2024年04月14日「感謝します!」

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聖書の言葉

3わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、 4あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 5それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。 6あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 7わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。 8わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。 9わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
フィリピの信徒への手紙 1章3節~11節

メッセージ

日曜日の朝ごとにフィリピの信徒への手紙から御言葉に聞き始めています。この手紙の言葉の多くの言葉、だいたい全体の半分くらいの言葉が、教会の聖書日課で用いられていると言っている人がいます。それは、この手紙に記されている言葉の多くが信仰者に霊的な養いを与え続けてきたと言うことです。

 今日の聖書の箇所にはある思い出があります。私たち夫婦の結婚式の後に行われた教会での茶話会の時でした。ある長老さんが「この結婚式に際して、お二人にこの御言葉をお送りしたい」と言われて、読んでくださった聖書の箇所がありました それが、今日の箇所の6節の御言葉です。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。

 30数年の月日が過ぎ去りましたが、今でも覚えています。その時以来、この御言葉は、折あるごと思い起こされてきました。

 今朝、今度はわたしが、今日は皆さんに、この御言葉をお送りしたいのです。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。

 

 この言葉は、パウロという伝道者が、フィリピの教会に宛てて記しました手紙の一節の言葉です。フィリピの教会は、パウロの伝道の働きによって誕生した教会です。そのときのことは使徒言行録の16章11節以下に書かれています。初めにリディアという紫布の商人であった婦人とその家族が信じて洗礼を受けました。そして、さらに数名の人たちが、信じる者となったようです。パウロがフィリピにいたのは短い期間でしかなく、やがて、ほかの街に伝道に向かいますがこのフィリピの教会は親しい教会であり続けたのです。その初めの時から、どれくらいの年月が過ぎたのかはわかりません。しばらくの時が過ぎたことは想像できます。パウは、今、牢獄に捕らえられています。諸説ありますが、紀元54年から56年頃、エフェソで牢獄に囚われていて、そこで手紙を書いたと推測されています。

 最初に挨拶の言葉を記し、今日の箇所から本文に入ります。興味深いことですが、原文では「感謝します」という言葉で始まっています。ギリシャ語では最初の単語に一番、伝えたいことが込められていて読む人に真意が伝わるようになっています。ここでは感謝するという言葉が最初に出てきていますから、パウロが教会の人びとに伝えたいのは感謝であることがよくわかるのです。また感謝に続いて、「喜び」ということも語られています。「いつも喜びをもって祈っています」と言います。問題は、なぜ、パウロがこうして「感謝」から、「喜び」から語り始めているのかということです。

 感謝すべき状況があったのかというとそうではありません。パウロ個人のことを言うと、先ほども言いましたようにこの時パウロは獄中に囚われていました。明日の命も保証されないような暗い状況にありました。では、フィリピの教会はどうだったのでしょうか。フィリピの教会の人たちは、良き信徒たちであり、よい関係にあった、だからあなたたたちのことで感謝しますと言っているのでしょうか。ある人たちは、この手紙の最後の方にフィリピの教会はパウロに贈り物している、具体的には献金ですが、そういうことがあったからではないかと推測しています。しかし、パウロの感謝の理由はそういうことではありません。このフィリピの教会にも決して良きごとばかりがあったわけではありません。むしろ、パウロが獄中にいる間に、福音に反する教えを広める人たちが教会を脅かしていましたし、争いのようなものも起こっていました。問題だらけだったではないかとわたしは思います。

 「わたしは感謝します」。パウロが感謝から始めている理由は、パウロ自身の、また教会の状況のゆえではありません。ではなんでしょうか。皆さんはどう思われるでしょうか。何にもないように見えても、小さな出来事の中に理由を見つけて感謝し、喜んでいるのでしょうか。確かに、私たちは災いや不幸を見いだすことには早いのですが、恵みを見出すことが苦手です。小さな出来事を見過ごし、不平や不満でいっぱいになってしまいます。小さな出来事の中に恵みを見出し感謝することは大切なことです。しかし、どうもここではそうしたことではないのです。

 感謝の理由は小さなことではありません。むしろとても大きなことです。

 パウロ自身が、感謝の理由を明らかにしてくれています。5節、6節にはこうあります。

「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。

 繰り返して言います。こレは小さなことではありません。大きな大きなことです。

 フィリピの教会の人たちは、パウロを通して、イエス・キリストの福音を聞きました。イエスさまが私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死なれたこと、三日目に復活してくださったこと。そのようにして罪と死に勝利してくださった、そのことを聞いて信じたのです。それは全くの神さまの恵み、導きによるものでした。そして、主イエスを信じる、その信仰を彼らは持ち続けてきました。そのことです。パウロはそのことを感謝し、そのことの故に喜びを持って祈っています。

 私たちが見えなくなるのは、小さなこと、些細なことだけではありません。実は大きなものもまた見えなくなります。人間の目には限界があります。港で大きな船に近づくと、そのすべては見えません。それが鉄の塊のようにしか見えないのと似ています。でもここでパウロは、この大きな事柄に、神がしてくださった大いなることに、目を向けて、その全体を語ってくれています。あなたがたが本当に感謝すべきことがある。それは最初の日から今日まであなたがたが信仰に生き続けていることだ。わたしはこの大きなことを覚える。

教会がここにあるではないか、~建物のことや組織としての教会ではありません-信じる者の交わりのことです。それがこうして、ここにあり続けていること、今、ここで教会の交わりで礼拝をささげている、讃美し、御言葉に聞いている、それが、それこそが感謝すべきことではにか。それこそ神さまの奇跡、恵みなしにはありえないことだと言っているのです。

  確かにそうではないでしょうか。

 しかし、ここでパウロは、はじめの日から今日までのことだけではなく、さらに未来のことまでも語ります。ここには過去、現在、未来が語られています。まるで真っ白い紙に、一本の直線を引いてくれているようです。そのようにして、私たちがどこにいるのかを明かにしてくれています。いや、こう言うべきかもしれません。

 どこから来て、どこに行くのか、それを明かにしてくれます。その時、見えなかったことが見えてきます。困難な状況にあって、見えなかったことが見えるようになります。そして、そこに感謝が喜びが溢れてきます。生きていけるということがわかってきます。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。

 この手紙を書いたパウロという人、この人は伝道者でありました。また神学者でもありました。彼が生涯に渡って、強調したのは神の恵みということです。神の恵みが人を救います。イエスさまの福音は恵みとして与えられたものです。救われるとき、このフィリピの教会の人たちもそうであったように福音を聞いて信じるということが起こります。パウロはそれを人間の業として強調しません。人間が信じたと言えなくもないのですが、実は聞いて信じたのも神の恵みのみ業、神のよい業なのです。だから「あなたがたの中で善い業を始められた方…」と言うのです。そして、それを続けることができるのも神さまの故です。そして、この神さまは最後まで、完成まで恵みによって導いてくださるのです。神さまが始められた以上、神さまが最後まで責任を持ってくださる、成し遂げてくださるのです。

 その最後はキリスト・イエスの日であるとパウロは語っています。キリスト・イエスの日、それは終わりの日であり、キリストが再び来てくださるときです。

 聖書において、終わりの日というのは決して恐ろしい破滅の時ではありません。救いの完成の時です。そこにゴールがあるわけです。私たちの人生のゴールは死ではありません。キリスト・イエスの日の救いの完成です。神さまが、そのようにあなたがたに生きて働いてくださっている、だから感謝するというのです。

 余談かもしれませんが、ここで善い業というのは、ここで申し上げたように救いのことですが、もともとは天地創造のことを意味する言葉なのです。神の創造の業こそ善い業であります。この世界は、神がこの善い業をはじめられたところであり、またそれが完成されるという意味もここに重ねられているのかもしれません。この世界もまた多くの問題がありますが、神が善い業をはじめられてそれを完成されるという恵みの約束の中にあるのです。

 そしてパウロはさらにフィリピの教会の人たちへの思いをかたります。「私自身、共に恵みにあずかる者として、あなたがたのことをどのような中でも心に留めている」と言います。そして8節ではこう言います。「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」。多くの翻訳では「キリスト・イエスの愛の心」は、「キリスト・イエスの熱愛」と訳されています。強い愛の心がかたられています。イエスさまが熱い愛をもっておられる、その愛をもってあなたがたのことを思っているというのです。まさにラブレターの言葉です。ただパウロは、その自分の愛を、神の愛、キリストの愛として語るのです。このイエスさまが一緒にいて導いてくださって信仰に入り、今、こうして信仰を持ってここにいて、これからも最後までいてくださる、導いてくださる。そして、わたいはこう祈ると言って、祈りの言葉を記します。こんな祈りです。

「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」。

 事細かに解説する暇はもうありませんがわかっていただけると思います。パウロは、「本当に重要なことを見分けられるように」と祈っていますが、この本当に重要なこととは、ここでパウロが見ている大きなこと、神の救いの御業のことです。わたしたちにとってこれほどに重要なことはないのです。しかし、いつのまにかこの他のことが重要なことになってしまうのです。そして感謝を喪失する、喜びを失ってしまう。疲れ果ててしまうのであります。

 昨年、キリスト新聞に原稿を書いて依頼、キリスト新聞社から新聞を送っていただいています。よく読む記事は、「14歳からのボンヘッファー」という連載です。福島慎太郎という伝道師の方が書いてくださっています。ボンヘッファーというナチスに抵抗して捕らえられて死刑になった神学者の言葉を手がかりにしてのエッセーです。最新号は先週ですが、こんな題でした。「春は憂鬱な香り」。

 冒頭でこんな言葉が語られていました。

 春は憂鬱な季節だ。咲き誇る桜と新生活に胸躍らせるような広告ばかり目につくが、実際この季節ほど病んでいく人が多い。 新しい生活や環境、そこにまとわりつくのは「こんなはずじゃなかった……」という現実だ。

 このような言葉を語って、いくらかの聖書の話を紹介しておられますがそこは省きます。そして最後にボンヘッファーの言葉が紹介されます。

 

《毎朝わたしに目覚めを与えたもう》のは、主であって、その日を前にしてわたしが抱く不安でも、

あらかじめしようとしている仕事の重荷でもない。

 こんな短い解説の言葉がかたられています。

 

 憂鬱な春。起きるのにも精一杯な朝。その時、私たちは人生における不安や重荷に耐えようとしているのだ。それほどまでに責任感のあるあなたは素晴らしい。しかし、ただ一つのことを忘れないで。それは、あなたの目を開き「おはよう」と語りかける神は、そんな人生の現実をぶっ壊して、今日もあなたにしか描けない景色を共につくろうと期待しているということを。

 わたしたちは自分がやらなくちゃいけないと責任感に押しつぶされてしまうのです。でも本当に重要なことは他にある。それが神が生きて働いておられるということです。イエスさまが来られ、あなたの救いを実現なさり完成されることです。神がはじめ、神が完成させられます。そこに「わたしは感謝します」と言う言葉が、わたしたちのうちにも生まれてきます。春の憂鬱な香りの中でわたしたちも慰めを受けることができます。