音声ファイル 再生できない方はこちらをクリック 聖書の言葉 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。マルコによる福音書 1章14節~15節 メッセージ ここから、イエス様のお働きが始まった、たった今お読みしました聖書の箇所は、そういう箇所です。ここが始まり、ここから始まったのです。確かにすでにイエスさまは姿を現されておられました。ヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになられ、荒れ野でサタンの誘惑を受けられたのです。しかし、ここまでのイエス様は「洗礼を受けられた」、「サタンから誘惑を受けられた」とあるように、受ける側にお立ちになっておられました。しかし、ここから、違います。「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え」とあるように受け身ではありません。 またここでイエス様が初めて口を開かれます。イエス様はここまで何もお語りになっておられませんでしたがここで、イエスさまは声を発せられます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。 これがはじめの言葉、最初の言葉です。でも、イエス様はこの時、1回限りこのように語られたのではありません。この福音書を書いたマルコは、イエスさまのみ業、語られた言葉をこの一句の言葉で言い尽くします。イエス様の業、なさったことがここから語られていきます。奇跡、癒しのみわざ、それは啓示です。啓示であるが故に言葉です。私たちが普通に考える文字通りの言葉だけが言葉ではありません。ここから語られていくこと、そのすべては、この一句に尽きると言いたいのです。このことを伝えている。それが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。私たちはこれからさらに日曜日ごとにこのマルコ福音書を読み進めていきます。その時、どこを読みましても、このことが伝えられているということです。 しかし、それだけのことではありません。 この福音書の終わりに何が語られているかをご存知でしょうか。そうです、イエス様が十字架にかかられたこと、そして復活されたことです。イエス様が復活された日の朝、墓の入り口を塞いでいたはずの巨大な石は取り除かれていました。墓の中には、白い衣を着た若者が座っていまいsた。その若者は婦人たちにこういいました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と(16・6-7)。この先のことは語られていませんが、想像ができます。それは弟子たちは、ガリラヤに行き、イエス様に会う、そして「わたしについて来なさい」と呼びかけられるのです。そうです。マルコ福音書は、終わりに辿り着いて、またはじめに戻っているのです。そういう風に書かれているのです。それは何を意味するのでしょうか。もう一度、はじめに戻って!ということです。終わりから初めに戻ってみる、そのときわかることがある。それはイエスさまは生きておられ、今も伝え続けておられる。イエス様は生きておられ私たちの間で、教会を通して、語り続けておられる。何を語っておられるのか。それはこのことです。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福 音を信じなさい」 この言葉は、イエス様の地上の生涯の間だけに語られた限定的な言葉ではないのです。世の終わりまで語り続けられる、そういう言葉なのです。つまり、今日も、今ここに礼拝の場にいる、私たちの間にも、ともにおられ、語っておられるのです。それはこの礼拝の場でだけということではないように思います。私たちのそれぞれの人生でイエス様がお伝えになりたいことも、結局はこのことだということです。私たちの人生には様々なことがあります。人生は複雑ですし、私たちの心も、 この世界も、耐えきれない程に複雑です。そういう中で私たちは、道に迷いながら生きています。そういう中で私たちは神さまが私たちに語られていることも複雑なのではないかと考えてしまうことがあるように思います。説教者である私自身、その例外ではありません。キリスト教も、聖書も説教も難しい、そう思っている人はとても多いのです。礼拝にはじめて来られた方に、どうでしたかとお聞きする。「難しいですね」と言われたことが何度もあります。そんな時、説教者としての未熟さを、力不足を覚えてます。 聖書は難しい。ある意味でその通りです。これまで歴史の中で書かれてきたキリスト教の書物は数えきれません。大きな図書館にも入りきれないほどです。学んでも学んでも学びきれないほどの内容があります。難しい、それは当たっています。しかし、同時にそれは全くの誤解です。その語られている真髄、肝心なことは。極めてシンプルだということをマルコ福音書は伝えています。それは一句の言葉で言い尽くされるのです。 「時は満ち、神の国は、近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。 では、ここで一体、ここでイエス様は何を私たちに語られているのでしょうか。ここには今日、はじめてこのみ言葉を聞くという方もおられるかも知れません。もう長い間、信仰生活を送って来て、このイエス様の言葉を何度も聞いてきたという方もおられるでしょう。今日願うのは、ここにいる私たち皆が、色んなことを捨て去って、今日はじめて聴くように、この御言葉をイエス様の、自分自身への語りかかけの言葉として聞くことです。まず問いかけたいことがあります。 それは、この言葉をうれしい知らせとして本当に聞くことができますか?考えてみてください。 イエスさまはこう言われています。 「時は満ち、神の国は近づいた」 神の国というのは、神様の支配ということです。神さまが王として支配されることを意味します。だとすればですね、「神の国が近づいた」というのは、「王である神さまが近づいてきておられる」ということです。絶対的な権威と力を持って、王である神さまが近づいて来てくださる。それはうれしい知らせですか? 誰でも苦しい時、辛いことがあります。そんなとき、神さま!と呼んでお祈ります。神さま、助けてください!私を憐んでください。普段は、神などいない、信じないと言っている人でも、実際、窮地に陥ったなら、「神さま!」と助けを呼ぶかもしれません。けれども、実際、その時に、本当に神さまが、途方もない大きな権威と力をもって、近づいて来られたならどうでしょうか。それは嬉しいことになるのでしょうか。それはすぐに単純に嬉しい、よろこびをもたらすことにならないのではないでしょうか。それは恐ろしいことでもあるはずです。 神の国が近づく、王である神さまが近づいて来られる、これは私たちに人間にとって恐ろしい知らせではないでしょうか。神が王として権威と力を持って臨まれるのです。神は義なる神でられます。正しい裁きをなさるのです。 人間の目なら誤魔化せるかもしれません、でも神様はごまかせません。神は偽りを見抜かれます。行いや言葉だけではありません。心の中まで神は見抜かれます。神様の前では、私たち人間は皆、裸です。また私たち人間はみんな小さな王様だと言った人がいます。私(自分)という王国を築いて、その王としてふんぞり返って、威張って生きています。人を裁いてしまうのもそういうことです。 そんな私たちのところに神様が王として来られる。それは、嬉しい知らせにはならないのではないでしょうか。 「ああ、私は滅ぼされる」そう言わねばならないのではないでしょうか。これは恐ろしい知らせではないでしょうか。 けれども、そんな私たちにイエスさまは、こう言われるのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。イエス様は、福音と呼ばれます。時が満ち、神の国が近づいた、ということを福音だと呼ばれます。福音とは、良い知らせ、嬉しい知らせということです。これはあなた方にとって、これ以上にない、嬉しい知らせ。人生において与えられる他のどんな嬉しい知らせよりも、嬉しい知らせなのだよと言われるのです。 どういうことでしょうか。 神が権威と力を持って近づかれるという知らせ のどこが良い知らせなのでしょうか。それは恐ろしい知らせで、逃げ出さすにおれないようなことです。 しかし、かろうじて私たちがそのことに耐えられたとしてですね。こういうことならまだわかるかもしれません。「時は満ち、神の国は近づいた。あなたがたは、悔い改めて正しい人になりなさい」。「悔い改めて、善い行いをしなさい」。これならまだわかるのです。人間は、誰もがこう考えます。実際、この後、この福音書に登場する人たちの中にはこういうふうに考えて生きた人たちが登場します。それがファリサイ派の人たちであり、律法学者たちです。彼らは律法に従って、善い行いを重んじ生きたのです。神さまが来られたとき、良しとされる人間になろうと努めたのです。その意味では彼らは、真面目な人たちでした。しかし、イエス様は、彼らのことを良しとはなさらなかったのです。 イエスさまが問われたのは、そこに救いが本当にあるかということです。「悔い改めて本当に正しい人になれるか」。彼らは自分は正しく生きようとした。しかし、そこに起こっていったのは、結局、正しくないものを裁くということでしかなかったのです。神様の審きに耐えうる正しさを持ち得ないのです。人間には罪が根っこから巣食っているからです。どうにもならないのです。それゆえ、そこでは、救われない。だから神の国が近づいたということは、嬉しい知らせにはなりようがありません。 しかし、ここでイエス様は、はっきり、この神が近づいたということが福音だと言われます。それは聞き違えではありません。それは、神さまが全く別の方法、人間が思いつくことなど到底できない。神ご自身のご計画の中で、事が起こる事があるからです。それがイエスさまがなさる事です。神様は、私たちの罪を、御子イエスに負わせられます。イエスさま、この方は、洗礼をお受けになられました。その時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から語られます。イエス様は、地上に来られた神そのものです。その方は、ご自身には罪がないにも関わらず罪人の一人として、十字架にかけられ、さらに人間として神性を剥ぎ取られるようにして、荒れ野でサタンから誘惑をお受けになられます。そして、その行き着くところは十字架の死です。 イエス様は、私たちすべてのものの罪を背負って、この地上の歩みを送られ、十字架にかけられ、そして復活されます。 それゆえに罪人である私たちが救われます。正しい人になれない私たちが救われます。罪の赦し、赦しです。それが神によってなされるのです。そして、それは神様のご計画でした。 だからイエス様は、言われるのです。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。 マルコによる福音書1章には動きがあります。はじめの2節では旧約聖書が引用されます。この2節は、天上での神さまのイエスさまへの語りかけです。ここから始まる。そして、場面が天上から、地上に移ります。荒れ野にヨハネが現れます。声を上げます。さらにイエスさまがそこに来られ、洗礼をお受けになられる。そして、天から声がする。さらに、再び地上に場面が移ります。イエス様が荒れ野で誘惑を受けられます。そして、そこからイエス様が、ガリラヤにやって来られます。 そして、イエス様が語り出される。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音 を信じなさい」 もう何年も前の夏のことです。まちの花火大会が行われていた時、家族で花火を見ていました。すると突然、向こうから、雷雲がやってきて、激しい風、雷と、経験したこともないような強い雨が降り注ぎ始めました。向こうから雨の塊が近づいてくるようでした。その時のことをふと思い出します。 ここでも、天から、向こうから、やってくるのです。福音の雲が、キリストが…その救いが…。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福 音を信じなさい」 ある翻訳ではここはこう訳されています。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福 音の中で信じなさい」 確かに原文ではエン、英語ではインという言葉が用いられているのです。福音の中で信じなさいと読む事ができるのです。 人間が悔い改めて来るのではありません。また悔い改めて、正しい人になりなさい。善い行いをしなさいと言われているのでもありません。 ただ信じなさい。福音が来ている。その福音に包まれて信じなさいと言われているのです。 イエス・キリスト、ご自身が福音なのです。 福音の雲がやってきて、それが私を包むのです。 暖かく包む。傷を巻く包帯のように私の傷を覆い。神の前に、立たせてくださるのです。 私たちがどうしようもない罪人であるのに、それが、神様の方からやって来て、私たちを包みこむのです。その中で私を信じよ。神を信じよ、委ねよと語りかけられているのです。自分で自分を救うのは止めよ。生きる向きを変えよ、あなたの方向を転じよ。神が来られている。近づいて来られた。 この福音、嬉しい知らせが、この世界に、この地上にもたらされ、今ももたらされています。この福音が私たちの人生に差し出されています。 福音が、動いている。その福音は私たちをも覆いのです。 4月の始まりです。新しい出発をして、心をおロラされている方もあるでしょう。けれども、深い失望と嘆きの中に置かれている人もあるでしょう。今、世界は悪い知らせに満ちています。しかし、そんな私たちにキリストの福音、嬉しい知らせが今も、イエス様によって与えられています。
ここから、イエス様のお働きが始まった、たった今お読みしました聖書の箇所は、そういう箇所です。ここが始まり、ここから始まったのです。確かにすでにイエスさまは姿を現されておられました。ヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになられ、荒れ野でサタンの誘惑を受けられたのです。しかし、ここまでのイエス様は「洗礼を受けられた」、「サタンから誘惑を受けられた」とあるように、受ける側にお立ちになっておられました。しかし、ここから、違います。「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え」とあるように受け身ではありません。
またここでイエス様が初めて口を開かれます。イエス様はここまで何もお語りになっておられませんでしたがここで、イエスさまは声を発せられます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
これがはじめの言葉、最初の言葉です。でも、イエス様はこの時、1回限りこのように語られたのではありません。この福音書を書いたマルコは、イエスさまのみ業、語られた言葉をこの一句の言葉で言い尽くします。イエス様の業、なさったことがここから語られていきます。奇跡、癒しのみわざ、それは啓示です。啓示であるが故に言葉です。私たちが普通に考える文字通りの言葉だけが言葉ではありません。ここから語られていくこと、そのすべては、この一句に尽きると言いたいのです。このことを伝えている。それが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。私たちはこれからさらに日曜日ごとにこのマルコ福音書を読み進めていきます。その時、どこを読みましても、このことが伝えられているということです。
しかし、それだけのことではありません。
この福音書の終わりに何が語られているかをご存知でしょうか。そうです、イエス様が十字架にかかられたこと、そして復活されたことです。イエス様が復活された日の朝、墓の入り口を塞いでいたはずの巨大な石は取り除かれていました。墓の中には、白い衣を着た若者が座っていまいsた。その若者は婦人たちにこういいました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と(16・6-7)。この先のことは語られていませんが、想像ができます。それは弟子たちは、ガリラヤに行き、イエス様に会う、そして「わたしについて来なさい」と呼びかけられるのです。そうです。マルコ福音書は、終わりに辿り着いて、またはじめに戻っているのです。そういう風に書かれているのです。それは何を意味するのでしょうか。もう一度、はじめに戻って!ということです。終わりから初めに戻ってみる、そのときわかることがある。それはイエスさまは生きておられ、今も伝え続けておられる。イエス様は生きておられ私たちの間で、教会を通して、語り続けておられる。何を語っておられるのか。それはこのことです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福
音を信じなさい」
この言葉は、イエス様の地上の生涯の間だけに語られた限定的な言葉ではないのです。世の終わりまで語り続けられる、そういう言葉なのです。つまり、今日も、今ここに礼拝の場にいる、私たちの間にも、ともにおられ、語っておられるのです。それはこの礼拝の場でだけということではないように思います。私たちのそれぞれの人生でイエス様がお伝えになりたいことも、結局はこのことだということです。私たちの人生には様々なことがあります。人生は複雑ですし、私たちの心も、
この世界も、耐えきれない程に複雑です。そういう中で私たちは、道に迷いながら生きています。そういう中で私たちは神さまが私たちに語られていることも複雑なのではないかと考えてしまうことがあるように思います。説教者である私自身、その例外ではありません。キリスト教も、聖書も説教も難しい、そう思っている人はとても多いのです。礼拝にはじめて来られた方に、どうでしたかとお聞きする。「難しいですね」と言われたことが何度もあります。そんな時、説教者としての未熟さを、力不足を覚えてます。
聖書は難しい。ある意味でその通りです。これまで歴史の中で書かれてきたキリスト教の書物は数えきれません。大きな図書館にも入りきれないほどです。学んでも学んでも学びきれないほどの内容があります。難しい、それは当たっています。しかし、同時にそれは全くの誤解です。その語られている真髄、肝心なことは。極めてシンプルだということをマルコ福音書は伝えています。それは一句の言葉で言い尽くされるのです。
「時は満ち、神の国は、近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。
では、ここで一体、ここでイエス様は何を私たちに語られているのでしょうか。ここには今日、はじめてこのみ言葉を聞くという方もおられるかも知れません。もう長い間、信仰生活を送って来て、このイエス様の言葉を何度も聞いてきたという方もおられるでしょう。今日願うのは、ここにいる私たち皆が、色んなことを捨て去って、今日はじめて聴くように、この御言葉をイエス様の、自分自身への語りかかけの言葉として聞くことです。まず問いかけたいことがあります。
それは、この言葉をうれしい知らせとして本当に聞くことができますか?考えてみてください。
イエスさまはこう言われています。
「時は満ち、神の国は近づいた」
神の国というのは、神様の支配ということです。神さまが王として支配されることを意味します。だとすればですね、「神の国が近づいた」というのは、「王である神さまが近づいてきておられる」ということです。絶対的な権威と力を持って、王である神さまが近づいて来てくださる。それはうれしい知らせですか?
誰でも苦しい時、辛いことがあります。そんなとき、神さま!と呼んでお祈ります。神さま、助けてください!私を憐んでください。普段は、神などいない、信じないと言っている人でも、実際、窮地に陥ったなら、「神さま!」と助けを呼ぶかもしれません。けれども、実際、その時に、本当に神さまが、途方もない大きな権威と力をもって、近づいて来られたならどうでしょうか。それは嬉しいことになるのでしょうか。それはすぐに単純に嬉しい、よろこびをもたらすことにならないのではないでしょうか。それは恐ろしいことでもあるはずです。
神の国が近づく、王である神さまが近づいて来られる、これは私たちに人間にとって恐ろしい知らせではないでしょうか。神が王として権威と力を持って臨まれるのです。神は義なる神でられます。正しい裁きをなさるのです。
人間の目なら誤魔化せるかもしれません、でも神様はごまかせません。神は偽りを見抜かれます。行いや言葉だけではありません。心の中まで神は見抜かれます。神様の前では、私たち人間は皆、裸です。また私たち人間はみんな小さな王様だと言った人がいます。私(自分)という王国を築いて、その王としてふんぞり返って、威張って生きています。人を裁いてしまうのもそういうことです。
そんな私たちのところに神様が王として来られる。それは、嬉しい知らせにはならないのではないでしょうか。
「ああ、私は滅ぼされる」そう言わねばならないのではないでしょうか。これは恐ろしい知らせではないでしょうか。
けれども、そんな私たちにイエスさまは、こう言われるのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。イエス様は、福音と呼ばれます。時が満ち、神の国が近づいた、ということを福音だと呼ばれます。福音とは、良い知らせ、嬉しい知らせということです。これはあなた方にとって、これ以上にない、嬉しい知らせ。人生において与えられる他のどんな嬉しい知らせよりも、嬉しい知らせなのだよと言われるのです。
どういうことでしょうか。
神が権威と力を持って近づかれるという知らせ
のどこが良い知らせなのでしょうか。それは恐ろしい知らせで、逃げ出さすにおれないようなことです。
しかし、かろうじて私たちがそのことに耐えられたとしてですね。こういうことならまだわかるかもしれません。「時は満ち、神の国は近づいた。あなたがたは、悔い改めて正しい人になりなさい」。「悔い改めて、善い行いをしなさい」。これならまだわかるのです。人間は、誰もがこう考えます。実際、この後、この福音書に登場する人たちの中にはこういうふうに考えて生きた人たちが登場します。それがファリサイ派の人たちであり、律法学者たちです。彼らは律法に従って、善い行いを重んじ生きたのです。神さまが来られたとき、良しとされる人間になろうと努めたのです。その意味では彼らは、真面目な人たちでした。しかし、イエス様は、彼らのことを良しとはなさらなかったのです。
イエスさまが問われたのは、そこに救いが本当にあるかということです。「悔い改めて本当に正しい人になれるか」。彼らは自分は正しく生きようとした。しかし、そこに起こっていったのは、結局、正しくないものを裁くということでしかなかったのです。神様の審きに耐えうる正しさを持ち得ないのです。人間には罪が根っこから巣食っているからです。どうにもならないのです。それゆえ、そこでは、救われない。だから神の国が近づいたということは、嬉しい知らせにはなりようがありません。
しかし、ここでイエス様は、はっきり、この神が近づいたということが福音だと言われます。それは聞き違えではありません。それは、神さまが全く別の方法、人間が思いつくことなど到底できない。神ご自身のご計画の中で、事が起こる事があるからです。それがイエスさまがなさる事です。神様は、私たちの罪を、御子イエスに負わせられます。イエスさま、この方は、洗礼をお受けになられました。その時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から語られます。イエス様は、地上に来られた神そのものです。その方は、ご自身には罪がないにも関わらず罪人の一人として、十字架にかけられ、さらに人間として神性を剥ぎ取られるようにして、荒れ野でサタンから誘惑をお受けになられます。そして、その行き着くところは十字架の死です。
イエス様は、私たちすべてのものの罪を背負って、この地上の歩みを送られ、十字架にかけられ、そして復活されます。
それゆえに罪人である私たちが救われます。正しい人になれない私たちが救われます。罪の赦し、赦しです。それが神によってなされるのです。そして、それは神様のご計画でした。
だからイエス様は、言われるのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
マルコによる福音書1章には動きがあります。はじめの2節では旧約聖書が引用されます。この2節は、天上での神さまのイエスさまへの語りかけです。ここから始まる。そして、場面が天上から、地上に移ります。荒れ野にヨハネが現れます。声を上げます。さらにイエスさまがそこに来られ、洗礼をお受けになられる。そして、天から声がする。さらに、再び地上に場面が移ります。イエス様が荒れ野で誘惑を受けられます。そして、そこからイエス様が、ガリラヤにやって来られます。
そして、イエス様が語り出される。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音
を信じなさい」
もう何年も前の夏のことです。まちの花火大会が行われていた時、家族で花火を見ていました。すると突然、向こうから、雷雲がやってきて、激しい風、雷と、経験したこともないような強い雨が降り注ぎ始めました。向こうから雨の塊が近づいてくるようでした。その時のことをふと思い出します。
ここでも、天から、向こうから、やってくるのです。福音の雲が、キリストが…その救いが…。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福
音を信じなさい」
ある翻訳ではここはこう訳されています。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福
音の中で信じなさい」
確かに原文ではエン、英語ではインという言葉が用いられているのです。福音の中で信じなさいと読む事ができるのです。
人間が悔い改めて来るのではありません。また悔い改めて、正しい人になりなさい。善い行いをしなさいと言われているのでもありません。
ただ信じなさい。福音が来ている。その福音に包まれて信じなさいと言われているのです。
イエス・キリスト、ご自身が福音なのです。
福音の雲がやってきて、それが私を包むのです。
暖かく包む。傷を巻く包帯のように私の傷を覆い。神の前に、立たせてくださるのです。
私たちがどうしようもない罪人であるのに、それが、神様の方からやって来て、私たちを包みこむのです。その中で私を信じよ。神を信じよ、委ねよと語りかけられているのです。自分で自分を救うのは止めよ。生きる向きを変えよ、あなたの方向を転じよ。神が来られている。近づいて来られた。
この福音、嬉しい知らせが、この世界に、この地上にもたらされ、今ももたらされています。この福音が私たちの人生に差し出されています。
福音が、動いている。その福音は私たちをも覆いのです。
4月の始まりです。新しい出発をして、心をおロラされている方もあるでしょう。けれども、深い失望と嘆きの中に置かれている人もあるでしょう。今、世界は悪い知らせに満ちています。しかし、そんな私たちにキリストの福音、嬉しい知らせが今も、イエス様によって与えられています。