2020年10月25日「祈らずにはおられない」

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祈らずにはおられない

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章1節~12節

音声ファイル

聖書の言葉

それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。マタイによる福音書 12章1節~12節

メッセージ

日曜日ごとにマタイによる福音書を読み続けて、二三章に入りました。この二三章から二五章まで、とても長い、一つのまとまりのある主イエスの言葉、主イエスのお語りになった説教の言葉が語られております。主イエスが群衆と弟子たちに向かって語られた言葉です。マタイ福音書は、主イエスの教えとそのなさったことが繰り返し交互に記されることによってできています。この福音書のはじめの方の五章から七章にはやはり長い主イエスのお言葉がありました。山上の説教です。そして、この福音書の最後にもまた再び、主イエスのまとまった説教の言葉が語られます。山上の説教と、この二三章から二五章までの主イエスの説教は対になっているようです。この二つの大きな説教は、ダブル○○バーガーの具のようになってできているのです。

 ここから始まる説教が終わりまして、二六章から二七章までには、主イエスの十字架と復活の出来事が語られていきます。その意味でも今日の箇所から始まります主イエスの言葉は特別な意味を持ちます。主イエスのその十字架の死の数日前に最後に語られたものです。主イエスの最後の言葉、遺言、決別の説教ともいうべきものであります。この弟子たち、群衆たちがのちにできる教会に生きるようになる、その時にこのことがどうしてもよくわきまえている必要がある、そう思われて、こころを込めて言葉を語られている。その言葉が今朝、教会に生きる私たちにも与えられているのです。

 今日の箇所、またこの二三章には、非常に厳しい批判の言葉が重ねて語られています。ファリサイ派の人たち、律法学者たちに対しての批判です。今日はお読みしませんでしたけれども、一三節には、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸である」と語られています。主イエスは、ここで「偽善」に対して警告をなさっています。今日の箇所には、偽善、偽善者という言葉は一度も出てきませんけれども、内容としては、やはり偽善のことが語られています。たとえば、五節には「そのすることはすべて人に見せるためである」とあります。この言葉は、偽善とは何かを見事に言い表したものです。 偽善、あるいは偽善者という言葉は、大変、きつい言葉、嫌な言葉です。聞きたくありません。人から言われたくない言葉です。しかし、また同時に、この偽善は私たち自身にとても身近な、最も、私たちが陥りやすい罪の姿であることも知っているのではないでしょか。

 小学生の頃からの友人がおります。信者ではありません。何年かおきに会います。会う度に言います。「お前は偽善者だ!」と。笑いながらですが…。いつも決まって「そうやな」と答えます。そう言いながら辛いことがあると、ちゃんとこういうことがあったと報告してくれる。彼が言いたいことは実はわかるのです。偽善者にはなるなと多分、言いたいのです。

 渡辺善太という大変、優れた伝道者がおられました。東京の銀座教会で伝道されました。この渡辺先生がなさった有名な説教に「偽善者を出す処」という題の説教があります。渡辺先生が言われる、この偽善者を出す処というのは教会のことです。教会は何をしているのかというと偽善者をたくさん作り出している。でもその自らの偽善ということを見つめることによって、教会の人々は、罪を知ってキリストによる罪の赦しに預かる、と言いました。ああ、そうかその通りだと、思います。ここで自分がどれほどに罪深い者かが、どうしようもないものなのかわかる、そして、ここで赦していただかかなければ救っていただかなければどうにもならないことがここでわかる。では、どうしたら、この私たちを主イエスはどうやって救おうとなさっているのか、そのことに心向けながら、今日の聖書の箇所の言葉を読みたいと思います。

 二節から主イエスはこう語り出されます。ここに大変、不思議なことばが語られております。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことはすべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである」。これはとても不思議な言葉、驚くべきことばです。主イエスは、ここで明らかに、律法学者たちを批判されています。しかし、彼らの言うことには聞きなさいと言われます。どう言うことでしょうか。彼らは、モーセの座に着いているとあるように、旧約聖書の律法、神様の言葉を語ったのです。主イエスは、彼らが正しいことを言っていると言われたのではないのです。彼らが語ったのは聖書の言葉、その聖書の言葉の権威、その正しさを見つめて、彼らの言葉には聞き従うようにと言われたのです。

 それにしても不思議なのは、では彼らは口先だけで、その行いは全然なっていなかったのか、よい行いはしなかったのでしょうか。私たちはよく知っています。律法学者やファリサイ派の人たちは、立派な生活を形作っていたのです。聖書を読むことを大変、重じました。モーセ五書なんか暗唱していました。そして、また聖書の語る教えにできる限り忠実にそれに従って、実践しようとして生きました。貧しい人たちへの施しにも熱心だったそうです。人々からも立派な人たちだと尊敬されるように生きていたのですね。

 そこである人たちは、このマタイによる福音書のこの箇所の主イエスの批判に抗議をしています。律法学者やファリサイ派の人たちが、口先だけで行いが伴わなかったなんて、そんなことはない、事実じゃない。これは誹謗中傷、不当な批判だと言うのですね。そのためでしょう、この二三章は聖書の中で「もっとも美しくない章」と呼ぶ人たちまでおります。

 しかし、ある人がこんなことを言っています。「ファリサイ派の人たちは、確かに誰よりも、たくさんのことを熱心に実行していた。しかし、神の御前では何にもしなかった」。

 主イエスがここでお語りになっておられることは、こういうことだと見事に、簡潔に言いあわしてくれているように思います。「ファリサイ派の人たちは、確かに誰よりも、たくさんのことを熱心に実践していた。しかし、神の御前では何にもしなかった」。確かにここで、彼らは、教えを語ったり、聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたり、宴会の席に座ったり、広場に行ったりして人びとと接したり、いろんなことをしているのです。しかし「そのすることは、すべて人に見せるためである」と言われているのです。「ファリサイ派の人たちは、確かに誰よりも、たくさんのことを熱心に実践していた。しかし、神の御前では何にもしなかった」。彼らも最初は、そうではなかったでしょう。神のことばを信じ、それを真実に守り行って生きようとして生きたに違いない。しかし、そのように歩んでいるうちに、

立派ですね、すごいですねと言われて、周りの人たちから褒められるようになる。「先生」とか、「父よ」とか、「教師」とか、尊敬を込めて呼びかけられた。人から認められる、褒められるとすごく嬉しい、気持ちいい。けれども、その快感に酔いしれていく、それが悲しいかな、人間です。そして、そのするところはすべて、いつの間にか、ただ人間に見せるためのものになってしまった。信仰の世界、宗教の世界には、こういうことがいつも付き纏っています。これは他人事ではないと言うことに教会に生きる私たちは気づいていなければならないのです。主イエスもそのことをよくご存じなのですね。だから「弟子たちと群衆に」教会に生きる人々にこのことを語られたのです。

 この主イエスの言葉は、ユダヤ教、ユダヤ人への痛烈な批判であって、このマタイによる福音書のこの二三章の言葉から、ユダヤ人へのホロコーストが起こったと言われます。しかし、違うんです。教会はむしろ全く聞き間違えてしまったのです。

 関根正雄という人がこのマタイによる福音書の注解を書いています。説教の準備には必ず、この関根先生の注解書は読むようにしていますが今日の聖書の箇所の注解では、関根先生は「アンフェヒティン」ということについて語られています。ファリサイ派や律法学者たちにはアンフェヒティンがなかったと言われる。

 アンフェヒティンというのはドイツ語です。この言葉には思い出があります。神学生の時にルターについて書かれていた書物を読みました。その時にこの言葉が出てきた。これが信仰者にとって本当に大事なことだと、書かれていた。意味がわからなかった。試練とか震われるという言葉なのですが…。わからないので、当時の牧田校長に尋ねました。どういうことですか?「とても良い質問だ。でもこれからこのことを考えていけ」というように突き放されました。ただ教えてくださったのが、これはフェンシングと元々は、同じ語源だ。「ぐさっとやられることだ」と教わりました。こうやって教わることを通して、このことが記憶の中に残るものになりました。

 関根先生は、ファリサイ派の人たちには、このアンフェヒティンがなかった。御言葉によって試練に遭う。神様の御前に立たされる。その時、突き刺されることです。そうすると苦しい、辛い。極端なことを言うと自分が死んでしまう。彼らにはそれがなかった。ここで、四節に語られているように、自分たちのところに来る人たちには、神の言葉を語り、重荷を負わせた。しかし指一本、その重荷を軽くすることがなかった。そのようにして、律法を、神の言葉を、外側には向けても、自分に向けることをしなかった。アンフェヒティンされなかった。今週の三一日は、宗教改革記念日ですが、マルチン・ルターは、神の言葉によってアンフェヒティンをされた人なのですね。

聖書を読んで、神の前に立たされて、ああ、もう自分はダメだ、そう思ったわけです。けれども、そこで聖書によって神と出会った。キリストと出会ったわけです。そのキリストは十字架にかかって、私たちの身代わりに、罪のために死んで、復活してくださった、そのことをそこで知らされたわけです。 アンフェヒティンは、試練を受けることであり、信仰が揺さぶられる、霊感されることです。

 主イエスはここで何をなさっているのかと言いますと、ここで私たちに、このアンフェヒティンを与えようとされている、私はそう思います。神の御前に立たせ、フェンシング、剣を差し込んで来られる。神の前に立たせ、そして同時に神による赦し、十字架による救いに導こうとされているのです。私たちは、みんな偽善者なのですね。神様から離れている。神の前に立つことを避け、人間から認められることや褒められること人から評価されたとか、されないとか言って、喜んだり悲しんだり、それくらい神様を喪失して生きている。しかし、主イエスはそんな私たちを生ける神のみ前に立たせてくださいます。失われた神様との関係を回復してくださる。

 今日の箇所で主イエスは最後に、こう言われます。

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

 この主イエスの言葉を聞く時、もう祈るしかありません。「主よ、罪人の私をお赦しください」と。その私たちに主は、「あなたの罪を私は赦した」と言ってくださる。絶えずアンフェヒティンされ(試練を受け、揺さぶられ、霊感されて)、この十字架のキリストのもとに生きることに私たちは招かれています。お祈りいたします。