「私たちに与えられた使命」

私たちに与えられた使命

日付
説教
川瀬弓弦(恵泉教会牧師)
2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、
2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
2:10 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
2:11 第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。
2:12 その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。
2:13 第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。
2:14 第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。
2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。創世記 2章4~15節

 由来
 自分のルーツを探るということは、とても意義のあることだと思います。ファミリーヒストリーを紐(ひも)解いていくNHKの番組がありますが、自分の祖先をどこまでたどることができるか、そういう探求をしていく中で、家族の歴史の中に思いがけない出来事があったり、成功物語があり、反対に失敗や苦しみもあり、そして今の自分があるということを発見する。自分のルーツを探り、自分の歴史と向き合うということは、自分の過去を知るだけではなく、今の自分がどう生きなければならないのか、どこへ向かっていくべきなのかを指し示す指標にもなるものだと思います。

 4節「これが天地創造の由来である。」
 聖書は、この世界の由来について教えています。この世界がどのようにして形作られたのか、天と地、空、水、陸地、あらゆる生き物、そして人間の由来についてです。聖書は、現代の科学に基づく分子レベルでの成り立ちとは全く異なる観点から、世界の始まり、宇宙全体の始まりについて語ります。全てのものは、神から来た。その根源は全て神の内にある。この世界全体が、たったお一人の神、真の神によって造られたと教えています。

 この世界と、またこの私を、私たちを造られた神がおられることを知ることは、単に自分のルーツを知るということだけにとどまりません。私たちがどこから来て、どこへと向かうのか。私たちを造られた造り主である神と向き合うことによって、私たちは一体どこに向かうべきなのかも知ることができます。

 <アダム:土から造られた存在>
 7節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。」
 「アダム」とは、「人間」という意味です。アダムの物語は、人間の物語、私たち人類の歴史です。私たちは土の塵から造られた存在である、とまず聖書は語ります。「形作る」というのは、熟練した陶磁家(陶器師)が質のよい粘土を丁寧に練り(ねり)上げ、作品を作り出す様子を表しています。神様は優れた陶器師として、私たち一人一人を練り上げ、思い通りの形に仕上げてくださいました。人間は、創世記1章が語るように、神様の目に「良い」ものでした。人間は神様の思い通りに仕上がった作品なのです。

 それは単に姿・形が素晴らしいという意味ではないでしょう。本当に良い作品とは、作者の魂が込められたものだと私たちは思うでしょう。作品を見れば、作者の思いが手に取るにようして見える。人間とは、まさにそのような作品です。神は「その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者なった。」神様が「命の息」を人間に吹き込まれました。この「息」という言葉は、「霊」という言葉と同じです。神の息とは、神の霊のことです。神の霊が吹き込まれたのです。

 すると「人は生きる者となった。」神様ご自身の「霊」が、人間にも吹き込まれたことによって、人間は神様と同じ「霊」を共有するようになった。それが「生きること」であると聖書は言うのです。ある先生は、人間は神と同じ空気を吸っている、とも言われました。同じ空気感を共有する。神様と同じ「霊性」を共有するようになったのです。だから、同じ息を吸っている私たちは、本来、神様と思いが一致するのです。神様の御心を人間が敏感に悟り、神様の御心に従って生きようとする。また人間が神様の霊を共有しているからこそ、そこには深い交わりが生まれるのです。それが私たちにとって、「生きている」ということなのです。神様の呼びかけに対して応えることができる。その時、私たちは「本当に生きているんだな」と実感できるのです。

 <園を耕す使命>
 神様の呼びかけに答えるとは、どういう意味でしょうか。それは神様の御心に従って生きる、神様が命じられたことを守る、神様が与えられた使命を果たす、ということです。
 生きているということと、使命は切り離すことができません。4節b「主なる神が天と地を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨にお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。」また15節でもこう繰り返されています。「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」

 神様が人間に最初に与えられたのは、土を耕すということです。神様が造られたエデンの園を守ることです。神様が造られた世界はまだ乾いていて、草木がなかった。それは地上を潤す雨と、それを耕す人間がいなかったからです。

 そこで、神様は人間に、この大切な使命を最初にお与えになりました。もちろん、本当の意味でこの世界を維持し守っておられるのは神様のみです。人間がいなくても地球は周り続け、太陽は昇り、また雨が降ります。雑草や野の草、また空の鳥でも、人間が手を加えなくても神様が養っていてくださいます。それならば、この世界は放っておくだけでも良いのではないか、ということになるのでしょうか。そうではありません。

 耕す人がいなければ、土は固いままです。粘土は、そのままにしておけば、すぐに乾いてボロボロになり、また塵に戻ってしまうだけです。人が手を加えなければ、粘土が器になることは決してありません。「耕す」というのは、人が土壌に「手を加える」ということです。神様は土に手を加えて人間を形づくり、更に命の息吹を吹き込まれました。同じように神様は、人間がこの世界を放置するのではなく、この世界にすでにあるもの、神様が人間のために備えてくださったものに手を加え、何かを作り出すようにと命じられています。私たちは神様の創造の業(わざ)に参加するのです。

 <文化命令>
 5節には「まだ~がなかった」という言葉があります。まだそこにないもの、それを生み出すために、私たちに働くことを教えられました。
 神様が造られ、神様が良いと言ってくださった世界の中に、欠けがあるということでしょうか。そういう意味ではないでしょう。神様が造られた世界は、神様の御心通りの出来栄えであり、その意味においては完全でした。しかし、神様はこの世界に、また私たちの内に更に成長し、発展する要素を残された。それは「完全さ」です。人間は、神様が造られた世界をそのままそっくり維持したとしても、今まで通り幸せに生きることができたに違いありません。しかし、創造主である神様に似せて造られた人間は、そのような性質上、神様の創造の業の延長線上に立って、そこから更に先へと進むこと、開拓をする、まだそこにない何か新しいものを生み出す、という使命を常に帯びているのです。

 そこで大切なことは、神様はそのための素材を私たちにすでにお与えになっているということです。神様ご自身、人間をそこにある「土」から造られました。すでにこの世界にあるものを用いて、新しい何かを作り出す。創造主に倣って、人間もまた創造豊かな何かを生み出していく。固くなった土を耕すように、まだ開墾されていない様々な分野を切り開いていく。人間が自らの知識や技術を磨いて、新しいものを作りだしていく。そう神様は願っておられるのです。

 ですから、これは単なる「労働命令」ではありません。教会では古くから、これを「文化命令」と呼んできました。ただ命を維持することが目的ではなく、ただ自分の生活を守ることが目的なのでもなく、むしろ、心から神様の創造の業を喜び楽しむことが目的です。

 エデンの園については、いくつかの具体的な地名が記されていますが、第一の川ピションについては、こんなことも書かれていました。「第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。その金は良質であり、そこではまた、琥珀のたぐいやラピス・ラズリも産出した。」金、琥珀のたぐい、またラピスラズリ。金は柔らかく、最も加工がしやすい鉱物です。琥珀やラピス・ラズリは宝石として用いられますし、ラピス・ラズリは宝石以外にも、顔料・絵具としても重宝されます。

 金や宝石などは、そのままでは何の役にも立ちません。しかし、人間の手で加工され、仕上げられると、美しい輝きを放つようになる。装飾品となったり、芸術品として人間に喜びや楽しみを与えるようになります。神様はこの世界を造られた時に、多くの宝物を秘められたのです。そして、人間がそれらを掘り起こし、この世界にまだないもの、新しいものを生み出していく。その可能性を更に広げていき、この世界を喜びと楽しみで満たしていくのです。人を感動させるような様々な芸術、音楽、文化を生み出していくことも、私たちに与えられた「労働」であり、「使命」なのです。

 <四つの川>
 さて、神様の創造の業において、大切な役割を果たしているもう一つの要素について、最後に触れておきたいと思います。それは水です。6節「水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。」そして10節「 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。」

 ここで水は、全地を潤し、また草や木に命を与えるものとして描かれています。水は命そのものではありませんが、命を支える最も大切で、最も基本的な要素の一つです。人間も、水によって潤された土から造られています。

 四つの川の内、チグリス川やユーフラテス川は大変有名な川ですが、重要な点は、これら四つの川は、エデンの園から流れ出る一つの川から分かれていたということです。エデンの園の地下から湧き出た水が、エデンの園全体を潤すだけでは終わらずに、エデンの園を川の源流として、大地を潤す大きな川となって全地へと広がっていく、そういう様子です。大地に実りをもたらし、命を芽生えさせる多くの水が、神様が備えられたエデンの園から、園の外へも流れ出ていきます。

 ヨハネの黙示録には、ヨハネが見た神の国の幻が記されていますが、それはまさにエデンの園を彷彿(ほうふつ)とさせる内容です。黙示22:1、2「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。」

 神の国から流れ出る一つの川があります。その川は、神の玉座、すなわち、王なるイエス・キリストの座っておられる玉座から流れ出る川です。そしてエデンの園と同じように、その両岸には「命の木」が植えられているのです。この水は「命の水」です。私たちを癒し、命を与える水、イエス・キリストが私たちに約束されている、一度飲むなら決して乾くことのないと言われた水です。

 神様は、人が世界の隅々にまで広がり、そこで新しい命を芽生えさせるようにと命じられました。しかし、人は罪に堕落したために、この世界を罪と暴虐、憎しみ、破壊に満ちた場所としてしまいました。死が支配するようになったのです。人の命よりも自分の命を大切にし、自分の命を守るために人を犠牲にすることが当たり前になってしまいました。恐ろしい世界です。

 しかし、死に満ちた世界はもう十分です。人の死は、もう神の御子イエス・キリストの死で十分である。そう神様は言われるのです。そしてイエス様の復活を通して、命を粗末にし、命を奪う生き方から、この世界を命で満ち溢れさせる生き方への変換が始まったのです。今やエデンの園は、神の国としてその輝きを取り戻しつつあります。私たちが神様の御心に従って働き、また良いものを生み出しく時、神の国はさらなる実現へと向かっていきます。

 <教会>
 その中心にあるのは教会です。教会は、この世界において、エデンの園から流れ出た一つの川のような存在です。今、私が仕えている恵泉教会は、神戸市の垂水区にありますが、至るところから水が流れ出る場所ですので、垂水と名付けられました。そこから初代牧師である松田輝一先生が、命の泉、恵みの泉が流れ出る教会を思い描きながら「恵泉教会」と名付けられました。イエス・キリストにある命の泉が湧きあがり、ここから至るところへと喜びの川が支流となって広がっていくのです。

 それぞれが与えられた賜物を用いて、「まだない」ものを新たに作り出していく。命が失われている地域に、キリストの命を芽生えさせていく。そのためには、私たち自身が固い土壌ではなく、耕された柔らかい心を持つことが大切です。また、私たちが神様から「耕しなさい」と命じられた同じ土から造られた存在であることを心に留めたいと思います。人間と土は親戚同士なのです。一日中アスファルトしか踏まずに生きていると、その大切な事実を忘れがちです。土を手で触れることが全くありません。それどころか、土で手を汚すまいとしてしまう。そういう生活の中で、私たちはいつのまにか、土の上に君臨する暴君のように、それを足の上で踏みつけておけばよいと高ぶってしまっています。

 土を手で実際に触れて耕すというのは、とても遜った(へりくだった)姿勢です。「耕す」という言葉は、「仕える」また「しもべ」という言葉と同じ語源から来ているとも言われています。あらゆる労働、文化活動、教会での奉仕においても、私たちは「支配者」として治めようとするのではなく、むしろ「仕える」ことこそ、最も根本的な姿勢なのです。自分の手を土で汚すことを喜びとする、常に遜って生きることが求められているのです。

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