2020年07月19日「あなたもぶどう園で働きませんか」

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あなたもぶどう園で働きませんか

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 20章1節~16節

音声ファイル

聖書の言葉

 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」マタイによる福音書 20章1節~16節

メッセージ

今日、共にお読みしましたのは、「ぶどう園の労働者のたとえ」と呼ばれる主イエスのお語りになられましたたとえ話です。

 一人の主人が、自分のぶどう園で働く、労働者を雇い入れようとします。主人は、日雇い労働者を1日、1デナリオンという金額を支払う契約をして雇います。一デナリオンは、当時の労働者の日給の相場でした。これだけあれば家族がその日、食べられる、それが1デナリオンでした。

 この主人は、夜が明けると、出かけて行って労働者を雇っていきます。人を雇いたい人も、雇われたい人も町の広場に集まるのです。そこで交渉が成立するとぶどう園に行って働くことになるのです。そして、雇われた人は、ぶどう園に行って日没まで働いて1デナリオンを手にすることができるのです。今でも大阪の釜ヶ崎では、朝早く、駅前に労働者が集まっていまして、そこに建設会社の人が小型のバスで次々にやって来まして、そこで人々を雇い入れて工事現場に連れていくのです。こういう光景は、いつの時代もどこの国でもあるのですね。

 普通は、この夜明けの時で終わりなのです。その日の分はそれでおしまい。残された人々はその日、仕事にあぶれてしまうことになります。でもこの主人は、違います。九時頃にもまた広場に出かけて行って、人を雇います。何もしないで広場に立っている人びとに、「あなたたちもぶどう園に行って、働きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」そう呼びかけて人びとを雇い入れます。同じことを、昼の一二頃にも、午後三時にもします。そして、その日の夕方、午後五時になっても、この主人は広場に行く。すると、そこにはまだ、何もしないで立っている人びとがいました。主人は、この人たちにも呼びかけます。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねます。すると、「誰も雇ってくれる人がいないのです」と言いました。すると、この主人は「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と呼びかけ、彼らを雇い入れます。

 そして、ここで日没になったぶどう園に場面は変わります。主人は雇い入れた労働者に、監督を通して賃金を支払います。主人はまず最初に、最後にに雇い入れた人たちから、順番に賃金を支払うように監督に指示します。最初に、午後五時に雇われた人たちが呼ばれて、彼らは一デナリオン受け取ります。その様子を見て、前に雇われた人たちは、自分たちはもっとたくさんもらえるだろうと期待したことでしょう。ところが彼らの番になった時に、やっぱり一デナリオン。すると彼らは不平を言い出しました。

 「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。すると主人はこう答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それともわたしの気前のよさをねたむのか」。

 これがこのたとえ話のあら筋です。このお話しは筋としてはやさしいお話です。難しくはありません。しかし、主イエスがここでわたしたちに何を語ろうとなさっておられるのでしょうか。主イエスが伝えられないことはなんでしょうか。そのことは、誰にとってもすぐにわかるというものではないようです。今日は、主イエスがわたしたちに語ろうとされていることは何かということに心を向けてご一緒にここから御言葉に聞きたいのです。

 そこで、まず最初に注目しておきたい御言葉があります。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」という御言葉です。四節と七節で同じ呼びかけがなされています。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」。主人が雇う人びとに呼びかける言葉です。これはぶどう園に行って働きなさいという言葉です。この御言葉は、今日、わたしたちにも呼びかけられているみ言葉なのです。

 このたとえ話は、主イエスがお語りになったたとえ話です。主イエスらしい、主イエスしか語ることができないようなお話だなあと思います。とても生活臭のある話です。労働者の生活。しかも日銭で生きる労働者の生活を主イエスはご存知だったのです。のんびりした世界ではありません。生きるか、死ぬか。生きる以上、食べていかなければなりません。家族を養わなくてはいけません。雇われたなら、その日、食べる分は稼いで食べて生きることができます。しかし、雇われなければ、食べることができなくなってしまうのです。主イエスのこのたとえ話を聞いた人たちは、こういう話がよくわかったでしょう。けれども、驚きもしたに違いありません。彼らが生きている世界にはほとんどあり得ない話だからです。夜明けに広場で雇われなければ、どうしようもないのです。その日は仕事にあぶれてしまうのです。生活が危うくなります。ところがこのたとえ話では、九時でも一二時、午後三時でも雇ってもらえる。さらには夕方の五時でも雇われる。しかも、みんな同じ一デナリオンという報酬がいただける。こんなことはこの世ではあり得ません。今でもそうですね。報酬は、働いた時間、あるいは働いた量によって与えられる、それが常識です。

 そうです。これはこの世の生活の話ではありません。ですから、主イエスは最初にこう言われています。「天の国は次のようにたとえられる」。これは天の国の話、天国の話なのです。しかし、天国と言っても、死んでから行く天国という意味ではありません。主イエス・キリストにおいて与えられた神様の救いのことです。聖書が語っていること、主イエスが語られるのは、いつも神様の救いの話です。ここでも神様の救いが一体、どういうものなのかが、ここで主イエスの口を通して語られているのです。神様の救い、それは、わたしたちの思いを超えています。

 旧約聖書イザヤ書五五章八、九節にはこんな主なる神さまの言葉が語られています。

 

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

 わたしの道はあなたたちの道と異なると

   主は言われる。

 天が地を高く超えているように

 わたしの道は、あなたたちの道を

 わたしの思いは

   あなたたちの思いを、高く超えている。

今日の聖書の箇所を読んでいまして、何度も思い起こされてきた神さまの言葉です。そうだなあと思うのです。天にいます神さまの御心、救いですから、わたしたちの思いとは異なるのです。この神さまのわたしたちへのなさり方が、この天の国のたとえ話で語られています。

 今日の話は、救いの話だと言いましたが、今日の聖書の箇所の前でも救いの話がすっとなされていました。

 一九章の一六節には一人の金持ちの青年が主イエスのところにやってきて問いかけました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをしたらよいのでしょうか」。この青年は、永遠の命、つまり救いを求めて、主イエスのところにやってきました。ところがこの青年は、主イエスの言葉を聞いて、悲しみながら立ち去ってしまいました。主イエスは、それを受けて、「金持ちが神の国に入るのは難しい。それはラクダが針の穴を通るようなものだ」と言われました。主イエスは、この青年を通して、神様の救いは、人間が自分の善い行いを積み重ねることによって、人間の正しさによって、得ることができるようなものではない。それはただ神様の憐みによって与えられる、恵みに満ちた全能の力によって与えられるものだと教えられたのです。神さまの救いは、わたしたちの働き、行いに対する報酬としてではなく、わたしたちは全くふさわしくないのに、ただ恵みと憐みの御心によって与えられる、そのことを明らかになさったのです。

 その一連の話に続いて語られていますのが、今日のこのたとえ話なのです。実は、ここまでの主イエスの教えが、たとえ話となっていると考えてよいのです。そう考えると、ここで主イエスが語られていることがわかってくるのではないでしょうか。ここでの労働者の賃金は、一デナリオンでした。この一デナリオンが神様の救いです。永遠の命です。それは、人間の働き、善い行いに対する報酬、見返りとして与えられるものではないのです。それはただ神様の恵と憐みのみ心によって、ただただ与えられるものです。そのことがこのたとえ話でも描き出されています。この主人、つまり、神様は夜明けだけではなく、九時、一二時、午後三時、そして、五時になっても、なお人びとを雇い入れています。それはなんとかみんなを生かしてやりたいからです。聖書で繰り返して、主イエスが語られているのは、神さまがわたしたちの父であるということです。そのことから考えたらわかってくるのではないでしょうか。神は親なんです。親である神様は、子供をなんとか生かしたいわけです。どの子にも生きてもらいたい。それと同じです。神様はなんとか救いたい。働きがなくても、清さや正しさがなくても、救いを、永遠の命を与えてやりたい。生かしたお。そういう親心、憐みの御心を持っておられる。ですから、この主人、つまり神様は何度も何度も、町の広場に行って、人びとに呼びかけているのです。一四、一五節ではこう言われます。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。神さまの親心が確かにこの言葉に伺えるのではないでしょうか。午後五時に雇われた人は、ほとんど何も働いていない。しかし、この人にも、生きるために必要な一デナリオンを支払ってやりたい。

 この御言葉は、これまで様々に解釈されてきました。ある人たちは、ここ神さまの救いの歴史を見てきました。例えば、夜明けに雇われた人たちは、アブラハムやイサク、ヤコブのような人たち、この人たちは神さまとの契約の恵みの中に入れられて救われました。そこから、救いが始まって、今に至るまで、神さまの呼びかけがずっと、この世界になされていたことをここに読み取ります。またある人たちは、ここにユダヤ人と異邦人の関係のことを見る人もいます。「どうして異邦人も救われるのか」と不平を言っているところが重なると言います。でも神さまはユダヤ人にも異邦人にも、救いをお与えになる。なるほどと思わされます。またある人たちは、教会に集う人たちの姿がここに描き出されているとも言います。教会には様々な人たちが集っているわけです。正しい人もいればそうではない人もいる。早くに救われた人もいれば遅くに救われた人もいる。よく奉仕をする人もいればそうではない人もいる。できる人もいればできない人もいる。そういう教会に集っている様々な人たちに神さまは、同じような親心を持っておられる。また、わたしたちの人生をここに読み取ることができるようにも思います。夜明けから、青年になり、壮年になり、老いるまで神さまは何度も繰り返して呼びかけ、救いへの招きを続けてくださっている。そのように読むこともできるかもしれません。どれが正しくて、どれが間違っているということではないと思います。いずれにしても大切なことは、神さまはいつの時代も、どんな場所でも、どんな人も、どんな状況の中にいる時も、わたしたちの父であるということです。「わたしはあなたを生かしたい」「わたしはあなたを救いたい」そう思っておられる、それが神さまという方なのです。

 その神さまの救いの御心がイエス・キリストというお方において表されたわけです。そしてこの神さまの救いのために、主イエスは来られて、十字架にかかって死なれ、復活なさったのです。しかし、この神さまの救い、イエス・キリストの救いというのはですね。わたしたち人間の思いを遥かに超えているわけです。人間はこれを聞くと喜ぶかという必ずしもそうではないのでしょ。どんな人でも、何をしてても救われるなんて不合理だ。このたとえ話では、最初に雇われた人が不平を言っています。こんなのおかしいと。納得できないというわけです。これがつまずきということです。福音に躓くということがあるわけです。わたしたちも実はそういうことがあるのです。神さまの恵みに躓いてしまう。不平を言う側であることがあります。自分の判断、思いの中で神さまの救いのことを図ろうとするのではないでしょうか。あんな人が救われるなんてと教会の中で人を測ったり、自分のようなものは神さまから救われるはずがないなどと思い込んで、救いの喜びを失ってしまう。そう言うことも神さまのなさりかたに対する不平であり、十字架の救いへのつまずきなのです。しかし、神さまの救いはいつもそんな私たちの思いを超えている。神さまは、ここで主イエスが言われているように、驚くほどに私たちに対して「気前のよい方」なのです。

 

 そして、ここで私たちが注目したいのは、最初に申したように、この神さまの憐みの心から発せられる、呼びかけの言葉そのものです。「あなたもぶどう園に行きなさい」。こう呼びかけられているのですね。最初に申しましたように、これが神さまのリクルートの言葉なのですが、「ぶどう園に行って働きなさい」と言う言葉なのですね。

 聖書にはぶどう、あるいはぶどう園と言うのは繰り返し出てきます。主イエスは「わたしはぶどうの木」と言われました。私たちの教会にも、ぶどう棚があり、今年もたくさんの実をつけています。ぶどうの木ハウスまでもありますし、私たちもぶどうを大事にしています。ところで、ぶどう園というのは、なんでしょうか。私は天の国、神の国のことだと思います。ここまで見てきましたが、ここで一デナリオンの救いがもらえるわけです。しかし、この救いというのはですね、ただそれが与えられるというだけではないのです。それは確かに全くの恵みとして与えられます。しかし、そのことを踏まえて、大切だと思うのは、「あなたもぶどう園で働きませんか」、そう呼びかけられて、ぶどう園で働くことが許されること自身が救いだということです。

 午後五時に「ぶどう園に行きませんか」と呼びかけられた人たちはその前に六節で「なぜ、何もしないで立っているのか」と呼びかけられていますね。わたしはこの御言葉がとてもたいせつな呼びかけのように思います。何もしないでただ広場に立っている、これは辛いことだったに違いないでしょう。こういうことが、あるのではないですか。自分には生きる意味がない。なぜ生きているのかわからない。そういう人たちが今、多いのです。

 先日、ある人からわたしは同じ言葉を聞きました。お母さんが自分の子供から、「自分がなぜ生きるのかわからない」と言われた、そう言われました。この御言葉の話なのです。人生の時の中で、「何もしないでただ立っている」そういう人はいませんか。自分には、生きる意味、目的がわからない。でも何かを求めて実は立っているのです。人は何かを求めて生きている。求めずにはおれない。でもそんな人の主イエスというかたは、そんな人のところに来て

来て、「あなたもぶどう園に行って働きなさい」。あなたは、わたしのために働きなさい。神の国のために働きなさい。なぜあなたは何もしないで立っているのか。実は、私たちすべてのものが今日、呼びかけられているのですね。

否、教会に集っている私たちもこの招きのみ声を何度も繰り返して、聞く必要があるのです。

 「問 人の生きる主な目的はなんですか。

  答 神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことです」

 

 ウエストミンスター小教理問答の問一の問いと答えです。救いというのは最後に与えられる1デナリオンだけではないのですね。神さまによって生きる目的が与えられ、生きる意味が示されて神の御用を果たして生きることそのものに救いがあるのです。

 ですから今日、私たちはもう一度、この主なる神さまの呼びかけを聞き取りたいのです。

 「なぜ、何もしないで立っているのか」

 「あなたも神のぶどう園で働きなさい」。

 この神さまの招きの言葉を聞いて、ぶどう園に行きましょう。そして働きましょう。生きる意味を喪失している人たちに、神の福音を証ししましょう。

お祈りします。

 父なる神さま

 主イエスを通して、語られている驚くべき、あなたの救いの御心に感謝します。あなたのこの救いに預かって生きることのほかに幸いはありません。どうか、今、もう一度、あなたもぶどう園に行って働きなさいと呼びかけられているみ声を聞いて、与えられた人生を生きるものとしてください。

 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。