2020年07月12日「誰が救われますか」

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聖書の言葉

イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」マタイによる福音書 19章23節~30節

メッセージ

「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。一人の金持ちの青年が主イエスにこのように問いかけました。 この青年は生まれた時から、神さまの掟を守って生きていましたが、自分にはまだ何か足りない、そう思いまして、主イエスのもとにやってきたのです。この人に主イエスは、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」とお答えになりました。それを聞くと、この青年は、悲しみながら立ち去りました。彼はたくさんの財産を持っていて、それを全て捨て去ることなど到底できなかったのです。

 主イエスが、この青年に「全財産を売り払いなさい」と言われたのは、「あなたにはまだ全財産を売り払うという善い行いが欠けている、だからそれを行って完全になりさい。そうすれば永遠の命を得ることができます」ということではありませんでした。

 この人に欠けていたのは、あと一つの善いことだけということではありません。究極の「善いこと」を主イエスは教えられたのではありません。ただ「ひとりの善い方」、つまり生ける神さまの前にこの人を立たせようとされたのです。主イエスは、この人が自分の善い行い、自分の正しさ、清さを拠り所として生きるのではなく、神さまの恵みと慈しみによって生きる者となるように招かれたのです。「持ち物を全て売り払いなさい」とは、それを実行して、完全になって、永遠の命を得るようにということではありません。むしろ、そんなことは決してできない、不可能であるということに気づかせて、自分の善い行いによって完全な者になるというこれまでの道を断念させるためでした。つまり、主イエスはここで彼自身がここまで辿ってきました救いの道を絶たれて、全く新しい救い道を示し招こうとされたのです。自分により頼んで自分で救いを獲得して生きる道から、神の恵みと慈しみによって救われる道です。この青年は招かれました。しかし、この青年は、ここでは悲しみながら立ち去ってしまいました。彼が手放すことができなかった財産とは、お金だけのことではなかったのです。彼自身の善い行い、正しさでもありました。

 ではこの人はどうなったのでしょうか。再び、もときた道を戻り、何事もなかったかのように、また善い行いをして生き続けた、そう想像することもできます。ただその道には、喜びはなかった。それは悲しみの道でしかなかったでしょう。どんなに善いことをしてもそこには何か欠けているという思いは消えなかったでしょう。

 けれども、もう一つのことを想像することもできます。彼が悲しみつつ立ち去った後、とりわけ主イエスが十字架に掛かって死なれたことを聞いた後、もう一度、主の招きを聞き取って戻ってきたかもしれません。自分で自分を救うことを止めて、主イエスに救われて生きた、喜びの中を生きていった。

 ただこの先、この青年がどうなったかについては聖書は何も語っていませんから、私たちはこの点においては何も確かなことは言えません。しかし、本当に大切なことは、私たち自身がどう生きるかということです。その意味では続きは私たち自身が書かなければなりません。つまり、このことを通して、私たち自身が問われているのです。そのことは、今日の箇所で主イエスが語られていることでもあります。

 この青年が立ち去った後、主イエスは弟子たちに語りかけられます。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ優しい」。 この主イエスのお言葉は、弟子たちへの、また私たちへの問いかけです。主イエスはこの言葉であなたは自分のこととして、このことをどう受け止めるかと問われるのです。この言葉を聞くと弟子たちは、こう言いました。「それでは、誰が救われるのでしょうか」。

 この時、弟子たちは、こう答えることもできたかもしれません。「いや、本当にそうですね。金持ちが救われるということは本当に難しいですね」。弟子たちは、金持ちではありませんでした。何もかも捨てて主に従って生きていました。貧しい人たちでした。ですから、このことを他人事のように受け止めることもできたかもしれません。しかし、そうではなかった。「そうであれば、一体、誰が救われるのか」。弟子たちは、主イエスの御言葉を正しく聞き取ることができていたことを示しています。自分自身のこととして、この金持ちの青年のことも見つめていました。主イエスが「金持ち」ということで、何を言っておられるのか、それは単に財産、お金のことだけではなく、自分自身の善い行い、律法を行って生きる正しさという豊かさのことでもあるということがわかっていました。その自分自身の豊かさによっては救われない、そのことを聞き取ったのです。ですから、この主の言葉に「非常に驚いた」のです。そして、「そうであれば一体、誰が救われるのでしょうか」と言ったのです。

 ユダヤ人の間では人が救われるのは、自分の豊かさによってだということがあったわけです。弟子たちも、そのような常識を幼い頃から身につけて育ったのです。神の掟を学び、その掟を守って生きることによって、自分自身を豊かにし、それによって救われる。そういう考えが骨の髄まで染み込んでいました。ですから、主イエスの言葉は大変な衝撃だったのです。そして、実は、そのことは私たちも同じなんですね。私たちも、自分を豊かにしようとしてあくせくしながら日々を生きています。自分を豊かにする、自分を救おうということは、様々な形態をとります。それは善い行いということであったり、知識であったり、学歴や社会的な地位であったり、周りからの評判出会ったり、文字通り財産を手にしてお金持ちになったりすることでもあるわけです。子供や孫にもそういうものを与えようとします。それはもちろん、死後、来世の救いを求めてというわけではありません。今、この時、そういうものを手に入れて自分で自分を救おうとして生きているのが今日の私たちです。そういうことが骨の髄まで染み込んでいるわけです。しかし、主イエスは、それでは救われないと言われたのです。

 ひとりの金持ちの青年は、おかしな言い方かもしれませんがあるモデルでした。仮にですね。皆さんそれぞれに人間として完璧な人、理想的な人を思い描いてください。みんなそれぞれにあると思うのですね。姿も美しく、頭もいい、性格もいい、立派な生活をしている、学歴も地位もある、誰もがこういう人こそ天国に入るみたいな理想の人間。金持ちの青年はそのような理想の人です。けれども、主イエスは、この人が救われるとは言われなかったのですね。その反対です。ですから、弟子たちは、こういう人が救われないなら、一体誰が救われるのかと驚き戸惑って言ったわけです。自分たちのようなものは到底、無理だと思い、驚き、戸惑い、「それなら一体誰が救われるのか」と言わずにおれなかったのです。

 主イエスはこの弟子たちに向かって言われました。大切なことは、ここで主イエスが、弟子たちを「見つめて言われた」とあることです。これはじっと見つめてという意味の言葉です。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。弟子たちにとっては全く予想外の言葉であったでしょう。主イエスは、ここで神について、神の業について語られます。人間にできることではないが、神にはできる。救いは人間の業ではなく、神の業である。私たち人間は、どんなことをしても、自分で自分の救いを獲得をすることはできない。私たちがどんなに努力して、善い行いを積み上げても、それで救いを得ることにはならないのです。金持ちの青年が、「まだ何か欠けているでしょうか」といみじくも申しましたように、自分の業に頼む限りは、何か欠けているというものを覚えずにはおれない。わかりやすくいうと平安がない、安心がない、幸福感がない、喜びがないわけです。実際、そうでしょう。救いはただ神から与えられる。救いは外から、神さまから与えられるのです。人間はこの救いに対しては何もできません。しかし、神はおできになる。神さまだけが救うことができる。

 「救う」という言葉は、この手で表現するとこういうことですね(ジェスチャ)その時にですね。いいことをしている人間を神さまがそのご褒美で救ってくださるというのではないのですね。そうではなくて、何もできないで倒れている人間、罪の中に生きている人間を神さまは救ってくださるのです。言い換えますと、救いようのないどうしようもない人間を救ってくださるのです。それが主イエスが語られていることです。主イエスが、ここで見つめられた弟子たち、まなざしの先にあった弟子たちというのはボロボロだったのではないと思います。しかし、この時、主は実に暖かい眼差しを向けられていたのではないでしょうか。「神には何でもできる」。ああ、私にも望みがある、ああこのわたしも救われる。この主の眼差しを思うと喜びが湧いてきます。

 ところでですね。 「神には何でもできる」という言葉、これは神の全能の力を示す言葉です。この言葉がここで主イエスによって使われているわけです。神にはなんでもできるというと、私たちはいろいろな不思議な奇跡、私たち人間の能力を超えた奇跡のようなことをどうしても思ってしまうところがあります。しかし、神さまの全能、なんでもできるというこの神の力は、何よりも、ここで、救いということであらわされると主イエスは言われるのです。どうしようもない、救いようのない、この私が救われる、そういうところに神の細大の力は発揮される。そして、この神の救いは、主イエス・キリスト、この方において、その十字架の死においてあらわされました。主イエスは、私たちの罪を担って、十字架にかかって死んでくださいました。この十字架にこそ、「人間にはできないが、神にはなんでもできる」ということがあらわされています。この十字架の死によって、私たち全くの罪人、救いようのないものが救われるのです。ここに私たちの救いがある、望みがある、喜びがある、幸せがあるわけです。私たちは、幸せになりたい、喜んで毎日を生きたい、そう思っています。それならば、神によって救われて生きることなのです。新しく生きる道がここにあります。主イエスは今日も、私たちを見つめて、「人間にはできないが、神には何でもできる」と言われます。

 

 この主イエスのお言葉を聞いたペトロはこう言っています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では私たちは、何をいただけるのでしょうか」。いつもそうですが、ペトロは調子に乗っておろかしいことを口走ってしまいます。主イエスは、救いは人間の力で得ることができるものではないと言われたのです。何か善いことをしてその見返りとして与えられるものでもないと言われたのです。にもかかわらず、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従いました」と、自分のしたこと、人間の業を主張しています。そして、それへの見返りを求めています。これはここまで主イエスがお語りになられたことと矛盾する、愚かな言葉です。主の言葉が本当の意味で理解できない。救いがわからないわけです。これが主の弟子たち、私たちなのですね。本当に愚かしい、救いようがない。でも主イエスはこういう弟子たちとともに、最後まで歩んでくださる、こういう私たちを救ってくださるということではないかとい思います。

 そして、さらに驚かされるのは、それに対する主イエスのお答えです。

「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 主イエスは、ペトロの無理解をここではお叱りにはなられません。「何で馬鹿なことを言ってるんだ!」とは言われません。そうではなく、確かに従ってきたことによる報いはあると言われたのです。主イエスを信じる信仰の故に、大切なものを捨てて生きるときには百倍の報いがある。それは、私たちにも語られていることです。

 救いは私たちの善い行いに対しての報いとして与えられるものではありません。ただ、神様の憐み、恵みによってのみ私たちは救われる。人間の業によるのではなく神の業による。これが救いの根幹です。これは崩されません。しかし、ここでそのことを踏まえた上で、主イエスは一つのことを加えられます。それは救いは善い行いの報いではない、しかし、信仰の行いには報いというものがある、報酬があるのだということです。その場合の信仰の行いとは何か、その鍵となる言葉が「捨てる」ということです。自分が得るのではない、捨てる。確かに弟子たちは、自分の仕事や家族を捨てて主イエスに従いました。また二九節で主イエスは、「誰でも、自分の家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てる者は」と言われます。これらは、自分にとって大切なものです。それを信仰の故に捨てることに対しては百倍の報いが与えられるとお語りになられます。主イエスにとって、信仰の業は、得ることではなく、捨てるがキーワードなのです。そのことは忘れないで覚えたいのです。金持ちの青年にも、財産を捨てることを求められたのです。青年は、得ることを求めたのです。しかし、主イエスは捨てることを語られたのです。私たちは、捨てることなく神さまを信じることはできません。神さまを信じることは、何かも自分の手で握り締めている、その手を離して生きることです。ここでの捨てることは、手を開き、手を離すことです。委ねることです。自分の手の握り拳を解いて、手を開き、神さまの手に委ねる。主イエスはそのことを求められるのです。主イエスは、私たちが全財産を教会に献金して自分は無一物になりなさいとカルト宗教のようなことは言われません。私たちが大事にしているものを、自分の手でしっかり握り締めているものを離してご覧、気がかりなこと、心配なことを私に委ねてご覧と言われるのです。そこには報いがある。あなたの生き方を方向を変えてご覧。信仰のあり方の方向を変えてご覧。信仰は握りしめることではない、力を抜くことだ。

思い出すことがあります。牧師になったばかりのことでした。説教や牧会ののことでひどく悩んでいました。そして声が出なくなるほどになりました。s  そのことがきっかけになって、ある先生の勧めがあって、声楽家の方の指導を受けたことがあります。今でも、私の発声は酷いものですが。何をしたのかと言いますと呼吸の仕方を変えるということでした。腹式呼吸をするのです。週一回、教会に来ていただいて、トレーニングが始まりました。ご婦人ですが、大変優れた指導者の方でした。私に求められたのは体操でした。「力を抜けー牧師だとかそういうことは忘れろー」と言われました。でも言われても力が抜けない。それでも1年くらい続けたでしょうか。そうしているうちに声は回復してきました。この教会に来たばかりの時にも一時、この症状が出たことがあります。

 でもこうして知らされたのは、私の中には委ねきれない、力を入れてしまう、自分を捨てきれないものがあるということです。大切なのは、力を入れることではなく、抜くこと、捨てることだと知りました。そして、この体の問題はじつは、私の魂、信仰ののこととも重なっている、そのことに気づかされたのです。その時から方向は変わったように思います。力を入れることではなく、抜くこと、得ることではなく捨てること。うまくはいかなくても、方向が変わった。主イエスがここで言われていることとも重なるように思います。信仰は捨てること、自分が握り締めている手を離すこと、力を抜くことでなのです。そうするとそこに喜びが生まれてきます。それは決して私だけのことではないと思います。

 昨日、吉田隆先生と電話で仕事の打ち合わせをしましたが、コロナウィルスのことで、先生がこんなことを言われました。一番、怖いのは霊的ウィルスではないかと。みんなが力を入れて、自分で自分を守ろう、教会を守ろうとしてカリカリしてしまう。気をつけなくてはと言ってカリカリ、そんなに言わなくてもカリカリしてしまう。ああ、そうだなあと思いました。自分のこととして思います。教会はそういう場所にならないように、力を抜いて、主イエスに委ねて生きる場所でありたい、そう思うに至りました。主イエスが救ってくださるのですから、力を抜いて、握り拳を開いて、委ねて歩みを続けましょう。お祈りをいたします。