2020年04月19日「キリストの愛がある」

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聖書の言葉

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

日本聖書協会 新共同訳聖書ローマの信徒への手紙 8章31節~39節

メッセージ

加藤常昭先生が、お書きになられた「み言葉の放つ光に生かされ 一日一章」という日毎の聖書の黙想の本をお書きになっておられます。その5月7日のページにはこんな言葉が書かれております。

「仏教に写経があるように、キリスト教会にも聖書の言葉を書き写すことが神の言葉に生きるために大切なこととされてきた。第二次大戦中に洗礼を受けて信仰の戦いをしなければならなかった私が最も激しくこころを燃やしながら、キリストの愛の確かさを、自分のからだとこころに刻む思いで何度も書写したみ言葉はこれであった。聖書はそのようにひとを生かすのである」。

 悲惨な戦争中のことを思い起こしてこのように語られています。若い日にこの聖書の言葉を何度も書き写した。そして、キリストの愛の確かさを、からだとこころに、自分の存在に刻んで歩んだ。そう言われるのです。

 先日、大会から出されました文書、私たちの心の健康のために必要な七つを記した文書ですけれども、そこにも「聖書のことば」を文字に書き写すことが勧められていました。

 今、確かに私たちはこのようなことを必要としています。今日のこの御言葉はこれからの日々の中で、私たちが手帳に書き写して、持ち運びながら、繰り返し、思い起こして、心とからだに刻んでいくことができる言葉の一つであります。多くのキリスト者たちを危機の中で、支え、生かしてきた御言葉です。

 誤解を恐れずに申しますと、聖書の言葉は、私たちが生きるのに役立ちます。ちょっとだけ役立つと心のどこかで私たちは少なく見積もってしまっているところがあります。しかし、実はものすごく役立つ。聖書の言葉は私たち人間の存在の深み、植物でいうと目に見えない根の部分に働き、私たちを支え、生かします。私たちが感じている以上に役立ちます。今、私たちが生きていくために、日毎の食べ物や消毒液やマスクや、正確な情報、安全が必要です。それはそうです。しかし、聖書の言葉がなければ、私たちは生きることはできません。 主イエスは語られた御言葉を思い起こしてください。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイ四・四)。

 今、私は、礼拝堂でごく限られた人たちだけを前にして御言葉を語っています。インターネットを通して耳を傾けておられる方もあります。また録音のテープで、また説教の紙の原稿を手にして、御言葉を聞いておられる人たちもいます。面と向かって、その眼差しを見つ目ながら、語りかけることができません。

 こんなことを経験するのは全く初めてのことです。これまで私たちは当たり前のように日曜日になると教会の玄関を入って、座り慣れた長椅子に腰掛けることができました。しかし今はできません。少なからず動揺しています。不安もあれば悲しみもあるかもしれません。そんな皆さんに牧師としてできることは少ない。しかし、できること、すべきことがあることも承知しています。それは言葉を、私の言葉ではなく聖書の言葉をお伝えすることです。そして、なしうる限り、シンプルに単純素朴に語っていくことです。普段からもっとそうすべきであったかもしれないとも思います。

 そして、特に「ここ」という聖書の言葉があります。そういう御言葉から、これから日曜日ごとに聞いて参りたいと思います。今日は、その最初になります。この聖書の言葉は、実証済みの言葉です。昔から多くのキリスト者たちを支え生かしてきました。今、この時も、この聖書の言葉をからだと心に刻みながら、歩んでいる信仰者たちがきっと世界中に数多くいるに違いないと思います。私たちも同じようにしたいのです。

 与えられましたローマの信徒への手紙第8章のみ言葉は、この手紙の中で一つの大きな区切り、締め括りになるところです。この手紙の第1部がここで終わる。ここまでパウロは、主イエス・キリストの救いというものがどのようなものなのかということを心を込めて丁寧に語ってきました。それが8章で締め括られる、そういう文脈の中でこんな言葉で語り出されます。

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

 「これらのことについては」というのはパウロがここまで語ってきた、イエス・キリストの救いの話です。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」パウロがここまで語ってきたこと、それは主イエス・キリストの救いです。救いとは何か、それは、私たちは神の敵であったが、私たちの味方になってくださったということです。「もし神がわたしたちの味方であるならば」というのは、もしもそうであると仮定するならば、という意味ではありません。パウロが語っているのは、神がわたしたちの味方なのだから、誰も敵対することはできないという、確信です。神がわたしたちの味方、そうであれば、こんなに心強いことはありません。この手紙の五章では、わたしたちは神の敵であったと語られていました。神の敵であった神さまから見放され、滅ぼされて当然出会ったのです。しかし、神は敵であったわたしたちのために、敵であったわたしたちに代わって、愛する御子を惜しまずに、十字架の死に引き渡された。そのことによって、神は、わたしたちの味方になってくださった。それが聖書の語る「救い」(福音)ということです。そして、この救いは、わたしたちを根元的に救い、生かします。日毎に生きることに関わります。

 宗教改革者のカルヴァンは、この言葉について、こんなことを語っています。「この『神が味方である』ということこそ、私たちの唯一の支えである。これがなければ、どんな幸福の中にあっても私たちに確かな支えはないが、これがあれば、どんな苦しみ悲しみ逆境の中にあっても私たちは支えられる」。

 今、改めて思うのは、本当にその通りだということです。神が味方であるこのことだけ、このことこそが私たちのただ一つの支え。これがなければ、どんな幸せも確かではない。でも、これさえあれば、どんな中にあっても支えられる。神が味方であるということは、私たちの人生がいつも良いこと続きであるということではないのです。苦しみや悲しみ、逆境があるということでもあるのです。それでも神が味方である。それが私たちを支えてくれる。では、神が味方であるということを、私たちは一体、どこで知ることができるのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架です。復活です。また、このキリストが、神の右の座に座って、私たちのためにとりなしていてくださること昇天と着座です。

 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 神が私たちの味方であること、それは私たちが自分自身や自分の周りを見回していてもわかりません。信仰によって、聖霊と聖書の御言葉によって、ただキリストを、十字架と復活、神のなさった救いのみわざを信仰の目で見るところで、私たちは見出すことができます。

 ここでは私たちが訴えられることがある、また罪に定められそうになることさえあるとかも語られます。誰が訴えるのでしょうか。私たちが良い関係を築けていないあの人、この人のことではありません。何よりも、自分自身でありましょう。私たちは、自分で自分のことを、お前はだめだ、と訴えるのです。あるいは罪に定めようと、すぐにするのです。悪魔はそうやって、私たちに働きかけます。しかし、そんな私たちに今日の御言葉は、自分自身の心の声にではなく、自分自身を自分で見るのでもなく、キリストを見るようにと語りかけるのです。「だれも、あなた自身も、もはや罪ありとはされない、義とされる。あなたは救われている。」そう語られます。

 そして、ここでパウロがいちばん、多くの言葉を連ねて、特に強調して語りかけているのが、三五節以下の御言葉です。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。

 「キリストの愛」とあります。この言葉ほど大切な言葉はありません。

 この言葉は、最後にももう一度、語られています。

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 「主イエス・キリストにおいて示された神の愛」

 牧師になって、願ってきたこと、願うようになってきた事があります。それはなんとかして、キリストの愛を語りたいということです。優等生ではありませんでした。神学校も一度、途中でやめてしまいました。失敗だらけでした。でもこんな私に出会いがありました。今でも覚えていることがあります。ある日、チャペルで当時の牧田校長が、校長に就任されたばかりの時、説教を語られました。第二コリントの五章 一一節以下の御言葉でした。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」、以前の翻訳では「キリストの愛、われらをはさめり」とも訳すことのできる言葉です。この説教で先生はご自分のここまでの歩みを語られました。教会を離れていた時のことです。気づくと、先生が途中で泣きはじめられました。涙が溢れてきて、「ぼくはだめなんだ。この御言葉を語るどうにもならない」、そんなことを言われました。心が震えました。忘れることのできない、御言葉に聞く経験でした。ああ、キリストの愛というのはこうやって、人を生かすのだということを知らされました。あの日のことを私は忘れられません。こんな自分でも、キリストの愛を語る説教者とすて生きたい、ここに生きよう、そう思ったのです。それでここまで何とかやってきました。

 今日の御言葉は、パウロの人生の経験が背後にあると言われます。パウロ自身が経験させられてきました。このキリストの愛から引き離すような様々な出来事を。

 艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

 死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力 あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造 物も、

 この手紙の宛先のローマの教会の人たちもそうだったでしょう。辛く厳しい経験を繰り返し与えられた。でもキリストの愛から引き離されなかった。

 わたしたちをキリストの愛から引き離そうとする力は、今も確かに働いています。今、わたしたちはそのことを経験させられています。しかし、キリストの愛は、強い。神は強い。わたしたちは弱いです。でもキリストの愛は強い。ものすごく強い。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。

 「輝かしい勝利を収めています」ということばは以前の口語訳では、「勝ち得て余りある」と訳されていました。

 なんとかギリギリ勝つというのでではありません。圧倒的な勝利、勝って余りがある、おつりが来るような勝利が与えられるというのです。

 どうか、この御言葉を体と心とに刻んで、共に歩もうではありませんか。

共に集まることができない日々がここからしばらく始まるでしょう。しかし、キリストの愛から、わたしたちを引き離すものは何もありません。

お祈りします。

 キリスト・イエスによって勝ち得てあまりある勝利を与えてくださる神。

 代々の聖徒たちを支え、生かしてきた御言葉をわたしたちに今日、お与えくださったことを感謝します。どうか、この御言葉に支えられて、生きることができますように。苦難の日々が続く中で、あなたが味方であること、キリストの愛を思い起こし、それによって支えられますように。キリストの愛からわたしたちを引き離すものはありません。感謝し、キリストの愛を讃えながら今こそ歩ませてください。

 主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。