2020年12月13日「神の愛に信頼して」

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聖書の言葉

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」マタイによる福音書 25章14節~30節

メッセージ

今日の聖書の箇所は、主イエスがお語りになられましたタラントンのたとえと呼ばれるたとえ話です。このたとえ話は、主イエスが、十字架にかかられる数日前に語られました。タラントンというのは当時の通貨、お金の単位です。ある家の主人が旅に出るにあたり、僕たちにお金を預けました。ある人には五タラントン、ある人には二タラントン、そしてもう一人には一タラントン、預けて主人は旅にでました。主人が帰って来るまでの間に、それぞれの僕がどのようにそのお金を用いたのかということが、このお話のポイントです。

 このたとえ話は、私たちの話です。ここに出てくる僕たちと私たちは重なります。私たちはみんな主人である神様から、それぞれタラントンを預けられて、この人生を生きている。

 ここで私たちに与えられたタラントンとは何かということになります。皆さんは、タレントという言葉をご存知でしょう。タレントは、「テレビやラジオに出演し、収入を得ている人」、「能力や才能」という意味を持つ言葉です。その元になったのが「タラントン」です。

 ここで主人は、「それぞれの力に応じて、タラントンを預けて旅にでた」とあります。このタラントンも、能力や才能だと考える人が多いのです。しかし、わたしはどうもこの読み方に疑問があります。人それぞれ能力や才能がある。それは自分のものではなく、神さまから与えられているものである。でもそこには違いがある。しかし、それは神様がそれぞれに与えられたもの。違いがあっても、それぞれがひがんだり、妬んだりしないで、与えられたところに応じて生きよう。

与えられたものは多い。だから神に感謝し、神の栄光のために、各自に与えられた才能や能力を用いて生きいこう。神のために働いていこう。そういう話になるわけです。こういうことは、私たちが普段悩んでいることでなんだかとても身につまされ、ある意味わかりやすい。けれども、どうなんだろうと思えてきます。どうしてそう思うのかというと、聖書には私たちの能力や才能なんて話はほとんどない。聖書は、私たち人間の能力や才能というようなものにはあまり興味を持っていないように思うからです。もう一つは能力や才能ということに引きずられてしまうとせっかくのメッセージが聞こえなくなる、薄れてしまうように思うからです。タラントンとは才能や能力に限定しないで、主人である神様が私たちがくださった様々なもの、私たちの存在、体や魂のすべて、人生そのものと考えてくださるのが良いように思います。

 たとえ話の筋は、はっきりしています。

 主人は、それぞれに応じたタラントンを三人の僕に分け与えて旅にでます。

 五タラントン与えられた僕は、それで早速、それを元手にして商売をして倍にしました。同じようにして二タラントン与えられた僕も、二タラントン儲けました。しかし、一タラントン預かった僕はどうしたでしょうか。一八節には、「出て行って、穴を堀、主人の金を隠しておいた」とあります。

 そして、やがて長い期間を経て、主人が帰ってきて、精算を始めたというのです。すると、三人の僕たちは、それぞれに報告をします。

 まず五タラントン預かった僕は、主人に五タラントンを差し出して、「これこれで五タラントン儲けさせていただきました」と言います。すると主人は言います。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。二タラントン預かったものも同じように「かくかくしかじかで二タラントン儲けました」と報告します。すると主人は、全く同じ言葉で褒め、労って、「主人と一緒に喜んでくれ」と言います。そして三人目の土の中に一タラントンを埋めていた僕が精算をする番になって、この僕が進み出て語ります。二五節です。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」それを聞くと主人は、言います。「怠け者の悪い僕だ」と。そして、この僕に預けた一タラントンを取り上げて、一〇タラントンを持っているものに与えるように命じ、最後には、「外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と言われます。

 これがこのたとえ話です。筋は単純なとてもわかりやすいお話です。けれども、どうでしょうか。疑問も湧いてきます。自分のことで考えれるならば、ものすごく恐ろしいお話ではないでしょうか。

 このたとえ話は、ずっと続いてきました主イエスが十字架にかかられる前になさった長い説教の一部です。二四章からここまでずっと主イエスは終わりの日、再臨の日について語って来られました。主イエスはここまで再臨の日、終わりの日にわたしは再び来る、戻ってくる、

その時まで「待っていなさい」、「目を覚していなさい」と語ってこられました。ですから今日の聖書の箇所もその日までに私たちがどう生きたらいいのかを語られているのです。今日の聖書の箇所の前には一〇人のおとめのたとえを語られて、目を覚して待っているようにと語られていました。そして今日の箇所なのです。「目を覚まして待っている」と言うことがどういうことなのかがより具体的に生活の中で語られていると言えましょう。何よりもはっきりしているのは、終わりの日は精算の時なのだと言うことです。どう生きたかが問われるのです。

終わりの日は審きの時、審判の時です。そこで主人である神さまの前に立たされて、私たちは精算しないといけなくなる。「あなたは、どう生きたか」を報告させられる、そういうことですね。主イエスはその日、その時のことを見据えながら、ここで言葉を語っておられる。あなたがたは間違わないように、こんなことにならないように。もっと言うならば、与えられた人生を無駄にするなと言われるのです。

 どうでしょうか。わたしたちがこの人生を生きて、この一タラントの僕のようにならない保証はない。いや、ああ、このわたしはこの一タラントンの僕ではないかと身につまされる、それどころではない、恐ろしい思いを持つのではないでしょうか。

 ところで、この一タラントンの僕は悪いことをしたのでしょうか。悪を行ったのか?彼は損失を出したわけではないのです。一タラントンという額は、今日のおかねに直すのは難しいようですが大体労働者の6千日分の給料くらいだと言われます。六千万円から1億くらいの大変なお金なのです。好きなものを買ったり、遊びまくったわけではない。ただ土の中に埋めていた。この箇所に調べてみるとユダヤ教ではお金を土の中に埋めるのは良い、でも紙に包んで家の中に置いておくのはだめだと教えられていたようです。でも主イエスはそれも良くないとされた。どうしてですか。損失を出さなかったのだからそれでいいじゃないかと言いたくなるのです。でもそうじゃないと言われる。問題はお金の損得ではないのです。

 中心的な問題は他にある。それは、この僕自身が語っている言葉からわかります。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり」といっています。わかりますか。ここです。問題は、「恐れ」です。この僕は、主人が恐ろしい。二六節の「怠け者の悪い僕だ」という主人の言葉がありますが、この怠けものという言葉の元々の意味は、「躊躇する、不安がる」という言葉です。ここなんです。一番の問題は…。この僕が一タラントンしかもらえなくて僻んだ、妬んだとはどこにも書かれていません。むしろ、この僕は、1タラントンでも恐ろしくなったのです。多すぎたと言えるかもしれません。損したらどうしよう失敗したらどうしようそういうことになってしまったわけです。問題は、そこなのです。

 私たちの人生で、考えてみると、こういうことです。神様を信じます。でも神様は恐ろしい方だ、だからできるだけ罪を犯さないようにして生きる。正しく生きる。そういう生き方がございます。例えば、聖書にはファリサイ派や律法学者の人たちが登場します。彼らはまさに正しい人として生きようとしたわけです。罪を犯さないように立派に生きようとしたのです。でも主イエスはそれを良しとされなかったです。それです。教会に集う私たちもそういう生き方と無関係ではないのですね。「罪を犯さないように正しく生かしてください」、牧師をしていて、こういうお祈りを何度も聞いてきましたし、そして、自分でもいつの間にか捧げながら生きていました。でも、どうも違うのですね。それはキリスト教的生き方とは違うのですね。この世の宗教というのは、神の怒りをなだめる、神は怖いながら、この神を怒らせないように、人間は生きなければならないという考えがあります。でもキリスト教はそうではありません。エフェソの信徒への手紙五章二八節にはこんな言葉があります。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して働いて自分の手で正当な収入を得、困っている人に分け与えるようにしなさい」。すごい言葉だと思うのです。盗んではいけないを飛び越えていく。与えて生きよと言われるのです。この一タラントの僕の最大の問題は、リスクを負わないということです。人生を賭けない。自分の安全を自分で確保し、自己責任で生きて、退屈極まりない生き方をしているということです。大胆さがないのです。つまり生き生きていないのです。そしてこのような生き方が神さまは恐ろしい方だということから来ているということです。

 ルドルフ・ボーレンという神学者がこんなことをお語りになりました。教会はうっかりすると退屈な人を作ってしまうところがあるというのです。牧師こそ要注意だと言いました。正しい、立派、でも退屈。牧師だけではない、ひとりひとりの信仰者もそういうことになりやすい。罪を犯さないように、罪を犯さないように正しく生きる。それ余るで一タラントを土の中に埋めたままで用いないのと似ている。それでは人生、あまりにももったいないのです。

 神様は私たちが、そんな生き方をしないで済むようにイエス・キリストをお与えになったのです。このイエス・キリストこそ、この一タラントンなのかもしれません。ひとり子イエス・キリストは、クリスマスに飼い葉桶にお生まれになられました。人となってきてくださいました。そして私たち罪人のために十字架にかかって死んでくださったのです。そして復活してくださいました。神様はリスクを追われた。危険を犯されたのです。それは私たちへの愛を明らかにされるためでした。神は愛です。神はそのことをお伝えになるために、御子をお送りになられたのです。ですから、クリスマスの夜、羊飼にこうお告げになられました。「恐るな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救いぬしがお生まれになった」(ルカ二章一〇節)。

 このイエス・キリストによって、私たちは恐れから解放されます。恐れながから、怖がりながら人生を歩まなくても良くなったのです。そこで神の愛に信頼して、大胆に生きることができます。リスクを負って冒険的に生きることもできます。失敗したらどうしようなんて恐々生きる必要はもうなくなったのです。喜びを持って大胆に生きる、それがあなたがたにわたしが与えた生き方ではないか。わたしが来るまで神の愛に信頼して大胆に生きればいい、主イエスはここでそのように語られるのです。