「同じ思いとなって(金原堅二神学生による)」

同じ思いとなって(金原堅二神学生による)

日付
説教
金原堅二神学生
1:27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、
1:28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。
1:29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
1:30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。フィリピの信徒への手紙 1章27節~2章4節

  <導入>
 北神戸キリスト伝道所の朝の礼拝にお招きくださいまして、心から感謝を申し上げます。神戸改革派神学校3年生の金原堅二と申します。

 ご存じの方もおられるかもしれませんが、私は小学校の5年生以降、神戸市北区の鈴蘭台に十数年住んでおりまして、大学生のときには京都で一人暮らしをしておりましたが、大学を卒業してから、隣の神学校の宿舎にて生活をするようになりました。ですから、鈴蘭台に住んでいた人間としては、北神戸という場所はもはや地元でして、例えば、近くに「有野北中学校」という中学校がありますが、中学生のときに部活の試合で有野北中学校にはよく行きましたし、高校時代の友人もいくらかこの周辺に住んでいる、という。ですから、神学校に入学したときには、「また、神戸電鉄で生活をすることになるのだなぁ」という、懐かしいような、財布が痛いような思いをもっておりました。

 隣の建物である、宿舎の2階で生活をしておりますけれども、実は北神戸の朝の礼拝に出席したのは本日が初めてでありまして、今このようにして、皆様と顔を合わせながら、共に礼拝をささげることができる幸いを心から感謝しております。

  <本論①:フィリピ伝道のはじめ>
 本日の聖書箇所…フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロがフィリピの共同体に書いて送った手紙です。

 フィリピという町は、マケドニア州‐ギリシャの半島の北の方‐にあるローマの植民都市でありました。ギリシャにありながらも、当時の大帝国ローマの制度や習慣を保持していて、ですからパウロがはじめて来たときにも、この地方の第一の都市として非常に繁栄していたわけです。この町でパウロがどのように伝道を開始していったかということは、使徒言行録の第16章に詳しく書かれてありまして-大変有名な箇所ですから皆様の記憶にもあるかもしれませんが-幻に導かれてパウロが到着したときに、そこにおりました「リディア」という一人の女性‐紫布の商人をしておりましたが-この人がイエス様をまず信じまして、家族もろとも洗礼を受ける、ということがありました。

 そうかと思いますと、あることからパウロが言いがかりをつけられまして、パウロは牢獄に入れられる‐まぁぶちこまれる、と言いましょうか‐という出来事がありまして、その牢獄でパウロと同労者のシラスが讃美の歌を歌っておりますと、不思議なことが起こりまして、扉が開いて、不思議に助けられるわけです。そのときに、責任をとって自害しようとしていた看守がパウロ達に止められまして、‐「待て」「早まるな」と⁻そのときにその看守もパウロ達に導かれて、家族もろとも洗礼を受けるという…その有名な出来事を通して、「フィリピ」という地において信仰者が起されていったのです。

 このように見ておりますと、フィリピの共同体は、町の主要なメンバーというよりは、むしろ周辺に位置するような、牢屋の看守のように文字通り日の当たらないところにいる人々に福音の光が届けられて、そうして始まった教会だと申し上げることができます。しかも、もともと聖書を知らない異邦人です。異邦人であったのですけれども、パウロの語る福音の言葉をよく聞き、パウロを慕い、またパウロの方も、フィリピの人々に好感をもって、「ここで与えられた人々は神様の賜物である」と受け止めていたわけです。本日お読みした箇所は、そういったフィリピの人々に対してパウロがある親しみをもって、しかし、群れを養う伝道者として、言わなければならないことを語ろうとしているわけです。 

 2章2節で、パウロはフィリピの共同体に言います。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」。…ここで言う「同じ思いとなる」とはどういうことなのでしょうか。共同体が「一つになる」とはどういうことなのでしょうか。そのことによってパウロの喜びが満たされるとは、どういうことなのでしょうか。そのことについて、特に本日は1章27節から2章4節までの文脈から、御言葉に耳を傾けたいと思います。そのことによって、私たちがこの共同体の中で共に生活し、共に御言葉に与る、ということの意味を改めて知ることができるのではないかと思いました。

  <本論② 「一致」第一の側面>
 この御言葉において、パウロがフィリピの教会に「一致しなさい」と語るところには、二つの側面があります。第一に、「外部からの影響力…つまり迫害に直面しても一致と勇気を保つ」という側面です。1章27節と28節をお読みします。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです」。…まず、27節前半で「あなたがたに会うにしても、離れているにしても」とありますが、これはパウロが捕らえられていて、獄中で書いた手紙であるからこその表現です。この手紙を書いたとき、パウロはやはりキリストの福音のために牢屋につながれていました。つまり、パウロはこのまま迫害する力によって命を奪われてしまうかもしれない、ということです。パウロは、「死」の時が自分に近づいて来ようとしていることを実感していながら、1章21節で、このように語っています。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。

 パウロにとって、生きることの最大の喜びは、イエス・キリストが人々に伝えられることでありました。そこにパウロが地上で生きることのまことの意味があったとも言えます。たとえ迫害を受けようとも、牢獄に入れられようとも、死にさらされようとも、いつ何どきもパウロはイエス・キリストが人々に知れわたることが喜びであったのです。その喜びのためなら苦しみをいとわない人生、その人生をパウロは、「戦い」と表現しています。パウロにとって、フィリピ教会はその福音のために共に戦う「同胞」でありました。パウロは、その同胞たちと再び会えるか会えないかわからないような死の瀬戸際で、彼ら自身が自らの喜びであり誇りであることを告げながら語ります。「あなたがたがひとつの霊によってしっかり立っていること。そのことによって福音の信仰のために戦っていること。そして敵対者たちによって脅かされることがないと、私が聞いて励ましを受けることができるようにしてください」と。

 私たち信仰者の戦いには、福音の信仰のために共に苦しむという側面があります。世の中にあって、キリストの光を受けながら、その光を反映する者として生きていくのは必ずしも楽な道筋ではありません。私たち人は、心が揺れる存在です。問題意識を抱え、悩み、人と人との衝突を共に味わいながら歩むこととなります。そのときに、何が私たちを立たせるのか、何によって私たちは動かされるのか、それが明確でないと、その苦しみは、「ただの苦しみ」となります。

 29節をご覧ください。29節の直前からお読みします。「これは神によることです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。私たち信仰者が試練の中にあって、なお喜びを見出すことができるのは、その試練はキリストが与えて下さったものなのだという確信があるからです。私たちの救いは、神によるものです。そして私たちを脅かそうとする力は、滅びへと向かっていきます。これもまた、神によるものです。この世の中で、父なる神様の御心に完全に従いながらも、最も苦しい、孤独な「死」を、その身に受けられた方がおられます。それがイエス・キリストです。その主イエスが、私たちと共に苦しんでくださる。主イエスが共に苦しんでくださるという苦しみは、キリスト者の証です。それは、パウロやフィリピの教会だけでなく、現在私たちも同じように戦っているものなのではないでしょうか。

  <本論③ 「一致」第二の側面>
 パウロがフィリピの教会に「一致しなさい」と語るもう一つの側面は、「教会内部の分裂に対して、調和と謙遜を保つ」という側面です。パウロは、フィリピの人々と非常に親しい間柄で、愛し、慕っていました。そのようなフィリピの共同体の中でさえ、何もかもがうまくいっているとは必ずしも言えず、内部で分派争いが見受けられたようです。

 そのような中でパウロは、2章2節において「同じ思いとなりなさい」と語ります。実は原文においても同じ単語を繰り返しながら、パウロは共同体の一致を訴えかけています。「同じ思いとなる」ということを、パウロが重く受け止めていることがわかります。

 ここで言うところの「同じ思い」とはどういうことなのでしょうか。例えば、私たちは教会の中でも、また外でも、様々な場面で「同じ思いとな」ろうとします。ある集団の中で、趣味が合う人とグループを形成し、同じ思いとなろうとします。あるいは、考え方が似ている人同士で、主義・主張が似ている人同士で集まって、その思想内容において同じ思いとなろうとします。しかし、パウロがここで語る「同じ思いとなる」と言うのは、そのような、何かの主張や、立場によって一致して、様々な集団が形成される時の「同じ思い」とは違う、と申し上げなければなりません。というのは、人間が自らの掲げる主義・主張によって「同じ思い」となろうとするとき、そこには必ず対立を生み出す「ほころび」が存在するからです。例えば、「平和」という普遍的な事柄でさえ、「これが平和だ」と規定してしまうと、そこに人間の主義・主張が掲げられているかぎり、平和の在り方をめぐって対立が生じてくるでありましょう。

 反対に、そもそも「同じ思いになろう」とさえ思えない現実、というのも時としてあるのだと思います。3節に「利己心」という言葉が登場します。「利己心」というのは、文字通りには「党派心」であったり、「自己の利益を追求しようとする心」という意味ですが、ここでは「教会を分裂させようとする力」あるいはその「心」と言ってもよいと思います。その根底には、「虚栄心」つまり「私たち自身の、うぬぼれ」が存在します。

 恐らく、私たちが「利己心」や「虚栄心」によって、自分の利益を求めたり、自分を強く見せようとするとき、というのは、本当は弱い、自分の内側を見せたくないときなのだと思います。私たちは、私たちを取り巻く、人には見せたくないような「不安」や「恐れ」から自分の身を守ろうとするときに、「利己心」や「虚栄心」という「盾」を装備するのでありましょう。自分の身を守ろうとするのです。そのようにして自分の身を守りながら、一歩引いた状態で、互いに緊張関係を保ったままで、誰かと関わらなければならない。…それは表面上はうまくいっているように見えても、本当は心の奥底で深い孤独を抱えた歩みなのだと思います。

 以上のように、集団の中で対立を抱えながら、また個人の中で葛藤を抱えながら歩む私たちにとって、何を根拠として「同じ思い」になることができるのでしょうか。

 1節をご覧ください。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、『霊』による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」とあります。「もし~あるのであれば」といった具合に、条件的な翻訳になっていますが、ここはむしろ、「あるのだから」と、訳した方が良い箇所であります。つまり、キリストによる励まし、愛の慰め、『霊』による交わり、そして慈しみや憐れみの心が、すでに与えられている、ということです。また、1節のこの表現というのは、私たちが信仰する唯一の、三位一体の神様を表したものだと言われています。というのは、三位一体の神様の祝福を言い表した、第二コリント13章13節の表現と非常に類似しているからです。どうぞ、1節をご覧になったまま、お聞きください。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。

 フィリピ2章1節においては、「愛の慰め」のところに「父なる神様」を表す表現が入っていないのですが、恐らくパウロは、「愛の慰め」と言ったときに、父なる神様の愛を想定して書いているのだろうと思われます。そうだとしますと、私たちを贖い、また御霊において共に苦しんでくださる「イエス様」と、救いの御計画を備えてくださった全知全能の父なる神様と、そして私たちに豊かな賜物を与えてくださる聖霊なる神様の、まことに憐れみ深い祝福が、既にフィリピの人々に注がれている、ということになります。その、神様によって与えられている賜物を見つめているからこそ、パウロは、期待をもって、「同じ思いとなりなさい」と語ることができるのです。


  <本論④ 一致を形成する喜び>
 パウロは、外的な敵対者に直面する際にも、また内的な分裂に際しても、「一致を保つように」とフィリピの人々に訴えかけています。「一致」を保つことで、パウロの喜びが満たされるからです。「パウロの喜び」とは、イエス・キリストの福音が告げ知らされるところにあるのでした。それは、様々な欠けがある私たち人間を用いて、神様が、伝道を進めておられるという、神さまの御業を見つめた喜びであります。

 神さまは、パウロやフィリピを用いてくださったように、この北神戸キリスト伝道所をもまた、福音が告げ知らされるために用いてくださいます。そのときに、様々な欠けのある私たちが、どのようにして「同じ思いとなり、一致を保つ」のか、そのことを真剣に考えてみる、というのはとても大切なことだと思います。なぜなら、私たちはそのままではバラバラの方向を見つめてしまうという、罪をもった人間にはどうしても避けることができない性質をもっているからです。しかし、向いている方向がバラバラであれば、外的な反対者に対して私たちは無力です。また、内的な分裂を避けることができません。

 私たちはどのようにして、私たちの喜びを満たすのでしょうか。それは、私が得られました結論は、「賜物を見つめること」です。「賜物を見つめる」とは、一つの意味としては、神様が与えて下さった救いの恵みを見つめる、ということです。私たちを突き動かすものというのは、私たち自身に与えられた救いの事実です。信仰者としての私たちの人生は、救われたという事実から始まったのであり、いま、御言葉に聴き従いながら歩んでいるのは、神様との交わりの中で、感謝の応答として歩んでいるものです。これは、この先もずっと揺るがないのだと思います。

 また、もう一つの意味での「賜物を見つめる」とは、与えられた能力としての賜物を見つめる、ということです。特に、他者との関係性の中でそれぞれの賜物を見つめる。神様が自分に与えたもの、そして、神様が人に与えたもの…それらを見つめる、ということです。
 ある牧師が言っていたことがあります。その牧師は、神学生時代にときどき、同級生と喧嘩をすることがあったのだそうです。まぁ神学生同士、距離が近いですから、どうしても意見のぶつかり合い、対立、ということが一度もない、というわけにはいかなかったのだと思います。ただ、その牧師が言ったことには、「どこかで対立したとしても、真剣にぶつかり合って、時には議論を交わして、腹を割って話した人間とは、何でも話せる親しい間柄になる」ということです。その牧師は、神学生時代の同級生、また学年は違えど神学生時代にぶつかった人と、今はむしろ親しい友人として、関係をもち続けています。

 一見不思議な話だと最初は思ったのですが、神学校という特殊な環境の中で、そういう関係性をつくることができるというのは、お互い神さまの御前に、自分の弱さをよく知っているからなのだと思います。神さまの御前に、私たちが自分自身を見つめたときに、私たちは謙遜にならざるを得ません。その、神さまの御前でのへりくだりによって、私たちは、他者の持つ「賜物」というものに気付かされるのです。そしてその結果、伝道者パウロが「わたしの喜び」と言った福音の進展を、まさに「私たちの喜び」として、「同じ思いとなって」歩むことができるのです。

  <結論>
 私たちは、主イエスに結び合わされた者として、共同体を形成しながら歩んでいます。それは、神様が、私たち一人一人を救いに導いてくださった恵みの賜物として私たちに与えてくださったものです。このように私たちに恵みと慈しみを与えてくださる神様のことを、それを体現してくださったイエス様のことを見つめる時に、私たちは自分の弱さ、脆さを知らされます。しかしそのようにして私たちが一度、主の御前に打ち砕かれるという経験を通して、神様は、私たちの喜びを満たしてくださるのです。そのようにして誠に主イエスに結び合わされた共同体は、外的な苦難に直面しても揺らぐことはありませんし、内部においてもキリストにあって「一致」を保つことができるのです。それは徹頭徹尾、父なる神様が、主イエスの十字架を通して、御霊において成し遂げてくださる御業です。そして神様が与えて下さったものを、見つめるときに、それはいよいよ確かなものとされる。そうやって形成される喜びの歩みへと、神様は本日の礼拝においても、私たちを招いておられるのであります。

  <祈り>
 天におられます、父なる御神様。その尊い御名をあがめ、心から讃美致します。神様、あなたは、本日の礼拝においてもまことにかわることのない、御言葉の恵みに、私たちを確かに導いてくださいました。あなたが与え続けてくださる恵みを、御業を、確かに見つめてこの新しい一週間も歩めるようにしてください。私たちが自分に頼るのではなく、喜びをみたしてくださるあなたに信頼をして、日々の歩みを為すことができますように、聖霊の助けをお与えください。主イエス・キリストの御名によって。  アーメン

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