2025年05月04日「きょうも、明日も、あさっても」

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きょうも、明日も、あさっても

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章29節~39節

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聖書の言葉

29すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 30シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 31イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 33町中の人が、戸口に集まった。 34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 36シモンとその仲間はイエスの後を追い、 37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
マルコによる福音書 1章29節~39節

メッセージ

主イエスは、ガリラヤ湖のほとりで4人の漁師たちを弟子とされ、カファルナウムに来られ、会堂で教え(ここでは福音のことですが)を語られ、さらにひとりの人から悪霊を追い出されました。今日の箇所はその続きです。

 はじめにこう語られます。

「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの 家に行った」。

 「すぐに」とあります。実は、この「すぐに」ですが、直訳しますと「そして、すぐに」という二つの単語になっています。つなぐ言葉です。この言葉はマルコによる福音書に繰り返し用いられています。ここまででも、10、18、20節に出てきます。原文では、もっと出てきます12節「それから」は「そして、すぐに」、23節「そのとき」も「それからすぐに」です。あまりに頻繁だと読みにくくなるためにあえて別の言葉で訳されているのです。こういうして見ると、どうもこの福音書を書きましたマルコには「そして、すぐに」という言葉で話をつなげる癖があったのではないかと言われます。けれども、単なる癖だけのことではないのではないか。こういうところにマルコの強い思いが表れている、いや単にマルコだけではなく主なる神さまの思い、そのなさそうとされていることが表れているとも言えるのではないかと思います。どういうことかというと、「すぐに」、「すぐに」というのは急いでいる。神さまは、ここでのんびりしておられるのではない。なんとか早く救いの恵みを実現したい、届けたい、そう思っておられる。急いでおられるのかもしれません。この福音書を書いたマルコ自身、その神さまの思いに気づいている。これは私たちがあまり考えないことです。神さまという方はいつものんびりしておられる、なんとなくそう思っている。あるいは救いの話というのは、のんびり考えればいいなどとどこかで思っているかもしれません。

 でもイエスさまも神さまも、救いをもたらすということでは、のんびりはしておられない、急いでおられる、そういう方ではないかと私は思わされるのです。神の救いというものがあるのなら、それは何にもまさって、緊急に、つまり急いで、私たちが手にすべきものでありましょう。

 とにかく、ここでイエスさまの一行は、会堂での安息日の礼拝が終えると、すぐに会堂を出て行かれます。その会堂の外で起こったことが、今日の箇所では語られております。

 まず、イエスさま一行は、シモン(ペトロ)とアンデレの家に行かれます。その家には、シモンのしゅうとめ、つまり妻の母が一緒に暮らしておりました。

 新約聖書の他の箇所には、シモン・ペトロが、妻を連れて伝道していたことが語られています。ペトロとその妻は、後に夫婦そろってイエスさまの福音を伝える人になっているのです。今日の箇所には、その妻の母、シモンのしゅうとめが出てきています。彼女はこの時、熱を出して寝ていたのです。イエスさまがこの家に来られると、「人々は早速、彼女のことをイエスに話した」とあります。それを聞かれたイエスさまがどうなさったかということが31節にはこう書かれています。「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」。しゅうとめはイエスさまによって癒やされたのです。

 その日の夕方にはさらに多くの人たちにイエスさまは癒やしの業を行われます。「人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった」。

 さらにこの時に、イエスさまがなさったことが、まとめられて次のように語られています。

「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」。

 この聖書の箇所で語られていることは、どういうことなのでしょう。何がここで語られているのでしょうか。この箇所で語られていることは、私たちに、どうか関わるのでしょうか。

 

 ここに語られているのは、主イエスの御業、なさったこと、癒やし、解放のみわざです。ここで中心におられるのはイエスさまです。ここでは、イエスさまに周りの人びとが悩み事を話し、また、イエスさまのもとに、こうぎゅーとですね、押し迫っていますね。そして、それをイエスさまが受け止めておられる、そういう印象を持ちます。

 説教者が、こんなこと言うのはどうかとも思うのですが、この聖書の箇所、好きなのです。なんだかとても心惹かれます。よく心に思い浮かべます。

 イエスさまが弟子の家に行かれ、妻の母を癒やされる。さらに夕方、日が沈むと、色んな病気、悪霊に取り憑かれた人たちを連れて来られ、その人たちが癒やされる。

 そして、ここで気づかされるのはここに出てくる人間の姿です。シモンとアンデレの家では、人びとは、イエスさまが来られるやいなや、しゅうとめのことをイエスさまに話します。人びとというのは、その家の人たちでしょうけ。「熱を出して寝込んでいます」と心配して話したのでしょう。

また、夕方になって街の人たちが押し寄せてくるのですけれども、「人びとは病気の人、悪霊につかれた人…を連れてきた」とあります。自分のことではなく、自分の家族や友人でしょうか、自分以外の人たちを気遣っているのです。人間という者は、身勝手、自己中心、自分のことしか考えないものですが、ここではそうじゃなくなっている。

また、人間がここではうごめきはじめているわけです。立ち上がる気力もなく、生きる力も失せてしまっていたかもしれませが、イエスさまが来られたとき、イエスさまのところに向かっているわけです。

 なんだか温もりを感じませんか。日が沈んであまわりは暗くなっていたでしょう。でもここには温かい光が灯っている。そういう情景が描かれている。イエスさまがおられるところに光が灯る。どんなに暗くても、イエスさまがおられるところには温かい光がある。

 ここで大切なことは、この温かい光の発信源、この光の源はどこかということです。なんとなくではありません。ここから来ているということははっきりしています。

 今日の箇所の前にカファルナウムの会堂での安息日の礼拝。そこでイエスさまは教えを語られたとあります。権威ある新しい教えと呼ばれています。この教えは、14、15節に語られている宣教の言葉です。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。イエスさまは、このことを伝えられた。語られた。このイエスさまの教え、御言葉こそが発信源、ここに光の源があります。

 イエスが語られたみ言葉です。神の言葉です。み業は言葉のしるしであり、言葉がもたらしたもの、その結果です。神が光あれと言われたなら、光があるのです。闇は光に変えられるのです。「時は満ち、神の国は近づいた」。神さまの恵みの支配がイエスさまが来られることによって、始まったのです。それはまず礼拝の場に満ちた。そして、悪霊が敏感に反応した。そして、追い出され、一人の人が自由にされた。悪霊の支配から、神さまの恵みの支配の中に入れられたのです。

 そして、それに続いて、この福音、この神さまの恵みの支配は、会堂の外にまで広がっていくのです。まず、一つの家、家庭に。さらにはより多くの人たちに、町中の人たちに…。

 そういうことなのです。イエスさまがもたらされた神さまの支配が、すっーと広がり始めているのです。そして、これが大切なことですが、これは終わりではなく始まりなのです。終わっていないのです。一過性の出来事ではありません。これは開始です。言うならば、ゴーンゴーンと鐘がなって、始まったーという知らせです。そのことが今日の箇所で秋からにされています。

 21節から語られていたのはイエスさまの一日の歩みです。会堂での礼拝、さらには癒しの御業、よる遅くまでイエスさまはお働きになった。そして、35節にはその翌朝、まだ暗いうちのことが語られています。

 この時、イエスさまは、ひとりになられて、人里離れたところ、これは荒れ野と訳すこともできますが、そういう場所で祈っておられたとあります。ここを読んだ時、私は最初、こう思いました。

 イエスさま、ずいぶんお忙しかったから、きっとおつかれになったのか。人びとにおいまわされて、きっとおひとりで静かになられたのではないか、と。でもどうも違います。そういう話じゃないのです。

 この時、シモンとその仲間がひとりで祈っておられるイエスさまを見つけました。そして、彼らは、「みんなが捜しています」と言ったというのです。するとイエスさまはこう言われました。38節です。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と。

 イエスさま、ちっとも疲れておられません!疲れておられたら、こんなこと言われません。ほかのところに行こう!ここから、出ていこう。疲れておられたとしても、神さまに祈って、使命を覚えられ、力を与えられて、ここからほかの町や村に行こうと言われます。行こう、他の町に行こう、外に行こう!すごいことです。そうです、イエスさまが言われたのは、同じことを、他の町でもしよう。神の国を広めよう。イエスさまは先に進まれます。弟子たちをともなって…。一緒に行こうと。止まりません…。十字架に向かわれ、復活され、さらに、今も生きて、聖霊において教会の宣教をとおして、この恵みをこの地上にもたらそうとされています。「そして、すぐに」なのです。イエスさまは、この救いを伝えたい。神の国の支配をもたらしたい。近くのほかの町や村へ。

 

 イギリスの作家CSルイスの書いたナルニア国物語というファンタージーがあります。映画にもなっています。4人の少年少女が、タンスからナルニア国と呼ばれる夢の国に入り込んで、冒険していく物語です。この物語は実は、聖書の物語です。聖書が語っている福音を、子どもたちに伝えるために書かれた傑作です。この物語にアスランというライオンが登場します。このアスランがキリストです。物語に氷の国が出てきます、冬の国なのです。その国は年中、冬で雪と氷に閉ざされてしまっています。そこにアスランがやってくるのですが、アスランが歩く、太くがっちりした足で踏む、すると、氷も雪も溶けていく。草が生え、花が咲きます。春が来るのです。

 きょうの聖書の箇所も同じです。イエスさまがカファルナウムの町にやってこられ、会堂に入らられ福音を宣言され、シモンの家に入られる、そこで氷が溶けて、春が来るのです。じわーと町中に広がっていく。

 人びとが動き出します。

 人びとは色んな病気で苦しんでいたり、悪霊につかれて悩んでいたとありますが、これは今の私たちの状況と同じであるように思います。悪霊というのは神さまから、神さまの救いから人を遠ざけるのです。わたしなどいらない、救われないと思い込ませ、人間をだめにする。希望を奪う。生きる力を奪い人間を、闇に閉じ込める、氷に閉じ込める。これは今も、変わらない現実です。

 けれども、イエスさまがそこに来られる、その時、変わってくる。

 実際、そうではないでしょうか。みんながどこかで行き詰まっているのです。病気をしたり、苦難の中で。この世の中に、人生に、家庭での生活に…。自分はこんな人間、呪われている、見捨てられている。今日のみ言葉は、そんな私たちにイエスさまのところに行こう。イエスさまのところに連れて行こう、そう呼びかけています。

 事実、私たちはイエスさまによって知らされます。わたしは見捨てられていないと。神さまから愛されていると。このイエスさまは、この私たちのためにその身を十字架にささげられました。このイエスさまによって私たちは神さまの愛を知らされます。

 イエスさまはこの神の恵み、神の愛を、今ももたらそうとされているのです。その救いは、礼拝の場に止められることはありません、わたしたちの家にまでお呼びます、家だけではありません。近くの町や村にまでお呼びます。

 その救いは、およそすべての人間に関わります。わたしは除外されているなんて言う人はいません。

 このイエスさまの救いは、きのうも、きょうも、あさってもかわりません。今もつづいているのです。