◆マタイによる福音書(山上の説教)  連続講解説教

「山上の説教とは」  マタイ5:1~2  2021.9.5
 
序.
 夕べの礼拝において今日から山上の説教を学びます。マタイ福音書を最初から読むのではなく、5章~7章の山上の説教のみを取り上げる意図を、確認したいと思います。

Ⅰ.神の救いの全体像
 私が大宮教会に赴任して3年半が経ちました。その最初の時から聖書の全体(聖書概論)、教理の全体(ウェストミンスター信仰告白、「神さまと共に歩む道」)を確認しつつ、主なる神は、私たちを救い、どこに導いてくださろうとしているかを確認して来ました。
 私たちが求める救いは、キリストの十字架の御業で罪の赦しが与えられ、罪に対する勝利が遂げられ、神の御国が完成し、その神の御国に神の子とされ、神の祝福に満たされることです。神の救いの全体像を確認しつつ、この救いのゴールを目指して、私たちはキリスト者として、教会生活、信仰生活を送ることの大切さを学んできました。
 この大きなゴールを目指す私たちに、聖書が何を語ろうとしているのかを聞くのが、説教です。ですから、説教において聖書がひと言ひと言何を語り、解説していくことも大切ですが、この全体の方向性、聖書が語る福音(神の契約)を見失っては、説教も単なる勉強会となります。つまり知識を蓄えることではなく、私たちに与えられる救いの喜びをハッキリと見据えて、説教で語られる福音を心に蓄えることが大切です。

Ⅱ.説教の目指すところ
 説教の目指す方向性は、ウェストミンスター大教理問答から確認することができます。
問155 御言葉は、どのようにして救いに有効とされるのですか。
 答 神の霊が、御言葉の朗読、しかし特に御言葉の説教を、次のようなことのために有効な手段とされます。すなわち、〔第一に〕罪人の目を開き、罪を自覚させ、へりくだらせること、〔第二に〕かれらを自分の殻から引き出してキリストのもとに引き寄せること、〔第三に〕かれらをキリストのかたちに造りかえ、キリストの御心に従わせること、〔第四に〕かれらをさまざまな誘惑と腐敗に対して強くすること、〔第五に〕かれらを恵みのうちに造り上げ、そして、信仰をとおして、かれらの心を清さと慰めにおいてゆるぎなくして救いにいたらせること、です。
 答えの最初、「神の霊が」と語られていることが重要です。教会が立てられるのに、何よりも牧師が語る説教が重要ですが、説教が人間の業として行われているならば、人間的な教会になってしまいます。このことは、先程、神の御国を目指すという大きな神の目標、福音・神の契約を見失ってはならないと語ったことと、つながります。そもそも、神の霊が私たちに働きかけなければ、私たちは自らの罪を知ることも、復活の生命も知ることも、信じることもできません。私たちが福音に生き・キリスト者として信仰生活を送ろうとする時、ここに聖霊の働きが必要であり、私たちは主なる神が聖霊をとおしてお働きくださることにすべてを委ねて生きることが求められます。この時、聖書の御言葉に聞くことにより、私たちは神を信じ、御言葉に従って生きる者へと導かれます。

Ⅲ.開かれた言葉に耳を傾けよ!
 さてマタイは、主イエスが福音宣教を始められ、4人の弟子たちを選ばれた後に、直ぐに山上の説教を語られたことを記します。山上の説教が平地の説教(ルカ6:17~49)と同一の説教か、別々の説教かということが議論されます。“Yes”とも“No”とも言えいます。福音書に限らず、聖書のすべての書簡は、執筆者によって編集されています。ですから福音書の場合、主イエスの誕生、宣教の開始、十字架の予告、十字架と復活という大きな流れには従いますが、一つひとつの説教や奇跡などが順番通りに記されているかと言えば、そうではありません。山上の説教も、主イエスが福音宣教を始めた最初に、まとめて語ったかと言えば、そのように決定する必要はなく、主イエスが弟子たちに語ってきた説教を山上の説教として、一つの所にまとめて記したのがマタイ福音書です。
 マタイは「そこで、イエスは口を開き、教えられた」(2)と記すことに意味を込めています。「開く」とは、主イエスがご自身を明らかにすることです。主イエスが口を開かれることにより、主イエスの持っておられる奥義(福音)が、明らかになります。私たちは、主イエスの所に行くこと、主イエスの御言葉に聞くことにより、福音と出会うことができます。だからこそ私たちは、主イエスがお語りになる福音に耳を傾けなければなりません。
 主イエスは福音を解き明かします。福音は、時として世の常識からかけ離れたことも語られます。しかし主イエスは私たちに、この世を超え、肉体を愛することを超えた所に、真の幸福・救いがあることをお語りになります。知識として主イエスの説教を聞くのではなく、神の霊の働きにより神による救いとしての福音に聞くことが求められています。
 
 
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「心の貧しい人々は幸いである」  マタイ5:3  2021.9.12
 
Ⅰ.主イエスの宣教と山上の説教
 マタイ福音書が宣教活動を始められた主イエスの言葉として最初に記すのは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)であり、続けて4人の漁師たちに対して、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語られたことでした(4:19)。
 そして最初の説教として山上の説教を語られます。聖書はどの書簡も、執筆者の意図があり、編集されています。ですから、主イエスが語られた説教をすべて順番に書き記しているものでもありません。そのため、福音書において主イエスが説教を語られる時、その最初のひと言は、非常に重要です。
 主イエスが4章で語った2つの言葉は、最初の説教(山上の説教)と深く結びついています。主イエスの語る福音は、滅び行く人間に対して救いを与え、天国における永遠の祝福が与えられることです。主イエスは、「天の国は近づいた」と語り、この天の国に人々を招くために、ペトロを初めとする漁師たちを召し入れました。

Ⅱ.主の霊の働きかけに聞け!
 そして、山上の説教の最初において、この「天の国」に入ることのできる人々とは、どういう人であるのかを3節で語ります。
 ウェストミンスター大教理問答問192では次のように問答されています。
問192 第三の祈願でわたしたちは、何を祈り求めるのですか。
 答 第三の祈願(すなわち「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」)でわたしたちは、自分とすべての人々が、生まれながらにして、単に、神の御心を知り、行うことがまったくできず、またそうしようともしないというだけでなく、神の言葉に逆らい、神の摂理に不平を言い、つぶやきがちであり、肉と悪魔の意思を行うことにまったく傾いていることを認めて……。
 罪の中に生きる私たち人間は、主なる神によって神の国が提示されなければ、それらと関わりをもつことのない、罪と悪魔の意志により、死と滅びに向かって歩んでいました。
 このような私たちに対して、主イエスは神の国を指し示してくださいます。主イエスは、「~をしなさい・こうでなければならない」とはお語りになりません。原典(ギリシャ語)の最初の言葉は「幸いなるかな」、「祝福されている者よ」と訳すことのできる言葉です。神の御前にいるあなたが、神との関係を問われています。主イエスは、「主なる神の御前にあって、心の貧しい人々であることが、神の国に入ることができる、救われる人々です」とお語りになります。正直なところ、人間は「これをしなさい」と命令された方が楽です。
 ウェストミンスター大教理問答は続けて語ります。「〔第一に〕神がかれの霊によってわたしたち自身と他の人々から、心の、闇・弱さ・無気力・頑なさ、すべてを取り去り」。「神の霊によって」です。最初の弟子にした4人の漁師たちに対しても、主イエスが4人に近づき、そして「人間をとる漁師」として弟子に選ばれたのです。
 同じように、主によって救われ神の国に入るように、主なる神の霊が私たちに働きかけられます。私たちは、自分で何かを求めるのではなく、主の御前に立ち、主の御言葉に聞き、主の霊が私たちの心に働きかけてくださることを受け入れることが求められます。

Ⅲ.自らを知れ!
 その上で主イエスは「心が貧しくなる」ようにとお語りになります。「心」は「霊」とも訳される言葉です。神との関係における「神を求める心」と言い換えれば良いかもしれません。「貧しい」は「貧弱、無力で何の助けにもならない」と言った意味の言葉です。
 つまり主は私たちに、「自分こそ救われる人間だ」と誇ることなく、「救われるにはふさわしくない人間・罪人である」ことを受け入れ、主の御前に頭を垂れることを求めておられます。そして、主にすべてを明け渡し、委ねることが必要です。

Ⅳ.救いと御国を求める信仰
 ウェストミンスター大教理問答は続けて答えています。「〔第二に〕かれの恵みによってわたしたちを、天使たちが天においてしているのと同様の謙遜・快活さ・忠実さ・勤勉さ・熱意・真摯さ・堅実さをもって、すべてのことにおいて神の御心を知り、行い、神の御心に従うことができ、また、そう望むように、してくださるように、と祈ります」。
 主イエスは私たちに、自らの姿を知り、罪を悔い改めを求めた上で、主なる神の御前に立ち、すべてを主に委ねて、主がお語りになる御言葉に聞き、聖霊によって心を変えて頂くことを願いつつ、「御国を来たらせたまえ」と祈ることを求めておられます。
 
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「悲しむ人々は幸いである」  マタイ5:4  2021.9.19
  
 序.
 マタイ福音書は、主イエスが最初の4人の弟子を選ばれて直ぐに、説教を語ります。福音書記者であるマタイの目的は、旧約のイスラエルの民に与えられたメシアであるイエス・キリストを指し示すことです。そのために、旧約の時代に教えられてきた律法の継続性と共に、ユダヤ人の持っている律法の誤った理解を正し、真の福音を伝えることが求められます。そのためマタイは、宣教のその最初に説教集を収めることにより、主イエス・キリストによって提示された真の福音をまとめて語ります。

Ⅰ.福音としての主イエスの言葉
 この山上の説教の最初の言葉は、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(3)です。主なる神の御前に立つ私たち自身のことを知り、欠けがあり、罪があり、滅び行く私たちを救い出し、神の子として天国の生命をお与えくださる主なる神を信じることが求められていることを確認しました。
 続けて主イエスは、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」とお語りになります(4)。この時、主イエスが語られる「悲しむ」とは、何に悲しむことなのかを考えることが求められます。私たちは日々の生活の中、様々な悲しみを体験します。大切な人が死を迎えた時、大きな罪を犯し人を傷つけてしまった時、災害や事件に巻き込まれ、怪我をしたり、財産を失うこともあるかもしれません。世的な見方をすれば、不幸な人生と見られることです。そしてこうした悲しみは、主なる神を信じている人にも、信じていない人にも同じように訪れることです。しかしここでは、主なる神を信じることにおいて訪れる悲しみ、つまり迫害、虐げ、差別なども挙げることができるのではないでしょうか。
 普通に生きていれば、悲しい時、同時に幸いを感じることはできません。相反することです。ですからこの御言葉を、人生の教訓として理解する方もいるかと思います。しかし私たちは、これは主イエスが福音としてお語りくださった言葉であることを忘れてはなりません。福音とは、世の中では「非常識」とされることが語られていることもあります。私たちは、主イエスがお語りになられた意味・意図を理解しなければなりません。

Ⅱ.キリストによって解放される悲しみ
 主イエスは私たちに天の国をお与えくださいます。私たちは、罪の故に滅び行く世界で生きていることを知らなければなりません。この滅び行く世界の中での悲しみは、罪の結果・罪に起因していることです。そして主イエスがお与えくだる天の国は、キリストの十字架の贖いにより、罪・死が滅ぼされ、サタンが滅んだ世界です。そうであるならば、天の国が到来することにより、私たちのこの世でのすべての悲しみは取り去られます。つまり主イエスが「悲しむ人々」と語られる時、主なる神と出会い、主なる神による罪の贖いと救いを信じていることが求められています。そのため、主なる神を信じていない人たちに、「悲しむ人々は幸いである」と語っても、何の意味のない言葉となります。
 つまり主イエスの御言葉は、罪が赦され、天の国における永遠の喜びと祝福が約束されている恵みの契約がはっきりと示されているからこそ、主からの慰めを理解し、受け入れることができます。ことのことが今日の御言葉を理解する上で徹底的に重要なことです。このことはイザヤ書61:1~3において預言されていたことが、主イエスによって成就したと言って良いかと思います。イザヤ書では、メシア預言が行われ、同時に終末における希望のメッセージが語られています。つまりキリストが来臨することによって、神の民の悲しみ・苦しみが、真の意味で慰められ、天の国の希望が与えられることのメッセージが、預言されていました。それが主イエスによって成し遂げられるのです。

Ⅲ.信仰に伴う生活
 そのために主なる神によって与えられる天の国を目指して歩む私たちキリスト者は、主がお語りになる御言葉に聞き、主の真実を求めることが求められます(参照:ウェストミンスター大教理問答問157)。大教理問答は最後に「自己否定」を語ります。主が私たちに与えられた苦しみ・悲しみをも慰めてくださることを信じることができる時、私たちは、主なる神がお与えくださった試練をも受け入れ、従う者へと変えられます。この時に求められるのが、謙虚に主なる神がお語りになる御言葉に聞き従い・遜り、服従することです。その結果、自己否定を行い、謙遜に主なる神の栄光を求めるのです。悲しみ・苦しみの中にも、主なる神が表され、キリストの十字架が証しされています。そして主がお与えくださる天の国に希望をもって、信仰生活を送ることが、求められています。
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「柔和な人々は幸いである」  マタイ5:5  2021.9.26 
  
Ⅰ.山上の説教の展開
 主イエスは、最初の弟子たちと多くの群衆を前にして、説教を語り始めました。そしてその最初の言葉として、マタイは、下記のとおり書き残しました。
 「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。
  悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる」。
 「心の貧しさ」、そして「悲しむ」は、主なる神の前に立つ私たち自身の姿を顧み、自らを知ることが求められました。それは、自らの持っている罪を理解し、滅び行く者の罪を赦し、救いと永遠の生命をお与えくださる主なる神を信じることが求められました。
 一方「柔和」とは自分自身の状態であり、そのように振る舞うことのできる人、そのように生きている人のことです。そういう意味では、この「柔和な人」とは、前で語られた二つの言葉を受け入れ、信じた結果、行動に移せる人のことです。

Ⅱ.神の求めと、人の求め
 ところで「柔和」とは「性質や態度が、ものやわらかであること。また、そのさま」と記されています。カルヴァンは、「侮辱によって容易に怒ることなく、すぐに立腹することなく、よこしまな人々に同じような行為を仕返ししないで、むしろ、何事にも進んで耐える穏やかで、そして、温和な性質の人を意味している」と語ります。
 さらにカルヴァンは、「非常に愚かなことと思われるであろう。というのは、逆に、あらゆる侮辱を勇ましくはねつけ、侮辱されると、復讐のためにすぐに手を振り上げることのできる人たちは、地上の支配権を奪う人たちであるからである。事実、よこしまな者たちは、彼らのよこしまが穏やかに辛抱されるとそれだけ益々、傲慢となり、そして、悪事をしようとしていきり立つということは経験によって分かる」と語ります。つまり、社会では指導者となり権力を持つためには、柔和であっては対処できないと考えられています。

Ⅲ.キリスト者として生きるとは
 しかし主イエスは、私たちに対して柔和であることを求めておられます。これは主イエスご自身が持っている柔和さから考えることができます。主イエスが十字架に架かられるにあたり、エルサレムに入城される時のことを思い浮かべていただきたいと思います(マタイ21:1-5)。柔和である救い主イエスは、逮捕され、十字架に架けられ、死を遂げ、陰府に下られましたが、死から三日目の朝に甦り、死に打ち勝ち、サタンに打ち勝たれました。
 このことは、主イエスの持っておられる柔和さこそが、神の国を受け継ぐ者であり、天の国は、罪のない柔和な世界であることを語っています。
 そして、この主イエスの持っておられる柔和さこそが、羊を養う「羊飼い」であることを聖書は語ります(ヨハネ10:7~16)。そして主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と語られます(マタイ11:28-30)。
 私たちは、世に対して自分で戦う必要はありません。主なる神によって救いに入れられ、主イエス・キリストにって罪が贖われた私たちは、羊飼いであり、救い主である主なる神、主イエス・キリストにすべてを委ねればよいのです。そのために、信仰の武具を身に着けるように求められています(エフェソ6:10-18)。
 この信仰の武具を身に着けるために、私たちは、主がお語りになる御言葉に聞かなければなりません。
 ウェストミンスター大教理問答
問160 御言葉の説教を聞く人々には、何が求められていますか。
 答 御言葉の説教を聞く人々に求められているのは、〔第一に〕熱心と準備と祈りをもって説教に耳を傾けること、〔第二に〕聞いたことを聖書によって吟味すること、〔第三に〕真理は、神の言葉として、信仰・愛・謙遜(改革派教会訳では「柔和」)・素直さをもって受け入れること、〔第四に〕神の言葉について瞑想し、語り合うこと、〔第五に〕神の言葉を心に蓄えること、そして〔第六に〕生活の中でその実を結ばせることです。
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 「義に飢え渇く人々は幸いである」  マタイ5:6  2021.10.3 
 
Ⅰ.水の飢え渇きと魂の飢え渇き
 主イエスは飢え渇きに対して語られます。私たちは水がなければ生きていくことはできません。現在の日本に生きる私たちは、水道の蛇口をひねれば水が出てくるため何の不自由もなく生きています。しかし日本でも約100年前までは水の確保が何よりも重要でした。ですから、いつの時代でも王や為政者に求められることは、新しい都市をつくろうとするとき、水をどのように確保することができるかが、何よりも重要なことでした。
 現在においてもその重要性は何も変わっていません。アフガニスタンにおいて医療活動をおこなった中村哲医師は、医療行為を行う以前に、水がないことが切実であったため、井戸を掘り、水路を作ることを継続的に行ったことは、有名な話しです。
 聖書においても、旧約の時代から、水の渇きについて語り、そこに主なる神の介在と、魂の渇きに対する救いに関して語ります。詩編42:2~3は、下記のとおり語ります。
 涸れた谷に鹿が水を求めるように  神よ、わたしの魂はあなたを求める。
 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。 いつ御前に出て
 神の御顔を仰ぐことができるのか。
 神から見放され、苦しみの中にある作者が、魂の嘆きを歌っています。42~43編は、一連の詩編であり、43:2は、主イエスが十字架に架かられた時に語られた言葉が預言の形で記されています。しかし詩編の作者は、最後に主なる神が共にいてくださることが示され、そして神による救いを確信します(43:5)。死に瀕して水を求める鹿のように、渇いた魂に対して、主なる神が働きかけてくださいます。だからこそ、救いを待ち望むことをできることを信じて、歌っています。
 次にイザヤ書55章です。第二イザヤの最後と言われる所であり、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民について預言されています(55:1-3)。廃墟とされたエルサレムに帰還することにより、主なる神が魂における命の水をお与えくださることを信じて、行動することを主は求めておられます。信じて行動するとき、主は祝福をお与えくださいます。

Ⅱ.義に飢え渇いて生きるキリスト者
 その上で改めて山上の説教の御言葉に聞きたいと思います。主イエスは、水の飢え渇き、魂の飢え渇きではなく、「義に飢え渇く人々」と語ります。ここで語られる「義」とは、神の持っておられる義、絶対的な正しさです。つまり「義に飢え渇く」と語る時、「不義」に満ちている世界に身を置いていることを意味します。この「不義・罪」は、社会全体を、そして自分自身の姿を映し出しています。自分自身の罪を見つめることは、すでに4節において考えてきました。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」。
 一方、社会全体の罪に対して、多くの人たちは、「社会の責任」、「時代の責任」として、「仕方がない」という言葉を発します。そして、社会においては、罪に加担しないこと、罪を指摘し明らかにすることを嫌い、そうしたことをする人たちが攻撃・迫害の対象となります。いわゆる冷や飯を食わされることとなります。
 奴隷制度・男尊女卑などが解決したのは近年であり、現在でもなお差別は残っています。主イエスの語られる言葉は、当時の社会状況を受け入れた上で、その時代に生きる人たちがどのように生きるかを聖書をとおして語りますが、同時に、その状態で甘んじてはならないことを語ろうとしています。それがこの山上の説教で語られています。主イエスは、「義に飢え渇き」、主の義を貫くことを求められます。社会に抗って生きることを求められます。社会に抗うことは、非常に難く、勇気がいることです。社会の矛盾を解決するために、多くの人々が苦しみ、迫害され、多くの血が流されてきました。それでもなお、主なる神の義を貫く時、主は喜びで満たしてくださいます。今なお差別があり、社会的弱者がいます。私たちは、こうした罪の中に生きています。現状を良しとするのではなく、心を痛め、祈り、そして一歩を踏み始めることが求められています。

Ⅲ.永遠に渇くことのない水
 義に飢え渇く私たちに対して、主イエスは尽きることのない生きた水をお与えくださいます(ヨハネ4:7~26)。主イエスを信じる時、渇くことも、苦しむことも、悲しむこともない、永遠の平安と祝福が与えられます。この永遠に尽きることのない生きた水をお与えくださる主なる神を信じて、歩み続けていきたいものです。
 
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 「憐れみ深い人々は幸いである」  マタイ5:7  2021.10.10 
 
Ⅰ.私たちが生きるとは…
 通常、人が幸いを求める時、他者・周囲の人々の幸せを願うことは考えず、自らの幸せを考えます。しかし主イエスは、「憐れみ深い人々は幸いである」とお語りになります。つまり言い換えますと、「周囲の人たちの苦しみ・悲しみに心を向ける人たちが、幸いである」と語られています。
 つまり、私たちは通常、幸せ、そして救いを考える時、「自分の幸せ・救い」を考えるかと思いますが、主なる神が求めている幸せ・救いは、個人的なものではなく、「私たち」の共同体として求めておられるということを言うことができるかと思います。
 主なる神は、救われる時には、一人ひとりを覚え、お救いくださいます。このときは、神と人と一対一の関係といって良いかと思います。しかし、主なる神は、一人で神さまを信じていれば良いとお語りにはなりません。信仰共同体、神の民のまじわりが大切となってきます。つまり、信仰とは、個人主義ではなく、共にまじわり、共に喜ぶことです。 そのことは、先程も一緒に祈りました主の祈りにおいても確認することができます。週報の裏に記されているので見ていただきたいと思いますが、「私・我」と語られることはなく、常に「我ら」と語っています。 このことは、旧約におけるイスラエル、そして新約の現在においては教会をとおして、神による救いが提示されていることからも、理解していただきたいと思います。信仰共同体・聖餐共同体です。
 このことは、私たちキリスト者一人ひとりが、キリストの体を形作っている部分であることからも語られています(ローマ12:4-8)。互いに持っているものを用い、持っていない者に与え、そして助け合っていく時、ここにキリストの教会、本来主が求めておられる社会が形成されていきます。

Ⅱ.愛
 ここで私たちが求められているのが「隣人愛・兄弟愛」です。この隣人愛を考える時に、忘れてはならないことは、神の御子によって私たちキリスト者が与えられた無償の愛です。神の御子が、私たち一人ひとりを愛してくださり、罪による滅びから救い出すために十字架にお架かりくださり、苦しみ、死を担ってくださいました。主は、私たちに、何の要求もなさらず、ただ、主なる神を信じ、キリストの十字架を受け入れることを求められました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(Ⅰコリント16:31)とお語りくださいました。
 私たちを愛してくださる主なる神が、私たちに、主なる神を愛し、隣人を愛することを求めておられます。その実行のために、十戒が与えられています。十戒の要約(マタイ22:37~40)。 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
 そしてパウロも、主によって愛された者は、愛によって生きることが最も重要であることを語ります(Ⅰコリント13章)。キリストの愛を受け取った者は、愛に生きる者とされていきます。それが隣人愛であり、隣人を憐れむということではないでしょうか。

Ⅲ.隣人愛に生きる
 私たちは、主がお示しくださった隣人愛について、ウェストミンスター大教理問答問155において告白したように、主がお語りになった御言葉に聞くことが求められています。主イエスは隣人愛について、サマリア人へのたとえでお語りになります(ルカ10:25-37)。
 そして、隣人愛・憐れみをもって隣人と関わりを持つことを求められることを語るために、金持ちの青年のたとえを語られます(マタイ19:16-26)。主から与えられた愛を理解していなければ、愛に生きることはできません。
 主は恵みによって私たちの必要を満たしてくださいます。そうであるならば、周囲を見渡し、そして求めている人に与えることができます。これこそが私たちが求められている愛です。自分のものがなくなればどうするのか。主に委ね祈るのです。主イエスは語ります。「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ7:7)と。
 私たちキリスト者が、隣人に対して憐れみ深く生きようとするとき、それ以上に主が私たちを憐れんでくださり、祝福で満たしてくださいます。主を信じ、主に仕えて歩み続けたいものです。
 
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 「心の清い人々は幸いである」  マタイ5:8  2021.10.17  
 
序.
 私たちは山上の説教より、主の御言葉を聞き続けています。山上の説教の最初に語られているこの御言葉は八福と呼ばれ、「~人々は、幸いである」という言葉が8回繰り返されています。私たちは、この八福を一つずつ御言葉より聞いています。今日は、その6番目にあたりますが、折り返しになると言って良いかと思います。

Ⅰ.義認と聖化
 この8つの御言葉を読むと、つながりが見えないかと思います。しかし、前半5つと今日から始まる後半の3つに分けることができます。前半の5つは、神の義に対する自分たちの罪、隣人の持っている罪を赦し、受け入れることが語られており、「神の義」がテーマです。今日から始まる後半の3つは、聖化の歩み、キリスト者としてどのように生きるかというキリスト者の生活に関わること、実践が語られているといって良いかと思います。
 つまり私たちの救いは、主による救いの計画とその実行、つまり神による有効召命と共に義認が行われます。神により義とされた者は、主の救いの御業を受け入れ、自らの罪を悔い改め、信仰を告白する者へと変えられます。この法的な罪の赦しはキリストの十字架の御業により既に私たちに与えられており、罪の赦しが宣言され、神の子とされています。
 一方、私たちキリスト者の信仰と生活は、罪の赦しが与えられても、罪の中に生きており、日々罪を繰り返します。そのため毎日、罪の悔い改めが求められます。そうした中、主なる神は、私たちキリスト者を日々聖化してくださり、主なる神の御言葉に聞き従い、キリストに倣った生活を送るように、御言葉と聖霊による養いをお与えくださいます。 別の言い方をすれば、信仰生活の実践として表れる聖化の歩みは、義認に基づく神による救いの実りであると言い換えても良いかと思います(参照:ウェストミンスター信仰告白13:1,2)。

Ⅱ.聖化の歩み
 つまり、既にキリストの十字架によって罪が赦され義とされながらも、私たちは罪の中に生きるため、私たちの内からは神の義を行う、正しい行動は出てきません。そうした中、主なる神が、私たちの心に働きかけ、正しい行い、良き業を行う心をお与えくださいます。それが聖化の歩みです。これは、私たちが神により罪が赦されていることが前提となり、救いの感謝と永遠の生命の喜びによって、神に従おうとする心が与えられていくことです。
 このときに私たちに求められるのが、義であり聖である神への服従であり、律法に従おうとする心です。主イエスはマタイ22:37~40において、十戒の要約としてお教えくださいます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」神によって愛され、罪赦された故に、神を愛し、隣人を愛することができるようにされているのであり、このとき律法に積極的に従って生きようとする心が主によって与えられます。つまり、十戒を代表とする律法ですが、この10の戒めにより、神の御前に罪人であり、死にゆく姿が明らかにされた私たちは、キリストの十字架によって罪赦された時、積極的に主に従って生きる者としての道しるべとして十戒に従って生きる者とされます
 ここで一つ忘れてはならないことを確認しておきます。すでに救いが与えられ、義と認められた者が、神の律法に仕える良き行いをするのであって、良き行いの結果、神による救いが与えられるのではありません。

Ⅲ.救いの表れとしての清い行い
 こうしたことを背景にして、主イエスが語られた、「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」を確認したいと思います。つまり十戒に従って生きようとする思い・心は、キリストの十字架の贖いと救いによって義とされた者に与えられますが、十戒に従って生きようとする心が生じることこそが、神による救いに入れられている証拠であり、神による救いにあずかり、神と共に歩む・神を見て歩むことです。
 地上においては聖化は不完全であり、私たちが、まったく清い心で十戒を完全に守ることはできません。しかし、「不完全ならばダメだ、完全に守りなさい」と主は語られているのではありません。地上においては不完全なのです。神を愛する愛、隣人を愛する愛も不十分です。しかし主なる神は、キリスト者として罪赦されたことに感謝をもって十戒に従って生きようとする思い、そして実際に十戒に従って生きようとする行いを、神は受け入れてくださいます。これがキリストに倣う生活・キリスト者としての歩みです。 
 
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 「平和を実現する人々は幸いである」  マタイ5:9  2021.10.24   
Ⅰ.救済史から平和を考える
 主なる神が全地万物を創造し、人を創られたのは、神の御国が完成し、神の民、そしてすべての被造物において、主なる神が永遠に褒め称えられるためです。このとき、罪はなく、争いはなく、戦争はありませんでした。
 しかし人は罪を犯し死にゆく者となり、その結果、権力争い・主権争いが始まりました。その結果、虐げ虐げられる関係が始まり、戦争を避けて通ることができません。平和を築く名目において、力による支配を行い、今なお世界の国口が軍事力を増強しています。そして罪の中に生きていた私たちは、神との間に断絶があり、相容れないものでした。
 そうした中、主なる神は、神の民を救うために、御子をこの世に人として遣わしてくださり、十字架の死を遂げてくださいました。これは、私たち神の民の罪を赦し、神の子とするためであり、そのために罪・死・サタンに勝利するためでした。その結果、私たちは神との和解が与えられ、断絶も取り除かれ、神とのまじわりに生きる者とされました。その結果、私たちは神の子とされました。救いとは神による無償の恵みの賜物です。

Ⅱ.和解により平和を実現する歩み
 キリストによる無償の愛を受け取った私たちは、主なる神を愛し、主を礼拝するものとなります。そして、主から賜ったこの愛を、隣人においても示すことが求められます。なぜならば、私たちが神と和解し、救いが成し遂げられても、隣人との間に和解がもたらされ、平和が実現しなければ、神の国が実現しないからです。
 この時に求められるのが、一人の権力者が独裁により一時的な平和を求めるのではなく、愛をもってすべての人の罪を赦し和解することです。これは対立していてはできません。日本の平和運動では声高に政府を批判することが行われてきました。しかし、批判される側は聞く耳を持ちません。心を頑なにし、力による支配を強め、対立が激化するだけです。

Ⅲ.聖書が語る和解と主の忍耐
 聖書はどのようにして対立を解決しようとしているでしょうか。
 イスラエルがエジプトで奴隷だったとき、主なる神はモーセをお立てになり、モーセをとおしてイスラエルを奴隷から解放することを求めます。モーセはエジプト王ファラオに対して交渉を行います。対立ではなく、理解を得て和解することを求めました。しかしファラオは心を頑なにし、モーセの要請を断り続けました。その結果、神はご自身の御力を示し、神に逆らい続けていることが明らかにされます。主はファラオとの交渉を忍耐をもって、10回繰り返されました。最終的に、主は、ファラオの罪の故にエジプトを滅ぼし、イスラエルを解放してくださいました。旧約聖書において聖絶が行われますが、常に事前に預言者たちによって主の御言葉が届けられ説得し、罪からの悔い改めや主なる神に従うように求められます。主の御前に悔い改めない民に対して、最終的には主なる神が勝利を遂げることにおいて、イスラエルをとおして平和が実現することを求められます。
 神の民であるイスラエルも、自分たちの力で問題を解決をしようとする時、主なる神は、イスラエルの民を裁き、国を分裂させ、王国は滅ぼされ、最終的に捕囚の民とさせられました。これは、真の平和は力によっては成し遂げられることはなく、主による支配と和解と遜りによってのみもたらされることを示すためでした。
 主イエスは、頻繁にユダヤ人たちと対立があり、議論が交わされているように思われます。しかしどの場面でもユダヤ人が主イエスや弟子たちを批判することから始まります。それに対して、主イエスは彼らの聖書の理解の過ちを指摘し、真の福音を語ることにより、対立ではなく真理を示し、彼ら自身の過ちを気付かせ、罪を悔い改めさせようとしました。
 つまり、①直接、批判・対立・虐げを行うことがない人たちに対して、対立する形で批判したりすることはしません。②その上で、直接、批判・対立・虐げを行う人たちに対しても、対立するのではなく、愛をもって諭すように語りかけます。③このとき、忍耐することが求められます。別の言い方をしますと、どのような相手であっても、罪を赦し、愛をもって彼らを受け入れる思いをもって諭すように語ることが求められています。

Ⅳ.キリスト者として平和を実現するために
 エフェソ書6章では神の武具を身に着けるように語られています(6:10~18)。ここで語られているのは、主に逆らう人たちの前で、勇敢に戦うこと・議論することではありません。最初に「主に依り頼み」なさいと語り、最後に「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と語ります。主なる神が、この対立を解決してくださり、勝利を遂げてくださることを信じて行動することが求められます。このときに、主なる神は、対立を求めておられるのではなく、愛をもって常に和解と悔い改めを求めておられます。そして私たちが、主なる神が求めておられる平和を実現するために行動するとき、主なる神は私たちを真の神の子として、天国での祝福と喜びに満たしてくださいます。
 主なる神は、新約の時代に入り2000年が過ぎた今も、御子の再臨と最後の審判に猶予をお与えくださっています。それは、まだ神と対立している人たちの中に、神の民が残されており、神と和解し、共に神による平和の神の国に招かれているからです。私たちも、愛と忍耐をもって和解と平和を語ることにより、福音を宣べ伝えることが求められています。
 
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 「義のために迫害される人々は幸いである」  マタイ5:10  2021.11.7   
 
Ⅰ.迫害を受けるキリスト者
 私たちが、キリストの弟子、神の民として、この世において生きていこうとする時、自ずと、世の人たちとは違いが生じてきます。生きる目的が異なるからです。私たちキリスト者は、神の栄光のために生きるのであって、自分の利益を求めて生きるのではありません。特に日本においては「和」・「協調」が求められ、和を乱す生き方が嫌われます。
 そうした中、「迫害」を受けてまで、信仰を貫くことが求められます。実際に迫害に直面した時、キリスト者の信仰が問われます。このときキリスト者の行動は、3つに分けることができるかと思います。①主イエスの御言葉に忠実に、迫害の中にあっても、信仰生活を継続する。②イエス・キリストへの信仰は変わらないつもりでいても、迫害を受けないようにするために妥協し、信仰そのものが変質する場合。③信仰を捨てる場合。厳しい道を避け、信仰を捨てたり、信仰を歪めて生きようとする人たちは少なくありません。
 そのため主イエスも、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々して、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:13)とお語りになります。

Ⅱ.神の義に逆らう人たち
 すでに「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(6)と語られていました。キリストの十字架により罪の贖いを受けたキリスト者は、神の義を基準に生きることが求められています。それがキリストに倣う、キリストを証しする生活です。
 しかし、神が求める義、神が持っておられる義は、神を知らない人たちの多くは求めません。なぜならば、神の義を貫いて生きようとする時、自らのもっている欲望、つまり富・権力・武力・地位を求めることができません。そして彼らがそうしたものを自らの手におさめようとするとき、キリスト者は不義であるとして訴えることとなります。
 このときに、偶像崇拝者、そして偶像を用いて自らの権力を維持しようとする人たちは、偶像を拝もうとしないキリスト者に対して迫害することとなります。国家的為政者による抑圧・迫害があるなか信仰を貫いた例は、エステル記・ダニエル書を挙げることができます。ダニエルたちは、バビロンの王ネブカルネツァルの像を拝むように求められる中、主なる神が共にいてくださり信仰を貫きました(3,6章)。このようにキリスト教会は、国家との関係性が問われてきます。ですから教会は、偶像崇拝の問題に留めることなく、搾取・差別・少数者の権利などにも注視しつつ、国家との関係を語っていくことが求められます。政教分離ゆえに「教会が政治のことに口を出すべきでない」と語られる方もいますが、政教分離原則は、為政者の側が宗教を利用したり、宗教を排除したりすることを禁じているのであって、宗教の側である教会が、為政者の過ちを指摘することは当てはまりません。
 一方、イスラエルが信仰を歪め、迫害を回避しようとした例が、約束の地カナンにおいて、カナンの人たちと交わり、そしてバアルやアシェルの神々と融合していったことにおいて、旧約聖書全体においてその罪が指摘されています(参照:ホセア書)。

Ⅲ.感謝と愛をもって信仰を証しする生活
 キリスト者が、迫害をも覚悟して信仰を貫いていくことは、安易ではありません。そのために求められるのが、自分の力・努力で信仰を守ろうとすることではなく、弱い自分を認めた上で、主なる神に委ね、主なる神に祈り求める信仰が求められています。ここで確認しなければならないのが十戒の前文です(出エジプト20:2)。私たち人間は全的に堕落しています。律法により自分の力で救いに与るのではなく、主によって罪が赦される必要があり、罪赦された者に十戒が与えられました。私たちは神の義を貫くことなどできません。罪赦された者として、感謝して、十戒に従った歩みをすることが求められています。
 そして、日々の生活においてキリストに倣う生活は、神による救いにあることの感謝を、愛をもって表し、隣人に対しても愛をもって接することによって実践していくことが求められます。それが、主イエスが語られた言葉に込められています(マタイ22:37~40)。
 愛をもってキリスト者としての歩みを続けていくことは、容易くなく、狭い門をとおることとなります。しかしそれでもなお、神の救いに感謝しつつ、日々、主に従って歩む時、時には迫害・虐げがあるかもしれません。しかし、主は私たちを天の国の住民として喜んで迎え入れてくださることを、主イエスは宣言してくださっています。
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 「ののしられ、迫害され、悪口を浴びる」  マタイ5:11~12  2021.11.21   
 
Ⅰ.迫害をも幸いである!
 今日の御言葉は、新共同訳聖書では「幸い」という表題がつけられている八福の中に入れられていますが、前の八福とは切り離さして考えることができます。そのため九福とは語りません。その一方、八福同様「幸いなるかな」で始まり、八福の最後「義のために迫害される人々は、幸いである」と語られていることの延長線上に語られています。
 主イエスは、キリスト教信仰を持つが故に、「ののしられ、迫害され、悪口を浴びせられる」ことは、当然あることとして語ります(参照:10節)。キリスト者として、神の義を貫いて生きようとするとき、自らの権威・富を誇り、誇示して生きようとする人たちとの間に摩擦が生じるからです。主が求める平和・和解と人々が求める欲望は相反することです。

Ⅱ.迫害に妥協した日本の教会
 しかし、異教社会の中、苦しみや悲しみの感情がある私たちは、主の御言葉だからといって、簡単に「そのとおりにします」とは言えません。できるならば苦しみを避けて生きたいからです。迫害など、耐えることができないと思うからです。
 前回の説教においても確認しましたが、実際に迫害に直面した時、キリスト者は、信仰が問われます。①主イエスの御言葉に忠実に、迫害の中にあっても、信仰生活を継続する。②キリストへの信仰は変わらないつもりでいても、迫害を受けないようにするために妥協し、信仰そのものが変質する。③信仰を捨てる場合。あえて厳しい道ではなく、信仰を捨てたり、信仰を歪めて生きようとする人たちが少なくありません。
 特に日本の教会において行われてきたことが②です。日本にプロテスタントの宣教師が入ってきたのは1859年のことです。そして1872年に最初の教会である横浜公会が設立されました。産声をあげたばかりの日本の教会の一致した思いは、教派に分かれることなく公会として歩むこと。そして政府に認められることでした。徳川幕府においてキリシタン禁令が行われ、明治政府にも受け継がれていました。西欧諸国との関係でキリシタン禁令は1873年に廃止されますが、排斥が収まることはありません。そのためキリスト教会は政府に公的に認めてもらおうとします。1912年に三教合同と呼ばれる神道・仏教・キリスト教が、公的に日本国によって認められることになり、キリスト教会関係者は喜びます。しかしその後、戦時協力をすることとなり、植民地に日本の教会を建て、そして1941年には宗教団体法により教会合同が行われました。また「神社は宗教に非ず」と語られ、教会指導者が積極的に神社参拝を行い、礼拝で宮城遙拝が行われ、讃美歌として君が代が歌われました。キリスト教会の公認を目的としながら、福音を歪め、偶像崇拝をも行ったのです。

Ⅲ.真の信仰に生きるには
 こうしたことは、いつの時代どこの国の教会においても起こりうることです。私たちは、私たちは罪を繰り返してはならず、なぜ主なる神に背くようなことが行われたのかを原因を確認する必要があります。日本の教会では、旧約聖書を読む・学ぶ機会が多くありませんでした。また、三要文(使徒信条、十戒、主の祈)を繰り返し覚えることもありませんでした。つまり、旧約聖書を読まなければ、イスラエルの犯してきた罪、これらは私たちも同じ罪を犯す人間性が忘れ去られ、自らの罪の姿を顧みることなく、「救い」ばかりを考えることが多くなります。そして三要文を覚え、使徒信条において御言葉に基づく信仰を確認し、十戒により神による罪からの無条件の救いと御言葉への服従・生活における遜りを覚え、そして主の祈りにより主に委ねて祈りつつ生きることは、大切なことです。
 十戒において、主なる神が唯一の神であり、いかなる像も拝んではならない第一戒・第二戒に着目しなければなりません。特に第二戒において、付け加えられている言葉を確認することが求められます(ウェストミンスター大教理問110)。こうしたことを着目するとき、私たちが救いへと導かれた主なる神がどのような神であるのか、そして主なる神が、私たちをどこへ導いてくださろうとしているのかを明確に知らなければなりません。
 このときに初めて私たちは主イエスがお語りになる「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」という言葉を心に留め、救いの希望をもって歩むことができます。最後に「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」と語られます。旧約の預言者たち、使徒たちは、いずれも主イエスが語られる天における多いな報いに希望を馳せ、大いに喜びをもって信仰生活をまっとうしました。私たちも、天国の希望をもって日々歩み続けることにより、天国における祝福が増し加えられていきます。
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「地の塩、世の光」  マタイ5:13~16  2021.11.28    
 
 序.
 「地の塩、世の光」はキリスト教会で信仰の生き方を表すキャッチフレーズで良く用いられることかと思います。しかし私たちは、山上の説教、特に最初の説教である八福を一つひとつ読んできました。「私たちはキリスト者として、地の塩、世の光として証しすることが求められている」と簡単に語ることができるでしょうか? つまり信仰を強め、一生懸命に伝道するべきと言った「ねばならない」論理をここに持ち込んではなりません。

Ⅰ.地の塩として純粋な信仰を保て!
 主イエスはここで、八福における信仰の論理原則から離れ、具体的なたとえを用いて、信仰とは何かをお語りくださいます。塩も光も、誰もが、生きていく上で必要なものです。私たちの生活にとって身近なものにより、主イエスは福音をお語りくださいます。
 主イエスは「あなたがたは地の塩である」とお語りになります(13)。ここで多くの人たちが考える過ちは、「自分で塩気を増さなければならない」と思うことです。日本に生きる私たちは、塩は純粋であり、塩をかければ味が増し、足らなければ足したら良い、と思っています。しかしこの思いを捨てなければなりません。ここで問われているのは、塩の量ではなく、濃度・純粋さです。塩は岩塩か海水から作られますが、いろんな不純物が入っています。精錬を繰り返すことにより純粋な塩が作られていきます。つまりここでは、塩を増やすことが求められているのではなく、塩の純度を増すこと、つまり純粋な信仰となることが求められています(参照:金の精錬、Ⅰペトロ1:7)。
 主イエスは「塩気」とお語りになります。主が御言葉により塩をお与えくださいます。私たちはそれを持つことが求められています。つまり御言葉に従って生きることです。しかし私たちは、「義のために迫害される人々は幸いである」と語られた時、「それはできない」と思ってしまいます。迫害や試練に遭うとき、①御言葉どおりの信仰を貫くことが求められているにもかかわらず、②妥協して、主の御言葉を歪めてしまったり、③信仰を捨て背教することが起こります。これが塩気がなくなることです。ですから主イエスは、自分で一生懸命、「塩を増す努力をしなさい」と語られているのではなく、主なる神により塩が与えられているのだからこそ、そこに自分の考え・不純物を加えることにより、塩である福音の純粋さを奪ってはならない、とお語りになっています(参照:コロサイ4:6)。

Ⅱ.世の光を携え、邪魔をしてはならない!
 続けて主イエスは「あなたがたは世の光である」とお語りになります。ここにおいても「あなたがたは世の光になり、信仰の証しをしなさい」と言われることがあります。しかしここで私たちに求められていることは、私たちが光となることではありません。「主を信じている自分は一番正しい」と考えてはなりません。私たちが光となることは、私がすべてとなり、自己中心に生きること、さらにそれは独裁につながります。自分を正当化するように自分が光となってはなりません。聖書が語る光とは、神の御子、言葉(ロゴス)であるイエス・キリストです(参照:ヨハネ1:1-9)。私たちが言葉、つまりキリストとなることを求めるのではなく、私たちにはキリストによって語られた御言葉が伝えられています。それを輝かすことです。ですからあなたがたの光を人々の前に輝かしなさいと語ります(16)。
 ウェストミンスター小教理問1の議論に似ています。「神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶこと」なのか、「神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとする」ことなのか議論されます。つまり、「神の栄光をたたえる」のであれば、神から救いが与えられ、喜んで主の御言葉に従って生きることによって、私たちの信仰生活において神の栄光を人々に伝えていく、といった感じです。一方「神に栄光を帰する」のは、私たちが神によって罪が赦され、神の救いに生きるわけですが、主なる神が私たちの体を用いて、私たちの信仰生活により、主ご自身が人々に示されていくことです。このことはウェストミンスター信仰告白第16章「善い行いについて」の理解とも密接に結びつきます。善き行いは、自分の行為として行うのではなく、主なる神による信仰の実り、証拠として行われるのです。
 ここも同じです。つまり、私たちが神の御言葉を蓄え、私たちが自分の思いにより福音を歪めなければ、私たちの生活・私たちが語る言葉により、主なる神は、ご自身の御言葉により、人々に語りかけます。つまり私たちは、自分の力で福音を語る、証しする努力をするのではなく、私たちは主によって語られた御言葉が、私たちを通して証しされることの邪魔をしないことが求められています。
 
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 「旧約聖書を完成するイエス」  マタイ5:17~20  2021.12.5  
 
序.
 教会によっては、律法と福音を対立的に考え「旧約書は律法を求め、新約は福音である」と語られます。そして「主イエスは律法を否定し、福音を説いた」と解釈されます。そうしたことは、主イエスが律法学者たちやファリサイ人の律法理解を律法主義として否定することから来ていますが、主イエスは山上の説教において、そのことを否定します。

Ⅰ.あなたは罪人である!
 主イエスは「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」とお語りになります(19)。最も小さな掟を一つ破ることであっても、主の御前には罪であり、主の裁きに値することです。つまり主なる神は、どのような小さな罪でも赦すことはできない、義・聖・真実な神です。
 一見すると、ユダヤ人たちが語っていることは正しいと思われるかも知れません。しかし彼らは律法に従って他人の罪を断罪します。しかし彼らの誤りは律法を他人の罪を裁く基準としていることです。彼らは自らの姿は顧みません。ですから、彼らが他人を裁く時、自分たちに都合の良いことのみで、自分たちにとって都合の悪いことは裁きません。そこが主イエスの語られること、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(20)ことです。
 つまり律法とは、自らが神の民に相応しい者であることが示されるのではなく、義・聖・真実である神の御前に立つ時、私たちは罪人であり、神の民に相応しい存在でないことが示されます。私たちは自らの義しさにより、神の民として受け入れられたのではなく、神の一方的な恵みにより罪が赦され、神による救いに入れられて、神の民とされたのです。

Ⅱ.神の恵みによる救い
 主なる神は、イスラエルをエジプトの奴隷の状態から救い出し、約束の地カナンに向かう途中のシナイ山において、モーセをとおして十戒・律法をお与えくださいました(参照:出エジプト20:2)。この状態を私たちは忘れてはなりません。
 つまり主なる神による救いは、律法である戒めを守ったから与えられるものではなく、主なる神の恵みによって罪の赦しと救いが与えられ、イスラエルが奴隷から解放された時、主は律法である十戒をお与えくださいました。最初にもお語りしましたが、私たちは律法が与えられることにより、自らの罪が指し示されます。ですから主なる神は、私たち人間が、律法をまっとうできるものとして律法をお与えくださったのではありません。私たちは律法、特に十戒を確認することにおいて、私たち自身は、主なる神の義、つまり行い・言葉・心の中で律法を守ることのできない罪人であることを知ることが何より大切です。そうすることにより初めて、罪を悔い改め、主なる神への遜りと信仰告白へと導かれます。

Ⅲ.律法を完成されるキリストの御業
 キリスト者は、律法として与えられた十戒に倣って生きることが求められます。しかしクリスチャンであっても、十戒を完全に守ることはできません。私たちは罪赦された罪人です。律法を完全に守ることができない私たちを、主なる神は知っておられ、律法に従って生きようとすることを喜んでくださいます。そして罪を犯した時々に罪を悔い改め、主への信仰を告白する私たちに対して、主は罪を赦し、喜んで受け入れてくださいます。
 ここまで語ることにより、主イエスが「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(17)とお語りくださった言葉を理解することができるのではないでしょうか(参照:ウ信仰告白19:5)。
 キリストの十字架による罪の贖いはキリスト教の中心的な教理です。しかしそれですべてではありません。キリストの御業は積極的服従と消極的服従があります。十字架の御業は消極的服従です。積極的服従は、ご自身が人として律法の下に生き、生涯に渡り律法を守られたことです。これは神が人に結ばれた生命の契約(創世記2:16-17)を私たち罪人に代わって守られたことを意味します。キリストの十字架は、罪の償いをしたにすぎません。キリストが生涯、律法を守ってくださることにより、生命の契約が成就しました。ですからキリストの積極的服従において律法をお守りくださり、さらに十字架の御業における消極的服従において私たちの負の遺産を取り除いてくださることにおいて、私たちは、神の子としての神の御国を受け継ぐことが許されています。ここに、キリストが「律法を完成するために来た」(17)とお語りくださることの意味が込められています。
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 「人に腹を立てる者は、殺したも同然」  マタイ5:21~26  2021.12.12
 
 
Ⅰ.律法の働き
 マタイによる福音書は、直接的にはユダヤ人に対して語られていると言われており、旧約聖書とのつながり、つまり律法との関係に関して確認することが求められます。前回、17~20節の御言葉に聞きましたが、ユダヤ人たちは、律法を全うすることにより救いを獲得することができ、罪を犯す者は主の裁きを受けると考え、律法主義に陥っていました。律法主義の問題は、主イエスが繰り返しお語りになります。そして、このことは現在においても、教会の中に持ち込まれる問題であると言わなければなりません。
 そうした中、主イエスは、律法を廃棄するのではなく、律法を完成させることをお語りになります。このとき、律法は自らの行いの正当性を証明するものではなく、主の御前に、行い・言葉・心において罪人であることが示されます。ウェストミンスター大教理問答も次のように語ります。
問149 だれか、神の戒めを完全に守ることができますか。
答 だれ一人、自分自身でであれ、この世で受けるいかなる恵みの賜物によってであれ、神の戒めを完全に守ることはできず、かえって、思いと言葉と行いにおいて、日ごとにそれらを破っています。

Ⅱ.キリストの無償の愛を忘れるな!
 今日の21~26節では、そのことが具体的に語っています。今日の説教題を「人に腹を立てる者は、殺したも同然」としましたが、実際に人を殺す、あるいは傷つける場合、罪に定められ、罰せられるわけですが、「バカ」と語ること、「愚か者」と語り、口から人を陥れるようなことを語ること、心の中で同様のことを考えることは、同じ罪を犯しているのと同じであると、主イエスは、私たちに語ります。この時、他人を律法の前に立たせるのではなく、私たち自身が、律法により自らの姿を明らかにしなければなりません。私たちは、日々、主の御前に律法を破る罪人です。ここに、私たちが主なる神による罪と救いを求める根拠がでてきます。
 もちろん、人に対して殺意を持つことは、ただ事ではありません。通常であれば、相手の側にも責任(罪)があるかと思います。しかし主イエスは、そうしたことを一切考慮に入れません。相手がどうであろうと、あなたが殺意を持つ、相手を許すことができない時、「あなたが罪に定められる」とお語りになっています。主イエスがあなたに求めていることは、仲直りすることであり、和解することです。「相手が罪を認め、謝罪すれば、許す、仲直りする」のではありません。
 ここでは、主の御前に立つあなたがどうであるかが、問われています。そして、他人の罪を裁く前に、あなた自身が裁かれる存在であることを忘れてはなりません。あなたの罪を赦すために、神の御子であるキリストが十字架の御業を成し遂げてくださいました。キリストは私たちに何の顧みも求められません。主イエスへの信仰を告白することだけです。私たちが自分では気が付いていない罪をも含め、私たちのすべての罪を、キリストは担い、十字架にお架かりくださいました。キリストが私たちにお示しくださったのは、見返りを求めない、無償の愛です。だからこそ私たちも、相手の罪を云々語ることではなく、自らを主の御前に置くことが求められます。そして、憎しみをもっている人であっても、あなた自身が仲直りをすること、和解をすることが求められています。
 このことを理解するために、主イエスは金持ちの青年のたとえをお語りくださいました(マタイ19:16-22)。青年は、「自分は律法をすべて守っている。誰も傷つけるようなことはしていない」と思っていました。しかし主イエスは、貧しい人々に施すことを求められます。青年は、「なぜ自分のものを?」、「なぜあんな貧しい人たちに?」と思ったことでしょう。青年は、自己責任であり、彼らが貧しいのは、彼ら自身の責任であり、自分には関係ない、と思い、無意識の内に貧しい人たちを見下していました。しかし、主なる神がキリストの十字架により、わたしの罪を赦して、救ってくださったことを覚える時、自分に与えられた財産もまた主なる神の恵みです。そして主なる神は、青年に対して、見下した相手と和解し、彼らの苦しみをも担うように求めておられます。主イエスが十字架において無償の愛をお示してくださったように、私たちも見返りを求めない愛を持ち、相手のすべてを受け入れる時、主なる神は、喜んでくださいます。
  
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 「心で思うことは、実行するのと同じ」  マタイ5:27~30  2022.1.9
 
Ⅰ.今日のテキストの主題は…
 今日の御言葉は、表題で「姦淫してはならない」とあるとおり、直接的には第七戒違反について語られています。しかし、この御言葉から私たちは、律法(十戒)をどのように理解し、読み取り、そして何をすることが求められているのかを確認しなければなりません。
 主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するために来たのである」(17)とお語りになりました。これは、主がお語りくださる律法、つまり主の義・聖・真実に照らした時、私たちは行い・言葉・心において罪人であることが示され、キリストの十字架の贖いによらなければ罪の赦しと救いが与えられないことを、私たちは受け入れなければなりません。
 続く21~26節では、「殺してはならない」とする第六戒違反に関して、兄弟に腹を立てる者、「バカ」・「愚か者」と言う者も、同じ罪を犯していることが語られました。
 今日の御言葉(27~30節)も、前回と同じテーマにおいて語られており、表題に誤魔化されてはなりません。同じテーマのことを繰り返して語るのは、このテーマが律法(十戒)を理解する上で、非常に大切なことであることを物語っています。

Ⅱ.律法は霊的なもの
 異性との交わりには誘惑は多く、私たちも注意しなければなりません。女性であれば格好いい男性に対して目が行くことでしょうし、男性であれば綺麗な女性に目が行ってしまいます。しかし主イエスは、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と語り、第七戒違反であるとお語りになります。私たちは、十戒をどのように読み解くのか注意しなければなりません。
 ウェストミンスター大教理問答問99は、「十戒を正しく理解するためには、以下の規則が守られなければなりません」との答えに対して8項目挙げます。
 その第2番目のみを、今日は告白しました。「律法は霊的なものである」。十戒の第二の板は、自分のように隣人を愛することとして、次のことを求めます。
  第五戒 父母を敬え、第六戒 殺してはならない、第七戒 姦淫してはならない、
  第八戒 盗んではならない、第九戒 偽証してはならない、第十戒 欲してはならない
 これらは、生活の中での具体的なことが語られています。しかしその本質は、これらのことを守り、罪を犯さない心、隣人に対する愛が問われています。

Ⅲ.主の御前に生きるキリスト者
 このことを受けて大教理は、「したがって、言葉・行い・ふるまいだけでなく、理解力・意志・感情・その他、魂のすべての能力にかかわる」と語ります。「思いとことばと行いにおいて、日ごとにそれらを破っています」(小教理82)と答えますが、ここでは「思い」だけではなく、「理解力・意志・感情・その他、魂のすべての能力にかかわる」と語ります。
 つまり私たちが律法に従うには、「霊的」、神との関係において従うことであり、神の義・聖・真実の尺度においてはかられます。その上で、行いばかりか、私たちが生きていることすべてにおいて、そして一つひとつのことを行い・語り・思う時の心の中、思い・動機といったことまでもが、はかりの対象となっています。
 主なる神は全知全能であられます。そのため、私たちは、行いも・言葉も・心の中も、すべてが主には明らかであり、何一つ隠すことはできません。

Ⅳ.キリスト者の歩み
 その上で主イエスは、29~30 「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」と語ります。恐ろしい言葉です。誰一人、無事ではいられません。
 マタイ19章で語られている金持ちの青年のように、「自分は十戒を守ることができる」と考えることこそが、愚かなことであり、「自分は十戒を守ることができない」ことに気が付くことが大切です。自分は罪人であり、主の御前では、滅びに値する人間であることを認めることです。
 このとき初めて、キリストの十字架の贖いによらなければ罪の赦しと救いがないことを理解することができます。そして、罪の赦しと永遠の生命をお与えくださる主なる神を信じ、礼拝し、御言葉・十戒に聞き従うように促されます。
 私たちは完全に律法を守ることはできません。それでもなお、主なる神は私たちが神を信じ、神を礼拝し、律法に従った歩みを行い、罪を悔い改めることを喜んでくださいます。キリストの贖いに感謝と喜びをもって、主を信じ・礼拝し・奉仕をしていきましょう。
  
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「離縁すること」  マタイ5:31~32  2022.1.16
 
序.
 今日のテキストでは、離婚のことが取り上げられています。しかし山上の説教を学ぶにあたり、主イエスが語られる福音とは何か、そして律法とは何か(5:17~)、これらの本質を理解することにより初めて、主イエスが各論で語ろうとしている真意を理解することができます。ですから今日の御言葉においても、主なる神が定められた律法の本質を問いながら離婚について考えて行くこととします。

Ⅰ.旧約聖書に記された律法
 主イエスは「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている」(31)と語ります。これは申命記で「妻に恥ずべきことを見いだし、気にいらなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と記されていることです(24:1)。続けて「彼女はけがされている」(4)と語られており、罪・姦淫に関わることと解釈できます。つまり、自分の思いで、気に入らなくなったから、離縁状を書いて良いと言うことではありません。
 しかし申命記にはこれ以上のことは記されておらず、主イエスの時代、夫は自分の思いのままで妻を離縁しよう思った時に離縁状を渡せば良いと考えられていました。このことを、ウェストミンスター信仰告白は適切に指摘しています。「人間の腐敗は相当なもので、神が結婚において結び合わされた者たちを不当に引き離すために、さまざまな理由を挙げるのに腐心しがちである」(24:6)。

Ⅱ.離婚が許されるとは……
 このことに対して、主イエスは「しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる」(32)とお語りになります。つまり、妻の側に罪と指摘されることがなければ、安易に離婚することはできないし、夫が自分勝手な思いで離縁した場合、「姦通の罪を犯させる」つまり、行っていない罪をなすりつけることになるのだと、お語りになります。
 ウェストミンスターは、離婚することのできる罪を二つ指摘します。一つ目は姦淫、つまり不倫を行うことです。このことはこれ以上ここでは語りません。そしてもう一つは、教会や国家的為政者によって行われると指摘します。これはウェストミンスター信条が、1646年(宗教改革の時代)、イングランドにおける議会派(長老制)と国王派(主教制)との間で宗教戦争が行われていた時の告白であり、現在の日本では適用されることはありません。当時、議会派と国王派は信仰的に対立し内戦状態でした。ですから信仰が違う人と結婚することは忌み嫌われ、教会や権力者によって結婚の解消が求められることもありました。
 離婚が認められる理由に関してもう一つ挙げることができます。Ⅰコリント7:15「信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません」。日本の場合、結婚をする時点で一人がキリスト者である場合もありますが、ここで語られているのは、結婚をした後に、夫婦の内の一人が信仰を持ち、キリスト者になった場合です。一人が信仰を持ったが故に生活に変化が生じ、それに耐えられなくなり、配偶者が家を出て行く場合、「そのままにさせておきなさい」と語られています。そして聖書には直接的には語られていませんが、今日的な問題として、ハラスメント、特に、暴力(DV:ドメスティック・バイオレンス)に関しては、第六戒違反の問題において離婚の原因として認めることができるかと思います。

Ⅲ.隣人愛に基づいて律法を理解せよ!
 つまり離婚の理由として認められるのは、姦淫・そして未信者の配偶者が出ていった時だけだと決め、その他のどのような理由も認めないのは、決して聖書的ではありません。個別に判断することが求められます。その判断基準は律法(十戒)です。十戒は「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)と要約されます。夫が妻を愛し、妻が夫を愛するために何が求められているのかを、十戒に聞く必要があります。しかし、愛がなくなった結果、律法に違反し、配偶者が、姦淫・殺しや暴力・財産を盗む等の行為があれば、その結果として離婚が許されるべきであり、教会がそれを拒否することがあってはなりません。
 つまり主イエスは、自分の感情・恣意的な思いで離婚をすることは許されないとお語りになります。私たちは、主なる神がどのような意図をもって語っているのかを確認した上で律法を理解しなければなりません。そして結婚と離婚の問題を含めどのようなことでも、愛に基づいて十戒を解釈し、適応していくことが求められています。自分の都合の良いように律法を解釈したり、杓子定規になって律法主義に陥ってはなりません。
 
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 「誓うこと」  マタイ5:33~37  2022.1.23
 
序.
 山上の説教では、主イエスが福音とは何かを語り、そのための律法の役割に関して語ってきています。5:21以降では、各論が語られていますが、これらから、律法のもっている本質、そして福音とは何かを、私たちは読み取ることが求められています。

Ⅰ.請願は実行せよ!
 今日の御言葉では誓いについて語られていきます。「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている」。これは十戒の第三戒について(出エジプト20:7)、 語られていることです。
 そして、「あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求め、あなたの罪とされるからである。誓願を中止した場合は、罪を負わない。唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい」(申命記23:22-24)とも語られています。主の御前に誓う時には、遅らせることなく、それを必ず果たすことを求めています。

Ⅱ.主の御前にある畏れを持て
 このことに対して、主イエスは「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」(34)と語られます。私たちは、主イエスが語られる真意を理解することが求められます。「一切、すべて」と語られると、一切、誓ってはならないと考えてしまいます。
 しかし私たちは文脈に従い、主イエスが語られた意図を考えて行かなければなりません。主イエスは続けて「天・地・エルサレム・あなたの頭にかけて誓ってはならない」とお語りになります。天に関しては、主なる神の御座であり、その厳粛さが問われていることを理解することができます。しかし地・エルサレム、そして私たち一人ひとりもまた、主なる神の創造の御業の表れであり、主の支配が及んでいます。すべては主のご計画の中にあり、主の御業、つまり摂理において、歴史の中で明らかにされていくことです。
 しかし、「天にかけて」、「地にかけて」、「エルサレムにかけて」、「自分にかけて」誓う時、それは、主の御業が行われることを無視して、自分の思いを実現することを宣言することとなります。私たちが主なる神による救いの御業に生きる時、それは聖霊の御業に従って生きることであって、私たちがそれを決定したり、自らの意志を貫くことではありません。これは聖霊の働きを邪魔しているに過ぎないのです。
 ですから、私は教会において、ビジョン・目標を掲げることはあったとしても、「○ヶ年計画」といったものを作成するのには反対です。「計画」と語ると、それに向けて教会形成を考えて行くことはできますが、しかし、主の御意思に反することが行われた時、教会がどう対応するのか問題が生じます。計画が実現しなかった時、反省や回顧を行われ、主の御意思に反することを計画した悔い改めが求められるかと思います。しかし、ビジョン・目標とすると、それにむけて教会形成を行っていきますが、目標からずれてきた時、主の御意志に聞き従い、軌道修正が行うことができるのではないかと思っています。

Ⅲ.キリスト者として主の御前に誓約して生きる
 その上で、私たちも主の御前に誓うことが求められることがあります。主イエスが語るように、安易に行ってはならず、慎重さが求められます(参照:ウェストミンスター信仰告白22:2)。
 ここで教会において行われる誓い・誓約に関して確認したいと思います。
 一つは、信仰告白です。洗礼を授かる、信仰告白を行う、転入・加入における誓約です。キリスト者となり、教会員となることを、神と教会の御前に誓約します。御父・御子・聖霊なる三位一体の神を信じること、自分が主の御前に罪人であり滅び行く人間であること、そして教会の秩序を守ること等を誓約します。これは神の民として必須の誓約です。
 第二は結婚の誓約です。結婚は個人のことですが、結婚が神によって定められ、神の御前に家庭を形成することで、結婚の誓約は重要です。ですから、教会において結婚式を挙げて頂く場合、未信者であっても、できる限り「神と証人」の前で誓約を行って頂きます。
 そして最後は、教会役員としての任職・就職の誓約です。長老主義として定められている役職は、教師(牧師)・長老・執事の三職です。神によって召されてそれらの働きに就くのであり、主の御前に誓約することが求められます。これは任職する時、そしてそれぞれの働きを実際に始めるときの就職の時に誓約が求められます。
 主の御名をみだりに唱え・誓ってはなりません。しかし主の御前に誓約する時、私たちはその重みを理解し、遜りと自己否定をもって主に仕えていくことが求められています。
 
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 「復讐してはならない」  マタイ5:38~42  2022.2.6 
 
 Ⅰ.旧約の律法を解釈する
 今日の御言葉では、旧約における律法を否定しているように語られています。しかし、5:17~20で語られていたように、主イエスは律法を廃棄するためではなく、実現するために語っておられることを、私たちは忘れてはなりません。
 主イエスは「『目には目を、歯には歯を』と命じられている」とお語りになります(38)。これは出エジプト21:24、レビ記24:20において語られていたことです。
 レビ記24:17~22では、罪を犯した者が、犯した罪に等しい刑罰を受けなければならないことが語られています。つまり旧約聖書においては、私たちが罪人であり、結果として、主の刑罰において滅びに定められていることを受け入れることが求められています。
 しかしイスラエルの人々は、「目には目を、歯には歯を」と言う言葉を切り取り、それだけの復讐は許されると解釈してきました。これは復讐には制限があることを教えていると語られてきています。しかし、律法はそういうことを教えているのではありません。

Ⅱ.隣人の罪を赦す
 39 「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。ここで私たちが誤解してはならないのは、主イエスが社会における悪や不正を「放置して良い」と語っておられるのではありません。主イエスご自身も、役人による不当な平手打ちに対しては抗議されます(ヨハネ18:23)。また、正規の手続きなしにむち打たれ牢につながれたパウロとシラスも抗議の声を上げています(使徒16:37)。主イエスは、旧約聖書の律法を破棄されたわけではありません。
 ここで主イエスは、罪人を前にして、「あなたはどのようにして福音を証ししますか」と問いかけておられるのです。この時、私たちはキリストの十字架を顧みることが求められます。キリストは、罪がない状態で逮捕され、罪人に数えられ、十字架の苦しみと死、墓に葬られ、陰府に下られることにより、私たちの罪を贖ってくださいました。この時キリストは、私たちが罪を自分で償い、その上で「私の所に来なさい」とは語られません。私たちは、自らの罪をすべて担うことなどできないわけで、キリストは「その罪は私がすべて担う」とお語りになり、私たちに対して無償の愛をお示しくださいました。つまり主イエスは、私たちに対しても、目の前にいる罪人に対して、「無償の愛を示しなさい」と語られています。このことを象徴する言葉が、39節の後半以降に語られています。
 主イエスは、主の祈りをお教えくださいましたが、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈るように求めておられます。このことを詳しく解説するのがウェストミンスター大教理問答問194です。

Ⅲ.教会戒規について
 つまり私たちがキリスト者として、キリストによる罪の贖いに生きようとする時、私たち自身が福音的に生きるには、相手がどうであるかではなく、私たち自身が主の御前に罪赦された者として、目の前の人を赦し、受け入れることが求められます。ですから私たちは、律法学者のように、私たち自身が裁判官になって裁いてはなりません。一つひとつの罪を裁くことができるのは、主なる神のみであり、キリストに委ねることが求められます。
 しかし、教会においては戒規を伴うことを扱うことが求められます。この時に私たちが忘れてはならないことは、「教会裁判」・「戒規」と語れば、人を裁くイメージがありますが、訓練であることをお覚えいただく必要があります。
 「訓練規定」 第1章 訓練 -- その性質、対象及び目的 --
第1条(訓練) 訓練は、教会の会員を教え、導き、教会の純潔と霊的豊かさとを増進するために、主イエス・キリストによって教会に与えられた献納の行使である。……
第4条(訓練の権能) キリストが教会に与えられた権能は、建てあげるためであって、破壊のためではなく、またあわれみをもって行使すべきであって、怒りをもってすべきではない。……
 特に第4条で語られていることを忘れてはなりません。罪を十分に自覚していない、受け入れていない人に対して、「これは罪だ」と語っても、それは建徳的ではなく、キリスト教会を建て上げる行為ではありません。私たちはキリストの教会を建て上げるのに、無償の愛をもって行うのであり、弱さ・罪があっても、互いに赦し、受け入れることが求められています。その上で、教会裁判においても、憐れみの心を忘れてはなりません。
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「敵を愛しなさい」  マタイ5:43~38  2022.2.20  
 
序.
 主イエスは、「復讐してはならない」とお語りになり、続けて「敵を愛しなさい」と語られます。今日の御言葉でも、旧約における律法を否定しているように語られています。主イエスは律法を廃棄するためではなく、実現するために語っておられます(5:17-20)。

Ⅰ.隣人を愛することと聖戦の関係
 「隣人を愛する」ように求めることは、旧約聖書において繰り返し語られていることです(レビ19:18他)。しかし、「敵を憎め」ということが直接的に語られていることはありません。強いて挙げるならば、申命記23:3~6です。また主なる神は、イスラエルの民に、カナンの原住民を滅ぼし尽くすように、繰り返し求められます。これが聖戦・聖絶です。
 聖絶することと、敵を愛することは、矛盾するように思ってしまいます。しかし、旧約における聖戦は、主なる神が直接イスラエルの民(族長・士師・預言者等)に語りかけていることを忘れてはなりません。主なる神は、カナンの原住民らが主の御言葉に聞き従うことがなく、滅びに至る者であることを知っておられます。つまり最後の審判において、すべての者が主の審判を受けるのですが、彼らはそれに先だって主の裁きを受けているということです。そして彼らが主による裁きを受けることにより、主が最後の審判においてもすべての者を裁く権能を持っておられることを、私たちは知るのです。

Ⅱ.あなたの隣人とは誰か?
 私たちは、主イエスがお語りになる「隣人」とは誰であるかを確認することが求められています。善いサマリア人のたとえにおいて(ルカ10:25~37)、主イエスは、苦しんでいる人を助けたサマリア人こそが、「あなたの隣人である」とお語りになりました。サマリア人は、ユダヤ人にとってはイスラエルから離れて行き、偶像に仕えるようになった異邦人、罪人でした。その「サマリア人こそが隣人である」と主イエスは語られます。つまり私たちにとって、敵味方、同胞・異邦人、善人・罪人に関係なく、すべての人が隣人です。
 つまり新約の時代にあって、主なる神が罪人を裁くようにお語りになる直接啓示はありません。そしてキリストの十字架の贖いを語り、悔い改めを求めます。今、イエスに敵対し、罪人であった者であっても、主なる神、イエス・キリストを救い主として信じる者に、主は罪の赦しと救いをお与えくださいます。ですから、昨日まで敵として戦っていた者であったとしても、その罪を赦し、彼らが罪を悔い改めて、主を信じるようになるように、「あなたは祈りなさい」と主は私たちに求めておられます。
 今、世界では力の支配が行われています。香港・チベット・ミャンマーにおいて抑圧されている人々がいます。ウクライナでも戦争の危機が迫っています。こうしたことは、戦争や信仰の故の迫害ばかりか、社会や家庭において行われる様々なハラスメントにおいても行われます。苦しめられた者にとって、迫害者たちを愛すること・罪を赦すことは、感情的にできません。特に家族や民族が虐げを受け、殺されてきた人々にはなおさらです。

Ⅲ.私たちの敵すら憐れんでくださる主なる神
 しかし主イエスは、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るようにお求めになります。この愛を主イエスは、主イエスご自身が十字架に架かられる時にお示しくださいました(ルカ23:32-34)。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。
 苦しむ人々を顧みることなく、戦争したり、迫害したりすることができる人々は、自己中心の生き方をしているわけですが、その心は、サタンの支配にあり、自分が主なる神により裁きを受け、滅びに至る行動を行っているということを、理解していません。
 一方私たちは、キリストの十字架の御業により、罪の贖いと御国の生命と祝福の喜びが与えられています。この私たちが彼らの愚かさを知る時、滅びに向かっている彼らに対して、彼らの目が開かれ、自らの愚かさ・罪が示され、悔い改めに導かれるように、祈ることができるのではないでしょうか。ここに物事の逆転が生じます。つまり、今苦しみ虐げを受けている私たちは敗北者の姿に映りますが、キリストにおいて勝利が与えられ、そして主の裁きに対して何もできない彼らを見ています。主は、私たちと敵対する者たちにも憐れみを示し、救いの道をお示しになります。そしてこの私を用いられます(参照:ヨナ)。
 私たちが憎しみ、敵対するする者たちを批判していても、彼らは私たちに反発するだけであり、彼らが悔い改めることはありません。私たちは、感情的に彼らを批判するのではなく、彼らを愛し、彼らのために祈ることを、主は私たちに求めておられます。この時、主は聖霊により働かれ、彼らの頑なな心を打ち砕いてくださいます。
 
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「施しをするとき」  マタイ6:1~4  2022.3.6   
 
 序.
 今日からマタイ福音書6章に入ります。5章で八福に続けて語られてきたことは、新約における律法のあり方について、特に隣人との関係についてでした。その根底にあるのは、主なる神に対する愛であり、隣人に対する愛です。特に5:38~48において語られていた「復讐してはならない・敵を愛しなさい」という言葉は、ウクライナにおいて戦争が始まった今、改めて私たちが耳を傾けなければならない御言葉です。

Ⅰ.誤った礼拝行為
 そして6章に入り、主なる神を礼拝するとは何かについて話しは展開していきます。6章の最初に語られている3つのこと(施しをすること、祈ること、断食をすること)は、それぞれ主なる神への礼拝行為ですが、どのように主を礼拝しなければならないのかということを考えて行くこととなります。
 ここでそれぞれ共通のこととして語られていることは、「偽善者のようであってはならない」(6:2,5,16)ことです。別の言い方をすれば、主なる神を信じ、主なる神を礼拝していると称しつつも、実態は神を信じることなく、自己中心の生き方をしていることを語っています。つまり誰に対して、どこを向いて礼拝を献げているのかという問いかけです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」(1)。
 つまり礼拝を献げる時、私たちの顔・心は、私たちに命を与え、私たちを罪の刑罰から救い出してくださった主なる神に向いていなければなりません。しかし偽善者と語られる人たちは、神を礼拝している姿を、他人に見てもらうことが目的化しています。このとき、主なる神による救いへの感謝はなくなり、神礼拝ではありません。神を礼拝していることを取り繕っているにすぎません。

Ⅱ.神を信じていない者たちが行う施し
 神礼拝の3つの行為の最初に語られているのが施しについてです。施しを考える時、神を信じていない人たちの行為(ボランティアや募金活動)との違いを考えなければなりません。今もウクライナのために多くの方々が活動しています。
 こうしたことを、ウェストミンスター信仰告白は、「第16章 善い行いについて」の第7節で「再生していない人々によってなされる行いも、内容的には神が命じておられるもので、かれら自身にも他の人々にも有益なことがある」と告白します。つまり彼らの中には、NPOを組織しておられる方々、また自己犠牲をもって行っている方々もおられます。私たちはそうした方々を支え、支援することも必要かと思います。
 しかし信仰告白は続けて次のように告白します。「しかし、それらの行いは、信仰によって清められた心から出るのではなく、また、御言葉に従って正しいしかたでなされるのでも、神の栄光という正しい目的のためになされるのでもないから、罪深く、また、神を喜ばせることも、人を神から恵みを受けるのにふさわしくすることもできない」。

Ⅲ.無償の愛
 パウロはⅠコリント13章で愛について語ります。キリストが十字架の御業によってお与えくださった罪の赦しと救いによる愛、この救いの感謝が、神を愛し礼拝する者とされ、隣人を愛する者とされていきます。この時に忘れてはならないことは、キリストの十字架によって私たちに与えられた救いは、主が見返りを求められない無償の愛です。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(13:3)。ここに自己正当化・英雄になろうとする自己欲が少しでもあれば、それは見返りを求めない無償の愛ではありません。
 施しをするときに求められることも、主なる神の救いに感謝し、与えられているすべてに感謝しつつ、隣人のことを覚えつつ施すことです(参照:Ⅰコリント13:4-6)。
 施しをすることは、一見、信仰とは異なる行為のように思われますが、このようにキリストの十字架の御業により罪が贖われ、救われ、神の子とされた者が、すべてを主が支配し、昨日も今日も明日も主が私たちの生命を司り、必要をお与えくださる方であることを覚える時、施しを行うことは、神を知らない人たちと同じことを行ったとしても、その本質はまったく異ないます。だからこそ、施しやボランティアのように、ノン・クリスチャンでも行っていることも、彼らに任せっきりにするのではなく、キリスト者が責任をもって行っていくことが大切であることを、私たちは覚えなければなりません。
 
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「祈るとは」  マタイ6:5~8  2022.3.13  
 
 序.
 山上の説教も6章に入り、施し・祈り・断食をとおして、私たちがどのように神に礼拝を献げることが求められているのかということを学んでいます。

Ⅰ.真のキリスト者と偽善者
 主イエスは「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」とお語りになります(5)。施しをするときにも出てきた「偽善者」です。
 偽善者とは、背信者・偽装を行う者・俳優といった意味もある言葉です。「もどき」という言葉が当てはまるかと思います。見た目・表面的には、素晴らしい人格者・信仰者に見せかけます。しかしメッキが剥がれるように、内心・信仰の本質が伴っていなければ、真のキリスト者とは言えません。
 真のキリスト者とは何か? 礼拝・集会に出席する熱心さ、一生懸命奉仕すること、こうしたことはもちろん大切なことです。しかし愛がなければ、「騒がしいどら、やかましいシンバル、無に等しく、何の益もありません」(Ⅰコリント13:1-3)。偽って行われることは、どれだけ素晴らしいことであっても、無意味なことです。そして主イエスは「彼らは既に報いを受けている」(5)と語られ、主の裁きを受ける行為です。偽装は偽証罪ですす。

Ⅱ.どのような神に対して祈るのか
 では私たちはどのように祈ることが求められているのでしょうか? そもそも祈りとは神と人との交わりであり、私たちの側からすれば、神さまに願いを聞いていただくこと、そしてその願いが神さまによって成し遂げられることを求めることです。
 この時、祈りを聞いてくださる神がどのような方かを知ることが徹底的に重要です。つまり祈ったときに願いが叶えられればラッキーとの思いで祈るのは、神の存在を信じていないか半信半疑の状態で信じ切っていないことの証拠です。あるいはいろんな神々に祈り求め、どの神でもよいから、願いを叶えて欲しいとの祈りもあるでしょう。

Ⅲ.全知全能の神への祈り
 主イエスは「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(6)とお語りになります。
 生きて働く主なる神がおられる、その存在を信じることが重要です。ここには半信半疑や疑いは生じません。祈ることにより、必ず祈りが聞き届けられるとの確信をもつことです。「求めなさい。そうすれば与えられる。……そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる」(7:7-8)。

 ②全知の神に祈っているのだ!
 そして祈るときには、主なる神が全知全能の神であることを信じて祈ることが大切です。つまり主なる神は、天地創造をもって始められ、そのときから今に至るまで、そして永遠にすべてのものを治め、生命を与え、支配しておられます。このとき、私たちのすべても知っておられ、私たちが家の奥まった部屋にいたとしても、主は知っておられ、さらに、私たちが何を思い、何を祈っているのかを、すべてご存じです。
 また、主は全世界を支配しておられ、主なる神に不可能はありません。私たちにとって奇跡を思うような自然現象を超えて働く力、病気を癒やし、死者を生き返らせる力を持っておられます。ですから主イエスは語られます。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(マタイ17:20)。
 コロナのことも、ウクライナにおける戦争のことも、私たちは嘆くしかありません。しかし主なる神は解決する御力を持っておられます。だからこそ私たちは、何か行動を起こすことはできなくても、すべてを支配しておられる主なる神を信じ、祈ることができます。

Ⅳ.どのように祈るのか
 そして私たちが主なる神にどのように祈るべきかウェストミンスター小教理問答問98で告白されています。主なる神を信じて、すべてを委ねて祈る時、ただ私たちは願いを祈り求めるだけに留まらなくなります。私たちの祈りを聞き届けてくださる主なる神は、キリストの十字架の御業により、私たちの罪を償い、私たちを神の子として受け入れ、神の御国における永遠の生命をお与えくださいました。救われ、永遠の生命が与えられているからこそ、喜びをもって生きることができます。すると私たちは祈りの度に、罪の赦しと救いに感謝し、主の御前になおも罪を犯し続ける自らの姿を悔い改めることが伴ってきます。
 くどくどと祈ったり、力を込めて祈る必要はありません(7-8)。ただ、主なる神を信じ、すべてを委ね、心の底から祈り求めることが求められています。
 
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「このように祈りなさい」  マタイ6:9~13  2022.3.20   
 
序.
 山上の説教も6章に入り、前回・今回と祈りについて学びを行っています。そして前回、祈りは偽善者のようであってはならないことをお語りしました。偽善者はもどきでありメッキは剥がれます。内心・信仰の本質が伴う祈りが求められます。私たちの信じている主なる神は、全知全能の神であり、不可能はありません。だからこそ、私たちを救ってくださった感謝と喜び、主の御名を誉め称えつつ、すべてを委ねて懇願することができます。

Ⅰ.聖書全体が祈りである
 このことを受けて、主イエスは祈りの見本として「主の祈」をお教えくださいます(参照:ウェストミンスター小教理問99)。「神の言葉」これは聖書のことを語っています。祈りの手本として、聖書全体が私たちに祈りを教えています。主なる神への賛美・栄光、感謝と喜び、罪の悔い改め、そして執り成し、懇願などの祈りがあります。
 私たちの教会、それは現在の日本のプロテスタント教会に共通の思いかと思いますが、自由祈祷、つまり、自分の言葉で祈り求めることが大切であると思われています。しかし、主イエスがお教えくださった定型祈祷も大切にしていることを忘れてはなりません。

Ⅱ.定型の祈祷文による祈り
 そして宗教改革の時代、特にイングランド国教会の伝統に立つウェストミンスター神学者会議においては、「自由祈祷でなければならない」といった思いはありませんでした。月に一度断食祈祷日がありますが、このときには、説教が語られ、自由祈祷が行われていましたので、自由祈祷を否定したのではありません。しかし英国国教会においては、祈祷書の伝統があります。定型の祈祷文があり、それによって祈ります。その代表として、主の祈りがあるといって良いかと思います。
 ではなぜ今のプロテスタント教会において祈祷書の伝統がなくなったのでしょうか? いくつか原因がありますが、一つはカトリック教会や聖公会が用いていたことから、必要以上に拒否してしまうということが起こりました。また定型の祈祷書ですので、毎回用いることにより魂が抜け、本来の祈祷の力を失うからです。このことは聖餐式においても言われることで、そのために聖餐式も本来は御言葉の説教と共に毎回行われて良いのですが、私たちの教会では通常月1回にして、マンネリ化を防いでいるのです。
 しかし自由祈祷の弊害も忘れてはなりません。自由祈祷が行われるためには、言葉を獲得することが大切です。そのため、公的礼拝などで祈祷を行う場合、準備することが大切です。ただ自由祈祷は、その人の信仰が表れます。そのため、祈りに力がなくなることもあります。そのため、神学的に整えられた祈祷文で祈ることにより、祈りに魂が宿ります。
 そのため礼拝における開会祈祷や献金感謝では、定型の祈祷文を用いても良いかと思います。聖餐式や洗礼式、任職式などの書式ではすべて祈祷文を用いています。

Ⅲ.主の祈
 では主の祈りにおいて主イエスは私たちにどのように祈ることを求められているのでしょうか。各項に関しては、「神さまと共に歩む道」において学んでおり、さらに子どもメッセージにおいてもこれから学びます。
 ですから今日は、主の祈りの全体像について確認したいと思います。ですから主の祈りの全体像をとらえ、流れを確認します。つまり、御名が崇められることにより、永遠から永遠に生きておられ、全知全能の主なる神を誉め称えることからはじめ、主のご計画により神の御国が完成するようにということであり、これは神の国の完成という時間的な流れを確認します。そして続く3番目の祈りにおいて、この神の御心が天において行われるように、地においても行われるように、つまり、この救いの流れというものが、神の内に留まるのではなく、私たち人間・被造物にも与えられる祈りへと続きます。
 そして後半には、私たちの生活(肉の糧)、そして私たちの平和・和解の祈りへと続きます(罪の赦し)。そして最後に、地上の苦しみからの解放、同時に救いの完成において成し遂げられる罪の裁きによって与えられるものであり、今、肉の生に生きることばかりか、罪の赦しと救いによって与えられる神の国の完成を覚える祈りとなっています。
 つまり、神の御業の全体、そして私たち罪故に滅び行く者が罪赦され、救われ、神の御国に生きる者とされていくことの救済をダイナミックに覚えつつ祈る祈りとなります。条文主義に陥ることなく、主の救いのダイナミックな流れを覚えつつ祈ることが大切です。
 
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 「人の過ちを赦す」  マタイ6:14~15  2022.4.3   
 
序.
 主イエスは偽善者のようであってはならないと語りつつ、施しを行うこと、祈ること、そして断食をすることがどういう意味を持っているのかを、マタイ福音書6章で語ります。

Ⅰ.祈りの方向性
 前回は祈りの型として主の祈りについて確認しました。主の御前に遜りつつ、天地万物の創造からキリストによる罪の赦し、そして神の御国の完成に向けた救済史における神の大いなる御業を覚えつつ、祈ることが求められています。その上で主イエスは主の祈りと共に一つだけ祈りを付け加えます。それが人の過ちを赦すことです(14~15) 。
 主イエスが一つ付け加えたその意味を考えてみます。主の祈りは、前半の3つが主なる神の栄光を称え、その御業が成し遂げられるように祈ることが求められ、後半の3つが私たち自身のことを祈ることが許されています。その上で、後半の最初「日用の糧」は、神と自分、神と人間の関係において与えられることを願う祈りです。第六の「誘惑から守られ、救い出されるように」も同様です。しかし第五の祈りは、唯一、私と隣人の関係における祈りです。十戒と主の祈りで共通することですが、主なる神による救いから生じる神と私自身の縦の関係と共に、隣人を愛するという横の関係を大切にすることです。
 別の言い方をすれば、信仰とは神との断絶の関係を回復することだけを行っていれば良いのではありません。ですから私たちは、毎日聖書を読んでいれば良い、信仰を持っていれば良いで終わりません。教会における礼拝、そして教会における聖徒の交わりを大切にします。教会における交わりをとおして、初めて神との関係も回復することができます。

Ⅱ.分断ではなく、協力と一致を求めて
 なぜならば横の関係を取り戻さなければ、信仰が個人的・一人よがりになってしまいます。その結果、自分は神によって選ばれた特別な人間だという特権意識、あるいは自分は神の御言葉に聞き従うことができる立派な人間だという律法主義的な意識、神が愛してくださっているから成功したのだという差別的な意識が生じてきます。
 すると、キリスト者としての特権意識のある人たちは神を信じていない人たちに対して、律法主義的な意識のある人たちは自分が思っている神の義に違反する人たちに対して、さらに差別的な意識がある人たちは失敗する人たちに対して、見下し・差別することとなってきます。そうなると教会の中に自分とは異なる立場の人たちがいる時、断絶が生じ、バラバラになります。そうすると、人々の心に福音が届かなくなります。
 すべての神の民は、神の国における晩餐に招かれています。神の国においては分裂も分断もなく、キリストにあって一つです。そのため神の国を目指す教会においても、互いに赦し合うこと・違いを認め合うこと・協調することが求められます(参照:ローマ12:3-6a)。
 このとき、一人ひとりのキリスト者に求められるのが、遜りであり、謙遜・自己否定です(参照:ガラテヤ5:22今年の聖句)。これらを獲得するために、私たちは徹底的に主なる神のお語りになる御言葉に聞き、神中心の信仰、神の御前に生きる(コーラム・デオ)が求められます。

Ⅲ.キリストによる罪の赦しを受け入れよ!
 しかし現実には、虐げを受けている相手を赦すこと、罵倒されている相手を赦すことは、できることではありません。残念ながら、教会においても、人を傷つけることが繰り返し行われており、その結果、躓きを覚え、教会から離れて行かれた方々も少なからずいます。そのため、私たちも一人ひとりも躓きの石になっていないか、常に注意すべきです。
 それでもなお、主イエスは「人の過ちを赦す」ことを求めておられます。私たちは律法・十戒をとおして、自らが罪人であることを受入れ、キリストの十字架による贖いによって罪が赦され、神の子として神の御国に受け入れられています。しかし主なる神は、義なるお方であり、本来ならば罪人である私という人間を受け入れることができません。そのお方が、御子であるイエス・キリストをこの世にお送りくださり、十字架において肉の死と葬り、陰府(地獄)に送られることにより、私の罪を赦してくださいました。そして御子は死に打ち勝ち、サタンに勝利を遂げ、私と和解してくださいました。この主の愛を覚え、私たちもまた主が罪を赦し、神の子として受け入れてくださっている兄弟姉妹を愛し、罪を赦し、聖徒の交わりを持つように求められています。
 私たちは、主の裁きは主によって行われることを信じつつ、なおも罪を赦すことができない人がいたとしても、その人に主による罪の悔い改めと改心が与えられることを求め、その人を赦し、受け入れていくことが求められています。
 
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  「断食するとは」  マタイ6:16~18  2022.4.10   
 
Ⅰ.教会史における断食
 断食を、私たち日本のキリスト者はほとんど行いません。しかし、聖書にも断食が行われてきたことは記され、私たちの教会規定においても断食が礼拝行為の一つとして紹介されており、否定されるものではありません。モーセはイスラエルの民が犯した罪のために40日40夜断食を行いました(申命20:36)。
 断食は、それに伴う肉体的苦痛を通して、深い罪の自覚と恐れをもって神に近づき、祈りと悔い改め(ヨエル1:14)を行う礼拝行為です。また断食の時、荒布をまとったり(詩35:13)、灰をかぶったり(エステル4:1)したのも、自分の無価値、愚かさを表現したものです。ですから断食は、ただ食事を抜く行為ではなく、主を礼拝し、祈りと悔い改めが求められます。
 こうした断食は、新約の教会、宗教改革の教会においても否定されることはなく、ウェストミンスター神学者会議(1643-49)においては、毎月一日を断食祈祷日を行っており、その日は会議を休んで断食を行っていましたし、当時は英国内で、王党派とピューリタンの議会側との間で内戦が行われていましたが、特別な断食祈祷が行われることもありました。
 現代でも韓国の教会などでは熱心に行われているかと思います。特に牧師になる献身者などは、40日の断食を経て、神学校に行くということも行われているようです。そして、今のウクライナにおける戦争に対しても、断食をしている教会もあるかと思います。

Ⅱ.主イエスと断食
 主イエスご自身も、宣教活動に出られるにあたり40日間断食を行われ、その後にサタンの誘惑を受けられました(マタイ4:1~11)。そのため断食自体を否定されることはありません。しかし主イエスは断食に関して、二つのことを語ります。一つは、偽善者による断食の危険性についてです。そしてもう一つは、断食が必要な時についてです。
 最初に後者の断食が必要な時について確認します(マタイ9:14~15)。マタイ9章では、救い主イエスご自身が目の前におり、祝いの時に断食は不要であると語られます。しかし花婿が奪い取られる時、つまり主イエスが逮捕され十字架に架かられ、死を遂げられた時には、断食を行うことが求められます。その後主イエスは勝利を遂げ、復活された後、今は天に昇っておられます。救いが実現した新約の時代に断食が必要かということが議論されます。要・不要の両方に解釈できます。この件に関しては改めて9章において学ぶこととします。

Ⅲ.断食における偽善的行為
 山上の説教において、主イエスが断食について問題としておられるのが、偽善者が行う断食という行為についてです。ここで問われるのは何のために断食を行っているのかです。主イエスは「偽善者は、断食をしているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」と語られています。彼らの行う断食は、自分の行いを認めてもらおうとする意図があります。
 つまり彼らは断食をすること自体が目的化としており、本来の目的である主なる神の御前に遜り・罪を悔い改め、主を礼拝することは、その行為の目的には含まれていないこととなります。このことはファリサイ人たちが週に二度断食を行っていることを誇っていた(ルカ18:12)ことを、主なる神への礼拝行為ではなく、人々に認めてもらうためだけに行っていた偽善であると、主イエスが指摘していることから理解していただけるかと思います。
 「人に見てもらうためではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただく」ことが重要です(18)。つまりこれは他の礼拝行為にも通じることですが、誰に対して、どこを向かって礼拝しているのかが問われています。創造主・贖い主である神との関係が正され、神の恵み・救いに生きる時、初めて兄弟姉妹との隣人の関係が生じるのであって、周囲の人たちに認められて、キリスト者と認められるのではありません。
 つまり偽善とは、神を礼拝していると語りつつ、そうはしていないことであり、神の御名をみだりに唱える第三戒違反であることを、ウェストミンスター大教理問113は語ります。大教理は、第三戒で禁じられている罪の「〔第七に〕偽善で、あるいはだます目的で、〔キリスト教〕信仰を装うこと」と語られています。「神を信じている」、「神を礼拝している」と語りつつ、主なる神の御前に立たなければ、それは、主なる神の名をみだりに唱える第三戒違反であることを、ウェストミンスター大教理問答は指摘しています。私たちは、周りの人たちを気にして生きるのではなく、主なる神の御前にあって救いの喜びに生きることが、何よりも第一に求められています。その上で、兄弟姉妹との横のつながり、聖徒の交わりを深め、隣人愛に生きることが求められています。
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 「富を天に積む」  マタイ6:19~21  2022.4.24  
  
Ⅰ.キリスト者は富が不要?
 聖書は、繰り返し神と富とを対比して語るため、「富=悪」のような図式が描かき、「キリスト者が金持ちであってはならない」と思っている人もいるのではないかと思います。
 しかし聖書が金持ちになることを否定していると考えてはなりません。「働く者が報酬を受けるのは当然である」(Ⅰテモテ5:18、参照:ルカ10:7)。そのため、高度な技術を持っていたり、重労働であれば、それにふさわしい報酬を受け取るのは当然です。
 また現実の問題として、教会においても、毎年予算を定め、献金において予算が満たされることを求めます。お金がなければ、教会活動・伝道も滞り、牧師給与が賄えなければ、無牧になることもあります。聖書は、キリスト者が世俗の社会から離れた所で、アーミッシュのように生活することを求めていません。

Ⅱ.創造と富の関係
 キリスト者と富の関係を確認するために、私たちは天地創造に関して確認しなければなりません。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」(創世記1:26)。これは、文化命令・労働命令と呼ばれています。「支配する」とは「管理する」ことです。つまり、主なる神は人に被造物のすべての管理を任してくださいました。
 このとき、支配し管理しようとするために、秩序を整える必要があります。知恵が求められ、そこから発明・発見が行われていきます。人は、各々異なった賜物が与えられており、それぞれにふさわしい働きを行うことにより、互いに助け合い、被造物を管理することが求められています。このときに、整えられた秩序の中において用いられるのがお金(富)です。文化の歴史から考えると、当初は物々交換を行っていたものが、次第に貨幣文化が整えられていったと言って良いかと思います。
 つまり富は、主によって創造された被造物である人間が、地上において主から賜った被造物を管理するために用いられるものです。ですから、キリスト者が地上に生きている間、被造物を管理する目的で、ふさわしく富を用いることは正しいことです。そのため主なる神は、人が報酬として得た富を、神に感謝して献げることを求められます。旧約聖書では、1/10を一つの基準に定められました。そして神の教会であっても被造世界の営みにあるわけで、神の民によって献げられたものをもって、教会を運営することが求められています。

Ⅲ.罪の結果、欲望により変質化した富
 ここで問題となってくるのが「罪」です。そして管理するために用いられていた富に罪が混入する時に、欲望が生じてきます。支配欲、物欲、金銭欲……
 文化命令の秩序に従う時、富を持っている者は持っていない者に施すことが求められていましたが、罪の故に欲望が生じ、それを行わなくなりました。そのため、主イエスは、金持ちの青年に対しては、貧しい人たちに施すことを求められます(マタイ19:21)。また金持ちであることを誇りつつ献金する者を、主イエスはさげすまれます(ルカ21:1-4)。
 主はこの欲望に対して、第八戒「盗んではならない」と語ります。そしてウェストミンスター小教理は、下記のとおり問答します。問74「第八戒では、何が求められていますか」。答 第八戒は、わたしたち自身と他の人々の、富と財を合法的に獲得し、増進させることを求めています」。問75「第八戒では、何が禁じられていますか」。答「第八戒は、わたしたち自身や隣人の、富や財を不当に損なったり、そうする恐れのあるいっさいのことを禁じています」。

Ⅳ.富を天に積むとは…
 今日の御言葉において、虫が食ったり、さび付いたりすることを語りますが、穀物や金属のことです。これらは地上で用いるものです。
 その上で、キリスト者が「天に富を積む」こととは、何を意味しているのでしょうか。「天に富を積む」とは、今まで語られてきた地上において用いられる富ではありません。「大切な心・信仰」と言い換えても良いでしょうか。つまり、与えられた富は、地上において適切に用いることが大切です。つまり主が必要を求められるところに献げることが求められます。それは教会の働きであり、貧しい者、苦しんでいる人たちのために献げることです。多く持つことがダメなのではなく、多く与えられた者は、それだけの責任をもって財を管理することが求められます。このことを主イエスは、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と語られています(参照:ルカ12:16-21)。
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 「全身を明るくするには」  マタイ6:22~23  2022.5.8 
 
 
Ⅰ.光と光を理解できない人
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:1-5)。光である救い主イエスはこの世に来られ、ご自身の生涯、特に十字架の死と復活、昇天により、私たちに救いをお示しくださいました。
 暗闇であrこの世において、神の救いが示され光が輝いています。しかし、暗闇に生きる人々は光を理解することができません。目が濁っているからです。

Ⅱ.聖霊の宿り
 どのようにすれば、目の濁りを取り除くことができるのでしょうか? 二つのことを考えることができるかと思います。一つ目は、聖霊が与えられることです。聖霊がその人に与えられなければ、家族が教会に行き、喜びをもって生き、伝道されたとしても、また聖書を読み、素晴らしいと思ったとしても、主なる神を信じることはできません。
 聖霊が働くことによりはじめて、救いへと有効に召命を受け、義と認められ、神の子とされ、聖化の歩みを始め、罪の悔い改めと信仰告白へと導かれます。

Ⅲ.正しく聖書を読むこと
 第二に、いくら聖霊が与えられ、神による救いを受け入れ信仰を告白したとしても、聖書の読み方を間違えれば、正しく主なる神を理解し、信じ、主が求めておられる信仰生活を行うことはできません。私たちはキリスト者とされたとしても、罪の残滓があるため、自分の思いで聖書を読み、解釈します。このとき、自分の持っている結論ありきで聖書を読み、都合良く聖書を解釈する過ちを犯します。そのため自分中心の信仰ではなく、神中心の信仰、つまり聖書が私たちに何を語りかけているのか、耳を傾けなければなりません。
 このときに必要となってくるのが信仰告白です。私たち改革派教会は、簡易信条ではなく、詳細信条であるウェストミンスター信条を信仰基準として採択しています。使徒信条やニカイア信条は、カルケドン信条、アタナシオス信条と共に公同信条、もしくは古代四信条と呼ばれますが、ここで告白していることは、御父・御子・聖霊の三位一体の神を信じること、そして人でありつつ神であるキリストの二性一人格を信じることです。ですから基本としてキリスト教か異端否かを判別することには用いられますが、これだけでは、自己中心の信仰、結論ありきの聖書解釈を改めることはできません。
 そのために、聖書をとおして主なる神が私たちに語りかける言葉に聞くために、そのガイドとして、詳細な信仰告白が求められます。このときに注意しなければならないのは、聖書とウェストミンスター信条を持てば、すべてを理解することができるかと言えばそうではありません。詳細信条だからこそ、そこに何を意図して何が語られ、どこに向かっているのか、それを明確に常に提示する必要があります。そのことを、私は、聖書概論の図、ウェストミンスター信仰基準の概要の図を提供し、私たちに何が求められているのか、常々確認しつつ、聖書の御言葉に聞き、信仰基準をとおして教理の学びを行っています。
 正しい資料を提供すれば、あとはその人任せでは、理解することはできません。すばらしい資料、正しい知識であっても、それをどのように理解すれば良いのか、解釈する方法を常々示し、そして回答を提供して、初めて聖霊によって召されたすべての人たちが理解でき、主が求められる信仰生活を送ることができるようにされます。

Ⅳ.謙遜と自己否定により、光を理解しよう!
 このときに、もう一つの誤ったことが起こります。聖書の学びを一生懸命行い、理解したとしても、聖書知識と信仰生活が一致しないことです。頭でっかちではいけません。
 ここで起こりうることは、主が語りかけられる御言葉、特に罪に関わることを、自らに語りかけられている御言葉として聞くことができず、「自分には関係ないこと」と理解する時、生活に変化が起こることはなく、むしろその知識を用いて、他人を裁く律法主義に陥ります。私たちは常に注意しなければならず、周囲の人たちとの豊かな交わりを持ち、謙遜になって、客観的に自己判断を行い、誤りを正していくことが求められます。
 今年の標語は「主の支配に生きる-謙遜と自己否定によって」(ガラテヤ5:22~23)です。私たちは、光である聖書の御言葉を、謙遜と自己否定によって示され、ウェストミンスター信条のガイドにより聞くことにより、主の御意志を理解し、キリストの教会を建て上げていくために、主に用いられる者とされていきます。
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 「二人の主人・神と富」  マタイ6:24  2022.5.15 
 
Ⅰ.今日の御言葉の位置づけの確認
 6:19~21においても、富について語られていました。今日のテキストでも同じことを語っているのかと思われるかと思います。確かに聖書では、大切なことは2度・3度繰り返し語られます。しかし、19~21節の所と今日の24節では、テーマが異なっていることに気付いて頂きたいと思います。つまり、19~21節では主がお与えくださった富を有用に用いることの大切さが教えられていました。しかし24節では、富は完全に神に対立するものとして語られています。つまり、「富」は、「罪」の代表、「偶像」に位置する言葉です。従って、22~23節で語られている光と闇の関係を神と富において語られています。

Ⅱ.仕えるとは
 ここで「仕える」と言う言葉に着目します。日本語では理解できませんが、「奴隷」から派生した言葉で「奴隷奉公する」と訳した方が良い言葉です。私たちは「仕える」あるいは「働く」とき、どのような条件なのかを確認します。しかし奴隷として仕えるときには条件はありません。ただ、主人の命令のままに従うことが求められます。絶対服従です。
 奴隷制度に関しては、20世紀になりようやく理解が進み、奴隷解放が行われました。しかし今なお世界中で、奴隷的な扱いを受け、抑圧されている人たちがいることも事実です。私たちは、こうしたことに対して、「否」の声を挙げていくことが求められています。
 個人が大切にされていくこと・人権は重要なことですが、人権が大切にされることにより、聖書が語る「仕える」=「絶対服従」の理解が希薄になってきています。このことが、神を信じ、神に絶対服従することが嫌われ、自分の自由な意思を貫くために、教会から離れ、自由に生きることが、人々に好かれている要因にもあるかと思います。

Ⅲ.神の御声に聞く教会形成
 この概念は、人間中心の教派形成につながります。「自分が神を選び、神を信じる」となります。多くの教会が持っている概念であり、神人協力説です。すると信仰は個人的になります。神を信じること、教会に行くこと、律法に仕えることも、自分で行うことが可能か否か、自分にとって得か損か、と言った概念で考えるようになります。ここには絶対服従は存在せず、物事の優劣を自分で判断します。これが聖書が語る神と富の二人の主人に仕えることです。ですから教会においても、一人ひとりの個性を認めることは良いことですが、バラバラになり、一つのキリストの教会を形成することが難しくなります。
 ですから、改革派教会では神中心、「コーラム・デオ(神の御前に)」生きることを語ります。私たちは何よりも神の御言葉に聞くこと、つまり聖書に聞き従うことが求められます。朝の礼拝でルカ福音書10~11章を学んでいます。主イエスが弟子たちを伝道に遣わされたとき、伝道の成功よりも、天国に名があることを喜びなさいと語られました。そして良きサマリア人では、自分の都合の良いように隣人に境界線を引くのではなく、無条件ですべての人たちを愛することが求められました。マルタとマリアの話しでは、奉仕することも大切ですが、御言葉こそが第一であり、御言葉抜きの奉仕は律法主義に陥ることを確認しました。祈りにおいても、御言葉抜きの祈りは自分勝手な祈りを招くため、まず主の御言葉に聞き主を崇め、その上で、懇願すべきであることを確認しました。神中心の信仰、神の御言葉に聞き従うことが大切です(参照:ウェストミンスター信仰告白1:4)。
 神中心の信仰は、会議(小会・中会・大会)においても言えます。会議は、按手された教師・長老によって行われます。そのため会議の決議は、主の決定として、個人的には反対をしたとしても、それに従うことが求められます。そうでなければ、神の秩序は保たれません。そのために会議において充分に議論し、互いの理解を深める必要があります。

Ⅳ.真に仕えるとは
 さて「仕える」とは奴隷的隷属ですが、私たちは神を愛すること親しむことでもある語ります。つまり、奴隷的な服従=虐げを受け、自由がない神のイメージですが、そうではありません。主は滅び行く私たちを、御子の十字架の贖いにより、罪を赦し、神の子として迎えてくださるほど、私たちを愛していてくださいます。そして、私たちは祈る時、「アッバ、父よ」と親しく呼びかけることが許されています。ここに愛の交わりがあります。
 律法(十戒)で服従が求められます。しかし罪人である私たちは守ることができません。この罪の刑罰をキリストが十字架で担ってくださいました。主の救いに感謝して、私たちは律法に聞き従い、同時に隣人の罪をも赦し、和解することが求められています。
 神か富の二元論ではなく、私たちは神を第一に生きることが求められています。
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 「思い悩むな」  マタイ6:25~32  2022.5.23 
 
序.
 夕拝において私たちは、山上の説教に聞き続けています。マタイは、弟子とした漁師たちに最初に語りかけるように、説教を行います。いわば主イエスの弟子として、そして神によって救われた神の子にとって必要なことを語りかけてくださっています。

Ⅰ.私たちの命・私たちの体
 そして6章半ばに来て、神に従うことと、富すなわち罪に導くサタンに従うことの二者択一が求められていることが語られています。私たちは、主なる神に呼び集められ、救われ、神を信じて生きる者とされました。では神を選び、神に従って生きるとき、日々のあなたの生活、生き方、考え方はどうなるのか、次に考えなければなりません。つまり私たちも、教会に来て「神さまを信じて生きる」と信仰告白しながら、家に帰ると「今日何を食べよう、明日何来ていこう、お金がない、どうしよう」と考えてしまいます。こうしたことを考えることは理解できますし、こうしたことに生きる喜びを感じることもあるかと思います。しかし、こうしたことは神の子どもとしてどうなのかを、主イエスは弟子たちに問いかけます。つまり、私たちが神の民として生きるとき、こうした食べ物、着るものは、何によって得ているのか、忘れてはならないことを確認することが求められています。
 主イエスは語られます。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(25)。ここに「大切である」と繰り返し語られています。私たちにとって食べること、着ること以上に大切なこと、重大なことは、命をもって生きること、体が健康であることです。
 つまり、私たちはどうしても毎日の食べ物、着るものに関心が行ってしまいますが、それらのことを考えるときに、主なる神が私たちを救い、生命をお与えくださっていること、今日の健康をお与えくださっていることを前提・土台に考えなければなりません。

Ⅱ.創造の冠としての人間
 主なる神は、鳥に命を与え、生きる術をお与えくださいます。花を咲かせ、私たちの目を潤わせてくださいます。そうした鳥や花を主は養ってくださいます。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(30)。主があなたを弟子にし、神の子として生命をお与えくださいました。父なる神にとって、あなたは、鳥よりも価値あるもの、大切な存在なんですよとお語りくださいます。このとき、鳥や動物、花・植物と私たち人間の関係を確認しなければなりません。現在においては、ペットや動物が大切にされ、家族同様に扱われることがあります。大切にすることを否定する必要はありません。
 しかし、私たちは、主なる神にとってはどうなのかということを確認しなければなりません。このとき、天地万物における創造の秩序に確認することができます。第五日からのことです(創世記1:20-25)。ここで動物が創造されたときのことが語られています。
 そして人間は、他の動植物とは異なり、神のかたち、神に似せて、神にかたどって創造されました(同1:26-31)。そしてすべての動物を支配すること、管理する権能が与えられました。これが創造の冠と語ることができる人間の創造です。
 ですから主なる神は、すべての被造物を作られましたが、私たち人間を生きる者とするために、すべての被造物を備え、準備してくださいました。だからこそ主なる神は、何よりも私たち人間を特別の存在として愛していてくださっています。特に神の子どもとして、教会に集められた私たちは、神によって愛されています(参照:ウェストミンスター大教理問74)。

Ⅲ.主に委ねて生きよう!
 だからこそ、私たちは主なる神の子どもとして、31~32 「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。……」。とお語りくださいます。私たちに生命を与え、神の子として救いをお与えくださる主なる神は、私たちの生活に必要なすべてのことをご存じです。すべて備えてくださいます。すべてお与えくださいます。
 私たちは毎日の生活で、様々な不安にさいなまれ、苦します。しかし、私たちが主なる神を信じ、神の子として生きるとき、主なる神はすべてを準備しお与えくださいます。だからこそ、私たちは目の前の不安に右往左往するのではなく、主なる神の栄光を称え、神の国と神の義を求めれば良いのです。つまり、主なる神を信じ、主なる神にすべてを委ね、任せきることです。そうすれば、主は私たちの必要をすべてを満たしてくださいます。
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  「神の国と神の義を求めよ」  マタイ6:33~34  2022.6.12 
 
 序.
 前回、人間は主なる神により創造され、特に神のかたち、神に似せて生きる者としてつくられたのであり、創造の冠とも呼ばれていることを紹介しました。神さまが私たちを愛してくださっているのだから、神さまを信じて生きている私たちは、すべてのことをご存じであり、私たちの必要を満たしてくださる主なる神を信じ、主に委ねて生きるならば、思い悩む必要はありません。

Ⅰ.神の国 (信仰)
 それを受けて主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とお語りになります(33-34)。「神の国」といえば、「天国」をイメージする人が多いかと思います。キリストの再臨と最後の審判によって示されるのは、「神の国」の完成された状態としての天国です。ですから私たちは、主イエスの十字架の御業により罪が赦され、永遠の生命が与えられている希望のうちに、日々の信仰生活を送ることができます。ここで語る「神の国」は、キリストの再臨を待たなければならず、未だに完成された状態にはありません。
 また「神の国」と語るとき、主イエスが宣教の始めに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と語られたことを忘れてはなりません。ここで主イエスが語る「神の国」は、主イエスが来臨されることによりもたらされ、キリストが十字架に死に、三日目に死に打ち勝ち、甦りになられたことで完成した「神の支配」です。
 ですから主イエスが「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とお語りになるときの「神の国」とは、未だ与えられていない「天国」だけをイメージする必要はなく、主イエスが来臨されることによって示された神の支配とイメージしなければなりません。
 人々は神から離れ、今の世のみに生き、「神はいなくなった」、「神は忘れ去られた」と思っています。しかし、主なる神は聖霊をとおして私たちと共に臨在され、生きて働いておられます。そして私たちは、キリストの御業により罪が赦され、神の子とされています。

Ⅱ.神の義 (生活)
 次に「神の義」について考えます。神は義・聖・真実なお方です。一方、私たち人間は、罪の故に、不義があり、汚れがあり、嘘もあります。そのため、私たちが物事を判断しようとすれば、常に相対的な規準しかありません。このときに真の神の義が示されたとき、私たちは絶対的な義の基準が示されます。神の義は、律法(十戒)において示されました。
 私たち人間は、相対的な規準の中で生きていると、「自分は正しい」と主張することができたにも関わらず、絶対的な基準である神の義に従った神の律法が示された時、私たちは主の御前に罪人であることが示され、罪の故に主の裁きにあい、滅び行く者であることが示されます。そのため私たちは、神の義が示されたとき、罪の悔い改めが求められます。そして罪人であり滅び行く私たちでしたが、それでもなお主は私たちを愛してくださり救ってくださいました。だからこそ私たちは感謝して、神を信じるものとされたのです。
 ですから、すでに神による救いが提示され、神の国を求めて生きることが求められているキリスト者に、改めて神の義を求めて生きることが示される時、神の義である律法に従って生きること、つまり律法の第三用法に生きることが求められます。

Ⅲ.何よりもまず
 ですから私たちは、主がお与えくださった神の国の信仰に生きること、そして主がお示しくださった律法に従って生きることが求めています。言い換えますと、御言葉や教理の学び一辺倒の信仰でも、信仰を証しし、良き行いをもって生きることも誤りであり、御言葉による信仰と従順な生活がバランス良くして、信仰生活を行うことが求められています。
 そしてウェストミンスター大教理問答問3は、信仰と従順の唯一の規範は、旧約・新約の聖書である神の御言葉だけであると語ります。私たちは、だからこそ、毎週の主の日の礼拝、そして毎日、聖書を読み、祈る個人礼拝・家庭礼拝、デボーションが必要なのです。
 そしてこれらは「何よりもまず」です。時間があるときに教会に行き、聖書を読む時間をつくるのではありません。私たちが生きるとは、すべての時間、神の救いと恵みに満たされているのであり、どんなときにでも神の御前に生きること、有神的人生観・世界観に生きることとなります(参照:Ⅰコリント10:31)。
 礼拝と御言葉を第一にした信仰と生活が形成されることにより、日々の様々な思い悩み、労苦も、主なる神がすべて知っておられ、そして一番良い解決方法をお与えくださることを信じて、委ねることができるように変えられていきます。
 
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「まず自分の目から丸太を取り除け!」  マタイ7:1~7  2022.6.19 
 
 Ⅰ.自らの罪の赦しに感謝せよ!
 自分の尺度において物事を判断するため、自分は正しいとして置いておき、他人の行動を見て裁きを行います。これが律法主義となります。しかし主イエスは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(1-2)とお語りになります。
 主が私たちに求めていることは、人の罪を判定することではなく、主の御前に立つ自分自身を判定することです。つまり私たちが、主を信じてキリスト者となることは、自らの罪を受け入れ、御子の十字架により罪が贖われ、私たちの罪の悔い改めが受け入れられることにより、救いが与えられることです。このとき私たちは、漠然と「罪人である」ことを語るのではなく、一つひとつの罪を顧みなければなりません。主なる神は、私たちの行いばかりか、口から発せられる言葉、そして私たちの心の中もすべてをご存じです。そのすべてが、主なる神の義に合致しているか、私たちは問われます。そうであるならば、あなたが人を裁くときのその罪状が、あなたは「自分にはない」と言えるのでしょうか?
 同じ行いは行ってはいなくても、言葉や心の中で同じ罪を犯していることを受け入れなければなりません。そして、その罪をキリストが十字架において赦してくださったのです。この事実を受け入れなければ、安易に他者の罪を裁くことなどできません。

Ⅱ.自らの丸太を取り除くには…
 ウェストミンスター大教理問答の十戒論は詳細に語られており、「律法主義である」と語られ、嫌われることも少なくありません。しかし私たちは、神の愛として十戒が与えられていることを理解しておく必要があります。つまり十戒で禁じられている罪のリストにより、自らの罪の大きさとキリストの愛を改めて確認すると同時に、完全には行うことはできないにしても、キリストに倣い、十戒に従った歩みをするように求められています。
 第九戒は、「あなたは隣人について偽証してはならない」と主は命じておられ、「〔第一に〕すべて、真実と、自分自身および隣人の名声、を傷つけること」が禁じられています(ウ大教理問145)。しかし大教理問答はその後、罪のリストを詳細に述べています。「〔第四に〕真実でないことを語ること、うそをつくこと、中傷すること、陰口をきくこと、誹謗すること、うわさ話を振りまくこと、ひそひそ話をすること、あざけること、ののしること、軽率で過酷で不公平な非難、意図・言葉・行動を誤解すること、こびへつらうこと、虚栄心に満ちた自慢話、〔第五に〕…比較的小さな欠点を重大視すること、…弱点を不必要に暴露すること、虚偽のうわさを立てること、…です」。「ひそひそ話をすること」以降は、実際にその人が罪を犯したことに対して、その事実以上の、その人に不利益になることを他者に伝えていくこと、非難しています。「比較的小さな欠点を重大視すること」、小さな罪を大きく伝えること、偽証・その人を蔑む行為であると、大教理問答は指摘します。
 こうした行為に対して、主イエスは「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」とお語りになります(マタイ7:5)。他者の小さな罪を大きな罪として吹聴し、言い広めること、虐げることこそが、偽善者であり、自らの罪を顧み、取り除くことが求められています。

Ⅲ.罪を除去するためには
 そして実際に罪が行われた時、主イエスは二人だけのところで忠告するようにお語りになります(マタイ18:15)。罪を受け入れれば和解し、それ以後はそのことに関しては終わったことであり、「おまえ、前にこのようなことをしただろう」と蒸し返してはなりません。それで解決できないときは、さらに一人か二人と共に、そして教会で話し合うことが求められています(同18:16-17)。一つの事件が起こる時、その人の一方的な思いで事件が起こることもありますが、相手側、つまり自分側に過失の原因がある場合、その事実も確認し、解決をして和解しなければ、起こった事件のみ「けしからん」として事件を解決しようとしても、原因が残っている限り和解と一致を求めることなどできません。
 そして、話し合い、和解ができない場合に、教会裁判が行われます。訓練の目的を確認しなければなりません(訓練規定第3条:6/19週報参照)。これらをバランス良く、総合的に用いなければならず、一つだけ「キリストの栄誉の擁護」だけを持ち出したとき、それは結局は律法主義に陥っていしまいます。そして訓練の権能、方向性に関して、続く第4条において述べられています(訓練規定:6/19週報参照)。教会裁判は、あくまで教会を建てあげるため、あわれみをもって行使すべきであって、破壊のため、怒りをもって行ってはなりません。
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 「求めなさい。そうすれば与えられる」  マタイ7:7~12  2022.6.26 
 
序.
 先週、他者の罪を裁くのではなく、赦すことが求められていることを、確認しました。このとき私たち自身が、主の御前に立ち、キリストの十字架の贖いにより、罪が赦され、神の子とされ、永遠の生命が与えられたことをはっきりと理解することがあって初めて、他者の罪を赦すことができることを確認しました。

Ⅰ.何をするにも、まず祈りから
 主なる神によって教会へと集められ、キリストの十字架の御業により、罪が赦され、神の子とされたことは、信仰の中心です。繰り返し、自分と主なる神との関係をはっきり理解するが大切です。しかし私たちはそのことを頭では理解していても、自分が罪を赦された事実を棚において、他者のことを批判してしまいます。何かを求めようとするとき、主イエスが「求めなさい。そうすれば、与えられる」と語られるように、主に委ねて祈り求めるのではなく、まず自分で獲得できるように努力をしてしまいます。ここに信仰の落とし穴があります。「主を信じている私には可能なんだ」との過信です。これは信仰ではなく、「信仰」という名を借りた「野心」です。
 だからこそ、私たちはまず、主なる神に委ねて祈ることが求められています。自分で行うことができる仕事であったとしても、そのために賜物・能力を主なる神がお与えくださったことを忘れてはなりません。そのために何をするにしても、最初に主に感謝と願いを祈り求めることから始めなければなりません。自分で行うことができるという過信を捨て、神にすべてを委ねて祈り求めなければなりません(参照:ウェストミンスター大教理問179)。

Ⅱ.不可能と思われることも、まず祈りから
 また自分の能力では難しい・不可能であることに対しても、主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる」とお語りくださいます。まず祈り、その上で探したり、門をたたいたりする具体的な行動をとらなければなりません。それは、練習を繰り返すこと・知恵を付けるために学ぶこと・新しいひらめきが求められることかもしれません。そのために必要な助け手・人材を求めることかもしれません。
 「自分ではできない」とあきらめるのではなく、行うことが可能となる手段を、主が備えてくださるように、委ねて祈ることが求められます。

Ⅲ.必要を満たしてくださる主の愛
 その上で私たちは、私たちの罪を赦し、救いをお与えくださった主なる神がどのようなお方であるか、改めて理解することが求められています(9-11)。ある人は、「罪人を滅ぼす恐ろしい神である」と語ります。しかし、最後の審判における主なる神による裁きは、その人が主なる神を信じなかったこと、罪を犯したことの結果であり、主なる神に裁きの責任を押しつけてはなりません。主は、罪の故に滅び行く私たちに対して、キリストを十字架にお渡しするまで犠牲を払うほど私たちを愛してくださっています。
 神の愛は一方的で無償の愛です。見返りは一切求められません。主なる神は、全知全能であり、私たちのすべてを知っておられるが故に、私たちに必要もすべてご存じあり、その必要を満たしてくださいます。だからこそ、私たちは、「こんなことはダメだ、無理だ」とあきらめるのではなく、「必要だからお与えください」との祈り求めます。

Ⅳ.隣人への愛に生きよう!
 今まで私と救い主である主なる神との関係において委ねること、まず祈ることが語られてきました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37)の実践です。それに対して「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(12)とお語りになります。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイ22:39)ということです。これこそが、聖徒の交わりにおいて行われること、愛の業・執事活動において求められていることです。これは、時間・労力・お金がかかり、面倒くさいことです。犠牲求められます。「ここまでやる必要があるのか」と思うこともあります。線引きは難しいです。しかし、隣人を愛すること、愛の業を行うこととは、こういうことであることを、私たちは受け入れることが求められています。
 そして主イエスは最後で「これこそ律法と預言者である」と語ります(12、マタイ22:40)。マタイが律法と預言者と語るとき、旧約聖書全体のことを意味します。私たちが救い主である神を信じ・愛すること、そして隣人を愛することは、聖書全体において語られている福音そのものであり、福音に基づく律法(十戒)そのものです。
 
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  「命に通じる門」  マタイ7:13~14  2022.7.3
 
Ⅰ.二つの道が示されている
 夕拝においては山上の説教から聞き続けていますが、主なる神によって救われている者として、主なる神を全面的に信頼することの大切さを確認してきました。そのために日々の生活のことで思い悩むことなく主に委ねることが求められます。また自らが主によって罪が赦された神の民とされていることより、他者の罪も主によって赦されているように、裁くのではなく赦すことが求められていることが示されました。必要が求められるなら、自分の力で勝ち取るのではなく、主を委ねて求めることが示されました。
 これらのことに共通なことは、主を信じている者として、自分の力・自分の義を求めてはならないことです。周囲の人たちを見渡して、相対的に自らも周囲の人々も評価してはならないということです。評価を行うのであれば、どのような時にも、主なる神を基準に評価しなければなりません。
 しかし私たちは、この世、つまり現代の日本に生きています。周囲に、同じ信仰の立場に立つ人たちが極限られた中、神を信じていない人たちに囲まれて生きています。どうしても周囲の人たちの影響を受けてしまい、自分が誤っているかのように感じてしまいます。
 そうした中、私たちがキリスト者としてあり続けること、神の救いの道を歩み続けることとはどういうことかを、今日の御言葉から聞きます。「主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く」(エレミヤ21:8)。神を信じ、天国に通じる道と、自分の思いに生き、罪の結果、死と滅びの道、つまり二つの道が備えられています。

Ⅱ.どこへ向かって歩んでいるのか?
 その上で、主イエスは「狭い門から入りなさい」と語ります。私たちは、門はあくまで通るためのものと考えがちですが、中世までのことを考えますと、一つの町をつくると、そこに塀を設け、門を設けられました。敵からの侵入から守ることが大切です。日本においては、平城京や平安京、さらには戦国時代の城をイメージすれば良いかと思います。
 つまり門を入ることはその国において守られることを意味します。ですから当然のことですが、その門を入ることにより、どこへ行くのかを知った上で入ることが求められます。何も知らずに入ることにより、結果として敵の中に入ってしまうことが起こるからです。
 ですから主イエスが、「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」と語る時、周囲の人たちがどこに向かって歩いているかを確認することなく、人生という道を歩くことにより、滅びに至ることを語っています。

Ⅲ.神の国に通じる門
 その上で主イエスは、「しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」とお語りになります。私たちキリスト者が入るところは、「神の国・永遠の命に通じる」道です。この門は狭く、道も細いですが、この道が険しいとは語りません。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」門です(マタイ7:7)。
 このとき、私たちに何が必要なのでしょうか? 主なる神を信じること、キリストの十字架の御業による救いを受け入れることです。これが、門が開かれるために必要です。
 さらに主イエスは「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」(ヨハネ10:3,4)と語ります。私たちが、キリストによる救いを受け入れるとき、天国の門において、私たちの羊飼いであるキリストが先頭に立って、天国の門を通ってくださいます。ですから、主イエスが「命に通じる門はなんと狭く」と語られるのは、難しい道、困難な道ではなく、キリストの御声に聞き従うことです。

Ⅳ.信仰を貫け!
 そして周囲の人たちの語ることを聞き分けることです(ヨハネ10:7-9)。いま、選挙が行われています。聞こえの良いことが語られていますが、選挙の期間中に語られていることだけを鵜呑みにするとき、私たちは誤った判断をすることとなります。今まで語られてきた言葉、行動、そしてその人そのものを見極める必要があります。
 「多くの人たちが通っているから大丈夫」、「このような考えを捨てなさい」と主イエスはここで語られているのではないでしょうか。「赤信号、みんなが渡れば怖くない」といったジョークがありますが、それでは困ります。多くの人たちが信じて行動していたとしても、その本質を見抜き、主の御言葉に反することが語られているならば、引き返す勇気、逆行することが求められています(参照:ウェストミンスター信仰告白25:1)。
 
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   「良い実を結ぶ木を選べ」  マタイ7:15~20  2022.7.10
 
 Ⅰ.狭い道を歩むとは……
 主イエスによって集められた弟子たちは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(7:7)と語られつつ、同時に、「狭い門から入りなさい」(7:13)と語られました。つまり、多くの人たちが歩む道ではなく、むしろ少数者であっても、信仰を貫くことが求められています。
 何も考えなければ、皆が行く道を歩み、それは滅びの道です。そのために考えることが求められます。権力者が語ることが、義しいか否か、判断することが求められます。
 そのことを受けて、主イエスは「偽預言者を警戒しなさい」とお語りになります。前回の「狭い門」と今回の「良い実を結ぶ木」とは別のことを語っているようですが、まったく一体であるということができるかと思います。前回は、狭い門だけれども、険しいものではなく、神の御言葉・神の真理に従って歩むことによって、必ず開かれる道であることを確認しました。つまり救いの道を歩むことは、難しいことではなく、考えて物事を判断するとき、主によって救いの道が示されるのであり、門をたたけば開かれる道です。

Ⅱ.偽教師に注意せよ!
 今回は、広い道がどういう道であるかということを、悪い木・悪い実ということで語っています。ウェストミンスター小教理問答問24は、キリストの預言者としての職務について告白します。「キリストは、わたしたちの救いのために、神の御心を、かれの言葉と霊によってわたしたちに啓示することにより、預言者の職務を遂行されます」。キリストの預言者としての職務を、現在においては、教師である牧師が、教会における任職によりその働きを受け、行っています。説教、そしてキリスト者の聖徒の交わりにおいて、互いの救いのため、神の御心の適うことが求められます。これが「良い実を結ぶ良い木」です。
 しかし主イエスは、偽預言者であり、悪い実を実らせる悪い木があることをお語りになります。これは、新約のキリストの教会においてもあり得ることであり、偽教師が教会に入ってくることを避けて通ることはできません(参照:Ⅱペトロ2:1-3)。
 またウェストミンスター信仰告白25:5は告白します。「天の下の最も純粋な教会も、混合と誤りのいずれも免れず、教会の中には、あまりにも堕落して、キリストの教会ではなく、サタンの会堂になり果てたものもある。それにもかかわらず、地上には、御心に従って神を礼拝する教会が、常に存在するであろう」と。明らかに偽教師・異端者であれば、教会も対応できますが、実際には、私たちを惑わす形で、こうした力が働きます。福音を変質化させ、キリストの十字架を無力化させるような言葉が語られていきます。そのため私たちは、常に御言葉の真理を追究し、惑わす力をキャッチしなければなりません。

Ⅲ.改革派教会を立てることとは
 私たち改革派教会は、サタンの誘惑により、教会の中において主なる神を否定したり、教会を批判したりする者に対しては、戒規に処して教職の剥奪、つまり免職を行うことにより、偽教師がキリスト教会に入り込まないように、教会制度を整えています。それが、信仰告白としてウェストミンスター信条を採用し、長老主義政治により教会統治を行う理由です。このときに大切なのは、教師と共に、治会長老が、ウェストミンスター信条や長老主義政治を理解することです。教師(牧師)にお任せでは、長老主義政治は成立しません。そうした教会であれば、異端者である教師がその教会に入り、自分の好き勝手を語り、悪い実を信徒に植え付けようとしても、長老が「否」を語り、教師を中会で裁判をさせなければ、教会はサタンの巣窟と化するからです。そうであれば、真のキリスト教会を形成することはできません。
 ですから治会長老の皆さまは、牧師が説教を行っている時、誤ったこと、特に教理において誤ったことを語り、会員に悪の誘惑を行うとき、牧師を説教壇から引きずり下ろし、説教を止めさせる思いをもって、説教をお聞きいただきたいのです。そのために、ウェストミンスター信条を学ぶことが求められ、教会規定を学ぶことが求められます。それは、頭で知識として覚えることではなく、ウェストミンスター信条がなぜそのように告白しているのか、宗教改革の歴史と共に理解すること、なぜ改革派教会は、このような告白に至ったか、理由を理解していなければ、杓子定規になってしまいます。また、教会規定も、その意味を理解しつつ、用いることができなければなりません。
 ですから改革派教会は、教師(牧師)の質・能力の向上が求められていますが、同時に、治会長老が成長し教会をリードしていかなければ、教会が成熟していくことはありません。
 
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  「天の国に入れる人々」  マタイ7:21~23  2022.7.17 
 
序.
 主イエスは、13~14「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」とお語りになりました。続く15~20節では、偽預言者・偽教師・異端者に注意するように語られていました。

Ⅰ.クリスチャンもどき
 主イエスは、21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」とお語りになります。これは非常に難しい言葉です。つまり、イエスを「主・メシア・救い主」と信じる者は救われます。ですから「主よ」と主イエスに向かって呼びかける者は、通常、主の救いに与ると言って良いかと思います。
 しかしここでは、21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」とお語りになります。何が問題なのか、考えなければなりません。日本では、教会に来る人が少なく、教会に来る人は誰でも歓迎します。これは決して間違いではありません。そして、イエスさまの十字架の贖いを受け入れ、信じる者に洗礼を授けます。
 しかし見せかけ・表面的にキリスト者であることを着飾る人は、主なる神を信じてはいません。教会においてはキリスト者であり続けることができるかもしれませんが、主は真実を知っておられます。このことを主イエスは語ろうとしています。このことは、毒麦の例えによって語られており、最後の審判においてすべてが明らかにされます(マタイ13:24-30)。

Ⅱ.信じることと行うこと
 つまり私たちは神を信じて、信仰を告白することが求められますが、それだけではないということです。ローマ書とヤコブ書の関係でもあります。宗教改革者ルターは、ローマ書を読んでいて、「信仰義認」の教理が示され、当時のローマ教会の誤りに気がつき、それがきっかけで宗教改革が始まったことは有名な話しです。そして信仰義認の中心的な聖句は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」です(使徒16:31)。
 一方ヤコブ書は行いを求めます。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。… 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:14,17)と語り、信仰に伴う行いを求めます。
 そのためローマ書とヤコブ書は対立していると語られます。しかし両者は同一のことを語っており、それが今日の御言葉でも語られていることです。つまり真に信仰が与えられたとき、信仰の実りが与えられ、罪の悔い改めと共に遜り、主に従うものとされていきます。ここでポイントとなるのは、良き行いをした結果救われるのではなく、救われた者が感謝と喜びをもって良き行いをすること、つまり順番を間違えてはなりません。

Ⅲ.真の信仰は明らかになる!
 このことを考えるとき、主なる神と私の関係を再確認しなければなりません。つまり通常、信仰を告白するとき、主なる神を信じ、自らの罪を悔い改め、キリストの十字架の贖いを受け入れ、主なる神による救いを受け入れなければ、信仰告白に至りません。このとき主なる神は、永遠から永遠に生きておられ、全知全能であり、今もすべてを全世界を支配しておられるお方であることが示されます。このお方が、すべての民を裁く権威を持っておられます。私たち人間は罪人であり、自分の力において救いを獲得することはできず、キリストの十字架の贖いに委ねなければなりません。このことを受け入れているならば、信仰を告白しつつ、生活が今までと変わらないということはあり得ません。
 だからこそ、信仰告白・洗礼に臨むにあたっての準備教育において、使徒信条やカテキズムから学び、信仰の確認を行うこと、さらには小会における試問において、信仰を確認することがいかに大切であるかということを、ご理解していただけるかと思います。
 しかし実際には、三位一体の神を信じていない、イエスを救い主として受け入れていない中、見せかけ、表面的に、信仰を告白することも可能です。それが主イエスが語る「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がいる」ということです。主イエスは、終わりの日に改めて私たちの前に現れ、最後の審判を行われます。このとき偽キリスト者は明らかにされ裁かれます(23)。このときになって、取り繕っても遅く、今から、主の御前に真に信仰を表し、歩むことを、主イエスは求めておられます(参照:ウェストミンスター信仰告白33:3)。
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 「人生の土台」  マタイ7:24~29  2022.7.24  
 
Ⅰ.山上の説教の流れを確認する
 主イエスは、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」(13)、「偽預言者を警戒しなさい」(15)、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」(21)とお語りになります。キリスト教を名乗りながらも、実を伴わない偽預言者・異端者がおり、さらに教会に集っているすべての者が神の民として神の国に入るものでもないことを、主イエスは語られています。
 「教会に来ている人たちが皆、天の国に入れるわけでない」と語れば、不安を煽っているように思うかも知れません。救いから漏れるのではないかと恐れを持つ人たちもいるかと思います。しかし「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語られており、自分は本当に救われているのだろうかと、恐れる必要はありません。主の恵みの契約によって教会に集められ、キリスト者とされているのだから、私たちは神の救いの約束を信じ、救いの感謝をもって、歩み続ければ良いのです。脅迫概念をもって信じ続けなければならないといったことから解放されなければなりません。

Ⅱ.例え話をもって語られる主イエス
 ここに二人が家を建てることが語られています。表面的・見た目には同じように立派な家が建ちました。つまり神を信じ、信仰という立派な家を建てたのです。
 しかし雨が降り、洪水が押し寄せたとき、これらの二つの家はまったく異なった状況に置かれます。岩場と砂場という違い、基礎部分が違っていたからです。私たちがここで考えなければならないことは、岩場に家を建てるような信仰とはどういうことであるかです。
 最初に考えなければならないのは、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲う状況です(25)。これは試練であり、艱難のことです。そして、「広い道をとおり、多くの人が歩んでいることが正しい」、「自分は大丈夫だ」と思える誘惑です。巧みに語りかけ、誘惑する偽預言者がいます。自分は大丈夫だと思っていても、だまされることがあります。

Ⅲ.信仰規準・教理という土台を持て!
 では、どのようにすれば、試練や艱難が襲っても、あるいは信仰に対する様々な誘惑があっても、私たちは信仰を捨てることなく、救いの道を歩み続けることができるのか。
 ここを理解するにあたり、「人生の土台として聖書を据えれば良い」と語られることがあります。私の理解では、自分の家を建てるこそが、聖書を読み、聖書に従った生き方をすることです。しかし同じように神を信じ、教会生活を送っていたとしても、誘惑や試練が襲うことにより、真の姿が露わになります。このときに私たちが据えなければならないのが、岩を土台とすることです。これこそが正しく聖書を理解し、襲ってくる誘惑、試練を客観的に確認し、試練・誘惑を乗り越える術を身に付けることではないでしょうか。
 このときに大切になってくるのが教理・信仰規準です。信仰規準が聖書に代わることはありません。それでもなお、信仰規準が私たちにとって岩の土台となります。
 新約の教会の歴史は、その間に様々な異端者が現れ教会は信仰的な戦いが行われました。異端者が現れた時に、教会は、聖書を自分たちはどのように理解し、正当性を保っているのかを、決議し、採択してきました。こうしたことの積み重ねたのが信仰規準です。三位一体の神と、御子の二性一人格の告白は、基本的にはすべてのキリスト教会において一致できる告白であり、使徒信条において告白されています。この二つの告白から逸脱したものを、教会は「異端者」と宣言し、彼らを教会から排除してきました。
 こうした信仰告白・信仰規準を持ち、学び、これらの信仰に生きるとき、私たちはどのような誘惑にも打ち勝ち、試練を乗り越えることができるものとされます。時代が動き、私たちの社会にあって、様々な信仰を揺さぶられる中、私たちが真の信仰を貫き、キリスト者であり続けるために、信仰規準を疎かにしてはなりません。

Ⅳ.神の権威による御言葉
 最後に山上の説教の結びの言葉を確認します(28~29) 。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」。律法学者は、聖書(律法)を、イスラエルの民に解説し、教えていました。しかし律法学者は、あくまでも律法に従って教えることしかできません。
 しかし主イエスが語られた御言葉(山上の説教)は、主なる神に由来し、聖霊が働くことにより、力があり、聞く一人ひとりがひれ伏し、聞き従うことができる言葉でした。私たちは、人間に由来することばではなく、主なる神の御言葉、主なる神が説教者を通してお語りになる言葉に生きることが求められています(参照:ウェストミンスター大教理問160)。
 
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