2022年10月17日「その松明を消せ」

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その松明を消せ

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
イザヤ書 50章10節~11節

音声ファイル

聖書の言葉

10お前たちのうちにいるであろうか
主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。
闇の中を歩くときも、光のないときも
主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。
11見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし
松明を掲げている。
行け、自分の火の光に頼って
自分で燃やす松明によって。
わたしの手がこのことをお前たちに定めた。
お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。イザヤ書 50章10節~11節

メッセージ

◯イザヤ書50章4~9節は、「主のしもべの歌」第3の歌。第2イザヤの預言者としての召命の経験と同時に、やがて来る救い主を言い表した歌である。「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる」。信仰に生きることが、主の弟子として生きることであることが示されていた。この箇所は、世々の信仰者を慰め励まして来た歌であると共に、今日の私たちを慰め、励ます。今晩、お読みしましたのはそれに続く箇所である。ここは主の僕の歌に対する応答、そこから生まれてきた、預言者の言葉が語られている。

◯「お前たちのうちにいるであろうか。主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が」。この箇所の前には、主の僕の為さり方、朝ごとに耳を呼び覚まし、口を呼び覚まして、み言葉を与えて導かれることが語られていました。でもそのように主の僕に導かれて歩む者がお前たちの中にいるのかと問いかける。そして、この道がどういう道なのかということが語られる。「闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、神を支えとする」。主を信じて生きることがどういうことなのかということが、ここで語られている。信仰に生きると、闇の中を歩まないということではない、光があるということにない。むしろ、信仰に生きるときに闇の中を歩む、光のない中を歩むことがある。しかし、そこで信仰に生きるのが信仰。闇の中でも、光のない中でも、主に信頼し、神を支えとして生きる。聖書の信仰とは何かがここで明らかにされている。

◯使徒パウロはこう述べている。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ」(ロマ4章18節)。とアブラハムについて語っている。「希望するすべもなかった」にもかかわらず、なお望み信じるとはどういうことか。実はこのみ言葉には希望と言う言葉が二つ用いられている。直訳すればこうなる。「希望に反して、希望を信じた」。不思議な言葉である。最初の希望が人間の希望、それに反して、希望する。もう一箇所はⅡコリント4章8節「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」。この「途方に暮れても失望せず」は文語訳聖書では「詮方つくれども」と訳されていました。詮方は千方ではない。詮方は、人間の行為をなすところを意味する。それがもうないところでも失望しない。信じる。希望がないのに、希望がある。もう万事休すなのに信じている。そういう信仰。こういう信仰は普通、巷にある信仰というものとは違う、これが聖書の信仰。

◯でも預言者は、こういう信仰にあなたたちの誰が生きるだろうかと案じている。みんなが安易な信仰に生きているのではないか。絶望だったら絶望、光がなかったら終わりというように、みんな生きているのではないか。

 第2イザヤが生きたのは、暗いバビロン捕囚の時代。今の私たちの時代にも通じるような先の見えない時代。その中に第2イザヤは生きて語った。さらに彼は皆の今の現実を次のように語っている。「見よ、お前たちはそれぞれ火をともし、松明を掲げている。行け…」。道が見えない、先の見えない時代の中で暗さに耐えられない。だからそこで自分で火をともしてしまっている。でもその火はほんとうの火ではない。その火は耐えられない。人間の火は、人間の光は人間を救わない。

◯わたしがここを読むときに思い出した言葉がある。心理学者の河合隼雄著『こころの処方箋』 に次のようなことが書かれていた。「小さい頃読んだ本の中にこんなことが書いてあった。何人かの人が漁船で海釣りに出掛け、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまった。慌てて帰りかけたが潮の流れが変わり、方角が分からなくなり、そのうち真っ暗闇になってしまった。都合の悪いことに月も出ない。必死になってたいまつを掲げて方角を探ったが見当が付かない。そのうち一人の知恵者が 〝灯を消せ!〟と言った。辺りは漆黒の闇に包まれた。しかし眼がだんだん慣れてくると、全く闇と思っていたのに、遠くの方に浜の明かりがぼうっと見えてきた。そこで帰るべき方角が分かり無事に帰ってきた、というのである。子供心にも何かが深く残るというのはなかなか意味のあることのようで、現在の私の仕事に重要な示唆を与えてくれている。」と。

氏はその本で話をこう続けて居られる。子供が登校しなくなり困り果て相談に行くと、学校の先生は「過保護に育てたのがいけない。」と言う。そうだ、その通りだと思い、今までのような手取り足取りの世話を一切止めてしまう。ところが子供は登校するどころか益々悪くなって行く。そこで今度は別の人に相談に行くと、「子供が育ってゆくためには『甘え』が大切で、思い切って甘えさせると良い。」と言われ、やってみると どうも旨く行かない。結局どうしたらよいのか分からず、相談に来る。この場合、過保護も甘えもそれなりに一理ある。がしかしそれは目先きを照らす灯のようなものだ。そのような目先きの解決をあせって灯をあっちこっちと掲げるのではなく、一度それを全て消して、闇の中で落ち着いて目を凝らすことだ。ぼう~っと光が見えてくるように自分の心の深みから子供が本当に望んでいるものは何なのか、いったい子供を愛すると言うことは どういうことなのかがだんだん分かってくる。そうなると解決への方角が見えてくるのである」。

◯「その松明の火を消せ」、人間の明かりを消してしまう、そういうことは私たちは、なかなか考えない。しかし、真実ではないか。自分でともした松明の火を消さないと、神の火、光も見えない。神が何もなされないのではない、私たち人間の行為こそが問題。それは今朝のみ言葉にも通じる。窓を開けない。見えると言って閉ざしてしまう、人間が神の御業の邪魔をしている。

◯信仰生活というと〜をして、これをしてとばかり考えてしまうが実はそうではない。信仰生活で大切なことは人間の業ではない、神の業である。

十戒の第4戒「安息日を守ってこれを聖とせよ」である。ハイデルベルク信仰問答問103には次のようにある。

問103「第4戒で、神は何を望んでおられますか」。

答「神が望んでおられることは、第1に、説教の務めと教育活動が維持されて、わたしがとりわけ安息の日には神の教会に熱心に集い、神の言葉を学び、聖礼典にあずかり、公に主に呼びかけ、キリスト教的な施しをする、ということ。第2に、生涯のすべての日において、わたしが自分の邪悪な行いを休み、わたしの内で御霊を通して主に働いていただき、こうして永遠の安息をこの生涯において始めるようになる、ということです」。 

 大切なことは人間があれこれの業(行い)を休み、主に働いていただくことである。この主日の礼拝もこのことのためにある。

◯これらのことは「人の死」ということを考えればはっきりする。人間の死は人間がかかげる松明ではなんともできない。私たちは死の前に無力である。そこでは何もできない。万事休す、詮方尽きるほかない。しかし、聖書はそこで私たちに語っている。「闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者となれ」と。

 だから「その松明の火を消そう」。自分で灯す火を消して、主に信頼し、主を支えとして歩もう!