2020年05月31日「弱さを生きる」

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聖書の言葉

同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきを持って執り成してくださるからです。ローマの信徒への手紙 8章26節

メッセージ

今日は、聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝です。主イエスは、十字架におかかりになられ、三日目に復活されました。それから、四〇日間に亘って、繰り返しご自身を現され、弟子たちに神の国のことをお教えになられ、それから天に昇られました。さらにその一〇日の後に聖霊が降って、教会の宣教が始められました。それがペンテコステです。今日は、御言葉から、このペンテコステに降った聖霊は、どんな働きをするのか、聖霊の信仰を聞きとり、学びたいと願っています。

 ローマの信徒への手紙第8章は、繰り返し、「霊」、「聖霊」について語っています。ちょうどこの部分は、この手紙の中心部分です。その中心部分で語られているのが聖霊のことになるわけです。このことは聖霊の信仰というものが非常に重要なのだ、福音の中心にあることを物語っています。この8章二六節は、この章の中で、さらに中心になります。この御言葉は、私たちに、聖霊がいますということ、そしてその働きが一体、どういうものなのかということを明かにしてくれます。

 「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」。

 「弱い私たち」と訳されている言葉は、直訳しますと「わたしたちの弱さ」という言葉です。「私たちの弱さ」とは、どういうことでしょうか。「弱さ」この言葉は辞書を引きますと、無力さ、はかなさ、病気や患い、試練の意味もあります。パウロはこの言葉を、しばしば「肉の弱さ」という用語で用いています。ここでの「肉」は、肉体のことだけではありません。心も体も含めた人間の全体です。人は皆、肉なのです。そして肉である故に弱い。聖書によれば、人間は皆、根本的に弱さの中にあります。どうして弱いのでしょうか。それは人間が神から離れているからです。そこに弱さの原因があります。この弱さは、「死」ということともつながっています。人間は皆、死に向かって生きているわけです。つまり、人間には弱い人と強い人がいるというような話ではありませんし、自分は時には弱いというようなことではありません。いつも弱い、根源的に弱いわけです。人間である以上、わたしたちは、自分がそれに気づいていなくても、弱い。その存在において神さまから離れているために弱い。

 では、この「私たちの弱さ」はどういうところに現れるのでしょうか。病気を患うことでしょうか、試練や苦難を受ける時でしょうか。死でしょうか。確かにそうです。しかし、それだけではない、否、もっとはっきりと現れていることがある、それは祈りだというのです。ですから、ここでは弱さについて語られてすぐに続けて「わたしたちはどう祈るべきか知りません」と語られています。「祈り」ということにおいてこそ、わたしたちの弱さが露わになる。こういうことはあまり考えたことがなかったのですが、そうだなあと思います。ふと気がつけば祈ることを止めてしまっていることはないでしょうか。悩みの中にあって、祈ることができなくなることがあります。困ったときの神頼みではなく、困った時の神離れということもあります。

 ニグレンという人は、こう言います。「弱さがキリスト者を捕らえるのは、キリスト者の外側の生活においてだけではない。このことは、内なる生活において、神との生活において、祈りの生活そのものにおいてさえ、悲劇的現実である」。

 祈れない祈らないというだけではありません。祈りながらでも悲劇的現実を露呈します。私たちは祈りにおいて自己中心になります。生きておられる神への畏れを失ってしまう。それどころか神の真実、そのみ力を信じず、神の介入を期待していないこともあります。要するに神に対して眠ってしまう。そのことが祈りにおいて明らかになる。主イエスもゲッセマネの園の祈りの場面で弟子たちに、「目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(マルコ一四・三八)。

 祈れないこと、祈っている時でさえ、神に眠って対して、眠ってしまうこと。これこそが「私たちの弱さ」と言えます。

 「祈りは危険なこと」とある神学者が語っていたことを思い出します。書物の中に出てきた言葉です。私にはその意味がよくわからなかったのです。わかったようなわからないような気がします。しかし、今、思います。祈りということで、わたしたちは神の前に裸にされます。ここで、わたしたちの罪と弱さがあらわになる。それは時々、ということではないのです。今日は自分は祈ることができたと思えた時でさえも、実は、「わたしたちはどう祈るべきかを知らない」のです。それがわたしたちです。

 しかし、そこで聖霊の信仰が語られています。「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」。「助けてくださる」という言葉は、ほかにはほとんど使われることのない珍しい言葉で、三つの短い言葉から成っていす。「共に」、「代わって」「受け取る」。続いて御霊が、「言葉にあらわせないうめき」によってとりなしてくださると言われます。「共にうめき」、「代わってうめき」、わたしたちの弱さに寄り添って、それを引き受けてくださいます。それが御霊の助けです。

 「御霊自らが言葉にならないうめきを持って」とは、どういうことでありましょうか。パウロはこの直前に、二二節で、「被造物が共にうめいている」と語っています。続いて二三節でも、「わたしたちも体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいる」と語ります。神様によって造られたこの世界の全てのものである被造物も、人間もそれぞれに呻いているのです。そして、今日の箇所では御霊が呻いている。未来の救いを求めて、三つのもの、被造物、人間、御霊、三つのものが呻いているのです。ただ被造物と人間は、自分自身のためにうめいています。しかし、御霊は違います。御霊は、自分自身のためではなく、わたしたちをとりなすためにうめいているとあります。 このとりなすという言葉も珍しい言葉で、おそらくパウロの造語ではないかという人もいます。御霊は、祈ろうとしない、また祈れない、祈ってもいても祈りにならない祈れない、私たちのために、私たちの代わりに祈る。そこに生じるのはうめきであります。

 御霊のうめきとは何か。ある人たちはこれは意味の通じない異言の祈りのことだと言います。しかし、そういうことではないと思います。このことは「わたしたちが経験的に知ることができるようなことではなく、信じるべきこと、信じなければならないことだ」とある説教者が申しております。

 主イエス・キリストは、わたしたちの罪の贖いのために十字架にかかって死んでくださいました。そして三日目に復活なさって、天に昇られ、神の右に座ってくださいました。神の右にいます主イエスはそこで何をなさっておられるのでしょうか。それは私たちのためのとりなしです。そのことは三四節で語られています。

 この二六節では、神の右ではなく、今度はわたしたちの内で、御霊がわたしたちのためにとりなしていてくださいます。十字架にかかられ、神の右におられるキリストが、わたしたちのためにとりなしてくださる。それとともに、わたしたちの内におられる聖霊が、わたしたちのためにうめきとりなしていてくださるのです。私たちの外側にも、内側にも、とりなしがあるわけです。しかも、それは父なる神様の御心でもあることが二七節で語られています。このように、三位一体の神様がわたしたちを助ける、否、救うため目にわたしたちが知らないところで、熱心になっておられるわけです。わたしたちは自分の熱心によって救われるのではありません。父、子、聖霊なる神様の熱心によって救われるのです。わたしたちは、誰も、自分で自分を救うことはできません。祈ることだって、それは自分の力で、祈ることなどできないのですね。神の前に祈るためには、罪の贖いが必要だからです。その罪の償いが、主イエス・キリストの十字架によって成し遂げられ、その償いに基づいて、今もキリストは天にあって、神様にわたしたちのためにとりなしていてくださいます。そして、内にあっては御霊が、十字架のキリストの贖いに基づいて、呻いてとりなしてくださるのです。神様はその御霊のうめきを聞かれます。イエス・キリストと聖霊、こ祈れない私たちのためにこの二つのとりなしがあることを知らねばなりません。

 わたしたちは本当にどうしようもないものであります。どう祈るべきかを知りません。救いの感謝になんと貧しいことでしょうか。人を躓かせてしまうことも多いです。それでも、クリスチャンかと言われることもあり、自分でも自分のどうしうもなさを覚えるものです。しかし、こんなわたしたちを「御霊」は見捨てない、必ず助けてくださる。お救いくださる。

 そして、現に今、わたしたちがこうして、ここにいます。日曜日に神を仰ぎ、礼拝しています。教会に来れない人も、信仰を失うことなく、支えられてここにいます。それはこの御霊のとりなしの故です。御霊のうめきによって、今、こうしてここにあるわけです。

 お祈りは呼吸であると言われます。神様との会話でもあります。ある牧師は、土曜日には、散歩して、ゆっくり歩かれるそうです。日曜日に備えて黙想するのだというのです。私にはなかなか真似ができません。黙想するというのは、神さまと対話することです。祈りながら、ゆっくり歩く。ただ自分で考える、思い悩むのではないのです。神様と会話しながら歩む。

 先週、読んだ本には、わたしたちは神様に文句を言うことだって許されているとあり、一つのエピソードが紹介されていました。テレジアという修道女、有名な人ですが、伝道の旅の途中で馬車が事故を起こして、地面に投げ出されてしまった。彼女はその時、「まあ、イエスさま、あなたのために懸命に働いている者にこういう仕打ちをなさるようでは、お友立ちが少ないのも無理はありませんわね」と言った、祈ったそうです。思わず笑ってしまいました。単に笑い話だけではなく、テレジアは、神様とこのように会話をしながら、いつもともに人生の旅をしていたわけです。こんなふうに生きれればと思います。

 人生の旅の間に、神様と会話ができるということは素晴らしいことです。それは信仰者に与えられている幸いです。この素晴らしい恵みを根底にあって支えているのは、わたしたち自身ではありません。天にいます神の右にあって、キリストがわたしたちのためにとりなしておられ、また御霊が内に

わたしたちのためにとりなしていてくださるからです。キリストも、御霊も神に向かってとりなしていてくださいます。わたしたちの弱さ、苦しみに預かって、それに代わりに担って、とりなしてくださいます。神さまが神さまにうめくのです。三位一体の神様の間には交わりがあります。それは言い換えると会話があるということです。その三位一体の神様の会話の中にわたしたちも入れられるということです。祈るということはそういうことなのですね。

 このように、わたしたちの祈りも信仰生活も、この礼拝も、全部、実はそれは私たちに自身によるのではなく、神の恵みによって支えられてあるのですね。そして、わたしたちのこれからも神の恵みの手の中おかれているのです。こんな私たちですけれども、支えられて、神の御国への旅を続け、終割りまで歩むことができます。この御霊の助けがあるからです。

 またこの御霊のとりなし、助けは、私たち一人一人、個々人に与えられるだけではなく、群れにも与えられます。新型コロナ・ウィルスのために教会は大きな苦難の中におかれています。日本の教会だけではなく、世界中の教会がそうです。教会はともに集まり、人と人が近づくことによって生きる

群れです。今回は、その集まることが自由にならない、近づいて励まし合うことが自由にならない。けれども、今日の御言葉によれば、「大丈夫、守られる、導かれ、支えられます」と言うことができます。聖霊がおられ、この聖霊がとりなしてくださるからです。弱さをもった群れを支えてくださいます。

 今日はお読みしませんでしたけれども、この箇所の後の二八節には「万事が益となるように共に働く」というみ言葉が語られています。この「万事が益となる」という言葉は、広く知られている御言葉です。キリスト者にとって、良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、すべてはよきものになるという意味の言葉です。ある説教者が「この万事が益となるということは、今日の御言葉と深く関わる」と言います。聖霊のとりなしによって、神の摂理の御手が働いているというのです。だから、最悪と思えることも、善に変えられる。どんなに悲劇的な状況も創造的な時にされる。その人は、バビロン捕囚のことを考えれば良い。あの悲劇が、人類史に、偉大な宗教的な深まりを与えたではないか、と。

 確かにそうなのですね。個人の人生も同じです。その人にとっての大変な苦しみのときが、神の赦しの中で、恵みのときとなります。挫折のときが、信仰の深まりをもたらすことが多いのではないでしょうか。

 先日も紹介しましたけれども、中村佐知さんの「隣りに座って」は、佐知さんの娘さんがスキルス性のガンを患って闘病し、天に召されるまでの1年の記録です。これ以上に辛い悲しい経験はないことですが、そこにあったのは悲しみだけではなかった、神の大きな恵みがあったということを、中村さんは書かれています。しかし、それは中村さんだけのことでないのですね。

不幸なこと、苦しいことは、誰にとってもない方がいい。しかし、不幸な経験がただ不幸だけでは終わらない。それが信仰者の人生です。そういう経験の中で支えられる、恵みを与えられるということがあるわけです。御霊のうめきによるとりなしがある。悲惨な事が、神の恵みに変わる、それが万事が益となるということです。

 そういう御霊が世に降った、それがペンテコステです。

 御霊のうめきによるとりなし、助けは続いています。被造物、この世界が呻いています。人間も呻いています。しかし、そこには御霊のとりなしがあります。祈りにおいてあらわになる、罪深い私たちのことも、御霊はとりなしつづけてくださいます。ですから、信仰の旅を望みを抱いて、祈りながら歩くことができます。お祈りをいたします。

父なる神様、祈れなくなることがあります。祈ってもいっても、あなたに対して眠っているような時もあります。祈りにおいてこそあなたに対する私たちの罪、弱さは明かにです。しかし、そんな私たちのために御霊は、とりなし、こんな私たちのうちにあって、私たちを目覚めさせてくださいます。イエス・キリストの十字架の赦しのもとに生きるものとしてくださいます。どうか、聖霊の信仰を強めてください。御霊によって、父よとあなたの名を呼びながら歩む信仰の歩みを続けさせてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。