◆創世記  説 教

「完成に向かう『初め』」  創世記1:1~5、ヨハネ福音書1:1~5  2018.4.29
 
Ⅰ.三位一体の神の御業
 創世記とヨハネ福音書は共に「初めに」という言葉で語り始めています。主なる神さまにより、天地万物の創造が行われ、世界が動き始めます。私たちが普通に暮らしていて時間が過ぎていくのが当たり前だと思っていまが、神の次元においては時間には始まりがあるのです。つまり時間は自然に流れていくのではなく、時間を支配しておられる主なる神さまがおられます。主なる神さまは、時間の概念において「無限」の存在です。私たち人間が自分を中心に考えても何も始まらないのであり、私たち人間が、主の被造物として生かされているのです。世界は、神が中心なのです。
 ヨハネ福音書は、「初めに言があった」と語り、天地創造の前に神さまと共に「言」である神、つまり御子が存在されていることを語ります。また創世記は「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と語ります。天地万物の創造の前に、神の霊である聖霊も存在しています。父なる神さまとは異なる位格でありながらも、御子も御霊もなおも同じ一つの神そのものです。三位一体なる神さまです。時間をも支配しておられる主なる神さまは、時間を超えて、御父・御子そして聖霊という位格内における愛の交わりの内に存在されています。つまり、三位一体なる神は、単なるエネルギーや無機質の存在ではなく、それぞれの位格間における愛の交わりを持っておられます。だからこそ、私たち一人ひとりの日々の苦しみも悲しみも痛みも喜びも、理解して下さり、それを取り除いたり、担ったり、あるいは慰めて下さることもお出来になるのです。
 聖書の誤った読み方として、旧約の時代は父なる神さまが働かれ、2000年前には御子イエス・キリストが人として十字架の道を歩まれた。そして新約の時代は、聖霊が働かれる時代だと、時代区分をすることです。主なる神さまはいつの時代にあっても、御父・御子・御霊の三位一体なる神さまが、愛の交わりの内に働いておられるのであり、「天地創造は父なる神さまの働きだ」と限定しないことが大切です。このように縦割りにしてしまうと、神の愛の交わり、感情が忘れ去られ、神を無機質なものとしてしまう恐れがあります。

Ⅱ.暗闇を照らす光
 創世記1:2は「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と語ります。天地創造される前、世界は闇です。そして、言である御子が「光あれ」と発することにより、天地創造が始まります。闇=罪という概念はここではありません。なぜならば、罪が存在していなかったからです。一方ヨハネ1:4-5では、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と語ります。言である御子の内に命があったのであり、命は神の内にのみあるのです。神の内にある命は死がなく、永遠の生命があります。そして神によって与えられる命は、光によらなければ知ることはないのです。暗闇にいる者は、光を理解することが出来ず、光によって照らされる神による命を知ることはありません。つまり、ヨハネの語る暗闇に生きることは、罪による死と滅びに通じる罪の内に存在するものとなっています。
 ですから、創世記において神さまにより「光あれ」と発せられ、世界が始まったのは、罪の故に滅び行く闇を前提として主なる神さまは「光あれ」と語り、光によって命を持つ者が与えられる者のために、光を創造されたのです。

Ⅲ.時間は完成に向かって動いている!
 つまり、闇の中にあって、主なる神さまが最初に「光」を創造されたのは、神のかたち神に似せて造られる人間が光の中に入ること、神との永遠の交わりの生命を求めるためでした。つまり、天地創造と人間の創造、そして神の民の救いと神の国の完成は、別個のものではなく、主なる神さまのご計画の中にあっては一つにつながっているのです。神さまは、昔ながらのゼンマイ仕掛けの時計のように、最初だけ関与され、あとは被造物である人間が自由に生きることを求められたのではありません。神の民の救い・神の御国の完成を見据えて、天地創造をされたのです。つまり、天地創造の前に、神の御国の完成という設計図をしっかりと作成し、歴史を司られているのです(聖定・予定→摂理)。三位一体なる神さまが愛の内に交わりを持たれているように、被造物である人間に対しても愛を示し、関与し続けることにより、神の造られた光の内に入れて下さろうとされています。
 主なる神さまは、ここに集う一人ひとりが神さまを信じて永遠の生命を持つ喜びを覚えつつ、最初に「光あれ」と語り、時を刻み始められたのです。

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 「天地創造と神の秩序」  創世記1:1~31  2018.5.27
 
Ⅰ.聖書解釈の幅:万人預言者
 創世記1章では、6日に渡る天地創造が記されています。「進化論」か、「創造論」かと二者択一の議論になり勝ちです。また主による創造を信じていたとしても、聖書が語ることは、「1日24時、6日間で天地万物が創造された」と信じる人もいれば、一日をある期間として解釈する人もいます。私たちは聖書を読む時、一つの正解があり、他の答えはすべて誤りだと考えてはなりません。つまり、聖書は自然科学や歴史の教科書ではありません。聖書は、私たちが神さまを信じるために必要なことが記されているのです。
 私たちは皆が聖書を解釈することが許されています。「万人預言者」と呼びます。宗教改革以前のローマ・カトリック教会においては、聖書を解釈するのは教会であり、信徒が聖書を解釈することは許されませんでした。その結果、民衆は聖書すら手に取ることもありませんでした。ラテン語の聖書のみが用いられました。皆さまの中にも「聖書を解釈するのは牧師であり、自分勝手に聖書を解釈してはならない」と思っておられる方はいませんか? しかし宗教改革は、すべての人が聖書を読み、聖書を解釈することを取り戻します。だからこそ、宗教改革では聖書が翻訳・印刷され、民衆に届けられたのです。私たちは一人ひとりが聖書を手に取り、読み、解釈して良いのです。
 ただ一人ひとりがバラバラに聖書を解釈すれば、一致を保つことが出来ません。特に教会の正統主義から離れるような異端的なことに対しては、教会が一つの結論を下し、信仰告白、教理として採択したのです。ですから私たちは信仰告白においては解釈の一致が求められますが、それ以外の部分では解釈に幅があって良いのです。つまり信仰の根幹に関わるようなことでなければ、解釈に違いはあって良いのです。
 創造の御業も同じです。「6日間」とは、「現在の24時間が6日間だ」と解釈する人もいれば、そう解釈しない人もいます。「一日は千年のようで、千年は一日のようです」(Ⅱペトロ3:8)。創世記が語る一日も、ある期間を指すと解釈することが出来るのです。私は後者の立場です。どちらの解釈を取るにしても、私たちの救いには本質的には関係しません。ですから、教会は個人が聖書を解釈を認め、解釈の違いも受け入れるのです。

Ⅱ.天地創造の目的
 ここで私たちは、神さまが何を目的に6日にわたる天地創造が行われたかを考えなければなりません。第一は、主なる神さまが、天地万物のすべてを無から言葉によって創造されたことです。私たち人間も神の被造物です。そして主なる神さまは今もすべてを統治し、私たちと共にいて下さいます(インマヌエル)。神さまが今も生きて働いておられなければ、祈りは無意味です。つまり主による天地創造を考える時、同時に摂理の神が、私たちの歴史を支配し、今も私たちと共におられる神であることを忘れてはなりません。
 主による天地創造の目的の第二は、秩序を整えることです。天地万物の創造により、主は、時間・季節・自然における様々な秩序を整えて下さいました。これらは自然が自ら整えたのではなく、主なる神さまが整えて下さったのです。これが自然法です。
 進化論に関しては、創造か進化の違いはありますが、1日をある期間と考えるならば、進化論の成果を理解し、キリスト者が用いていくことも出来るのだと私は思います。
 そして主による天地創造の三番目にして最大の目的は、人間を生きるものとするために、必要なものを整えることでした。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地を這うものをすべて支配させよう」(26)。御父・御子・御霊なる三位一体の神にかたどり、似せて造られたことは、神にとっても人間は特別な存在であるからです。人間は神と共に生きるものとされるのですが、人が生きるために世界が必要であり、食料が必要です。そのため天地創造です。この時、私たち人間に求められたことは、神と共に生きること、つまり神を礼拝し讃美することであり、主がお造りになられた被造物を統治することでした。つまり神さまが天地万物を創造し、そして最後に人を造られたのは、神さまが単に世界を造り楽しむためではなく、三位一体なる神さまが、御自身の内にある豊かな交わりを被造物である私たち人間にもお与え下さったこと、そして被造物である人間が責任をもって被造物を管理し、神の恵みに感謝と喜びを持って生きるためです。だからこそ、私たちが主による天地万物の創造を確認する時、私たち人間が生きるために準備されるためであったことを、創世記の御言葉から聞くことが出来るのです。

 
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 「神にかたどる人間の創造」  創世記1:26~31  2018.6.24
 
Ⅰ.人間の創造における神の思い
 人間の創造については、今日の御言葉と共に、2章6節以降においても記されています。両者の間に違いがあることを指摘される方もいます。しかし、聖書は科学や歴史の教科書ではありません。そして聖書には、私たち人間が神さまを知り、神さまを信じて生きていくために必要なことが記されています。1章では、天地万物の創造が語られ、その極みとして人間の創造が語られており、2章では、男と女の創造はそれに続く罪と救済史としての始まりを意味しています。つまり両者は語る視点が異なっているのです。そうであれば必然的に語り方も違ってくるのです。違いを強調するすることは建徳的ではありません。
 神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と語られました。ここで神御自身が「我々」と語っています。私たちは唯一の神を信じています。矛盾のように思いますが、私たちは御父・御子・御霊なる三位一体なる神さまを信じています。位格間に豊かな交わりを持っておられるのです。そのため、神は「我々」という表現を用いられたのです。
 神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と語られました。このことは、他の被造物の創造と比べて特別なことなのです。進化論では人間は動物が進化したものと考えますが、人間の創造は神さまにとっても特別なことなのです。

Ⅱ.神と共に生きるキリスト者
 神にかたどられるといっても、何も神さまに手・足・頭があり……と語られているのではありません。神は霊であられ、肉体を持っておられません。神にかたどられるとは魂を持っているということです。人間は肉の体と魂によって出来ています。肉体だけですと死ねばそれで終わりです。しかし、肉とは別に魂があるからこそ、神さまを信じ、永遠の生命を信じることが出来るのです。肉の死を遂げても、魂は生き続け、神さまを信じているキリスト者は即、天国に入れられるのです。金持ちとラザロの話し(ルカ16:19~31)を読めば理解出来ます。そしてキリストが再臨された時、キリスト者は、魂と共に新しい体をもって天国に凱旋し、キリストと顔と顔を合わせ、永遠の祝福に満たされるのです。
 また主なる神さまは永遠から永遠に生きておられる無限・永遠・不変の方です。私たちにとって、生まれてきた以上、人間は死ぬものであることが常識です。しかし、神のかたちに従って創造された人間は、生きる者として創造されたのであって、神に「死」はありません。人間が「死ぬ」ものとなっているのはイレギュラーなことです。これは人間の罪の結果です。それでもなお、主なる神さまは神さまを信じる者を御子イエス・キリストの十字架による罪の贖いと救いへとお招き下さっているのです。
 三位一体の神さまは、位格間で豊かな交わりを持っておられます。神は、無機質なお方ではなく、愛なる方です。愛である神さまが、人間を創造して下さったのです。人間は、神との交わりに生きるものであり、これが神さまを信じ、讃美し礼拝することです。私たちが、今、神の御前に礼拝を献げているのは、本来の姿を取り戻した結果です。そして、神との愛の交わりに生きる人間は、人間相互の交わりに生きる者となります。
 しかし罪を犯し、神との交わりを断った人間は、隣人との交わりがなくなり、他人を裁き、虐げる行動を取るのです。だからこそ、人間が隣人との間の断絶・争いを止め、和解と平和に生きるためには、神との交わりの回復、つまり信仰が必要なのです。

Ⅲ.被造物を治める人間
 神は、人間が世界を管理することを求めておられます(28)。これは支配ではありません。だからこそ、為政者や企業のトップも、神との交わりを回復し、人との間でも平和と和解に生きるキリスト者が、神から委ねられた世界を管理する働きに行うことが必要です。
 神のかたちに従って創造された人間ですが、ここに神の知識・神の義・神の聖性があることを語ります(小教理10)。世界を管理するにあたって、その基準が、自分で作り上げたものであれば、やはり自己中心になります。世界を管理するためには、神の知恵・知識に委ねなければなりません。そのために、神を知るために御言葉に聞き続ける必要があります。基準は神の義・聖性です。いくら知識があったとしても、その土台となる義と聖の基準が罪によって歪められていれば、神の求めておられる管理を行うことが出来ないからです。
 だからこそ、他人任せではいけないのです。神との和解が与えられ、人との和解と平和を求めるキリスト者である私たち一人ひとりが、社会にあって、責任を果たし、時にリードしていくことこそ、大切なことです。
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天地万物の完成と主の安息」  創世記2:1~4a  2018.7.29 
 Ⅰ.天地万物の完成
 神さまは「天地万物は完成された」と語るに先立ち、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)とお語りになります。神の義・聖・真実による良さです。しかしこの天地万物の完成は、神さまの求めておられるゴールではなく、始まりでもあります。つまり主が創造された人間の業はここから始まります。私たちが聖書を読むとき、このようにゴールが二つ用意されていることがあります。例えば、キリストの十字架により罪の赦しと救いは完成しますが、キリストの再臨と最後の審判を待たなければなりません。また、私たちキリスト者も、肉における死の時、魂は直ちに天国に入れられます。しかし、体の復活と神の祝福に入れられるためには最後の審判と天国への凱旋の時を待たなければなりません。天地万物の完成も、最後の審判と神の御国の到来により完成するという、二重写しを、ここでも理解しなければなりません。
 ですから、神さまの働きがここで終わったのではありません。ですから神さまは天地万物の創造を終え、後は休んでおられると考える汎神論、つまりゼンマイ仕掛けの時計のようではありません。安息は一時的な休息です。神さまは、御自身が造られた天地万物に責任を持っておられ、働きを続けておられます。これが摂理です。神さまが今も私たちに働きかけて下さらなければ、私たちの信仰、そして私たちの祈りは、空しいものとなります。

Ⅱ.仕事を離れる休息の日
 第七の日の神さまが安息され休息されたことは、私たちの生活にも密接に関係します。私たち人間は、神さまによって神にかたどり、神に似せて造られました。つまり、私たち人間は、七日毎に体を休め休息することが必要なものとして生かされているのです。
 このことは出エジプト記の十戒より確認できます(20:8-11)。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。教会では安息日厳守=礼拝厳守としてよく教えられます。しかし、家族も奴隷も家畜を含めて仕事を休むことがここで求められています。ユダヤ人たちは、休むことの命令として、働いた者に対する裁きを語るわけですが、これは行き過ぎ・律法主義です。しかし確かに、休むことの大切さを主は求めておられます。今の時代、日曜日も休めない働きが増えてきております。六日間働いてきた体を休息することは大切です。

Ⅲ.聖別と神礼拝
 「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(3)。ここで安息日に主を祝福し礼拝することが求められています。「聖別」つまりこの日一日を神さまのために取り分けることが大切です。そのため改革派教会では、朝だけでなく、夕べの礼拝を行います。夕拝は、朝の礼拝に出席出来ない人たちのためにあるのではありません。もちろん、朝拝に出席出来なかった人たちにも用いて頂きたいのですが……。主の日一日を聖別するために、朝に夕に礼拝を献げ、昼に教会において奉仕活動を行ったり、交わりを持ちます。つまり、7日毎に一日を神さまのために時間を割くことにより、肉体的な休息と共に、霊的にも自らの生活・信仰を、主の御前に置くことにより、悔い改めと信仰を新たにするのです(参照:ウェストミンスター信仰告白21:7前半)。
 そしてウェストミンスター信仰告白21:7は後半で、「キリストの復活から週の最初の日に変えられた。この日は、聖書では主の日とよばれており、キリスト教安息日として、世の終わりまで継続されるべきである」と語ります。聖書には、主イエスの復活をもって、安息日が第七の日から第一の日(日曜日)に変更になったことは記されていません。しかし、キリストが十字架の死から甦られた日として、それ以後、主イエスが弟子たちに現れ、教えを語られるのが第一の日毎であったため(ヨハネ20:19,26, 使徒20:7、Ⅰコリ16:2)、新約のキリスト教会は、第一の日である日曜日が、主の日と呼ばれています(黙示録1:10)。
 私たちが、今日も主の御前に集まり礼拝を献げるのは、まさにキリストの再臨と神の国の到来を待ちわびつつ、神さまを聖別し、祝福するためであります。ですから私たちが天地創造の出来事、特に第七日目を確認する時、私たちの目指すべき神の国を再確認し、毎週私たちが繰り返し神さまを礼拝することの意味と大切さをお覚え頂きたいと思います。
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  命の息が吹き入れられた人間」  創世記2:4b~14  2018.8.26
 
 Ⅰ.体と魂を持つ人間の創造
 創世記は1章において天地創造が語られてきましたが、今日の御言葉において、改めて人の創造について言及します。両者の間に違いがあり、そのことを追求する学者も少なくありません。すでに語ったかと思いますが、1章では、主なる神さまが天地万物を創造されたことが中心的課題であり、2章は、主なる神さまが人を創造され、神と人との関係について語っています。つまり、一つのことを語り口・角度を変えて語っているのであって、決して違うことを語ろうとしているのではありません。
 2章の中心的な課題は人の創造です。7節の御言葉に注目しなければなりません。ここでは、土の塵で人、つまり体を作られたこと、そして命の息、つまり魂を吹き入れられたことの2つが記されています。生物学的には、人間は動物であり、哺乳類に分類され、他の動物、特に哺乳類と同じ分類分けがされます。そして現代では遺伝子レベルにおいても研究されます。しかし聖書は、人間が他の動物たちと同じではないことを、命の息が吹き入れられていることにより語ります。人間は体と共に魂を持つのです。これが神の息です。ここに神の霊=魂があり、永遠性があります。つまり人間が生きるとは、神との交わりである霊を持ち、永遠に生きる者として創造されたのです。神は永遠のお方であり、神の命の息が吹き入れられた人間もまた、永遠の存在として造られたのです。この魂をもって生きることが、他の動物とはまったく異なるのです。
 しかし、今に生きる人間は、「死」を避けてとおることができません。「罪」があるからです(参照:15-17節)。今に生きる私たちは、本来神が創造して下さった姿ではない、正常な姿ではないのです。しかし、罪の故に肉の死を避けて通ることができない人間であっても、なおも肉の死の時も魂は生き続け、神によって捕らえられ、救いへと導かれたキリスト者の魂は、肉の死と共に天国へと入れられるのです。つまり肉においては死ぬことはあっても、魂においては死はないのです。そして結果として、神を信じることができなかった者には、陰府という永遠の苦しみを避けることができないのです。肉の死をもって、人間が終わりを遂げるということは、神による創造から考え、あり得ないのです。

Ⅱ.神によって創造された人間とは…
 ウェストミンスター大教理問答問17は次のように答えます。「神は、他のすべての被造物を造られた後、人間を男性と女性に創造され、男の体は地のちりから、女は男のあばら骨から形づくり、かれらに生きた、理性ある、不死の魂を授け、知識と義と聖性において御自身のかたちに従い、その心に書き記された神の律法とその律法を成し遂げる力とをもち、被造物を支配するが、しかし堕落することもある者として造られました」。ここで「理性ある、知識と義と聖性において御自身のかたちに従い」と告白します。大教理は、いくつかの聖書個所を引証聖句として記すわけですが、この創世記2章の御言葉に聞きつつ、同時に聖書全体で神が人間をどのように造られたのかを確認することは大切なことです。
 人間が理性的であるとは、動物的に直感的に行動する者ではなく、情報を集め、総合的に判断し、決定していく理性が与えられているということです。その基準として神の知識・義・聖性として持っており、私たちは律法(十戒)によって判断する能力が与えられているのです。つまり私たちが信仰生活を続けていく中、様々な誘惑、罪と遭遇するわけですが、何が神の恵みであり、何が罪であるかを判断することが、非常に困難なことがあります。そうした時に、私たちキリスト者が、罪の誘惑に陥ることなく、天国への凱旋を続け、キリスト者としての歩みを続けていこうとすれば、常に神の知識・義・聖性に基づいて、理性的に判断していくことが求められているのです。私たちキリスト者は、だからこそ、常々、考えつつ、賢く振る舞うことが求められているのです。

Ⅲ.社会生活を営む人間
 そして創世記は8節以降、主なる神がエデンに園を設けられたこと、園を潤す川が4つ流れていたことが記されています。チグリスとユーフラテスはペルシャ湾に流れ込む二つの大河です。つまり、創造物語は何か作られた物語のように読んでしまいますが、現実に存在する場所において行われたこと、つまり、主の御業が真実であることを語ります。
 そして、金を産出すし、琥珀の類やラピス・ラズリも産出することも語られています。つまり金や琥珀など金属・装飾を用いた社会生活が営まれることが語られていきます。これこそ、主によって命の息が吹き入れられた魂を持つ人間に与えられた恵みなのです。
 つまり、主なる神さまは、動物に引き続き、人間を創造して下さったのですが、神にかたどり、神に似せて、命の息を吹き入れられた人間は、魂を持ち、理性によって生きるのであり、他の動物とは異なるものとして、創造されたのです。
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 生命の契約」  創世記2:15~17  2018.9.30
 
Ⅰ.聖書は神の契約書
 今日の御言葉は、「生命の契約」あるいは「業の契約」、「行いの契約」とも呼ばれます。「信じれば救われる」と語られる「恵みの契約」と共に、「生命の契約」は私たちの信仰にとって大切な約束(契約)です。神さまが最初の人に語られた命令が、私たちが人間として生きていく上で大切な契約であることを、主の御言葉から聞くことが求められています。
 聖書は"tesutament"と言いますが、「遺言・契約」という意味です。聖書全体が「救いの契約書」ということです。つまり神さまは、目的なしに天地万物を創造し、私たち人間を創造されたのではありません。私たちが家を建てる時、緻密な設計を行った上で家を建てるように、神さまは神の国の完成というゴールを定めた上で、天地万物を創造し、私たち人間もお造り下さったのです。これが神の聖定であり、救われる者に対する予定です。
 ゴールである神の国の姿は、黙示録7:9~12で明らかになります。時代・国民、種族、民族、言葉の違う民がすべて集まり、主を讃美します。ここに被造物として造られた私たち人間の真の生きる目的、喜びがあります(参照:ウェストミンスター小教理問1)。
 この時改めて人間が創造された創世記1章・2章の御言葉を確認します。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(1:26)。人間は、神の持っておられる知識と義と真の聖性を授けら、主なる神の求めを完全に果たす能力のある者として造られたのです。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2:7)。体と共に、主なる神の持っておられる永遠の魂を持ち、理性ある者として、神との交わり、神さまを礼拝する者としての創造されたのです。そして神さまは、「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と語られました。「支配する」とは、神による被造物として神の命令に服従することです。
 
Ⅱ.自由意思と生命の契約
 また神さまは、人に自由な意思をお与え下さいました。つまり人は、自分の意思を持たないおもちゃでも、神に絶対服従が強いられる奴隷でもありません。この時、神さまが求めるように人がすべての被造物を支配するためには、約束が必要となります。それが生命の契約です。これは人間が神さまへの服従のしるしです。つまり、人がこの生命の契約を守ることにより、神さまが求めておられるすべての被造物を支配し、治めることに忠実である意思が示されたのです。そして、人が生命の契約を守ることにより、祝福が与えられ、結果として、神の国の完成が約束されていたのです。
 しかし、人は、主が求めておられる約束を破り罪を犯しました。その結果、「必ず死んでしまう」と語られていたように、人に死が持ち込まれたのです。主なる神さまは人を信頼し、永遠の交わりをすることが出来る者として創造して下さいましたが、人はそれを裏切ったのです。ここでもたらされる「死」は、単なる肉的な死に留まることなく、人が神にかたどり創造されたことから与えられた魂にも及ぶのです。魂には、神の息吹が吹き入れられているのであり、不死ですが、肉の死に伴い、陰府に下り、地獄における永遠の苦しみを避けることが出来ません(参照:使徒信条)。人は、こうしたことを十分理解した上で、この生命の契約を聞いたのです。人は、神の言葉を聞く能力があります。しかし、それを心の底で確認せず、安易に考えていたのです。この結果、罪を犯したのです。
 
Ⅲ.主の御言葉に聞け!
 この生命の契約は、「人」に対して結ばれた契約であり、一人の人アダムだけではなく、彼を代表とする彼から生まれ来るすべての人と結ばれた契約です。そのため、彼が罪を犯すことによって、彼から生まれ来るすべての人間、私たちにも死が持ち込まれたのです(参照:ウ小教理問16)。そのため私たちは肉の死を避けることが出来ず、すべての者が「死は当然」のこととして、あきらめているのです。私たちは罪があることを受け入れなければなりません。誰一人、自分の力で、神の国を勝ち取ることは出来ないのです。
 それでも神さまは、私たちを神の救いと神の国の永遠の生命へとお招き下さいます。生命の契約に生きることが出来なかった私たちに対して、恵みの契約として、御子イエス・キリストを信じる者への救いを指し示し下さいました。今、主は私たちに「信じる者は、あなたもあなたの家族も救われる」とお語り下さいます。「肉の死」ばかりか、永遠の滅びである「陰府に下る」ことから、神さまは「私たちを救い出す」と宣言して下さっています。聞き流すのではなく、腹の底から理解し、受け入れて頂きたいと思います。
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 男と女、結婚、家庭」  創世記2:18~25  2018.10.28
 
序.
 今、若い人たちに結婚の勧めたり、若い夫妻に子どもを催促することがタブー視されています。もちろん個人的配慮は必要です。一方、私たちは主が天地創造の時に定めて下さった秩序を主の御言葉から聞くことが求められています。

Ⅰ.人との交わりに生きる人
 2:18「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」は、1:26-27と共に考えなければなりません。主は1章では「我々」と語られており、三位一体(御父・御子・御霊)の交わりが、人においても行われるように、人を創られたのです。つまり人は人との交わりにより生きる者とされたのです。現在、家族との関係が薄れ、周囲の人たちとの交わりが希薄になっています。このことは、主が求めておられることと、反対方向に向かっていることを、私たちは理解しなければなりません。
 このことは同時に、「自分の力で生きよ」、「自己責任」が叫ばれること、あるいは「他者を権力・武力により従わせ、虐げる」ことが過ちであることを語っています。リーダーとして人をまとめることと、他者を支配することとは違います。

Ⅱ.男と女、結婚
 現在、高齢者や障がい者がペットと共に生きることが、とても有効であると言われています。しかしペットは自分に合う助ける者(パートナー)にはなり得ないのです(19-20)。人は人との交わりに生きることが最善なのです。それも異性との交わりにおいてです。
 男性と女性の関係を考える時、最初に確認すべきことは、男が最初に造られ、男のあばら骨から女が造られたことです。順番は聖書が語るとおり変更されることはありません。三位一体なる神(御父・御子・御霊)の関係と同じです。ただ、それらには上下関係・主従関係はありません。しかし、男尊女卑・男性中心の社会が延々と続いてきています。
 聖書が語ることは、能力の優劣、権威の順序を語っているものではありません。主は、人に合う助ける者として女性を造られたのです。社会的な働き・役割の違いであって、対等なパートナーです。男性が女性を支配することは罪の結果です。福音書において主イエスの言動を確認すれば、女性にも多くの光を当てていることからも確認出来ます。
 男女平等は叫び続ける必要がありますが、「すべてに平等にすべきだ」と語る無性別化の社会の動きに対しては、聖書から逸脱していると言えるでしょう。

Ⅲ.結婚すること、家庭を持つこと
 そして次に結婚について考えます(24)。主が男に与えた女は、単なる助け手ではなく、二人が一緒になる、結婚して夫婦となることが、人間に本質的な事柄であり、神にとって重大な意味を持っていることを語ります。これが1:28「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と関係します。結婚・家族を持つことに主の祝福があります。
 同時に「一体となる」ことは、引き離すことができないものとして聖書は語ります。離婚の問題です。主イエスもこの御言葉を引用しつつ、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19:6)と語られます。結婚は、主なる神さまの御前に誓約する神との契約です。信仰告白と同様です。だからこそ、教会では結婚・離婚に関しても、厳格であることが求められます。
 また信仰告白は「結婚は、一人の男性と一人の女性の間でなされるべきである」(24:1)と告白します。結婚は、パウロによりキリストと教会の関係であることが語られています(エフェソ5:30~33)。偶像崇拝は、主なる神とは別の神を信じること、不倫であると聖書は語ります。つまり男女の間の結婚においても、一人の男性と一人の女性の間で行われることが求められていると、聖書は語ります。
 創世記4:19でメレクが二人の妻をめとったことが記されますが、カインから5代目、一夫多妻が持ち込まれたのであり、罪の結果です。

Ⅳ.結論
 今日の御言葉は、現在に生きる私たちからすれば、社会に逆行していることが語られていると思われるかもしれません。しかし、今、私たちがキリスト者として主なる神さまの御言葉に聞くことにより、現代社会で行われていること、語られていることを、無批判に聞き従っていて良いのか、主が求めておられることから離れていることが行われているのではないか、そうしたことを、しっかりと確認し、考え、議論し、そして、社会においても言及できる時に言及していつつ、私たち自身が主の御言葉に聞き従って歩んで行くことが求められているのではないかと思います。
 
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 誘惑」  創世記3:1~7  2018.11.25
 
序.
 主なる神は、天地万物を創造し、最後に人をお造り下さいました。この時、神にかたどり、神に似せて創造され(1:26)、命の息が吹き入れられました(2:7)。他の被造物とは徹底的に異なり、神との交わりがあり、神がお造りになられた全被造物を支配し、治める権能が与えられました(1:28)。そして男から女が造られ、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(2:24)と語られました。この「一体となる」とは、女は男に従属することではなく、それぞれの人格を認め、互いの弱さを補い合い、助け合って生きることです。

Ⅰ.交わりに生きる人間
 そして人は、神と交わり、人相互の交わりによって生きるものとされ、同時に主が造られたすべての生きる被造物との交わりに生きるものとされました。ここでいう「交わり」は、「言葉と言葉によって意思疎通を行うこと、人格的に交わる」ことです。
 そして蛇との交わりも与えられました。罪を犯して以来、蛇は呪われ、這い回っています(3:14)が、この当時は人間と対等に話し、交わりを持つ存在でした。特に、蛇は最も賢かったのです。このように語ると「この時の蛇はどのような体だったのか」と興味が注がれますが、聖書が記していないことは救いに関係なく、私たちは詮索すべきではありません。

Ⅱ.誘惑 さも「真実だ」との見せかけ
 しかしこの時、蛇にはサタンが付いていました。ある人を名指しし「サタン化している」ということは避けなければなりません。しかし、新約聖書では汚れた霊に取りつかれた人のことが記されており、マルコ5章では「レギオン」と名乗っています。そして現在でも、神から離れ、悪を行わせる力が働きます。ここにサタンの力が働いているのは確かです。
 しかし見た目に悪そうな雰囲気をもっている人にだけ、サタンが働いている訳ではありません。堕落前、蛇は女との間に人格的な交わりが成立していました。ここに油断があります。詐欺師は、人を信用・安心させ、言葉巧みに騙します。蛇は女に言います。3:1「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。3:2 女は蛇に答えます。「…園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない。触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」。主なる神は、「食べてはいけない」とはお語りになりましたが、「触れてもいけない」とは語られていません。女が、過剰に意識している結果であり、平常心を失っていたのです。こうした隙をサタンはつけ込みます。3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。女は、それまで何とも思っていなかったにも関わらず、その木が魅力的に見え、実を取って食べたのです。これが最初の罪です。
 後に女は「そんなはずではなかった」と思ったのではないでしょうか。これが罪の本質です。神と交わり、男と交わり、被造物と交わり、園のすべての木の実を食べていました。しかし蛇との会話の中には、その全てが消え去り、蛇と善悪の知識の木しかありません。女がすべての木を見ていれば、選ぶはずのない木の実を、女は選んだのです。私たちは、日々サタンからの誘惑を受け続けます。私たちはサタンの誘惑が常にあることを意識し、視野を広く持つこと、考えることが必要です。

Ⅲ.男と女の交わり
 この時女は、一緒にいた男にも渡したので彼も食べます。男は、何も考えることなく、躊躇することなく食べました。相手を全面的に受け入れている結果です。一体となった夫婦としての交わりにより、相手を尊重し信頼するには大切なことです。しかし私たちは、そこにもサタンの誘惑があることを忘れてはなりません。油断せず注意する必要があります。教会もまた同じです。牧師・長老・信徒を誘惑し、教会をつぶそうとします。

Ⅳ.「目が開かれた」結果
 木の実を食べた二人の目は開かれます。これは蛇が語ったように「神のように善悪を知るものとなった」訳ではありません。罪の扉が開き、堕落の道を歩み始めたのです。
 人が堕落した結果、交わりが断たれます。第一に神との交わりの断絶です。その結果、人は神を求め偶像崇拝します。第二に人との交わりが歪み、他者を支配しようとします。権力・暴力・虐待が生じます。第三に被造物との交わりも歪み、虐殺、利用しようとします。こうした創造の秩序にある交わりを欠いた人は、滅びの道を歩み始めるのです。
 しかし主は、創造の秩序と交わりの回復の道をお示し下さいました。主なる神を知り、キリストの十字架を示される時、私たちは神との正しい交わりを回復し、滅びではなく、生命の道を歩み始めます。そして隣人や被造物との愛の交わりを回復するのです。
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 責任逃避」  創世記3:8~13  2019.1.27
 
序.
 人は、主なる神から命じられていた約束(2:17)(行いの契約:参照 1/27夕拝)を破り、罪を犯しました。罪を犯した人間が、神の御前にどのように行動し、それに対して主なる神が何を語り、何を求めておられるのかを、与えられた御言葉から聞こうと思います。

Ⅰ.罪を犯した者
 罪を犯した人は主なる神を避け、隠れました(8)。自らの行いが人前で明らかになることが恐ろしいからです。罪は隠れた所で行われます。つまり、人は罪を行うことは正しいことではないこと、神の裁きに遭うことを、人は意識的・無意識的に理解しています。
 そのため私たちは、明らかにされて困るようなことには罪が潜んでいることを理解しなければなりません。もちろん個人情報・プライベートは必要です。しかしキリスト者は、隠れなければならないことを行ってはなりません。義・聖・真実である神の御前に、私たちのすべてのことが明らかになります。何も隠すことはできません。この世において、どれだけ成功し、人々から称賛を受けている人であっても、主の裁きの座から逃れることはできず、キリストが再臨される時、すべての罪が明らかにされます(参照:黙示録6:15-17)。

Ⅱ.「どこにいるのか」と声をかける主なる神
 主なる神を避けた人に対して、神は3:9「どこにいるのか」と声をかけられます。主イエスも、最初の弟子に「何を求めているのか」と声をかけ(ヨハネ1:38)、ダマスコ途上のパウロに、「なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)と呼びかけられます。主は常に私たちと共におられ、そして呼びかけて下さいます。「どこにいるのか?」、「何をしているのか?」、「なぜそうしているのか?」と。神の呼びかけは、罪の裁きを行うためではなく、その人を神の御前に集め、招き入れるためです。自らの姿を顧みて自らの口で罪を明らかにし悔い改め、神の救いに依り頼み、主の民として生きることへと招き入れてくださいます。
 つまり問題が生じた時の主の解決方法は、最初に事実を明らかに、事実を認めさせることはしません。これは福音ではありません。教会が最初に行うことは、その人を受け入れ声をかけることです。愛によって包み込むことです。事実を明らかにするのは裁判です。信頼関係がなければ、話し合い、真実を明らかにすることはできません。信頼関係ができた時に初めて、「何があったのか?」、「なぜ?」と事実関係を共有することができます。この時、人を悔い改めへと導きます。事実関係を共有することにより、問題の原因を確認し、根本的な解決にもつながります。問題は対処療法ではいけません。
 私が今年の標語として「互いに柔和で寛容の心をもつ教会を目指して」を掲げたのも、このことを意味しています。主なる神は、罪を明らかにして裁くお方ではなく、罪を赦し、救いに入れて下さるお方です。主は私たちを無条件で包み込んで下さいます。

Ⅲ.主の裁きから逃げる人
 この時アダムは主なる神の御前に立ちます。主から逃げることはできないことを知っているからです。人は恐れます。なぜなら、主なる神に命じられた約束を破ったことを、自分自身が一番自覚しているからです。そして主が「食べると必ず死んでしまう」(2:17)と、お語りになっていたからです。死への恐れです。義・聖・真実の神の裁きは、完全であり、逃れの道はありません。そして人は神との交わりを断ち(小教理19)、主の呼びかけを受け入れることはできません。神の愛を理解できないからです。人は主の裁きを恐れて逃げ、隠れます。私たちは、この誤解を解き、神の愛を証しすることが求められています。

Ⅳ.言い訳
 そして、神を恐れる人は女に、女は蛇に責任転嫁します。言い訳して、自分の罪を深刻なものではなく、軽いものであるように装います。
 さらに主は、人に「取って食べるなと命じた木から食べたのか」、女に「何ということをしたのか」と問われます。人も女も言い逃れをします。昨年、新語・流行語大賞のトップ10に入った「ご飯論法」です。ご飯論法とは、言い逃れや論点のすり替えを表す言葉です。たとえば、「朝ご飯は食べたか」という質問の「ご飯」を故意に狭い意味にとらえ、「米のご飯は食べていないが、パンは食べた」と答えるといった具合です。論点をずらしたり、ごまかそうとするのは、罪の結果です。
 主はいつでも、愛と憐れみをもって私たちを受け入れてくださり、「どこにいるのか」、「何をしているのか」、「なぜおこなったのか」と問いかけてくださいます。そして私たちが、主から逃げ隠れしたり、言い逃れをするのではなく、主の御前に立ち、すべてを明らかにして、主の愛の内に生きることを、主は願っておられます。
 
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 最初の福音」  創世記3:14~15  2019.2.24
  
序.
 アダムは最初の罪を犯し、神に自己弁護しました。何も気にせずに読みますと、神がアダム・女・蛇に続けて語り、一気に読み飛ばしてしまいます。しかし14・15節では、蛇に象徴されるサタンに対して滅びが宣言され、神の勝利が預言される福音が語られています。私たちが聖書を理解する上で、非常に大切な御言葉であります。

Ⅰ.蛇への呪いと、人への愛
 主なる神は、アダムに対して問いかけ会話しています(8-12)。そして女でも同様です(13)。しかし神は蛇に対して、問いかけも会話もせず、滅びの宣告を行います。この時、滅びの宣告を受ける蛇がどのような存在であるかを、私たちは考えなければなりません。
 主なる神は、すべてのものを良いものとして造られました(創世1章)。天地創造には、三位一体なる神の愛が込められています。そのため主の被造物であるアダム・女に対しても、罪を犯したことを、怒ったり裁いたりすることなく、問いかけられます。会話を行うのは、愛の交わりがあるからです。裁く・虐げる・無視するのは愛がなく、自己中心・相手にある敵対心です。蛇を象徴するサタンは、神の被造物ではなく、神の愛の内にありません。サタンは永遠の主の裁きに値する存在です。サタンは、神の被造物である人間に死と呪いをもたらす存在であり、滅ぼすべき存在です。
 蛇がサタンであることを理解せずに読むと、今日の御言葉を理解することは出来ません。蛇には足があったが、主の呪いの宣言により、足が奪われ這うものとなったことを追求すべきではありません。これは罪の象徴的な現象です。そのため、聖書は神の国の完成の時、神の呪いである地を這うものが、主を崇めるようになることを語ります(参照:ミカ7:16-17、イザヤ65:25)。蛇、這うもの、塵を食らうことが滅びへの道であり、救いはそこからの回復であることを、聖書は語ります。

Ⅱ.キリストによる救いの約束
 「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く」(15a)。呪いと滅びの宣告を受ける蛇に対して、女は敵意を置く存在です。女は裁きを宣言されることはありません。それは女の子孫であるすべての人間にも引き継がれます。人間として生きることそのものが、神と敵対して呪われ滅びるものではなく、神の被造物、神の愛の対象です。
 しかし人間は罪を犯すが故に、罪の刑罰と滅びが逃れられません。愛の交わりを取り戻すために、神は人を救われます。ここに私たちの救いの根拠があります。
 「彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く」(15b)。唐突に「彼」が出て来ます。蛇=サタンであり、彼はメシアであり救い主イエス・キリストを指し示しています。このことを信仰告白も証言します。「贖いの御業は、かれの受肉後に初めてキリストによって現実になされたのではあるが、しかし、その効力・効果・益は、キリストが蛇の頭を砕くべき女の子孫、世の初めから屠られた小羊、として啓示され、表されている種々の約束・予型・いけにえにおいて、また、それらによって、世の初めから、引き続きあらゆる時代に、選びの民に分かち与えられた」(ウェストミンスター信仰告白8:2)。
 つまり最初、お前であるサタンが彼であるキリストのかかとを砕きます。これはキリストの十字架と死と陰府に下ることを示しています。サタンにとっては、キリストに勝利を遂げたと思った瞬間です。しかしキリストは、死から三日目の朝に甦られました。この時にキリストは死に対して勝利を遂げ、最後の審判において、罪とサタンに最終的な勝利を遂げられます。これが、彼であるキリストがお前であるサタンの頭を砕くことです。つまり、キリストの十字架は、神ご自身からすればかかとを砕かれた程度の小さな傷に過ぎませんが、キリストの復活と最後の審判は、サタンにとって致命的な敗北です。「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」(ローマ16:20)。

Ⅲ.原福音
 サタンに勝利するキリストこそ、聖書全体を支配しています。最初の行いの契約(2:16-17)に対して、「恵みの契約」、別の言葉で「福音」が、ここで示されています。
 そして、最初に示された恵みの契約のことを、福音の原点として「原福音」と語ります。恵みの契約は、この原福音からノア・アブラハム・モーセ・ダビデへと引き継がれます。
 主は、最初のアダムと女が罪を犯した時、彼らを裁くのではなく、サタンの裁きとキリストによる救いをお示し下さいました。この約束が継続し、私たちにも信仰による救いが示されています。神は愛をもって私たちの救いを願っておられます。
 
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 罪の下に生きる人間」  創世記3:16~19  2019.3.31
  
Ⅰ.聖書全体を確認しつつ読み進もう!
 今日の御言葉では、出産の苦しみと労働の苦しみについて語られています。ここだけを読むと罪の裁きが下されたことだけを考えます。確かに罪の結果でもあります。
 しかし、それだけでは聖書を誤って理解することとなります。繰り返しますが、聖書を読む時、天地創造から神の国の完成の聖書全体を理解しなければなりません。前後の文脈を無視してはいけません。今日の御言葉では、直前の15節に語られています恵みの契約(原福音)が前提とされています。そのため今日の御言葉は、罪の刑罰の側面がありますが、同時に神さまの愛、恵みが秘められており、こうした部分を忘れてはなりません。

Ⅱ.出産の苦しみ
 主なる神は最初に女に対して産みの苦しみを語られます(16)。この苦しみは、罪の刑罰の意味合いが込められています。しかし産みの苦しみは、子どもへの愛情・繋がりを深くします。神の愛が、女が出産を通じて子どもに示されます。
 主なる神は続けて女に語ります。「お前は男を求める」(16)と。本来、男と女は人格的な関係、互いに助け合う関係でした(2:23-24)。しかし「お前は男を求め」るとは、本能的な関係です。ここから、姦淫・一回限りの性的関係を持つことが生じてきます。神はこうした本能的な性的関係を禁じられています(第七戒)。
 さらに主なる神は女に「彼はお前を支配する」と語ります。男女の従属関係は、創造の秩序と女の最初の罪から来ていると語る者もいます。しかし創造における順序は、従属関係ではありません。この主の御言葉は、男尊女卑、男性優位の社会に対する警告です。女性蔑視の社会は、最終的には聖書によらなければ解決することはできません。

Ⅲ.労働
 続けて主はアダムに向って語ります。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」(17)。罪の呪いはアダム自身に対してではなく、土に及びます。つまりアダム・人間が神に呪われた者となったのではありません。神はなおも人を愛しておられます。ただし人は罪を犯し、義に生きることが出来ません。罪の結果としての神の裁きを逃れることが出来ません。
 土が呪われたために、人は収穫するために、労働の苦しみを担います。主が人間を愛し続けて下さるように、私たち人間は、呪われ、茨とあざみに代表される土地を、なおも愛し、手入れを行いつつ、収穫のために働くことが大切です。このことは、自分の力や努力で収穫を得るのだと意気込むのではなく、収穫をお与え下さる神さまに依り頼みつつ、与えられた働きをまっとうすることです。もちろん科学の進歩があります。主がお与え下さった技術を感謝して用いていくことも大切です。しかし、主が天地創造において作られた秩序を破壊して多くの収穫を得ようとする時、土地は茨とあざみに戻り、痩せて、収穫を得ることが出来なくなります。主が安息年の規定を設けられたことには意味があります(レビ25:2b~5)。土を愛し、丁重に手入れすることにより管理することが大切です(参照:創世記1:28)。
 労働の苦しみが罪の結果であるならば、「楽(らく)して生きたい」と思うこともまた罪の表れです。「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)。人が土地を耕し、守ることは、創造の秩序に適ったことです。この時の労働は、罪が混入した後のようには苦しみが伴わないかと思いますが、罪がない時、働きくことをしなかったのではありません。労働は罪の刑罰の側面もありますが、同時に神からの恵みを覚えることができ、また神に仕える者としての訓練です。この時、人は、いのちの尊さ、人との繋がりの大切さと喜びを経験することが出来ます。
 また労働の苦しみを考える時、現代の問題である働き過ぎ、過労死についても考えなければなりません。主は、天地創造の第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさいました(2:2)。七日毎の休息は、創造の秩序から来ています。働き過ぎは、支配の秩序がいびつになっている証拠です。主なる神は、持っている者は、持っていない者に分け与えることを求めておられます。執事活動・ディアコニアとして、炊き出しや子ども食堂を行うこと、そしてワーキング・プアの問題を、政治家に語っていくことも教会の責任です。

Ⅳ.人間の死
 主なる神は最後に「お前は…土に返る」とお語りになります。罪の中に生きる私たちは、肉の死を避けて通ることができません。しかしこれは最終的な神の裁きではなく、主の裁きは最後の審判において行われます。そして、主を救い主として信じる私たちは、救いが約束されています(参照:ウェストミンスター信仰告白32:1)。
 
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  エデンの園からの追放」  創世記3:20~24  2019.4.28
 序.
 人は、蛇の誘惑により罪を犯し、死ぬ者となりました。そして一つの罪からすべての人は、様々な苦しみ・様々な罪が生じて来ます(3:17~19)。しかし同時に主なる神は、恵みによる救い(原福音3:15)をお与え下さいました。罪の故に滅び行く人に、主は恵みによる救いを示して下さいます。今日の御言葉も恵みの契約を前提として読まなければなりません。

Ⅰ.「命」の名を与える
 さてアダムは、女をエバと名付けます。「名は体を表」します。聖書に記されている名は、神の意思を表します。エバという名は、アダムが名付けますが、ここに主の意思が込められています。「エバ」とは「命」だと聖書は記しますが、「生きる」とも訳せます。
 蛇の誘惑があったにせよ、女は罪を持ち込んだ張本人の一人です。しかし主は女に対して、苦しみながらも人の母となる祝福をお与え下さり、「命の源泉」を意味する名を、アダムによってお与え下さいました。ここに神の愛が表れています。

Ⅱ.皮を着る人
 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられました(21)。これはいちじくの葉を腰に覆っていた人(3:7)にお与え下さった主の恵みです。罪が混入することにより、恥ずかしさと性的欲求が生じるため、人は服を着ることが必要となったのです。
 現代に生きる私たちにとって衣服は、保温のため、そしてファッションへの関心が大きいでしょう。天地創造からノアの洪水まで、天も水の膜で覆われていたため温暖でした。そのため、この時は寒さ対策の衣服を特に求める必要はありませんでした。ファッションは新たな誘惑です。最初の罪は、人に罪の刑罰としての死と共に、人が地上に生きるにあたり、様々な罪の誘惑の中で生きることを強います。生活に必要なものであっても、そこに誘惑が生じてきます。私たち人間は「全的堕落」した状態で生きているからです。
 美しくありたいと思うことは非難されることではありません。美的な感覚も主から与えられた恵みです。しかしここに罪の誘惑があるため、私たちは秩序が求められます。性的欲求を満たすような服装は許されません。またTPO(時間・場所・場合)をわきまえることが求められます。神礼拝にふさわしい服装が求められます。教会によっては「正装でなければならない」と語り、「男性であれば背広でなければならない」と教える教会もあります。つまり礼拝は主なる神との出会いの場であり、いっちょうらいであるべきだとの考えです(参照:マタイ22:11-13)。しかし「正装しなければならない」と強制するのは行き過ぎであると、私は思っています(参照:ルカ14:23)。主は服装以前に、主の御前に集うことが大切であることも語っておられます。つまり礼拝出席には服装をわきまえる必要があります。しかし強制してはなりません。意味を理解せずに強制することは、律法主義に陥ります。
 人が皮の服を着ることによるもう一つの問題が生じます。動物を殺すことです。天地創造の時、人が生きる者として創造され、人と動物は共存していました(参照:1:29)。しかし罪を犯した人に動物の皮が与えられ、そして動物の生け贄を献げるようになります(4:4)。そして、ノアの箱舟の後、主はノアに対して祝福と契約をお与え下さり、ここで肉を食することも認められていきます(9:3)。人が罪を犯したことにより、人間社会における秩序が変化し、動物の支配・自然界の秩序も変化します。そのため罪の赦しに生きるキリスト者は、創造の秩序を理解し、自然界の秩序を回復することが求められています。

Ⅲ.エデンの園から追い出される人
 最後に、主が人をエデンの園から追い出したことが記されています(22-24)。「人は我々の一人のように」(3:22)と、唯一の主なる神が「我々」と複数形で記されています(参照 1:26)。主なる神が、御父・御子・御霊なる三位一体の神であることを語っています。神の恵みは、三位一体の神の交わりに入れられることです。しかし罪を犯したそのままの状態で、人が三位一体の神の交わりに入ることを許されません。それがエデンの園からの追放です。
 「エデンからの追放」と語ると、「主から見捨てられた」と思います。地上の生命の終わり(肉の死)と、滅び(永遠の死)を意味します。しかし、主は人を見捨てられたわけではありません。人は呪われたものとなった土を耕し、苦しみを覚えることで、自らの姿を顧み、主への信仰へと導かれる道を、主は備えて下さったのです。人が三位一体の神との交わりを回復するためには、罪の悔い改めとキリストの十字架の贖いに与る必要があるからです。「エデンの園からの追放」と一見、神から人が見捨てられたように見えますが、ここにも、人の罪を贖い、救いに入れて下さろうとしている神の愛が込められています。
 
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 嫉妬心と殺人」  創世記4:1~8  2019.5.19
 
序.
 人の最初の罪により、全的堕落、つまり彼らから生まれるすべての者が、神の御前に行い・言葉・心において罪を繰り返し、誰一人、自らの力で永遠の生命を得ることはできなくなりました。説教題を「嫉妬心と殺人」としました。皆さまは「嫉妬心くらいで、人を殺すことは絶対にない」と思っておられるでしょう。しかし全的堕落に生きる私たちは、嫉妬心により人を殺してしまう力を持っていることを今日の御言葉が語ります。

Ⅰ.「知る」
 エデンの園から追放されたアダムとエバは、罪に覆われていますが、再出発の道が与えられます。「アダムは妻エバを知った」。聖書において「知る」とは、単に「知識として知る・認識する」だけではなく、人間同士の人格的な交わり、互いの本質を知ることです。彼らは単に男女として好きになり、行為をもって子どもを身籠もったのではありません。
 カルヴァンは、「キリスト教綱要」の最初で語ります。「我々の知恵で、とにかく真理に適い、また堅実な知恵とみなされるべきもののほどんどすべては、二つの部分から成り立つ。すなわち、神を認識することと、我々自身を認識することである」。つまり私たちが神を信じるとは、神を知的に理解し、神の本質を理解すること、私たち自身の姿を顧みることによって、神を信じ、神との人格的な交わりが与えられることです。

Ⅱ.神礼拝と罪との関係
 アダムは妻エバを知った結果、エバはカインとアベルを産みます。人格的な交わりを回復し、家族を得るという恵みに満たされます。
 しかし、罪は子どもたちにも受け継がれます(原罪)。「人間は生まれた時には罪がないが、自分の意志で、罪を犯すのだ」と語る神学者もいますが、そうではありません。ニュートラルの状態ではなく、罪を持った状態、罪を犯す者(現行罪)として生まれます。
 カインとアベルは神を礼拝し献げ物を持って来ます。神との交わりは続いています。主は、人が罪を犯しても、なおも恵みの内に置いて下さり、救いの道を備えて下さいます。
 この時、アベルは羊を献げ物として持って来ます。献げるとは生け贄です。生きる者として創造された人間は、動物との間でも交わりがあり、動物を殺して、動物の肉を食べることはありませんでした。しかし羊を神に献げるために殺しました。それほど、人間の罪は大きく、人が救われ、神との交わりを回復するためには、血の贖いが必要であることを、アベルは知っていました。そのためアベルは羊の中から、最上のものを主に献げました。主への感謝、主に献げるとは、とりわけ、最上のものを献げることが求められています。すべては主から与えられ、主のものだからです(参照:ヘブライ11:4)。
 私たちの救いには、血による贖いが求められます。それがキリストの十字架によって成し遂げられました。私たちの信仰は、主への感謝によって表れます。それが、時間・財・賜物を主に献げる礼拝・献金・奉仕です。時間がある・余裕があるから行うのではなく、主に仕えるため、時間を割き、財を用いて、主に奉仕するのです(参照:ウ信仰告白16:6)。

Ⅲ.行いではなく、その心が問われている!
 この時、カインの献げ物が問題となります。神は差別されているのか? カインとアベルとの違いは、アベルが最上のものを主への献げましたが、カインは主に献げる行為が目的となっており、救いをお与え下さった主への感謝は、ここにはありませんでした。このことはカインが正しいことを行ったと感じていないことから明らかになります(6-7)。
 私たちは、主なる神を信じること、礼拝することが求められているのではなく、主なる神をどのようなお方として、どのように信じているのかが問われています。再生していない人々によってなされる行いは、信仰によって清められた心から出るのではなく、神の栄光という正しい目的のためになされるのでもないから、罪深く、また、神を喜ばせることも、人を神から恵みを受けるのにふさわしくすることもできません(ウ信仰告白16:7)。

Ⅳ.全的堕落に生きる私たち
 カインは、自らの姿・信仰を顧みることなく、アベルのみが主から認められため、アベルに対して嫉妬心を持ちます。心のこと、小さなことでも、人は突如として大きな事件を起こしてしまいます。それが罪です(7)。それが兄が弟を殺すという行為へと発展して行きます(参照:Ⅰヨハネ3:12)。罪をもって生まれる私たちは、全的に堕落しています。主による召し、キリストの十字架による贖いがなければ、神の救いと罪の赦し、永遠の生命を得ることは出来ません。 主が共にいて下さるからこそ、私たちは罪からも守られています。主の恵みに感謝して、主を礼拝し、主に仕えて行きたいと思います。
 
 
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 わたしの罪は重すぎる」  創世記4:8~16  2019.6.30
  
序.
 聖書は人類最初の殺人事件を記します。カインの嫉妬心から生じたものです。罪の原因は些細なことでも、小さな事柄と高をくくってはなりません。最初は小さなことであると思っていることであっても、大きな事件を巻き起こすきっかけとなるのが、罪の本質です。

Ⅰ.神の御前に生きよう!
 他人を殺す、他人を脅すことは悪いことであることは、子どもでも知っていることです。しかし、「だから悪いことは止めましょう」と道徳を語るのが聖書の目的ではありません。
 弟を殺したカインを、主なる神は最初から最後まですべて御覧になっています。私たちは、神の御前に隠れることはできません。行ったことを隠すこともできません。取り消すこともできません。さらには、心の中で秘めている事柄も神の御前では明らかになります。
 その上で、主はカインに「お前の弟アベルは、どこにいるのか」とお尋ねになります。カインが、自分の行ったことに向き合うことを求めておられます。私たちも毎日の生活で行ったこと、語った言葉、心の中で思ったことと向き合わなければなりません。あなた自身の言動のすべて、主の御前に隠すことはできません。

Ⅱ.罪を覚えつつ、主の御前に生きよ!
 カインは神には見つかっていないと思っていました。隠す・嘘を言うのは、自分が悪いことを行った自覚があるからです。主は第九戒で「偽証してはならない」と指摘されます。
 隠さなければならない罪は、主による裁きに値します(10-12)。ここで主がお与え下さった生命を奪うことの罪の故に主の裁きが宣告されます。神との交わりが断たれ、神の裁きと滅びの宣告が行われます。この呪いによる滅びの宣言が、主の御前に罪を犯し、隠さなければならず、嘘をついてしまう私たちにも、毎日、宣言されています。
 私たちに今求められていることは、カインが「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と語ったように、自らの罪、滅び行く姿を受け入れることです。

Ⅲ.あなたの罪は赦された!
 罪が指摘されると、神を信じない人たちは自暴自棄に陥り、「どうせ滅びるのだったら、自分勝手に生きる」となります。しかし私たちに求められていることは、主なる神を見上げることです。愛なる神は、私たちに逃れの道を備えていて下さいます。Ⅰコリント10:13「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。
 だからこそ「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」のです(4:15)。私たち人間は、一人の人の罪が明らかになれば、マスコミを中心にして、皆がそれを批判します。それは他人を裁くことにおいて、「自分はそうした罪はない」ことを誇ります。しかし主なる神は、そのようなことは求められません。
 ヨハネ8:1~11には、姦通の現場で捕らえられた女が主イエスの所に連れてこられましたことが記されています。この女が罪を犯したことは明かです。しかし主は、彼女の罪を顧みる前に、そこに集う一人ひとりに自らの罪を顧みることを求められます(8:7~9)。罪に対する裁きは主が行うことであって、私たちが裁判人になってはなりません。だからこそ、教会において、一人の人の罪が明らかになった時、その扱いは非常に慎重に行わなければなりません。マタイ16:18~19には、ペトロに鍵の権能が与えられています。教会に与えられている鍵の権能、つまり一人の人に洗礼を授けるか否か、また一人の人の罪を裁くか否かの権能が教会に与えられていることを語っています。本来、主なる神が持っておられる権能を教会が与ります。教会で責任が与えられている牧師・長老が、主の御前に祈りつつ、責任を果たすことが求められます。しかしそれ以外の時に、たとえ牧師や長老であっても、安易に罪を指摘することは許されていません。むしろ、一致を保つことに努めなければなりません。今年の聖句を確認しましょう。「柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」。
 主イエスは、姦通の女を罪に定めませんでした(ヨハネ8:10-11)。主は、罪を悔い改めた者を裁かれることはありません。自らの罪を顧み、悔い改めた者は、キリストの十字架の御業によって罪が赦されているからです。主は、カインの罪を赦し、私たち一人ひとりにある罪をもお赦しくださいました。私たちの罪の刑罰を、神の御子キリストの十字架に負わせて下さったからです。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ」。
 
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 カインの子孫」  創世記4:17~26  2019.7.28
 
序.
 アダムとエバが最初の罪を犯し、人間は全的に堕落しました。その結果、兄カインが弟アベルを殺すという事件につながります。兄が弟を殺すことは、最初は嫉妬心からであり、小さな些細なことが、大きな罪を引き起こしました。これが罪の本質です。罪にもかかわらず、主は悔い改めることにより、罪を赦して下さいます(4:15)。

Ⅰ.一夫多妻
 そして罪は継承されます。アダムから数えて7代目のメレクの時代に、権力に関わる罪が顕わになります。ここで3つの現象が記されています。
 第一が、二人の妻をめとる一夫多妻です。主なる神は、人を助ける者として、女を与え、男は父母から離れて女と結ばれ、二人は一体となる(創世記2:24)とお語りになりました。一人の男性が一人の女性を妻とする、それが主が定めた創造の秩序です。しかしレメクは、二人の女を妻に迎えます。これは権力の象徴であり、男が女を支配し、男尊女卑へとつながります。これは主の創造の秩序から離れた罪の結果です。
 創世記では、アブラハムが妻サラの女奴隷ハガルによってイシュマエルを生んだり、ヤコブはラケルとレアを妻にし、それぞれの召し使いビルハ、ジルパにも子どもを産ませることにより12人の子どもがイスラエルを形成します。旧約聖書を読んでいると、一夫多妻が許されているかの如くに思ってしまいます。しかしこれらは罪の結果です。しかし主の不思議な摂理は、罪によって行われることも、主の御業に組み入れられます。
 このことは主イエスの十字架においても同様です。主イエスは十字架の死と復活により、私たち神の民の罪の赦し救いを完成されます。しかし主イエスを逮捕し、裁判にかけ十字架に架けるのは、ユダヤ人たちの罪の結果です。ローマの総督ポンティオ・ピラトの責任は逃れられない事実として使徒信条においても彼の名を残しています。ですから、一人の夫が複数の妻を取ることも、主の創造の秩序に反した罪であることを私たちはわきまえつつ、同時に、主なる神は、主の御業を遂行し、完成されます。
 こうしたことは現代の教会でもあることです。教理の発展、信仰告白の作成は、教会の中に、異なった意見を持つ者や異端者が現れた結果です。使徒言行録15章のエルサレム会議がその一例です。信仰に割礼が必要か否かを議論し、水による洗礼だけで良く、肉による割礼を必須とはしないことを確認しました。二性一人格、神の三位一体なども同様です。

Ⅱ.武器を持つ者
 レメクの息子トバル・カインは青銅や鉄で道具を作る者となります。農作業で用いる器具と同時に武器が造られます。人が武器を持つ時、支配の構造が出てきます。個人と個人であれば支配者と奴隷となり、集団となれば力の支配による国を形成することとなります。
 武力で人を支配することは罪です。そのためイスラエルの民は、主の御言葉に聞き従うことが求められます。しかしイスラエルの人々も武器により人々を支配し、国を巨大にしようとします。この時、主はイスラエルを裁かれ、主の御言葉に聞き従うことを求めます。神の民とされた私たちが信じるべきは、武器を持つことではなく、主なる神への信仰です。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(エフェソ6:10-11)。

Ⅲ.強欲(77倍の復讐)
 23~24節にメレクの言葉が示されています。2つのことが問題となります。一つはアダとツィラの妻達を支配していることです(男尊女卑)。強欲な心は、言葉や態度に表れます。
 もう一つの問題が復讐です。これは主がカインに語られた15節の御言葉を歪んだ解釈をしています。つまり主はカインの罪を赦すと同時に、カインを殺そうとする者を主御自身がが裁かれます。しかしレメクは自らの力で復讐を行います。「レメクのためには77倍」と語るのは、明らかに主なる神の言葉を意識しています。私たちは、為政者・支配者を注視し続けなければなりません。騙されないようにしなければなりません。独裁を認めてはなりません。それが主によって救われたキリスト者に求められていることです。
 主イエスはレメクの考えを全面否定し、罪の赦しを求められます。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:21~22)。490回と言うことではなく、無限に赦しなさいということです。これは明らかにレメクのためには77倍と語られたことを念頭に、それを否定する形で、復讐ではなく、罪の赦し、和解を求める神の愛を、私たちに訴えています(参照:ウェストミンスター小教理問105)。
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 系図に示される福音」  創世記5:1~32  2019.8.25
  
序.系図を読むにあたって
 旧約聖書には度々系図が記されています。一つひとつ確認することもありませんが、この系図から私たちは福音を読み取ることが求められています。
 この系図で気になることとして、年齢があるかと思います。アダムは930年、最長のメトシェラは969年生きました。年齢が現在とは異なり極端に長いのは、天地創造時の自然がノアの洪水によって変化したからです。洪水の前は天も水に覆われており、年中温暖でした。しかし、洪水後は現在の環境に近づき、寿命も変化したと考えられます。また、人間の寿命を定めておられるのは、主なる神であり、私たちは現在の自然の秩序を創世記に当てはめるべきではありません。その上で、私たちが系図を読む時に注目すべきなのは、繰り返し同じことが記されている中にあって、別に挿入されている言葉です。

Ⅰ.親の罪を引き継ぐ子
 最初に注目すべきことは1~3節です。「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ」ました。神が人を創造されたことは1:26で語られているとおりです。人は神と共に交わり、神を礼拝し、罪のない状態で永遠の生命が与えられた状態で創造されました。
 しかし「アダムは……、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた」と語ります。この時点では、「神に似た、神にかたどった」とは大きく異なります。アダムは罪を犯し、死に定められていたからです。つまり、アダムから生まれた者は、生まれながらにして、原罪を引き継ぎ、死に定められているのです(参照:ウェストミンスター信仰告白6:3)。
 つまり神がアダムを創造した時からアダムがセトを生まれるまでに、アダムは罪を犯し、滅びるという変化があったのです。だからこそ、アダムから生まれるすべての人間は、私たちも含めて、生まれながらに原罪を持ち、さらに毎日の生活で主の御前に罪を犯し、それらの結果、自らの力で救いを獲得することも、天国に行くことも出来ないのです。

Ⅱ.恵みによる救い
 この系図で二番目に注目すべきことは「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(24)ことです。エノクは、神の恵みの内に、生きながらにして神の国へと招き入れられたのです。聖書には、生きたままで天に昇ることが、これ以外に預言者エリヤについて述べられており(列王記下2:11)、主イエスの昇天もあります。
 私たちは、このエノクの昇天について、新約聖書の御言葉から確認することが出来ます。ヘブライ11:5「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです」。このヘブライ書11章は、旧約の時代に生きた人々の信仰について述べられています。
 もう一箇所ユダ14~15節。「アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。『見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。それは、すべての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちのすべての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためである。』」
 このエノクの預言は偽典「エノク書」からの引用です。このエノク書は、この当時ある程度知られており、引用されたと言われています。偽典の引用のため、私たちは信頼性を疑います。しかし、それでもなお主が御霊を通じて、このユダ書を正典として留めて下さっており、偽典を通してでも真理が伝えられていると私たちは理解して良いかと思います。
 つまり、エノクやエリヤが生きたまま天に昇って行ったことは、キリストが十字架の死から三日目の朝に甦られ40日後に昇天されたように、キリストを信じる者に与えられる復活と天国の希望を私たちに示しています。そのために、主イエスも「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)とお語りになります。

Ⅲ.主の慰めに生きるキリスト者
 この系図で注目すべき3つめはノアです(29)。「ノア」とは「慰め」のことです。
 今の日本に生きる私たちは、信仰を貫くために艱難や虐げを覚悟しなければなりません。主の御前に世に妥協すること、主への信仰を変質することも求められます。それでもなお、私たちはキリスト者として生きることを主は求めておられます。だからこそ周囲の人々に心揺さぶられ妥協を求められる時も、主がノアの家族を救い出して下さったように、私たちが神の民として救いと神の国の約束を信じて、信仰を貫くことを、私たちは求められています。主なる神は、いつでも私たちを慰めつつ、信仰を見守っていて下さいます。
 
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  心痛まれる神」  創世記6:1~8    2019.9.29
  
Ⅰ.聖書全体の中のノアの洪水
 ノアの洪水は有名な物語です。しかし一つの物語として完結するのではなく、救済史の枠組み、つまり主なる神が天地創造をされ、罪人である人を救い、神の御国が完成するまでの聖書全体の中におけるノアの洪水を確認しなければなりません。つまりノアの洪水は、主なる神の裁きの結果であり、最後の審判への警告の意味を込められています。
 洪水後、主は「二度と…ことごとく滅ぼされることはな」いと宣言して下さいました(9:11)。これは言い換えれば、主による部分的な裁きがあるということです。出エジプト時の荒れ野の40年や、バビロン捕囚は、イスラエルに下された神の裁きです。また地震や台風による自然災害、戦争における悲惨も、主による裁きです。ただ私たちは注意しなければならないのは、自然災害や戦争は、巻き込まれた人たち裁きではなく、主は私たち人類全体に対して警告されているのです。私たちは主の御前に遜りが求められています。また、契約を立てない者たちに対しては、主の裁きは取り除かれません。だからこそ、最後の審判の時、神の民は天国へ凱旋しますが、残りの者はすべて裁かれます。

Ⅱ.罪の中を生きる人々
 ノアはアダムから数えて10代目です(参照:創世5章)。私たちは2代・3代前のことは分かっても、10代も前の人のことは分かりません。ノアの時代、エノクが天に上げられたことも理解していなかったのではないでしょうか。つまりノアの時代の人々は、天地創造の出来事も、神の恵みも知らずに生きていたのです。「さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」(2)と語ります。現代に生きる私たちがここを読むと、何も悪いことが記されていないように思われるかもしれません。しかし主は語られます。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから」(3)。つまり、これは主の怒りであり、人の罪が記されています。彼らは、主が定められた結婚の意義(2:21~25)を知らず、己のことのみを考えて生きており、その結果としての性的な乱れが語られています。
 また「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった」(4)と語られます。ネフィリムとは、巨人であり、力を誇る者たちであったと考えて良いかと思います(参照:申命記31:21)。これは主なる神を畏れて生きることを忘れ、自らの力に頼り、人々を虐げて生きる人々の姿を語っています。
 つまり、性的乱れと権力による支配は、罪の代表であり、最初のアダムとエバの罪を引き継いだ者たちの罪に生きる本質が表れています(参照:ウ大教理問25)。「全的堕落」です。この全的堕落は、現代に生きる私たちに引き継がれています。神がすべてを裁き滅ぼされる状態に、今に生きる私たちも生きているのです。

Ⅲ.心を痛められ、人を救いへと導く神
 こうした状況の下、主は「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ」ました(6)。改革派教会では、神の聖定と摂理により神の支配を確認します。すると人々からは、「神は人が罪を犯し、死ぬ者として予定されたのか?」、「神は後悔しないように、人を創造することが出来たのではないか?」と語られます。これは私たちの理解を超えています。ただ私たちは、神を私たちの知的理解の中に留めてはなりません。私たちの知的理解は、神の存在の前には非常に小さく、無限・永遠・不変の霊であられる神を、私たちは理解し尽くすことは出来ません。信仰によらなければ私たちは受け入れることはできません。
 それでもなお、罪を犯し滅び行く人間に体して、主は心を痛めておられます。私たちが人として生きることは、毎日、主の御前に罪を犯し、神の裁きを逃れられません。
 しかし神は好意により、ノアとノアの家族を救って下さいました。神は一方的な恵みをノアの家族にお与え下さいました。それがノアの洪水の核心です。主が心を痛められることは、ノアと家族を救うばかりか、御子の十字架という御自身の痛みをも伴います。
 そしてこの神の心の痛みは、現在に生きる私たちにも向けられています。今、世界は明らかに滅びに向かい、ノアの洪水前夜と状況は変わりません。主は私たちを見て、心を痛めておられます。それでもなお、最後の審判の時を遅らせて下さっています。それは箱舟である神の御国に入らなければならない神の民が、まだ全員集合していないからです。私たちは、自らの信仰を顧み、同時に神の民として主を証しすることが求められています。
 
 
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 神のノアとの契約」  創世記6:9~22    2019.10.27
  
序.
 ノアの時代、世界は堕落し、不法に満ちていました(11)。アダムの罪の後、人類は全的に堕落して、罪の中、生きております。罪の結果は死であり、主の裁きを逃れることができません(2:17)。この裁きが、ノアの時代、洪水において行われようとしています。

Ⅰ.神の好意を得るノア
 聖書は「これはノアの物語である」(9)と語ります。新改訳は「歴史である」と訳します。歴史は人間社会の出来事が記録に残されたものです。意識して残さなければ歴史には残りません。時に、自分たちにとって都合の悪い過去の歴史を書き換え、ねつ造しようとする者たちも現れます(歴史修正主義)。しかし聖書が「物語(歴史)である」と語る時、それは人間が残した記録ではなく、主なる神が介在しておられる、主なる神が主体的に働いておられ、主が歴史を残されたのだということを理解しつつ、御言葉に聞かなければなりません。
 主はノアに好意を得ます(8)。神に従う無垢な人だったからです(9)。「無垢」とは「心身に汚れがなく、清らかなこと」です。しかし聖書が語る「無垢」とは、罪がないことではありません。ノアは罪がなかったため、神により救われたのではありません。ノアと同様に無垢な人であったヨブは、苦悩の中、神に不平不満を語り、不信仰を顕わにしています。聖書が語る「無垢」とは、神と共に歩む神を信じる信仰のことです(9)。主が記録として残された歴史である御言葉より、私たちはノアの信仰について聞かなければなりません。

Ⅱ.主の御声に耳を閉ざす人々
 主なる神は、神の御言葉に聞き従わない者を裁くに際して、予告されます(13,17)。主はいきなり裁きを行われるお方ではありません。ノアの家族を除くすべての民は、神の警告を聞きながら、聞こうとしませんでした。丘の上でノアが大きな箱舟を作り始めた時、彼らはノアを小馬鹿にしていたのではないでしょうか(箱舟:135m×22.5m×13.5m)。ノアの家族以外、だれもノアに同意して、箱舟作りを手伝ったり、箱舟に入ろうとはしませんでした。ここに彼らの罪があります。鈍感さが問われています。新約聖書も証言します。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」(ルカ17:26-27、参照:Ⅰペトロ3:18-20)。
 今の時代、自然災害、環境破壊により、主なる神は、私たちに警告を発しておられます。自然災害と神の御業とを切り離して考えてはなりません。日本や世界の政治状況も切り離してはなりません。被災された方々ではなく人類に対する警告です。教会も、主からの警告を語ることに躊躇していてはなりません。改革派信仰を有する私たちは有神的人生観世界観の中で生きており、自然や政治・社会と信仰を分離してはなりません。

Ⅲ.主の御声に聞き従う
 一方ノアは、主が滅びを宣告された時、主の命令に従います。丘の上に箱舟を作る行為は人々からは変人と思われ馬鹿にされたでしょう。しかしノアは、「すべて神が命じられたとおりに果たした」のです(22)。これが主がノアに好意を持たれた理由です。
 主の御言葉に聞き従う時、時として、人々からからかわれたり、批判されることもあります。それでもなおノアは最後まで箱舟を作り続けました。ノアの信仰について新約聖書は証言します(ヘブライ11:6~7)。そしてノアの信仰の源泉について、ウェストミンスター信仰告白は、第10章「有効召命について」で告白します。「御自分が命に予定している者たちすべてを、そしてかれらだけを、神は、御自分が定めた、ふさわしいときに、かれの言葉と霊により、かれらが生まれながらにしてその中にある罪と死の状態から、イエス・キリストによる恵みと救いへと、有効に召命することをよしとされる」。
 主により信仰が与えられた者は、主に従い、信仰の歩みを始めます。この時、①主の御言葉を理解することができるようになり、②神に逆らう者から、神を信じるようにされ、③神の御言葉に従う者へとなります。
 「しかも、かれらは、神の恵みにより進んでそうするようにされているので、まったく自由に〔キリストのもとに〕行」きます。ノアが、最後まで主の命令に従うことができたのは、キリストの十字架によって与えられる罪の贖いと、神の御国における永遠の祝福がはっきりと示されていたからです。この世は、主なる神から託された世界ですが、主は新天新地をお与え下さいます。この世がすべてではありません。神によって召されたキリスト者である私たちは、この世、特に周囲の人々の目を気にするのではなく、生きて働く主なる神の救いの約束、神の御国の祝福を覚えて、歩み続けていくことが求められています。
 
  
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  神の御力・神の裁き」  創世記7章    2019.11.24
  
序.洗礼式に与る
 私たちは一人の姉妹の成人洗礼式を主の御前に行うことが許されました。一人の罪人が、神の子として受け入れられた喜ばしい時です。私たちは、今、改めて自らの信仰を顧みることが求められています。洗礼を授かったことを過去のこととするのではなく、信仰を告白しつつも毎日罪を犯し続ける私たちを、赦し、神の子として受け入れてくださる神の恵みに生かされていることを忘れてはなりません(参照:ウェストミンスター大教理問167)。

Ⅰ.箱舟に入る者たち
 創世記6章では、罪の故にすべてを滅ぼすために、主はノアに箱舟をつくることを命じられたこと、ノアとその家族は主の命じられたとおりに箱舟をつくったことが記されていました。ノアは非常に大きな箱舟(135m×22m×13m)をつくります。箱舟をつくるのに相当な時間がかかります。その間、人々は、ノアをあざけったのではないでしょうか。
 そしてノアは箱舟を完成させます。この時、主なる神はノアに対して、動物たちと共に箱舟に乗るように命令されます(2-3)。動物たちは、箱舟のノアのもとに来ます(9)。主が定められたとおり動物たちが集まってきたのです。そしてノアたちも箱舟に入ります(7)。ノア、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、三人の息子の嫁たちの8名です(13)。

Ⅱ.神の裁き
 8名以外の人たちは箱舟に入りませんでした。主の裁きとしての大雨と洪水は、突然訪れるのではなく、ノアが箱舟を作っている間、主なる神はノアを通じて警告されました。彼らは、ノアの言葉に耳を傾けることなく、ノアをあざけっていたのです。
 箱舟が完成し、ノアの家族が箱舟に入る時、動物たちも集まってきて箱舟に入ります。人々はそれを見ています。しかし彼らは箱舟に入ることなく、今までの生活を続けています。そしてノアが箱舟に入って7日後、箱舟の扉が閉ざされ、大雨が降り始めます。
 滅びて行く人たちは、罪を悔い改めるのに十分な時間がありました。それにも関わらず彼らは、神を信じて箱舟に乗り込もうとしなかったのです。それ故に、神が洪水によってすべてを滅ぼす時の責任は、箱舟に入らなかった一人ひとりにあるのであって、裁きの責任を神になすりつけてはなりません。それは現在も同じです。神は、教会と聖書の御言葉により、神の存在、罪の悔い改め、神に従って生きることを迫ります。この主の御言葉に従わない人たちに、罪の裁きを宣言され、最後の審判での永遠の裁きが行われます。

Ⅲ.終末の時代に生きるとは…
 さてノアと家族・動物たちが箱舟に入ると共に雨が40日40夜、降り続けます。今年、東日本各地で被害をもたらした大雨や洪水とは比べものになりません。今回の洪水では、「想定外」とが言われました。しかし主の御業に「想定外」はありません。主の御力は、私たちの想像を遙かに超えますが、神に不可能はありません。そして主はノアに対して、「地上からぬぐい去ろう」(6:7、参照:6:17、7:4)、「地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、…ぬぐい去られた。…ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った」と語ります(23)。神の裁きに例外はなく、主が選び、召し出してくださる者のみが救われます。
 今、裁きは猶予されています。ノアの時代は、ノアが箱舟を制作中とノアが箱舟に入るように命じられてから7日間の猶予の期間でした。今は? キリストが十字架の御業が成し遂げられてから約2000年。今なお、キリストが再臨することなく、終末の完成が訪れないのは、まだ、神の子たちが教会に集まっていないからです。私たちがキリスト者として生き、信仰を証しし、伝道することが求められているのは、最後の一人が神の御前に集められるためです。すべての神の民が集められた時、御子が再臨し、最後の審判が行われ、神の御国が完成します。それまでの間、キリスト者はなおも荒れ野を歩み続けます。
 ノアは洪水の時、すべてが閉ざされた箱舟の中。太陽の光はまったく閉ざされ、電気もありません。ランプがあっても僅かな光です。この生活がどれだけの困難だったか私たちは想像できます。そればかりか、彼らは滅びて行く人々を心に留めています。そうした中、ノアと家族は主の恵みによって生き続けます。私たちの信仰生活も、同じです。神を信じ、信仰を持った後も、生活は順風満帆ばかりではありません。試練・病・災害があり、時に迫害すらも体験しなければなりません。それでもなお、神はノアを救ってくださったように、私たちを救い、助けてくださいます。私たちは、ノアのように救い主である神にすべてを委ね、救いの感謝と喜びをもって、主に仕えていくことが求められています。これが、キリストの再臨を待ちつつ終末の時代を生きる私たちに与えられた歩みです。
   
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  洪水が過ぎ去った後」  創世記8章    2019.12.29
 
序.
 神は今年一年も、大宮教会に集う一人ひとり、そして家族を守り導いて下さいました。一年の歩みを感謝と喜びをもって、主がお与え下さる御言葉から聞きたいと願っています。

Ⅰ.滅び行く者、救われる者
 ノアの時代に洪水が発生し、箱舟に入ったノアと家族以外の者たちは皆滅ぼされました。主が箱舟(=救い)へとお招き下さりながらも、彼らは神に立ち帰ることなく、罪の生活を続けた結果の裁きです。このことは現在に生きる私たちに問われています(参照:ルカ17:26-27)。
 一方、ノアと家族は動物たちと共に箱舟に入り、大雨に耐えます。洪水が発生してから、ノアが箱舟を出るまで丸一年の年月です。一年前に生きていた多くの人々、動物の姿はありません。ノアも家族も、主なる神の御言葉に従い、主なる神の恵みの内に生きなければ、命がないことがはっきりと示されました。地震や水害により被害が出るのは、神の御業の御前に私たちがひれ伏し、悔い改め、主を求めて生きるように、主は語りかけています。
 その上で主なる神は、ノアと家族に忍耐を強いると共に、彼らの生活をお守り下さいました。彼らは、半年間、箱舟の暗闇の中、そして一年間、狭い箱舟において生活しなければなりません。非常に忍耐が強いられたことでしょう。それでもなお、彼らが困難を乗り越えることが出来たのは、救いの約束があり、主なる神が共にいて下さったからです。

Ⅱ.主がお与え下さる洗礼
 ノアの時代の洪水により、ノアとその家族8人が水の中を通って救われました。ペトロは、それが洗礼だと語ります(ペトロ一3:18-22)。彼らは自らの口で信仰を告白した者ではありません。ノアは主の好意を得たのです(創6:8)。主の一方的な恵みにより捕らえられました。その主の好意に、ノアは応え、人々から馬鹿にされながらも大きな箱舟を作り、その中に入り、命が与えられました。信仰を持ち、洗礼を授かるのは、最終的には私たち自身が信仰告白することが求められますが、ここに神の働きと導きがあるのです。
 ノアたちの洗礼を象徴しているが洪水です。「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」(3:21)。水による洗礼は、私たちの肉の汚れ、一つひとつの現実罪を償うものではなく、私たちの罪のすべてが贖われます。ですから洗礼を授かる時、それまでに行った罪の刑罰が支払われ解消されたけれども、洗礼を授かった後犯した罪は改めて洗礼を授かる必要があったり、カトリックのように懺悔が求められるものではありません。洗礼は一度授かることにより、キリストの十字架の御業が永遠に有効とされるのです。洗礼とは霊的なもの、神との関係において行われるのであって、洗礼や懺悔により罪が帳消しにされたというものではありません。
 洗礼を考える時、滴礼と全身礼の問題ついて確認しておきます。私たちの教会では洗礼を授ける時、頭に水を垂らすだけの滴礼です。一方、バプテスト教会などは、風呂場や川において、全身を水に浸けることにより洗礼を授ける全身礼が行われます。全身礼は全身を水に浸すことによる罪の赦しを主張しますが、洗礼は霊的な事柄であり、水は象徴です。
 聖餐式においても同様のことが言えるわけで、聖餐式におけるパンとワインは、キリストの体と血を象徴するものであって、カトリックが主張するようにキリストの体と血が、パンとワインに代わったものではありません。現在、キリストの体は昇天され、天にあります。ですから聖餐式では、私たちはキリストと霊的交わりに入れられるのであって、直接的にキリストを食するのではありません。それと同様に、洗礼における水も象徴的な意味合いがあるのであって、全身礼で体が清められるという考え方を私たちは採用しません。

Ⅲ.救われた者に礼拝への招き
 洗礼を授かり箱舟を出たノアと家族は、主の御前に礼拝を献げます。理由は二つ、①救いへの感謝、②罪赦された罪人であり、日々犯す罪に対する悔い改めを行うためです(参照:ウェストミンスター小教理問82)。
 私たちにはすでにキリストの十字架が示されています。罪が赦され、神の子として神の御国が約束されています。だからこそ私たちは、主を礼拝すると共に、聖餐におけるパンとワインにおいて、罪赦された神の民とされていることを確認し、罪の悔い改めを行うのです。だからこそ、私たちは、洗礼を授かれば、あとは自由だとは考えません。主の御前に罪が赦されたことに感謝しつつ、それでもなお日々罪を行う罪人として、この罪をも赦して下さる主に感謝しつつ、すべての必要を満たして下さる主に喜びつつ、今日も、来週も、主の御前に礼拝を献げるのです。
 
    
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  神による祝福」  創世記9:1~17    2020.2.23
 
 
Ⅰ.神による祝福
 洪水の後、ノアと家族は箱舟を降りて新しい生活が与えられます。この時、主なる神はノアたちを祝福して下さいます(9:1b)。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」は、天地創造時の祝福が繰り返されます(1:22、1:28)。つまりすべてが滅ぼされ、この時、新たにノアとその家族からすべてが始まったのです。そして、彼らはすべての被造物の管理が委ねられます。
 ここで一つの新しい約束が加えられます。それが動物の肉を食べることです(9:3)。つまり人に罪が混入し、その結果、彼らから生まれ来るすべての人間は罪を繰り返します。彼らの子は人を殺しました。主なる神から与えられた生命を貴いものとすることができなくなった人間に対して、神は罪の中に生きる人間に肉を食べる自由を許容して下さいます。
 その上で主なる神は、新しい規準をお与え下さいます(9:4~6)。神は、人がどうせ死ぬからと自由を与えられたのではありません。ここに2つの意味があります。一つは、生きる者に流れる血により、主なる神から生命が与えられていることを意識させます。旧約の時代、主が動物の生け贄を求めたのは、まさに主によって生命が与えられていることを覚えるためです。第二に、人の血を流す殺人者は、神の裁きとして血をもって償うことが求められます。このことにより、キリスト者と同様に神を信じていない人々も、人の生命に対して大切に思い、それを傷つけ殺すことの罪悪感が心に刻まれているのです。
 しかし、主なる神から人が離れていく時、人は現実に流れる血を見ようとしません。つまり人は、他者が傷つき、死んでいく姿を見ようとはしない時、他者を殺すことを恐れなくなります。それが独裁者の姿です。彼らは他者を操り、自分の手にはよらず、他者を苦しめ、そして生命を奪っていきます。ここに罪の恐ろしさがあります。
 
Ⅱ.滅ぼし尽くすことはない!
 主なる神は、人に対して新たな契約をお与え下さいます。それがノア契約と呼ばれる、最初、原福音(創2:15)によって与えられた恵みの契約の更新です(9:9~11)。契約の中心は、「二度とことごとく滅ぼすことはない」ことですが、その裏返しとして、神を信じて生きるものは、神の恵みにより生きる者とされていることを語っています。
 主なる神は、最終的には最期の審判においてすべてを裁かれます。全的に堕落している世界を滅ぼさずにはおれないからです。しかし主なる神は、世界を放置されているのではありません。旧約の時代であれば、主なる神は、預言者などを通して警告を発せられ、その上で悔い改めないイスラエルの民を裁かれます。金の子牛(出エジプト32章)、荒野の40年(民数13-14章)、南北分裂、バビロン捕囚……。
 新約の時代、主なる神が旧約の時代のように裁きを行うことはありません。直接啓示が止んだ新約の時代、主なる神の直接的な裁きは猶予されています。今なお罪の中にある人が悔い改めて、神の民に加えられることを待っておられるからです。それでも、主なる神は私たちに様々な形で罪を悔い改め、主なる神を信じ、主に委ねて生きることを求めておられます。それが現代における様々な自然災害(地震、洪水、疫病)、戦争、経済危機、自然破壊といった形で示されます。主は、人間の無力さ、愚かさを示し、主の御前に遜り謙遜になること、主の御声に聞き従うことを求めておられます。
 
Ⅲ.恵みの契約
 その上で、主なる神は契約を立てるとお語り下さいます。恵みの契約の更新です。全的に堕落した人間は、神の律法を守ることによって救いを獲得することができません。そのため主は、主が指し示して下さった恵みを受け入れ信じることによって救いを得ることを約束して下さいました。それが恵みの契約です。この恵みの契約が、ノア、アブラハム、モーセ、ダビデの時代に更新されていったのです。
 そしてこの恵みの契約を完成させるために来られたのが御子イエス・キリストです(ルカ1:72)。そしてこの恵みの契約が完成させるために御自身が十字架で血を流されることを、主イエスは最後の晩餐において明らかにされます(ルカ22:20)。主なる神は、ノアに対して、血こそが主なる神によって生命が与えられた徴であることを示されました。そして神は、罪が赦され、神の子とされるために血が流されることが求め、それが御子の血により行われたのです。だからこそ、主の晩餐において私たちが罪の赦しと神の子とされていることを覚え、十字架で流されたキリストの血を想起しつつ、赤いぶどう酒、ぶどう液を飲むのです(参照:ウェストミンスター大教理問32)。
 
     
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 洪水後の人々」  創世記9:18~29    2020.3.29
 
Ⅰ.神に選ばれるノアと家族
 箱舟を作り、箱舟に入って生き延びたのは、ノアとセム・ハム・ヤフェトの3人の子どもたち、そしてノアの妻とそれぞれの嫁たち8人でした(参照:Ⅰペト3:20、Ⅱペト2:5)。
 そして今日の御言葉には、箱舟に乗って救われたノアの家族の日常の出来事が記されています。ノアはぶどう酒を飲み、酔って、天幕の中で裸になって寝ています。家族であっても見られたくない、ふしだらな状態です。この出来事を聖書はわざわざ書き残します。
 ノアの行動を誉めることはできませんが、聖書の目的は、ノアを非難することではありません。このことから、ノアがすばらしい行いの故に、神によって救われたのではなく、主によって好意を得られた結果(参照:6:8)、救われたことが明らかになります。
 だからこそ、主によって集められ、神の民とされた私たちも、私たち自身が素晴らしいから選ばれたのではないことを受け入れなければなりません。キリスト者であることを誇ることはできず、私たちが救われたことを、神の御前に感謝し、神の御前に遜って歩むことが求められています。

Ⅱ.隣人を愛すること
 さて聖書は、寝込んでいるノアを見つけた息子たちの態度に注目します。最初にノアを見つけたのは二男のハムです。ハムは父を起こして声をかけることも、着物を羽織らせることもしませんでした。ハムがしたことは、二人の兄弟に父のことを告げることでした。ハムは二人の兄弟たちに父の失態を広めた、と聖書は解釈しています。このことは、十戒の第五戒において「あなたの父と母を敬え」と語られていることに違反しています。
 ウェストミンスター大教理問答は、第五戒の「父と母」を肉親である両親ばかりか、「目上の人」、「目下の人」、「対等の人」にも対象を広めます。隣人愛です。主によって罪赦され、神の子とされた私たちが、神を愛し主を礼拝するように、主がお与え下さった隣人を愛するように求めており、その代表として父と母が挙げられています。だからこそ十戒の第二の板「隣人を自分のように愛しなさい」と語られていることの最初に、第五戒「あなたの父と母を敬え」を挙げています。そして、隣人を自分のように愛することの代表として、主イエスは善きサマリア人への譬えを私たちにお語り下さいます(ルカ10:25~37)。私たちの隣人とは、両親・家族ばかりか、周囲の親しい者たち、同胞、さらに広く、名前も知らない人、異邦人、蔑まされている人、敵対している人たちをも含んでいます。
 ウェストミンスター大教理問127では、「目上の人に対して払うべき尊敬」は「〔第六に〕彼らの欠点に忍耐し、愛をもってそれらを包むこと」を挙げます。私たちは、他者の弱みを見つけた時、それを本人に批判したり、他人に陰口を言ってしまいます。これが私たちの弱さであり、罪です。聖書はこれが、罪であり、神の裁きがあると、語ります。

Ⅲ.聖書を読み解くとは…
 ノアはハムの行為を叱責します(24)。ここだけを読むと、ノアは自分の行いを隠すようにむきになっているように読み取れます。しかしこれはノアの感情の爆発ではなく、主なる神の預言者としてノアが語っていることを私たちは理解し、聞かなければなりません。
 そしてもう一つ気になる言葉が「末の息子」です(24)。ハムはノアの二男(9:18)ですが、聖書に誤りがあるのでしょうか?私たちは聖書の意図を読み取らなければなりません。「末」とは「小さい」という意味です。つまり、ハムはセムやヤフェトに従うことが求められ、主なる神から虐げられる存在としての「小ささ」を語っています。これはイサクの子も、ヤコブが主によって選ばれ、兄エサウが弟ヤコブに仕える者となることと同じです。

Ⅳ.小さな罪がもたらすこと
 ハムの行ったことは些細なことです。しかしこの行為は、私たちの姿を象徴しています。
 ハムの子孫は、クシュ、エジプト、プト、カナンです(10:6)。クシュはエチオピアのこと、彼から最初の勇士ニムロドが生じ、バベル、アッシリア、ニネベが出て来ます。エジプトはイスラエルを苦しめる大国です。プトは聖書から詳細を知ることはできません。カナンは、異邦人の代表として、主に逆らい続け、偶像の象徴として語られています。つまり罪の極みとして語られているバベルの塔を建設に至り、イスラエルを苦しめるエジプト、アッシリア、そしてカナンと、主なる神に敵対する人々が、このハムから生じます。つまり主なる神は、私たち自身に「ハムのような罪が秘めている、これを忘れるな!」と語られています。ですから私たちは、他人の行いに注目してしまいますが、そうではなく、私たち自身の行いに、常々注意を払っていくことが求められています。
 
      
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ノアの子孫」  創世記10章    2020.4.26
 
 
Ⅰ.系図が語る福音を紐解こう!
 系図を無味乾燥に感じられる方もおられるかと思います。しかし系図の読み方が分かると、主なる神が語ろうとされている目的・意図が見えてきます。
 これはノアの系図です。洪水によりすべてが滅ぼされ、ノアと家族だけが救われました。ですから今に生きる全世界の人々がノアにつながります。ここには日本もアメリカもありません。しかしここに記されている地域は、創世記が記された当時の全世界です。ですから私たちもまた、ここに組み込まれていることを理解して頂きたいと思います。
 次に系図を確認する上で大切なことは、すべての名前を追うのではなく、中心的な人物を確認することです。つまり創世記10章では、ノアの息子セム・ハム・ヤフェトに注目することです。ヤフェト(2)、ハム(6)、セム(21)が出て来ます。

Ⅱ.ヤフェト:神の救いから遠い人々
 最初にヤフェトが取り上げられていますが(2-5)、「海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった」(5)と語られています。海沿い=貿易を行う国々であり、主なる神とは離れた世界であることを語っています。
 この中で、注視すべきはタルシシュ、ゴメルとマゴグです。タルシシュに関しては、ヨナ書です(ヨナ1:3)。ヨナは神の命令に逆らい、逃げるときにタルシシュへ行こうとします。つまりタルシシュは、主なる神とは別の世界を象徴しています。
 ゴメルとマゴグは、サタンに惑わされて神の民を攻めた結果、天からの火で滅ぼされると預言されています(黙示録20:7-8、ゴグ=マゴグ)。つまりヤフェトから出る子孫は、神の救いから外れた世界、神の滅びに位置する人々であると語っています。

Ⅲ.ハム:主に逆らい続ける民
 次にハムの子孫です(6-20)。ハムの子、クシュ、エジプト、カナンについて記されています。ここでは、聖書を理解する上でも重要な名がいくつも記されています。
 クシュとはエチオピアのことです。そして勇士であるニムロドについて語ります(8-9)。ニムロドとは「私たちは反逆する」という意味ですあり、主なる神に敵対した力を象徴しています。7~12節にある地名では、バベル、アッシリア、ニネベが有名ですが、いずれも主の御前にありながらも、自らの力を誇ります。
 エジプト、ペリシテ(13-14)は、旧約聖書を通して主に敵対することを象徴する国々です。
 カナン(15-20)は、主がイスラエルにお与え下さった約束の地の原住民であり、旧約聖書中、繰り返し言及されます。特にソドムとゴモラに関して、主に逆らい裁かれる者の象徴として、聖書は語ります(創世19:24-29、マタイ10:14-15、Ⅱペトロ2:5-6、ユダ7-8等)。
 主なる神のすぐ近くにおり、主からの福音が示されながらも、主に従わない者には、主の裁きが逃れられないことが語られていきます。

Ⅳ.セム:罪人をなおも救いへとお招き下さる主なる神
 ヤフェト、ハム、セムと、主なる神の救いから遠くにいる人たちから語り始め、最後に神の救いに招かれている人たちとしてセムが語られます(21節以降)。「彼は……ヤフェトの兄であった」と記します。9:24-25では、ハムがノアのふしだらを二人の兄弟たちに告げ口したことに対して、主からの呪い・裁きがもたらされることを語っていました。そのため、ハムは三人兄弟の中ですでに一番下に位置づけされています。その上で「セムがヤフェトの兄であった」(21)と語ることにより、セムが長子の権利を受け、神の祝福を受け継ぐことを語っています。
 「エベル」とは、「ヘブル」と同じであり「渡る、進む、通り過ぎる」といった意味です。つまりセムの子孫としてのエベル、ヘブルこそが、主の祝福を受け継ぐ民です。
 しかし創世記10章では、ヘブルこそが主の祝福の民であると語りません。アブラハムが主によって召される時まで神の救いを待たなければなりません。つまり、主はノアの時代に全世界を裁かれ、滅ぼされました。救われたノアもノアの子孫も、なおも罪の中にいます。そのままの状態では主の裁きを避けることはできないことを、この系図は物語ります。
 その上で、主はイスラエルとされるヘブル人を選び、またイエス・キリスト以後、霊的なイスラエルとしてのキリスト者を選んで下さり、神の救いへとお招き下さいます(参照:ウェストミンスター信仰告白7:3)。神の民は、イエス・キリストの救いがなければ、罪の赦しが与えられ、神の御国の祝福はありません。滅び行く世界の中にあって、主がお与え下さった救いの恵みに、感謝して、日々歩み続けていきたいものです。
 
       
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バベルの塔」  創世記11章1~9節    2020.5.31
 
序.
 4月5日の受難週の礼拝をまもって以来、教会に集まり、共に顔と顔を合わせて礼拝する恵みに与っています。毎週、教会で礼拝を献げることが主なる神から与えられていた恵みであることを、私たちが覚える時、私たちは今改めて、主の御支配にひれ伏し、主の恵みに感謝と喜びをもって礼拝を献げることができるかと思います。

Ⅰ.神の御前に生きる人間
 人は神のかたちに創造され(創世1:26~27)、命の息吹が吹き入れられることにより(同2:7)、生きる者となりました。神と共に神の恵みによって生き、神礼拝を行っていました。
 そして、人が罪を犯した時も、主なる神は原福音をお語り下さり(同3:15)、サタンを裁き、救い主による救いをお示し下さいました。
 人がさらに罪を重ね、すべてを洪水により滅ぼされた時も、主はノアとその家族をお救い下さり、契約を立てて、これからはことごとく滅ぼすことはしないことを約束して下さいました(同9:9-11)。
 このように神によって創造された人間は、罪を繰り返し滅び行く者となりましたが、神の恵みにより、なおも生きるものとされています。そのため、神によって創造され、救われた私たち人間の生きる目的を、ウェストミンスター小教理は、次のように告白します。
 問1 人間の第一の目的は、何ですか。
 答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。
 私たちは、この目的意識をしっかりと持っていなければなりません。

Ⅱ.一般恩恵に生きる私たち
 その上で、先程お読みした御言葉を確認しましょう。人はれんがを作り、アスファルトを用いるようになります(3)。技術進歩の結果です。神から離れ、神を忘れた人たちの生きる姿がここに表れています(4)。彼らは今まで、石を土台にした、しっくいの家に住んでいました。そこに、れんがを焼く技術が完成し、アスファルトを用いることを学んだのです。新しい技術を用いて新しい家を建てることは、良いことです。主なる神は、御言葉により私たちを救いへとお招き下さるように、人に知恵を与え、技術を与えることにより、快適な生活環境を整えて下さるからです。聖書の恵みを特別恩恵と語ることに対して、一般恩恵(普通恩恵)と呼ばれています。私たちは、今ネットやスマフォと新しい技術が与えられ、生活が豊かになっています。主がお与え下さった恵みです。罪が混入する危険もありますが、与えられたものを、適切に感謝して用いればよいのです。
 しかし、問題は新しい技術の用い方です。罪を犯すために用いることもできます。彼らは、それらを用いて有名になろうとします。自分のため、自分の名声のために用いようとします。神から与えられた恵みが忘れています。これが問題です。彼らは天にまで届く塔を造り続けます。スカイツリーは634mです。世界にはもっと高い塔もあります。間近から見ると非常に高く感じます。しかし、天を刺し貫くことはありません。人は、技術の素晴らしさ、自分の事績の偉大さを誇ろうとします。しかし、主なる神からすれば、降ってこなければなりません。まさに天と地の差です。人がどれだけ頑張っても、神に代わることはできません。旧約の時代のエジプト、バビロン、そしてローマ帝国を初め、王たちは世界を支配しようとします。自分が神になろうとします。しかし神になることはできません。第一戒「あなたはわたしをおいてほかに神があってはならない」の違反です(大教理問105)。

Ⅲ.混乱から和解し、平和の実現としての神の国を求められる主なる神
 主なる神は、言葉を混乱(バベル)させます(6-7)。「バベル」は「バビロン」(アッシリア語)と同じ語です。このことを知ると、聖書の読み方が変わります。バビロンが罪を繰り返す南ユダ王国を滅ぼし、捕囚の民としました。また黙示録にはバビロンの滅亡が語られます。黙示録で語るバビロンの滅びは、南ユダ王国を滅ぼしたバビロンではなく、罪の象徴、混乱したバベルのことです(黙示録18:19~21)。世界の混乱は最後の審判の時まで続きます。
 つまり、今も混乱が継続している時代です。今、各国が自国中心主義になっています。また、GAFAが世界を支配しています(Google、Apple、Facebook、Amazon)。このため一部に巨大な資産を持つ者が現れ、貧富の差を非常に大きなものとしています。まさにバベルです。
 キリストは十字架の御業によりサタンに勝利してくださいました。今日はペンテコステですが、キリストが約束して下さった聖霊が降臨することにより、言葉の混乱は収まりました(使徒2:1-4)。そしてキリストの再臨により、最後の審判においてバビロンが滅ぼされることにより、バベルが終息します。新約の時代に生きる私たちキリスト者は、国民、種族、民族、言葉の違いを乗り越えた平和と和解を実現することが求められています(参照:黙示録7:9)。
 
        
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アブラハムへの系図」  創世記11章10~32節    2020.6.28
 
序.
 前回、バベルの塔の建設が行われ、交わりができなくなったことを確認しました。「バベル」と言う名は「バビロン」と同じであり、イスラエルが滅ぼされバビロン捕囚へとつながること、ヨハネの黙示録で「バビロン」は、帝国の象徴、偶像の代表として語られています。主イエス・キリストの再臨と最後の審判において、このバビロンが滅ぼされ、神の国が到来し、平和が実現します。つまりバベルの塔による罪の世界(バビロン)が現在も継承しています。

Ⅰ.系図
 創世記は続けて系図を記します。系図が「またか」と思われます。創世記では、4章(カインの系図)、5章(アダムの系図)、10章(ノアの系図)と繰り返されてきました。系図には大きく2つの目的があります。
 第一が、メシアである主イエス・キリストにつながることです。主イエスが、神によって創造されたアダムの子孫であり、神の約束が示されたアブラハムの子孫(イスラエル)であることを示すことです。これは5章のアダムの系図や、今日のセムの系図です。この系図には定式があり(参照:11:12-13)、親から子、子から孫が生まれたと記され、縦の血筋を確認することが重要です。
 そして系図のもう一つの形が、すべての兄弟を拾っていく形であり、10章(ノアの系図)や歴代誌上の系図がこれに当たります。イスラエルとしての横の広がりです。ノアの洪水の後、ノアと家族だけが救われました。ここから改めて世界が形成されていきます。10章のノアの系図には、ノアの子どもたちから世界が広がっていく様子が記されています。ここに、当時の全世界の人々の名が記されていると言って良いかと思います。

Ⅱ.テラ、そしてアブラハム
 今日のセムの系図では、セムからアブラムまでの10代にわたって記されています。この中で、テラ、そしてアブラム、ロトに注目しなければなりません。
 これまで彼らはカルデアのウルに滞在していました(31)。エデンの園はチグリス、ユーフラテス川流域にありました(創世2:10~14)。つまりウルの近辺です(参照:聖書の巻末地図1「聖書の古代世界)。アブラムの父テラの時代に、ウルからカナン地方に向かって移動を始めたことを聖書は語ります。つまり、主なる神は、アブラハムを信仰の父に選び出すにあたり、父のテラの時代にすでにそのことを約束しておられることを、この移動は物語っています。
 私たち人間は、何かアクションを起こそうとすれば、そこから始まりますが、主なる神は、天地創造から、メシアであるイエス・キリストの御業、そしてキリストの再臨と最後の審判に至るすべての歴史の中に生きておられます。そのために、テラにその準備を行わせているのです。このことは、ソロモン王の時代に神殿を建てるにあたって、ダビデ王にその思いを語らせ、準備させていることに重ねることができるかと思います。今に生きる私たちも、次の時代の神の民に、主の必要を準備することが求められています。

Ⅲ.ロトとその子孫
 また、この系図からもう一つのことを学びたいと思います。アブラハムへの系図に、甥のロトが特別に記されています。ロトはアブラハムたちから離れますが(13章)、アブラハムによって救出されます(14:13-16、19章)。アブラハムはソドムのために執り成していますが(18:16-33)、主は10人しか正しい者(神を信じる者)がいなかったとしても、滅びを猶予して下さることをお示し下さいました。そのことはソドムの滅びにおいて、ロトの家族を主が救い出して下さることにより、私たちは主の約束の実現を確認することが出来ます。
 ロトの子孫はモアブ人、アンモン人です(19:36~38)。彼らはこの後、イスラエルと戦うことになりますが、主は「彼らと戦いを挑んではならない」(申命2:9)とお語りになり、神から排斥された裁かれる民として完全に捨てられた訳ではないことを物語っています。そのことは、ルツ記においてモアブの女ルツよりオベド、エッサイ、ダビデが生まれることにより明らかになります(ルツ記1:1~4、4:13,17)。ルツはイエスの系図にも記されます(マタイ1:5)。

Ⅳ.恵みの契約に生きるイスラエル
 このように、旧約聖書における一つの系図だけを読んでいても理解出来ないことが、聖書全体を見渡し、つなげることにより、主なる神のご計画、そして私たちを救うために準備して下さっていたことが明らかになります。ウェストミンスター信仰告白第7章には「人間との神の契約について」が記されていますが、系図に示された救いの約束が線でつながることにより確認できます。そしてこの救いの約束が、今私たちに与えられています。
         
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アブラハムの召命」  創世記12章1~3節    2020.7.26
 
Ⅰ.滅び行く民を救いに導く主なる神
 ノアの時代、主がノアに表れ、箱舟を作ることでノアの家族のみが主なる神により救われましたが、その後の人々は主なる神から離れ、他の神々を拝んでいました(ヨシュア24:2)。それを象徴する行為がバベルの塔です(創世記11:1~9)。他の神々、偶像を拝んでいた者の中から、主なる神はアブラハムを選び、召し出して下さいます。主はアブラハムに、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(1)と命じられます。主神はこの一言において、罪に滅び行く民を救うための大きな御業を始められます。
 神の召しは、アブラハムに対してだけではなく、キリスト者とされた私たち一人ひとりも同じように行われています(参照:ウェストミンスター信仰告白10:1)。これは私たち、罪の故に死に滅び行く状態から、キリストの十字架の贖いにより罪が赦され、神の子とされるための召しです。しかしアブラハムの召命は、神の救いの御業を成し遂げるイエス・キリストが指し示されています。この点が、私たちの召しとは大きく異なる点です。

Ⅱ.大いなる国民、名声が与えられ、祝福の源となるアブラハム
 アブラハムから始まるイスラエルを「大いなる国民にする」と主がお語りになるのは(2)、世的な強い国・大国が与えられることではありません。国際社会の中にあるイスラエルは、常にエジプトやバビロン、アッシリア等の列強の中に埋もれる小国でした。
 主なる神が「大いなる国民にする」と語る時、3つの方向性を考えることができます。
 第一は約束の地カナンが与えられることです。アブラハムは見ず知らずの土地へと旅立ちました(ヘブライ11:8)。しかし後の時代のイスラエルは、カナンへの帰属意識が常にありました。モーセの時代、出エジプトにおいて約束の地カナンに旅立ちます。バビロン捕囚の時も、主がエルサレムへの帰還を実行してくださいます。主は、約束の地に都エルサレムを建設してくださり、キリストの十字架により、神の救いを完成して下さいました。そしてキリストが再臨された時、都エルサレムが神の国を実現する場、新天新地となります。
 「大いなる国民にする」二つめは祝福です(創世記15:4~5)。数的な祝福です。アブラハム・イサク・ヤコブから12人の兄弟が与えられ、ヤコブがエジプトに下るとき70人でした(創世記46:27)。ところが、モーセにより出エジプトを果たす時、壮年男子だけで60万人になっており、12部族を形成するに至りました。
 「大いなる国民にする」3つ目は、主なる神によって守られ、イエス・キリストが与えられることです。主は常にイスラエルをお守り下さいました。出エジプト、カナン入城、12名の士師の時代、バビロン捕囚からの帰還…。イスラエルの民は、主なる神の命令に聞き従う時、列強諸国の中、勝利を収めることができました。主の御声に聞き従ったからです。しかしイスラエルが主から離れ、罪を犯す時、主は彼らから離れ、彼らを裁かれます。
 次に祝福と名声についてですが、前の大いなる国民にすることと重なる部分があります。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています(参照:17:4~6)。つまり、イスラエルはヤコブに与えられた名ですが、イスラエルの祖はアブラハムです。そのためモーセに主なる神が最初に現れた時にも、主は次のように語られたのです。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)。
 そして、アブラハムの祝福と名声が頂点に達するのが、祝福の源とされ、祝福の極み、イエス・キリストがアブラハムの子として到来することです(参照:マタイ1:1)。

Ⅲ.主の祝福を信じて歩め!
 3節において私たちは、アブラハムを導いて下さった主なる神を信じることが求められており、だからこそ後の時代の人々は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と語るようになるのです。このことは、イエス・キリストと切り離して考えることはできません。つまり、主なる神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」を信じるように求める時、それは、メシアであるイエス・キリストを受け入れ、信じることです。そして旧約のイスラエルの民に求められていたことは、イスラエルとしてアブラハムの子として生きることは、救い主であるイエス・キリストを信じて生きることを求めています。
 そして、主なる神から召しが与えられたアブラハムは、主に従い、出発して行きました(4節)。同様に今、私たちに主は救いの道をお示し下さいます。アブラハムがまだ見たことのない土地に導かれ、大いなる祝福を得たように、私たちが主なる神を信じる時、主は私たちを、神の御国の永久の祝福をお与え下さいます(参照:ウェストミンスター信仰告白10:1後半)。
          
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 主の言葉に従って旅立つ」  創世記12章4~9節    2020.8.30
 
Ⅰ.主を信じて行動する
 アブラハムは主なる神から召命が与えられました(12:1~3)。そしてアブラハムは、主の言葉に従って旅立ちます(4)。これは非常に重要です。アブラハムも、主からの召しを受けて色々考えることはあったかと思います。準備も必要かと思います。しかし、聖書はそうした枝葉の事柄はすべて削ぎ落とし、一番重要なことのみを留めています。つまりアブラハムは、主なる神から召しを受けた時、何も語らず出発したことを、聖書は語ります。
 アブラハムは主からの召しを受け、信仰が与えられました。信仰が与えられた者は、主の語られることを受け入れ、行動する者とされます(参照:ウェストミンスター信仰告白14:2)。
 しかし私たちがこの御言葉に聞く時、注意をしなければなりません。旧約の時代、主は、直接アブラハムに語られました。しかし新約の時代に生きる私たちに、直接、主が語られることはありません。災害や事故、あるいは社会や家族の変化によって、主の御業が示されます。私たちはこの時、主がお語りになる御言葉である聖書に聞き、祈りをもって、主なる神の導きを訪ね求めます。この時、自らの思い込みで直感的・闇雲に行動してはなりません。考えずに行動することはサタンの思う壺です。祈り、一呼吸置くことが必要があります。主の導きがあれば、主は応えて下さり、道が開けてきます。それは、人からの助言であったり、新しい可能性が示されることもあれば、今まで歩んできた道が閉ざされることもあります。主なる神が示して下さった道であれば、客観的に道を開いて下さいます。
 主から歩むべき道が示された時、そのことを祈り、確信が与えられたならば、たとえ自らが考えたことがないことであったとしても、自らの希望とは異なったことであったとしても、主なる神を信じて、行動に移すことが、私たちに求められています。

Ⅱ.主を礼拝するアブラハム
 アブラハムが、主の御声に聞き従い、旅立ち、約束の地カナンに入った時、主なる神を礼拝します。アブラハムは自らの思いで主なる神を求め、主なる神に礼拝を献げたのではありません。主なる神からの召しがあり、主による約束が実現したことを確認した上で、礼拝を献げています。順番を間違えてはなりません。自分で救いを獲得するために行動するのではありません。主なる神の存在が示され、主の約束が実現することを確認し、感謝と喜びをもって、主なる神の御前にあって祭壇を築き、礼拝を献げたのです。
 創世記は他のことは何も語りません。つまり主によって召され、主の恵みに生きる者とされた者は、何よりもまず、主なる神の御前に立ち、主を礼拝する者とされます。

Ⅲ.信仰の確信をもって行動せよ!
 教会によっては、「安息日を覚えて、仕事を休まなければならない」、「毎週、礼拝に出席しなければならない」、「礼拝中は静かにしなければらない」と語られます。しかし私は、こうしたことを語りません。なぜならば信仰がない人たちにこれらの言葉を語ることは、律法主義になるだけだからです。こうした思いが、人々を教会から離れさせます。
 確かに主なる神は第四戒において、「安息日を守ってこれを聖別せよ…」(申命記5:12~14a)とお命じになります。しかし私たちは、安息日が何のために与えられたのかを顧みなければなりません。申命記5:14b~15では二つのことが語られています。第一に、すべての者が、週に一度休息することを求めておられます。自分だけ休息すればよいものではありません。家族や共同体全体が同じように休息を取ることを、主は求めておられます。
 第二に、出エジプトにおいて、奴隷から解放して下さった主なる神が、安息して礼拝することを求めておられます。主なる神が、私たちを罪から救い出し、イエス・キリストによる十字架によって罪を赦し、救いへとお招き下さいました。そのことの感謝と喜びが、主を礼拝する行為へと向かわせます。だからこそ主イエスは、安息日についてこのようにお語りになります。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ2:27)。
 私たちは、聖書を読むことが求められます。そして、主の御言葉に聞き従い、行動することが求められます。しかし、聖書の一文に従い、背景や聖書全体の約束を無視して行動してはなりません。主なる神は、私たちの罪を赦し、神の御国へとお招き下さるために、聖書をお与え下さいました。理解できない、納得できないことに対して、行動してはなりません。しかし、御言葉に聞き、救いをお与え下さっていることが示されたならば、私たちは、主の御言葉に従い、主を礼拝し、行動することが求められています。
           
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嘘は明らかにされる」  創世記12章10~20節    2020.9.27
Ⅰ.途上にあるアブラハム
 アブラハムは主なる神の召しに従い、約束の地カナン地方ネゲブに入りました(9)。
 しかし、主なる神を信じ、主の御言葉に聞き従えば、後は平穏の生活が約束されているかと言えば、そうではないことが、今日の御言葉で明らかになります。「信仰による平穏な生活が約束されていないのに、なぜ神を信じなければならないのか?」と言う疑問の声も出てくるかと思いますが、このことを、一緒に考えて行こうと思います。
 ネゲブの地は、エルサレム・ユダの地域からすれば、南に位置しています。つまりこのネゲブは、神がアブラハムに約束して下さった安住の地ではなく、途上でありました。
 そうした中、アブラハムは、エジプトに下ることが求められます(10)。エジプトは、すでに文明があり、大国となっていました。そしてナイル川があるため、雨が降らず飢饉が訪れても、農作物に困ることはあまりありません。そのため、この地域の人々は、困った時にはエジプトに助けを求めます。同時にこの出来事は、聖書全体を暗示しています。ヤコブの時代に大飢饉が起こり、イスラエルはエジプトに下り、400年間奴隷として仕えます。その後に主がモーセを立てて、出エジプトを果たして約束の地に迎え入れられます。また主イエスの誕生の時も、主イエスの父ヨセフと母マリアは、ヘロデ王から逃れるためにエジプトに下ります。つまり、エジプトは裕福な国の代表として語られていますが、決してイスラエルにとって安住の地ではなく、一時的に避難する場として、聖書は語ります。

Ⅱ.罪赦された罪人
 アブラハムは、エジプトに入るとき自分には定住する場もなく、避難民に過ぎない自分の立場を心得ていました。主なる神が共にいて下さっていることを、エジプトで語ったとしても、受け入れられるはずもありません。そのためにエジプトにおいて、受け入れられる、生き延びる方法を考えます。そのために考え出した方法が、妻サライを妹だと偽ることです(11~13)。サライが妹であることは、まったくの偽りではありません(20:11-12)。
 しかしアブラハムは、真実を隠しました。後に信仰の父と呼ばれるアブラハムであっても、聖人君子としてまったく罪を犯さない者ではなく、その場を取り繕い、罪を犯し、嘘を付くのです。これがキリスト者の真実の姿です。牧師であろうと長老であろうと例外ではありません。つまり、地上の歩みを行う間、キリスト者は罪赦された罪人であって、なおも主の御前に罪を犯します。そのため私たちも、嘘を付いたり、罪を犯したりしてしまいます。自分では理解していない罪もあり、人を傷つけている場合もあります。それは、主なる神から召しを受けた後も、信仰を告白して洗礼を授かった後も、なくなるわけではありません。そしてその一つひとつの罪は、この世においても、来るべき世においても、神の怒りと呪いに値します(ウェストミンスター小教理問84)。こうしたことは、ヨブが息子たちのために祈り続けていたことに表れているのではないでしょうか(ヨブ1:4~5)。
 つまり、アブラハムも主の御前に嘘を付くことで罪を犯し、その罪の代償は死です。そして、主イエス・キリストは、こうしたキリスト者になった後のすべての罪も、十字架の贖いによって赦されることを宣言して下さっています。だからこそ私たちは、キリスト者になっても、日々、罪の悔い改めることが求められます(ウェストミンスター小教理問87)。

Ⅲ.主の御前に、すべては明らかにされる
 小さな嘘は、人の前では隠し通すことができたとしても、主の御前では隠すことはできず、すべてが明らかにされます(17-19)。ファラオと宮廷の人々の病気の原因は、主なる神です。そして彼らには、主なる神の御業であることが示されました。アブラハムは、主なる神など理解してもらえないと思い、神に頼ることなく、自分たちの身の保身のために行った行為が、主なる神により明らかにされたのです。主はアブラハムのすべての行動、発言、心の中を知っておられます。このことは、最初の罪を犯したアダムと女に主が声をかけられたことにより明らかです(創世記3:8-11)。
 私たちは、礼拝の時、聖書を読んでいる時だけがクリスチャン・神の民ではありません。1日24時間、家庭にいる時も、仕事・学校にいる時も、何をしている時も、神の御前に生きているのです。そのすべてを主は知っておられます。私たちは隠すことはできません。だからこそ、「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)と語られます。私たちキリスト者は、いつでも、主の御前に、真実を語り、誠実に生きることが求められています。
 
    
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 主の導き」  創世記13章1~18節    2020.10.25
 Ⅰ.主の召しと祝福
 アブラムは主なる神から召しを受け(12:1-3)、ベテルの東の山にまで導かれました(12:8)が、飢饉のためにエジプトに下ることが強いられました(12:10-20)。そして、改めて約束の地ベテルに戻って来ました(13:3)。アブラムも、甥のロトも主の恵みにより、羊や牛の群れを飼い、多くの財産を手にしていました(2,5)。
 しかしここで一つの問題が生じます。彼らが一緒に住み、羊の遊牧を行うための十分な土地を確保できなくなっていました。そのため、アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが生じます(7)。アブラムは、主なる神の御声に聞き従っており、家族や家の使いの人たちにもそのことを伝えていたはずですが、仕える者たちにとっては、現実の苦しみを負い、不平不満がたまり、争いへと発展しました。
 私たちは、主なる神によって信仰が与えられ、主の恵みによって生かされていますが、この時、社会と隔離して生きているのではなく、社会生活を伴って生きています。食べるもの、飲むもの、着る物、住む場所など現実的な事柄も満たされていなければ、信仰が揺らぎ、隣人との間に問題も生じることとなります。そのため私たちは、社会生活の中において生じる問題にも対応しなければなりません。指導者は、問題が大きくなる前に対応し、方策を立てなければなりません。

Ⅱ.ロトに判断を委ねるアブラム
 アブラムは具体的に問題を解決するために、ロトと分かれて生活することを提案します(8-9)。アブラムは、年長者として自らが判断して、それぞれの行く先を決めることもできたかと思います。しかし、ロトに判断を委ねました(9)。ここには2つの意図があったと考えることができます。
 第一は、ロトの思いを汲み取ることです。伯父であるアブラムに提案され、決められた土地へと行くことになると、疑問が残り、不満が生じる可能性があります。頭ごなしに命令しても人は付いてきません。しかし、自らに選択権が与えられ、考えて選択することにより、納得して進むことができます。最終的には自分で判断することにより、責任が伴います。ここに人間としての成長が与えられる教育があるのだと思います。
 第二の理由は、彼自身の信仰から生じています。つまりアブラムは、主なる神がすべての必要を満たして下さる方であることを信じています。そのため祈りをもって主に委ね、主が必要を満たして下さる確信をもって、ロトに判断を委ねます。

Ⅲ.ロトの判断
 この時、ロトは見た目で判断します(10-11)。ロトは、主なる神に祈り、信仰によって判断することができませんでした。「どちらを選んでも良い」と語られた時、私たちは見た目で選んでしまうこともあるかと思います。しかし、こうした時にも私たちは、必要を満たして下さる神に感謝し、祈りをもって、判断することが求められます。
 主に祈ることなく、自らの意志で物事を判断することの結果を聖書は語ります。ロトが選んだソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していました(11-13)。そのためソドムとゴモラは裁かれます(14章)。そして、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られます(14:11-12)。ロトはアブラムによって救い出されます(14:14-16)が、苦難を負わさることとなります。そしてソドムは滅亡します(創世記19章)。
 新約聖書では、ソドムとゴモラは、罪の象徴の如くに語られます(ユダ7、Ⅱペトロ2:6)。そして「神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました」(Ⅱペトロ2:7)と語り、神がロトの信仰を認めて、助け出して下さったことを記し、さらにモアブ人とアンモン人の祖としての地位をお与え下さいます。

Ⅳ.アブラムに与えられる祝福
 一方、ロトに土地を選ばせ、残りの土地を手に入れたアブラムに対して、主はお語りになられます(13:14-17)。主に委ね、主によって与えられた土地に住まう姿を見せたアブラムを、主は祝福に導いて下さいました。つまり主を信じることは、ただ救いを受け入れるだけではなく、すべてを物質的なものも主がお与え下さることを信じることであり、与えられたものを感謝をもって用いていくことです。
 これが、主によって救われ、恵みの契約に導かれたキリスト者の生きる姿です(参照:ウェストミンスター信仰告白7:3)。
    
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  王たちの戦い」  創世記14章1~16節    2020.11.29
 Ⅰ.主の救いと裁きは、全世界の人々に
 創世記は、アブラハムと中心としたイスラエルの歴史について記されています。しかし、今日の御言葉は、アブラハムの話しから離れたことが語られています。私もそうですが、あまり重要ではないと思ってしまい、読み飛ばしてしまう御言葉ではないかと思います。しかし創世記も聖書全体においても、イスラエルばかりか、彼らの時代に生きていた世界の人々、そして新約の時代に生きる世界の人々に語りかけられている主の御言葉です。そのため、私たちは空間的・時間的な視野を広げなければなりません。
 創世記第14章は、アブラハムから周辺諸国に向けさせる意味において、決して疎かにされてはならないことが語られています。ここで記されている諸国の多くはソドムとゴモラを除けば、私たちにとって馴染みのない国々です。しかし、当時であれば、イスラエル周辺の国々として知られていたのではないかと思われます。また、これらの国々に関して、私たちは聖書を丁寧に読んでいくことにより見え来ることがあります。引照付きの聖書やコンコルダンス、語句辞典を用いることにより、他で用いられている聖書個所が分かります。コンピュータやスマホの聖書でも検索ができるでしょう。ここに出てくる、国々を一つ一つ検索して頂くと、主が語ろうとされていることが見えてくるかと思います。

Ⅱ.主の憐れみを受ける民
 注目したいのは最初に出てくる対立する二つのグループです。シンアル、エラサル、エラム、ゴイムの4ヶ国と、ソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイム、ツォアルの5ヶ国です。
 シンアルは、ノアの子ハムの子孫に与えられた地です(創世記10:10)。シンアルはバベル同様に主からの裁きを受ける町です。シンアルはアッシリア、エジプトのように主に逆らい続けますが、「その日」つまり神の国が完成する時に、こうした国々と共に主によって買い戻され、神の民とされることが約束されています(イザヤ11:11)。
 エラムは、セムの子らとして名が記されています(創世記10:23)。セムの子孫としてアブラハム、イスラエルが約束されています。またエラムは、メディアと共に来たイスラエルの民として、バビロンを滅ぼす者として、名が記されています(エレミヤ25:25-26)。そしてエラムも、シンアル同様に、終わりの日にエラムの繁栄を回復することを、主が宣言されており、注目すべきことです(エレミヤ49:34-39)。

Ⅲ.主による裁かれる民
 一方、敵側の5つの国々はどうでしょうか。ソドムとゴモラは、罪人の象徴として、新約聖書で取り上げられています(マタイ10:15、ローマ9:29、Ⅱペトロ2:6、ユダ7)。
 アドマとツェボイムは、ソドム、ゴモラと共に、ノアの子ハムの子カナンの系図に名が記されています(創世記10:19)。「主が激しく怒って覆されたソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイムの惨状と同じなので、……主は激しい怒りと大いなる憤りをもって彼らを大地から抜き取り、他国に投げ捨てられ今日のようにされた」(申命記29:21-28)
 最後の申命記29:28では「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある」と語られています。創世記14章で、王たちの戦いが記されていることは、そこだけを読んでいますと私たちには理解が難しいですが、シンアル、エラムのように、罪を犯し、主の裁きを受けながらも、主の日、終わりの時が来たときに、主によって買い戻され、繁栄を回復する者たちと、ソドムやゴモラを初めとする国々のように、神との契約を捨て、罪を犯した結果、滅ぼされていく国々の違いがあることを、聖書は私たちに語りかけています。まさに、「隠されている事柄」=「奥義」は、主の御業、歴史によって明らかにされてきます。

Ⅳ.主による救いの完成に向けて
 そして最後に、アブラハムの甥ロトも、主によって召されたアブラハムによって、ソドムから救い出されました(参照:Ⅱペトロ2:7~9)。
 そして現在に生きる私たちは、創世記において起こった出来事が、私たちにおいても、十字架の死と復活により救いの御業を成し遂げて下さったキリストによって、成し遂げられることを、忘れてはなりません(参照:ウェストミンスター信仰告白33:2)。信仰告白はキリスト者のことを「義人」と語ります。しかし、キリスト者は、神の義を守ったから救われるのではなく、シンアルやエラム、そしてロトのように罪を犯し、時に主の裁きを受ける者でした。それでもなお、主なる神が捕らえくださり、召し出して下さることにより、キリストの十字架の御業の故に罪が赦され、神により義と認められ、神の子とされています。ここに主なる神の愛と憐れみが、私たちに示され、明らかにされています。
     
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 メルキゼデクの祝福」  創世記14章17~24節    2021.1.24
  
序.
 私たちが旧約聖書を読む時、聖書にもあまり出てこない地名や人名などがあり、聖書が何を語ろうとしているのか理解できないこともあります。多くの場合、一つひとつの名にこだわることなく、読み進んで良いかと思いますが、今日の御言葉における「メルキゼデク」に関しては、立ち止まって考えることが求められています。創世記は突然、「サレムの王メルキゼデク」を登場させます。実は旧約聖書全体を読んでも、あと一箇所出てくるだけの人物です。しかし、新約聖書においても登場し、併せて読むことにより、聖書が私たちに何を語りかけようとしているのかが、初めて理解できます。

Ⅰ.旧約におけるサレム、メルキゼデク
 まず、「サレムの国」について、詩編76:3では「神の幕屋はサレムにあり 神の宮はシオンにある」と語られています。 シオンは、都エルサレムを指し、サレムもこのエルサレムのことを予表しています。エルサレムは、「エル」=「神」、「サレム」=「平和」が組み合わされた「神の平和」を意味する地名であり、神の都シオンに繋がりを見せます。
 一方、メルキゼデクという王は、旧約聖書ではただ一度、詩編110編に登場します。キリストが預言されている詩編です。キリストが神の右に座する王として、すべてを支配するお方であることを讃美しています。そして、王であるキリストを指し示す王・祭司として、メルキゼデクの名が記されています。

Ⅱ.キリストとメルキゼデク
 そして、旧約聖書では創世記と詩編に一度ずつしか出てこないメルキゼデクが、ヘブライ書において、キリストが「永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と非常に重要な働き人として語られています(ヘブライ5:5-10, 6:20)。旧約の時代における大祭司は、アロンの家系、つまりレビ族によって受け継がれてきた働き人ですが、大祭司が死ねば、その子に受け継がれなければなりませんでした。しかし、キリストは永遠の大祭司であり、永遠の救いの源であると語られています(参照:ウェストミンスター信仰告白8:3)。
 つまり、キリストは永遠に神より生まれた神の御子であり、主なる神がお選びくださった私たちキリスト者一人ひとりを罪から贖うために、ご自身が十字架に献げられました。このキリストの十字架の御業の故に、旧約に生きる民も、そして新約に生きる私たちも、罪が贖われ、義と認められ、神の子として受け入れられるものとされました。

Ⅲ.メルキゼデクからの祝福
 ヘブライ書は、キリストが、「メルキゼデクと同じよう」であると語ります。つまり、創世記においてサレムの王メルキゼデクがアブラハムの前に登場しますが、これは主なる神から遣わされた天的なしるしであると考えることによって、アブラハムが行ったことを説明することができます(ヘブライ7:1-4、15-17、参照:詩編110:4)。そしてヘブライ書は、「メルキゼデクが神の子に似た者であって、永遠に祭司です」と語ります(7:3)。
 こうしたことを理解した上で、改めて創世記の御言葉を確認します(14:18-20)。アブラハムは諸国と戦い勝利を遂げていました(14:1-16)。そのことに対する祝福ですが、この勝利は、主なる神がアブラハムにお与え下さった勝利であり、この勝利が主なる神によって与えられたたまえ主を誉め称えるように求めています。
 そして、メルキゼデクはここでパンとぶどう酒を持って来ました。これは明らかに新約における主の晩餐、つまりキリストの十字架を覚えることを指し示しています。
 つまり、主なる神がアブラハムを召し出し、約束の地に導いてくださいましたが、この約束の地とは、サレム(エルサレム9であり、主なる神の恵みと祝福がいつも、アブラハムと共にあることを指し示しています。そして創世記は15章に入りますと、主なる神は改めてアブラハムに召しを与え、恵みの契約を約束してくださいます。ですから、ここでメレクの王メルキゼデクが登場し、アブラハムを祝福のは、この創世記14章における小さな出来事ではなく、アブラハムを通して与えられるイスラエルの祝福、そしてイスラエルの裔として約束されていますキリストとのつながりを覚えることができます。最後にアブラハムは、主の恵みに感謝して、主から与えられたものの内から1/10を献げます。主から恵みが与えられ、主の救いに生きる者は、感謝と喜びをもって、主を礼拝し、主への感謝を献げます。
 メルキゼデクによってアブラハムが祝福されたように、主の御前に集められた私たちも、主による祝福の内にキリストの十字架の贖いによる罪の赦しと救いに入れられています。
      
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 主の言葉を信じる」  創世記15章1~11節    2021.2.28
 
序.
 主なる神はアブラハムを召し出してくださいました(12:1-3)。この時アブラハムは、主がお与えくださる祝福の全貌を知りませんでしたが、主を信じ、旅立ちました。そして祝福ということでは、甥のロトと別れなければならない程、財産が与えられ、さらに14章では、主なる神がつかわされたサレムの王メルキゼデクから祝福を頂きました。

Ⅰ.恵みの契約
 15章に入り主なる神は改めてアブラハムを祝福してくださいます(15:1)。主なる神は、「大いなる国民にする」(12:2)、「祝福する」(同)、「報いが非常に大きい」(15:1)と語られます。アブラハムから生まれる子どもたちが祝福されることを指し示しています。しかしアブラハムにとっては、子どもがいないことが悩みの種でした。主がお与えくださろうとしている祝福を具体的な形で理解することができません。そのため、アブラハムはこのように答えます。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」(2)。エリエゼルとはここで初めて登場しますが、アブラハムに仕えていた忠実な僕だったと考えられています。アブラハムは、主なる神を信じつつ、主の約束がどの様な形で実現するのか理解できませんでした。
 この時に主なる神は、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」とお語りくださいます。新約に生きる私たちが、この神の約束の言葉を聞く時、約束の子としてのイサクの誕生、そしてヤコブから生まれる12名の兄弟によってイスラエルが形成されていくことが約束されていることを理解しています。そして、出エジプトにおいて、壮年男子だけでおよそ60万人(出エジプト12:37)に達していました。
 しかし私たちが忘れてはならないことは、主なる神が「祝福」、「報い」とお語りくださる時、救い主イエス・キリストによって与えられることを指し示していることです(ガラテヤ3:15~20)。アブラハムに与えられた約束としての恵みの契約は、出エジプト時に与えられた律法としての十戒によっても無効になることなく、イエス・キリストの来臨により実現します。
 このことは、主イエスが御降誕される時にもザカリアにより預言されます(ルカ1:72-79)。
 つまり、アブラハムに与えられる主の約束は、聖書全体を支配し、私たちの救いがアブラハムの祝福によって与えられるイエス・キリストによって成し遂げられることを、約束しています。これが、恵みの契約です。
 このことは、アダムとエバが最初の罪を犯した時に与えられた原福音とも関連します(創世記3:15)。ここで語られていた「彼」こそ、イエス・キリストを指し示していました。イエス・キリストこそ、アブラハムの子として、アブラハムの祝福として与えられることを、主は約束してくださっています。ですから私たちは、旧約聖書を読む時も、常に聖書全体を思い浮かべ、イエス・キリストが語られ、それに続く私たちの救いが指し示されていることを覚えつつ、読み進むことが求められています。

Ⅱ.信仰義認
 「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:6)。信仰義認です。アブラハムは、主がどこへ導いてくださるのか示されていない時に主を信じ、主の約束を信じ、主に委ねて我が子イサクを献げました(参照:ローマ4章)。アブラハムは、主から与えられた祝福を受け入れ信じました。主なる神は、それをイスラエルの繁栄において、そして救い主イエス・キリストにおいて実現してくださいました。
 信仰とは、救いと神の祝福がどのような形で与えられるかを示され、確認した後に信じることではありません。信仰とは、神の御子イエス・キリストによって成し遂げられた十字架の贖いと救いを信じることです。私たちは、イエス・キリストの再臨がどの様な形であるのか、最後の審判と神の御国の全貌を知ることはできません。しかし主は、御言葉により、これらを指し示してくださっています。この主の約束を信じる時、主は私たちを受け入れ、神の御国へとお招きくださいます。
 アブラハムのように、主の御言葉を信じる時、私たちの信仰がどのようなものであるかを、ウェストミンスター信仰告白より確認しましょう。16:2「…命令には従順に従い、威嚇にはおののき、この世と来るべき世についての神の約束はしっかりと受け止める」。
 
       
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 400年後の預言」  創世記15章12~21節    2021.3.21
 
Ⅰ.神のご計画と恵みの契約
 前回、15章の前半より、主なる神がアブラハムを祝福したことは、イスラエルの繁栄と共に、救い主イエス・キリストが指し示されていることを確認しました。主なる神はすべての時間を支配し、すべてをご計画され、実行されます。計画(予定)、創造・摂理です。旧約から神の約束を考える時、これから与えられるメシア(キリスト)の十字架の御業による罪の赦し、さらに最後の審判によって与えられる神の国の完成が、神のご計画の内にあります。そのことを主なる神は約束・預言という形で、アブラハムと旧約のイスラエルの民に対して語りかけられます。つまりアブラハムに語りかけられた主の約束を、救済史全体を確認しつつ、私たちは聞くことが求められています(ウェストミンスター大教理問34)。
 旧約の時代に与えられた約束は、現在に生きる私たちにとっても遠く離れたことではなく、現在に生きる私たちにも約束されています。それが信仰によって与えられる恵みの契約であり、この契約は永遠に有効であって、途中で無効にされるようなことはありません。

Ⅱ.400年後の預言
 今日の御言葉では、より具体的なことが約束されています。①あなたの子孫(イスラエル)が異邦の国で寄留者となること。②400年間、奴隷として仕え・苦しむこと。③主なる神が、奴隷として仕えるその国民を裁くこと。④多くの財産を携え、脱出すること。これらの約束は、①ヤコブの時代に大飢饉が発生し、その結果エジプトに下ること、②奴隷とされること、③モーセが立てられ主がエジプトを裁き、④出エジプトを果たすことによって実現していきます。
 約束が具体的なため、創世記を含むモーセ五書の著者であるモーセが事後に編集したのではないかと言われます。しかし聖書を神の御言葉として私たちが聞く時、このような邪推に心を奪われてはなりません。主なる神が、天地万物の創造の前に、すべてをご計画し、それに従って世界を統治されているからです。キリスト教は、約束と成就の宗教であり、キリストの御業も、最後の審判・神の国の完成も、神の約束の確かさの故に成立します。
 ヤコブとその子らがエジプトに下った時70人でした(創世記46:27)。ところが出エジプト時には壮年男子だけで60万人でした(出エジプト12:37)。聖書を読む時に、数字が象徴的に語られていることがあります(黙示録)。ここでの400年は、出エジプトの後の荒野の40年と共に、40が苦しみの期間として示されているのではないでしょうか。60万人も、女性を含めれば120万人であり、12・神の祝福が満たされていることが語られていると言えます。
 数字にこだわると、主なる神が私たちに語ろうとされている本意を見失うこととなります。そのため、私としてはあまりに数字にとらわれないようにすべきだと考えています。

Ⅲ.神の民に与えられる苦難
 また、主なる神はイスラエルが苦しみの中に置かれることを予告します。クリスチャンの中にも、「信仰を持った時から順風満帆であり、苦しみなどはなくなる」と考える人もいるかと思いますが、決してそうではないことを聖書は語ります。
 イスラエルの苦しみの理由は、16「アモリ人の罪が極みに達しないから」です。アモリ人とはカナン諸部族の総称として語られています。出エジプトを果たすイスラエルの民は、約束の地としてカナンに入る時、主からカナン人を聖絶するように求められます。それは彼らが、主なる神に逆らい、その罪が極みに達したからです。聖書が聖絶を語ることを受け入れられない人もいるかと思いますが、そこには理由があり、そのことを主は予め約束してくださっています。
 また、主なる神は、苦しみを通して信仰の養いをお与えくださいます。その例がヨブであり、ヨブは最終的に主から祝福が与えられました。今、苦しみがある、それも今すぐ解決する問題ではなく、継続されることもあります(戦争・飢饉・差別…)。しかし、主なる神は、神が最終的に約束されていること、つまり、キリストの十字架による罪の赦しと、神の国の完成に伴う永遠の生命をお与えくださいます。そのため聖書は、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と語ります(ローマ5:3,4)。また主は、「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)。主がお与えくださる救いの約束を信じ、希望によって生きることにより、苦しみに置かれた時にも、主が共にいてくださり、助けてくださる希望を持ち続け、信仰が養われていきます。
        
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 わたしを顧みられる神」  創世記16章1~16節    2021.4.25
 
序.
 今日与えられた御言葉は、主がアブラハムに世継ぎの子どもを与えると約束しつつも、10年経っても成就しないことによって発生した事故といえます。普通の物語として聖書を読むと、主による約束が与えられながらも子どもが与えられないサラと、子どもを授かったハガルの間に発生した女性同士の感情のもつれです。しかし私たちは、前後の脈絡や聖書全体のテーマを無視して読むことはできません。アブラハム、サラ、そしてハガイの三人の主なる神との関わりを確認しつつ、聖書を読み解くことが求められます。

Ⅰ.信仰に生きるキリスト者:サラとアブラハム
 主の約束が与えられたアブラハムの妻としてのサラの思いに立ってみましょう。最初に主からアブラハムが召しを受けてから10年です(3)。この間サラは、プレッシャと焦りの思いがあったのではないでしょうか。つまり、主を信じ、主の約束を信じているにも関わらず、現実にその約束が成就しないことによる人間的な諦めがあったと考えられます。
 その結果、サラは女奴隷ハガルをアブラハムに与える不信仰へと走らせ、その申し出をアブラハムも受けてしまいます。当時、女奴隷に自分の子どもを宿させ養子にすることは、一般的に行われていました。社会的に許される行動です。また女奴隷に生ませるにしても、アブラハムの子どもであることには違いありません。しかしこの行為は信仰的に問題です。神の約束を、人間的な方法で解決しようとしたからです。ここでアブラハムに求められた信仰は、人間的な姑息な手段を用いて子どもを得ることではなく、主なる神の御業として、アブラハムとサラに子どもが授かる主の奇跡を信じることでした。
 ガラテヤ4:22-25に説明されています。「女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれた」(23)と語ります。アブラハムがハガルによって子どもを生んだのは、アブラハム自身が主への信仰から離れ、自分で問題を解決しようとして生じました。そのことをパウロは、肉による子と語ります。一方、サラから約束の子として生まれるイサクは、アブラハムが主を信じ、主によって与えられた子です。アブラハムに問われたのは、主の約束を徹底的に信じて、人間的な姑息な手だてを行わないことでした。私たちの信仰も、同様のことが言えます。主なる神を信じることであり、主にすべてを委ねることです。疑ったり、私たちの手で何かを成し遂げてはなりません。

Ⅱ.一つの罪が次なる罪を生み出す
 人間的な打算は次の罪を生み出します。女奴隷ハガルは身ごもったことにより、サラを軽んじます(4)。自らの方が人間的に優れていることを誇ります。奴隷としての今までの思いもあって女主人を軽んじたのではないでしょうか。ここに人間的な弱さがあります。
 ウェストミンスター小教理問答問79-81は第十戒について問答します。ここでは逆のことが言われています。自分が子どもを授かったことにより、サラを蔑む結果を招きました。隣人を愛するとは、隣人が持っておらず苦しんでいることに対して自分が持っていることを誇ってはならず、持っていない者の思いも汲み取らなければなりません。
 サラはその苦しみをアブラハムに打ち明けます。するとアブラハムは「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」(6)と語ります。ここでアブラハムは、自らこのこととして解決する意志は感じられません。責任を放棄し、サラに任せます。すると、サラはハガルにさらにつらくあたり、ハガルは逃げ出します。

Ⅲ.ハガルと共にいてくださる主なる神
 アブラハムの不信仰の故に、家庭不和を招き、追い出されたハガルに対して、主は御使いをつかわされます。どの様な状況でも、主は共にいてくださいます。主はすべてをご存じです。そして神の子とされる者を、滅び行くままにされることはありません。
 そして御使いは、「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」(10)と、ハガルにお語りくださいます。イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)は12名の息子たちが与えられます(25:12~16)。そして現在のアラブを構成する人々になります。
 しかし同時にハガルには困難も待ち受けています。御使いはサラの所に戻るように命じます(9)。アブラハムにこそ主の祝福があるからです。さらにイスラエルとイシュマエルの子孫の対立は今日まで継続されています。12節はこのことを語っています。
 主と出会ったハガルは「エル・ロイ(わたしを顧みられる神)」(13)と主の御使いに語ります。異邦人や罪人だから神とは関係ないとはいえません。主は常にすべての人をご存じであり、見ておられます。そして主に立ち返り、主を信じて歩むように求めておられます。
 
        
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 神による永遠の契約」  創世記17章1~14節    2021.5.30
 
Ⅰ.全能の神がお与えくださる契約
 主なる神がアブラハムを召し出し、信仰の父としてくださいましたが、創世記では、ここまでで2回、主なる神がアブラハムに対して、直接語られることが行われました。
 最初が12章1~3節です。主なる神がアブラハムを召し出し、大いなる国民にすることを約束し、約束の地へと導いてくださいました。この時、アブラハムは75歳でした(12:4)。 次に15章です。主なる神は、アブラハムから生まれる者が跡を継ぎ、主の祝福を得ることを約束してくださいました。この主の約束をアブラハムは信じ、神によって義と認められました(15:6)。この後アブラハムが86歳の時にイシュマエルが与えられました(16:16)。
 アブラハムが99歳の時、改めて主なる神がアブラハムに語りかけてくださいます(17:1)。最初の召しから24年が経ちました。私たち人間は、約束は直ぐに適えられると思っています。実現することが遅れれば、焦り、約束を疑います。しかし主なる神の約束は、私たちの時間の感覚で、疑ったり否定したりしてはなりません。
 主、アブラハムばかりか、後に続く子孫にも契約を守ることを求められます(17:9)。主の契約は、主なる神の時間、つまり天地万物の創造から始まり、御子の御業、終末における神の御国の到来という救済史全体によって実現します。そのため、主なる神は「わたしは全能の神である」(17:1)。とお語りになります。主に不可能なことは何一つありません。私たち人間の知性を超えて働き、成し遂げる力を持っておられます。

Ⅱ.多くの国民の父アブラハム
 この時主は、アブラムにアブラハムという名が与えられます(17:4-6)。「アブラム」は「父は高められる」の意味でした。主が「アブラハム」という名を与えたのは、アブラハムが「多くの国民の父」となることの意味が込められています。つまりアブラハムに与えられる契約は、アブラハムと共に、彼の子孫に与えられることを主は約束してくださいます。
 そのため主なる神は、「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(7)と語られ、永遠に受け継がれる契約であることを約束されます。つまり12:2において、主なる神がアブラハムに示された祝福は、アブラハムの子孫、イスラエルにおいて受け継がれる祝福であることが約束されました。

Ⅲ.神の民に属する者
 そのため主は祝福のしるしとして割礼をお与えくださいます(17:9-14)。割礼を受けることは、信仰や行いによるのではなく、神の民に属していることが求められます(12-14)。神の契約は、アブラハムに属する者に引き継がれ、神の恵み、神の祝福が約束されます(参照:ウェストミンスター大教理問162〔聖礼典の目的の第一〕)。割礼は、主イエスの十字架の御業の後、新約の教会では洗礼に引き継がれていきます。私たちが幼児洗礼を授けることは、この概念が引き継がれているからです。信仰者の両親・もしくは父親・母親によって生まれた子どもにも、神の民に属する者として、親の信仰により洗礼を授けることを認めているのです。
 割礼を受けイスラエルとなること、幼児洗礼を授かることは、大きな恵みです。しかし主から恵みと祝福が約束された神の民は、そこで留まることはありません。アブラハムが主のよって義と認められたのは、主の約束を信じたからです(15:4-6〔聖礼典の目的の第二:信仰〕)。
 つまり、私たち自身、そして幼児洗礼を授かった子供たちは、主なる神がお与えくださった契約としての恵み・祝福を理解しなければなりません。そのために信仰教育が必要です(参照:申命記6:6-9)。これは、単に教えるのではなく、主がお与えくださる恵み、祝福がどれほど素晴らしいものであるかを伝えていくことです。十戒(律法)は、守ることにより救われるのではなく、救われた民が、罪や悪の誘惑により、神から離れないようにするために与えられた愛の言葉です。それが神の言葉に対する従順となり、隣人に対する愛の交わりとして表れてくるのです(聖礼典の目的の第三・第四)。
 主なる神は、アブラハムに祝福を与え、それがイスラエルに受け継がれていくことを約束してくださいました。そしてこの恵みの契約は、主イエス・キリストの十字架の御業を経て、新約に生きる私たちに伝えられています。私たちはキリストの御業の故に罪が赦され、神の御国における永遠の生命が約束されています。主は約束のしるしとして洗礼を授けてくださいました。主の約束に感謝し、希望と喜びをもって受け入れ、また次の世代の人たちにも、喜びをもって伝えていくことが求められています。
 
         
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  笑いの子の約束」  創世記17章15~27節    2021.6.27
 
Ⅰ.神の契約
 99歳になったアブラムに対して、主なる神は改めて祝福をお与えくださり、「アブラハム(大いなる国民)」の名をお与えくださいます。主の祝福は、アブラハムに生まれる子どもによってもたらされます。そして主なる神は、この祝福のしるしとして、割礼を受けることを求めます。イスラエルは割礼の故にアブラハムの子として主の祝福を確認することができました。

Ⅱ.イサクが生まれる!
 しかしアブラハムは、人間的に自分とサライからの子どもが生まれることを非現実的であると思っていました(16,17)。私たちは、アブラハムのことを「信仰の父」と語ります。しかし、アブラハムをまったく罪を犯さない聖人にしてはなりません。アブラハムも、主なる神の御前には罪人であり、罪を犯します。この時も、主によって与えられる祝福を信じますが、現実の問題として受け入れることができなかったのではないでしょうか。
 しかし主なる神は、アブラハムとサラの間に約束の子を授けくださることをお語りくださいます。そして主はサライに対してサラという名をお与えくださいます。主がサラを主の特別な御業を成し遂げるために召し出してくださっていることの表れです。それは女奴隷ハガルから生まれた子が契約を受け継ぐのではないことを確認する上で大切です。

 ③現実味を増す主の約束
 主なる神はここで、アブラハムとサラから生まれる子どもを「イサク」と名付けるように求められます(19)。これまでの主から与えられた約束は、アブラハムにとっては漠然としたもので、現実味がありませんでした。アブラハムは、なおも主の祝福はイシュマエルが継ぐと思っていました。人間は、どうしてもビジョンが鮮明にならなければ、漠然と信じていたとしても、現実味をもって対応することができません。しかし、具体的なことが示された時、現実味を帯びてきます。アブラハムとサラからイサクが生まれると語られることにより、人間的な力の及ばない主なる神による御力が働くことにより、子どもが与えられることを、アブラハムは受け入れることができたのではないでしょうか。

Ⅲ.イシュマエルの祝福
 イシュマエルからイスラム教が誕生したことを知っている私たちは、イシュマエルは主なる神によって捨てられたとの思ってしまいます。しかし主なる神は同時に、イシュマエルにも祝福と大いなる国民にすることを約束してくださいます(20)。主なる神は、アブラハムに対して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」…「あなたの子孫はこのようになる」とお語りくださいました(15:5)。この祝福の中にイシュマエルも含まれています。そのためアブラハムは、この後主から求められました割礼を授かりますが、息子のイシュマエルも一緒に割礼を授かります。
 しかしイシュマエルの子孫からイスラム教が成立し、主なる神から離れていきました。彼らは、主の契約に入れられていましたが、契約のしるしとしての割礼を棄て、偶像・異教宗教に走っていきました。その結果、主の祝福から外れることとなります。しかし同時に、一度主から離れた人々であっても、主なる神と出会い、罪を悔い改め、信仰を告白する時、主の救いが与えられます。イシュマエルの子孫が皆、滅びると言ってはなりません。

Ⅳ.割礼を受けるアブラハム
 主からの祝福と割礼を求める命令を授かったその日に、アブラハムは行動します(23)。割礼を受けるのは、通常は生まれて8日目の赤ちゃんです(12)。幼子の場合、割礼による傷は小さいといえるかと思います。しかしこの時、アブラハムは99歳、イシュマエルも13歳でした(24-25)。成人男性が割礼を受ける時に、相当な痛みが伴います(創世記34:24-25)。割礼を受けることは相当の覚悟がいることが明らかになります。つまりアブラハムは、こうした傷の痛みを覚悟して、割礼を受けます。アブラハムの信仰が、ここに表れています。
 私たちキリスト者には、キリストの十字架により、私たちの罪が赦され、天国における永遠の生命が与えられていることが約束されています。皆さまにとって、どれだけ現実味をもって受け入れられているでしょうか? アブラハムが笑ってしまったように、神を信じているけれども、正直な所、現実味がない方もおられるかと思います。しかし、私たちの日々の生活の中にあっても、主なる神は、私たちと共にいてくださり、私たちの必要を満たしてくださいます。祈りを聞き届けてくださいます。主がお与えくださる具体的な恵み、祈りの応答を確認しつつ、主による救いを現実味をもって受け入れ、主を信じて歩むことが、今、私たちに求められているのではないでしょうか。
 
          
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  主なる神と出会う」  創世記18章1~15節    2021.7.25
 
Ⅰ.主の権限
 アブラハムの前に山陰の人が現れます。彼らには主が臨在されています。天使が人間の肉体をよそおい、アブラハムの所に現れたと考えて良いかと思います。
 新共同訳聖書は「お客様」(3)と訳します。「主なる神」である「ヤーウェ」とは別の言葉であり、一般的に「主・主人」と訳す言葉です。最初アブラハムも主の使いであることに気が付いていませんでした(参照:ヘブライ13:2)。
 アブラハムは三人が、主が遣わされた者であることを次第に理解していていきましたが、主なる神は最初からアブラハムと共におられました(1)。主は霊であり(ウェストミンスター大教理問7)、私たちは目で見ることができません。そのため、私たちが気が付いていない時も、主なる神は私たちと一緒にいてくださいます。つまり私たちが礼拝に集っている時、聖書を読みお祈りする時だけ、主が私たちと共におられるのではありません。主は、インマヌエル、つまり「神は我々と共におられる」お方です(参照:マタイ1:23)。

Ⅱ.もてなし
 アブラハムは客人を丁重にもてなしを行います(2)。突然の訪問である旅人に対して、アブラハムは心の準備が整えていたことを表しています。当時は、普通に見ず知らずの旅人をもてなしが行われていました。しかしアブラハムのもてなしは、信仰の表れです。彼は地にひれ伏し(2)、言葉にも表れています(3-4)。また彼がパン菓子のために用意した小麦は3セア(23㍑)です。3人にもてなすにしては多すぎます。また子牛を選び料理させます。
 人が必要とすることを率先して行うことが出来る行為は隣人愛によります。その人を見て必要を判断することが求められます。無頓着であれば気が付きません。アブラハムの行いは、彼自身が主なる神の愛に包まれ、救いに至る祝福に満たされていたからの行為です。
本当の意味で、主によって救いが与えられた者は、隣人をも愛する者とされます。

Ⅲ.私たちと共におられる主なる神
 彼らはアブラハムの妻サラのことを知っていました(9)。彼らは、全知全能である主から使わされた天使だったからです。主なる神は、常に私たちと共にいてくださり、見えない・隠れていることも、主はすべてご存じであり、私たちは何一つ隠すことはできません。
 主なる神は、私たちが気が付かなくても、私たちと共におられます。そして、私たちのすべての行いを見ておられます。そして一人の人に行った愛の業を誉めてくださいます(参照:マタイ25:31~40)。

Ⅳ.私たちの理解を超えて働く主の実業
 そして彼らの一人はサラに語ります。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(10)。ここで初めて妻サラに約束の子の約束が示されます。恐らく、アブラハムは主から召しを受けた時、サラにも、その事実を語っていたことでしょう。しかし、サラは自らの子供が宿ることなど、さらさら信じることができなかったかと思われます。
 そのため、サラはひそかに笑います(12)。新共同訳は訳されていませんが、「心の中」のことです(参照:口語訳・新改訳)。しかし主の御前に立たされた時、心の中での思いもすべてが明らかにされ、「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ」と語られます。アブラハムも笑いました(17:17)。しかしアブラハムとサラには違いがあります。アブラハムは主の言葉を信じつつすべてを受け入れようとしたのですが、受け入れられない部分がありました。しかしサラは、主の約束が語られるや否や、全面的に否定するかの如くに笑います。主なる神が存在され、主によって生かされ、主に従うべきことが求められていることすら忘れ、否定しているかの如くにです。
 人にとって笑いたくなるような現実性のない事柄であっても、主の御手にかかれば、不可能なことはありません。全知全能なる神は、サラの御前にも臨在され語られます。そして主の約束は、アブラハムとサラを通して実現していきます。
 人は、キリストの十字架の死からの復活、人の復活、最後の審判、天国を笑います。しかし人の目には不可能であり笑えるようなことも、主は成し遂げられる力をもっておられます。今、主なる神は私たちと共におられ、そして私たちを生かしてくださいます。そして主なる神は、私たちを通して、さらに多くの人たちにこの事実を伝え、主を信じて歩むようにお語りになります。私たちの信仰を人が笑ったとしても、私たちは主から示された真実を受け入れ、主の御声に聞き従い、証しすることが求められています。
          
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 神のあわれみ」  創世記18章16~33節    2021.8.29
 Ⅰ.神の奥義としての予定と遺棄
 主なる神は、アブラハムに救いの契約を結んでくださり、アブラハムの子どもとして、サラの子イサクが与えられることを約束してくださいました(18:1-15)。一方18章後半では、ソドムの人々の裁きについて語られます。二つの記事は、全く異なったことが語られているように思われますが、福音の表と裏であり、両者は一つのことを語っています。つまり、信仰の故にアブラハムにつながる者は主による救いに入れられますが、主を排斥し自らの歩みを行おうとする者は、己の罪の故に主の裁きがもたらされます。
 主は、天地創造する以前から、この福音を計画され、それが実行されます。それは人には秘められた計画(奥義)です。しかし主はこの奥義を、信仰によって義と認め、救いに導こうとされるアブラハムに対して明らかにされます(17)。
 神のご計画は、啓示されることにより私たちに明らかにされます。主が人には厳しい言葉であるような奥義さえ、あえてアブラハムに明らかにされたのは、アブラハムを神の子として愛し、非常に親しい関係にあったからです。そして、主はこの警告を発せられることにより、罪に汚れた人間が、主の御前に立ち返り、罪を悔い改め、信仰を告白することができるように導いておられます。つまり私たちは、主の御言葉に聞くことができずに裁きをうけるソドムの人々ではなく、主の御言葉に聴き従い救われるロトたちのことを顧みるべきです。
 主なる神は、アブラハムに対する祝福と同時に、ソドムとゴモラの裁きを宣言されます(18-22)。「神による裁きが語られるから、神は恐ろしい」と語られる方もおられるかと思います。教会において、慎重に語らなければならない事柄です。しかし主は、罪の故の世の裁きをはっきりと語っています。そして、罪が示されるからこそ、主なる神の義・栄光が指し示されるのです(参照:ウェストミンスター信仰告白3:7,8)。そして主なる神は、裁きから免れ、救いに入れられるために、主を信じるように求めておられます。主がお語りになられていることを隠したままでいると、恵みと祝福に満ちた主を求める者は、現れません。自らの姿、そしてそこにある裁きをはっきりと語ることが、今求められています。

Ⅱ.最後の一人まで救ってくださる主なる神
 アブラハムの言葉は、私たちキリスト者の言葉を代弁している言葉です(23-25)。主なる神は天地万物を創造された創造主であり、私たち人間は主によって作られた被造物です(創世記2:7)。主のご計画に対して、人間は物申す立場にはありません。にもかかわらず、アブラハムは主に語ろうとしています。神は、アブラハムのように、私たちが意見を語り、祈りで訴えることを良しとしてくださっています。これはまさしく子どものわがままを親が受け入れるような、愛と信頼関係があるからこそなされる行為です。そして、主はアブラハムの要求を受け入れてくださいます。
 しかし主のご計画が、私たちの求めによって変更されることがあるのでしょうか? 主のご計画が変更されることはありません。このことを私たちは、主のご計画が、どこに向かっているのかを確認することにより、主の答えを理解することができます。主なる神は、すべての予定された神の民が救われることにより、初めて罪を裁き、神の国の完成へと導かれます(ウェストミンスター信仰告白3:4)。つまり、最後の一人が救われるまで、主は裁きを猶予されています。キリストの来臨から2000年経っても、今なおキリストの再臨がないのはそのためです。そのため主は、「その十人のためにわたしは滅ぼさない」(32)と語られます。主の真理は、一人でも正しい者がいたなら、滅ぼされることはありません。
 このことは、イスラエルが約束の地に入ろうとした時、エリコにおいて遊女ラハブとその家族を救ったこと(ヨシュア2:14、6:22,25)、フィリポがエチオピアの高官(宦官)のためだけに、主はフィリポにガザの方に向かわせ、高官は救われた(使徒8章)ことで明かです。
 主がご計画された救われる人たちは、誰一人主の裁きにあうことはありません。主イエスが宣教命令(マタイ28:19-20)を出されたのも、すべての主の民が救われるためです。
 この後ソドムが滅ぼされますが、主はロトと家族を救われます(創世記19章)。滅ぼされるソドムには主の民はいないからです。終末の時も同様です。主は最後の一人が救われるまで、最後の審判の時をお待ちくださっています。そして救いに与ることが定められているすべての民をお救いくださいます。
          
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  主の命令と裁き」  創世記19章1~29節    2021.9.26
 
Ⅰ.終末に生きる私たち
 主なる神は、義であられ、不義をそのままにさせておくことができないお方です。そのため、創造主であられる神を信じることなく、不義を繰り返す者たちに対する裁きを行われます。ノアの時代に全世界を裁かれますが、それ以降は部分的になり、ソドムとゴモラの罪が非常に重い(18:20)ことを指摘し、滅ぼそうとされます。
 しかし同時に、アブラハムに対して主は、その場に一人でも正しい者がいれば裁かれることはないことを約束してくださっています(参照:エレミヤ5:1)。そして主は、ソドムを裁くに先立ち、そこにいる正しい者を救い出してくださいます。つまりアブラハムの甥でありますロトを救い出すために、主は二人の御使いをソドムのロトの所に遣わします。
 つまり主による救いの業は、常に終末的な出来事であり、終末においては最後の審判だけをイメージするではなく、神が約束してくださったすべての神の民が救われ、神の国が完成することをイメージしなければなりません(参照:ウェストミンスター信仰告白33:2)。

Ⅱ.ソドムに住むロト
 ロトは、ソドムの門の所に座っていました。当時、町の門は都会の生活の中心に位置していました。門の周囲で、裁判が行われたり、物の取引が行われ、司法や商業の中心でした。ですから門の所に座っていると、町の状況がつぶさにわかります。そのため、ソドムの町全体が不正に満ちて、裁きに値するような状況にあったことを、ロト自身も気が付いていたのです。「正しい人ロトが、不道徳な者たちのみだらな行動によって悩まされていた」(Ⅱペトロ2:7)。社会情勢の全体を客観的に観察することで、社会全体が見えてきます。こうしたものの考え方をすることが、私たちにも求められています。一つのニュースでも、いくつかの報道を比べることにより、そこに隠されている罪も露わになります。
 そうした中、二人の主の使いがつかわされ、ロトは二人を迎え入れます。旅人である客人を丁重にもてなすことは当時、常でした。ここでロトの思いとしては、この客人が、罪に満ちた町の他の人の所に迎え入れられることは耐えられない事であったのでしょう。

Ⅲ.ソドムとロト
 そうした中、ソドムの人たちがロトのところに来ます(4-5)。「なぶりものにする」とは暴力的なイメージでありますが、「知る」と訳される言葉では、性的な描写です。つまり若者から年寄りまでもが、性的に、倫理的に乱れている世界がここにあります。
 ロトの言葉(6-8)は、客人をもてなし、安全を守ろうとする意図は感じられますが、娘を姦淫される場に差し出すと言う、到底受け入れられない行為です。ロトは客観的には、町中が罪に汚れた状況を理解していましたが、同時に、知らず知らずの内に自らも感覚が麻痺して、重大な罪が判別できない状況にあったともいえます。
 それでもなお、ロトは新約聖書が語るとおり「正しい人」でした。それは、9「こいつは、よそ者のくせに、指図などして」。この言葉によって明らかになります。町の人たちは、自分たちの行う祭りや行事などの一緒に参加することによって、仲間として受け入れ、住民として受け入れます。この9節の言葉は、ロトが町の人たちの行う悪事に加わっていなかったことを意味しているといって良いかと思います。

Ⅳ.主の救い
 こうした中二人の客人は、ロトとその家族を救い出してくださいます。主の救いは家族にまで及びます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)。しかし、ロトの婿たちは滅びが冗談だと思い、信じることができませんでした(14)。主の救いが語られても、それを否定する人は、自らの意志で罪の故の裁きに入れられます。
 ロトはたらいます(16)。言葉で語られても、なかなか行動に移すことはできません。それが弱さです。だからこそ行動に移すことができないのです。一歩を踏み出すことの恐怖、それは誰にでもあることです。そうしたロトに対して、主は憐れんで、手をとって、いわば強引にロトと家族を町の外に避難させられます(16)。つまり主の救いは、私たちの思いとは裏腹に、主によって一方的な恵みとして与えられます。「なぜ?」と疑問に思う前に、主がその手を引っ張って行き、私たちに働きかけてくださいます。
 そして、主によって捉えられ、救いに導かれた者は、主の御言葉、主の命令に従うことにより、その救いが確実なものとされます。その時、出来なければロトの如くに、率直に主に尋ね、主の命令が達成できるものとされます(29)。ロトの妻のように、主の命令を自分勝手に解釈し、主の命令を破ってはなりません(26、参照:Ⅱペトロ2:6-9)。
           
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 人間的な知恵」  創世記19章30~38節    2021.10.31
 
序.
 今日は宗教改革記念日です。宗教改革以前のローマ教会では聖書以外のことが教会の権威において語られていたため、宗教改革者たちは、「聖書のみ」、「聖書全体」をスローガンとしました。今日私たちに与えられたテキストは、非常に人間的な罪が語られています。しかし宗教改革において語られた「聖書全体」を思うとき、この御言葉からも、主が今に生きる私たちに語りかける言葉に耳を傾けることが求められています。

Ⅰ.ロトの自己判断
 主なる神は、罪に満ちた町ソドムとゴモラを滅ぼしました。その中、ロトと二人の娘たちは、小さい町ツォアルに逃げることにより、主によって救い出されました。
 しかし、ロトたちはツォアルを離れ、山の中に住みました。ツォアルの町も罪に汚れており、道徳的にも乱れた地域であったからです。汚れた町から逃れようとしたロトの判断は一面では正しかったことでしょう。しかしロトの判断は中途半場でした。今は、ソドムが滅ぼされた時のように急ぐ必要はありません。山ではなく別の町に逃れることもできました。アブラハムの所に行くこともできました。ロトにとって、お救いくださった主に判断を仰ぐことなく、自らの判断で行動し、山に逃れたことが誤りでした。

Ⅱ.娘たちの行為
 ロトの過ちは現実の罪として現れてきます。この山の中の洞穴には、ロトと二人の娘たちしかいません。このとき、二人の娘は、父により子を授かろうとします(31)。彼女たちは、自らの欲望に赴くままの行動ではなく、子孫を残したいとの思いがここにありました。
 しかし、彼女たちは主の厳しい裁きの現実を見てきました。自分たちの母親も、主の命令に背き塩の柱となり、死を遂げました(19:26)。罪を犯すことによりもたらされる主の裁きは示されていました。しかし、主が裁かれたのはソドムの地域であり、全世界を裁かれたわけではありません。姉妹たちは周囲に目を配ることができず、自分たちと結婚してくれるような男性はいないと判断したのです。極限状態に置かれたとき、視野が狭くなり、周囲を見渡すことができません。近親相姦は重い罪です。こうした時にこそ全体を見渡し、信仰的に判断することが求められます。
 娘たちがロトを酒で酔わせた上で行動したことは、後ろめたさがあった証拠です。またロトも意識を失うまで泥酔したことにより、ロトも責任を免れることはできません。

Ⅲ.その後
 その後、姉妹はそれぞれ男の子を産み、モアブ人、アンモン人の先祖となります(36-38)。モアブ人・アンモン人は、アブラハムの親戚筋であり、イスラエルとも良好な関係も築かれていきます。そのためイスラエルがモーセによって出エジプトが果たしカナンに入る時も、彼らに対しては、攻撃することなく、通り過ぎることが求められます(申命記2:9)。
 しかし忌まわしい罪によって始まったモアブ人・アンモン人は、その子孫もそうしたことを受け継ぐこととなります。このことは、イスラエルにも大きく立ちはだかることとなります(民数記25:1-3)。つまり、イスラエルはモアブから性的な誘惑にあい、さらに異教宗教が持ち込まれることとなります。またモアブはイスラエルを脅かす国となっていきます。
 しかしながら主はなおも、アブラハムの甥ロトの子孫に対して目を向けてくださいます。モアブの女としてルツが与えられ(ルツ1:1-5)、ルツはキリストの系図に組み入れられる祝福に満たされました(マタイ1:1-6)。マタイ福音書のキリストの系図では、タマル、ルツ、ウリヤ、そしてダビデの妻、すなわちバティシュバ、イエスの母マリアの5人しか女性の名が記されていません。その一人として、モアブ人ルツが記されます。
 人は、主から離れ、この世の罪に汚れ、主の御前に忌まわしい罪を行う者となります。そこにはソドムとゴモラが裁かれたように、罪の裁きしかありません。しかし、主はなおもロトと娘たちに目を止め、救いをお与えくださいました。それと同じように、モアブ人の一人の女性ルツを、特に目を止め、救い主イエス・キリストの系図に書き留められる恵みと祝福に与るものとしてくださいました。
 そして主は、現在の日本に住む私たちにも目を向けてくださいます。誰もが主による救いを依り求めようとしない今、主は私たちを救いに導くために、神の御前に、そして教会の礼拝の場にお招きくださっています。そして救い主イエス・キリストによる罪の赦しと救いを、御言葉によりお示しくださっています。主の愛と恵みに感謝し、主に従った歩みを続けていきたいものです。
            
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  異邦人に示された神の救い」  創世記20章    2021.11.28
 
Ⅰ.繰り返される人の罪
 アブラハムは信仰の父と呼ばれ、罪を全く行わない聖人のように考えられることもあります。しかしアブラハムも主の御前には一人の罪人であり、悩み苦しみながら生きています。アブラハムは妻のサラのことを「これはわたしの妹です」と嘘を語ります(2)。創世記12:10-20と似通っています。聖書学者の中には、二つの記事は元々一つの記事であったと結論ずける人もいます。しかし聖書で重要であると思われることは、同じようなことを、繰り返し語ります。同じような罪が繰り返し書き記されるのは、ここに私たち人間の持っている罪の本質が表れているからです。私たちは、人間の持っている罪の根深さを、真摯に受け入れる必要があります。日本人は熱しやすく冷めやすいです。一時的に信仰に熱心になりますが、やがて信仰心が薄れてきます。そして教会から離れて行かれる方がいるのが現実です。その様な方であっても、主なる神が共におられ、教会生活が取り戻されるのであり、私たちは主を信じて、彼らが教会へと戻ってくることを祈り続けるのです。

Ⅱ.神の祝福とそこでもたらされる人の罪
 アブラハムは新天地ネゲブ地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みます(1)。この時、アブラハムは妻サラのことを「これはわたしの妹です」と語ります。異教徒の中で、神を信じる者が暮らしていくことが困難であることは、私たちも経験していることですが、その中で生き延びていくために、アブラハムはこうした姑息な手段を用いました。信仰に知恵を働かせて生きることと、主の御言葉に反することを行うことには違いが生じます。
 聖書ではソドムとゴモラが滅ぼされた記事(18:16-19章)がはさまりましたが、その前では、新たな契約が結ばれ割礼を授かり(17章)、イサクの誕生の予告がされました(18:1-15)。そして約束の子イサクが誕生します(21章)。主の恵みに満ちた信仰生活の中、アブラハムは罪を犯します。このことは、前回の出来事(12章)が、アブラハムが主から召しを受けた後の出来事であったこととも類似しています。アブラハムには油断があったのではないでしょうか。油断大敵です。そこにサタンはつけ込み、罪が混入してきます。

Ⅲ.アビメレクに示される災い
 視点を180度回転させ、アビメレクに注目したいと思います。説教題を「異邦人に示された神の救い」としました。アビメレクはゲラルの王・ペリシテ人であり、イスラエルからすれば異邦人でした(2)。そしてアビメレクは、アブラハムから妹を紹介され、正式な手続きを経て、妻として迎え入れようとしました。
 しかしその夜、主なる神がアビメレクの夢に現れ、「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ」と宣告されます。アビメレクからすれば、何が起こったのか分からなかったことでしょう。そのためアビメレクは主に反論します(4-5)。
 主なる神はアビメレクに現れ、真実を語ります。異邦人であるアビメレクに対して、主なる神が共にいてくださり、働いてくださいます。主なる神は、異邦人であっても、主がお覚えて召してくださり、救いが示されます。「旧約聖書はイスラエルであり、異邦人は裁かれる」と紋切り型に解釈してはなりません。イスラエル人であっても罪の故に裁かれ、異邦人であっても主なる神が共にあるとき、主の恵み、主の救いに与る者へと導かれます。

Ⅳ.アビメレクに示される主の祝福
 そして主なる神は、アビメレクに信仰を与え、罪から解放し、罪を犯さないようにお守りくださいます(6、ウェストミンスター信仰告白9:4)。
 このときアビメレクは、主なる神を畏れ敬い、家来たちにも福音を伝えます(8)。その上、アビメレクはアブラハムに対してその罪を批判しますが、そのために謝罪や賠償を要求するのではなく、アブラハムに仕える者として贈り物を贈ります。さらに自らの土地をアブラハムに与え住まわせます。アビメレクは主に仕える者としてアブラハムをもてなします。それはアビメレクが、信仰によりアブラハムの罪を赦し、和解を求めた結果です。
 アブラハムは、異邦人であるアビメレクにより自らの罪が指摘されることにより、自らの罪を知ることとなります。私たちは異邦人の中で生きています。私たちが信仰を証しし、福音を伝えることが求められます。しかし同時に私たちは、主の御前に遜り、自らの罪・弱さが明らかにされることがあります。こうした場合、「ノン・クリスチャンが語ったことに聞く必要はない」と突っぱねてはなりません。謙虚に忠告・進言を受け入れ、罪を悔い改め、行いを変更することができる遜った思いを常にもって生きることが求められます。このときに主は、神の民である私たちを恵みに満たしてくださいます。
             
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  約束の子の誕生」  創世記21章1~8節    2022.1.2
 
序.
 2022年が始まりましたが、私たちはもう少しクリスマス、つまり御子の御降誕を覚えつつ礼拝を守りたいと思います。教会の暦では、御子が御降誕されてから12日目(1月6日)を公現日と言い、東方の博士たちが、主イエスとお会いになった日とされています。

Ⅰ.約束の成就-長い間の祈りと忍耐
 創世記21章は主がアブラハムに約束された子イサクが生まれることが記されています。この御言葉をクリスマスと関連してお読みしたいと思っています。イサクの誕生は、主なる神の大いなる御業です。最初に「主は、約束されたとおり」と語られています(1)。100歳になるアブラハムに、妻サラにより息子イサクが与えられることは、創世記12章以来、主がアブラハムに約束を語られてきたことの一つの結論、約束の成就です。
 アブラハムは、主によって召された時75歳でしたが(12:4)、既に100歳になっています。アブラハムに子が与えられる神の約束が示されたのであり、その間、アブラハムとサラは、主に祈り続けてきたことでしょう。しかし長い間、祈りは聞き入れられず、主の約束は果たされないままでいました。そのため本当に、主がこの約束を果たしてくださるのであろうか?とあきらめに近い思いもあったことでしょう。だからこそ、妻サラは、女奴隷ハガルをアブラハムに与え、アブラハムはハガルによって息子イシュマエルを授かりました。
 25年の年月です。2022年を迎え、25年前は1997年です。社会的な大きな出来事では、神戸の大震災とオウム真理教の事件が1995年です。十年一昔とも言われ、25年(四半世紀)となれば、歴史ということができるかと思います。
 しかし、主はアブラハムに対して約束されたことを反故にされたわけではありません。25年という間、主の約束を信じ、果たされぬ約束を忍耐をもって待ち続けることにより、信仰を養い続けてくださいました。そしてアブラハムが100歳になり、ようやく主は彼らに約束の子イサクを授けてくださいました。このことは、人間の力では不可能であることであっても、主には成し遂げることが可能であることを、主は、イスラエル、そして私たちにお示しくださいました。また主は、長い間、不妊の女という不名誉なレッテルが貼られたサラを顧みられました。25年間、主は彼女を忘れられていたわけではありません。主は彼女のことを心に留めつつも、約束の成就の時が来るのを待っておられたのです。
 私たちの人生からすれば、25年は非常に長い時間ですが、天地創造に始まる主の御支配からすれば、わずかな時間です。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(Ⅱペトロ3:8)。私たちは主の御支配の時間の内にあって、「義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」(同3:13)。アブラハムも、イスラエルが祝福された大いなる国民になること、そしてメシアであるイエス・キリストが与えられるまで、長い時代が必要でした。しかし、主がお与えくださる約束は成し遂げられます。私たちは、この主の救いの約束を信じ、この年も歩み続けることが求められています。

Ⅱ.イサク-主の御業との出会い
 さて、アブラハムとサラは、生まれた子どもをイサクと名付けます。「イサク」とは、「笑い」という言葉です(17:19)。主がサラに子どもが授けられることを預言した時、サラは不信仰な、嘲笑に満ちた笑いを行います(18:12)。サラは、人間的な不可能なことが成し遂げられようとしていることを信じ切ることができませんでした。
 しかし嘲笑は、90歳にして母となるサラの微笑ましい笑いとなります。神はサラの不信仰を赦し、主のなされた御業を受け入れたサラに、喜びと笑いをお与えくださいます。
 私たちも、主が自然を超えて働かれる力を持っておられるお方であるあることを受け入れ、信じることが求められています。クリスマスの日にお生まれになられたイエス・キリストも、主は正式に結婚する前のヨセフとマリアに対して、天使によって語り、マリアが聖霊によって身ごもりました。このことを、使徒信条は告白します。
 我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。
 主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ。
 コロナ禍になり3年目を迎えました。私たちは、医療によりコロナに打ち勝ったという人間的なおごりをもつことなく、主の御前に遜り、主を畏れ、主の約束を信じて、歩むことが求められています。この後、聖餐の礼典に与りますが、主によって与えられる神の御国における晩餐を覚えつつ、日々の歩みを続けて頂きたいと思います。
             
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 あの子も大いなる国民とする」  創世記21章9~21節    2022.1.23
 
序.
 私たちは聖書を順番に読み進めていますと、すぐに理解できるテキストがある一方、時代的背景がわかないことや、聖書は私たちに何を語りかけようとしているのかその意図が理解できないこともあるかと思います。しかし理解できない聖書箇所があったとしても、前後の文脈、そして聖書全体の構造を理解することにより、さらには教会において告白された信仰告白に確認することにより、ここで聖書が何を語ろうとしているのか、見えてくることがあります(参照:ウェストミンスター信仰告白1:7)。

Ⅰ.大きな国民となるイシュマエル
 今日の説教題は「あの子も大いなる国民とする」としました。アブラハムとサラの女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルに対して語られていることです(参照:18節)。新共同訳聖書では「あの子も大きな国民とする」と訳されている所です。
 新共同訳のように「大きな国民」すなわち、人数の上での祝福を語るのであれば、理解しやすいかと思います。ヤコブの子らが12のイスラエルの族長となったように、イシュマエルの息子たちもそれぞれが部族の長となることが語られています(参照:25:12-18)。
 そして、現在のアラブ人を形成しているのが、このイシュマエルの子孫です。

Ⅱ.神の御業の中に生きる私たち
 しかし他の多くの聖書は、「大いなる国民にする」と訳します。“many”、“much”ではなく“great”です。この「大いなる」とはどういうことかを考えて行きたいと思います。
 さて、主によって約束された子であるイサクがサラに与えられると、サラは自分とその子イサクを誇り、ハガルとその子イシュマエルを蔑むようになります。実は16章において、サラは自分に子どもが生まれないために、アブラハムに対して女奴隷によって子供が与えられるように願っています(16:2)。しかしハガルが身ごもった時、彼女はサラを軽んじます(16:4)。16章におけるハガル、そして21章のサラの態度は、自分が優位に立った優越感からの言動です。ここに主なる神の御旨がどこにあるのか聞く耳がありません。こうした感情的な思いを他者にぶつけることは、私たちも経験します。つまり私たち人間は、主なる神の御業の中に生命が与えられ生活していますが、目の前の現象に支配され、自分を判断したり、他人を見下したりします。
 しかし私たちは、主なる神の御業の内に生きていることを忘れてはなりません。ハガルがサラから逃げた時、主のみ使いがハガルに語りかけます(16章)。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」(10)。旧約の時代、子どもが多く与えられることは、主らの祝福でした。主なる神の祝福はハガルに与えられました。
 そしてハガルによるイシュマエルの祝福はアブラハムにも語られます(17:20)。そしてアブラハムはイシュマエルにも割礼を施します(17:23)。主なる神はイシュマエルを祝福し、そして割礼を施すことにより、神の子として受け入れてくださいました。そして、今の時代に教会に集められている一人ひとりをも、主なる神は支配しておられ、主の恵み、主と共に生きるように導いてくださっています。

Ⅲ.主の御業にすべてを委ねて生きよう!
 主なる神は、イシュマエルを神の子として受入れ、かつ彼の子孫が大いなる国民となる祝福に満たされていました。これが主がイシュマエルを「大いなる国民とする」と語られたことです。しかし私たちはここで2つのことを確認しなければなりません。一つは、主による救いの約束は、イサクによって引き継がれ、救い主イエス・キリストへと受け継がれていくのであり、イシュマエルには初めから同じ祝福は与えられませんでした。
 そしてもう一つは、イシュマエルの子らはアラブ民族へと広がっていきます。そして彼らからイスラム教が生じます。つまり主から与えられたイシュマエルへの祝福は、彼の子孫、アラブ民族には受け継がれませんでした。このことは、アラブの人たちだけではありません。イスラエル人でも、イスラエルの血を引いているから、神の子とされ、神の祝福に満たされているかと言えば、そうではありません(参照:ローマ2:28-29)。そのためイスラエルは、アッシリアに滅ぼされ、バビロン捕囚を経験することとなりました。
 私たちは、主の御旨、主の救いの御業、予定を完全に理解することはできません。しかし私たちは、主の救いに招かれ、救い主イエス・キリストの十字架の御業を私たち自身の罪の贖いであることを受入れ、信じる者に、罪の赦しと救いが与えられます(参照:ウェストミンスター信仰告白3:8)。そして、神の御言葉に聞き従い、遜り、謙遜をもって、信仰生活を歩むように導かれていきます。アラブ民族がすべて滅びに至るわけではありません。私たちも、サラやハガルのように、目に見えることにおいて、他人を裁いてはなりません。
    
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 アビメレクとの契約」  創世記21章22~34節    2022.3.20
 
序.神から一方的に与えられる恵みの契約
 アブラハムは主から召しを受け、主はアブラハムに対して契約を結ばれ、しるしとしての割礼を施されました。主がアブラハムと結ばれた契約は、創造主であり贖い主である方が、一方的な主権のもと、愛と恵みによって、アブラハムと、霊的にアブラハムにつながるすべてのキリスト者に与えられた恵みの契約でした。神から与えられる一方的な契約であり、イエス・キリストの十字架により有効とされました(参照:ウェストミンスター信仰告白7:4)。遺言・遺贈、つまり罪の赦しと永遠の生命を相続し、これが破棄されることはありません。

Ⅰ.人間相互に結ばれる契約
 ところが今日の聖書に記されている契約は、アブラハムとアビメレクとの間、人間相互、対等の関係にある者相互に契約が結ばれようとしています。私たちはここから、人間相互に結ばれる契約をキリスト者としての対応を考えることができるかと思います。
 アビメレクとは、アブラハムがサラのことを「これはわたしの妹です」(20:2)と語った時の当事者で、ネゲブ地方ゲラルの王です。一方アブラハムは、主の召しにより約束の地カナンが指し示され、この地に住むことになりますが、まだ定住しておらず、この時もアビメレクの土地に住むことを許して頂いていた状態でした(20:14)。しかし同時に、アブラハムは主によって多くの恵みを受け、一住民としては膨大な財産と家畜を携えていました。

Ⅱ.危険を除去する契約
 しかしアビメレクと軍隊の長ピコルは、アブラハムに対して脅威を抱いていました。それはアブラハムが、多くの財産を有していることと共に神が共におられることを知っていたからです(22b)。それは主なる神がアビメレクの夢にでてきたこと(20:3)、100歳になるアブラハムに息子イサクが与えられたことによって確認していました。そのためアビメレクは、アブラハムが攻めてくることを恐れつつ、友好的な契約を結ぶことを求めます(23)。このアビメレクの申し出に対して、アブラハムは、何の注文をつけることなくアビメレクの提案を受け入れ、契約を結ぶことに同意します。

Ⅲ.平和の絆としての契約
 しかしアブラハムは、ここで一つの事実を指摘します。アビメレクの部下たちが井戸を奪ったことについてです(25)。契約を結ぶにあたり、代表同士が握手したとしても、手下が殴り合っているならば、本当の意味での契約を履行することはできません。アブラハムとしては、契約を実質的に有効なものにしようと願い、あえて今まで伏せていた事実を明らかにします。アブラハムは、今までアビメレクの部下たちの行った罪について騒ぎ立てることなく、不正を見逃していました。そして強いて言えば、こうした虐げに対して、我慢をしてきました。これは、井戸を奪うという、水がとても重要な当時の人々から言えば、とても重要なことですが、それすらも声に挙げずに、平穏を保とうとしていたのです。
 つまり人間相互に契約を結び、契約を履行するとき、双方が努力しなければならないことを明らかにするためでした。多くの人々は、小さなことであっても自分に不利益なことがあれば、事を荒げ、声高に相手を非難しますが、不必要な混乱をさけるために自分が一歩下がり、声を挙げないことも、必要です。もちろん、そこにある罪は赦されるものではありません。しかし人の罪を赦し、受け入れることも、求められています。
 今ウクライナにおいて戦争が行われています。相手側が自分にとって赦すことができないことを行ったとしても、一歩下がって、主が求めておられる平和を実現するために我慢する、相手を赦すことを行えば、不必要な争いは避けられ、主の愛に満ちた世界を築いていくことができます。そのために、私たち一人ひとりが心得ることと同時に、為政者にも求められています。そのため、私たちは為政者を非難するだけではなく、彼らに対して主が働いてくださり、誤った行動を自制するように祈ることも大切です。
 このときアブラハムは契約を結ぶに当たり、羊と牛の群れをアビメレクに贈ります。これはアビメレクが王であり、アブラハムは寄留者であることの表れです。
 さらに別に、アブラハムは七匹の雌の小羊を贈り、井戸を取り戻すための新たな契約を結びます。聖書は、誓い(シャバ)(23)、七(シェバ)(27)、井戸(ベエル)(30)と記します。つまりベエル・シェバとは、直接的には「七つの井戸」ですが、「誓いの井戸」を指し示しています。キリスト者は、主なる神との間に、永遠の救いに至る恵みの契約を授かっていますが、地上における歩みの中でも人間相互に契約を結び、完全に履行する努力が求められています。
 
     
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 イサクをささげる」  創世記22章1~19節    2022.2.27
 
序.
 主はアブラハムに約束の子イサクをお与えくださいました(21:1-8)。主の約束は、人間的なものではなく、永遠から永遠に生きておられる主の御業であることが示されました。そのため、主がお語りくださった約束は、破棄されることはなく、必ず成し遂げられます。そのため、アブラハムもサラも、主を証しする者とされていきます。

Ⅰ.主への信仰とは?
 しかし主はアブラハムに新たな試練をお与えになります(1-2)。主はイサクのことを独り子と語ります。イサクこそが、神の契約の唯一の跡継ぎです。しかし、主はイサクをいけにえとして献げることを要求します。この言葉を聞いたアブラハムは、驚きを隠すことはできなかったと思います。イサクを、主が語られるように、焼き尽くすいけにえとするならば、イサクにつながる約束の民は生じることなく、主の約束が反故にされるからです。ですからアブラハムは、神の二つの相反する命令に悩まされることとなります。
 しかしアブラハムは、躊躇することなく主の命令に従います。アブラハムは前もって主が解決してくださる方法が示されていたわけではなく、主の御力によってイサクをお与えくださったように、主がすべてを解決してくださるとの信仰に立った行動したのです。つまり、私たちに今求められていることは、将来のことを自分の考えで憂い、右往左往するのではなく、主がすべてを解決してくださることを信じて、すべてを主に委ね、主の命令に従うことです。信仰とは、頭で考え理解することではありません。人間の理解力を超えた所で働く主の御業を受け入れ、信じ従うことです。人間的には解決することができない二つの相反する命令を、主は解決することが可能です。私たちも、アブラハムが主に従ったように、常にすべてを委ねて主を信じ、主の御言葉に聞き従うことが求められています。

Ⅱ.アブラハムの信仰
 アブラハムとイサクは山に登っていきます(4-6)。その時のアブラハムの心境とはどうであったでしょうか? イサクがどうなるのかとの不安もあったことでしょう。しかし二人になる時、アブラハムは薪をイサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持ちます。覚悟は決めていたと言ってもよいでしょう(9-10)。アブラハムは、主なる神を信じ、すべてを主に委ねて、自らの息子に対して、手を下そうとします。
 このことに関してヘブライ書において語られています(11:19~19)。イサクは実質的にここで死に葬られ、生き返らせて頂いたのと同然です。主なる神は、アブラハムが不可能であると考えていたイサクの誕生を成し遂げたのと同様に、死んだも同然のイサクを救い出し、生き返らせてくださったのです。つまり、アブラハムは信仰によりイサクが与えられたように、私たちは信仰によりキリストの贖いに与り、救いと永遠の生命が与えられます。
 イサクの代わりに一匹の雄羊が与えられました。焼き尽くす献げ物として用いられるのは、イサクではダメなのです。古くから、人を生け贄として献げることが、様々な宗教で行われていました。しかし主の御前に、人の生命は尊いのです。人を殺すことなど求めておられていません。旧約における動物のいけにえも、唯一の犠牲として献げられるイエス・キリストを指し示すものに他なりません。つまり罪の贖いのためには、本当の神であり、唯一の神の仲保者である御子イエス・キリストでなければなりません(参照:ウェストミンスター信仰告白8:6)。イサクは、私たちの救い主イエス・キリストの予型であり、イサクにおいて行われようとしていた罪の贖いは、イエス・キリストの十字架により、完成します。
 イエス・キリストは、2000年前に、十字架に架かり、私たちの罪の贖いは完成しました。聖餐式を思い浮かべて頂きたいと思います。イサクの代わりに小羊が与えられましたが、動物の生け贄もまたイエス・キリストを指し示すものでした。そして私たちも、聖餐式におけるパンとぶどう酒により、キリストの十字架を顧みることが求められています。キリストの十字架により、アブラハムやイスラエルの民の罪も、そして新約に生きる私たちの罪も、償われ、私たちに罪の赦しと救いが宣言されています。イエス・キリストの十字架を信じる者に、罪の赦しと救い、体の復活による永遠の生命の祝福が約束されています。
 私たちは、アブラハムが主を信じて、イサクを献げたように、すべてを整え、すべてを備えてくださる主の御業を信じることが求められています。主に不可能はありません。「どうせ」と心に思い不可能を否定することは、不信仰です。全身全霊をもって、主を礼拝し続け、主に仕えていくことです。そこに救いにある喜びがあります。
 
     
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 サラの死と葬り」  創世記23章1~20節    2022.4.24
 
 序.
 キリスト者は、キリストが死から復活されたように、地上の生涯を終えても、主が共のおられ、既に御霊は天に上げられ、さらに体の復活を待って、永遠の生命が与えられている希望に生きています。しかし同時に、主が人間の肉体の死に対して、どの様な私たちに教えているかを、与えられた御言葉から確認していきたいと願っております。

Ⅰ.遺体の葬り
 教会において信者が死ぬと、「地上の生涯は終えても、天における永遠に生きている」と語ります。このことは真実です。しかし家族・親しい者が死を迎えた時、それは悲しいものです。昨日まで一緒にいた者が今はおらず、地上において再会することもできません。ですから親しい者が亡くなった時、「悲しまなくてもよい」といった言葉は慰めにはなりません。やはり悲しいもので、この感情を誰も否定してはなりません。家族に対する慰めを行おうとすれば、親しい者を失ったその事実を一緒に受け止めること、悲しみを享受することではないでしょうか。そして、親しい家族が肉の死を迎えたとき、遺った遺体を丁重に葬ります。

Ⅱ.寄留者アブラハム
 アブラハムも、妻サラの死を嘆き悲しみます。そして亡(な)骸(きがら)を丁重に葬ろうと試みます。しかし、ここに一つの問題がでてきました。というのは、アブラハムは主から召しを受け、神からの恵みと物的祝福が与えられてはいたものの、なお定住の場所を持たない寄留者だったからです。そのため、自分の土地・亡骸を葬る土地を持っていませんでした。その一つの理由は、400年の間、異邦の国で寄留者となることが約束されていたからです(創世記15:13-16)。第二の理由は、アブラハムはあえて地上に自らの土地を求めませんでした。天の故郷である神の国を仰ぎ求めていたからです(参照:ヘブライ11:13,15-16)。

Ⅲ.神の世継ぎ
 そのため、アブラハムはサラの死に対しても、ヘト人に対して墓地として利用する洞穴のみを求めます(4、8-9)。ところがヘト人エフロンは、洞穴のみならず、周囲の畑の譲渡も申し出ます(11)。このヘト人エフロンの狙いが何であったのか聖書は記しません。主の恵みにより祝福されていたアブラハムから高価で土地を買い取って頂くことを求めていたのかも知れません。しかし結果的にアブラハムは希望通り、愛妻のサラを葬るための洞穴と土地を手に入れることに成功し、アブラハムは、ヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻サラを葬ります(19)。
 また、このサラが葬られた土地に、アブラハム自身も(25:7-10)、アブラハムの子イサクと妻リベカ、ヤコブと妻レアも、この洞穴に葬られていくこととなります(49:29~32)。
 つまり、神による救いを信じ、天上の神の国を追い求めたアブラハムにとって、地上の歩みは寄留者であり続け、定住の場所を持ちませんでしたが、最愛なる妻サラを丁重に葬るために買い取ったこのヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴を得たことにより、地上において、もはやさすらい人ではなく、約束の土地に入り、真実に神の子として、神の世継ぎを引き継ぐ者であることを、確認することができました。
 そしてこの後、このヘブロンの地に、ダビデはユダの王として油注がれ、7年半の間、このヘブロンを都に据えます。この後ダビデは、都をエルサレムに移りますが、それまでの間、約束の地として、このヘブロンが中心的な位置を占めていくこととなります。
 地上における生命は、死をもって終わり、遺体も骨も朽ち果てていきます。墓すらもどこにあったのかすら分からなくなる時代が来ます。だからこそ、遺体の葬りは、丁重に行いつつも、それを絶対化することはありません。
 十字架の贖いをもって、アブラハムを、そして私たちを救いに導いてくださる主イエス・キリストは、もう一度この世に来られます。その時に、すでに地上の生涯を終え肉の死についた者も、もう朽ちることのない永遠の生命に与る体が与えられ、神の国に入れられます。だからこそアブラハムは、妻サラの死を迎え、丁重に遺体を葬りますが、嘆き悲しみは、あくまでも地上での別れの悲しみであり、なおも天上にある永遠の住みかである神の国に目を向け、神の国における永遠の喜びに満ちあふれた姿を求めています。
 私たちもやがては地上の生涯を終え、肉体の死の時を迎えます。そこには多くの人々の悲しみが伴います。しかし、本当の喜びに満ちあふれ、永遠の生命をお与えくださる主の約束を信じて、歩み続けて頂きたいものです。
     
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 主へ誓い」  創世記24章1~67節    2022.5.29
 
Ⅰ.アブラハムの信仰
 今日のテキストでは、アブラハムが僕に命令しますが、僕はその命令を繰り返し語ります。詳細な内容を繰り返すことは、ここに重要なメッセージがここに込められていることを意味します。つまりアブラハムの子孫が空の星のようになる(15:5)と主がアブラハムに約束された契約を捉えておくことが必要です。アブラハムに与えられた子イサクがどのように主の祝福に満たされるのかが、この結婚に凝縮されています。
 結婚相手を親が捜し求めることに対して批判の声があるかもしれません。しかし時代や文化の違いを理解することなく、今の時代に合わないということで聖書を批判することはお門違いです。
 アブラハムは、息子の嫁をカナン人の娘から取ることを禁じます。これはカナン人を代表とする異邦人との結婚を禁じています。なぜならば、神の祝福が継続的にもたらされるには、ただ子孫が増えるだけではなく、子孫が神の民でなければなりません。つまり信仰が受け継がれていくことが求められています。従って、そこに神の民を偶像に導くような異邦人の娘を取ることは許されないと、アブラハムは誓い、自らの兄弟ナホルの家族から、嫁を迎えようとします。
 キリスト者の少ない現代日本においても、キリスト者が未信者と結婚することがあります。この場合どうしても生活の中で、未信者の生活に流されることとなります。そのため、ですからキリスト者が未信者と結婚する場合、信仰を貫く決意と慎重さが求められます。

Ⅱ.僕の祈り
 僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、誓います(9)。腿は、生殖器の象徴的な表現であり、「腿の間に手を入れる」ことは厳粛な誓約が求められていることを語っています。この僕にとって、アブラハムに与えられた恵みの契約が成し遂げられていくために必要なこととして、アブラハムの命令を受け入れ、誓い、出発していきます(ウェストミンスター信仰告白22:1)。
 そして、僕は祈ります(11-14)。この僕は、とても具体的なことを祈っています。ここに、私たちが主の御旨を知るためのスタイルが示されています。私たちは、神の御言葉としての聖書が与えられていますが、聖霊による神の働きがあるだけで、直接父なる神、あるいは神の子イエス・キリストに出会ったり、声を聞いたりすることはできません。そうした時に、本当に主がお示しになる道に進もうとしている時、それを確認しようとするならば、具体的な事柄を祈り、それが達成されることにより主の導きを確認することも、私たちには許されていると語っても良いかと思います。
 僕がまだ祈り終わらないうちに、僕の祈りは聞き遂げられます(15)。こうして主の御旨が確かにここにあることを、僕は知ることができました。私たちも具体的なことを祈り、それが成し遂げられることにより、神が一緒にいてくださることを知ることができます。
 この僕のように主の御旨に適っていることであれば聞き遂げられ、主の御旨に適っていなければ、祈りは聞き入れられません。時には、祈りが聞かれるまでに、長い時間が必要なときもあるかもしれません。しかし、こうしたことを私たちが確認することにより、主の臨在を知ることができます。ですから祈りっぱなしではなく、何を祈ったか、後から顧み、祈りの結果を確認することも必要です。

Ⅲ.神の召しを信じて歩め!
 この様にして、主はアブラハムにお語りくださった契約を成就するために、僕の働きをとおして、イサクの妻としてリベカが与えられました。それはアブラハムに対しては、信仰を養い、神の民に罪が混入を防ぐよう、カナンの女から嫁を取ることなく、自らの兄弟の家族から迎えるように、主は働いてくださいました。そして、僕に対しては、祈りにより、主の働きを確認することができることにより、主の導きを信じて、実行することができました。この様に、主はダイナミックに、アブラハムとその周囲の人たちに働いてくださり、主のご計画を実現してくださいます。
 そして今、主の大いなる御業は、ここに集う私たち一人ひとりに与えられています。主は私たちを、永遠の罪の故の死から、キリストの十字架により罪の赦しを与え、神の国における永遠の祝福に満ちた生命をお与えくださいます。そして、日々、私たちを見守り、祈りを聞き、私たちに執り成してくださっています。
      
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  アブラハムの死とその後」  創世記25章1~18節    2022.6.26
 
 Ⅰ.ケトラによるアブラハムの子孫
 聖書が系図を書き記すとき、大切なことは、主の御計画が実行されていくこと、特に選びの民イスラエルであり、約束のメシアとしてのイエス・キリストに繋がる系図が中心となります。そのため、イスラエルとメシアに繋がる系図は最後に記し、次の時代への橋渡しを行って行くため、傍系といわれるイスラエルから遠い人たちを最初に書き記します。
 アブラハムには、正妻サラと、サラの女奴隷ハガルによって子どもが与えられていましたが、ここでもう一人の妻ケトラがいたことが記されています。ケトラとの結婚がいつの時代になされ、この子どもたちがいつ生まれたかについて、聖書は語りません。
 ケトラによる子として、ミディアンやシェバと言った名も記されています。シェバは、ソロモンを訪問したシェバの女王(列上10:1、歴下9:1)で有名です。一方、ミディアンは、モーセがエジプトを追われた時に身を寄せた場所です(出エジプト2章)。そしてモーセは、ミディアンの祭司エトロ(出エジプト4:19)の娘ツィポラと結婚をします(2:21)。彼らは神の契約に入れられているイサクからは遠ざけられ(5-6)、異邦人となっていきますが、ミディアン人の娘ツィポラは、モーセの故にイスラエルの中に組み入れられることを聖書は語ります。

Ⅱ.ハガルの子イシュマエルの子孫
 一方、ハガルの息子イシュマエルは、主がハガルに約束されたとおりり、豊かな祝福が与えられ、12部族の長となる者たちが生まれます(16:10、17:20)。これはイサクの息子ヤコブに12人の兄弟が生まれることにより、イスラエルを形成する祝福に与ったのと同じです。
 しかし、ケトラの子たち同様イシュマエルもアブラハムの子イサクから離れて住むことが求められます。これは異邦人として生きることを意味します。彼らは、「互いに敵対しつつ生活する」こととなります(18)。これはイシュマエルが異邦人となったのではなく、一人の人として生きる時、そこには罪があり、人間の愚かさ・罪の姿が露わになった結果です。人は、人の上に立ち・権力を持つ・優位に立つことを求めます。そして力を誇示するがために、敵対しつつ、弱い者を倒し、従わせようとします。権力欲であり、これが罪です。上に立つ者が、人々を秩序正しく統治することと、支配することは、似て非なるものです。主の祝福がもたらされなければ、互いに敵対することを避けることはできません。
 イシュマエルの子孫からムハンマド(マホメット)が現れ、そしてイスラーム教が興ります。イスラム教も、キリスト教と同じ一神教であり、偶像を禁じるようなことがありますが、三位一体である主なる神を信じないということは、偶像崇拝であることには違いありません。これが神から離れた結果です。

Ⅲ.アブラハムの死とその後
 アブラハムの生涯は175年でした(7)。主から召しを受け、カナンの地に入ってから丁度100年目のことです。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられました(8)。このとき、神は息子のイサクを祝福されます(11)。イサクの祝福に関しては、エサウとヤコブが与えられ、イスラエルの12部族へと発展していくことが、この後の展開として語られています。ここで注目すべきは、「神は息子のイサクを祝福された」ことです。これは、民族としてのイスラエルが立派だったからではなく、イサク・ヤコブや、モーセ、ダビデ王などが立派だったからでもありません。ケトラの子たち、イシュマエルとその子たちと、イサクやイスラエルとの違いはただ一つ、主なる神に祝福されたことにつきます。つまり、イサクやイスラエルも、主の御前には罪人です。そして、イスラエルの民も、罪を繰り返します。これは、イシュマエルの子孫が互いに敵対しつつ生活していた(18)こととまったく同じであり、主はイスラエルを裁かれることもあります。
 一方、モーセの妻とされるツィポラやモアブ人の女ルツのように異邦人でありながらも、主なる神を知り、信じることにより、神の民として受け入れられ、救われる者もあります。そして今の時代に生きる私たちも、異邦人として生まれてきました。ケトラの子らやイシュマエルの子らと同じであり、民族的にイスラエルの家系に入れられているのではありません。しかし主なる神は、聖霊により私たちを教会へと導き、祝福してくださり、神の民として受け入れてくださいました。私たちはクリスチャンである前に、一人の罪人として主の御前に罪を受け入れ、悔い改めることが求められます。そして私たちの救いのために、キリストが人として宿られ、十字架の御業を成し遂げてくださったことに感謝すべきです。すべてが主なる神がお与えくださった一方的な祝福による恵みです。
 
       
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  ヤコブとエサウ」  創世記25章19~34節    2022.7.31
 
序.
 アブラハムが地上の生涯を終え葬られました(25:8)。このとき主の祝福は、約束のイサクに受け継がれ、イシュマエルや他の子らに受け継がれることはありませんでした(11)。

Ⅰ.神の御計画におけるヤコブとエサウ
 今日の御言葉では、エサウとヤコブが誕生した次第、そして長男であるエサウが長子の権利を弟ヤコブに譲り渡したことが記されています。このテキストにおいて私たちが忘れてはならない視点は、主なる神の御計画と主により実現したということです。
 イサクは40歳でリベカと結婚しますが(20)、リベカが二人を産んだ時、イサクは60歳でした(26)。つまりイサクは結婚してから20年間、子どもを授かることがありませんでした。
 私たちは自分の時間が概念で物事を考え、その通りに物事が行かなければ、不平不満を語ってしまいます。しかし、私たちは主なる神により生命が与えられ、主の恵みの中に生かされています。そして私たちは主のご計画を知り、主の御旨を知り、それに聞き従わなければなりません。このため、イサクも息子が与えられるまで20年待たされることとなります。忍耐が必要です。しかし、アブラハムからの主の祝福を受け継いだイサクは、イサクにも子が与えられる約束が与えられていました。だからこそイサクは、20年というこの時間を受け入れ、主に委ねて祈りつつ、主の御業が成し遂げられるときを待たなければなりませんでした(参照:ウェストミンスター信仰告白3:5)。

Ⅱ.イサクの二人の息子
 イサクは主に委ね、祈ります(21)。その祈りは主に聞き入れてくださり、イサクの妻リベカは身ごもります。この時、主はリベカに「二つの国民があなたの体内に宿っており……兄が弟に仕えるようになる」と語られます(23)。ここには二つのポイントがあります。まず、リベカから生まれる二人の息子たちが二つの国民となることです。これは二人の子どもたちが主の祝福に満たされているということです。
 そして第二に、主は弟が主の契約の民となることを約束されます。長子の特権の本質は、主なる神の祝福をアブラハムからイサクが受け継いだメシアにつながる主の祝福です。このときイサクとリベカは、この主の御声を心に留め、二人の息子たちを育てていくことが求められました。しかし現実にはそれができませんでした。これが人間の弱さです。エサウは、空腹の故に、長子の権利を軽んじて弟ヤコブに譲ってしまいます。エサウには、父の財産・主がお与えくださる祝福の重要性を理解せず、今の飲み食いの方が大切だったのです。イサクの死に際して、長子の権利を得ようとしても、手遅れでした(27章)。長子の権利は、イサクからヤコブに引き継がれていくこととなります。
 知らない、知ろうとしないことは罪です。今、統一協会のことが騒がれていますが、「知らずに関わりを持つ」ことも罪です。犯罪に加担していることと同じです。

Ⅲ.長子の権利と神の祝福
 しかし、私たちがここで誤解してはならないことは、長子の権利を引き継がない人々、アブラハムの子らであるケトラによる息子たち、イシュマエルと息子たちは、エサウと共に、即、怒りの子、神の救いから漏れるということではありません。主はイシュマエルを祝福し、12名の息子たちを与え、それぞれが部族の長となっていきます。つまり、主はアブラハムのすべての息子たち、そしてヤコブとエサウも祝福し、神の民としての恵みと祝福に満たしてくださいました。そしてその祝福は、主に従い続けることにおいて、主の救いの契約に入れられていました。つまり、ここで語る長子の特権とは、神が約束の救い主(メシア)としてお生まれになられるキリストに連なる約束が成就されるために必要なことでした。ですからそこから外れること=滅びの子とされるのではありません。彼らは主から離れ、主の御声に聞き従わなくなるが故に、滅ぼされる者となっていくのです。
 しかし今、私たちは、長子の権利にとらわれる必要はまったくありません。長子の権利が受け継がれることが求められたのは、メシアであるキリストの約束が成就するために求められたものです。キリストは、2000年前にこの世に与えられ、十字架による私たちの罪の贖いの御業は成し遂げられました。私たちに求められていることは、主なる神を信じることにより、罪の赦しと救いが与えられ、神の子としての永遠の生命が与えられることを受け入れ、救いの喜びに生きることです。私たちが主なる神を信じ洗礼を授かることにより、主は私たちを恵みの契約に入れてくださり、この救いの約束は、神の国が完成するまで、破棄されることはありません。主を信じ、感謝と喜びをもって歩み続けよう。
        
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  争いと契約」  創世記26章1~35節    2022.8.28
 
序.
 創世記26章は、イサクとペリシテの王アビメレクとの関係が語られています。20・21章でアブラハムとアビメレクとの関係が語られていましたが、比較しつつ読むこととします。

Ⅰ.繰り返される罪・破棄される契約
 アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」(20:2)と語り、その理由を述べています(20:11-13)。そしてイサクも同じことを行います(26:7)。これは親子だからというよりも、ここにある人間の本質が語られていることを、私たちは理解しなければなりません。
 もう一つが井戸の争いについてです。アブラハムとアビメレクはベエル・シェバに掘った井戸について契約を結び誓いを交わしました(21:27-31)。しかし時代が下り、ペリシテ人はその井戸をことごとくふさぎ、土で埋めました(26:15)。アブラハムの時代からイサクの時代と一世代の後のことです。しかし、契約は、時代を経て状況が変わっても、双方が状況を理解した上で契約を変更しなければ、前の契約が有効であり、片方が勝手に契約を変更することは許されません。しかし人間相互の約束・契約は、このように時間の経過と共に、破棄されたり、契約内容が一方的に変更されたりすることが起こります。

Ⅱ.自己保身に生きる人
 その上で改めて26章で語られている井戸をめぐる争いについて確認します。ペリシテ人アビメレクは、アブラハムの時代に掘られた井戸をことごとくふさぎ土で埋めました(15)。イサクが強くなり恐怖を覚えたからです(16)。そのためイサクは、別の場所に井戸を求めなければならなくなります。そうしたことが繰り返され、イサクが遂にレホボトにおいて井戸を掘り当て、主なる神の恵みに満たされます。するとアビメレクはイサクと和解し、誓約を交わし、契約を結ぼうとします(27-29)。
 これはアビメレクが自分の保身のために行動をしている結果です。主なる神を知ることがなく、自分たちの力で生きようとするとき、自分たちの方が明らかに力が上であることが分かると、力において支配しようとしますが、相手に力があり均等であると分かれば、相手と距離を保とうといたします。しかし、イサクの側には主なる神が共におられ、相手が格段に力があることが分かれば、反抗をすることなく、誓約を交わし、自分たちに危害が与えられないことを誓わせ、自らの保身を守ろうとします。
 そしてもう一つ、最後の34,35節にエサウが2人の妻を迎えたことが語られています。一人の妻ではなく二人の妻を迎えたこと、そしてヘト人という異邦人の妻を迎えたことによる偶像崇拝の問題があったため、イサクとリベカにとっては悩みの種となります。
 私たちは聖書の御言葉に聞き、さらに私たちの生きている世界における歴史から学ばなければなりません。歴史は繰り返すことが語られますが、それは人間の持っている罪の表れです。つまり歴史とは覚えるものではなく、そこで働いた人間の業、つまり罪の姿をつぶさに覚えることです。歴史が美化されたり、肯定されたりしてはなりません。その結果、人間は罪を繰り返します。

Ⅲ.神による恵みの契約
 では、主なる神はイサクに対してどのような対応を行われているのでしょうか。主はイサクにアブラハムへの祝福を再確認し、それを継続することを確認します(2-5)。そしてその表れとして多くの収穫が与えられます(12-14)。そして励まし、いつも共に歩んでくださいます(23-24)。
 主がアブラハムに結んでくださった契約は、主の御計画に基づき、永遠に変わることのない恵みの契約です(参照:ウェストミンスター信仰告白7:3)。人は堕落して罪人となりましたが、主なる神の人への愛は変わらず、命と救いの無償の契約を結んでくださいました。アブラハムに与えられた祝福は、イサクに引き継がれます。この恵みの契約の中に、私たちキリスト者も入れられています。
 人は罪を持ち、自己保身に生きます。そのため、契約を結んだとしても、都合がわるくなったり、時間を経ることにより勝手に変更されたり破棄されたりすることがあります。しかし主なる神が結んでくださる恵みの契約は、主の永遠の御計画によって定められ、永遠に破棄されることはありません。このことを私たちは主の晩餐の礼典により確認します。私たちの罪の贖いは、キリストの十字架によって完成しています。私たちはすでに神の民として、神の刻印が額に記されています。そのため救いから漏れ、裁かれるという恐怖に生きることはありません。安心して、信仰生活を歩み続けていきましょう。
         
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  人間的な計略と神の御計画」  創世記27章1~29節    2022.9.18
 
序.
 今日の御言葉では、イサクからの長子の特権としての神の祝福が兄エサウではなく、弟ヤコブに移る様子が記されています。ここには、父イサク、母リベカ、兄エサウ、弟ヤコブの4人家族のそれぞれの野望が語られており、人間社会そのものの姿が描かれています。

Ⅰ.私たち自身の姿を知れ!
 神の祝福の継承のことですが、ここでは非常に人間的な、財産相続の問題となっています。主なる神によって召され、救いが約束された家族ですが、なおも一人ひとりは罪を持った人間であることが明らかになります。
 リベカがイサクを騙すのですが、その手口は声を変えたり、子やぎの毛皮で腕を毛深くしたり、子供じみたものです。「だから聖書は信じるに値しない」と考えてはなりません。私たちは新聞の三面記事を読む時、こんなことがあるのかと面白可笑しく読んでしまいますが、それが罪の姿であり、ここで記されている御言葉も「嘘だ」と片付けるわけにはいきません。こうした手口は、人間の欲望・罪の象徴的な行動です。こうした罪の中に、なおも主なる神は恵みをもって働いてくださることを御言葉より聞かなければなりません。

Ⅱ.聖書の語る私たちの姿
 聖書は「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた」(1)と記します。イサクが死を遂げるまでにはまだかなり時間が残されています(35:28)。そのためイサクがエサウに祝福を与えようとしたのは、自分の意識がはっきりしている内に行おうという意志がの表れであり、イサクが兄エサウに対する思い入れがいかに強かったかを物語っています。そして主なる神がリベカに対して、「兄が弟に仕えるようになる」(25:23)と語られたことを知りつつ、軽く考えていたことを意味しています。
 一方、イサクがエサウに祝福を与えようとしていることを盗み聞きして、祝福をヤコブにもたらそうとしたリベカの罪も大きいでしょう。リベカは主から約束の言葉を聴いていました(25:23)。しかしここでのリベカの姿は、神を畏れ、神の言葉に聞き従っての行動ではありません。弟ヤコブに対して溺愛しています。信仰的に神の言葉に聞き従い、神の言葉が真実にもたらされるように求めるならば、祈りを持ちつつ、イサクとの間で話し合いが行われたでしょうが、そうしたことは行われませんでした。
 そしてヤコブは、当初は母リベカの誘いに対して後ろめたさを感じていました(11-12)。しかし次第に積極的になり、イサクから祝福を勝ち取ろうと行動しています(14節以降)。ヤコブは、すでに兄エサウから長子の権利を奪いました(25:27~34)。また主がリベカに約束してくださった言葉(25:23)から、父に自らが祝福に与るに相応しいことを主張することができたはずです。しかしヤコブは、兄の祝福を奪い取り、人をあざむきました。主の約束が語られ、祝福の権利を持っていたヤコブですが、ヤコブは信仰とはかけ離れた行うをし、その結果ヤコブは数多くの試練をも担う結果となります(47:9)。

Ⅲ.主の恵みに生きよ!
 ここに関わる人々は、主の約束から離れ、自らの欲望と欲するままの行為が行われ、罪が繰り返されて行きました。まさにヤコブに与えられた主の祝福は、主の一方的な恵みと祝福、導きにより、主の約束が成就し、信仰の継承がなされたことを聖書は語ります。
 カルヴァンは、キリスト教綱要の中、第3篇第2章「信仰について」において、イサクとリベカの罪を語った上で、次の様に述べています。「人間の欠陥と弱点とは、信仰を曇らせはするが、しかし、信仰を滅ぼすことはない。むしろ、これらの例は、我々がどんなに注意深く神の御言葉に依り頼まなければならないかを警告するものである。そして、同時に、これらの例は、先に我々の教えたことを確証する。いわく、「信仰は御言葉によって支えられないならば消え失せる」と。そのように、イサク、リベカの心は、神の隠された手綱によって御言葉への従順につなぎ止められたのでなければ、自らの曲がりくねりのうちに消え去ってしまったであろう。」
 主がご計画され、約束され、主を信じるように導かれた私たちは、必ず神の国に導かれます。しかし私たち人間は、なおも罪を持ち、主から離れ、自らの欲望の赴くままに生活します。そして主は、毎日犯される私たちの罪をご存じです。それでもなおキリストの十字架によって私たちの罪を贖ってくださり、救いに導いてくださっています。この事実を私たちは忘れてはなりません。そして、一時的に主なる神から離れることがあったとしても、主は戻ってくることを喜んでくださいます。
          
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 ヤコブを憎むエサウ」  創世記27章30~46節    2022.10.30
 
 Ⅰ.イサクの悔い改め
 イサクはヤコブを祝福しました。その後すぐに兄エサウが刈りから帰ってきて、おいしい料理を作り、父に持って行きます(30,31)。父イサクが、「お前は誰なのか」と聞くと、「わたしです。あなたの息子、長男のエサウです」と答えます(32-33)。イサクは、一瞬何が起こったか分かりません。すでに祝福を渡したはずのエサウが目の前に表れたからです。イサクは動揺・驚きを隠すことができません。しかしイサクは事態を理解し、エサウにではなくヤコブに祝福したことに気がつき、自らがした重大な過ちを自覚します。主なる神は、エサウとヤコブが生まれるときに、リベカに対して、兄が弟に仕えるようになることを語られていました(創世記25:23)。ヤコブはこの事実を知りながら、自らが神から離れ、神に逆らっていました。そのため主の御業が成し遂げられたことを、ヤコブは受け入れます。
 主は主の御計画に反することを行った者に対して、その過ちを気付かせ、悔い改め、主のご計画こそが祝福であることを、愛をもって示されています。そのためイサクは、騙したヤコブに対する憤りの言葉は出てきません。そしてエサウに、神の御業の通り、弟ヤコブに仕えるようになることを伝えます。これはヤコブが神の御業に従う意思の表れです。

Ⅱ.エサウの行く末
 一方エサウは、弟ヤコブの行った行為に対して、憤りが収まりがつきません(34,36)。そしてイサクに祝福を懇願します。周囲から見れば、負け犬の遠吠えの如くです。
 確かにエサウは、ヤコブに長子の権利を取られ、父からの祝福も奪い取られました。しかし、それで人生が終わったのでしょうか? 生身の人間ですから憤りを感じるでしょう。しかし、「罪深い怒り、憎悪、ねたみ、復讐心、あらゆる過度の激情」は、第六戒違反「殺す」ことと同じです(ウェストミンスター大教理問157)。主なる神は、キリストが私たちの罪を覚えつつも赦し十字架の道を歩んでくださったように、私たちが憤りの思いを持ちつつも、なおも罪を赦し、和解することを求めておられます。
 このときエサウは肝心なものを見失っています。神の存在と主の愛です。祝福はアブラハム・イサク・ヤコブに引き継がれます。しかし主がお与えくださる恵みは、アブラハムに繋がる全ての民に引き継がれます。この恵みを受け取ることこそ永遠の生命に繋がります。そのしるしが割礼です。祝福がなくても、神の民であることに代わりはありません。
 しかしエサウは、主の存在自体を忘れていたため、本当に必要な信仰も失っていました。エサウは自らの行った罪も忘れていました(25:27-34)。エサウは、今、目先のことだけしか考えず、神による救い・平安に目を配ることができません。私たちも、今の時・目の前の事のみに目を奪われていてはいけません。私たちは視野を広くし、社会全体に目を向けなければなりません。主が創造された時から今にいたる人間の罪の歴史に目を向けなければなりません。その上で、神による恵みを確認しなければなりません。
 エサウの子孫、つまりエドムはヤコブとその子孫イスラエルに対して敵対して剣を持つ者として歩んでいきます(39-40)。憤りを持ち、憎む思いが消えないからこそ、和解して平安と祝福に満たされた歩みを行うことなく、剣を持ち、常に戦い続けます。

Ⅲ.生きろ!
 主はこの39節はエドムの行く末について語っていますが、同時に「生きよ」というメッセージです。「お前は剣に頼って生きていく」ことは、今後の歩みが困難であることを物語っています。それでもなお主は、エサウに対して生きること、つまり主の救いに与り、永遠の生命の内にあることを望んでおられます。そのためには悔い改めが求められます。
 「生きよ」とのメッセージは、母リベカも持っています。「一日のうちにお前たち二人を失うことなど、どうしてできましょう。」(45)「否、できない」と語ります。エサウがヤコブを殺せば、ヤコブは失いますが、同時に人を殺したエサウも捕らえられ、死を免れることはできません。リベカはヤコブだけではなく、エサウも息子として愛しています。
 つまりエサウは主に逆らい、自らの欲望のうちに生きて行きます。しかし主は、エサウがなおもヤコブに仕えることにおいて神の内に留まり、生き続け、救いに入れられることを望んでおられます。生き続け、自らの罪を知り、悔い改め、主の愛・救いが示される時を待っていてくださいます。主はこの私たちの罪を赦すがためにキリストをお与えになり、キリストは十字架に架かられました。私たちも、今の自らの欲望を満たすことではなく、永遠の希望と恵みを求めて歩み続けることが求められています。
           
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 ヤコブとエサウ」  創世記28章1~9節    2022.11.27
 
Ⅰ.主がお与えくださる祝福
 前回は、イサクによって主の祝福を受けたヤコブと、祝福を受けることができなかったエサウについて学んできてました。そしてこの28章では、祝福を受けて歩む者とそうでない者の歩む道・行動の違いがはっきりとでてきます。そうした中、主がお与えくださる祝福に生きるとはどういうことかを、創世記の流れを確認しつつ考えて行きたいと思います。
 主なる神は、天地万物を創造され、最後に神にかたどり、神のかたちに人を創造されたとき、主なる神は人を祝福されました(創世記1:27-28)。このとき人は、主の祝福を受け、主の恵みの中に生きる者とされました。
 しかし人は罪を犯し、主の祝福を手放し、肉の死、滅びに向かって歩む者となりました。
 それでもなお、主なる神は人を愛し、ノアの時代に洪水を引き起こした後、ノアの家族に祝福をお与えくださいました(9:1)。さらにアブラハムを選び、祝福をお与えくださり、その神の祝福をイスラエルに引き継がせてくださいました(創世記12:1-3、参照:同22:17-18)。
 主からの祝福を受け主の恵みに生きる者は、主からの祝福が与えられたとき、それを受け入れ、主の御言葉に聞き従う者とされます。だからこそ新約聖書においても、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と語られています。

Ⅱ.主の召しを受ける者・拒否する者
 ではヤコブとエサウはどうであったでしょうか? ヤコブとエサウについて最初に語られたのが、長子の特権に関するやりとりです(25:27-34)。長子の特権は祝福とは同一ではありませんが、主なる神から与えられ、約束のメシアにつながる特権です。これを受け継ぐことは、信仰上非常に大切なことですが、エサウはこれを疎かに扱い、手放しました。
 そしてイサクから与えられる祝福に関しては、エサウも父イサクから祝福を受けるために行動を起こします(27章)。しかし母リベカに謀られ、エサウは騙された形となります。エサウは可哀想に思われます。神の御業を理解することができない部分もあります。
 しかし今日の御言葉により、主の祝福に生きる者と、そうでない者との大きな違いが明らかになります。ヤコブは長子の権利の大切さを知っており、兄エサウから奪いました。また父イサクからの祝福の大切さも知っており、兄エサウを騙す形となりますが手に入れました。このヤコブは、主によって与えられた祝福が子孫に受け継がれるために、何が求められているのかをイサクから聞き、信じて旅立ちます。「信じなさい」と語られたとき、何が大切であり、何を信じなければならないか、何に従って行動すれば良いのかを理解し、行動することが求められます。ヤコブはそれを知っており、主を信じて行動しました。
 一方、エサウはどうでしたでしょうか? エサウは父イサクの気に入らないことを知って行動します(8)。エサウは、今、目の前に示されたことに反応して行動しています。彼にとって、神の民・信じるために何が大切であり、何を信じなければならないかという判断基準はなく、今のとき直感的に行動しています。祝福を受けることができない・嫌われるから行動するのでは、真の信仰は生じません。新興宗教において、恐怖を煽って、入信させることと同じことです。
 もちろんキリスト教においても、滅びを語らないわけにはいきません。そのため、主なる神からの祝福が示されているにも関わらず、それを拒否すること、救いが示されているにも関わらず無視することは、結果として救いから漏れることとなります。しかし、恐怖を煽り、強制的に信仰を求めさせるのではありません。脅しによって信仰を持ったとしても、そこには真の信仰はありません。

Ⅲ.祝福を受ける者
 私たちは、神から祝福が提示され、イエス・キリストの十字架による救いが提示されることにより、心が動かされ、感謝と喜びをもって、主を信じること、主の御言葉に生きるものへと、聖霊によって変えられます。そのため主からの召しを受け取る者は、自らの罪を悔い改め、信仰を告白する者へと導かれます。
 そしてヤコブがイサクから祝福を受けたように、教会において洗礼を授かるように導かれます。個人的には主を受け入れ、信じていても、家族や環境が伴わない方もおられるかと思います。しかし生きて働く主なる神は、そうした障害をも取り去ってくださり、信仰を告白し、洗礼を授かるときをお与えくださいます。そして洗礼と主の晩餐の二つの聖礼典により、神の民として、永遠の生命の喜びに満たされ、信仰が増し加えられていきます。
 ウェストミンスター信仰告白は第27章「聖礼典について」第1節において、恵みの契約の清いしるし(サイン)、また証印(シール)であると告白します。神さまが私たちを救いへとお招きくださるばかりか、救いの契約書に神さまがサインし、割印を押してくださいます。そうであれば、何を恐れることがありましょうか? 主の恵みに生きる者は、救いの感謝と喜びをもって主を礼拝し、救いの喜びが聖徒の交わりに生きる者とされます。
            
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 ヤコブの夢」  創世記28章10~22節    2023.1.22
 
Ⅰ.ヤコブに近づいて来てくださる主なる神
 ヤコブはこのとき、長子としての権威が与えられ、さらに主なる神がアブラハムに与え、イサクに受け継がれてきていた祝福を手に入れていました。本当であれば、主なる神が共にいてくださることを受け入れ、信じていれば、恐れることはありません。 しかし実際には、ヤコブは、兄から祝福を奪い取った後ろめたさ、さらに命が狙われるという不安、さらに逃げることとなることで訪れる孤独で、押しつぶされそうになっています。ここには主の祝福が与えられたこと、主が共にいてくださる確信がまったくありません。
 そうした中、ヤコブは夢を見ました。聖書において記された夢は、主の御言葉・啓示として、主の御意思を確認するために、非常に大きな意味を持っています。このとき、主なる神が階段をもって近づいてきてくださいます。私たちの思いとしては、下から上へ・天へと続く階段と思ってしまいますが、バベルの塔のように人間が下から積み上げたものではありません。主なる神が、天から地に向かって伸ばしてくださったのです。一つの光景を見るにしても、下から上と見るか、上から下に伸びているのかと理解が違えば、解釈がまったく異なってしまいます。主から与えられた律法としての十戒の捉え方においても、同様のことが言えます。主は律法を守ったイスラエルに救いをお与えくださったのではなく、主がイスラエルをエジプトから解放し救ってくださった上で、律法をお与えくださり、神の民として律法を守るように求めておられます。順番が逆になると律法主義となります。
 私たちはキリスト者になることにより、教会に来る・聖書を読む・神を信じる、つまり私たち自身が行動しなければならないと思ってしまいます。しかし、救いは主なる神から与えられるものであることを聖書は私たちに語りかけます。主なる神が、私たちに救いの召命をお与えくださいます(ウェストミンスター信仰告白10:1,2)。「人間は完全に受動的であり、聖霊によって生き返らされ、新たにされて初めて、それにより、この召命に応え、そのうちに提供され、与えられている恵みを受け止めることができるようにされる」。つまり、ヤコブは負い目があるにも関わらず、母リベカに弟ヤコブが兄より強くなることを示される前から神の御計画にあり、神による救い・神によりアブラハムに与えられた祝福を受け取る恵みにあることを、ヤコブの夢に現れることにより、お示しくださいました。

Ⅱ.常に共に居てくださる主なる神
 主は「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である」(13a)とお語りくださいます。アブラハムに祝福をお与えくださった神は、イサクと共にあり、そして今もヤコブと共に居てくださいます。そして星の数のように子孫を祝福するとアブラハムに約束された祝福を(15:5)、ヤコブを通して与えることもお約束してくださいます(13b-14)。
 主はヤコブがどこに行っても、共に居てくださいます(15)。私たちは主なる神を直接目に見ることができません。一緒にいてくださることに気が付きません。しかし主は、無限・永遠・不変の霊であられます(ウェストミンスター小教理問4)。私たちが、誘惑に惑わされ、救いから離れることがないように、見守り、導いてくださっています。そしてヤコブへの約束は、出エジプトを果たし、カナンに帰還したイスラエルにより実現します。

Ⅲ.主にすべてを委ね、感謝する生活
 主がいつも共にいてくださり、恵みをお与えくださるからこそ、感謝し、主に栄光を称えることができます(Ⅰコリント10:31)。これからも、いつでも主なる神が共にいてくださる約束があるからこそ、主に委ねて歩むことができることをヤコブは告白します。
 そしてヤコブは最後に1/10を献げることの請願を行います。主による救い、恵みの生活に対する感謝の応答が献げ物・献金となります。献金は感謝の応答です。満たされたものから献げるわけであり、生活がきつくなるのは当たり前です。だからこそ、主に委ね、必要を満たしてくださるようにとの主への祈りが求められます。
 献金を多く献げたからといって、より立派な救いに与るものではありません(参照:ルカ21:1-4)。たとえ収入の9/10を献げたとしても、生活に余裕があるならば、決して多いわけでもありません。大切なことは、主の恵みに感謝をもって行うこと、これからの生活も主に委ねて生活することを誓いつつ、献げることです。献金の額が少ないから、信仰が少ないとされることはありません。主が常に共に居てくださること、すべての恵みを備えてくださることを信じ・委ねること、神の恵みに対する感謝の応答として礼拝を守り、奉仕を行い、献金を献げることが大切です。
 
             
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 ヤコブの結婚」  創世記29章1~30節    2023.2.26 
 
Ⅰ.ラバンの所に向かうヤコブ
 エサウによって追われたヤコブがラバンの家に到着いたします。この場面は、24章でアブラハムがイサクの結婚相手を見つけるために僕をラバンの家に遣わした場面と、比較することができます。しかし両方の違いは一目瞭然です。アブラハムの僕がラバンの所に来た時は、高価な贈り物を多く携えていました(24:10)。一方ヤコブはエサウから逃れて来て、着の身着のままです。そのため贈り物などはなくただ身一つです。またアブラハムの僕は、町外れの井戸の傍らにおいて主に祈り求めた上で、ラバンの家に向かいました(24:11-14)。ヤコブはハランに来る途上、ベテルで主が現れてくださり、約束の祝福を受けていました(28:10~21)。それにも関わらず、ヤコブは主に委ねることもせず、ラバンの所に来ました。
 また、ラバンの所の井戸に到着した時の態度も違います。アブラハムの僕は、丁重に語りかけ、ラバンや家族たち、地域の人々を気遣いました。しかしヤコブは初対面の人たちに対して指示を出します(7)。ここには気遣いや配慮が感じられません。

Ⅱ.不信仰とヤコブが背負う苦労
 その後、ヤコブはラケル・伯父ラバンと出会います。ここでヤコブはラケルを愛します。人間的な魅力を覚えたのです。結婚相手を求めようとする時、ある程度、外見や相性が求められます。しかし同時に、主がお与えくださる伴侶であるか主に祈り求めつつ、主からの答えに聞き従うことが求められます。しかしヤコブはそうした祈りもなく、ただ人間的に判断し、行動しました。
 一方ラバンは、ヤコブが来たことに良い印象がありません。アブラハムの僕は高価で多くの贈り物を携えてきていました(24章)。しかしヤコブは体一つで来ております。そのため身内ではなく、一人の雇い人として扱います。そのため働きの報酬を出すことを約束したのです。そしてヤコブがリベカと結婚するために7年間、労働者として働くことを願い出たことを受け入れます。7年間は、使う側としてもとても好条件であったでしょう。
 しかしラバンは、婚礼の夜、ラケルではなく姉レアをヤコブのもとに送ります。「姉から結婚させなければならない」というメンツを保とうとする思いと同時に、さらにヤコブを労働者として働かせる魂胆があります。ヤコブが信仰抜きにラバンの家に転がり込んできたのと同様に、ラバンもアブラハムに繋がる者でありながらも、主に対する信仰はなく、人間的な欲望をむき出しに生活をしていました。これは、信仰が世俗化した現実です。
 ヤコブはやむを得ずラバンの要求を受け入れます。ヤコブは今までの自らの罪の刑罰が支払われるかの如くに、ラバンに対して14年、否20年以上仕えることとなります。

Ⅲ.不信仰と苦労、そして主の導き
 こうしてヤコブは二人の姉妹と結婚することとなります。旧約聖書ではメレク(創世記4:19)のように一夫多妻が記されています。しかしこれらは罪の結果であり、本来神が求められていた結婚から、かけ離れています(参照:ウェストミンスター信仰告白24:1)。レビ記18:18が求める律法にも違反しています。ヤコブは、自らの思いを通すが故に、罪を繰り返します。
 この結果、家庭の中でも互いの感情が複雑に入り組んでいきます。姉レアは、妹ラケルに嫉妬心を持ち、二人の姉妹の間柄も正常に保つことはできません。こうしたことが、姉妹同士が意地を張り合い、子供を産み合い、結果としてヤコブは12人の息子たちが生まれてくることとなります。主がアブラハムに約束されたような繁栄を、ヤコブの子供たちを通して実現していくこととなります。主イエスの十字架と同様、主なる神は、人の罪が原因であったとしても、その中から主の御業、主の御計画を実現させることもなさいます。
 ヤコブはこれからしばらく伯父ラバンに仕えなければなりません。兄エサウからも逃げたままです。さらに妻たちの間の不和、子供たち同士の不和、最愛の息子ヨセフが売られていくこと等、一生涯を通して苦労が絶えません。因果応報に見えます。しかし主はヤコブをイスラエルとして祝福し、約束の地カナンに帰ることも許されます(28章)。主は不信仰者を懲らしめ、罪の悔い改めと主に立ち帰ることを求められます。しかし同時に、主が召し出す神の子を、神の祝福に入れてくださり、主の御計画を成就してくださいます。
 私たちも、主によって召されております。ヤコブのように信仰がなくても、主が導いてくださると開き直るのではなく、信仰が継承され世俗化されている現在だからこそ、今も主が共にいてくださり、見守り、導いてくださっている。そして約束をお与えくださる。その確信に満たされ、主の御言葉に聞き従った歩みをしていきたいものです。

 
             
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ヤコブの息子たち」  創世記29章31節~30章24節    2023.3.26 
 
 序.
 ヤコブの不信仰により、ヤコブと兄エサウとの対立、ヤコブと伯父ラバンとの対立が生じ、そしてヤコブがラバンの娘ラケルとレアと結婚したことにより、この姉妹同士・ラケルとレアの対立へと発展していきます。

Ⅰ.すべてを御覧になっている主
 根本的な問題はヤコブがラケルとレアの二人と結婚したことですが、姉妹の間で不和が生じてきます。ヤコブは妹ラケルを愛し、姉レアは疎んじられていたからです(31)。問題は人間の側に原因があり、罪が生じてきます。しかしそれを御覧になり、主体的に働かれるのは主の御業です。主はすべてをご存じであり、人の弱さ・苦しみ・悲しみを知っておられ、主御自身が主体的に御業を成し遂げ、物事を解決するよう働いてくださいます。
 レアは①ルベン・②シメオン・③レビ・④ユダと4人の子供たちを授かります。主からの祝福がレアに与えられました。レアの最初の4人の息子たちの名は主からの祝福を勝ち取ったことを伺わせます。主からの祝福は常にレアにあり、レアは喜びを感じていました。

Ⅱ.世俗的な信仰
 一方ヤコブに愛され、祝福に満ちていたはずのラケルは子供ができませんでした(29:31)。ラケルの悲しみと憤りは、姉レアと夫であるヤコブに向かいます。「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」(30:1)。ここに神の入る余地はありません。このことは著しく世俗化しており、主を中心とする生活が全くなされていなかったことを意味しています。ここでラケルとヤコブの信仰が問われます。
 それでもヤコブは神を信じており、ラケルの訴えに「お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ」と答えます。この答えは、主の臨在と主の摂理を語る上では正しく、否定できない答えです。しかしこれはヤコブの逃げの答えであり、神への責任転嫁です。主がラケルの胎を閉ざされるにはそれだけの原因があり、主の御意志があるからですが、それをヤコブは主に問いかけることはしません。本来ならばラケルと結婚することにより、ラケルとの間に子供が生まれ、祝福を得るであろうと期待したが、そのようにはならないヤコブ自身の焦りが、この言葉の中に秘められていると言って良いかと思います。
 それに対してラケルも主に祈り求めることはいたしません。このときラケルは、召し使いであるビルハをヨセフに与えます。こうしてラケルはビルハを通して⑤ダンと⑥ナフタリを得ます。ダンとは「わたしの訴えを神は正しくお裁きになる」ことを意味します。これは、十戒の第三戒違反であり、世俗化された信仰を特徴づけるものとなっています。
 するとその後、レアも召し使いジルパをヤコブに与え、⑦ガド、⑧アシェルを得ます。

Ⅲ.不信仰と主の御業
 しかしラケルはなおも自らに子供が与えられることをあきらめません。道具を用います。ルベンがレアの所に持ってきた恋なすびを譲り受けようします。恋なすびは、性欲増進・妊娠促進の薬効があると信じられていました。それも、あえて恋敵であるレアに頼み込みます。このときレアは、交換条件としてヤコブと一晩床を共にすることを求めます。この時主は、レアに子供を授けます。⑨イサカル、⑩ゼブルン、◇ディナ。不信仰な中でも、レアの苦しい立場を主は理解し、レアの願いを聞き入れてくださいました。
 一方主はラケルの苦しみもご存じラケルを顧みてくださいます。そして、ラケルは主の御業として胎がが開かれます(30:22-24)⑪ヨセフ。

Ⅳ.イスラエルの祝福
 ヤコブ・ラケル・レアは、主の名を語り、主の存在を知っていますが、いずれも不信仰者でした。しかし主は彼らをつぶさに御覧になられ、主の御業を成し遂げてくださいます。そして主はラケルのもう一人の息子ベニヤミンを加えて12人を祝福し、アブラハムへの約束を成就し、多くの子孫が与えられる祝福が与えられます。主の御業は、不信仰者であっても、主の働きのために用いられます(参照:ウェストミンスター信仰告白5:5)。私たちには計り知ることのできないことですが、主は人間の罪の中にも働き、主の御業を成就されます。
 今、礼拝を献げている私たちも、霊的にイスラエルの民とされ、主の祝福に満たされています。不信仰な者であっても、主は救いに導き、主の祝福に満たしてくださいます。主の一方的な恵みの業を私たちは受け入れることが求められています。主は、この私たちの一つひとつの罪を償い、私たちに救いをもたらしてくださるために、十字架の苦しみと死を担ってくださいました。この重荷を忘れてはなりません。そしてここに集う私たち一人ひとりも、この霊的イスラエルとして、神の国の民とされています。
     
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ラバンとヤコブ1」  創世記30章25~43節    2023.4.30 
 
Ⅰ.ヤコブとラバン
 ヤコブにヨセフが生まれた頃、ヤコブはラバンの所に来て14年の年月を経ていました(レアのために7年、ラケルのために7年)。しかしヤコブは、もうラバンの所に留まる理由はありません。そのためヤコブは、ラバンに対して生まれ故郷に帰らせて欲しいと願い出ます(25)。
 しかしラバンは、ヤコブが来てから多くの祝福があり、家畜も財産も大きく増えたため、ヤコブに留まって欲しいのです(27)。
 するとヤコブはラバンに言い返します (29-30)。ここで重要な言葉は、「わたしが来てからは、主があなたを祝福しておられます」と主に信仰を言い表す言葉です。主への感謝の言葉は、ヤコブが真の神によって本当に召され、守られてきていることを実感している言葉として語られています。
 30節は、ウェストミンスター小教理問74「第八戒(盗んではならない)は、わたしたち自身と他の人々の、富と財を合法的に獲得し、増進させることを求めています」において証拠聖句とされています。ヤコブはラバンに仕えてきました。その結果、主の守りと祝福が与えられました。このことがヤコブがラバンの益のために働く隣人愛の表れとして提示されています。

Ⅱ.ヤコブの信仰
 そのため、ラバンが「何をお前に支払えばよいのか」との問いかけに対して、ヤコブは「何もくださるには及びません」(31)と語りつつ、「ぶちとまだらの羊をすべてと羊の中で黒みがかったものをすべて、それからまだらとぶちの山羊を取り出しておきますから、それをわたしの報酬にしてください」と応えます(32)。
 これは何を意味しているのか。この地方では、羊は白、山羊は黒が普通で、ヤコブが語るぶちとまだらの羊、黒みがかったもの、まだらとぶちの山羊は、少ないのです。ですからラバンにとっては非常に有利な条件が提示されたのです。従って、この要求にラバンは乗ります。自分の家畜の損失も少ないし、ヤコブの分け前が少なければ、ヤコブがここから出て行くことはないであろうとの思いもあったからです。
 それだけではなく、ラバンはヤコブが要求した、「縞やまだらの雄山羊とぶちやまだらの雌山羊全部、つまり白いところが混じっているもの全部とそれに黒みがかった羊をみな取り出して自分の息子たちの手に渡し、ヤコブがラバンの残りの群れを飼っている間に、自分とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離をお」き(35-36)、事実上、ヤコブに対しては何も与えない本心が、この行動によって示されています。
 ではなぜヤコブは、この様な不利な条件を出したのでしょうか。ヤコブには技術があり、ある程度その通りになることは考えられたことでしょう。しかしそれ以上に、ヤコブがラバンの家に入ってから、大きな祝福を得て、家畜が増えていったことに対する、主なる神の介在を知り、要求したことが実現する確信が与えられていました。そしてヤコブはこの確信に満ちた約束を語ったのです。つまりヤコブは、主を否定するような行動を繰り返してきていましたが、次第に主への信仰が養われ、主の守りと導き・主の加護を信じていたのです。

Ⅲ.主による信仰の養い
 ヤコブは、父イサクを裏切り、兄エサウの祝福を奪って恨みを買い、家を飛び出してから、このラバンの所に身を寄せてすでに14年以上の月日が経ちました。この14年間に12人の息子たちに恵まれ、多くの財産をラバンにもたらしてきました。ここに主の働きを受け入れ、自らの罪を悔い改めつつ、主に従っていこうとする積極的な歩み、真の信仰が芽生えていたのです。
 そのために31~33節の約束も、主の守りがあり、確信に基づいて語りました。それを裏付ける技術もヤコブは備えられ、主から与えられた賜物を積極的に用いて、自ら語った約束が成就するように、主に仕え、ラバンに仕えました。
 ここでのヤコブの信仰は、まだ自己中心的なところも残り、今後も信仰にぶれが生じますが、それでもなお主はヤコブを悔い改めに導き、主に仕える者へと聖化してくださっていることを、聖書は語ります。
 やがてヤコブは、主と格闘してイスラエルの名が与えられます(32:23-33)。一人の人の信仰が成長し、確立するまでには時間がかかります。それでもなお、主はたしかにヤコブと共にいてくださいました。
 そして私たちに対しても、主は同じように接していてくださっています。主は、私たちを真の信仰と悔改めに導き、神の民に相応しい者へと導いてくださいます。
     
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 ラバンとヤコブ2」  創世記31章1~54節    2023.5.28 
 
Ⅰ.聖書全体から見るヤコブ物語
 旧約聖書を読み進める時、イエス・キリストとは関係がない物語として読むこともあるかと思います。しかし聖書は、聖書全体において神による救いの契約が語られており、旧約・新約のすべての歴史の中にある位置づけを考えつつ、読みことが求められています。そして私たちは、キリストによる救いに感謝しつつ信仰生活を送りますが、イスラエルの民は、メシアが与えられる約束に生きており、メシアを待望しつつ信仰生活を送っています。
 今日の御言葉は、ヤコブがラバンの所から逃げ出しラバンの追跡を受ける場面です。この後ヤコブは、主からイスラエルという名が与えられ、エサウと和解し、そしてヤコブの物語へと引き継がれていきます。そういう点では、ヤコブ物語全体の折り返し点に位置する記事であると言えます。

Ⅱ.人生の転機
 前回、ヤコブが徐々に信仰に導かれつつも、なお自己の欲望(罪)も残っていることを語りましたが、今日のテキストでは、それがより鮮明になります。
 ヤコブは一つの転機を迎えます。20年来、ラバンに仕えてきましたが、新たな道を歩み始めます。このときヤコブは、主の導きが示されました。二つの要因があります。
 一つはラバンの息子たちがヤコブを批判する様になり、ラバンの態度も以前とは変わり、冷たくなります(1-2)。つまり外的に、ここに留まる必要がないことが示されます。
 それに加えてヤコブに主が現れて、主が語られます。主はヤコブが故郷である先祖の土地に帰るようにお語りになります(3)。つまりヤコブは、外的にも内的にも、ここを去って、故郷に帰ることが示されました。
 私たちが人生で転機を迎えようとする時、どの様に判断すれば良いのか判断に迷います。こうしたとき主なる神は、外的なシグナルと内的な思いの両方を満たしてくださり、進む道を示してくださいます。
 外的なシグナルとは、周囲の人たちの言葉が与えられること、あるいはこれから歩もうと漠然と考えていた道が開かれるといったことが起こることであり、内的な思いとは、日々、御言葉を読み、祈り求める時、主によってその道が開かれる様に促される時が与えられていくのです。
 主が本当に指し示す時であれば、その道は開かれてくるものであり、妻のラケルとレアも、父であるラバンにではなく夫ヤコブの声に従い、同意します。

Ⅲ.ヤコブを守る主
 しかしヤコブには、妻二人、召し使い二人、息子たち12人、それに多くの使いの者・家畜・財産があります。簡単に動くことはできません。充分な準備をもって行動を起こす必要があります。ただラバンとヤコブの間には三日かかる程の距離があったため(30:36)、ラバンはヤコブが逃げたことを知ったのは、三日目のことでした(31:22)。
 しかしヤコブには主の導きがあり、ラバンは、主によって妨げられます(31:24)。ラバンはヤコブに働く主の力を否定することができず、主の言葉に逆らうことによって自らに与えられる刑罰を恐れます。そのためラバンはヤコブ等を連れ戻すことを諦めます。しかし神の像(テラフィム)(19,30,32,34,35)だけは諦めることができません。
 通常長男が家に伝わるテラフィムを受け継ぐものとされ、ラバンにとって家を治めていくのになくてはならないものでした。だからこそ、執念深くヤコブの所有しているすべてを詮索致します。ラケルがなぜテラフィムを盗んだのか、聖書は語りません。しかし主の御前には罪に当たることです。それにも関わらず主はヤコブを守り、故郷に帰ることができる様に働かれます。

Ⅳ.主の御業と私たちの行い
 ヤコブは、ラバンに対して不満を語り続けてきましたが、それはエサウから長子の権利を奪い、父からの祝福を奪ってきた今までの罪に汚れた姿が表れています。
 しかし主は、ヤコブに外的・内的に働かれ、恵みに満たして働いてくださいます。そして主はヤコブはラバンとの間で契約を結び(43節以降)、さらに今後、エサウと和解をする道が開かれていきます。つまり主なる神はヤコブを覚えて聖化し、主の御業が実現する道を備えてくださいます。
 2000年前にキリストをこの世にお送りくださり、十字架により私たちに罪の赦しと救いを成し遂げてくださった主は、今も、私たちと共にいてくださいます。そして主の御業が成し遂げられようとする時、主は私たちに外的・内的に働いてくださり、主の御業が成し遂げられていきます。だからこそ、私たちは常に主の御声に聞き、主の御業を確認することが求められています。
     
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 エサウとの再会に向けて」  創世記32章1~22節    2023.6.18 
 
序.
 人は、他人に対して苦しみを与えてもすぐに忘れます。しかし、他人から受けた苦しみ・痛み忘れることができません。

Ⅰ.ヤコブの思い
 ヤコブは、エサウに再会することを脅えつつも、再会しようとしています。ヤコブは、ラバンの所で20年間仕えてきましたが、その間もエサウのことを忘れることができませんでした。人を苦しめた立場の人間が、これだけ長い間引きずっているのですから、苦しめられたエサウの苦しみがどれ程だったでしょうか。
 ヤコブはそのことを十分承知した上で、エサウの元に帰ろうとします。ヤコブはもう逃げることはしません。主なる神がヤコブと共におられ、ヤコブもそのことを確認しつつ、主への信仰を強めていたからです。

Ⅱ.主と共に
 ヤコブは、エサウの所から脱出してラバンの所に来るときに主が夢の中で語られた約束の言葉を、思い出したのではないでしょうか(創世記28:13~15)。エサウの所に戻らなければ、主の約束は果たされません。つまりエサウとの対立を解決し、和解がなければ、決して主のお語りになる祝福がもたらされないことを、ヤコブは知っています。
 この約束をお与えくださった主が、ラバンの所から脱出する時に現れてくださり言葉をおかけくださいました。「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」(31:3)
 そして今、まさにエサウの所に向かっている最中に、主は再びヤコブの前に現れます(32:2-3)。ヤコブは、非常に力強い言葉を頂いたと感じたのではないでしょうか。
 ヤコブは、今からエサウの所に行きます。共に、多くの雇い人を持つ群れとなっており、エサウがヤコブの命を奪おうとすれば、戦となる可能性があります。そのため、神の陣営が一緒にいる(神の陣営とヤコブの陣営)。この二つの陣営が、エサウに臨むのだから、もう恐れることはありません。

Ⅲ.エサウの策略
 しかしヤコブは、信仰においてはまだ未熟であり、人間的に解決を図ろうとして計画を立て、それを実践しようとします。最初にヤコブはエサウに使いを遣わし、エサウの様子を伺います。帰ってきた使いの報告を受け(7)、エサウが400人ものお供を連れて来るのは、自分の命を狙うために来るとの恐怖を抱きます。つまり主が共にいてくださり、主の約束が成就され、祝福がもたらされることを信じることができず、自分で解決しようとします。
 私たちも、日々の生活に追われ、主の約束・主の言葉を忘れて、自らの力に頼り、問題を解決しようとしないでしょうか。
 そしてヤコブは10節以降、主に祈り求めますが、主の約束は自らの思いどおりに果たされていくのだとの思いがあります。
 もちろん、主は私たちに賜物を与え、それらを用いて賢く決断し、物事を解決していく能力をお与えくださいます。それらを用いないことは、かえって罪です。しかし私たちに求められていることは、先ず計画を立て、それが主の約束として成し遂げられる様に祈り求めるのではなく、先ず主の御前に頭を下げ、主の御言葉に聞きつつ祈り求め、その上で計画を立てることです。行っていることは同じでも、物事を考える順序が逆であり、この順序の違いは、根本的な主への信仰が問われています。
 私たちは、まず主に委ねて主に祈り求めることから始め、主が御計画を成就してくださる信仰をもって、計画を立て・実践していくことが求められています。
 ヤコブはさらに、群れを四つに分けて、前に三つの群れを置き、それぞれエサウへの贈り物を携えさせ、自分と家族は、四番目の群れとして、エサウの所に向かいます。

Ⅳ.信仰義認と聖化の関係
 つまりヤコブは、主への信仰はもっていても、同時に自らの力で問題を解決して、主からの祝福を勝ち取ろうとする人間的な罪の姿が残っています。そして、こうしたヤコブの姿こそ、私たちの姿そのものです。
 私たちは、義認と聖化の関係について確認します(ウェストミンスター大教理問77)。
 神は私たちを神の子として選んでくださり、神を信じる者へと導いてくださいます。そしてあなたの信仰により、あなたを義と認め、神の子として受け入れてくださいます。これは法的な決定で、これが義認です
 一方、クリスチャンになっても、私たちは罪を繰り返します。しかし神は、神の霊により恵みを日々注ぎ入れてくださり、聖い生活を送るように導いてくださいます。これが聖化です。キリスト者は、必ず神の恵みにより、日々、聖化させられ、信仰が養われ続けます。
     
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 神と格闘するヤコブ」  創世記32章23~33節    2023.7.30  
 
序.
 今日の御言葉「ペヌエルの格闘」は、理解が難しいテキストかと思います。

Ⅰ.今の時、見えることに対処する人間
 ヤコブは今まで、兄エサウ、そしてラバンと、必死に格闘してきました。ここにきてようやくラバンの所から離れ、エサウの所へ向かおうとの決意が与えられました。しかしヤコブは、エサウの恨みからの逆襲を恐れ、戦いの準備をしていました。
 ヤコブが独りになった時、主の使いがヤコブと格闘します。つまりヤコブは、兄のエサウと戦うために準備を整えていましたが、エサウと戦うということは、すべてを創られ、すべてを支配しておられる神に対して刃向かっていることを意味します。
 主はヤコブに対して、御自身の言葉と聖霊の働きにより、ヤコブの歩むべき道を示して来られました。しかしヤコブは自分の今置かれた立場、周囲の人たちとの人間関係にのみ注目し、主が介在しておられることを考えることをしませんでした。
 このことは私たちに対する問いかけでもあります。私たちは、今・目の前に見えるもの、対人関係にばかり目を配ります。そのため、それらを支配しておられる主なる神が、私たちに対して何を求めておられ、私たち自身が主にどの様に仕えていけば良いかを考え、御言葉に聞き、祈り求めることが非常に少ないのではないでしょうか。主がヤコブに出会ってくださったように、私たちも主の御前に立ち、主の御支配の下に今置かれている状況を判断し、主に委ねて祈り求めることが求められています。

Ⅱ.主の存在を知らせる主の御業
 ヤコブの前に現れ、ヤコブと格闘しているこの人は、ヤコブに勝てないと思いました(26)。これはヤコブの心のあり方そのものを物語っています。つまりヤコブはこの人と戦い、勝利を得ようとします。襲われ、戦いが挑まれたのだから当然であろうと、私たちは考えてしまいます。しかし、ヤコブはすぐにこの人が、主御自身であることに気がつきます。それでもヤコブは、主との戦いを止めようとはしませんでした。つまりヤコブは、主による導きが示されつつも、主の僕であるとの意識はなく、すべては自分が支配をし、自分が勝利を得ることにおいて物事を解決しようとする思いが、抜けていません。
 この人は主からの使いであり、ヤコブに打ち勝つことも可能でした。しかし肉的に勝利を遂げることなく、あえてヤコブに勝利をもたらしつつ、ヤコブの腿の関節を打つことにより、腿の関節をはずすに留めました。しかし今後ヤコブは、主の御力を常に忘れることなく、主に従って歩むことが求められます。それがヤコブに与えられた印であり、腿の関節がはずされた理由です。
 つまり私たちは、神を信じて、主の僕として歩みますが、実のところ己の欲が第一になり、そうした行動を行う時、神を忘れてしまいます。だからこそ神は、時に私たちに試練を与え、神を忘れないためのしるしを与えます。それは同時に、私たちがどれ程、神の御前に罪に満ち、汚れた存在であっても、主は私たちを滅ぼし尽くすことはせず、主はなおも忍耐して私たちが主に従う時を待っていてくださいます。

Ⅲ.神と争う:イスラエル
 主の忍耐が示される中、ヤコブはさらに祝福を求めます(27)。ヤコブは主がどういうお方であるか、よく知っています。その主が、今顔と顔を合わせ格闘したにも関わらず、死ぬことなく、腿の筋をはずされたのみでいる事実を、ヤコブは受け止めています。ここでヤコブが主から祝福を得ようとしたのは、父イサクの祝福を奪ったようなものではなく、主によって生かされ、主によってすべての恵みと祝福が与えられ、主にすべてを委ねて歩む者として、主の祝福を得たいとの願いが生じたからです。
 主は、ヤコブに名前を尋ねます。旧約聖書において、名前はその人の人格そのものです。ですから名前とは非常に重要です。 ヤコブとは「かかと」(25:26)であり、「足を引っ張る」(27:36)者でした。しかし主はここでヤコブにイスラエルという名をお与えくださいます。「神と争われる・神と争う」との意味ですが、霊的に祝福された名として与えられます。これは、私たちが人の前で、人間的に思い悩み、神経をすり減らし、一喜一憂することなく、主の御前に立ち、良い意味で主と格闘することです。御言葉に聞き、祈り、己の姿、己に何が求められ、どの様な歩みが求められているか、主と格闘することにより、主からの恵みと祝福・そして必要な答えを求めていくことが求められています。そうすることにより、主は答えを指し示してくださいます。

  
     
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 エサウとの再会」  創世記33章1~20節    2023.8.27  
 
序.
 ヤコブは兄エサウの長子の権威と父イサクからの祝福を奪ったため、命を狙われ、家を飛び出しました。そして、ヤコブは伯父ラバンの所にたどり着き、ラケルとレアと結婚し11人の男の子をもうけ、祝福の内にいたところ、伯父ラバンから離れ、兄エサウの所に戻ってこようとしています。

Ⅰ.主は共にいてくださる
 そしてヤコブは、ペヌエルにおいて主と格闘しました。罪を繰り返してきていたヤコブですが、主の祝福を感じ、主に従おうとしていたときに、主と出会ったのです。このことはエサウの所から脱走したときに、主が現れ語ってくださった言葉(28:13-15)、ラバンの所を脱走しようとしたときに、主が現れ語ってくださった言葉(31:3)があり、さらにヤコブ自身が主に対して確認の祈りを行った(32:10-13)、直後に主が答えをくださったからこそ、ヤコブに取っては力強いものとなりました。
 このことは、兄エサウと再会しようとするヤコブにとって非常に勇気づけられることでした。ヤコブは、兄エサウがまだ復讐心を持っており、攻めてくることを恐れていたからです。
 こうした安心感は、神の救いにあるキリスト者に共通に与えられているものです。主が共にいてくださるからこそ、私たちは、どのよう様な試練の中でも、必要が満たされ、困難を乗り越え、主が最も恵みと祝福に満たし、最も良き道を備えてくださる確信を持つことができます(Ⅰコリント10:13)。
 だからこそエサウが400人の者を引き連れてくるのが見えたとき(1)、最初に準備していた様な恐怖はなく、主に対する信頼があったことでしょう。それが自らが先頭に進み出る行為へとつながります(3)。

Ⅱ.悔改めと和解
 しかし信仰が与えられたヤコブは、同時に自らの罪の悔い改めが迫られます。兄エサウに対して行った罪の対してです。
 真の信仰は、真の罪の悔い改めが無ければ生じません(ウェストミンスター信仰告白15:6)。悔い改めがなければ、信仰が抽象的になり、信仰が弱く、教会や礼拝から離れるようなことが生じてきます。
 ヤコブも兄エサウに対する罪の赦しを求める行為として、七度地にひれ伏します(3)。つまりヤコブにとって真の罪の悔い改めを行うことにより、和解がもたらされ、その結果が兄エサウとの再会となります。
 そして、ヤコブは兄エサウと再会し、和解することができました。ヤコブは、自らの家族を紹介し、兄エサウに対して贈り物を贈ろうと致します。当初は、この贈り物により兄エサウの心をなだめ、争いにならないように考えていたものですが、ここにおける贈り物の意味は異なります。兄エサウに対する罪に対する物的補償と言うことができるでしょう(10-11)。
 ヤコブは、過去の罪を水に流して赦してくれるエサウを、神のように見たのです。そしてエサウも、ヤコブからの贈り物を罪の赦しと和解のしるしとして受け取ります。

Ⅲ.ヤコブの信仰と私たちの信仰
 しかしエサウが「さあ、一緒に出かけよう。わたしが先導するから」(12)と語るとき、ヤコブはその申し出を断ります。何かまだギクシャクした関係に映ります。しかし、「無理に追い立てると」(13)とあります。原文は「不正な行いをして荒々しく叩くと」と言った表現で、非常に厳しい言葉です。ヤコブは兄のエサウを気遣いながらも、同時に子供たち群れの家畜にまで気を使っています。ヤコブは群れに無理をさせないために、あえて兄エサウの申し出を断ります。
 つまりヤコブは、エサウとの関係に気を遣っていますが、同時に、家族を気遣う家族への愛も持った行動をとります。
 そして遂に、ヤコブたちは約束の地カナンに入ります。そしてヤコブは土地を購入して、次の様に名付けます。「エル・エロヘ・イスラエル」。「神はイスラエルの神」と訳せます。ヤコブが、主によって与えられたイスラエルとして立ち、そのイスラエルを導くのは、何よりも主なる神であることを、ここで信仰告白しています。
 ヤコブは、その都度その都度、主が共にいてくださることを確認することにより、主なる神を信じるように導かれました。そして、真の罪の悔い改めと和解を行うことができました。ヤコブは、目先のことだけではなく、自分の周囲の者に対する配慮を行い、神の愛が隣人への愛へと広がりを見せていることが分かります。
 そしてヤコブと共にいてくださる主は、今、私たちと共にいてくださいます。主がヤコブを救ってくださったように、主は私たちを救うために働いてくださっています。
     
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 誤った復讐」  創世記34章1~31節    2023.9.17   
序.
 今日の御言葉は、現在社会そのものであり、今日に生きる私たちに対する警告として語られています。婦女暴行に始まり、復讐、戦争。すべてが人間の欲望と罪から生じています。

Ⅰ.姦淫の持つ罪
 ヤコブは兄エサウと和解し、そしてカナン地方に入りましたが、エサウの所にではなく、近くのシケムに土地を買い取り、そこに住み着きます(33:18-19)。このとき、シケムにあるヒビ人ハモルの息子シケムが、ヤコブの娘ディナに心が奪われ、辱めを行います。婦女暴行です。この行為はヤコブの息子たちが嘆き、激しく憤る(7)行為であり、結婚の誓約を行う前に性的な関係に入ることは主の御前に第七戒違反の罪です。私たちは主の定められる律法に従って生きることが求められています。
 一方シケムは、自分の行為に対して、律法(出エジプト22:16)に従い責任を取ろうと考えます。父ハモルに結婚を認めて頂き、そして、父と共にヤコブの所に行き、結婚の承諾を得ようとします。自らの罪に対する悔い改めと赦しを願うことなく、結婚を申し出ることに対する問題が残りますが、自らの行為に対する責任を取ろうとする行為は、受け入れられなければなりません。

Ⅱ.復讐心の持つ罪
 ①復讐を行うの? 主は何を私たちにしてくださった?
 一方、事情を知ったヤコブと息子たちは、激しく憤り(7)、だまして復讐しようと試みます(13)。復讐するのは当たり前ではないかと考えています。また、この延長線上に戦争があります。
 しかし私たちは、ここで主なる神がヤコブの息子たちに何を求めているかを考えなければなりません。私たちは主の御前に罪を繰り返します。このことは主の御心を深く傷つける行為です。それを私たちは毎日続けています。しかし主は、私たちの罪の償いのため、キリストが与えられ、キリストが十字架を背負って死んでくださいました。このキリストの償いにより、主なる神は私たちを義と認め、神の子として、永遠の生命をお与えくださいました。だからこそ私たちは、主の御前に、罪を告白し、罪の悔い改めを求められているのです。
 しかし彼らは大きな過ちを犯しました。彼らがシケムの人々に割礼を求めたのは、彼らが痛んでいる間に、攻撃しようとする復讐心の故です。この行為が問題です。
 割礼を施すことは、同じ信仰に入ることを意味します。信仰告白と罪の告白・悔い改めが求められます。イスラエルが割礼を求めたことに対して、シケムはそれに従おうとします。しかしイスラエルの民は、割礼を復讐に用いようとしました。これは第三戒違反であり、第六戒、第八戒、第十戒違反も問われてくることとなります。

Ⅲ.広がりを見せる罪
 さらにディナの兄シメオンとレビは、直接シケムの人たちに対して剣を取って押し入り、殺していきます。彼らはディナと同じレアの息子たちであり、なお強い憤りを感じていたのでしょう。真に神による罪の赦しを忘れた、人間的な感情に駆られた犯罪です。
 ここでは個人的な感情によって行われた大量殺人ですが、これが国家間でなされるならば戦争となります。ウェストミンスター信仰告白23:2は、合法的戦争を認めています。しかし、ウェストミンスター信仰告白は、キリスト者である為政者が判断することを求めています。その上で、その為政者は、合法的戦争を行うことも許されると語っています。このとき為政者に求められる戦争の理由は、信仰の故の迫害、継続的な殺害であり、個人的な復讐のために戦争を行うことは認められていません。
 ここでのシメオンとレビが行った行為は、シケムの人たちが責任を果たそうとしている最中に行われた行為であり、決して許される行為ではありません。
 さらにシメオンとレビの行いを知った他の兄弟たちも襲撃・略奪を行います(27-29)。どさくさに紛れてです。こうした行為は、主の御前に罪と定められる行為です。善悪の判断は、そのときの感情で行われてはならず、主の御前に正しいとされる行為であるか否かが問われます。
 犯罪が行われ、傷を負った時、私たちは確かに憤りを覚えます。しかし、復讐心を持ってはなりません。罪に対する裁きは主が行われます。それと同時に、私たち自身が罪赦された罪人であることを忘れてはなりません。キリストの十字架による罪の赦しが与えられています。だからこそ私たちは、キリストが私たちの罪を赦してくださったように、隣人の罪を赦し、真の悔い改めと信仰に導かれることを願うべきです。
 
     
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 契約の更新」  創世記35章1~29節    2023.10.29
 
   
序.
 ヤコブの息子たちは、妹ディナが汚されたことの復讐としてシケムの人々を殺し、略奪を行いました(34章)。そのためヤコブはシケムに住むことができなくなりました。

Ⅰ.主を礼拝するヤコブ
 このとき神はヤコブに語ります。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい」(1)。ここはヤコブが兄エサウから逃れるためにベエル・シェバを脱出し、ラバンの地ハランに向かっている時に、初めて主がヤコブに現れた場所です(7,28:10-22)。
 そしてヤコブは家族に語ります。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい」(2)。
 ヤコブは、外国の神々を取り去ることを求めます。ヤコブが逃げていたハランにおいて、ラバンを初め偶像崇拝が行われていたからです(参照:31:17-19)。
 また、ヤコブは身を清めて衣服を着替えることを求めます。ベテルに上るきっかけとなったシケムにおける罪に対する悔い改めです。罪の悔い改めのない神礼拝は、形だけであり、無に等しいのです。
 私たちも神を礼拝しつつも、無意識の内に偶像化しているものがないか、今改めて、考えることが問われています。

Ⅱ.偶像との決別
 「ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木の下に埋めた」(4)。ファッションとしての耳飾りや十字架も、偶像となることがあり、気を付けなければなりません。

Ⅲ.イスラエル
 主はベテルでヤコブの夢の中に現れました(28章)。また主は寝ているヤコブに現れ格闘を行いました(32章)。主はヤコブの前に三度現れになります。このことはヤコブの長い逃亡の生活が終わり、主による約束の地に帰ってきたことを意味します。
 神は彼に言われた。「イスラエルがあなたの名となる」(10)。37章以降、12人の兄弟たちと12部族、つまりイスラエルについて記します。アブラハム・イサク・ヤコブの族長物語は、ここで幕を引きます。つまり主がアブラハムに現れ、「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し」(12:2)と語り、約束の地カナンに導いて行かれました。このアブラハムに対する主の約束が、イスラエル民族として成就します。
 続けて主は「産めよ、増えよ」(11)と語ります。主がアダムとエバを祝福して語られ(1:28)、洪水の後、主はノアと息子たちを祝福して語られます(9:1) 。主はヤコブからすべての神の子である救いの民を生み出してくださることを約束してくださいます。
 ただ、主による霊的な祝福に入るために、肉的にイスラエルであればよいのではありません。主はヤコブに主を礼拝することを求められ、ヤコブは罪の悔い改めを行い、偶像を棄てて、主の御前で礼拝を献げます。真の神の子として導かれている者たちは、ヤコブのように、主の御声に聞き従う者とされます(参照:ローマ4:13)。

Ⅳ.霊的イスラエルとして生きる私たち
 創世記35章後半には短い記事がいくつか語られています。しかし一つ一つの記事が、約束の民イスラエルが形成されていくために重要な位置づけを持っています。
 16~22節ではラケルによるベニヤミンの誕生とラケルの死が語られます。ラケルはヨセフを産んだとき、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように」とヨセフと名付けました(30:24)。しかしラケルは、「わたしの苦しみの子」(ベン・オニ)と名付けます(18)。どれだけヤコブ一家の旅が過酷であったかを示す言葉です。
 しかしヤコブはベン・オニ(わたしの苦しみの子)ではなく、ベニヤミンと名付けます。新共同訳では「幸いの子」と訳しますが、直訳すれば「右手の子」です。「右」には、名誉・運命・卓越性の意味があり、他の部族に対する優越性を示し、後継者としての地位をヤコブから授けられた名です。また、ヤコブはイスラエルという名が与えられました。まさしく「ベニヤミン」は、イスラエルが神によって守られ、霊的な祝福と救いに入れられていることを確認する名です。
 ここでヤコブの12人の子供が列記され、イスラエルが完成します。
 ここでルベンの罪が語られます(23)。ルベンの罪は、長子として祝福を受け継ぐ器ではないことを示します。シメオン・レビも同様の宣言がなされています(34章)。つまりルベンの出来事は、救い主の系図が四番目のユダに移ることを語っています。
 そして聖書は、ヤコブの妻ラケルが死と共に、父イサクが死を語ります。つまり、族長の時代は終焉を迎え、これからはイスラエルの歴史が始まります。
 私たちは肉においては異邦人ですが、霊的なイスラエルに属する者です。すでにキリストによる十字架の贖いと救いは完成しています。私たちも主に結ばれて、神による救いが与えられ、永遠の生命に与ることが約束されています。
 
     
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 「イスラエルの周辺」  創世記36章1~43節    2023.11.26
 
序.
 10月5日、パレスチナのハマスがイスラエルを攻撃することにより、戦争が始まりました。今日与えられた御言葉は、今日のイスラエルとパレスチナの関係を理解する上で、鍵となる聖書箇所です。

Ⅰ.エドムの系図
 聖書が語る系図は、大きく二つに分類することができます。一つはアブラハムに与えられた祝福が受け継がれるメシアの系図(参照:マタイ1:1-17)、もう一つは、ノアの系図・イシュマエルの系図・エサウの系図のようにイスラエルから離れていき、異邦人となっていく人たちの系図です。
 創世記36章には、エサウ(エドム)の系図が記されています(1-20)。続けてフリ人セイルの系図(20~28)、フリ人の首長たちと続きます(29~30)。「フリ人セイル」は、エドムと関わりの深い民族です。「ロタンの妹がディムナ」(22)は、「エサウの息子エリファズの側女ティムナ」(12)です。また、(フリ人セイルの子)、「アナの子供たちは、ディションとアナの娘オホリバマ」(25)は、エサウが迎えた妻のリストで、「ヒビ人ツィブオンの孫娘でアナの娘オホリバマ」(2)です。また2節ではフリ人ではなく、ヒビ人と記します。これは誤って記されたのか、改名されたのかよく理解できません。ヒビ人であればノアの子ハムの子孫であり(10:17)。アブラハムはノアの子セムの子孫です。

Ⅱ.系図から読み取れること1 - イスラエルの兄弟としてのエドム
 つまりエドムは、アブラハムの子イサクの子孫ですが、イシュマエルの子孫と同様に、ヤコブの子ではなくイスラエルには属しません。しかし彼らはアブラハムの子孫として、神の救いに導かれている民です。だからこそ、詳細な系図が創世記と共に、歴代誌においても記されています(歴代誌上1;34-54)。だからこそ、「エドム人(エサウ)をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である」(申命記23:8)と聖書は記します。

Ⅲ.系図から読み取れること2 - イスラエルと敵対関係にあるエドム
 しかしながら、実際には神の民であるイスラエルとエドムとの間には、繰り返し問題が生じ、争いが絶えませんでした。モーセがエドムの領土を通りたいとの願いに対して、エドム王は「否」とします。400年の年月を経て、エドムが主とエサウの兄弟ヤコブを忘れていました(民数記20:14-21)。
 またバビロンによって滅ぼされ、バビロンに補囚の民とされますユダですが、その直前、ユダはエドム・アンモン・ティルス・シドンと共に、反バビロン同盟を作り、バビロンからの攻撃に備えます(エレミヤ27:1-7)。しかしエドムは、カルデア・アラム・アンモンと共にユダを裏切り、バビロン側の略奪隊としてユダに攻め込み、ユダは滅ぼされて行きます(列王記下24:1~2)。そのためユダはエドムを憎しみます(オバデヤ書)。
 またエドムに対する審判の預言が語られ(エゼキエル35章)、エルサレム陥落が語られるに際して、エドムに対する裁きが下されることが語ラレテイマス(哀歌4:21-22)。
 その他にも、詩編137編、イザヤ書34章、63章、マラキ1:2~4、アモス1:11~12などによって語られています。
 このようなイスラエルとエドムの対立関係が、新約の時代になってもなお継続しており、今まさに戦争が行われています。

Ⅳ.新約に生きる私たち
 旧約聖書では、主なる神がイスラエルの民に、原住民であるカナンの人たちを滅ぼし尽くすことを語っています。これは旧約の時代のことであり、現在には適用されないことを理解しなければなりません。
 主がイスラエルに求められたのは、アブラハムに与えられた祝福が、子孫に継続され、約束のメシアが与えられることです。しかしカナンの人々は、バアル礼拝に浸っていました。そのため彼らとの交わりを行うことにより、イスラエルに偶像崇拝が持ち込まれます。主は、そのことを危惧しておられました。また旧約の時代は、主が顕現され、直接裁きを行われました。主なる神は、彼らが、罪を悔い改めることなく、主を信じないことを知っておられ、主は彼らに直接裁きをくだされたのです。
 一方現代で、主が直接裁きを行われることはありません。主は、パレスチナに対しても、私たち日本人に対しても、忍耐強く、罪の悔い改めを待っておられます。未だにキリストが再臨されず、最後の審判が行われないのは、神の民でありながらも、まだ、罪を悔い改め、信仰を告白していない人がいるからです。
 神は、戦争を行うのではなく、和解し、互いに赦し合うことを求めておられます。主なる神は、国と国、民族と民族、社会において、家族の間、教会員相互においても対立を取り去り、和解すること、平和を形成することが求めておられます。
 
     
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 「夢に現れる真実」  創世記37章1~11節    2023.12.31 
 
序.
 ヤコブはエサウとの和解が与えられ、約束の地カナンに戻り安住していました(1)。

Ⅰ.序
 そして、ヨセフ物語が始まります。「ヤコブの家族の由来」(2)は、「子孫」(口語訳)、「歴史」(新改訳、協会共同訳)と訳されています。ヘブル語原文では、「系図」です(参照:36:1)。「系図」という語は、日本語よりもかなり広い意味を持っており「歴史」と訳することもできます。
 ところが実際にはヤコブの子ヨセフを中心とした家族の出来事が記されています。そしてヤコブの息子たちの代に、イスラエルはエジプトに下り、400年後モーセによって出エジプトを果たすまで寄留地での生活が続きます。そして次第に奴隷となります。主がこの背後におられ、すべてをご計画し、実行に移されています。イスラエルの言動(主観的)を覚えつつ、主の御業を客観的に理解することが求められます。

Ⅱ.ヨセフという人物
 ヤコブにとって、ヨセフは特別な存在でした。最愛なる妻ラケルの子は、このヨセフと末の息子ベニヤミンだけです。しかも他の妻の息子たちに比べて、年老いてできた子供であり、ヤコブはヨセフのことを、異常な程に溺愛していました(2-4)。「袖の長い晴れ着」を着せるのは、王宮の中で、上に立つ人物が着る服であり、ヤコブはヨセフを跡取り・王子としての身分と特権を与えていたと言ってよいかと思います。このことは、労働者として仕えていた他の兄弟からすれば、ねたみの原因となりました。
 また、父に気に入られているヨセフは、兄たちの行動をつぶさに観察して、父に告げ口をします。そのため兄弟たちが、いつか仕返しをしたいと思う気持ちが起こってくるもの仕方ないのではないでしょうか。
 このような人間的な感情をも、主はお用いになり、結果としてヨセフをエジプトに先に送り、イスラエルがエジプトに下ることの伏線とします。主なる神は、人の妬み・罪をも、時として主のご計画・救いを成就するために用いられます。

Ⅲ.夢
 旧約の時代、神が直接民たちに語りかける啓示の一つの手段として夢が用いられました。そのため夢が語られると、人々はその意味を知ろうとします。
 人間的には、兄弟たちから非常に嫌われる存在であったヤコブは、父の加護の下、態度を改めることなく、さらに兄弟たちに向かって、自分の見た夢を誇らしげに語り聞かせます。ヨセフは二つの夢を見て、それぞれを兄たちに、さらに二つ目の夢は父にも話します(6-7,9)。兄弟たちも父ヤコブもヨセフの語った夢の意味を理解することができたのではないでしょうか。
 そのため兄弟たちの怒りはまし加えられていきます。まだ17歳で、独り立ちせず、父からの加護の下、告げ口ばかりをしている弟が、今度は、自分たちの上に立つことを、主から示されたと語り出したからです。
 父ヤコブもまたヨセフを叱ります(10)。

Ⅳ.主の御業を受け入れよ!
 しかし同時に、「ヤコブはこのことを心に留め」ます(11)。ヤコブは今まで主が共におられ、主の加護の下にあったからこそ、兄エサウとも和解し、約束の地カナンに帰ってくることができました。そのことをよく理解しているヤコブは、ヨセフの夢を感情的には受け入れられず叱りますが、主が常にヨセフと一緒にいてくださり、イスラエルを守り、導いておられることを感じていました。だからこそ、ヤコブは感情的には受け入れられないにしても、なおもヨセフの言葉を心に留めます。
 事実ヤコブの夢は、イスラエルがエジプトに下ることにより成就していきます。そしてこのことは、兄弟たちの妬みの感情を超えて、イスラエルが守られ、主の約束が成し遂げられるために必要なことでした。
 なぜ人間的には嫌われていたヨセフを、主がお用いになられたのかと思ってしまいます。しかし主はヨセフをイスラエルの指導者として立て、エジプトに下るためにお用いになられます。そして、主はヨセフを通してイスラエルをお守りくださいました。この大きな主のご計画のうちにヨセフは、主に用いられます。
 私たちの日々の生活においても、人の言動に不満を持つこともあります。しかし私たちは、そうした事柄一つひとつに感情的になるのではなく、なおも主がここにおられ、主がこれらのことを通しても、私たちに働きかけ、救いに導くために用いてくださいます。だからこそ私たちは、すぐに不平不満を語ることなく、その背後にある主の御業を理解することができるように、祈り求めなければなりません。

 
     
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「人のねたみと主の意志」  創世記37章12~36節    2024.1.21 
 
序.
 前回37章の前半より説教を聞きましたが、ヨセフが①父の加護にあること、②兄たちの告げ口をすること、③他の兄弟が側女のこどもであること、④ヨセフの見た夢において兄弟たち、さらには両親までもが、ヨセフに仕えることが示されたことにより、ヨセフが他の兄弟たちからねたみと憤りをかっていることを確認しました。

Ⅰ.家族関係
 ヨセフの兄たちは、ヘブロンから100km以上離れたシケムで羊の群れの番をするために行っています。そのためヘブロンに残っているヤコブは、兄たちが心配でした。そしてヨセフを使えに兄たちの所に行かせようとします。父ヤコブにしても、ヨセフと兄たちとの間にねたみと憤りがあること位は理解していたことでしょうが、それ以上に兄たちのことが気にかかったと言って良いかと思います。ヤコブは主による救いを受け入れていました。それ故に神の愛を知り、隣人に対する愛へと導かれ、人を赦し、信じる思いを持っていたとも言えます。
 一方ドタンにおいて羊を飼っていた兄たちがヨセフの姿に気がつくと、互いに言います。父の思いとは裏腹に、兄たちのヨセフに対する憎しみが込められた言葉が発せられます(19-20)。「夢見るお方」とは、「夢の主人(バアル)」であり、軽蔑の言葉です。ヤコブはヨセフと兄たちとの関係をそれ程深刻には考えていませんでしたが、しかし現実には、ヨセフのことをバアルと呼び、殺そうとする程の憎しみがあり、殺しにかかろうと話し出します。

Ⅱ.兄弟たちの思い
 そのような状況の中、ルベンはヨセフを助け出そうとします(21-22)。ルベンは長兄であり、父の代わりの責任者です。責任を取らされることを恐れたのです。そればかりか、ヨセフを父のところに戻そうと願い、父に対して気を遣うそぶりを見せます。
 ユダも、殺すのではなく、イシュマエル人に売ることを提案します(26-27)。ユダも、ルベン同様に言い格好をしようとの思いもあったでしょうが、同時にここに主の意志が表されています。この後ユダは、ルベンに代わって長子の権を受け継ぎ、イエス・キリストに繋がる祝福が与えられます。このユダの言葉により、イスラエルのエジプト下りの道が敷かれていくこととなります。
これはユダが意識して語ったことではなく、主がユダを通して働いてくださった結果とです。ヨセフを先遣隊にして、イスラエルがエジプト下りを行うことを、ユダは知るよしもなく、主の導きそのものです。

Ⅲ.死んでいた者が生きていることの希望
 しかし聖書が語ることは滑稽です。ヨセフはミディアン人に穴から引き上げられ、ユダが語っていたとおりイシュマエル人に売られていきます。つまりミディアン人が漁夫の利を得たことになります。
 ここにも主の導き、つまり摂理があることを、私たちは覚えなければなりません。ヨセフがエジプトに売られていったことを兄弟たちが知りませんでした。ヨセフは死んだ。このことをルベンが嘆き、兄弟たちがそれを確認し、さらに父がその事実を嘆きます。
 しかし、この死んだはずのヨセフが生きていました。いやヨセフに主により新しい命が与えられたと言って良いかと思います。それはちょうど、アブラハムがイサクを生け贄として献げようとした時に主がいけにえの子羊をお与えくださったようです。まさしく、死んでしまった者が主によって甦らせられ、生き返ります。このことが、今、私たちの身にも起こっているのであり、私たちは復活の希望に生きています(参照:ウェストミンスター小教理38)。
 私たちは、この世に生を受けてから、皆が死に向かって歩んでいます。誰一人、肉体の死を免れることはできません。人が死を迎える時、家族との別れが生じます。しかし、主なる神を信じることは、肉体の死をもって別れた者たちとの再会の時が与えられるということです。ユダの子孫として与えられた救い主イエス・キリストは、十字架の死を遂げてくださいました。この十字架の死こそ、私たちの死そのものです。私たちの罪の刑罰を、キリストが一人背負ってくださいました。だからこそ、神を信じる者は、その罪の刑罰が取り除かれ、死をも取り除かれました。
 主を信じる者は、キリストが再臨された時に復活の体が与えられ、永遠の生命に与ります。だからこそ、親しい者を亡くした者もまた、その時に、再会することができるのです。
 主の晩餐は、キリストの十字架による体と血を想起しますが、同時に、天国における晩餐の前味を味わっています。すべての時代に生きたすべての神の民が集います。ここに私たちも招かれています。そこにあって永遠の生命と喜びが準備されています。この大きな喜びにある時、私たちは主を愛して喜んで礼拝を献げ、家族を愛し、隣人を愛し、そこにある憎しみ・うらみを赦すことができるようになるのです。
 
      
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「ユダとユダの子」  創世記38章    2024.2.25  
 
 Ⅰ.ユダの記事の挿入
 ヤコブ物語が終わり、37章からヨセフ物語に入りましたが、38章は挿入する形で記されています。しかし、キリストに繋がる系図は、旧約聖書で最も大切なことです。そこにイスラエルが選びの民となった理由があります。そのため38章は、単なる挿入として扱ってはなりません。
 ユダは他の兄弟たちよりも優れていたから、主神はユダに長子の権威を与えのではありません。他の兄弟たち同様に、ユダも罪人であり、主の一方的な恵みによって、この祝福に導かれたことを、今日の御言葉において確認することが求められています。

Ⅱ.ユダの結婚と子どもたち
 ユダは、兄弟たちと別れて、カナン人シュアの娘と結婚します(1,2)。問題の発端は、ここにあります。主がイスラエルは異邦人と結婚をしてはならないことを語るのは、特に出エジプトの後のことです。しかし、主の御声に聞くことなく、異教徒である異邦人と結婚することが許されていたわけではありません。イサク・ヤコブ同様に、主の導きに従うことが求められたのであり、ユダが主に祈ることなく、異邦人・異教徒であるカナン人と結婚したことが問題です。
 ユダとシュアの娘との間には、3人の息子が与えられます。そして長男のエルは、カナン人タマルと結婚します。しかしエルは主の意に反したので、主は彼を殺されました(7)。そのため長男エルの妻であったタマルは、次男オナンの妻となり、オナンによってエルの息子を得ることが許されます。こうしたことは中東地方ではラビラート婚と呼ばれ、行われていました(参照:申命記25:5-6)。また、主イエスのたとえ話にも出てきます(マタイ22:25~28)。今でこそ、兄弟の妻を自分の妻にすることはないでしょうが、聖書の時代には、それが良しとされていたのです。
 このような理由で、兄エルの妻を次男オナンは妻として迎えることが求められたのですが、彼は、兄のために子どもをもうけることを良しとすることなく、子どもを作らないようにしました。このことは、主の御前に、罪とされることでした(申命記25:7-10)。その結果、彼は裁かれ、主によって殺されることとなります。

Ⅲ.ユダの罪
 本来ならば、三男シェラが兄嫁タマルを妻としなければなりませんでした。しかし父のユダは、タマルが呪われており、長男エル・次男オナンが死んだのだと思い込み、タマルをシェラが成人するまでという理由付けをして、実家に返します(11)。つまり元を正せばユダ自身の結婚に問題があったにも関わらず、タマルにその責任を押しつけます。ここにユダの不信仰があります。
 ユダは、妻を失い喪に服した後、ティムナに行きます(12)。その時、路傍にいるタマルに近寄ります(16)。ユダはすでに妻がない独身者であり、カナンではこうした行為も許されたでしょう。しかし主の御前では、売春は許されない行為です。つまり聖書は、ユダのカナン的な不信仰・異教の習慣に基づく不信仰を指摘しています。
 ここで私たち自身の信仰が問われています。日本には様々な因習・習慣があります。性的な乱れ・寛容さは、カナンに非常に似ています。また偶像にまつわる様々な習慣があります。こうした中私たちは、主が御言葉により許される行為か否かを確認しつつ、行動することが求められています

Ⅳ.真実を明らかにするための罪
 ユダはタマルを末息子シェラに嫁がせることをしませんでした。また、ユダも妻を喪っており、タマルを妻として迎えることは可能でした。そうした中、タマルは罪を犯すことの覚悟をもって行動します。
 しかしユダは、タマル自身が呪われていると決めつけ、タマルの行為を拒絶します。ユダは自らの過ちを隠そうとする一方で、タマルの行為を責めます。
 その一方タマルは、ユダの過ちを明らかにするために罪を犯しますが、その他においては主の律法に従います。聖書はこのタマルの信仰を認め、名を残します。新約聖書マタイ福音書1章のイエス・キリストの系図にも、タマルの名が書き記されます。聖書はタマルの信仰を認めたのです。
 主は、ユダの大きな罪を犯したにも関わらず、主の一方的な恵みによって、キリストにつながる特権に加えられました(参照:創世記49:10)。
 その一方で主は、真実・信仰に生きる異邦人タマルを祝福してくださいました。そして今、教会に集まっている一人ひとりを主は恵みと祝福で満たして下さっています。
      
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 「信仰に生きるヨセフ」  創世記39章    2024.3.17  
 
Ⅰ.ヨセフの信頼
 37章では、ヨセフが夢を見て、それを言い広め、有頂天になっているところを、兄弟たちのねたみにあい、殺されることからは免れましたが、イシュマエル人に売られ、そしてこのエジプトに連れてこられたことが記されていました。今日はその続きです。
 ヨセフは奴隷として売られてきました。そのため言葉にできないような苦しみを覚えたのではないでしょうか。そして主人の信頼を勝ち取るために、ヨセフは努力をしたのではないでしょうか。ヨセフは、次第に主人から信頼されていきます(2-4)。

Ⅱ.主がヨセフと共におられる
 聖書はここで、「主がヨセフと共におられた」と繰り返して語ります(2,3)。このとき私たちは、主の視点、救済史的な概念を持つことが求められます。すべてが主の摂理の中に置かれています。つまり、ヨセフは主の加護にあり、どの様な状況に置かれても、主によって守られ、試練を乗り越え、主の成し遂げる御業に組み入られています。
 また、主が共にいてくださるからこそ、主が今ここで何を求めておられるかを御言葉をもって示してくださいます。主は必要な時に御言葉を与え、また祈りの答えをお示しくださいます。つまり自分で何とかしようと下手なことをするのではなく、主が今最も必要な答えを準備してくださることを信じて、祈り続けることが求められます。
 そして、主に従うヨセフに対して、ポティファルもまた、ヨセフに及ぶ主の御力、主の加護を受け入れざるを得ない状況になり、主と共にあるヨセフを信頼し、すべてのことをヨセフに委ねるようになります。

Ⅲ.ポティファルの妻
 一方、ポティファルの妻はヨセフを誘惑します。そして彼女は、主人の妻として、権威をふりかざしている状態にあります。
 しかしヨセフは、この誘惑を拒絶をします。それは、①主人に仕えている者として、主人を裏切ることができないという社会的な側面と共に、②主が共におられ、主の御前に、罪とされることを避けるからです。
 これは極端な事例ですが、私たちが社会で生きるとき、このような難しい局面に置かれることもあるのではないでしょうか。
 十戒は、第七戒「姦淫してはならない」と否定的側面から語られています。しかし、ウェストミンスター大・小教理問答では、十戒を肯定的側面から読むように求めています。問138「第七戒で求められている義務は、……あらゆる不潔な機会を避け、それへの誘惑に抵抗することです」。まさしくヨセフは、主の御言葉に聞き従い、その戒めを守っている姿がここにあります。
 しかしこのことは、ポティファルの妻の逆鱗に触れることとなります。つまり、「ヨセフが自分を誘惑し強姦しようとした」との家の者たちに嘘を語り、さらに主人に伝えます(14~18)。自らの欲望を達することができなかった故に逆ギレする人間の罪深さの側面を、聖書は語ります。

Ⅳ.主によって守られるヨセフ
 一方、この知らせを聞いた主人ポティファルにとって、信じがたいことが起こりました。本来ならば、死刑に処せられるべき罪ですが、ヨセフは監獄に入れられました(20)。ヨセフがそれだけ主人に信頼されていた結果です。
 一方ヨセフは、ぬれぎぬを着せられ、不満もあったでしょう。しかし同時に、処刑に処せられなかったことにより、主が共にいてくださり、守ってくださったことを、ヨセフは知ることができたことでしょう。
 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ5:11-12)。
 主が私たちと共におられることを私たちが知るとき、誘惑に対して戦う力が与えられます。そしてどの様な苦しい立場に置かれたとしても、神に守られ・苦しみを乗り越えることができることを信じることができます。
 主によって救いに導かれ神の子とされた私たちキリスト者は、いつでも神が共にいてくださいます。どの様な苦しみの中にあっても、見守り、実際に助け出してくださいます。そして、主は私たちが耐えられないような試練を与えられることはありません(Ⅰコリント10:13)。
 そして、神は私たちを、どの様な苦しみからも守っていてくださいます。神は、私たちの苦しみを覚え、乗り越える力をお与えくださいます。そして、何よりも罪による滅びではなく、神の恵みと祝福に満ちた神の国における永遠の生命が約束されている救いへと導いてくださいます。
      
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 「主の導きにより夢を解くヨセフ」  創世記40章    2024.4.21   

 Ⅰ.夢
 多くの方々は、夢を見ることでしょう。これが正夢になったらどうしよう、うれしいな、いや怖いな、との思いに、一日を過ごすこともあるのではないかと思います。夢占いを行う人も少なからずいます。
 情報手段のほとんどなかった時代、王など上に立つ者たちは、夢を非常に重要視し、その真意を知るために占い師に尋ねることは珍しいことではありませんでした。夢は神からの伝達手段の一つとして、予言性を信じていたからです。
 ですから今日のテキストでも、エジプトの高級官僚と料理長は、自ら見た夢を見たの解釈を求めます。夢を解き明かしてくれる人がいないために「ふさぎ込んで」いました(6-8)。「元気がない、起こっている、困惑している、悲しそうにしている」と言った訳の言葉です。夢の予言性を信じていたからです。
 この後に出てくるエジプト王ファラオも同様であり、バビロンの王ネブカツネツァルが夢を見、それをダニエルに解釈を求めている例も語られています(ダニエル書)。

Ⅱ.ユダヤ人にとっての夢
 そうした異教社会の中にあって、夢がよく用いられていた時代に、ヨセフは自ら夢を見、またそれを解釈する者として立てられていきます。このヨセフに対して、エジプトに奴隷として売り飛ばした兄弟たちは、自分たちが侮辱されたこともありますが、「夢見るお方」(夢見るバアル)と呼び、ヨセフのことを揶揄していました(37:19)。
 つまりイスラエルにおいて、夢を神の預言として解釈することは考えることはなく、信じていなかったとも言うことができるかもしれません。
 ですから、旧約聖書において主の預言として夢を語ることは、この後ほとんど出てきません。例外は、受胎告知において、マリアの夫ヨセフに夢を通して、主のお告げが知らされたことです(マタイ1・2章)。
 むしろ否定的に、警戒するように語られています。いくつか聖書の御言葉から確認してみましょう。
 むしろ主は、異教徒の語る夢に対して、イスラエルは注意し、警戒するように、語りかけています(民数記12:6-8、エレミヤ23:25-32、同29:8-9、ゼカリヤ10:2)。
 しかしすべてを支配しておられる主なる神は、夢をも支配しておられ、主が夢を用いて語りかけ、それを主が使わした僕、ここではヨセフが夢を解くことにより、主の御業が明らかにしていきます(参照:ウェストミンスター信仰告白5:3)。そのため私たちは、夢を神の主権から外すような二元論になってはなりません。

Ⅲ.夢を解くヨセフ
 創世記40章においては、ヨセフ自身ではなく、ヨセフが監禁されていた牢獄に引き渡された給仕役の長(高級官僚)と料理役の長(料理長)が夢を見たことが語られていきます。彼らがどの様な罪を犯して投獄されたのか聖書は語りません。ただ一つ言えることは、料理役の長が木にかけられて殺されることより(22)、大きな罪を犯していたことは確かです。
 そしてこの二人の夢を、ヨセフは解き明かすこととなります。それぞれの夢をヨセフがどの様に解釈したかに関しては、語られている通りであり、それ以上のことを語る必要はありません。私たちが注目しなければならないことは、ヨセフが語ったとおり三日目に、それぞれの夢が、ヨセフの解釈の通り実現したことです。
 夢によって、異教の習慣に流されてはなりませんし、誘惑・危険も多いのですが、しかしここにも主のお働きがあり、主に従うヨセフは、まさしく主の御業の預言者的な努めとして、夢を的確に解釈する者として、立てられられたのです。
 そして、ヨセフが夢を解くことにより、結果として後にファラオの夢を解き、認められることへと繋がります。そして、主がこのヨセフをエジプトの高官として立て、イスラエルをエジプトに導き、400年後に行われる出エジプトに繋がっています。私たちは、この主の大きなイスラエルの救いの御業を見落としてはなりません。
 私たちもまた、主の大きな救いの御業に組み入れられています。私たちには、神の御言葉である聖書が与えられています。私たちの救いは、すでにイエス・キリストの十字架によって完成しています。復活されたキリストが再臨された時、最後の審判を通して、神の民が完全に罪赦され、神の国に導かれる栄光が約束されています。そして主は御言葉と祈り・聖霊の働きによって、私たちの歩むべき道をお示しくださいます。
      
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