられるところではどこでも、この女のした事も伝えられます」。

 どういう事なのでしょうか。私たちにとって大切なのは、不思議に思う事です。立ち止まって考えてみることです。この時の弟子たちと同じように主イエスの思いをよくわかっていると思ってしまうのです。しかし、実はそうではないということがあるのではないでしょうか。私たちはこうだとすぐに思い込んでしまうのです。知っている、。わかっている、そう思う。しかし、実はわかっていないことがあるのです。弟子たちも、私たちも人間なのです。人間である以上、主なる神のなさり方、その思いにはわからないことがあるのです。むしろ、よくわかっていると思う時が怖いのです。多くの場合、正論、これは正しい、間違いないと思うことに落とし穴があります。

 けれども、いつまでもただ立ち止まって不思議に思うだけではなく、さらに先に進むことが必要です。この出来事は、主が望んでおられることは何かという事を表しています。この女は、一体、何をしているのでしょうか。何か目に見える成果、良い事を成し遂げたのでしょうか。そうではありません。この女のしたことは、人間的、この世的な見方をすれば、全く無意味なのです。にもかかわらず、この事を主が喜ばれたのです。なぜ、どうしてでしょうか。それは主がその目を注がれるのは見えない所、隠れた所だからです。

 百瀬文晃というカトリックの神父が書かれた、イエス・キリストと出会う」という本です。その本の中にこの箇所について書かれたこんな言葉があります。

「死を前にしたイエスの感動、感謝の心、それを私たちはここで学ぶのですが、イエスが本当に喜んだのは、大きなことではなくて、わずかのことであっても、自分にできる限りのことをするまごころでした。

私は死を前にしたイエスが切切とした思いでそのまごころを求めているような気がします。…イエス・キリストと出会うということは、教えられたことを学ぶだけではなくて、やはりイエスの人となり、そして、その心を知ることでしょう。その心を感じることでしょう。そして、イエス・キリストとの出会いということは、もう一歩進んで、この主イエス・キリストに対して自分のまごころを注ぐことではないでしょうか」。

 ここにこの聖書の箇所に、「イエス・キリストと出会う」という主題についてどういうことなのかが語られているというのです。それを桃瀬先生は、「まごこころ」と平仮名の言葉で語られます。それがこの一人の女に見られるまごこころを持って主イエスと出会っている、そして、主はそのまごこころを求めておられる。主の心を感じ取ること、さらに、自分のまごこころを注ぐこと、それが主イエスと出会うことだと言われるのです。

 私たち人間は孤独な生き物であります。寂しいわけです。飢え乾いているのです。何に飢え渇いているのかというとそれはまごころであります。まごこころというのは、言い換えると愛であります。それがないと生きれません。誰かからプレゼントをもらったら、その物をもらったことが嬉しいのではなく、そのこころがやはり嬉しいのではないでしょうか。主イエスは尚更であります。この時の主イエスほど、寂しい思いであったときはなかったのではないでしょうか。最後の夜であります。今日の聖書の箇所には光と闇が交互に出てくると言った人がいます。主が十字架につけられる事を見つめておられた時に、三節以下には大祭司の家の話が語られています。主イエスを殺害する計画です。さらに、今日はお読みしませんでしたけれども、この箇所のすぐあとには、ユダの裏切りのことが書かれています。このように光と闇が交互に出てくる。闇がその濃さを増しているのです。主はすべてをご存知であったでしょう。

 私たちは自分の飢えや渇きには敏感です。自分の孤独には敏感であります。誰も自分のことはわかってくれないとすぐに嘆くのです。しかし、どうでしょうか。主の思いにはどうでしょうか。主が飢え渇いておられる。私たちのまごころに乾いておられるということ、私たちの神はそういう神様なんだということに思いを向けて生きているでしょうか。恥ずかしいことですが、わたしたちは、主が私たちに求めておられるのは、私たちのまごこころだという事を考えないで、教えをどれだけ学んだとか、こういう事を成し遂げたとか、こういう成果をあげれたとか、そういうことだと思っているのでやないでしょうか。しかし、今も主は、私たちの精一杯のまごこころをこそ、求めておられるのです。この世界で一番、寂しい孤独なのは主イエスなのです。

ある人は、イエス、このお方ほど、踏みつけにされて来られた方はないと言いました。私はこの言葉をよく思い出します。

 そして、この踏みつけにされてきた方が、十字架にかかって、私たちの罪のために、死んでくださったのであります。最初のところには、過越の祭りのことが語られていました。この過越の祭りでは、羊が罪の贖いのための犠牲としてささげられるのです。大祭司たちは、群衆たちを恐れて、この過越祭に主イエスを捕らえるのはよそうと思っていたのです。しかし、彼らの意に反して、主イエスは過越の祭りのときに捕らえられ、十字架にかけられることになったのです。神の御心、ご計画がそこにあったからです。主はそれをご存知で、十字架に向かわれるのです。神様も、主イエスも、まごこころを、この女のように注ぐためにそのようになさったのです。神様の方がまず、私たちに、まごこころを注がれたのです。この女はその主の御心を不思議にも映し出したのです。だから、福音が宣べ伝えられるところではこの女のしたことも記念として伝えられるのです。ここでもそうであります。