2020年06月21日「心から赦せますか?」

問い合わせ

日本キリスト改革派 関キリスト教会のホームページへ戻る

心から赦せますか?

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 18章21節~35節

音声ファイル

聖書の言葉

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。

日本聖書協会 新共同訳マタイによる福音書 18章21節~35節

メッセージ

※ ここに記されていますのはあくまでも原稿です。現実になされた説教とは内容が異なるところも多々ございます。

    できましたら録音をお聞きくださることが、説教者としての願いです。 

きょう共に、お読みしました聖書の箇所は、マタイによる福音書一八章の終わり、結びの箇所です。主イエスはここで「仲間を赦さない家来のたとえ」という譬え話をお語りになっておられます。マタイによる福音書だけにある譬え話です。

 この箇所の構造ははっきりしています。「仲間を赦さない家来のたとえ」は、二三節から語られていて、その前にきっかけになった、ペトロと主イエスとの問答が記されています。

まずは、この問答からみてみましょう。

ペトロは主イエスのところに来て、こう尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。ペトロが主イエスにこのような質問をしたのは唐突なことではありません。理由がありました。主イエスがこの箇所の前で、ここまでご自身が教会にお望みになっておられることを語られました。代々の教会にとって大切な教会憲章とも呼ぶことができる言葉でした。ペトロは、主イエスから御言葉を聞きました。それは多くの言葉でした。おそらくペトロは、主イエスのお語りになっておられる全てのことがわかったわけではなかった。けれども、主イエスがお伝えになりたい中心点、肝心なことだけは掴もうとしました。主イエスが、教会に、自分たちにお望みになっておられることをペトロは、ひとことの言葉で捉えます。それは「赦し」、「罪の赦し」です。教会は、完璧な人たちの集まりではない、互いに赦しあって生きる。この罪の赦しにキリストの群れ、この共同体の特質がある。だからこそ、そこでペトロは主イエスは問いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。

 主イエスがお望みになるように、赦すことに生きよう、兄弟を赦して生きよう。しかし、自分は、兄弟を何回まで赦すべきなのだろうか。そう考えて、彼は、「七回までですか」と言いました。七回まで赦す。どうでしょうか、これは大変なことですよ。同じ人が、自分に繰り返し罪を犯す。七回赦せますか。「仏の顔も三度まで」ということわざを思い出してしまいます。三回くらいまでは、なんとか赦してやる、しかし、それ以上は、仏様のような人でも赦すことはできない、ここまでということになるのです。それが普通でしょう。ユダヤでも同じで三回までは赦すということが普通のことであったようです。しかし、それをペトロは、七回までと言ったのです。主イエスの「赦せ」というお言葉に答えて、ペトロは常識を超えて、「七回まで」と言いました。「俺は、イエスさまの御言葉に従って、七回まで兄弟を赦そう、そういう立派な弟子になろう」、そう思った。そして、きっとペトロは、このことで主イエスが喜んでくださるだろうと思ったのです。ところが、主イエスはこのペトロにこう言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。ペトロにはすごく意外な答えだったでしょう。褒めてもらえると思っていたら、そうではなかった。七どころか七を七十倍するまで赦しなさいと言われた。

 これは文字通りの数字の話ではありません。七の七十倍、四九〇回まで兄弟の罪を赦して、四九一回めには赦さなくて良いということではないことは明らかです。七は完全数ですから、その七十倍ですから、無限永遠に赦しなさいという意味になるわけです。

 そこで、このペトロは、七回までという数字、限りのある赦しを語ったのに対して、主イエスは、限りのない永遠の赦し、無限の赦しを語られた。このように説明されてきましたし、私自身、そのようにこの箇所を理解してきました。けれども、どうでしょうか。本当にそういう話なのかというと、どうも違うのです。そもそも、ペトロは、

「七回までですか」と言った時に、七回までは我慢して、七回を越えて八回目になると、これで八回目だ!と言って怒りを爆発させることを考えていたのでしょうか?違うと思うのです。七は完全数ですから、ペトロもまた「完全」ということを考えていたのではないでしょうか。文字通りの七回ということを考えていたわけではないでしょう。無限に永遠に、どこまでも赦すこと。そのことをペトロ自身もまた言いたかったわけです。主イエスとペトロの間には、そのことにおいては、なんの変わりもないのです。ではどういうことなのでしょうか。それならば、どうして、主イエスはペトロに「お前の言う通りだ。お前は偉い」と言われなかったのでしょうか。その理由を考える必要があるわけです。どういうことなのかは、このことに続いて、主イエスがお語りになられています、たとえ話を読む必要があります。

このたとえ話は、単純なストリーで難しくはありません。ある王様から家来が大変な借金をしていました。その額は1マンタラントンでした。この額は、今の金額に直すと、国家予算に相当するような額で、6000億円とか1兆とか言われるようなものすごい金額なのです。このような大借金をこの家来はしていました。王はその家来に借金の返済を求めます。すると家来は、王様に「お願いですから、待ってください、必ず返しますから」と願ったのです。でもこれはハッタリです。どんなんに頑張っても返せる額じゃない。しかし、王様はこの家来を憐れに思いまして、この借金を帳消しにしてやったのです。彼は、当然のことながら大喜びで家に帰るわけです。ところが帰り道で、ひとりの仲間と出会いました。この仲間にこの家来は、お金を貸していたのです。100万円くらい。するとこの家来はこの人の首を絞めて、「カネ返せー」とやったわけです。さらに仲間は「お願いですから、返しますから。お助けください」と哀願したのです。でもこの家来は赦さなかった。この仲間を憐むことなく捕まえて牢に放り込んでしまったのです。他の仲間たちがこのことに腹を立てました。それは当然のことです。そして、王様に訴得まして、王の知るところとなりました。王は、彼を呼びつけて、お前の借金を帳消しにしてやったが、それを取りやめると言って、彼を牢に放り込んでしまったというのです。

 どうでしょうか。私はこのたとえはまるで落語のようだと思います。とても面白いです。聞いていた人たちは、みんな、笑いながら聞いたのではないでしょうか。でも笑ながらも、そのうちに、なんだか心に残って考えずにはおれなくなる。自分もまた、この家来のように生きてはいるのではないか、と。

 問題は、「七を七十倍するまで赦しなさい」と主イエスは言われてから、この話をなさっていることにあります。一つ気づかされますことは、主イエスは決して、このたとえ話で、ペトロの質問には答えられていないということです。主イエスは「どこまで赦すのか」という話をこのたとえ話ではなさっておられません。「どこまで赦すのか」ではなく、「なぜ赦すのか」という話をなさっておられます。

 私たちは、なぜ人の罪を赦すのか。それは、このたとえ話によるならば、この家来と同じように、途方もない大きな罪を、赦されたからです。私たちは1万タラントンという自分の力では一生かかってもどんなにしても決して返すことのできないような負債、罪を、赦されたのです。それが神さまが私たちにしてくださったことです。私たちが支払わなければならない罪の負債、借金は、全て主イエス・キリストが十字架にかかって支払ってくださったのです。そのようにして王様が家来を憐れまれたように私たちもただ全くの憐みによって赦されたのです。けれどもですね、どうなんだということです。

 この家来は、赦された帰り道で、「金返せー」とやるわけですよ。本当におかしいわけですよ。でもこのおかしいこと、不思議なことになっているわけです。赦されたから赦すのが当然なのですね。でもそれが当然になっていないわけです。おかしいわけです。

 ある説教者がこの箇所で主イエスが語っておられることは何か、そのことをこんな言葉で語られています。「私たちが人を赦すということは、当然のこと。自然のことなのです。むしろ、それをしないことの方が不自然な、人間としてあるまじきことなのです。人を赦すことにおいて、私たちは、何か特別なこと、すばらしく良いことをしているのではありません。人間として当然のことをしているわけなのです。それが、このたとえ話で主イエスが語っておられることです」(藤掛順一)。この説教の言葉を読んではじめて、わかってきた。ああ、そういうことかと。ペトロはこのことがわかっていないわけです。

 おそらくペトロは、主イエスの御言葉を聞いて、これからは赦して生きたいと思った。善を行う立派な人間になるように良いことをして生きていこう、そう思っているわけです。ペトロによって、人を赦すということは当然のことではなく、特別なことです。人間が必死になって努力して行うこと。でもですね、主イエスは、そのペトロの信仰者としてのあり方を見抜いて、ここで言葉をお語りになっておられるのです。主イエスは、人を赦すということは、あなたがたの努力によることじゃない。何か特別に良いことをすることでもない。むしろ、赦された者として、当然のこと、当たり前のこと、自然のことではないか」。そう言われているわけです。「なぜなら、あなたがたは神さまから途方もない大きな罪を赦されている者なのだから」。

 こうして気づかされるのは、この1万タラントンの借金を赦してもらったこの家来こそ、私たちであるということです。そして、この家来は、こうして赦されたにも関わらず、その帰り道で、仲間を赦さないわけです。とてもおかしいこと、不自然なことをしています。それも私たちの姿だということです。

 そして、とても気になるのはですね、主イエスはこの家来は、王さまにその極悪非道ぶりが知られることになってですね、王の前に呼び出され、赦しを帳消しにされているのですね。そして、牢に放りこまれてしまって出てこれないわけです。そして、きょうの御言葉は次のような主の言葉で終わっています。

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」。

 最後は、恐ろしい結びです。

 私たちはこのことに耐えることができるでしょうか。しかも「心から」ですよ。ただ、形として争わなければいいとか、ひどいことをしなければいいとかではなく、「心から兄弟を赦す」。そのように生きていますか。むしろ、私たちはまさに、この仲間を赦さない家来のようであります。じゃあ、私たちはもう赦されないのか、死んだら地獄行きなのか、そういうことまで考えてしまいます。実際、教会の歴史の中では、きょうのこの箇所から、一度、罪赦された者であっても、それが取り消されることがあるのか、ないのかというような議論もされているようです。けれども、私はどうもそういうことをここから論じることは的外れのように思っています。

 ここ最近、読んでいますのが、「マイケル・ジャクソンの思想」という本なのです。安冨歩という東大の教授が書かれた本です。マイケル・ジャクソンというのは今から三〇年以上もまえに次々とヒット曲を出したアメリカ人のミュージシャンでキングオブポップと言われた人です。スリラーとかビリージーンとか、いろんなヒット曲があります。私も若い頃によく聞きました。マイケルは二〇〇九年六月二五日に病死しました。安富さんはマイケルのことを、彼の死後にふとしたことから知って、その曲を聞くようになった。そして、マイケルジャクソンの曲には、すごいメッセージが語られていること、マイケルには思想があったということに気づかれたというのです。幼児虐待や、差別や、政治の問題、混乱した現代社会のなかで人がどう生きればいいのかとか、そういうことにマイケルは気付いていて、曲やビデオにメッセージを込めて発信していた。安富さんは、このマイケルについて研究を始められ、やがてそれを本にして発表されました。それが「マイケル・ジャクソンの思想」という本です。そして、安富さんが言われるのは、どうしてそんなふうにマイケルはストレートにではなく、歌やビデオ、ダンスというかたちで発信したのかと問われるのです。ストレートに言っても、そういうメッセージというのは届かない。いわゆるお説教としてしか響かない、それでは人は変わらない、変われないことを知っていたと言われるのですね。歌やダンスにして初めて、人が気付いて考えることが生まれると思っていたと。なるほどと思いました。そして、私も直に歌詞やビデオを見直しました。びっくりしました。安富さんが言われていたのは本当のようです。

 なぜこんな話をするのかと言いますと、ここで主イエスがなさっておられることも似ているように思えるからです。この話は明るいですね。でも語られていることはものすごく深刻です。壊れて病んでしまっていいる人間の姿ですね。私たちは、この家来のように、大きな途方もない借金を赦されたわけです。神さまによって。神のみ子であるイエス・キリストが十字架にかかってくださったことによってその赦しは与えられました。洗礼を受けたわけです。けれども、赦されて喜んでいたと思ったら、ちょっと教会の仲間から嫌なことをされたり、言われたりしただけで、「腹が立つ。もう赦せない」のようになってしまうわけです。赦して当たり前なのに、赦すという行為は、何か特別な善い行いのように思ったりしているわけです。そういう壊れている私たちの姿がここで主イエスによって語られているのです。そして、先ほども言いましたように、この話にはは、笑いがある、明るさがある、ユーモアがある。もっと言い換えると、光があるわけです。私たち人間の闇のような現実を主イエスは、明るい光の中でご覧になっておられる。そこがとても大切なことではないでしょうか。

 そして、私たちの罪ということは、この赦しがわからない。自分に与えられている赦し、それがどんなに大きなものなのか、わからないで生きてしまっている。罪というのはあれこれのことをしたとか、しなかったかとか、そういうこともありますが、究極的には、このことになると言われているように思います。そして、この私たちの罪をも、この罪のために主イエスが、十字架にかかって負ってくださったのです。そして、主イエスは、こんな私たち、まさに絶望的な私たちですが、こんな私たちを心から赦して、なお愛し、この恵みに生かしてくださろうとしていてくださいます。まさに七を七十倍するまで赦してくださるのです。こんな私たちに兄弟を赦して、愛して生きるようになお招かれるのです。そして、主イエスがここで私たちに語られていること、それは大きな大きな罪が、キリストによって赦されているということ、十字架の恵みにひたすら心を向けて生きることです。「ここに、赦されていることに、神さまがしてくださったことに、集中して思いを向けて生きてごらん、そうすればそこに赦しが生まれる」ということです。感謝し、み名をほめたたえずにはおられません。