2022年10月23日「何のことかわからなかった」

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何のことかわからなかった

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 10章1節~6節

音声ファイル

聖書の言葉

1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門から入る者が羊飼いである。 3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
ヨハネによる福音書 10章1節~6節

メッセージ

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門から入る者が羊飼いである。 3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 

 きょうの説教題は、「何のことがわからなかった」という題です。説教題は、遅くとも8日前までには決めなければなりません。これは結構、たいへんなことでして、悩むことも多いのですが、今回もそうでした。悩んだあげく、聖書の言葉の中から取りました。おもての掲示版に墨字で、張り出していただいていますが、これを観た人たちはどんな思いを抱かれたでしょうか。「何のことかわからなかった」、へんてこりんな題なあと想われた方もあったかもしれません。またここにおられる皆さんはどう想われるでしょうか。きょうのこの礼拝で御言葉に聞く私たちが何のことかわからなかったということにならないといいなあと思うわけです。けれども一方ではこういうことも考えます。私たちが、聖書を読む、御言葉に聴くというときには、やはりこの「何のことかわからなかった」ということを私たちもが経験することがあるのではないでしょうか。神の言葉、主イエスの言葉ですから、私たち人間が、「何のことかわからなかった」というのは無理もないというか、それは当然のことでもあります。聖書がわかる、御言葉がわかるというのは、解説書や注解書を読んで、この言葉にはこれこれこういう意味があるということがわかって、それでわかったというわけにはゆきません。理屈がわかって、わかるということにはならないわけです。語られる言葉が、自分の話として聴けなければ…どうにもなりません。上から聖霊が働いて、心に御言葉が刻まれる、そうなってわかるということになります。ですから、私たちは「聖霊を注いでください。どうかわからせてください」と祈って、聖書を開きます。きょうも聖霊の導きを祈り求めながら、この御言葉に共に聞きたいと思います。

 ヨハネによる福音書をはじめから読み続けて、きょうから10章に入りました。10章は有名で、。昨日の結婚式でも触れましたが、特に11節の「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という御言葉は広く知られています。10章では羊飼いや羊が繰り返し登場します。こうして、読み続けてわかることがあります。それは、この10章は9章から続いているということです。9章の終わりには、主イエスとファリサイ派の人たちとのやりとりが記されていました。9章にはファリサイ派の人たちに向かって主イエスが、「しかし今、『見える』とあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る」とおっしゃっておられます。それに続きますのがきょうの聖書の箇所です。ファリサイ派の人たちとのやりとりがまだ続いていて、きょうの箇所の主イエスのみ言葉も、ファリサイ派の人たちに向かって語られているわけです。

 9章で、主イエスはひとりの生まれつき目が見えない人の目を見えるようになさいました。主イエスが言われたとおりにシロアムの池に行って目を洗うと見えるようになった。しかし、そのことがきっかけになって、更に、このひとにさまざまなことが起こってきたことが9章では語られていました。このひとはファリサイ派の人たちから呼び出されて、尋問を受けることになりました。そして、とうとう9章34節にあるとおり、彼は外に追い出されることになりました。これはユダヤ教会の会堂から追い出されるというだけではなく、ユダヤ人社会から追い出される、村八分にされるということを意味しました。追い出されたのはこのひとがイエスさまのことをこの方には罪がない、神から遣わされた方だと言い続けたからです。単に逆らったからというのではなく、主イエスへの信仰のゆえに外に追い出されてしまった。そして、主イエスは外に追い出されたこの人を探され、出会ってくださいました。その時、この人ははっきりと「主よ、信じます」と信仰の告白をします。このようにして、このひとは、生まれながら目が見えなかったのですが、本当の意味で見えるようにされた、そのことを9章は伝えていました。この人は、外に追い出されることによって、主イエスを見出し、主イエスのことを信じる信仰者の仲間入りをしています。

 そして、10章はその続きです。きょうの箇所の3節の後半から4節にはこうあります。

「羊飼いは羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているのでついて行く」。

 ここに「連れ出す」という言葉が2度、出てきます。日本語では同じ言葉で訳されていますが原文では最初の3節の「連れ出す」と、あとの4節の「自分の羊をすべて連れ出す」の連れ出すとでは、言葉が違います。実は後の方の「連れ出す」は9章34節の「外に追い出された」という言葉と同じ言葉、エクバローという言葉が用いられています。 

 ここには意味があります。ああ、こういうことだったのだということがここで明らかにされています。生まれつき目が見えなかった人は外に追い出された。これは大変に辛いことであることは、わかるのではないでしょうか。エクバローというのは「投げ捨てる」と言う言葉と同じです。投げ捨てられることぐらい辛いことはありません。これで生きてきた場所から放り出されてしまい、居場所がなくなるのです。それは大きな痛みを伴うことです。この人にとっては災いとしか思えなかったのではないでしょうか。しかし、実はそこで神の御業が現れていたのです。羊飼いが働いていたのです。羊の名を呼んで、外に連れ出されたのです。ユダヤ人社会の囲いから、この世の囲いから外に連れ出されたのです。古いユダヤ人の共同体から、新しいイエスキリストの共同体に、神の羊の群れに連れ出された、救出されたのです。

 神の御業、主イエスの御業というのは、私たちにはそれが、すぐにはわからないことが確かに多いのではないでしょうか。私たちも災い、苦難を経験します。この世の生活のなかで、投げ捨てられる、居場所を喪失する、そういう経験をすることがあります。その時、辛い、痛みを覚えます。しかし、実はそれが神の御業である、羊飼いである主が名を呼んで連れ出していてくださることである、そういうことがあるのです。痛みや苦しみにはそういう意味があるのです。牧師をしていて、どうしてこんなに教会の中に、教会に集う人たちその家族の中に苦難や痛み、悲しみが起こるのだろうと正直、思い悩むことがあります。皆さんもそうかもしれません。しかし、実はそう思うところで神の業がなされている、羊飼いである主が御業をなさっているのです。そのことは私たちにとって大きな慰めです。

さて、きょうの箇所のはじめに主イエスはこう言われています。

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 門から入る者が羊飼いである」。

 ここに「門」が出てきます。実は次回、読みます7節以下にも門は出てきます。そこでは、「わたしは羊の門である」と語られています。7節では、門とはどう考えても主イエスのことです。でもきょうの箇所の門は違います。主イエスと読むと何がなんだかわからなくなり、「何のことかわからなかった」ということになります。区別して読む必要があります。きょうの箇所での門は、羊を囲い、守ってくれている門です。囲いがあり、一つの門がありました。調べますと、当時の牧場は、共同牧場になっていたようです。何人かの羊飼いたちが自分の羊たちをそれぞれに飼って時間が来ると、羊たちを導いて、共同牧場に放牧していました。ですから、そこには門番もいたわけです。この囲いがあって、羊たちは狼などの外敵から守られていました。ただ羊を脅かす存在は、獣だけではありません。人間です。盗人、強盗です。羊は貴重な財産でしたから、盗人も狙っていたわけです。実際、こういうことはよくあったのでしょう。羊飼いは門を通って、門番にあけてもらって、囲いの中に入ってきました。しかし、強盗、盗人は門を通って入ってはきません。それを乗り越えてやってきたのです。

 羊や羊飼いというとなんだかのどかな牧歌的な風景を思い浮かべるところがあるのですが、現実は厳しいです。それは日本の牧場でも同じです。自然の世界は厳しいですし、何よりも、人間の住む世界というのは、たいへんなことがあるわけです。私の父は畜産関係の仕事をしていました。小さい頃、よく牧場につれていってもらいましたから少しはわかります。

 私たちが生きる場所にも厳しいことがたくさんあることを表しています。

 特に、ここで主イエスが語られている盗人、強盗とは誰のことでしょうか。ユダヤ教の指導者たちのことだと多くの人たちは断定しています。そうかもしれません。旧約聖書の預言者たちは、ユダヤ教の指導者たちのことを、あなたがたは偽の羊飼いであり、強盗であり盗人であると語りました。(参照、エゼキエル34章)。けれども、私はあまり決めつけない方が良いかもしれないと思っています。よくわからないことがると言うことは申し上げて置いたほうが良いと思っています。はっきりしているのは、本当の羊飼い以外に、偽りの羊飼いが存在している。羊を盗み出そうとして働いているということです。

 そして、3節以下には続けて、こう語られています「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」。

 ここには羊たちが登場します。この羊たちは、声を聞き分けて、まことの羊飼いだけについていきます。

 九章 に登場した生まれながらの目の見えない人もそうです。彼は、主イエスの声、その 言葉に従って、シロアムの池で目を洗いました。そして、他の者たちの声にはいくら言われても、脅されても従うことはありませんでした。そして、主イエスと再び出会った時、「あなたは 人の子を信じるか」と問われ、「主よ、信じます」との告白に まで導かれた。彼は主イエスの声を知っていたのです。羊飼いである、主イエスはこの人に声を繰り返し、かけてまさに名を呼ぶように、人格的に関わって連れ出しておられます。

 「声を聞き分ける」、「声を知っている」とあります。声という言葉が10章では繰り返されています。9章では「目」がテーマになっていましたが、10章では、「耳」がテーマになっています。耳です。聞き分ける耳です。

 パレスチナ地方に旅行をした人が書き残した旅行記にこうい う文章があるようです。

「羊飼いは、時々、自分の存在を知らせるために、鋭い呼び声 を発する。羊はその声を知っていて、それに従う。ところが、 違う誰かが呼ぶと、ちょっと立ち止まり、びくっと頭を上げる だけである。それを繰り返すと羊たちはくびすを返して逃げて しまう。その人の声を知らないからである。私も試みに何回か これをやってみた。」

 また別のイギリス人は、同じような光景に出くわして、パレ スチナの羊飼いに頼んで羊飼いと自分の服を交換して、羊たち を呼んでみたそうです。しかし、羊は少しも動かなかったそうです。彼らは、見た目で動く動物ではないので す。声です。声を聞き分ける。

 我が家にはキキという名前の猫がいます。この猫ですが、私の言うことは全く聞きません。呼びかけてもそっぽを向くか、逃げてしまいます。悔しいですが…(汗)。でも妻の呼びかけには反応します。妻が飼い主だということをよく知っているのです。

 猫だけではなく犬もまた飼い主の声で反応します。

 きょうの聖書の箇所に出てくる羊たちも、その声を知っています。私たち人間は、なかなかこのような賢い羊であることができないところがあるのです。だからこそ、主イエスがここでこんなたとえ話をなさっておられるのではないでしょうか。ある聖書の学者はこう行っています。「ここに登場する羊は賢い。牧者の声を聞く、明敏な耳を持ち、『盗人や強盗』に聞き従うことがない。だがこれは理想の羊だろう。賢い羊をイエスが述べるのは期待を込めてのことだ」。

 こうあってほしい、そういう主イエスの思いが込められているということです。

 私たちが生きる現代の社会では、様々な声が飛び交っています。さまざまな声の中に生きているのが今日のわたしたちです。私たちです。

 ここ最近、ずっと統一協会のことが話題になっていて、わたしたちの心に彼らはイエス・キリスト、キリスト教の名を語りながら、人々に近づきます。彼らは街頭で、道行く人に声をかけます。統一協会もまた声をもっています。

 実はカルト、異端というのは、統一協会だけではありません。さまざまな宗教、宗教のかたちではなくとも存在しています。私たちの周りには、「こっち の水は甘いよ」「あっちの水は苦いよ」と滅びの道に誘い込もう とする声が満ち溢れているわけです。こうすれば幸せになる。ああそれば幸せになる。金がないと老後は幸せになれないとか。健康であれば人生は幸せだ、とか。そんな声がテレビやラジオでもいくらだって語られています。そういう世の中でわたしたちは生きています。一見、それは人の耳を引きつけます。実は、とんでもないことに連れて行かれるということになるのです。悪魔はいつも光の天使に偽装することを私たちは忘れてはなりません。そういう中で聞く耳をもって生きることを主イエスが願っておられるのです。

 「人はパンで生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と言われました。神さまの口から出る御言葉を聞き分けて生きること、それは命の恵みの中に私たちを導きます。この声は大きな声ではありません。「静かにささやくような声」であると聖書は語っています。

 また、この声を聞き分けるようになることは、一朝一夕になるわけではありません。育てられることでもあるのではないでしょうか。だから毎週、日曜日になると、ここで私たちは、みことばに聞くのです(参照使徒17章11以下)。先日、キリスト新聞に記事を書きました。統一教会の問題の後の危惧を書きました。こういうことが起こると宗教から人が離れてしまう。それぐらい危険なことはないと。偽りの声に聞かないで、ごまかされない道、処方箋は一つしかないのです。それは、主イエスの声に聞くことです。そして、この声を繰り返し、聞くことです。聖霊に導かれて、聞く経験を重ねていく。その時、私たちのような者であっても、この賢い羊のようになるのです。何にもわからなかったという経験をすることもありますがそれでも、聞き続けるのです。主イエスの声を聴き取り、主イエスにだけついて行くことが出来ま すように、聖霊の導きを祈り求めます。

参考 http://www.kirishin.com/2022/09/10/56188/