2020年09月06日「後で考え直して信じる」

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後で考え直して信じる

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章28節~32節

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聖書の言葉

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」 
 マタイによる福音書 21章28節~32節

メッセージ

たった今、お読みしましたのは、主イエスのお語りになったたとえ話です。主イエスは数多くのたとえ話をなさいましたけれども、今日の箇所のたとえもその一つです。ただマタイによる福音書だけに語られていますたとえ話です。

 まず最初に確認しておきたいことは、このたとえ話は、多くの群衆たちや主イエスの弟子たちに語り掛けられたのではなく、エルサレムの祭司長たちや、長老たちに対して語られたものだということです。祭司長や長老たちは主イエスがエルサレムにやってこられて、神殿で宮きよめや癒しの業をなさったり、また教えを語ったりされていることに腹を立て、「あなたは何の権威でこのようなことをしているのか」と問いただしました。それに対して、主イエスは、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、人からのものだったか」と逆に問い返されました。今日の箇所は、その続きです。

 このたとえの登場人物は、父親と二人の息子だけです。父親はぶどう園の経営者ですが、父はまず兄息子に、「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい」と呼びかけます。しかし、兄は「いやです」と答え、父の招きを拒絶します。けれども、彼は後で考え直して、結局はぶどう園に行って働きます。父は、兄に断られた後で、今度は、弟息子のところに行きまして、同じように呼びかけました。すると弟息子は、「お父さん、承知しました」と良い返事をしました。けれども、弟息子は、実際にはぶどう園には行くことはなかった。そして、主イエスはこの後すぐにこう言われました。「この二人のうちどちらが父親の望みどおりにしたか」と問われました。答えははっきりしています。彼らは、すぐに答えました。「兄息子の方です」。

 非常に単純な誰にでもよくわかるお話だと言えます。少し恥ずかしいことですけれども、わたしは先週、この説教の準備をはじめました時には、今回の聖書の箇所は説教しやすいと思っていました。けれども、実はそうではないということにだんだん気づ貸されていきました。

でもこのたとえ話の単純さ、わかりやすさこそがもしかしたら曲者なのです。わたしは今は、ここで語られていることを語り尽くすことができるかとさえ思っています。それほどの深みを持った御言葉なのです。

 このたとえ話は、先ほども申しましたけれども、この前の日曜日にわたしたちが学びました二三節以下の、主イエスと祭司長、長老たち、当時のユダヤ教の指導者たちとの問答の続きです。先週の日曜日に、私は、ここで特に大切なことは、主イエスの問いかけ、主がここで問うておられること、わたしたちに問うておられることだと申しました。信仰とはわたしたちの方から問いをだして、それに対して神様、また教会から答えが与えられて、自分がその答えに納得する、そういう仕方で与えられるものではない。むしろ、主イエスから問われている、その問いに自分がどう答えるのかということのなかでこそ、信仰は生まれてくると申しました。この主イエスの問いかけは、ここでもなお続いています。「ところであなたたちはどう思うか」、たとえの語り出しですでに問われています。そして、このたとえ話の最後でもこう問われます。「どちらが、父の父の望み通りにしたか」。

 主イエスはこのように問われます。「父の望み」とは、言うまでもなく「父なる神さまの望み」です。父なる神様の望み通りの生き方をしているのは、兄の方か、弟の方か、どっちなのか?そのように問われたのです。ある人はこの箇所から短い黙想を記していますが、その最後にこんなことを記しています。「あなたは、この二人のどちらでしょうか」。これもまた問いです。

 信仰生活は、神を信じる生活を送ることですが、別の言葉でいうと、神様の望みを行う生活です。どうでしょうか。わたしたちは、自分の望みには心を向けるかもしれません。ああしたい、こうしたいと様々な願いを持って生きております。しかし、父なる神様ご自身が、私に願っておられること、神ご自身の望みに心を向ける、これを本当に真剣に問うということをなかなかしようとしないのではないかと思います。主イエス・キリストは、そのようなわたしたちに、このことこそ重要ではないか、神の望みに従って生きるとはどういうことなのかと、本当に真剣に問うておられるのです。信仰は、神様を相手にするものであります。それならば、一番大切なことは神様ご自身の望みということでしょう。わたしが神さまに何を望むかではなく、神さまの方が、私に何を望まれるかということです。

 

 このように父なる神さまの望みということに心を向けて、このたとえ話に戻って聞いてみたいのですけれども、その時に、ああ、こういうことだと思われるかもしれません。

 主イエスは、この兄と弟の違いを、どのように語られているか。兄の方は、「いやです」と言って断った。けれども、後でぶどう園に行った。弟の方は、「はい」と良い返事をした。けれども、実際には行かなかった。違いは、行ったか、行かなかったかということにあるわけです。わたしが幼い頃、母や教師から言われたのは、口だけは立派なことを言うけれども、あなたは行いがなっていないと言うことでした。子供たちは母親から叱られます。「あなたは返事だけはいい。でもちっともその通りにしない」。それと同じように、神様も、口先だけの言葉よりも、実際に行うことが大切なことだと主イエスはここで教えておられるということになるのです。言葉よりも、生き方。生活。それを神様は望んでおられるなるほどと思わされます。

 しかしですね、このたとえ話だけを読めば、その通りだと言えるのですけれども、この後の主イエスの御言葉があるわけです。この主イエスの言葉から考えると、言葉よりも行いが大切というようにはどうも読むことはできません。

 

 イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。

 

 徴税人や娼婦とあります。徴税人や娼婦が言葉(知識)においては拙いけれども、実際の行為、生活においては神の御心を行なっていたと言えるのかというとそうではないでしょ。徴税人や娼婦は、正真正銘の罪びと。彼らは差別されていただけで、実際は良い人であったなどと言えません。まさに生活において行いにおいて罪を犯して生きていた人たちです。

 また行為、生活ということであれば、祭司長や律法学者たちは、自分たちは徴税人や娼婦たちとは違って、律法に従う真面目な生活をしていたのです。そう考えますと、言葉よりも行いが大切というように読めば、わからなくなります。

 ではどういうことなのでしょうか?。ここで大切なことは、主イエスはなぜ、徴税人や娼婦たちの方が、祭司長、長老たちよりも先に神の国に入ると言われたのかということです。それは彼らが、ヨハネの義の道を信じたことにあります。一方、祭司長、長老たちは、それを信じなかった。つまり、違いは、ヨハネの義の道を、信じたか、信じなかったかです。主イエスが父の望みと言われるのは、このことです。ヨハネの示した義の道とは、二五節では「ヨハネの洗礼」と言われています。主イエスがお働きをおはじめになる前に、洗礼者ヨハネは、荒れ野で、義の道を説きました。ヨハネは人々の罪を指摘して、神様のもとに立ち帰るように、悔い改めを求めました。つまり、ヨハネの示した義の道とは、自分が神様の前に罪びとであることを認めて、悔い改めて、神様の前に立ち帰ることです。徴税人や娼婦たちは、このヨハネが示した義の道を信じました。自分がどうしようもない罪人であることを認めて、悔い改めて、洗礼を受けた。そレに対して、祭司長や長老たちは、このヨハネの呼びかけを無視しました。なぜなら、彼らは自分自身がどうしようもない罪びとなどとは考えなかったのです。ここに違いがあります。この違いから、主イエスは徴税人や長老たちの方が先に神の国に入ると言われたのです。つまり、ここでは、言葉よりも行い、行いがなければダメだというようなことが、言われているのではない。そうではなく自分が罪びとであることを認めて、悔い改めて、神様のもとに立ち返り、赦しを乞うかどうかが問われています。

 このように見て、たとえ話に再び戻りますと、大事なことが、大事な言葉が、わかってきます。この主イエスのたとえ話の言葉の中に「後で考え直す」という言葉が出てきます。この言葉は今日の箇所の一番、最後にも出てきます。この後で考え直すということが、悔い改めということです。兄が、ぶどう園に行った、それは後で考え直したからです。あには最初、「いやです」と言って拒んだのです。しかし、あるところで自分の生き方を改めて、神様のもとに戻っていこうと思い直して、ぶどう園に行ったのです。神の望みとは、このこと。それはわたしたちが自分の罪を認めて、悔い改めて、神様のもとに立ち帰ること。どれほど多くの知識を持っても、どれだけ立派な生活をしても、もしこの悔い改め、後で考え直すということがなければ、無に等しい。後で考え直して、信じることこそ神がわたしたちに望んでおられることなのです。

 今日の説教の準備のために、わたしがこの聖書の箇所を最初に読みましたときに、ふと気づいたことがあります。それは、この話は、ルカによる福音書の放蕩息子のたとえとよく似ているということでした。弟と兄が出てきます。弟は父親から財産を分けてもらって遠い国に旅だち、放蕩に身を持ち崩してしまいますが父の家のことを思い起こして自分の罪を告白し、帰ることを決心して戻っていきます。その息子を父は喜んで迎え入れます。けれども、兄はそのことをどうしても喜べません。共に兄弟の話です。後で知りましたが、今日の聖書の箇所は、「マタイによる福音書の放蕩息子のたとえ」と呼ばれるそうです。ただ不思議なことに兄と弟が逆になっています。しかし、共に悔い改めがテーマです。弟は後で考え直して、父のところに戻っています。けれども、もう一つ大事なことがあります。それはルカの放蕩息子でも、兄も実は、放蕩息子なのです。兄も、良い子でいても、実は父の家にいることを喜びとはしていません。内面では家を出ているのです。そして父は兄もまた招いています。今日の箇所も実は同じなのです。兄は後で考え直して、ぶどう園に言っています。弟は、「はい」と言いましたが、行っていません。洗礼者ヨハネを信じて、悔い改めなかった。ぶどう園に行かなかった。けれども、主イエスはその祭司長や長老たちを前にしてなお、語っておられるのです。何をしておられるのか、何をなさりたいのか。それは、とてもはっきりしています。もう一度、「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と語られているのです。

彼らは確かに信じようとしません。しかし、主イエスは、彼らを見捨てない。だからなお語り続けておられる。神様から、主イエスからすれば人間はみんなどうしようもない罪びとなのです。悔い改める必要のない人間はどこにもいないのです。徴税人や娼婦のように放蕩に身を持ち崩しても、罪びと。神様の前に自分の知識を誇り、自分の行いを誇って生きていても、そのように自分を立派な人間として自分で自分を救おうとしていても罪びとなのです。ですから、後で考え直して、わたしのところに来なさいと言われるのです。

 このたとえでは、兄は「いやです」と最初は言いましたけれども、あとでぶどう園に行きました。普通には兄は徴税人や娼婦で、ぶどう園に行かなかった祭司長たちは弟の方であると考えられます。けれども、この弟は、実は、兄にもなるのです。もう一度、呼びかけられているのです。「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい」と。

 今朝になって思い出したことがあります。それはまだ牧師になりたての頃、まだ二〇歳代でしたけれども、教師会でこの箇所からの説教を聞いたことがあるのです。多くのことは忘れましたけれども、今でも覚えていることがあります。その時、説教者は小野静雄先生でした。内容ははっきり覚えていません。ただ、先生が、「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい」という御言葉を強調されたことは覚えています。「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい」。

 これは罪の赦し、救いへの招きの言葉です。 主イエスは、この罪びとであるわたしたちを救うために神様から遣わされて、この世にきてくださいました。その主イエスは今、エルサレムに来て、まもなく十字架で罪の贖いを成し遂げられます。ここに赦しがあります。主イエスの流された血は、ぶどう酒に喩えられてきました。ぶどう園というのもそういう意味が重ねられているのかもしれません。主のもとに赦しがある。だから、主イエスを通して、今日、今ここで戻るように、考え直すように呼びかけられています。

 そして、同時に、この言葉は、召命の言葉でもあります。このぶどう園には働きが、召しがあるのです。主の御用を、主の御心をなしていく働きです。神の国のための仕事があります。

 「子よ、今日、ぶどう園に行って、働きなさい」。

 今日、わたしたちも神の望みに生きるように呼びかけられています。