2020年12月20日「主イエスと出会うクリスマス」

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主イエスと出会うクリスマス

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 25章31節~46節

音声ファイル

聖書の言葉

「主イエス・キリストよ。あなたは貧しくあられました。そして私と同じようにみじめであり、囚えられ、見捨てられました。あなたは人間の困窮を、知っておられます。あなたは、私のそばにいて下さいます。たとえ誰一人、私のそばにいてくれなくても。あなたは私をお忘れにならず、私を探して下さいます。」

ボンヘッファーは、獄中にあっても、貧しくなられた主イエスが、共にいてくださることを知っていました。そのことに、光を見ていました。

ですから、獄中にいる人たちを、励ますことができたのです。

まことの豊かさとは、このようなことを、言うのではないでしょうか。マタイによる福音書 25章31節~46節

メッセージ

トルストイという作家の書いた「靴屋のマルチン」という物語があります。簡単にストーリーを紹介します。

 靴屋のマルチンは、腕の良い靴職人でありました。しかし彼は病気で妻を亡くし、子供も亡くしてしまいます。そんなある日、マルチンのところにひとりの老人がやってきます。マルチンは、老人に自分の不幸を嘆きます。もうこれから先、自分は生きる気力がない、もう早く死にたい、何の望みもないのだから」と言います。老人はマルチンの話に耳を傾け、神のために生きるようにと語り、そのために聖書を読むようにと言います。不思議とマルチンはその日から少しずつ聖書を読み始めます。そんなある日のこと、「マルチン、マルチン」と声が聞こえます。「明日、あなたのところに行くから通りを見ているように」。神の声でした。マルチンは、神様を迎える準備をして待ちます。でも神様はなかなかマルチンの家にやって来られない。結局、マルチンはその日、マルチンは通りで雪かきをしているおじいさんにお茶を飲ませたり、赤ちゃんを抱いて寒そうにしていた婦人に食事を与えたり、お腹が空いて万引きをした少年を諭してリンゴの代金を支払ったり。そういうことしか起こらなかった。マルチンは今日はとうとう神様は来てくださらなかったと思った。ところがその夜、「マルチン、マルチン」と呼ぶ声がします。神の声です。神は言われます。「今日はわたしをもてなしてくれてありがとう」と言われます。マルチンがもてなしをした雪かきの老人、赤ちゃんを抱いた婦人、万引きをした少年、そこに神がおられたというお話しです。原作では最後にマルチンはマタイによる福音書二五章四〇節の聖書の言葉を読む場面で閉じられます。「汝ら、わが兄弟なるこれらのいと小さき者の一人にしたのは、われになしたるなり」。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。

 今日のこの礼拝は、主イエス・キリストのご降誕を喜び祝うクリスマスの礼拝であります。この朝、お読みしまししたのはマタイによる福音書二五章三五節以下の御言葉です。クリスマスとは何の関わりもない箇所だなあと思われている方もおありになるかもしれません。しかし、実はそうではないようです。靴屋のマルチンの話は明らかに今日お読みしました聖書の箇所と深く関わっていますが、クリスマスの物語の一つとされてきました。まだ幼い頃、教会も聖書も全く知らなかったのですが、このマルチンの話をクリスマスに聞いたことを今でも記憶しています。

 今日の箇所がクリスマスと深い関わりにあるのは、靴屋のマルチンのことだけではありません。クリスマスとは、神がこの地上に人となって来てくださった日であります。御子はクリスマスにベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中にお生まれになった。ルカによる福音書には、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(二・七)とあります。「泊まる場所がなかった」とは「居場所がなかった」とも訳されます。今日の箇所の三五節には、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し」とあります。「旅をしている時に宿を貸し」この言葉は、よそ者出会った時に受け入れとも訳すことができますが、これはクリスマスのことを連想させます。主イエスは四〇節で「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われています。クリスマスに、何が起こったのか、それは神さまが御子において、飢え、渇き、宿なしに、裸に、病む人に、囚われ人になられた、そういう人間の兄弟に、最も小さい者のひとりになられたということです。

 ところで、今日の聖書の箇所は、主イエスが終わりの日の審きの日について語られた御言葉です。主イエスが十字架にかかられて死なれた数日前に語られた説教の言葉の一部です。主イエスの地上の御生涯の最後の説教の言葉です。マタイによる福音書は、二四章から、この主イエスの説教は記されていまして、今日の箇所は最後の言葉になります。つまり、主イエスが最後の最後に語られたのがこの言葉ということになります。主イエスは、この言葉を語りおえられるて十字架に向かって進んで行かれるのです。最後の最後に語られていることというのはそれだけ大事な言葉に違いありません。主イエスは私たちに何を語られているのでしょうか。

 主イエスは十字架に書かられる前に、ここまで「わたしは再び帰ってくる。その日、その時まで、目を覚して待っているように」と繰り返して語られました。そして、今日の箇所では、その再臨の時、終わりの日に何が起こるのかということが語られるのです。その日、人の子は栄光の座に着く。そして、すべての人が王である方によって裁かれる。その時、羊飼いが羊飼いが一日の終わりに放牧を終えた時、羊と山羊を分けるように、人々を分ける。羊を右に、山羊を左に置く。そして、羊は永遠の神の国、永遠の命を受け継ぐように歓迎され、山羊の方は永遠の罰を受けることになると言われます。そして、まず三四節から四〇節までの右側への羊へのなさり方が語られ、四一節からは左側の山羊に対するなさりかたが語られています。

 ここで審きがなされる、この審きは私たちにとって恐ろしく感じられます。ここでの終わりの日の審き、そこで問われるのは明らかに私たちの業、生きている間にしてきたことです。ではその業とは何か。ここでは驚くべきことに、私たちが行って来た悪いことが問われるというのではありません。お前は、こういう悪いことを行って来た、罪を犯した、だから地獄行きだというのなら、わかりやすい。どういう宗教にもそういう教えはある。だから生きている間に善を行いなさい、そう教えられるわけです。しかし、ここではそうではありません。飢え渇いている人、貧しい人、小さき者にどう接して来たかが問われる。良いこと、立派なこと、正しい事をして来たかどうかということが問われているのでもない。小さき者にどう接したのか、その一点だけが問われるわけです。これはある意味でとても恐ろしいことです。自分はどうかという事を考えずにはおれません。

 この箇所を読みましてとても気になったことがあります。それは、ここで、この右側、羊の側ですが、そこに分けられた人は、主なる神さまから、「お前たちはわたしによくしてくれた」と言われた時にですね、少しも気がついていないわけです。「主よ、いつそんな事をわたしはしましたか」というのですね。自分がしたことに少しも気がついていないのですね。できないなあと思うのです。自分が何か少しでもいい事をしたら、周りの人に知って欲しいと思うし、いい事をした自分を自分で褒めて、よくやったとか思ってしまうのです。今日のような聖書の箇所を読んで、やっぱり、小さい者への愛の業は大事なんだ、終わりの日の審きの日に、このこと神様から問われる、そう思ったとします。そこで親切にする。でもそこで私たちは、天国でご褒美がもらえるなんてどこかで思ったりしてしまう。無理だなあ、どうしようもないと思うのです。結局、それは違うわけです。それは自分のためにしているだけで愛ではないのです。自分の事を考えると、自分は、左側の人だと思うのです。私たちの中で誰ひとり、自分は、山羊ではない、この左側の人ではないと言い切れる人はいないと思います。私たちはみんな罪人なのです。私たちは神様の前における罪をどのように考えるでしょうか。確かに盗み、姦淫、悪口などは罪であります。罪とはそれだけのことではありません。すべき事をしない事、なずべき善を知りながらそれを行わない事は罪であります。愛のないことがもう罪なのです。そのようにして愛がないのは神さまから離れているからです。それならば今日の聖書ではもうあなたたちは滅びるしかないのだと言われているのでしょうか。そうではありません。

 このような私たちの罪のために、主イエス・キリストは、人となってこの地上に来てくださった。この私たちのために小さな者のひとりになってくださった。そして、十字架にかかって死んでくださった。私たちのどうすることもできない罪を背負ってくださった。今日のような箇所を読むと私たちは、自分は右側なのか左側なのか、羊なのか山羊なのか、そう言うことばかり考えてしまうかもしれません。それは意味のあることですけれども、それだけではなく、今日の御言葉は、私たちは飢え渇いている者であり、旅人であり、裸であり、病んでいる者であり、囚われている者であると言う事を、この最も小さい者のひとりだと言う事を語っています。神様のみ前に、霊的にです。ヨハネ黙示録三章一七節には、「あなたは『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることがわかっていない」とあります。黙示録は、私たちが罪びとであると言う事を知るようにと語っています。そして、その罪びとの姿が、こういう姿であると語っています。そして、その後、ここから悔い改めるようにと語ります。そして、「わたしは、戸をたたいている」と言うキリストの言葉を伝えています。つまりキリストを閉め出して生きているのです。こんな私たちのためにみ子は、クリスマスに来てくださり、十字架にかかって死んでくださったのです。

 私たちは生まれながらにしてこの左側の者、山羊であります。永遠の火に焼きつくされるべき者です。でもこんな私たちのために、み子は来てくださり、救いを与えてくださったのです。

 そして、今日の箇所が語っていることはそれだけのことではありません。 御子は、十字架にかかって死んでくださり、復活してくださり、天に昇られた。このキリストは再びおいでになる。しかし、その時まで、キリストは、おいでにならないと言うわけではないのです。マタイによる福音書は、インマヌエル、神は私たちと共におられると言う事を語っています。最初の一章二七節と、最後の二八章二〇節には「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」と語られています。私たちは、イエス・キリストの姿は今目に見えません。けれども

キリストは共におられる。それは、どう言う事なのか、それがここでかたえられるのです。靴屋のマルチンの話でも伝えられていますように、キリストは、何でもない、特別ではない、私たちの日常、普段の生活の中におられると言う事であります。私たちが日々、出会う人の中に一緒にいてくださる。

 それは信者だけと言うわけではないのです。信者ではない人たちとも一緒におられる。私たちが生きるこの世、日常には、悲しみがあり苦しみがあります。病があり、死があります。もう生きる意味などない、もう死ぬ他ない、神はどこにおられるのか、靴屋のマルチンがそうであったように、私たちもうめき苦しみながら生きています。しかし、ここで主イエスは、一緒にいる。あなたたちと私は今までも出会って来たし、これかも日毎に出会う。私たちは、私の兄弟であるこの最も小さな者のひとりとしてあなたと出会うと言うのです。

 私たちは神をキリストとどこで出会うと思いますか。それは飼い葉桶であり十字架であります。飢え渇きであり、病であります。神は小さき者の中に今もおられます。その事は私たちにとって、本当に慰めであります。