2025年11月16日「わたしだ、恐れることはない」

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わたしだ、恐れることはない

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マルコによる福音書 6章34節~56節

音声ファイル

聖書の言葉

45それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。 46群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。 47夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。 48ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。 49弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 50皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 51イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。 52パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。53こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 54一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 55その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 56村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
マルコによる福音書 6章34節~56節

メッセージ

弟子たちの乗った舟が向こう岸に渡る途中で嵐に遭ったことが、きょうの聖書の箇所には語られています。弟子たちの乗った舟が嵐に遭う話しは、マルコによる福音書では6章45節以下にも語られていました。他の福音書にもさまざまなところに語られています。

 私たちが教会に集っていたら何度も繰り返し、この湖で嵐に遭う話を聞くことになります。私もこれまで何度、この嵐の話を聞いてきただろうかと思うのです。

 この福音書が書かれた頃の、最初の教会の人たちもそうだったのです。またこの話かと思うくらいに、何度も繰り返して、教会でこの話を聞いたに違いありません。だからこうして福音書にこのことが語られているのです。その後の教会も、教会は、ずっとこのことを聞き続けてきたのです。そのように何度も繰り返して語られ聞くのはなぜでしょうか。

 言うまでもなく、このことが大切なことだからでしょう。教会で生きる、信仰生活を送る時に、この弟子たちの経験と、自分たちの経験とに重なりを見いだしていたのです。みんな、なんらかの仕方で嵐を経験してきた、悩みや試練の中にあってその意味を尋ねながら生きていたのです。

 嵐に遭った話が繰り返しに聖書で語られていると言いましたが、それぞれの福音書、その箇所、その箇所で語られていることはそれぞれに特徴を持っています。今日は、たった今読まれましたマルコによる福音書の御言葉にとどまって、この御言葉を一緒によく味わってみたいと思います。

 話は、5千人の給食の奇跡に続く出来事として語られています。イエスさまは5千人の給食のあと、すぐに弟子達を舟に乗せて、向こう岸に渡らせられます。ご自身は、どうしたわけか群衆を解散させられるために、ただ一人残られたというのです。そして、46節にはイエスさまがなさったことがこう語られています。「群衆と別れてから祈るために山に行かれた」。

 そして、日が暮れた頃には弟子たちが乗った舟は、湖の真ん中にさしかかっていました。彼らが乗った舟を強い風が襲うのです。彼らは逆風のために漕ぎ悩んでいたとあります。

 ガリラヤ湖は今でも、日が暮れる頃に強い風が吹くそうです。ものすごく強い風が吹いて漁師の命を奪うこともあって怖れられていると言われます。そんな嵐が、この時、弟子達の乗った舟を襲ったというのです。

 山の上で、イエスさまは祈っておられた。そして、そのとき弟子達は嵐に遭ったというのです。イエスさまは、山の上で神さまに何を祈っておられたのでしょうか。イエスさまが祈られるのは、いつも自分のためではなく、弟子達のためであり、人間のためでした。この時も、弟子達のために祈っておられたに違いないのです。そこで弟子達が湖で嵐にあったということは、驚くべきことではないでしょうか。イエスさまが祈ってくださっているから順風満帆に向こう岸に渡ることができるというようには聖書は言っていません。そうではなく祈っておられても、否、祈っていてくださる中で弟子たちは試練に遭うのです。この山で祈っておられるキリストは、私たちにとっては昇天されたキリストの姿と重なります。十字架にかかれたキリストは、復活されて、天に昇られ、父なる神の右に座しておられる、キリストは今も、私たちのために天にあって祈っていてくださる、それが教会の信仰です。その時、キリストに祈られているから私たちは試練に逢わない、何もかも思い通りに行くというのではありません。そうではなくそこで逆風に漕ぎ悩み、嵐に襲われるということが起こってくるのです。しかし、キリストは、いつも私たちに関心をもたれ、私たちのことを覚えて、その目を注いでくださっているのです。

これは目に見えることではありません。この時、弟子たちは、キリストに祈られていること、キリストがその目を自分たちに向けていてくださることは思っていなかったようです。それは見えることではなく、信じることだからです。このことは何度も何度も繰り返して、私たちが聞き、信ずべきことのように思います。きょう、ここに集っている私たちも、自分は今、試練や悩みの中にあって苦しんでいて、自分は誰からも見られていない、覚えられていないと思っているかもしれません。しかし、御言葉は「そんなことは決してない、キリストはあなたのために天にあって祈っていてくださるのだ、そして、じっとその目を愛をもって注いでくださっている」と語っているのです。

 48節には、弟子たちが逆風の中で漕ぎ悩んでいるのを見て、「夜が明けるころ」に湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれたとあります。

 弟子たちが湖にこぎ出したのは、夕暮れ時でした。その弟子たちのところに、イエスさまが行かれたのは、「夜が明けるころ」だったというのです。ものすごく長い時間が経過しています。ただでさえ、試練の時というのはいつも長く感じられるものです。これも、私たちの経験と重なることではないでしょうか。「夜が明ける頃」というのは、一番暗闇が深くなる時間です。弟子たちは、もうだめだ、もうもたないと思ったのかもしれません。そのように絶望が頂点に達した時に、イエスさまが来られたというのです。

 必ず助けは与えられるのです。ただその助けは私たちの願ったとおり、思ったとおりではありません。神さまが良しとされるとき、神さまが最善の時をご存じでそれを与えてくださるのです。助けが与えられる時が、願う通りではないというだけではありません。その助けのあり方も、私たち人間の思い通りというのではないのだということを今日の御言葉は教えています。

 

 48節の後半をもう一度、読んでみましょう。

「夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところへ行き、そばを通り過ぎようとされた」。

 弟子たちは、嵐の中で漕ぎ悩み苦しんでいました。イエスさまは、その事を御覧になられて、助けに来られたのです。ではその助けはどのような仕方であったのでしょうか。普通に考えれば、湖を渡ってこられて、風を鎮められるということでしょう。誰でもそう思うのではないでしょうか。でもここにはそのようには書かれていません。風が静まったは、最後の最後、イエスさまが舟に乗り込まれてからです。風を静められたのではなく、嵐の湖を歩いて、近づき通り過ぎて行かれたというのです。

 せっかく助けに来られたのに、通り過ぎられる?それはいったいどういうこと?いったいどうなっている?と思えるのではないでしょうか。

 ある人が、このことについて書かれた書物の中でこんなことをお書きになっておられました。

「何世紀にもわたって、湖をイエスさまが歩かれたことは信じがたい奇跡としてさまざまな場面で語られてきた。聖書にはこんなことが書かれていて信じがたいことだとあざ笑いのもとになってきた。でも、そういう話じゃないのだ。このことは福音なのだ。福音として読まれることを求めている」と。

 ここに記されています「そばを通り過ぎてゆかれるイエス」という言葉は、とても大事なことばなのです。つい最近、読んでいました神学の本にも、「教会が伝え続けてきたのは、そば通り過ぎて行かれるイエス」と語られていました。

 「そばを通り過ぎてゆかれるイエス」というのは、 助けに来てくださったけど、すっーとその前を通り過ぎてゆかれてしまった、結局、何の手も差し出されず、大変だね、じゃあ頑張ってねというようにして通り過ぎて行かれたということじゃないのです。この言葉の意味を理解するためには、どうしても旧約聖書を読む必要があります。代表的な箇所を二箇所紹介します。一つは、ヨブ記9章10、11節(p786)にこんなことをヨブが語っています。「神は計り難く大きな業を、数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。神がそばを通り過ぎてもわたしは気づかず、過ぎゆかれてもそれと悟らない」。もう一箇所は、列王記上19章11節(566)にあります預言者エリヤの体験です。

 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさ

 い」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎ

 てゆかれた。

 そばを通り過ぎるというのは、神さまがそこにおられるという神のご臨在を示す言葉です。神が生きておられ、一緒にいてくださるということをこのことは現しているのです。ここでイエスさまがそのことを示されたのです。ご自身が神であること、そして、彼らのことを覚えて、一緒におられることを示された。つまり、このことにおいて助けられた。ところが弟子達は、そのことでちっとも助けられなかったというのです。それどころか、「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊と思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえた」というのです。

 しかしですね。イエスさまは、このおびえる弟子達に向かってこう語りかけられたというのです。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。以前の翻訳の聖書では、「心安かれ、我なり、恐るな」と訳されていました。

 このわたしである、我なりと訳されている言葉も、旧約聖書と関わりがあります。

 出エジプトを前にして、モーセに神さまがご自身をあらわされたとき、モーセは、あなたの名はなんですかと尋ねました。すると主なる神さまは、モーセに「わたしはある、わたしはあるというものだ」と答えられました。このわたしはあるが、ギリシャ語になると、「わたしである」なのです。つまり、イエスさまは、弟子たちのそばを通り過ぎて行かれました。それでうまくいかなかった。だめだった。でもあきらめられないで、再度、もう一度、今度、御言葉をもって「安心しなさい。わたしである。恐れることはない」と言われて、ご自身が神であることを、ご自身が彼らのそばにいること、一緒にいることを明かされたのです。

 神がそばにいてくださる、覚えていてくださり、向こう岸にわたる旅を見守り、支え続けていてくださる、こんな確かなこと、こんな心強いこと、こんな助け、これ以上の福音(喜ばしい知らせ)はないのです。神が味方なら誰が、私たちに敵対できようかと他の聖書の言葉にあるとおりです。

 しかし、イエスさまからこんなにまでもしていただいても、弟子達には、そのことが通じなかった、わからなかった、そのことが福音にならなかったのです。

 51節、52節にはこうあります。「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」。

 心が鈍くなっていたという言葉は心が石のように堅くなっていた、頑固になっていたということを意味します。

 パンの出来事でもイエスさまはご自身が神、神の子であることを示され、神の臨在を示されたのです。でもそれがわからない。

 実は、これは他人事ではないのです。私たちにも、キリストは今も、同じようにしていてくださるのです。教会の礼拝でも、聖霊によって聖書を通してご自身が共にいてくださることを明らかにしていてくださるのです。そうやって助けを与えてくださっているのです。でもそれにもかかわらず、私たちも、心を鈍くし、かたくなにして、生きていることがあるのです。

 私たちはいつも具体的な助けを自分の思いで求めてしまうものです。病気に悩んでいればがそれが癒やされることが助けであり、人間関係が悩みなら関係が改善されること、様々な抱えているさざまな問題が解決されることこそ神の助けだと思い込んでしまっています。しかし、イエスさまは今も、今日の箇所のようにして私たちを助けていてくださるのです。ご自身が神であり、私たちのことを覚えて、祈り。私たちがもはや神さまとの関係において、その罪を赦されて、神と共にいることができることを示されているのです。

 最後、53節以下にはこのようにあります。

「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 55その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」。

 ここには群衆たちが、イエスさまの方に集中している様が書かれています。なぜこのようなことが書かれているのか。群衆も無知だったということでしょうか。よくはわかりません。けれども、一番、最後の「触れた者は皆癒やされた」と訳されている言葉は、「触れたものは皆救われた」という言葉なのです。

 イエスさま自身にこそ救いがあるということではないでしょうか。私たちの救い、わたしたちの助けとは主イエスご自身以外にないのです。

 カルヴァンは、この聖書の言葉の注解でこう書いています。

「極めて明瞭な神の力に気づいていないことは、実に獣のような無知なのだ。人類全体が同じ病にかかっているので、マルコは頑迷さについて強調し述べている。私たちは上からの啓示によらなければ、神の明らかな御業を知ることができないからである」。

 どうか今日、私たちの固い石のような心が聖霊によって柔らかにされて、イエスの恵みを知ることができますように。祈ります。