2020年06月14日「今ここに、ここで、この時に」

問い合わせ

日本キリスト改革派 関キリスト教会のホームページへ戻る

今ここに、ここで、この時に

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
マタイによる福音書 18章15節~20節

音声ファイル

聖書の言葉

兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

日本聖書協会 「新共同訳聖書」マタイによる福音書 18章15節~20節

メッセージ

マタイによる福音書第一八章で主イエスは、教会にご自身が何をお望みになっておられるかを明らかにされておられます。ここは教会憲章とも呼びうる箇所でありまして、それほどにこの一八章で語られておりますことは、私たちにとりまして、とても大切なことです。そして、この一八章の頂点、中心となりますのが、今日お読みしました聖書の箇所、一五節〜二〇節まででの御言葉です。この最も大切な部分は、「兄弟があなたに罪を犯したら」という御言葉で語りだされています。気づかされますことは、「罪」の問題、罪の処置の仕方、罪の扱いの問題についてひたすら集中して語られていることです。罪は、教会にとって、とても重大な主題です。教会のあり方について語られているところで、ほかの何かの話、教会の伝道の方法、財政のあり方でもない、奉仕の仕方でもない、教会の人間関係がどうやったらうまく行くかというような話がなされるのではありません。教会が罪をどう処理すればいいのかということ、そのことが集中して語られているのです。それ自身がとても考えさせられることです。

 森有正と言うキリスト者の思想家がおられました。フランスのパリに住んで、聖書とカルヴァンのキリスト教綱要を読みながら思索した哲学者です。私生活では離婚を経験された人です。この人が三〇年以上も前に、キリスト教の入門書を書きまして、「最近、教会で人間の罪の話を聞くことは稀になってきた」と言っています。森有正は、人間にはいろんな問題があるけれども、罪こそが人間の一番、大きな問題、人間のあらゆる問題の根のような問題なのだ、聖書が語っていることの中心はそのことだと語られるのであります。

 人間の一番の問題が罪の問題であるなら、そのことが教会にとっても一番の問題になることは当然のことになるわけです。教会では罪の問題は、問題にならないのではないのです。逆に、教会でこそ罪の問題こそが人間の問題であることが鮮やかになるのです。教会は聖人君子の集まりではありません。やはり、そこには、人間が集まっている以上、罪のことが出てきます。問題はその罪の処置をどうするかであります。言い換えると、教会には罪がない、ここでは罪というものが犯されないのでもありません。むしろ、ここでこそ、それがあらわになるということがあるわけです。そして、問題はその罪の扱い方をどうするかということです。

 「兄弟があなたに対して、罪を犯したら」。実はこのみ言葉にはは、もう一つの読み方があります。「兄弟が罪を犯したら」、こうも読むこともできるのです。新共同訳聖書の方は、「あなたが教会に生きる中で、兄弟があなたに対して罪を犯すことがある、そんな場合は、あなたはこうしなさい」ということになります。しかし、もう一つの読み方は、「兄弟がなんであれ罪を犯していることをあなたが知ったのなら」。「あなたに対して」というだけではない、もっと広く、あなたが兄弟が罪を犯しているのに気が付いたら、ということになります。この読み方の方が良いと私は思っています。

 では主イエスは、どうしなさいとおっしゃっているのでしょうか。ここで主イエスは実際的に語っておられます。兄弟が罪を犯していることを知ったら、まず最初にこうしなさいと言われているのが、「行って二人だけのところで忠告しなさい」ということです。それで言葉が届いて、聞いてもらえた。それならそれでいい。けれども、それではダメな場合もある。その場合は、今度は、ほかの仲間と一緒に行きなさい。それでもダメということもある。その時は、教会に申し出なさい。今の私たちで言うと牧師や長老に、言いなさい。そして、それでも聞き入れない場合、その人を、異邦人か徴税人のようにみなしなさいと言われてます。

 改革派教会は、教会戒規(教会訓練)ということを伝統的に重んじる教会として知られています。その戒規の制度の元になったのが今日のこの御言葉です。戒規には、訓戒(言葉で諭すこと)、陪餐停止(聖餐に預かることを一定期間停止すること)、除名などがあり、それを行うための訓練規定というものが設けられています。それは、この主イエスの御言葉をもとにしてできたものです。この主イエスのお言葉どおりの手順、段階を踏んで対処するように求められています。しかし、そこで段階的な手順が大切なのではなく、もっと重要なことがございます。実は、ここには、罪ある人間に対する「福音」がある、深い配慮がある、暖かさが、神の驚くような愛があるのです。

 罪は難しいものです。自分ではそのことになかなか気づきません。半分悪いことだとわかってはいたとしても、今、わたしはこういうことをしているけれども、実はこのようなことをするのには、こういう正当な理由があると、心のどこかで言い訳をして生きようとするのです。そんな時には、自分以外の誰かに助けてもらうほかないのです。「二人だけのところで忠告しなさい」とありました。この「忠告する」と訳されている言葉は、「光に晒す、明るみに出す」とも訳すことができる言葉です。光にさらすと言いましても、晒し者にするということではありません。闇に隠れている罪を、神の光にさらす。神の愛のもとに置く。その時、罪は力を失います。このためにははらを立てたり、怒ったりしてはいけないのです。神の愛のもとで静かになって、冷静に膝を付き合わせるようにして語り合うことが必要なのです。

 それでもダメならこうしてご覧。またダメならこうしてご覧というように語られています。ここで語られているのは、罪を犯した者を諦めちゃいけない。「あらゆる手立てを尽くして、追い求め続けるように」と主イエスは言われているのです。羊飼いが迷い出た一匹の羊を追い求めるように追い求めるようにということなのです。でも、二人きりで離してもダメ、三人でも、教会でもダメだった場合、 最後には「異邦人か徴税人のようにみなしなさい」とあります。これは非常に厳しい、もう自分たちとの関係を断ちなさいという非常に厳しい処置に最後にはなるのだと思われるかもしれません。けれども、福音書を読んで私たちは、主イエスが、ほかの誰よりも、心を砕いて、共におられ導かれたのは異邦人や徴税人であったということを知っています。ですから彼らのように見なしなさいというのはもう見捨ててしまいなさいというようなことではありません。確かに自分たちにはもうどうにもならない、どうすることもできないというようなこともあるかもしれない。そういうことがあることは認められる。しかし、そういう場合には、もう見捨てしまいなさいというのではありません。排除し、もう口も聞かないようにしなさいというようなことが、「異邦人や徴税人のようにみなしなさい」ということではありません。

「その時は、主イエスご自身に委ねなさい。主イエスが、その人を異邦人や徴税人のようにもう一度、神さまのもとに立ち返らせてくださる、そう信じて祈りなさい」。そういう意味であります。教会は、その人をあくまでもあきらめない、見捨てない。向かいあって対処するように、手を尽くすように、と語られているのです。罪の中から救い出すように、それが私が教会に望むことだと主イエスは言われるのです。

 主イエスはなぜ、こんな風に語られるのでしょうか。今日の箇所でも響いているのは、今日の箇所の前の一八節の御言葉です。「これらの小さな者が滅びることは天の父の御心ではない」。神様は、どんな人も滅びることをお望みにならないのです。罪から救われることをみ心としておられ、罪びとを探し求めてくださるのです。主イエスご自身がそのように歩まれたのです。同じ歩みを教会がするようにと求めておられます。ルターは、私たち一人一人のキリスト者のことを、「小さなキリスト」と呼びました。ですから、私たちが今のこの世にあって、ここで小さなキリストになって歩むようにとここで言われていると言ってもいいのです。

 そして、主イエスはこのことに教会が生きる時に、そこに生きて共にいてくださると約束されます。

 今日の御言葉の最後の二〇節ではこう言われます。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。

 とてもよく知られている御言葉です。私自身、よく思い起こし、心に留めてきた御言葉です。例えば、キリストが私たちが集まるところに共にいてくださる、教会の礼拝や様々な集まりをするなかで、この御言葉を思い起こしてきたように思います。しかし、どういう文脈で語られているのかが見落としてきたように改めて思います。こうして読んでみて、初めてその意味がわかってくるように思うのです。

 この二〇節ですが、一九節だけにかかっているのではないのですね。一五節、一九節の全体とつながっているのです。ですから、「私たちが二人だけのところで罪を巡って語り合う」そのことにも関わっているのです。そこにキリストがいてくださるわけです。二人きりではなくて、教会の仲間たちが共に集まって語り合う、そこにもキリストが共にいてくださる。ですから、「二人または三人が」なのですね。罪人を主イエスが、一緒に探し求めてくださるのです。主イエスが一緒にいてくださるということ、それは本当によろこびです。それは、漠然とどこにでもいてくださるということではないのですね。教会が罪ということと向かい合い、罪人を探し求めていく、そういうところに共にいてくださると言われているわけです。聞き入れたら、「兄弟を得たことになる」と一五節にあります。これは儲ける、得するというような言葉なのですね。おかね儲けをするというようなとても生活感のある言葉です。主イエスは、「あなたがたを人間を捕る漁師にする」と言って弟子たちをお召しになられましたけれども、ここでは兄弟を儲ける、分捕り返すわけですね。キリストから引き離そうとする力が私たちの生きるこの世の中にあります。しかし、キリストのものとして連れ戻すわけです。生活の中でそうする。教会という場所はそういう場所なのです。そしてですね、そういう働きをして、教会が生きる時にですね、そこに共にいてくださるというのです。

  今日のこの御言葉によって、聖書の「福音」というものがよくわかるのですね。主イエスがどういうお方なのか、何を大切にされ、今、何を為そうとされているかということが。それは罪の赦しであります。罪からの救いであります。

 主イエスはこのことにひたすら集中して歩まれたわけです。マタイによる福音書で五章から七章にかけて山上の説教という者がありました。この山上の説教は、大変、長くて、多くの言葉が記されております。でもそれには中心というものがある。それは「主の祈り」なのですね。この主の祈りが玉ねぎの芯のようになってそこに主イエスの多くの言葉がくっつくようにして語られていました。そしてさらに、この主の祈りにも中心がありまして、それが、六章一二節の「わたしたちの負い目をお赦しください。わたしたちも自分に負い目のある人たちを赦しましたように」という罪の赦しを求める祈りなのです。これが福音の中心なのです。主イエスはここに生きられた方なのです。

 そしてその主イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのです。それは、罪人の罪の身代わりになって死ぬということでした。十字架に罪の赦しなのです。それは神さまの御心のゆえでした。その御心が、今日の聖書の箇所の前に語られていました。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。この主イエスは、復活して今も生きておられます。そして、今も生きて働いておられるのです。その働きは、罪の赦しの働きなのです。教会を通して働いてくださるのです。

 ある人が「私たちは今日のような聖書の言葉を読む時に、自分を罪を赦す側に身を置いて、御言葉を聞くだけになってしまうところがある。けれども、実はそうではなく、罪を赦される側でもあることに気づくことがとても大切なことだ」と言われています。教会はお世話する側とお世話される側、面倒をかける人と面倒を見る人に別れるのではありません。牧師は、赦す人で赦されることはないというようなことはないのです。私たちは皆、お互い様なのです。みんな赦すことも、赦されることも必要としているのです。罪赦された罪びとの集まりであるのが教会なのです。お互いに気遣い、気遣われることを必要としています。

 教会はこのように欠けある小さな者たちの集まりですが、今日の御言葉で主イエスは、この教会をものすごく重んじておられることがわかります。その一つは、「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。と語られていることからもわかります。私たちがこの地上にあって教会の営みを続けているわけです。教会は天にあるわけではなくこの地上にある。しかし、教会で洗礼を受け、罪赦されて生きる者は、天上でも受け入れられる。教会は天国の大使館と言われます。大使館というのは、自分の国には存在しないわけです。でも他国にあって、大使館の中はその国そのものとみなされます。そこでパスポートが発行されれば、その国に入ることができるわけです。教会はその意味で天国の大使館でありまして、ここで罪赦されて生きることが、永遠の意味を持っているのです。

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。

 ここで教会が願うべきこと、それは罪の赦しです。そして、この罪の赦しを教会が祈る時に、「わたしもその中にいる」と語られます。

 一番、最初に、教会は罪のない場所ではないと申しました。教会は罪赦された罪人の集まりなのです。そのことではこの世にあるのです。でも教会にはこの世にないものがあるのです。それは赦しです。この世においては、罪を犯したものは赦されないのです。罵られ、なじられ、見捨てられます。「仏の顔も三度まで」というように。

 ある牧師が宗教者の集まりに出席された時に、ひとりの僧侶の方があるあ過ちを犯したことが明らかになったそうです。その時にものすごい勢いで罪を糾弾されたというのです。大勢から。そのことで牧師はものすごくショックだったというのですね。みんな自分が正しいと言って、相手を責める、そういう人間の恐ろしさを見たというのです。その牧師は、教会は違うはずだと言われるのです。自分も罪あるものであるにもかかわらず探し求めていただき救われた。その神の光の中で罪を見る。罪の扱い方が違うのだと言われるのです。キリストはどこまでも、赦されるのです。教会は、このキリストの赦しに生きるところです。そして、そのようにして生きる時に、そこにキリストがいてくださいます。お祈りをいたします。

愛する主イエス・キリストよ、どうか私たちの罪をおゆるしください。

私たちの教会を、罪の赦しに生きる教会としてください。今ここに、ここで、この時に、あなたの罪の赦しが、あなたご自身が鮮やかにその姿を現すようにしてください。 主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。