2020年08月09日「救い主を讃えよう」

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聖書の言葉

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。マタイによる福音書 21章1節~11節

メッセージ

主の日ごとにマタイによる福音書を読み続けてまいりまして、今日から、第二一章になります。今日の箇所には、主イエスがその地上のご生涯の最後に、エルサレムに入られたことが語られています。エルサレム入城と呼ばれます。ここから、主イエスの地上の歩みの最後の一週間が始まります。このエルサレム入城が日曜日で、その週の金曜日に主イエスは十字架にかけられ、日曜日の朝、復活されました。マタイによる福音書はこの二一章から、二七章の終わりまで、だいたい三分の一弱も、短い一週間の出来事に費やしていることになります。

 主イエスがエルサレムに入城された。この意味は大きいのです。それはただユダヤの中心、首都にやって来られたというだけのことではありません。エルサレムは、神の都です。そこには神殿があり、主なる神がそこにいてくださると人びとは考えていました。また、ここから神の救いが始まる、と信じていました。この時、ユダヤはローマの支配のもとにありました。しかし、いつの日か、このローマの支配から解放してくださる救い主メシアが現れると信じて、その時を待ち望んでいました。この救い主メシアは、エルサレムの町を作ったダビデのような王です。ダビデの子と呼ばれる救い主が現れて、その方がエルサレムに入って来られる。その日には、ユダヤはローマの支配から解放されて、かつての繁栄を取り戻せる。人びとはそのように思っていました。ナザレのイエスの名は、すでにユダヤの人びとに知れ渡っていました。その主イエスが、大勢の群衆と共に、エルサレムにやって来られるのです。この方が来るべき救い主、ダビデの子ではないか。神の救いの約束がいよいよ実現する。ユダヤの人びとの期待は、この時、大きく膨らんでいたに違いありません。

 主イエスは、このような人びとの期待をどのように受け止めておられたでしょうか。人びとが、自分のことを「ダビデの子」「救い主」と期待していることを主イエスご自身はよく知っておられたに違いありません。同時に、主イエスは、人びとの思いとご自分がこれからなそうとしておられることの間には、大きな開き、違いがあることも見つめてもおられたでしょう。

 人びとが、待ち望んでいたダビデの子は、ダビデのような力強い王です。その王がエルサレムに入って来られれて、神さまの大いなるみ力があらわされて、ローマの支配から解放し、平和と繁栄を再び与えてくれる、人びとはそのようなことを期待していました。しかし、主イエスは、ご自分がそのような人びとの期待通りのことをするために神様から遣わされてきたのではないことを承知しておられました。すでに三度繰り返して、これからエルサレムに行き、そこで多くの苦しみを受け、十字架につけられて殺され、三日目に復活されることを告げておられました。主イエスにとってのエルサレムは、受難の場所であり、十字架の死の場所でした。そこにいよいよ入って来られたのです。群衆の期待と主イエスの思いには、このようにとても大きな違い、隔たり、ギャップがあったわけです。そして、そのことを一番よーく知っておられたのは、主イエスご自身でした。

 そういう中で主イエスは、エルサレムに入城されたわけです。そして、その隔たりがこのエルサレムの入城の時に目に見える仕方で現れることになりました。そのことが今日の箇所において語られています。

 主イエスは、エルサレムに近づかれ、ベトファゲの村に着かれますと、弟子たちを使いに出されて、「ろばと子ろば」を調達されます。そして、弟子たちはろばの上に、自分たちの服をかけて鞍にして、主イエスをそこに載せられました。また、大勢の群衆は、自分の服を道に敷いたり、木の枝を切ってきて道に敷きます。ちょうど外国の偉い人が空港に着いた時に赤い絨毯が飛行機場に敷かれます。それと同じようです。しかし、どうでしょうか。思い描いてみれば、なんとも不思議な情景ではないでしょうか。なんと言っても、すべては手作りでお金がかかっていません。すべては間に合わせの代用品でしかありません。派手さはどこにもありません。立派な革製の鞍も、美しいレッドカーペットもありません。

 また何よりも、この時、ご自身の乗り物として選ばれたのは「ろば」、しかも「ろばの子」でした。王の乗り物と言うと、普通は馬です。馬はいなかったのでしょうか。子ろばに大人が乗ると、かなり変や、完全に変で、滑稽ですらあります。でもそうなさいました。でもこれが主イエスの選ばれたことであり、なさり方でした。

 ドイツにオーバーアマガウと言う村があります。ドイツの南スイスの国境近くにあるアルプスの山々に囲まれた小さな村です。その村では、10年に一度、村の人びとが総出で、世界最大規模の受難劇が行われます。一七世紀、一六三三年、村の人たちは、ペストの退散を祈って、「もし祈りが聞き届けられ、ペストの蔓延がおさまったら、感謝のしるしとして、一〇年に一度、受難劇を上演する」と言う誓いを立てたのです。以来、今日に至るまで村は、十年に一度、受難劇を行い続けてきました。つい先日、この受難劇は、決していい加減なものではなく、周到な準備をして行われる本格的なものです。先日、その映像を観て驚きました。そして、その受難劇でも、このエルサレム入城の場面が再現されて、演じられていました。弟子たちの服がかけられ、道には木のえだがしかれ、本物の子ろばも登場し、主イエスはこの子ろばに乗られます。ほかのどこでもなく、わたしは、一番、このエルサレムの入城の場面に大きな衝撃を受けました。ああ、こんなことがなされたのだと改めて思わされました。

 今日の聖書の箇所には、主イエスの言葉はほとんどありません。弟子たちを使いに出されるところで語られるだけです。しかしですね、やはり主イエスは語っておられるのです。この行為によって、無言で、言葉を語っておられる。メッセージを語っておられるのではないか、そう思うのです。言葉、メッセージというものは、文字通り言葉で語られるだけではないのですね。行為によっても、表されることがあるのです。ここで、情景が描き出されて、そのことによって、主イエスが語っておられるのではないでしょうか。主イエスはここでも語っておられる、語りかけてくださっているのです。言葉がある、メッセーじがあるのです。では私たちがここで聞き取るべきことはなんでしょうか。

 まず第一に、主イエスは、ここで私たちに「わたしは王である」と言われます。人びとは主イエスを王としてエルサレムに迎え入れようとしました。それを主イエスは受け入れておられます。否定されていません。人びとは、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んで主イエスを迎えています。主イエスは、「そんなことを言うのは止めよ」とは言われていません。止めたることなくそれを受け入れておられます。「わたしは王ではない。」とは言われていないのです。そうではなくむしろ、主イエスはご自身がまことの王であることをここで示しておられるのです。マタイによる福音書は、一番、最初の言葉はこうです。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」。また、主イエスが誕生された時、東の国から来た占星術の学者たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねて、主イエスを探しています。そして、黄金、乳香、没薬を、贈り物として献げて、ひれ伏しています。マタイは、主イエスはまことの王であることを初めから語っているのです。主イエスをまことの王として、迎え入れることが、私たちに求められているのです。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」、これは、そのまま、私たちが信仰によって語ることができる主イエスへの賛美の言葉です。賛美しながら、主イエスを自分の王として迎え入れること、それは、私たちの信仰です。

 第二に、主イエスは、「わたしは柔和で謙遜な王である」と私たちに語っておられます。主イエスは入城に際して、ろばの子を選ばれました。馬ではありません。そのことは、旧約聖書の預言の成就だったと四節、五節で語られています。五節に引用されているのは、ゼカリヤ書九章九節のみ言葉です。「シオン」とはエルサレムのこと、そこに「お前の王がおいでになる」、そしてその王は、「柔和な方で、ろばに乗って来られる」。「柔和な」は元々の旧約聖書の言葉では、「高ぶることなく」となっています。謙遜なということです。神様が約束しておられる救い主は、このような王として来られるとゼカリヤ書は語っています。主イエスは、そのとおりの方、柔和で謙遜な王として来られたのです。柔和と謙遜、この二つの言葉がマタイによる福音書で結び付けられて語られている箇所がもう一つあります。一一章二九節の御言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのところに来なさい。休ませてあげよう」。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎをえられる」。柔和で謙遜な王とはどういうことでしょう。あるべき理想の王ということでしょうか。王というのは残忍で、偉そうな存在であることがありますが、この方はそうではない、理想的で立派なお方だということでしょうか。そうではありません。先ほどの一一章の二八節では、柔和で謙遜な方であるイエスさまは疲れた者、重荷を負っている者をご自分のもとに招かれています。私のもとに来なさいと、そうすれば安らぎを得られると言われます。それは主イエスが、私たちの疲れ、重荷をになってくださるからです。つまり、主イエスの柔和さというのは、単に優しいとか、穏やかとかそういうことにとどまるのではないのです。、私たちの重荷、私たちの疲れ、私たちそのものを代わりに担ってくださるのです。ロバは、柔和な動物です。そして、ロバは荷物を負うのです。それと同じです。そういう力を秘めた柔和さなのです。謙遜も美徳としての謙遜ではありません。主イエスが謙遜であるということは、ご自分を低く草れるということです。。主イエスは神さまの独り子、まことの神であられました。しかし、その方がその栄光を捨てて、この地上にひとりの人間としてお生まれになられました。しかも、主イエスがお生まれになったのは、王宮ではなく、ベツレヘムの馬小屋でした。貧しい様でいおいでになられました。そして、この真の神である方は、十字架の死への道を歩まれました。あざけられ、鞭で打たれ、不当な裁判にかけられ、ゴルゴタの十字架に向かわれたのです。そして釘で打たれ、十字架で死なれました。それは、私たちの罪をすべて変わりにご自分が背負ってくださるためでした。私たちが神さまと隣人に対して、犯したすべての罪を主イエスは十字架で背負って、神でくださったのです。これが主イエスの謙遜です。主イエスの謙遜とはいばらない、偉そうではないとか、そういう次元の話ではないのです。どうしようもない罪びとである私たちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださる、そのことが謙遜なのです。つまり、柔和と謙遜は、十字架と結びついているのです。十字架の死のことが、ここで示されているのです。ですから、わたしは柔和で謙遜な王であると言われている方は、「私があなたの罪の重荷を負う王であるから、私を受け入れ、あなた方は安らぎを得よ」と私たちに語っておられるのです。

 そして、最後にここで主イエスは、「ここで、わたしはあなた方の期待を遥かに超える王である」と語っておられます。この時に、エルサレムの入城に際して登場し、喜び歓呼し、主イエスを王として」迎え入れている大勢の群衆たちに着いて忘れてはならないことがあります。それは、この人たちはこの時は、喜び、ほめたたえています。しかし、彼は数日の後には、「十字架につけろ」と叫ぶようになるのです。なぜでしょうか。ここからわかることがあります。それは期待通りではなかったからです。期待が失望に変わり、怒りに変わったのです。この群衆たちの姿は、私たちの姿でもあります。私たちも、自分勝手な期待を持ちやすいものです。イエスさまは、こういう救いをわたしにお与えくださるに違いない、そんな思いを持って生きることがあります。けれども、その私たちの期待はそのまま実現することはありません。打ち砕かれることになります。そして、そのことに失望し、怒りさえするのです。

 期待はずれ、期待が裏切られるということは、このエルサレムの入城の時に、すでに起こり始めていたのかもしれません。「えー。これが王さまかー。嘘だろう。変だ」と、多くの人たちが思ったのではないでしょうか。思い描いていたのとは違う、期待通りではないという思いを人びとは強く抱いたのではないでしょうか。でもそれが主イエスの狙いでした。私はあなた方の期待通りの王ではない。あなたたちの思いと私の思い、あなた方の思いと神さまの思いは違うということを語られたのです。

 でもですね、私たち人間の期待通りの救いというのは救いにはなりません。

「宗教はアヘンだ」と言った人がいるのをご存知ですかでしょうか。アヘンというのは麻薬です。宗教というのは、人間が心の底で願っていることを実現したものだというのです。これがあったらなあと楽になる、願っている、そういう人間の願望をが写しだされているのが宗教だというのです。幻のようなもの、良い意味での誤魔化しのようなものだ、つまり真実ではないということですね。一度聞いてから忘れられません。でもですね、聖書は、今日の箇所は、そういう見方に対して、とても大切なことを語っているのではないでしょうか。むしろ、聖書は、人間の願望が主イエスによって、神様によって挑戦されて、うち砕かれたことを語っているのです。そこに救いということが起こったと語っているのです。人間の願望、願い、人間が願った救い、そういうものが砕かれた先に救いが与えられたというのです。私たち人間が思っている、願っている以上の救いがキリストの救いであるということです。私たちの思いや願いを遥かに超えて救いがあるわけです。キリストが私たちの王であり、救い主であるというのは、そういうことだと。それが主イエス・キリストの救いです。

 ここで主イエスは、「ダビデの子にホサナ、主の名によって来るべき方に祝福があるように」という賛美を受け入れておられます。みんな自分勝手な思いで主を賛美しています。この賛美は、十字架に付けろという合唱に変わってしまうわけです。主イエスはそのことをご存知だったでしょう。しかし、その賛美を主は拒否されていないのです。ロバに乗って受け入れてくださっているのですね。私たちの賛美もそういうものでしょう。全部わかっているわけではない。貧しい。無知である。罪深い。でもこんな私たち貧しい者の賛美も、また今ここでも王であるイエス、十字架の主は受け入れてくださるのです。

ここに望みがあります。