「あなたの本当の価値」

あなたの本当の価値

日付
説教
吉田実 牧師
3:1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。
3:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
3:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
3:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
3:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
3:8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
3:9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
3:10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。使徒言行録 3章1~10節

 (序論) あいさつ、教会ってどういうところ?

 皆様、お早うございます。私はただ今ご紹介にあずかりました神戸長田教会の吉田実と申します。どうぞ、宜しくお願い致します。本日は北神戸キリスト教会の「初めての方のための特別礼拝」ということですので、「教会は初めて」という方や、「久し振り」という方々のことを覚えながら、聖書のお話をさせていただきたいと願っています。

 「教会に来るのは初めて」という方がいらっしゃいましたら、「教会ってどういう所なのだろう。そこで何をするのだろう。どんな人が集っているのだろう」と思われるのではないかと思います。色々な答え方が出来ると思いますが、私は「キリスト教会とは、聖書が教える神様を信じ、イエス・キリストを私の救い主と信じて、共に礼拝を捧げながら、悪魔の力と共に戦う、神の家族の交わりである」と申し上げたいと思います。

 「悪魔の力と戦う」などと申しますと、「何か怪しげなことが始まるのではないか」と不安に思われる方がいらっしゃるかもしれません。昔『エクソシスト』という怖い映画がありましたが、ああいう「悪魔祓いの儀式」が始まったりはしませんので、どうぞご安心下さい。

 では、「悪魔の力と共に戦う」とは、どういうことなのでしょうか。本日はこのことを心に留めながら、ただ今お読み致しました聖書の物語から、お話をしてゆきたいと思います。

  (本論1) 人の命を奪う悪魔の暗闇の力と戦う

 さて、ただ今お読み致しました聖書の箇所には、生まれつき足の不自由な一人の男が登場致します。この男は、ユダヤの人々が祈るためにエルサレム神殿を訪れる午後3時頃、参拝客から施しをもらうために神殿の門の近くに連れてこられたのです。
 ここで私が大変気になりますことは、彼について、神殿の門のそばに「置いてもらっていた」と書かれていることです。「座らせてもらっていた」とか「寝かせてもらっていた」ではなく、「置いてもらっていた」と、まるで「物」のように書かれているこの一言に、この人が置かれていた現実の厳しさがよく表れているのではないかと思います。

 当時のユダヤでは、多くの人が、重い病や障がいは「罪の報い」であると考えていました。いわゆる「因果応報」という考え方です。イエス様の弟子たちでさえそういう考え方をしていたことが、他の聖書箇所から分ります。ですから、この「生まれながら足の不自由な男」も、親か親戚か誰か近しい者の「罪の報い」でこのような体に生まれてきた「呪われた存在」とみなされていたに違いありません。この男は、この後の箇所を見ますと、既に40歳を過ぎていたことが分かります。物心ついた頃から40歳を過ぎるまでずっと「自分は呪われた存在である」と思わされ続けてきた、そして一人前の人間として接してもらえなかった。そんなこの男の厳しく悲しい現実が、この「置いてもらっていた」という一言によく表れていると思うのです。そういう差別と偏見の中で、一人前の人間として認められず、いわゆる「役立たず」とみなされ、「せめて参拝客の同情を買って、施しをしてもらって小銭を稼げ」と、沢山の人が通る参道に置かれ、皮肉にも「美しい門」の前で、そんな自分の姿を毎日人前にさらさなければならなかった。そういう状況を想像いたしますと、大変心が痛みます。そしてそんなこの男の姿に、間違った情報と力に支配されてしまっている人間の悲劇的な姿を重ねて見ることが出来るのではないかと私は思うのです。

 当時のユダヤの人々の多くが、重い病や障がいは「罪の報い」であり「呪い」であると考えていたと申しました。しかし、当たり前ですが、それは間違いです。神様は決して人を呪ったりなさいません。悪魔が人を呪い、偽り、生きる力を奪おうとするのです。悪魔は間違った情報と力で人間を支配しようと致します。例えば、「あなたが幸せになりたければ、もっと実力を身につけなければならない。もっと魅力的にならなければならない。もっと経済力や社会的地位を高めなければならない。そして色んな競争に打ち勝ち、あの人やこの人よりも『自分の方が上だ』ということを証明しなければならない。それが出来なければ、あなたの存在価値は認められない」というふうに、様々な仕方で人に語りかけ、それが出来る人を偽りの喜びで満たし、出来ない人の生きる気力を奪うのです。それが悪魔のすることです。そうやって悪魔は人を呪うのです。

 悪魔とは、口が裂け、角が生え、矢印のようなしっぽを持っている緑色の怪物などではありません。聖書が教える「悪魔」とは、巧妙に自分の姿を隠しながら、人を神様の愛の御支配から引き離して生きる気力を奪い取ろうとする「暗闇の力」のことなのです。

 そして、こういう悪魔的な力が、実際に人類の歴史の中で露骨な仕方で現れてしまうということが時にあります。その一例が、ヒットラー率いるナチス・ドイツが行なったことではないかと私は思います。ナチス・ドイツが沢山のユダヤ人を虐殺した「ホロコースト」についてはよく知られていますが、そこに至る前に、そういうナチスの「悪魔的な人間観」がよく現れた悲惨な出来事がありました。それはいわゆる「安楽死作戦」というものです。不治の病や重い障がいのある人間は社会の役に立たない「劣等人間」とみなされ、そういう人間のために国家が金を使うことは「全くの無駄遣いである」との判断から、「消毒」という呼び方で、1945年までに約20万人の重病患者や障がい者の貴い命が奪われたと言われています。「消毒」ということは、病人や障がい者を人間ではなく「バイキン」扱いしたということです。これが「悪魔の人間観」です。能力や効率や生産性などを基準にして人間を計り、「役に立たない人間は生きるに値しない」と判断する、そういう考え方です。当り前ですが、こんな考え方は間違いですし、嘘です!ヨハネによる福音書の8章でイエス様がおっしゃっているように、悪魔は真実を偽る「偽り者」であり、「人殺し」なのです。

 私事で恐縮ですが、我が家の長男は重度の知的障がいのある自閉症児なのです。私は決して知的障がい者を美化する積りはありません。我が家の息子も罪人の一人でありまして、先日もアイスクリームを食べ過ぎますので、私が「もうダメよ」と言って冷蔵庫の前に立ちふさがったのですが、彼は力づくで私を押しのけ、アイスを奪っていきました。彼は今18歳で、体は私よりもはるかに大きくなり、どうやら「力で勝負すればお父さんに勝てる」ということを悟ってしまったようです。彼は決して暴力は振るわないのですが、「お父さん、邪魔!」とばかりに私を押し退け、両手にアイスを持って勝利のおたけびを上げて去ってゆく彼の後姿を見ながら、「あぁ、この子にもイエス様の十字架が必要だ」と思いました。完全に彼も罪人です。
 けれども同時に、彼も神様によって「神様のかたち」として造られた同じ「人間」なのだということも、身近に接していてつくづく感じます。

 聖書の初めには、神様が何もないところからこの世界を造って下さり、特に人間を特別な愛の下に、ご自身にかたどって造って下さったということ、すなわち、語り合い、愛し合うことが出来る、自由な人格ある者として特別に造って下さった、ということが書かれています。人は皆そういう意味で「神様のかたち」なのです。

 息子は、声に出して話すことは全く出来ませんが、彼の心の中には沢山の彼なりの言葉があるということが分ります。また、美しさを敏感に感じ取ることが出来ます。仲間を思いやる心もあります。彼はビーズを使ってストラップを作る作業が得意なようです。普通は大きなビーズと小さなビーズを交互につなぐのが基本なのですが、彼は恐らく「同じ大きさのビーズはお友達」だと思って、バラバラになると可哀想と思って一緒につないでしまいますので、不思議なデザインになるんですね。物に対してまで思いやりの心で接するのです。

 そして彼は恐らく「人を憎む」ということが苦手だと思います。誰かに嫌なことをされても、自分の身を守ろうとはしますが、「仕返し」はしないのです。恐らく「やり返す」という発想がないのだと思います。そういう意味で、彼は誰よりも平和を愛しています。また、霊的なことを感じるアンテナもあります。声が出せなくてもにこにこ笑顔で、ジャンプしながら体全体で賛美する彼の姿を見る時、親馬鹿かもしれませんが、「もしかすると、この子は私よりも神様のことを深く知っているのかもしれない」と思うことがあります。

 人は障がいがあろうと、重い病があろうと、たとえ寝たきりになろうと、皆神様によって「神様のかたち」として造られた、掛け替えのない大切な存在なのでありまして、その価値は決して能力や生産性などによって計られるものではありません。まして「生きるに値しない人間」など、一人もいないのです。私は息子を通してこのことを深く教えられました。そしてそんな「神のかたち」である沢山の仲間たちの貴い命が「ばい菌」扱いされ、「生きるに値しない」とみなされ、奪われていったという歴史の事実を思います時に、深い悲しみと憤りと恐怖を覚えます。

 そしてそういう「悪魔的な力」は、現代の私たちの国の中でも、姿・形を変えて密かに人の心を支配し、傷つけ、その貴い命を奪おうとしているのではないかと思うのです。色々な競争で人を蹴落とせなかった心優しい人々が「負け組」などと言われ、心を病むということが少なくありません。そのように人を「間違った物差し」で測り、自分の存在価値を見失わせ、生きる気力を奪い取ろうとする「悪魔的な暗闇の力」は、今も巧妙に働いて人を飲み込もうとしていると思うのです。キリストの教会は、そういう「悪魔的な暗闇の力」と霊的に戦うのです。

 (本論2) 悪魔の支配から人を解放する祝福の言葉

 この足の不自由な人は、ペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、いつもと同じように施しを乞いました。すると「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て」と書かれています。この「じっと見る」という言葉には、「凝視する」とか「目をそらさないで見続ける」という意味の言葉が使われています。多くの道行く人々は彼から目をそらしたり、見たとしても一人前の人間としては見ない。そういうことがずーっと続いてきたと思います。そんなこの人を、ペトロはヨハネと共に、目をそらさず、「じっと見つめた」のです。一人の人格ある同じ人間として、彼を見つめたのです。そして彼にも、「私たちを見なさい」と言いました。

 この足の不自由な男もまた、長年にわたって道行く人を「人間としてちゃんと見る」ということをしていなかったに違いないと思います。ただ施しをくれるかもしれない人々として、何気なく眺めていただけだったと思います。そういう意味では、彼自身も人を人として見つめてはいなかったのです。そういう「心が通い合う人間同士の交わり」の外にいた男を、ペトロは見つめ合うことを通して、交わりの中に招き入れようとしたのです。

 彼は、初めはそのことに気づかずに、ただ何かをもらえることを期待してペトロたちを見つめたと思います。そしてその時に彼は「悪魔の呪いの言葉」とは正反対の言葉を聞きます。すなわち、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という、「神の祝福の言葉」を聞いたのです。するとたちまち、その男の足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち上がり、歩き回り、踊りながら神様を賛美した、というのが今日の物語なのです。

 「そんな奇跡の物語など信じられない」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。けれども、ここで大切なことは、この物語が指し示している「意味」を悟ることなのです。私たちクリスチャンは、こういう聖書の奇跡物語を単なる「神話」や「昔話」ではなく、実際に起ったことだと信じています。けれども、「こんなびっくりするような奇跡が起ったのですよ!キリストの弟子たちも、こんなすごいことが行えたのですよ!」というようなことではなく、この物語が指し示している「霊的な意味」を読み取ることが大切なのです。

 それは、悪魔の暗闇の支配下にあった一人の人が、キリストの弟子たちによって告げ知らされた「神の祝福の言葉」によって解放され、自らの足で立ち上がり、神を賛美する者に変えられたということなのであり、今も生きておられるイエス・キリストは、その弟子たちを通して語られる「神の言葉」「祝福の言葉」を通して、人を悪魔の支配から解放して下さる救い主なのだ、ということなのです。

 悪魔は人を呪い、その命を奪い取ろうとしますが、神様は反対に人を祝福なさり、真の命に生かそうとして下さいます。悪魔と戦うキリストの教会は、この「神の祝福の言葉」を語り続けているのです。「祝福」という言葉は「善いことを語る」という意味の言葉です。その人にとって本当に善いことを語る言葉。そしてその善いことが実現するように引っ張り出す言葉。ちょうどペトロが「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立ち上がらせたように、その人にとって本当の意味で「善いこと」が実現するように引っ張り出す言葉。それが「祝福」です。

 では「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という言葉は、どういう意味で「祝福の言葉」なのでしょうか。

 「イエス・キリスト」とは、名前と苗字ではありません。「キリスト」とは「油注がれた者」、つまり「救い主」を表す言葉です。従って「救い主であるイエス」という意味なのです。そして「イエス・キリストの名」とは、「名は体を表す」と日本でも言われる通り、その名を持つ本人そのものを表しています。つまり、「ナザレのイエスはあなたの救い主であり、今も生きておられる。このイエス・キリストの力によって、あなたは悪魔の支配から解放され、立ち上がることが出来る」と告げ知らせ、その通りになるように引っ張り出す言葉。それが「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という言葉なのです。

 この足の不自由な人は40歳を過ぎるまで、エルサレム神殿の門の前で毎日座っていたのですから、「ナザレのイエス」についてきっと聞いていたに違いないと思います。もしかすると、直接見たことがあったかもしれません。「このお方こそ、ローマ帝国の支配から救って下さる私たちの救い主だ」と信じて、大勢のユダヤ人がついていった様子も見たでしょう。そして、そのイエスが捕えられ、十字架につけられて殺されてしまったということも、噂に聞いていたに違いないと思います。
 そんな「ナザレのイエスは、じつは私たちの罪を全部背負い、私たちの身代わりとなって十字架の上で死んで下さり、三日目に蘇られた、神の独り子救い主であった。このお方こそ、人間を『ローマ帝国の支配』ではなく、『罪と死の支配』から救い出して下さる、悪魔の支配から解放して下さる真の救い主、あなたの救い主なのだ」ということ。それが、ペトロの語った祝福の言葉の中身なのです。そしてこの「祝福の言葉」を、キリスト教会は今も語り続けているのです。

  (本論3) 立ち上がり、用いられる

 今日の箇所で、この「祝福の言葉」を語り、この人を立ち上らせたのは、ペトロとヨハネというイエス様の弟子たちですが、彼らも最初からこういう人たちではありませんでした。地上を歩まれたイエス様に従って一緒に歩んでいた時、弟子たちは、子供たちをイエス様の許(もと)に連れて来ようとする母親たちを叱って追い払おうとしたり、救いを求めてイエス様にすがろうとする目の不自由な人を黙らせようとしたりしました。重い障がいは「罪の報い」だとも考えていました。そんなペトロたちに何があったのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架の出来事でした。

 先生であるイエス様が捕えられ、十字架につけられ、殺されてしまった時、弟子たちは何も出来ずに逃げてしまいました。「全ては終った」と思ったでしょうし、「俺たちは役立たずだ」という悪魔の声を聞いてしまったかも知れません。
 けれども三日後に、そんな哀れな弟子たちの真ん中に、罪と死の力に打ち勝ち、復活された主イエスが現れて下さいました。そして主イエスの十字架は、そんな自分たちの罪を全部背負って下さり、身代りとなって罰を受けて下さった、罪人が救われるための十字架であったということが分った。このお方を私の救い主と信じるなら、全ての罪を赦され、「神の子」としていただけるということが分った。自分たちはそれ程までに神様に愛されている大切な存在なのだということが分った。その時に、弟子たちの「人を見つめる眼差し」は変ったのです。「イエス様と同じ眼差し」で、愛を持って人を人として見つめ、人々を悪魔の支配から解放するために、イエス・キリストの手足となり、口となって、「神の祝福の言葉」を告げ知らせる者たちへと変えられていったのです。
 「あなたは神様によって造られ、神の独り子(ひとりご)イエス・キリストが命をかけて悪魔の支配から取り戻そうとして下さっている、それほど大切な、愛されている、掛け替えのない存在なのです。能力も実績も関係なく、あなたが生きてここにいること自体が尊く、美しく、素晴らしいことなのです。このことに是非気づいて下さい。そして、偽りの言葉で人を呪い傷つけ、生きる気力を奪おうとする悪魔の暗闇の力から解き放たれ、そこから立ち上がり、私たちと一緒に神様を賛美しながら歩いて行きましょう。」そう語り続ける者とされたのです。

 それはこの私も、この北神戸キリスト教会の皆様も同じです。私たち自身が、かつては暗闇の中にうずくまっていた者たちでした。そして「イエス・キリストの名によって」その暗闇の中から引っ張り出していただいた者たちなのです。ですので、そういう者たちとして、自分たちが聞かせていただき、立ち上がらせていただいた「神の祝福の言葉」を、私たちも語り続けているのです。 

 「競争をし、人を蹴落とし、自分の大切さを示せ!」というような声が色々なところから聞こえてくる暗闇の支配の中で、その通りに生きて勝ち上がり、「自分には価値がある」と思っている人がいるとすれば、そういう人の方が実は深刻な病を心の内に抱えているのであり、そういう競争から外れた弱い立場にある人々、心病む人々の叫び声が、じつは「荒野で叫ぶ声」「主の道を真直ぐにせよ」と叫ぶ「預言者の声」なのではないのかと、私は思います。人は無条件に、存在そのものが喜ばれ、受け入れられ、愛されないと、生き生きと生きることが出来ません。元々そういうものとして神様によって造られたからです。

 ところが、世の中はそうではありません。「あなたがいるだけでよい」とは、なかなか言ってくれないのです。「あなたは何が出来ますか?」と、世の中は常に問いかけてまいります。何かをしたくても出来ない時だってあるのに、そういう人に「役たたず」とか「負け組」などという残酷なレッテルをすぐに貼ろうといたします。

 そんな暗闇に支配されている社会の中で、そんな社会に適応できずに弱い立場に置かれている人々の叫び声は、「この道は間違っている!主の道を真直ぐにせよ!」と荒野で叫ぶ預言者の声のように思われて仕方がないのです。そういう声無き声に心を合わせながら、「そうです。あなたも私も、神様によって造られ、愛されている、大切な、掛け替えのない存在なのです!あなたがここにいて下さることが、私たちの喜びなのです!」と、私たちクリスチャンは語り続けています。

 そういう意味では、ペトロが「私たちを見なさい」と言いましたように、私たちも来会者の皆様に向かって「どうぞ私たちを見て下さい」と言いたいのです。教会員の皆様は「そんなこと言われても困る。恥ずかしい」と思われるかも知れません。けれども、私はそう言いたいと思います。「立派な私たちを見て下さい!」と言うのではないのです。色々なことで悩んだり悲しんだりしている私たちだと思います。時には倒れそうになることもある私たちです。でも、そんな私たちがこうやって、この礼拝の場に毎週集っているのです。ただ「気が合うから」とか、「仲が良いから」集っているのではありません。イエス様とここで出会えるからです。イエス・キリストの祝福の言葉がここで語られ、その神の言葉によって生かされていますので、私たちは今日もここに集っているのです。ですから私たちは、たとえどんなに辛い目にあっても、「私は呪われた存在なのではないか」などとは決して思いませんし、人を能力や実績で評価したりしないのです。

 教会員は、来会者の皆様を「ようこそお越し下さいました」と笑顔でお迎えしながら、心の中で「この人はいくら献金するやろか」などと考えたりしません。献金は大事な神様への感謝の応答ですが、それによって人が評価されたりしないのです。「この人は体ががっちりしているので力仕事してくれそうやな」とか「パソコンが得意!?いや助かるわぁ」とか、そういうことは少しあるかもしれません。でも、そういうことで、その人の価値を計ったりはしないのです。皆さんが今日、この北神戸キリスト教会の特別礼拝に「行ってみよう」と決心して下さり、この場所に一緒にいて下さることが、何よりも嬉しいのです。教会の皆さんは、来会者の皆様の持ち物や能力や社会的地位や実績などを見つめるのではなくて、皆さんの存在そのものを見つめて、喜んでいらっしゃいます。他でもないイエス様ご自身がそういう眼差しで私たちを見つめていて下さるからです。ですから、私は「どうぞ、この教会の方々をご覧下さい。そして教会の方々の眼差しの中にお入り下さい。そのようにして、お互いの存在を見つめ合い、喜び合いましょう」と、是非お勧めしたいのです。教会とはそういうところです。

 そして、そのような「イエス様の眼差し」の中でお互いを見つめ合いながら共に生きて行くなら、私たちは安心して年を重ねることが出来ますし、安心して病気になることも出来ます。加齢や病のゆえに色んなことが段々出来なくなるという変化を受け入れながら生きることは、決してたやすいことではありませんが、そのような変化によっても「私の存在価値」は何も変わりませんし、いよいよこの世の旅路を歩み終えた後は、イエス様が「良くやったね!」と言って迎えて下さり、そこから永遠に続く本当の愛の交わりが始まるのです。このことを覚えます時に、私たちはある意味で安心して嘆いたり悲しんだり出来るのです。
 
  (結論) 皆さんお一人お一人の本当の価値

 私たちの人生には色々なことがあります。嬉しいこともあれば、悲しい経験することもあります。体や心が病気になることもありますし、仕事を失うこともあり、大切な人間関係が破綻することもあり、愛する者に先立たれることもあります。そして、誰もが年を取って衰えて行きます。しかし、どんなことがあっても、「イエス様の眼差し」の中で共に生きて行きたいと思うのです。「私は決して呪われた存在などではない。神様にかたどって特別に造られた、世界でただ一人の、神様に愛されている、大切な私だ。私は神様の子供なのだ」という、皆様の本当の姿、本当の価値に、是非気付いていただきたいのです。私たちクリスチャンも時々このことがよく分らなくなることがあるのですが、悪魔の暗闇の力に引き戻されないように、毎週この礼拝の場に集り、共に「神の祝福の言葉」を聞きながら、互いに励まし合い、祈り合いながら、共に歩んでいます。私たちは、そういう「神様の子供たち」「神の家族」の交わりなのです。会社ならクビになることがありますが、家族はクビになることがありません。年をとっても、病気になっても、愛する家族であることに変わりはないのです。ここに皆さんお一人お一人の居場所があります。ここに皆さんが共に居続けて下さいますことが、教会全体の大きな喜びなのです。お祈り致します。

(祈祷) 
 神様、この世の様々なところから、私たちを焦らせ、駆り立て、戦わせ、優劣を競わせ、能力や生産性で人の価値を計ろうとするような声が聞こえてまいります。そのような暗闇の力の支配の中で、私たちも時に生きる気力を失い、うずくまってしまうことがあります。
 けれどもあなたは、そんな私たちにも「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と、祝福の言葉を語りかけ、その暗闇の中から立ち上がらせて下さいますことを、心から感謝致します。
 どうか、私たちが悪魔の偽りの声に惑わされることなく、あなたの祝福の言葉によって立ち上がり、喜んで自分なりの仕方であなたを賛美する者となることが出来ますようにお導き下さい。
 今日ここに共に集って下さいましたお一人お一人の心に、あなたの祝福の言葉が届き、あなたの良いご計画が、お一人お一人の人生の歩みの中で実現しますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
     (日本キリスト改革派 神戸長田教会  吉田 実牧師)

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