2026年01月11日「耳よ、開け」

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聖書の言葉

31それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 32人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 33そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 34そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 35すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 36イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 37そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
マルコによる福音書 07章31節~37節

メッセージ

「この方のなさったことは、すべてすばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。

 なんだかとても美しい響きをもった言葉ではないでしょうか。 

「イエスさまのなさったことは、すべてすばらしい」。この言葉は私たちも語ることができる言葉です。賛美の言葉です。イエスさまのなさったことはすばらしい。信仰を持つことはイエスさまのなさったことはなにもかもすばらしいと言うことです。私たちも今朝、同じようにイエスさまを賛美したいのです。

 さて、この言葉は、イエスさまのなさったことを聞いた人たちが驚いて語った言葉とされています。

 「イエスさまがなさったこと」とは何でしょうか。その前には、耳が聞こえず、口が利けなかったひとりの人がイエスさまによっていやされたことが語られています。耳が聞こえず口が利けなかった人が、イエスさまによって、癒やされて、耳が聞こえるようになり、また口を利くことができるようになったのです。イエスさまは、この人に、わたしがあなたにしたことを誰にも話さないようにとお命じになられましたけれども、この人は黙っていられないで、イエスさまのことを言い広め、人々の知るところになったのです。イエスさまがこの人になさったことは人々の間にまたたく間に広がっていき、それを聞いた人たちが驚きながら、イエスさまを賛美して語ったのです。

 けれども、イエスさまのなさったこととは、ただそれだけのことではどうもないのですね。「この方のなさったことは、すべてすばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。今日の聖書の箇所は、マルコによる福音書のなかでは一つの段落の終わり、締めくくりなのです。この段落というのはマルコによる福音書は6章30節から始まっています。まずイエスさまは、5千人の給食の奇跡をされます。続いて6章45節以下では湖の上を歩かれ、さらに53節ではゲネサレトで奇跡を行われます。そして、7章に入るとファリサイ派の人たちとの問答が語られ、今日の箇所の直前7章24節以下ではシリア・フェニキアの女と出会われてその娘をいやされます。そして、きょうの箇所で耳の不自由な人の耳を開かれるのです。

 きょうの箇所に出てくることだけでなく、6章からのことすべてを受けて、それらのことを振り返りながら、「この方がなさったことは、すべてすばらしい」と言われているのです。

 この福音書を書いたマルコはおそらくこの言葉に自分の思いをかぶせるようにしたのではないかとも思います。

 また、それだけのことではないと思います。「この方のなさったことは、すべてすばらしい」、この言葉を書き記したとき、マルコはもっと広い視野をもっていたでしょう。彼は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉でこの福音書を書き始めたのです。彼はこの福音書でイエスさまがなさったことを書いたのです。そのすべてはすばらしい、そのような賛美の思いを持ってこの福音書を書いたのではないでしょうか。

 今日のこの聖書の箇所について調べた、多くの人たちが指摘していることですが、マルコが、この福音書を書いた時、旧約聖書の言葉を思い起こしていたのではないかと言われます。イザヤ書35章1節〜6節の言葉です。

 

砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

野ばらの花を一面に咲かせよ。

花を咲かせ

大いに喜んで、声をあげよ。

砂漠はレバノンの栄光を与えられ

カルメルとシャロンの輝きに飾られる。

人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

弱った手に力を込め

よろめく膝を強くせよ。

心おののく人々に言え。

「雄々しくあれ、恐れるな。

見よ、あなたたちの神を。

敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

神は来て、あなたたちを救われる。」

そのとき、見えない人の目が開き

聞こえない人の耳が開く。

そのとき

歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

口の利けなかった人が喜び歌う。

 

 救いの時が来る、救い主が、否、神ご自身がやって来られ、ご自身を現される、その時、見えない人の目が開き、耳の聞こえない人の耳が開く、

口の利けなかった人が喜び祝う。

 イザヤがこのように預言したことの実現をイエスさまに見ることができる。「ああ、この方がなさったことはすべてすばらしい」。救いの時が来た、そういう讃美の言葉なのです。

 つまり、事は、ただ一人の人になされた癒やしの業にとどまらないのです。これまでのことすべて、またこれから起こされることすべてがここに語られているのです。

「イエスさまのなさったことはすべてすばらしい」。

 今日ここにいます私たちも、この言葉でイエスさまを賛美できればと思います。しかし、もしかしたら、私たちはこう思うかもしれません。イエスさまがなさったこと、今日の私たちとどのように関わるのだろうか。このわたし、わたしの人生とどう関係するのかと。私たちは、イエスさまを過去の偉人として賛美するのではありません。今、私たちを生かしてくださる方として賛美します。このわたしにもしてくださったこと、してくださることががあります。それは一体、どのようなことなのでしょうか。

 そのことを知るために、今日の聖書の箇所の一人の人の癒やしの記事を見ていきたいと思います。

 イエスさまは、異邦人の住む、ティルスの地方から、大変な旅をして、ガリラヤ湖にやって来られます。そこに人々が一人の人を連れてきます。この人は「耳が聞こえず舌の回らない火と」でした。「舌が回らない」という言葉は、「言葉に困難がある」という意味です。35節には「舌のもつれが解け」とありますから、この人は全くしゃべれなかったのではなく、はっきりわかるように言葉を発することができなかったということです。耳が全く聞こえないと、はっきりしゃべることができなくなるのです。人間は聞くことができなければ話すこともできなくなってしまいます。そういう人がイエスさまのもとに連れ来られました。人々は、その人の上に手を置いてくださるように願いました。実際、イエスさまはこれまで手をおいて人を癒やされました。また全く触れることもないままに癒やしの業をなさいました。

 けれども、どうしたことか、今日の箇所はいくつかの点で今までのケースとは、違います。

 まず、イエスさまは、この人を群衆の中から連れ出されます。そのようにして、この人と一対一になられます。その上で「指を両耳に差し入れられます」。こんなこと今までありません。さらになさったのは、「唾をつけてその舌に触れられた」とあります。こんなことも今までありません。さらに「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」「開け」と言われた、こんなことも今までありません。

 イエスさまの癒やしの業が詳細に、繊細に描かれています。どういうことなのでしょう。ある説教者はこんなことを言っておられます。

「イエスさまの癒やしの業の困難さがここに描かれている、イエスさまにとって、癒やしの業は朝飯前のことではなかったのだということが伝えられている」。確かにそうではないでしょうか。イエスさまのなみなみでない労苦が語られているように思います。十把一絡げにではない、一人の人にこんなにも労苦し集中してくださる。

 私たちは聖書を読みますと、ああ、イエスさまはすごい簡単に、やすやすと人を癒やされると思ってしまうのです。そして、「この方のなさったことはすばらしい」と言うのです。しかし、実あそうじゃないということが、今日のこの箇所の奇跡によって語られているように思います。実はほかの奇跡の背後にあるものがここに語られているのです。

 しかし、このイエスさまの困難、労苦というものはですね、私たちが普通に思い描くようなレベルのものではどうもないのです。

 その点でとりわけ大切なのが、「天を仰いで、深く息をつき」ということです。天を仰ぐというのは、神さまに祈るということです。給食の奇跡においても、「天を仰いで賛美の祈りをとなえ、パンを裂いて」とあります(6章41節)。そして、「深く息をつき」というのは、聖書の他の箇所では、「うめくとか、苦しみもだる」と訳されています。ローマの信徒への手紙8章22節、23節にはこうあります。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることをわたしたちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。また、コリントの信徒への手紙Ⅱ5章2節には、「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」と。

 つまり、「天を仰いで、深く息をつく」というのは、人間の罪というものとつながっているのです。イエスさまは本来、罪がない、うめく必要がない方なのです。しかし、そのイエスさまがこの人の耳に触れ、舌に触れ、うめかれる、苦しみの声をあげられる。そういう犠牲を負われる。そのことの中で、癒やしの業が行われたということがここに明されるのです。

 イエスさまがこの人のうめきを身代わりに負われる、罪を負われるのです。そのことで癒やしがなされるのです。

 この人の苦しみは、耳が聞こえず、口が利けないことでした。それはこの人が罪の力に捕らえられ、支配されていたことを現しています。罪の力が彼の耳を塞ぎ、聞こえなくして、さらに口まで利けなくしていたのです。しかし、イエスさまはご自身の指をその人の両耳に差し入れ、トンネルをほって開通されます。そして、この人の舌にまで触れらる。こうして、この人の罪を自分の身に引き受けられて、癒やされるのです。

 これがイエスさまというお方なのです。

 これがイエスさまのなさったことです。

 

 この人は耳が聞こえず、口が利けませんでした。でもそれは、この人だけのことではありません。私たちの耳は聞こえているでしょうか。私たちは話すことができているのでしょうか。いいえ。私たちの耳も聞こえない、私たちも語ることができないのです。罪のゆえに。イエスさまの言葉、神さまの言葉が聞こえないのです。実際、私たちの言葉は、人を慰め、支えることができないのです。むしろ、私たちの言葉は意味のないことであったり、人を傷つけ、おとしめてしまう言葉になるのです。どうしてなのか、御言葉を聞けくなっているからです。耳と言葉に私たちの罪というものが現れています。神さまの言葉を聞くことができない、だからまた言葉を語ることもできない。

 その聞くことができない神の言葉は、恵みの言葉であり、救いの言葉です。

 マルコによる福音書は、イエスさまの説教を要約して「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言っています。これがイエスさまの語られた言葉なのです。わたしが救いをもたらすために来た。だから、罪を認めて方向転換して行きよと言われたのです。このイエスさまの言葉は私たち人間を甘やかす言葉ではありません。そこに罪のことがあるために、それは耳障りな言葉になるし、突き刺す言葉でもあるのです。だから、人間はその言葉を聞いたとき耳を塞ぎます。聞こえなくなるのです。自分にとって心地よい言葉は聞けるのですが、恵みの神の言葉は聞けない。そして、そのために語る事もできなくなるのです。

 そんな私たちのところにイエスさまは来てくださったのです。そして、私たちの罪を担い、十字架にかかって死んでくださった。そして復活し、聖霊を注いでくださるのです。

 そのようにして、私たちの耳を開いてくださるのです。エッファタ、開けと言ってくださるのです。それがこの方の救いであります。私たちはこの救いにあずかってここにいます。でもまだ私たちは途上であります。なお私たちの耳は閉じてしまい、口が利けなくなるのです。でもそんな私たちのために、イエスさまはなおお働きくださいます。イザヤ書50章4節にこうあります。

 

 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる。 朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし 弟子として聞き従うようにしてくださる。

 「主のなさったことはすべてすばらしい」。私たちは、イエスさまを今日も賛美します。