2026年02月01日「今の時をどう生きるか」
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マルコによる福音書 8章11節~13節
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聖書の言葉
11ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。 12イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 13そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
マルコによる福音書 8章11節~13節
メッセージ
今朝は共にマルコによる福音書の8章11〜13節をお読みしました。とても短い、わずか3節の聖書の箇所です。説教の予定を立てるときに、悩んだことがあります。11〜13節だけではなく、後の箇所と合わせて11節〜25節にしたほうがよいのか。悩んだ結果、このように11〜13節だけを読むことにいたしました。求道者の方も、長くここに集われている方でも、誰にとっても、とっつきやすい箇所ではありません。よくわからないと思われるような箇所です。一人で聖書を読んでいたら、さっと読み過ごしてしまいたくなるような箇所かもししれません。
しかし、ここには大切なことが語られております。12節にはイエスさまがお語りになった言葉が語られています。
「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」。
「はっきり言っておく」。イエスさまが大切なことをお語りになるときにいつも用いられる言葉です。
アーメン、レゴー、ヒューミン。アーメンは、お祈りの最後に私たちが用いる言葉です。そのとおりになりますという意味の言葉です。レゴ−は言う、ヒューミンはあなたがた。あなたがたに確かに言っておくよ。大切なことをあなたがたに言う。そして、こう言われました。「今の時代の者たちに決してしるしは与えられない」。
今の時代、それは文字通り、この聖書の時代のことではありません。イエスさまが地上に来られてから、終わりの日が来るまでの時代のことです。つまり、私たちも、「今の時代の者たち」なのです。イエスさまはここで私たちに向かって、すべての人に向かって語られているのです。
「あなたがたには決してしるしは与えられない」と。聖書の学者たちは、とても強い否定の言葉が用いられていると口をそろえていっています。
「これから先、絶対に、あなたがたにはしるしは
与えられない」
イエスさまがこんな風に語られるのはとても、めずらしいことです。どうしてこんな語り方をなさっておられるのでしょうか。
ある牧師は、ここにはこのイエスさまの言葉だけではなく、否定的な言葉が満ちていると言いました。試み、議論、拒絶、そして退去。ファリサイ派の人たちはイエスさまを試そうとして、しるしを要求し、議論をしかけた。イエスさまはそれを強く拒絶された。そして、彼らを後に残して舟に乗って立ち去られた、すべて否定的な言葉によってできている。そのようにして、こう言われるのです。この時「ここに立つお方は、これらの否定的な言葉によってご自分をそしてご自分のなさろうとしておられることをより鮮明にされている」と。否定的な言葉によって、この方が誰なのか、何をなさろうとしておられるのかを明らかにされている。それはいったい何でしょうか。今朝は、そのことをここから聞き取りたいのであります。
事はファリサイ派の人たちが、イエスさまに天からのしるしを求めたということから始まっています。「しるしを求める」というのはどういうことでしょうか。わかりやすく言うなら、「証拠を求める」ということです。「お前は天から来た、神の子、救い主なのか、もしそうならそのしるし、証拠を見せてみろ」。きっとそんな風に言ったのでしょう。イエスさまが救い主であると思って言っているのではあありません。信じたい、そんな思いを持ってではありません。もし、そうならこんなことは言わないでしょう。イエスは、救い主メシアじゃない。それだけではなく、神を冒涜する者だ、そう断定していたからこそ、イエスさまのところにやって来て、こんなことを言ったわけです。イエスを「試そうとして」「議論をしかけた」とあります。「俺たちが満足できるようなしるし、証拠を見せてみろ、そうしたらお前を信じてやる」。では実際にしるしを見たら、信じるのかというと決してそうではありません。最初から信じるつもりなんてまったくないのです。ただやりこめたい。やっつけたいだけです。そこで証拠を見せてみろというのです。
ここで大切なことはやはり、そのように求められたときのイエスさまのお答えです。
イエスさまはこう言われるたのです。
「どうして、今の時代の者たしはしるしを欲しが
るのだろう」。
しるしを欲しがる、証拠を見せろというのはファリサイ派の人たちだけではない、今の時代の者たち、みんなだと言われるのです。あなたがたも同じではないかと言われているのです。
この御言葉を私たちは自分に当てはめてよくよく省みてみる必要があります。いえ、私はそんなことはありません。そう言えるでしょうか。
現代社会は、証拠、最近の言葉ではエビデンスとも言われますがそれが何にでも求められます。
宗教の世界でもそうです。私が最近、読んでいる小説は、新興宗教にはまった人の話です。私は絶対、神なんか信じない、と言っていた人が信じてしまうのです。最初、その主人公は、友達に誘われて、ある教祖のところに行くのです。嘘をあばいてやる絶対信じない。そういう思いで集会に参加するのです。でも、そういう集団の中に入って、奇跡を見せられる、病気を治したり、火の上を歩いたり、空中に浮かんだり、そういう不思議なことしるしを目の当たりにするのです。それはマジックと同じで巧妙な仕掛けがあるのですが...。すると信じないと言っていた人が信じていくのです。その小説は、人間のもろさ、弱さを描写しているわけです。強い人間なんて誰もいないわけです。今日の聖書の箇所との関連で言いますと、その主人公は自分でも自覚しないところでしるしを欲しがっていたのです。
キリスト者も、このしるしを欲しがるということがあります。実際、自分のことを省みてみると、ああと思い当たることがあります。最初、教会に行きはじめ、洗礼を受けることを考え始めた頃のことです。若い頃のことですからやはり悩みがあるわけです。落ち込むわけです。自分の弱さの中でぐらついてしまう。確かなものが欲しいと思う。気づけば、自分の周りに起こってくる出来事ばかりに心が向く。ああ、今日はこんなことがあった、だから私は神さまから愛されている、恵まれている。ああ、こんな悲しいことがあった。〜さんからこんなことを言われた。だから、神さまから愛されていない。私は罰を受けている。そんな風にですね、神の恵みを、日常生活の中で確かめようとしていたことがあります。ちょっと極端は話ですが、こういうことは結構あるのではないでしょうか。この世界や社会を見たり、自分の身辺に起こることで神の恵み、神の愛を図ろうとする。こんな世界に神はいないというのも、その裏返しであります。しるしを欲しがるというのはそういうことでもあります。信仰的な仮面をかぶってそういうことがあるのです。そんな私たちのことをイエスさまはここで「どうして今の時代の者達はしるしを欲しがるののだろう」と言っておられるわけです。
しかし、考えなければならないのは、どうして、このしるしを欲しがる、証拠を求めるということがだめなのかということです。
それはまず第1に、それは信じるということではないということです。信じるということはある蓋しかさの中に留まり続けることです。見えないものを信じる。証拠を見せろというのは、それを見えるようにして欲しいということです。それは信じること否定、破壊です。聖書に「望み得ないのに信じる」ということばがあります。信じるということは見えないことの中に留まることです。
第2にこれがもっとも大切なことで決定的なことですが、証拠を要求するというのは、自分が上に立つことを意味します。自分が神になるのです。ファリサイ派の人たちがイエスさまにここで証拠を見せろと言っていますが、まさにそういう姿を現しています。人間が神になるというのは、根源的な人間の罪です。創世記の3章には、最初の人間が罪に墜ちたことが語られています。エデンの園のことです。その時、人間が食べた禁じられた果実は、「神のようになる」ものであったと記されています。罪とはそういうものであります。
マルコによる福音書を丁寧に調べた人たちが指摘しているのは、マルコ福音書には、「しるし」と言う言葉が積極的に用いられることは一度もないということです。他の福音書ではたとえば、ルカ福音書ではクリスマスの記事に「飼い葉桶のしるし」というように良い意味でしるしという言葉が用いられているのですが、マルコには良い意味でのしるしは一度も出てこないというのです。しるしというものをものすごく警戒しているわけです。
しるしに対しての、イエスさまのみ心を、受け取っていたからでありましょう。
「今の時代の者たちにはしるしは決して与えられない」。
ただどうしてもそこで疑問がわいてきます。それはマルコによる福音書には、ここまでイエスさまのなさったこと、病める人を癒やされたり、死人を生き返らせたり、耳の不自由な人の耳を開かれたり、そんなことがずっと語られてきました。きょうの箇所のすぐ前の箇所には4千人の人にパンと魚を分けられたことが語られていました。それはしるしではないのでしょうか。マルコ福音書はそれをしるしとは呼ばないのです。それは、区別されています。それは人間が求めたものではないからです。向こう側から与えられたもの、イエスさまの方から自らなさったことなのです。
その意味で今日の箇所がパンの奇跡の後にかかれていることは大切ではないでしょうか。ファリサイ派の人たちもそこにいたのかもしれません。彼らはそれを見ても信じなかった。それでは満足しなかった。実際にはその場にいなかったかもしれませんがいても結果は同じだったでしょう。
向こうから与えられるもの、イエスさまが与えられるものは受けないのです。そして、自分が気に入ることばかり求めるのであります。
向こう側から来るものとは何でしょうか。それは私たちで言うなら、御言葉と聖餐です。その意味でもパンの奇跡の今日の箇所があるのは、大切です。それがあるのに別のものを求めるのです。それは気に入らない、もっと確かなものをくれ、そう言うのです。それがしるしを欲しがるということです。それに対して、イエスさまは、「今の時代の者たちには決してしるしは与えられない」と断言されます。
今日の夕礼拝から、教理問答に基づいて説教をします。必要を覚えてはじめます。問1を週報に印刷していますがそれを見ていただくと良いかもしれません。教理問答というと、はじめての方は、こちらの疑問に色々答えてくれるものだろうと思うのではないでしょうか。でも実はそうではありません。私たちが問われているのです。そして、それに答える側に私たちは立つのです。こういうことに信仰というものが現れているのです。
信仰とは、こちらがわが、問うて、それに答えが与えられていく、そういうところに立つのではありません。自分が問うのではなく問われている、そのことに気づくことが一番大切なことなのです。
神さまの方から、イエスさまの方から、求められている、問われている、そのことに今日も気づきたいのです。あなたは私のことをどう言うのか、あなたは信じるのか、それとも信じないのか。結局、そういうことなのです。
イエスさまは、しるしを拒否されて、舟に乗って、彼らを置いて行かれました。実は、大切なことは、イエスさまに従うことなのです。「わかりません。わたしは不確か存在です。不信仰な者です。でもあなたに従っていきたい」そう言って、イエスさまの舟に乗り込む、そのことをイエスさまは待っておられます。
「今の時代の者たちにはしるしは決して与えられない」。
イエスさまはこの言葉を心の中で深く嘆いて言われたとあります。イエスさまはお怒りになったのではありません。人間の罪深さを深く嘆かれたのです。嘆かれるというのは、7章34節にも出てきた言葉です。イエスさまは、人間の罪深さをこころの中で深く嘆かれた、自分の身に負われたのです。このイエスさまがやがて、十字架に死なれるのです。
否定的な言葉の中にイエスとはどういう方なのか、これから何をなさるのかが示されています。
お祈りします。