2020年10月04日「神の力、知ってますか?」

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神の力、知ってますか?

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 22章23節~33節

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聖書の言葉

その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。マタイによる福音書 22章23節~33節

メッセージ

主イエスが十字架にかかって死なれる三日前のことが語られています。「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた」とはじめにあります。ここは「復活はないと主張しつつ、イエスに近寄って来て」とも訳すことができる言葉です。このように訳しますと少し意味が変わって来ます。 

 サドカイ派の人たちは、イスラエルでは、祭司に属する人たちで、この世の地位にも比較的、恵まれていた人たちでした。彼らは終わりの日の復活ということを否定していました。その人たちが、この時、主イエスのところにやって来ましてまさにここで復活の信仰を否定する主張をしたわけです。

 主イエスをなんとかしてやっつけようと思ったのでしょうか。 それとも主イエスが、常日頃、自分たちと敵対関係にあったファリサイ派の人たちと論争しておられたので、もしかしたら自分たちの主張を理解して味方になってくれると思ったのではないでしょうか。それはわかりませんが、いずれにせよ、彼らはここで復活の信仰についての自分たちの主張を披歴しまして、主イエスの意見を求めました。

 彼らは、まず旧約聖書の律法の結婚の規定について語ります。「ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継をもうけなければならない」というものです。こういう掟、律法がありますね、と言います。そして、「私たちのところに七人の兄弟がいた」と言います。その七人兄弟の長男が妻を迎えた。けれども、その長男が死んでしまった。そこで妻は次男と律法に従って結婚した。そしてまた今度はその次男も死んでしまった。今度は三男と結婚し、また死に、結局、七人の兄弟みんな死んで最後に妻が残って、妻も死んだ。そして、終わりの日の復活の時、一体、この女はだれの妻になるのか。

 こういう話です。彼らはだから「復活などない」とここで言っているわけです。「おかしいでしょう。だから復活などないのですよ。あなたはどう思われますか」と主イエスに言っているわけです。

 二九節以下には、これに対しての主イエスの言葉が語られております。

 主イエスはまず、二九節でこうお語りになっておられます。

「あなたたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」。

もちろん、主イエスは、復活を否定されたりはなさいません。しかし、

ここで大切なのは、主イエスが彼らと同じ土俵には上がって相撲を取っておられないことに気づくことです。サドカイ派の人たちは、こういう議論をファリサイ派の人たちと常日頃から行っていたようです。ファリサイ派の人たちは、復活はあると言っていました。このようなサドカイ派の人たちの議論に対しては、いろんなケースを想定しまして、最初の夫の妻になるとか、子供がいる場合は、最初に子供が生まれた夫の妻になると言い返していたようです。つまり、ファリサイ派の人たちは、サドカイ派の人たちと同じ土俵に上がって相撲をとったわけです。しかし、主イエスは、違います。同じ土俵に上がられません。サドカイ派の人たちとファリサイ派の人たちの復活に対する意見は全く異なっていました。一方は復活はあると主張し、一方はないと主張する。全く異なっていたわけです。しかし、サドカイ派もファリサイ派も、どちらも、この世の延長線上で復活のことを考えたことにおいては同じです。この世で結婚生活があった、そのこの世での結婚生活は、復活の後には、どうなるのか。

 主イエスは、そういう議論に乗ることそのものを拒否なさったのです。お望みにならなかった、喜ばれなかった、いやそれどこか深い悲しみを抱かれているように思います。「あなたたちは「聖書も、神の力も知らないから思い違いをしている」。サドカイ派の人たちもファリサイ派の人たちも、聖書をものすごく、よく学んでいた人たちです。彼らは毎日、聖書を読み、聖書の研究をし論じ合って生きていたのです。それは今の私たちの想像以上です。でも彼らは主イエスから「あなたたちは聖書を知らない、神の力も知らない」。そう言われているのです。この事実はとても重いです。信仰の世界にはこういうことがあることを私たちは、よく覚えておかねばなりません。今、私たちもこうして聖書を手にしています。私も、今、聖書を手にしつつ、聖書について語っているわけです。そこで主イエスから、問われているのです。「あなたたちは、聖書を知ってますか、神の力、知っていますか」と。

 「神学論争」という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。「神学論争」という言葉は、「結論の出ようのない無意味な抽象的な議論」という意味で使われます。例えば「話し合いが神学論争になって少しも前に進まなかった」とか、「神学論争はもうやめましょう。もっと建設的な話をしましょう」というように言われます。無意味で不毛な議論のことです。神学というのはそういうものだと一般の人たちから思われてしまっているのです。これは私たち教会に大きな責任があります。しかし、神学というのは、本来そういうものではありません。

 先週、神学校にまいりまして講義をしました。しばらくおやすみをしていまして2年ぶりでした。ブランクが空いたためでしょうか。実は思うように学生たちに講義をすることができずに「ああダメだったなあ」と反省しながら、落ち込みながら、戻って来ました。

 私自身、牧師になる前にこの学校で学びました。母校です。私の人生は、この神学校で学んだことで大きな影響を受けました。初めて学ぶということがどれほど大切なことなのかということを教わりました。当時の恩師は、心を込めて教えてくださいました。その存在をかけて、夢中になって教えてくれる教師たちがそこにいたのです。「神学することををやめるときには、牧師をやめなくてはならない」と言われました。また、神学することは恐ろしいことでもあることも言われました。「英語の本を持ってただ格好いいからするような人になったり、ただ知識を引けらかしたり、いばったりするする、またとんでもない退屈な人間になる、そういう人になる危険もあるんだ、恐ろしいことでもあることを忘れるな」と。神学は、「命」と関わることだと言われたのです。驚きました。でも本当にそうだと目が開かれてゆきました。本当の神学は「神学論争」と揶揄されるようなものでは本来ないのだということを教わったのです。決して退屈なものじゃない、いのちのかかったものなのです。

 今日、ここで主イエスがお語りになっておられることも、そのことと関わるように思います。サドカイ派の人たちは、議論のための議論をしている、まさに悪しき意味での神学論争を仕掛けているわけです。けれども、ここで主イエスは神学論争をされないのです。それを拒否される。あなたたちは、聖書も、神の力も知らないから思い違いをしていると言われる。

 このサドカイ派の人たちの姿は特別に神学を学ぶことがないとしても、私たちにとって他人事ではないように思います。私たちもしょうもない、退屈な議論をすることがあります。特別に口に出すことがなくても、心の中で聖書を手にしながら思うことだってあります。それが一番、よく出てくるのが、復活、私たちの死の後のことだと言えるかもしれません。死後、自分たちがどうなるのか、誰に会えるのか。

実際、再婚している人だったら、誰の妻になるのかとか、そういうことを考えることだってあるかもしれません。あるいは天国に行ってまであの人と私が夫婦?そんなことだったら天国は地獄じゃないか、そういうことだってありましょう。何歳くらいの姿で復活するということもあります。三〇歳くらいならいいけど、七〇歳だったら嫌だとか、。笑い話です。でもそういうところで、実はもう私たちは間違いを犯し初めている。「聖書も神の力も知らない」と主イエスから言われなければならないことになるのです。

 カール・バルトという神学者にある夫を失った未亡人が、何度も尋ねました。「先生、天国で、愛する夫と再会で来ますね」。バルトは「できます」と答えました。しかし、彼女は一度で満足せず、なお何度も何度も同じことを尋ねて来たそうです。すると、バルトはこう答えたのです。「あなたは、あなたの愛する人と天国で再会します。しかし、そうではない人とも再会します」。

 この話は、天国ということを私たちが身勝手に、自分中心に考えることことを示しています。

 ここまでの話はみんな死後の世界、復活、天国ということを、この世の生活の延長線上で考えるということです。しかし、主イエスは、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言われました。それは復活を、この世の延長線上で考えてはならないということです。それは聖書も神の力も知らないことから生じる、思い違いだと。聖書と、そこに語られている神の力を本当に知ってもらいたい、そう言われるのです。

 では聖書は、神の力をどのように語っているのでしょうか。そのことが、三一節以下で語られています。

「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

 「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という神様の御言葉が引用されています。この御言葉が、死者の復活とどう関係するのか、すぐにはよくわかりません。しかし、主イエスは、ここで「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と説明されています。神様が、アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの民の先祖たち一人一人の名を呼んで、彼らの神として、彼らと共に歩んでくださった、人生の旅を共にしてくださったということです。そのように神様が名前を呼んで、あなたはわたしの民だ、わたしはあなたの神だと言ってくださる、その時にこそ人は本当に生きることができるのです。神様は、そのようにして、私たち一人一人と関わってくださる。まじわりを持ってくださる。生かしてくださる。そこに神の力があります。神様はこの世界をすべて無から創造されて、今も保っておられる。そういう方ですが、その神様がその力をもって、私たちの名を呼び、いのちを与えてくださる。今、こうして生かしていてくださる。私たちが今、ここにこうして生きているということはそういうことです。私たちの命はたまたまここにあるのではありません。神様が、私たちの名を呼んで、命を与えてくださるから、私たちのこの人生がある。そして、そのことは死んだ後でも同じです。死んで全てが終わりではない。その先がある。「死んだ者の神ではなく生きている者の神だ」と宣言してくださった神は死においても私たちの名を呼び、あなたはわたしの民、わたしはあなたの神だと言ってくださるからです。 神様の力を信じるとはこのことを信じることです。そのことを信じるならば、わたしたちは死の後のことを、あれこれと類推しなくてよくなります。いろいろわからなくてもいい。この神に委ねようとということになる。 要するに「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というのは神様が交わりの神であるということです。この生ける神様が私たちと交わりを持ってくださる。それは生きている間だけではなく、死の後も変わらないということです。

 この神様との私たち人間との交わりが罪によって壊されてしまったのです。しかし、この関係を築くために主イエスが来てくださり十字架についてくださり、復活してくださったのです。生きる時も死ぬ時もこの神との交わりは与えられます。そして死の後も、それは変わらないのです。主イエスが語られるのは、命であり救いです。

 主イエスはそのために来られる、そこに生きるようにとここまでも繰り返し、招いて来られました。ここでも同じです。けれども、人は鈍いのです。サドカイ派の人たちは言ってみればあまりに呑気なのです。関根正雄という人は、彼らには自らの罪に対するうめきがないというのです。「神に呼ばれ、しかも罪のゆえに神に従えぬことの多い、人間の、罪人としての姿。同時に義を求めざる得ない人間の姿。それをサドカイ人、パリサイ人は知らない。それがわからなければ復活を知らないのは当然である」。その通りだと思うのです。命がないのです。続いて、こう語ります。「神の力は、このような罪の呪いを取り去る、神の贖いの力である。罪と、罪を赦し贖いたもう神のいのちの言葉がわかれば復活はわかると主イエスは言われる」。

 主イエスの関心はここに、神との関わり、交わりにあります。それは今も変わりません。今日ここでも、この生ける神との命の交わりの中に私たちを招いておられます。今日ここで私たちが預かります聖餐も、そのことを示します。