「神に招かれる人々」

神に招かれる人々

日付
説教
金田知朗 神学生
22:1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。
22:2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
22:3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
22:4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
22:5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22:6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
22:7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
22:9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
22:10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
22:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
22:13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」マタイによる福音書 22章1~14節

 イエス様がガリラヤの地を出発され、多くの群衆に歓迎されながらエルサレムに入城された翌日の朝、「異邦人の庭」で民衆に教えておられました。「異邦人の庭」とは、エルサレム神殿の中でも一番外側にある境内のことで、ユダヤ人でなくても誰もが入ることのできる場所でした。
 そこに、祭司長や民の長老たちがやって来て、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」とイエス様の権威を問いただし,イエス様の権威を失墜させようと目論(もくろ)みました。

 彼らがこのようなことを言ったのは、21:12~17に書かれてあるように、前日、イエス様がエルサレムに入城された時、この異邦人の庭で、お金の両替や犠牲の動物を売買していた人々を追い出され、そして、今、大勢の群衆に教えておられたからです。

 しかし、彼らは21:25が伝えるイエス様の問いに答えることができず、イエス様の権威を失墜させようとする目論見が外れたばかりか、大衆の面前で大いに面目を失ったのでありました。

 そのような祭司長や民の長老たちを尻目に、イエス様は「二人の息子の譬え」と「悪い農夫の譬え」によって、ユダヤ人が神様から与えられている「選ばれた民」としての特権は、もはや取り上げられ、神の国は異邦人や罪人を含めた新しいイスラエルに与えられると語られました。

 今朝の聖書箇所は、イエス様が群衆と祭司長や民の長老たちを初めとするファリサイ派の人々に語られた三つ目の譬えにあたります。
 ここは、先程お話したことを覚えて下さっておられれば、これからお話しする必要はないほどであります。しかし、先の二つに続いて、イエス様が敢えて三つ目のこの「婚宴の譬え」をお語りになるということは、それだけこれが重要だということであります。それを皆さんと共に学んでいきたく思っております。

 1節に「イエスは、また、たとえを用いて語られた」とあります。「語られた」は、直訳しますと「答えて話された」となります。これまでの二つの譬えを聞いた者たち、即ち、祭司長や民の長老たちが心の中に抱いている思いを知り、それに答えて語られたということであります。
 心の中にある思いとは、21:45~46でイエス様が話された先の二つの譬えにより、祭司長や民の長老たちが自分たちのことを言われていると悟って憤った、その怒りの思いのことであります。イエス様は、彼らが怒り、あわよくば、ご自分を捕えようとしていることを十分にご承知の上で、さらに3つ目の譬えを語られました。

 この譬えは、王様が王子のために婚宴、即ち結婚の祝宴を催した時の話であります。2~3節にはこう書かれております。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。」

 最初に「天の国は…」とありますので、「王」は神様、「王子」はイエス様、「招待しておいたお客」はユダヤ人、王の家来は預言者であることが読み取れます。

 資料によりますと、当時のユダヤの慣習では、通常、婚宴は7日間続きました。そして、このような盛大な婚宴に客を招待するには、二重の手続きを取っていました。いきなり盛大な婚宴そのものに招待することはせず、まず前もって、まだいつ婚宴を催すかが分からない時に、来るべき日に招待する旨を伝えるわけであります。「私の子供の婚宴の際にはどうぞおいで下さい。」「承知しました。」こういうやり取りがあって、その後、婚宴の準備が整うと、家来をやって、客を呼びに行かせるのが常でありました。

 客の方は、既に出席すると約束しているわけですから、いつ王の家来が招待のために来てもいいように、万難を排して待っているわけであります。一度出席すると言っておきながら、実際に出席しないとなると、どんなに非礼にあたるか、そしてどんなに迷惑をかけるか、想像に難くありません。実際に中近東では、婚宴に招かれて出席しないことは、戦争の原因にもなったとされています。それにも関らず、この譬え話では、招かれた人々は、行こうとしませんでした。

 婚宴に来ると言ったので、王様は、その人々を招くために誠心誠意配慮して十分な婚宴の準備を整えたのにもかかわらず、そこに急な断りの話です。
 それを聞いて王様はどう思ったでありましょうか。恐らく腹の底から込み上げて来る怒りが、王様の心を苛んだでありましょう。しかし、王様は、通常ではあり得ないことですが、重ねて3度目の招待をするために、別の家来たちを遣わします。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」
 この言葉には、招く側の王様のギリギリまでの忍耐と懇願ともとれる遜り(へりくだり)を感じ取ることが出来ます。

 どうして王様は、断った者たちをそこまでして招こうとしているのでありましょうか。それは、王子の婚宴は、やり直しのきかない一度きりのものだからであります。だからこそ、王様は、執拗とも受け取られかねないのですが、重ねて三度も招いたわけであります。

 しかし、招待を受けた者たちはどうであったかというと、「人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」(5、6節)のであります。

 ある者は畑仕事のことが頭から離れなかったのかもしれません。畑を耕さなければならないと思っていたのかもしれませんし、動物などの外敵から作物を守ろうと思っていたのかもしれません。
 また、商売を行っていた人は、十分に品物を取り揃え、品物を売ったりすることによって、生活の糧を得ようとしていたことは確かです。
 ですから、不真面目やいい加減な気持ちばかりで、彼らは断ったのではなかったかもしれません。しかもそれに加え、婚宴は、通常七日間も行われていたようでありますから、自分たちの仕事への心配の大きさは推して知るべしであります。

 しかし、仮にそうであったとしても、招かれた人たちは、自分のことと目の前のことばかりにとらわれ過ぎるあまり、他を顧みることなく、大切なものを見失ってしまったのであります。そして、他の人に至っては、迎えに来た家来に乱暴し、ひどいことに殺してしまったというのであります。

 それに対して、王はこの人殺しどもを滅ぼしてしまったとあります。再三に渡って招待したのにもかかわらず、事もあろうに遣いに送った家来に対して取った、人を人とも思わない振る舞いの結果であり、殺人まで犯してしまった悪しき者に対しての正統な裁きであります。

 招かれた者たちが見失った大切なものとは、何でしょうか。
 イスラエルは、神様の選びの中で、神の国に最初に招かれた者でありました。だから、それに与(あずか)れるように、神様の御言葉を守り、信じ、御心(みこころ)に喜んで心から従うことです。そのために、神は繰り返し預言者たちを遣わされました。しかし、イスラエルの民は、預言者たちに乱暴を働いたり、殺してしまったりという行動をとってきました。

 そのため、王様が町を焼き尽くし、その人殺しどもが滅ぼされたということは、神様がかつてイスラエルの民から離れられ、アッシリアやバビロンにより、イスラエルが滅ばされ、苦しみの上に身を置いたように、やがて起きるエルサレムの神殿や町の崩壊を意味しているのであります。

 8~10節には、こう書かれています。「そして家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」

 この文で気になることがあります。王様は「先に招いた人々はふさわしくなかった」と言い、「町の大通りに出て、見かけた者をだれでも連れてきなさい」と言っていることです。
 ここで言う「町の大通り」とは、町の境などにある四方に分かれている道の分岐点、境目のことであります。資料によりますと、そこは「都会の道が田舎の道に変わる所」であり、分かれ目のことであるとされています。
 言い方によっては、ユダヤの国と、神を信じていない異邦人の国の境界にあたる所でもあるわけです。ですから、そこには、ユダヤ人や異邦人に関係なく、色々な人がいるわけです。金持ちの人、貧しい人、神様を信じている人も信じていない人も、善人も悪人も色々いるわけです。

 誰でも連れてくるとは、神様を信じている人も信じていない人も、ユダヤ人も異邦人も片っ端から集めて来るということであり、そのような人たちは、果たして王様にとってふさわしい人なのでありましょうか。

 ここで私たちは、王様の言うところの「ふさわしい」とは、どういう意味であるのかを、改めて問われることになるのであります。結論を言うと、そのことは、先の二つの譬えと同様に神の国について言っており、新たに招かれた者こそが神様に選ばれ、神の御国に入る事が許されるということを言っているわけではありますが、実は、それだけに留まらず、まだ先があることを私たちは知らなければなりません。

 「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」(11~13節)とあります。

 先の招待しても来なかった者に対して、今度はたくさんの者が宴席に着いています。大勢の客で溢れているに違いないと期待と喜びに溢れていた王様は、客の様子を見に会場に入ってきます。予め招待をしていた者ではなく、誰かれ構わず連れてきた者たちであります。どんな客であるのか、気にならないはずがありません。期待に胸を弾ませて招待客の様子を見にやって来た王様の思いが手に取るように分ります。

 ところが、そこに婚礼の礼服を着ていない者が一人おりました。集められた人々は、予めこの婚礼に招かれていた者ではなく、突然連れてこられた者たちばかりです。ですから、婚礼の礼服などは用意できず、普段の身なりで席に着く者がいたとしても、当然ではないか、礼服を用意する余裕などなかったのではないか、と思われる人もおられるかもしれません。

 これについて言いますと、当時の慣習として、客を歓待する時や宮廷に入る者に対しては、王からそれにふさわしい服が与えられるのが常でありました。その点については、創世記や士師記、列王記下、エステル記など旧約聖書に書かれています。ですから、誰もが礼服を与えられ、席についているはずであります。王が、礼服を着ていない者に対して不審を抱くのは当然のことでありました。

 12節で、王は「どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と尋ねます。この「どうして」は、「なぜ」という意味でなく、「どのようにして」という方法を表す言葉であります。ですから、「どのようにしてこの中へ入ったのか。裏口から入ったのか、それとも窓からでも入ったのか」という意味であるわけです。
 その者が宮廷で与えられる服を着ることを拒否して礼服を着ないまま席に着くなどという考えは、王様の心の中には全くなかったように受け取れます。

 それに対して、その者は黙ったままでありました。他の聖書の訳を見ますと、「彼は,くつわをはめられたように返事が出来なかった」とあります。王様から声をかけられて沈黙を守るというのは、非礼きわまりないことであります。しかし、黙ったまま声を発する事がなかった、いや、弁解するための言葉を発する事ができなかったのであります。これは、礼服を着なかったことが、何かの間違いであったのではなく、明らかにその者が故意に礼服を着ることを拒否した結果、黙らざるを得なかったことを表しています。

 それを察した王様は、「この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ」と命じました。「外の暗闇」とは、単に宮廷の外、家の外を意味しているのではありません。外の暗闇に放り出されるということは、神によって裁かれ、滅ぼされることを意味しているのであります。

 では、「礼服」が意味するものは何でありましょうか。それは,私たちが主(しゅ)によって着せられ、信仰によって与えられるイエス・キリストによる「義の衣」のことであります。天の御国に入るための資格は、父なる神様が一方的に用意して下さった義の衣を着ること、即ち、イエス・キリストを信じることであります。イエス・キリストが私たちの罪のために死なれたこと、次に死んで墓に葬られたこと、3日目によみがえられて天に昇り、今も天に座して生きておられること、そしてイエス・キリストを自分の救い主として、私たちが心から信じ、受け入れ、依り頼んでいるならば、立派に神の「義の衣」をまとっているわけであります。

この義の衣をまとわず、神に背を向けていくならば、それは神のおられないところであります。
 神は光の方であられますから、神のおられないところは、暗闇です。
 神は愛なるお方ですから、神のおられないところには、愛はありません。
 神は命のお方ですから、神のおられないところでは命はありません。それが暗闇であります。
神様はいつの世でも、多くの人を誰かれ構わずに御許(みもと)に招いて下さっておられます。それは、あらゆる人に今も昔も、自然界を通して御自身を啓示されておられることから明らかであります。ローマ1:20は言います。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」

 しかし、それだけでなく、何より神様は、救い主イエス・キリストを証ししている聖書の御言葉(みことば)を通して、またそのイエス・キリストを信じて生きている教会とクリスチャンの様々な活動や証しを通して、あるいは、神様が御計画されている様々な日常を通して、御自身の方に私たちを招いておられます。

 今、ちょうどこの時、イエス・キリストを信じる者が集まる多くの教会で主の日の礼拝を行っております。しかし、そこに集う人々は、決して多くはありません。むしろ一人また一人と少なくなってきているのが現状であります。まさに、神の義の衣を着ようとせず、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と書かれている通りであります。

 私たちは、主を信じる者として、あるいは、主イエス・キリストは一体どういうお方なのかを知ろうとして、一人一人それぞれの思いをもって今、教会に集っています。むしろ、私たちは、毎週主の日にイエス・キリストの体の一部である教会に呼び集められ、この場所で礼拝を守り、神様からいただく義の衣をまとっています。それによって多くの祝福を主からいただき、日々、主の愛の中で生かされ、希望と喜びをいただいております。

 しかし、まだまだ義の衣をまとうことを拒み、霊的暗闇の中でもがき苦しみ、人生に飢え渇き、日々の歩みに、また人生に、希望と喜びを持てずに歩んでいる人が多いことを私たちは知っています。
 けれども、それらの人々をも主は招いておられるのです。まだ主を知らない人々が、教会を通して神の恵みを受けることができるよう、義の衣を着ることができるよう求めておられます。誰もが主に立ち帰り、御自身の御許に来られることを望んでおられるからです。

 私たちは、いつ、どんな時にも、この教会の門を叩く迷える小羊を迎えることができるように、また再びここに戻ってくることができるように、いつもイエス・キリストによる信仰の灯火(ともしび)を灯し続けていかなければなりません。それが主の思いに適う道であることを確信しているからであります。

 今日から始まる今週の歩みも、私たちを顧みて下さっておられる聖霊なる神様の導きを通して、日々潤いの溢れる営みが与えられていることに確信を持ち、希望と喜びを持ちながら歩み続けたいと願う者であります。
  (神学生 金田知朗)


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