2026年01月18日「ただ恵みを信じて」
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ただ恵みを信じて
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- 橋谷英徳 牧師
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マルコによる福音書 8章01節~10節
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聖書の言葉
1そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。 2「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 3空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」 4弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 5イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。 6そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。 7また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。 8人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 9およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。 10それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
マルコによる福音書 8章01節~10節
メッセージ
リスト教の信仰は「荒れ野の宗教」と呼ばれることがあります。荒れ野というのは人が住みにくい、いのちを保つこともまた困難な、たいへん生きずらい、過酷な場所であります。聖書を読みますと、しばしば「荒れ野」という言葉が出てきます。荒れ野の宗教と呼ばれるのは、聖書を読みますとしばしば「荒れ野」という言葉が出てくるからです。聖書の背景にはいつも荒れ野があると言っても良いくらいです。
聖書の舞台であるユダヤは、その国土の大半は荒れ野ですから当然かもしれません。森や林があり、水が豊富にある、私たちが今、住んでいる場所とは風土が異なります。
しかし、それはただ単に風土の問題ではないのです。聖書が荒れ野について、繰り返し語ることには、聖書というものが、この世界を、またそこに生きる私たち人間というものを、どう見ているのかということが現れているように思われます。
この世界は人が、楽々と生きていけるような場所ではないのです。また、この荒れ野は、ただ私たちの外側にあるのではなく、私たち人間のうちにもあるのです。人間の心そのものが神さまがご覧になったら、荒れ地のようになってしまっているのです。この荒れ野の世界で、心の荒れ野を持つ人間が、一体、生きることができるのか、できるとすればそれはどのようにしてなのかということを聖書は、語っていると言えましょう。
マルコによる福音書を読み続けて今日から8章に入り、そのはじめの箇所をお読みしました。実はここには、イエスさまが4千人の人たちをパンと魚で養われた、満腹にされたということが語られています。今日の聖書の箇所の背景もまた荒れ野です。
イエスさまがご自分のもとに三日もいる群衆が食べ物がなくてかわいそうだと憐れみのことばを述べられたことに応えて、弟子達はこう語ったとあります。4節です。
「こんな人里離れた所で、いったい、どこからパンを手に入れて、これだけの人に食べさせたら良いのでしょうか」。
「こんな人里離れた所」」と訳されています言葉は、「こんな荒野で」と訳すことができる言葉です。
ある人はこう訳しています。
「いったいどうやって、この荒野で、誰がこの人をパンをもって満たすのでしょうか」
誰が、どこからどうやって、誰がパンを持って人々を満たすのか。
これはたいへん正直な率直な言葉です。弟子達はどうしたらいいのかわかりません。なすすべがありませんと言っているのです。
この言葉にとても心惹かれます。 これはこの荒れ野の世界を生きる人間の本質的な問いではないでしょうか。この荒れ野のような世界で、どこからパンを手に入れることができるのか。どのようにして食べ物を得ることができるか。どうしたら生きていけるのか。また、これは何よりも弟子たちの問い、つまり、キリストの教会の問いです。
いや問いというだけでなくうめきと言っても良いと思います。教会は、この荒れ野の世界で、こんな過酷な場所で、誰が、人を生かすことができるのか、満たすのか。どうすれば人間は、この荒れ野で生きられるのか?教会に何かできることがあるのか、何もできないではないか。どうしようもないではないか。
私たちは何らかの仕方で、無力感、徒労感を抱いたことがあるのではないでしょうか。だとすれば、私たちは、この時の弟子達の思いの幾分かを察することができるのではないでしょうか。
今日の箇所は、イエスさまが荒れ野で4千人の人たちを養われたことが語られております。4千人の給食の奇跡と呼ばれることもあります。お気づきになっておられる方もあるかもしれませんが、マルコによる福音書では6章40節以下には、今日の箇所と、とてもよく似た話が語られております。こちらは5千人の給食の奇跡と呼ばれます。昔から福音書の中にどうして二度も似たような奇跡が記されているのかということが問題になってきました。同じ奇跡が何かの間違いで二度記されることになってしまった、本当は二度ではなくただ一度の奇跡だったという人がいます。もちろん、そんなことでありません。マルコによる福音書が語っているとおり二度、この似たような奇跡が起こったのです。私たちは聖書を誤りのない神の言葉と信じています。聖書が語っているとおりに受け止めるべきです。
しかし、どうしてマルコが同じような奇跡をこうして二度、記したのかということは問うてもよいでしょう。それに対してます第1の答えはこのことが大事なことだからです。私たちは大事なことを伝えるときには二度、繰り返したりしますがそれと同じです。もう一つの理由はこの二つの奇跡は似ているようですが、違うところがあるのです。それぞれに異なるメッセージが伝えられているのです。
違うところはさまざまありますが、一番違うところは、奇跡がなされた状況、場所が明らかに違うということです。6章の5千人の給食の奇跡は12人の弟子達が、イエスさまによって伝道に派遣さてその結果を報告したことをきっかけになされています。
今日のこの聖書の箇所の奇跡は、前の箇所とつながっています。イエスさまは、異邦人の住むまずティルスの地方に行かれ、そこでギリシア人、異邦人の女と出会われます。続いて、7章31節には、イエスさまはそこを去って、デカポリスの地方を抜けとあります。これははっきり言って大旅行です。私たちでいうと、金沢に行って、それから浜松に行って山を抜けて関に戻ってきたというような感じです。ティスルスも、デカポリスもまた、これはユダヤ人ではない異邦人の住む場所なのです。ですから、この時、そういう異邦人の町や村を巡って、イエスさまは、ガリラヤ湖に戻ってこられた。5千人の給食も確かにガリラヤ湖の岸辺でなされたのですが、その場合は西側で、今回の奇跡は、ガリラヤ湖の東側でなされたと思われるのです。つまり、5千人の給食はユダヤ人の給食、養いで、今日の箇所の奇跡は異邦人に対してなされた奇跡のではないか、かなり昔から、このように読まれてきました。それは当たっているのではないかとわたしは思います。
また5千人の給食においてはパンが配られて、残ったパン屑は12籠になったとありますが、今日の箇所は七籠です。12籠はイスラエルの12部族を現し、今日の箇所の七籠は七は完全を現しますから、より完全なより広いことが見つめられていると言えましょう。
イエスさまの救い、それは、ユダヤにとどまるものではなく、より広く、完全に、この世界のすみずみに広げられる、そのことがこのことによって、明らかにされたのです。
この福音書が書かれた時代、教会はイエスさまの救いをすでに、ユダヤを越えて、異邦人にも伝え始めていました。そのときにですね。このときのことが意味をもったのではないかと思われます。そして、教会はやはり問わずにおれなかったのではないでしょうか。どこからパンを手に入れて、どうやって食べさせたらいいのか。ただ肉のパンのことではなありません。霊の糧、救いのことです。この荒れ野のような世界に生きる人間に救いはあるのか、その救いはどこにあるのか。どうやってそれを与えることができるのか。
救いがあるというのが、聖書の言っていることです。ではそれはどこにあるのか。
今日の聖書のはじめにはこう語られています。
そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
イエスさまはすべての人々の状態をよく知っておられることがまず明らかにされます。「かわいそうだ」ということばは「深く憐れんで」という意味の言葉です。「はらわたがちぎれそうだ」と訳すこともできる言葉です。イエスさまは自分の身に、苦しみ飢えを感じとっておられます。このままだと倒れる。「中には遠いところから来ているものもある」と言われます。
ここを読みまして、思い出されたのが旧約聖書列王記上19章7節の言葉です。バアルの預言者たちとの戦いに疲れ果て、エリヤは自らの死を願い、エニシダの木の下に横たわります。神さまは、このエリヤのもとに天使を遣わされ、パンを差し出され、こう言われます。「起きて食べよ、この旅は長くあなたには耐え難いからだ」。
どんな人間の人生の荒れ野の旅も長く、耐えがたいのです。しかし、神はそんな旅路をご存じであります。「この旅は長く、あなたには耐えがたい」、この神さまときょうの箇所のイエスさまは重なります。
「疲れ切ってしまう、中には遠くから来たものもいる」このイエスさまがおられる、イエスさまはおよそすべての人の困難、飢えをご存じです。
それが最初の出発点です。
そして、こんな荒れ野で誰が満たすことができるのかという誰がについての答えです。
でも、この時、弟子達はそのことに気づかないのです。どこからパンを手に入れたらいいのか、どうしたらいいのかと嘆いてしまうのです。
弟子たちはこれより先に、5千人の給食を経験していたのです。またイエスさまについてきて、イエスさまの力、恵みを知っていました。ある人はそんなことがありうるだろうかと言います。いくらなんでも、この時に思い出したのではないかというのです。けれども、わたしはそうは思いません。なんど恵みにあずかっても、すぐに忘れてしまうのが私たちの姿であります。あのとき、こうだったから、今もというようには考えられないのです。私たちはイエス、この方を見失うのです。
きょうの御言葉は、この方こそ、およそすべての人をこの荒れ野で満たすことができる方なのです。イエスさまの救いの対象は、およそすべての人間です。ユダヤ人も異邦人も、みんなこのイエスさまの救いを差し出されています。この方にあって満たされることができます。
「誰が」の次に問題になるのは「どのようにして」ということです。そのことを見つめてみましょう。
この弟子達にイエスさまは「パンはいくつあるのか」と問われます。すると、「七つあります」と答えます。書かれていませんが、七つしかありませんという思いでしょう。私たちが持っているものではどうにもなりません。どうしょうもありません。それを聞かれたイエスさまのことが6、7節にこう語られています。
「そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。」。
ここはこの聖書の箇所において極めて大切なところです。
「感謝の祈りを唱えてこれを裂き」。この言葉を聞いて、ここにおられる皆さんの中にも、思い起こしておられる方があるかもしれません。これは聖餐式を行う前に読む、最後の晩餐の時とかさなる言葉です。マルコによる福音書を読んだはじめの教会の人たちもおそらく、聖餐のことを思い出したのです。
また、この6、7節はは直訳しますとこうなります。 「彼は群衆に大地に座るように命じた。そして、七つのパンを取り、感謝して、裂き、そして群衆の前に供するよう彼の弟子たちに与えた。そこで彼らは群衆の前に供した。また、彼らは小さな魚を数尾持っていた。それらを祝福して、イエスはこれらも供するにと言われた」。
供する、供えるという言葉が三度、繰り返されているのです。これはイエスさまの十字架の死を示す言葉です。イエスさまは罪を背負って、十字架につかれて死なれます。そのイエスさまの死は犠牲の死です。そして、イエスさまは、生きたいのちの糧を与えるために死なれるのです。
このイエスさまの死こそが、すべての人を満たすものなのです。主イエスこそ真の生命の糧です。
そして、そのとき弟子達、教会が用いられることも忘れてはならないでしょう。イエスさまからいただいた恵みを信じて、受けてそれを配ればいいのです。
誰が荒れ野で人を生かすのか、その問いに対して、イエスさまが指し示され、続いて、どのようにして荒れ野で生きるのかということが、ここに示されているのです。それは十字架の死において、イエスさまが、十字架において死なれることによって..。
これは今も変わらない、聖書のメッセージです。
でも弟子達は、そのことがわからないのです。ですから、今日の聖書の箇所のあとには「まだ悟らないのか」と言われるのです。でもそんな弟子達をイエスさまは伴われてゆかれるのです。耳を開き、目を開いてくださるのです。
どうしたら荒れ野で生きれるのかということですが、この話は決して、生き残る話ではないことに注意したいと思います。
生き残るというのは、ぎりぎりであります。でも、この話は、満たされた話なのです。パンだけでなくおかずまでついています。イエスさまがお与えくださる恵みは、ただ単に生きるだけではなく、もっと強いものがあるのです。感謝、喜び、恵みが与えられて、荒れ野を生きることができるのです。